吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第二章

   1

 時間は夜の八時前。
 ……これくらいだとまだ店員さんが残っているかもな。いっそ真夜中とかの方がリスクは小さかったろうに。
「意外と静かね……」
 スコップを両手で抱き締めるようにした委員長が恐る恐るといった感じで呟いていた。冷静さを取り戻して、自分の装備のおかしさに気が回ったのかもしれない。まあ、今この雪だらけの状況ならスコップを持ってても不自然じゃないし、そもそも呼び止める警察側がまともに機能していない状態なんだけど。
「委員長、マスクを確認して」
「?」
 ……もうすぐ例の繁華街だ。委員長はメガネもあるから一層素顔はバレにくいだろうけど、こんな所で顔を見られるリスクは一ミリでも減らしたい。
 ずんっ……というさざ波のような振動があった。
 決して大きなものではない。地震とも違う、と思う。それでも不規則で、断続的に。雪に埋もれたはずのマンホールや側溝の蓋がカタカタと自己主張を放っていた。
「な、なに?」
 委員長がぐっとスコップの柄を握る手に力を入れ直していた。
「怪獣でも歩いているみたい……」
「大きなモンスターって意味なら多分間違ってないよ」
 そこの角だ。
 一つ曲がれば、大通りに出る。
 僕は片手で委員長を制し、先に角から顔を出した。

 ドォッッッ!!!!!! と。

 この振動は。
 全身を貫く衝撃は。
 なんて表現したら良いんだろう?
 たとえるなら……スタジアムの歓声に近いか。
 だけど根っこにこびりついている感情は一八〇度違う。怒り、恨み、不快、不満、とにかくごった煮。ありとあらゆる攻撃的な負の感情が混ざり合って熱に炙られ、どろりとした粘液にでも化けたようだ。
 言葉?
 一つ一つ分解したくもない。この片側三車線の大通りを埋め尽くす満員電車みたいな人の塊が、思い思いに好き勝手な恨み言を投げ放っているなんて考えたくなかった。
「なに……これ……?」
 おざなりにスコップを手にしたまま委員長が呆然と呟いていた。
「浄水器、家電量販店が危ないって話なんでしょ。これ、何百メートル先まで続いているのよ……。でっかい神社の初詣みたいになってない?」
 名前も知らない国のニュースじゃない。
 自分が生まれ育った街で、普段は道端で挨拶したり洋服をオススメされたり、当たり前に言葉を交わしている人達なんだ。ゲームの世界のゾンビじゃない、何かに感染して正気を失っている訳じゃない。ただの人が、同じ街の人間が、こうまで沸騰している。こんな顔を持っている。受ける衝撃は半端なものじゃない。
『人の出入りもありますので正確にカウントはできませんが、およそ五〇〇〇人強といったところですね。市の人口比からすればまだまだ少ない方です』
「……それでも学校二ケタ分くらいはあるぞ」
『ネットで騒いでいる総数を見たら絶句しますよ』
 学校生活を社会の中心に置いている身としては、全校生徒のキャパを超えた時点で実感が消えていくんだけどな。いっぱい、たくさん、そんな塊でしか人を見れなくなっている。
 こんな集団が爆発したら、物理的に何が起きるか分からない。無計画に歩き回るだけで街を踏み潰していく、怪獣そのものだ。
 ……真正面に立って全部相手にしようとすれば、一瞬で踏み潰される。
 急所を見据えろ。何が目的かは知らないが、フェイクニュースを撒いて暴動を起こしたい側は現場で最後のイグニッションを放つはず。そいつまたはそいつらは単身か極少数でしかないんだ。
 マイクロプラスチックの雪は、燃える。
 こんな消防も機能しない中で、街を焼き尽くすような大火災を起こさせる訳にはいかない。
「マクスウェル、イグニッション役の特定は?」
『ノー。催涙スプレーや刺激物を手にした人物は見つからず。街頭カメラレベルの機材では、カバンや衣服の中まで透視できる訳ではありません』
「赤外線に振り幅を集中しても?」
『防犯カメラに白い水着を透過するような下世話機能はありません』
 不安そうな委員長が横から覗き込もうとしたので、慌ててスマホの画面を隠しつつ。
「ならヘルメットや仮面なんかで顔を隠している人物をピックアップ。特に目線」
『多すぎます』
「顔認識阻害用の専門装備を使っているのは? それから、左右で靴のサイズや靴底の高さがおかしい人物で絞れ。立ち方、歩き方でも個人識別はできるから、本気で分析を拒みたい人間は体重の掛け方が変わるよう物理的に細工しているはずだ」
『シュア。顔を隠し、不自然に傾いている人物は九名。内、五名は酒ビン片手、二名はケンカで負傷、一名は今マスクを外して嘔吐しました、一名は不明です』
「最後のヤツ、位置情報を表示」
 写真を見ると……赤毛をポニーテールにした色黒の少女。歳は僕達と同じか、ちょっと上かな。タンクトップにハーフパンツ、上着は左右の袖を結んで腰の後ろから垂らしている。何だかバスケ選手な雰囲気。ダボっとしたトップスの隙間から、日焼けから免れたっぽい白い肌が覗けている。
 それにしたってマフラーはさておいて、こんな夜にサングラスは不自然過ぎる。おまけに肩にはスポーツバッグを提げていた。
「ひとまず確定」
『潜伏しているのは一人とは限りません』
「こいつ倒したらモバイル奪ってSNSやアドレス帳をチェック。同じエリアにいる人間を全部ピックアップした上で、催涙スプレーか刺激物を隠し持っている疑いのあるヤツを絞り込めば良い。侵入方法は任せた」
『シュア』
 倒す、か。
 僕は何語で話しているんだ、何ともふわふわした言葉が出てきたものだ。
 一応の対策は並べてみたけど、実は複数犯説は早々に捨てていた。顔を隠して体重の掛け方もおかしいヤツ、だとさっき特定した九人に戻るのだ。彼らが再浮上する可能性は低いし、片方がきちんと身元を隠しているのにもう片方が丸見えなんてのは筋が通らない。同じグループなら同じ技術や危機感を共有するはず。
 敵は高確率で個人。
 あいつがバッグから催涙スプレーを取り出して辺り一面にばら撒いたら、その瞬間に場が沸騰する。
 破れかぶれで良ければ、それは今すぐだって起こせるかもしれないんだ。猶予はない。
「ざっと二〇〇メートルか。推奨コースは?」
『地図アプリ通りでよろしいですか? 直進二〇〇メートルになります』
「見つからないならそう言えよ、まったく。ならこっちで考える」
 こっちだって、まさか女の子連れでこんな人混みに体を押し込むつもりはない。
 片側三車線の大通りを埋め尽くす人の山。
 ただし、
「委員長、こっちだ」
「えっ?」
「シャッターを下ろした個人経営のお店と違って、チェーン経営のストアやデパートはまだやってる。マクスウェル、裏口の電子ロックやホームセキュリティをチェック。可能なら外してくれ」
『システムに対処不能な案件については?』
「僕がこじ開ける」
 ガラスの割れる音や悲鳴はないからこれで当たりだと思う。表通りが埋まっていたとしても、お店の中を通ってビルからビルへ移っていけば人混みに呑まれずに済む。
 おかしな話かもしれないが、『沸騰前なら』意外とこういう線引きはしっかりしている。連中の頭の中はこうだ。暴れて良いのは大義名分があるから。ヒュージカメラが浄水器を隠しているってデマを信じてここまで来たのに、全然違う店を襲ったら連中も自分に言い訳できなくなる。
 ……ただしもちろん、この方法は複数の方式の扉のロックを片っ端から開錠する技術があればこそ、なんだけど。
 裏口から裏口、非常口から非常口へ。
 表のフロアからは見えないバックヤードを進み、店員さんとも鉢合わせにならないのがベストだけど……。
『開きました』
「行くぞ委員長」
 ノブを掴んで回すが、引っ掛かりを覚える事もなければド派手な警報が鳴り響く事もない。
 暗くて狭い廊下。
 どこが倉庫や事務室かは分からないけど、とにかく僕達は中を突っ切って隣のビルへ向かえば良い。
 ここは、スポーツ用品店かな。適当に積まれた段ボールのメーカーが大体そんな感じ。インドア系の僕にはあんまり縁はないけど、妹のウェア選びに付き合わされた事があったような……。
 外から中に入るのは大変だけど、中から外なら内鍵を回すだけだ。苦労はしない。
「うわ……」
 委員長が呻き声を出していた。
 ずんっ……ずずんっ……、という低い振動のせいだ。決して耳をつんざく大音響じゃないけれど、確実に大地を揺さぶるエフェクト。これが全部人の起こしているものだと考えると確かに身震いする。まるで列車でも通り抜けているみたいだ。風向き次第では、あれがこちらにぶつかってくるときた。
 ともあれ、すでに死地の中。ここから足がすくんでももう遅い。生き残るためには前へ、助走がなければ崖は飛べないのだ。僕は委員長を伴って狭い通路を歩く。
「……お店の裏側って防犯カメラついてないのね」
「店員が金庫の中身をくすねたりしない限りはね」
 スマホのカメラレンズなら二ミリの穴があればどこからでも覗けるから油断はならないけど、マクスウェルからの警告は特にない。そもそもカメラがあるよと周知しない場合、使っているテクノロジーは同じでも盗撮機材とみなされてしまう。
「……あった。扉だ」
 外に出るだけなら内鍵を開ければ良いけど、非常口の場合は開けただけで警報が鳴るものもある。念のため細いコードの有無を確かめてからノブを回した。
 さっきとは別の路地。
 ほんの数メートル先に、隣のビルの裏口が待っている。
「後は同じ事の繰り返し?」
「二〇〇メートルくらいなら、三つか四つ先だ。マクスウェル、標的は移動しているか?」
『シュア。全体の人の流れに押されて家電量販店側へ向かっていますが、誤差の範囲です。そもそも対象は最初からヒュージカメラに近い位置に潜んでいますしね』
 人混みに隠れて小細工したい側からすれば、現場近くにはいたいけど最前線に放り出されても困る訳だ。森から飛び出た木は目立つ。
 洋服店やデパートの裏手を潜り抜けつつ、目的の人物までの距離を詰めていく。
『距離的にはここです。店の表に出て、人混みに突っ込むしかありません』
「誰がそんな危ない真似するか。マクスウェル、流体力学シミュレー……」
 ガガッギィン!! という甲高いハウリングが耳をつんざいた。
 拡声器かっ!?
 顔をしかめて耳に手をやる。どっちみち、安全な裏手を伝うのはおしまいだ。僕は委員長と共に表のフロアへ。ここはデパートの一階。身を縮めて恐々とウィンドウの向こうに目をやっていたアクセサリーショップやメガネ屋さんの女性店員達が僕達を見て小さな悲鳴を上げるけど、気にしている場合じゃない。
 外には出ず、ガラス扉の近くにあった飾りの柱の裏に張り付くと、だ。
 扉のすぐ外、ごった返す人混みの中から、普通の怒号や絶叫とは違った声が飛んできた。
『我々消費者の声に耳を傾けろぉ!! こちらには買う権利がある、皆の健康と安心のため浄水器の独占を今すぐやめろぉ!!』
 追従するような叫びと、地響きにも似た振動。それらが寄せては返す波のように重なり合う。
 委員長は両手でスコップ握ったまま、むしろぎゅっと身を縮めて、
「なにっ、なにあれ、あの声も黒幕とかいう人なのっ?」
『ノー。両者の間で目配せなどはありませんでした。一般に、共犯関係にある者は必要以上に互いを意識してしまうものです』
 ネットで募って参加者一人一人へ別個に指示出ししている場合は互いの顔も知らない、ってケースも浮上するけど、今はそれよりも……、
「例のバスケ女は!?」
『距離三〇、人混みの中です。スポーツバッグに片手を突っ込んでいます』
 計画にないイベントでも、使えるものなら使うタイプか!?
「マクスウェル、シミュレーション!」
『可能ですが、外は乗車率三〇〇%クラスの人混みです。いかなる計算の元に行動しても今すぐ駆けつけるのは不可能ですよ』
 そんな事は言っていない。
 ようは、赤毛に色黒のスポーツ少女のアクションを止められれば『作られた暴発』は阻止できるんだ。
「流体力学シミュレーションだ。ただし水や空気じゃなくて、好き放題動き回る分子の代わりに人間を置いて演算」
『具体的なタスクの目的は?』
「密度の変化を知りたい。もちろん死なない程度の数値だぞ。あの人混み、どこからどう押せば真ん中にいるイグニッション役を効率的に圧迫できるのかをな!」
 スマホに目をやりながら、僕は委員長を置いて一人で柱の裏から飛び出す。ガラスの扉を大きく開け放つと、群衆の何人かがこちらへ振り返った。
 もう遅い。
『そのまま真っ直ぐ』
「っ、りゃあ!!」
 肩から突っ込むようにして、全体重をかけた。おそらく一対一なら簡単に横へ避けられただろうけど、塊となった今ならそうじゃない。
 高跳びなんかで使う、やたらと分厚いマットに飛び込むような柔らかさがあった。そう、突き返されるのではなく、ぐっと沈む。奥へ力が加わっていく。
 これでも、将棋倒しにはならないだろう。相手は巨大な怪獣だ。インドア系の僕なんかが不意打ちで横から体当たりしても転びはしない。
 だけど、着ぐるみの中身はどうか。
 見渡す限りの頭、頭、頭、頭。元から満員電車クラスなんだ。その密度をさらにちょっと変えてやれば、狙った一点だけプレスもできる。
「ぎゅっ……!?」
 人混みの向こうから、変な声が聞こえた。
 冬の養鶏場でヒヨコが変死する事がある。これは寒さを凌ぐため一箇所に集まったヒヨコ達が、中央の仲間を圧迫するから、らしい。
 色んな人に睨まれたけど、これについてはスマホを自撮りっぽく構えて誤魔化した。わざわざハロウィンや初詣みたいに現場へ集まる人達だ。派手好きで目立ちたいと言えば大抵の奇行は受け入れてもらえる。
「マクスウェル!」
『目的の人物は人混みに呑まれました。上からのカメラでは頭が潜っていて視認できず』
「それじゃ成否が分からないっ。確実にダウンを取ったのか!?」
『消える寸前、スポーツバッグの肩紐が外れたのは確認が取れています。この人混みで、さらにユーザー様を起点とした押し合いへし合いです。全体的にゆっくり人混みは流れていますので、一度地面に落としたバッグを再び拾い上げるのは不可能かと』
 ……ひとまずはセーフ、か?
 ちょっと離れた所から、例の拡声器ががなり立てているけど、
『浄水器を出せぇ! 行くぞ、オラっほんとに突撃すんぞコラぁ!!』
 周りへの効果はなさそうだ。
 拡声器の持ち主も、自分から先陣を切って人柱になりたい訳ではないらしい。誰も前に出ないから、みんなで隣同士の様子を窺って、結果として牽制し合っているという不思議な状況に陥っている。緊張状態は続くけど、明確なイグニッションさえなければ少しずつガスは抜けていく。このまま尻すぼみになるのを待てば空中分解してくれそうだ。
「(……サトリ君っ)」
 声を潜めて委員長が近づいてきた。
 マスクで顔を隠してスコップ持ってきた女の子に、周りはどよめくどころかむしろちょっと好意的だった。気合の入ったヤツがいるぞ、と勘違いされている。
「(何がどうなったの、結局)」
「(現実の戦いは真正面から向かい合ってよーいドンでどつき合う訳じゃないの。無事に終わらせた。どこか安全な、そう、人混みに巻き込まれない高い場所でも陣取って、解散するまで念のため観察を……)」
 言いかけた声が、止まった。
 自分で自分の言葉に反応し、思わず目線を夜空に投げた時だった。
 何かある。
 駅前の繁華街、無数に突き出たビルの窓。そこにびっちりこびりついて固まっているのは……例の雪か。
 でも、固まっている?
 粉末状じゃなくて、窓一面に沿う格好で……それこそガラス板やギロチンの刃のように!?
『警告、突風が来ます』 
 マクスウェルからのメッセージを見た直後、僕は迷わず委員長を押し倒した。

 直後にビルの壁から引き剥がされた巨大な刃が、立て続けにいくつも地面目掛けて落ちてきた。

   2

 背の高いビルから物を落とした場合、ネジやパチンコ球一つでも凶器になるというのは有名な話だ。
 そしてギロチンにもサイズは色々あるが、三メートル以上の高さを取るものはまず見かけない。
 つまり、だ。
 天空から落下してきた分厚い刃の数は一〇、二〇……あるいはそれ以上?
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
 絶叫しかなかった。
 乗車率三〇〇%。満員電車級の人混みの中では、気づいていたとしても避けようがなかっただろう。プラスチックの板は全部が全部まっすぐ落ちる訳じゃなくて、中にはめくれ上がるように回転したものだってある。だけど逆に言えば、一定数はまんまギロチンの動きで落ちた。
 僕が委員長を押し倒したのはデパートのウィンドウ側で、ひさしのように二階部分の壁が外側に迫っている場所だった。ガラスが太陽光を反射して中が見えなくなるのを防ぐ仕掛けだったんだろうけど……おかげで助かった。
『ユーザー様、まだです!』
「……ああ。誰だって安全地帯を求める。お店の中にひさしの下、とにかく屋根のある場所に人が殺到するぞ。バーゲンセールみたいな勢いでこっちに突っ込まれたら……」
『ノー。そもそもシステムが出した警告は別のリスクに対するものです!』
「……?」
 これ以上、何が?
 疑問に思って顔を上げると、ぶわりっ、と遠くの方で景色が膨らんだ。いや違う。マクスウェルはふきだしにこう表示していたはずじゃないか。
 突風が来ます、と。
「地面の雪が、マイクロプラスチックが……舞い上げられた?」
 ばぢっ、という何かが弾ける音が後に続いた。
 静電気。
 これだけ聞けばありふれていると思うかもしれない。だけど落雷だってもくもく膨らんだ入道雲の中で、水や埃がぶつかり合って摩擦で発生するものじゃなかったか。
 あれは、その。
 帯電した雷雲をそのままぶつけられるようなものなのか!?
「うわわわわわわ!!」
 とにかく委員長の手首を掴んで起き上がらせると、元来た道を引き返した。半ば倒れ込むようにして、ガラス扉を開けてデパートの中へ飛び込んでいく。
「入れ! 中に入れっ!!」
 倒れたまま、慌てて外に向けて叫んだけど、追従してくる人はいなかった。そもそもギロチンにやられた直後で混乱しているせいもあったんだろう。
 ガラスは絶縁体、だったか。
 直後に。

 がかっ、ドォオンッッッ!!!!!! と。

 巨大風船を押し当てるように白い粉塵が一面のガラスに張り付き、そして、何だ。 何だよ。もうスタンガンとか電線とかじゃない、太い木を縦に割ったようなあの轟音は……。
 ……どう、なってるんだ?
 外は、表は!? 満員電車みたいになっていて、五〇〇〇人以上がひしめいているんじゃかったのか!!
「だい、じょうぶなんだよね?」
 身を起こしながら、恐る恐るといった感じで委員長は呟いていた。
 地響きのような振動も、拡声器からの乱暴な声もない。
 あるいは、悲鳴や泣き声さえも。
「私達だけじゃないよね、他にも大勢の人がいるんだよね。ねえ!?」
「……、」
 答えられなかった。
 流石に全滅はない。そう信じたいけど、ガラスを外から覆い尽くす白い粉塵のカーテンが、むしろ救いに思えてきた。何もかも丸見えだったら、僕達の心がどうなっていたか想像もつかない。
 結局。
 人がどんなに策を弄したところで、本物の災害には勝てないのか。これじゃネットで煽って現場で暴発させようとした赤毛に色黒の女の子もどうなったか分かったものじゃない。理由なんかも聞けそうになかった。
 しかし、だ。
 さらにスマホが小さく振動したんだ。
『警告』
「……うそだろ」
 まだあるのか。
 これで終わりじゃないっていうのか、本当に本物の災害ってヤツは!?
『突風はイレギュラーなビル風です。短期的なものなので、静電気の雲はすぐに晴れます。問題は別にあるのです』
「具体的に何が」
『シュア』
 先を促したかった訳じゃない。
 これ以上の地獄を覗くなんて真っ平だ。だけど、目を逸らしていても事態は悪化するだけだ。ここで状況に置いていかれたら、本当に命を落とす。だから嫌でも何でも、食らいついていくしかないんだ。
 そしてマクスウェルは告げた。
 最悪の状況を。

『今の静電気によって、近隣で火災が発生しました』

   3

 アメリカやオーストラリアでは一度にヘクタール単位の土地を焼き尽くす森林火災だが、意外にも火元ははっきりしていない事が多い。煙草の吸殻やキャンプでの失火、車やドローンの事故に、意図的な放火なんかも理由に挙げられるが、それとは全く別の原因でも地獄の光景は作られる。
 つまり、静電気。
 空気の乾燥した土地では、風に揺られて枯れた草葉が擦れ合うだけでも死の引き金となりうる。辺り一面に空気を溜め込んだマイクロプラスチックが撒き散らされた今の供饗市は、全域にくまなく干し草を敷き詰めているのと同じくらいには危ない環境だ。ましてその火種が、スタンガンより強烈な電圧を有していたとしたら……。
「まずいぞ……」
 ガラス扉で隔絶されているはずなのに、鼻に異変があった。焦げ臭いんだ、空気が!
「本当にまずい!! いったん燃え広がったら手に負えなくなる!!」
『一一九に通報はできますが、隊員が無事に到着して消火活動できる線は望み薄です。そもそも警察や消防が適切に機能していた場合、無届けのデモを行う事自体不可能だったでしょう』
「メリットは味わったんだからデメリットに文句も言うなって? 割り切れるかよ、外にどれだけ生き残りがいるかは知らないけど見殺しにするのは寝覚めが悪すぎる!!」
 同じ街で暮らす人達なんだ。
 顔は見てないけど、ひょっとしたらあの中にはクラスメイトだっていたかもしれないんだ!
「……マクスウェル、外の様子は?」
『ノー。今のスパークで街頭カメラもやられています。表の群衆からも通報の気配なし、軒並みモバイルを破壊されたからでしょう』
「自分で確かめた方が早いかっ」
 幸い、今は八時過ぎ。デパートそのものは営業時間内だ。僕は委員長を伴ってエスカレーターを駆け上がる。
 特に目的の階はなかった。
 書店やブティックなんかが並ぶ二階は太陽光を嫌っているのか厚手のデコレーションシートで窓が塞がれていたので諦め、そのまま三階へ。自販機が並ぶ休憩コーナーの窓に近寄って、地上の様子を覗き見る。
 マイクロプラスチックの雪が、風の煽りでよそへ逃げていく。うっすらとした白いカーテンの向こうに広がっているのは……、
「う」
 委員長が呻いた。
 ……想像以上だ。起き上がっている人はほとんどいない。大きな通りを埋めるように、バタバタと人影が倒れている。ギロチンに高圧電流。みんながみんな死んだとは思いたくないけど、すぐに動ける訳ではなさそうだ。
 通りに沿って目線を動かしてみれば、すぐ近くに見当違いな非難にさらされていた家電量販店、大きな液晶画面を壁にくっつけたヒュージカメラのビルがあった。
 そして、そういったものとは別に。
「……あれか」
 さらに奥。
 まず一筋の黒煙が見えた。そこから地上へ目線を下げると、電気の明かりとは明らかに違う、揺らめくようなオレンジ色の光があるのが分かる。
「もう私達の背丈より大きくなってない、あの炎?」
「不自然に高い。きっと道路沿いの街路樹が松明になってる」
 きっかけは雷にも似た莫大な静電気だ。先端放電、つまり避雷針みたいな役割を持つ尖った場所へ優先的に『落ちた』だろうし、妥当な線か。
 それにしても、思ったよりもヒュージカメラから近い。あれが高圧電流を浴びて身動きの取れない大通りの暴徒達まで届いたらジ・エンド。生者も死者も等しく黒焦げになるまで焼かれてしまう。
 じっとしていたら終わりだ。
 今できる事は何だ? 僕はプロの消防隊員じゃない。だけど、きちんと動く手足があるんだ。ハリウッドヒーローみたいな高望みはしなくて良い。そんな夢は見るな。素人なら素人なりに、この現実で何ができる!?
「……待てよ」
「えっ、なに?」
 メガネにおでこの委員長は両手でスコップを握ったまま、身を小さくしている。
 だけど、そうだよ。
「その方法ならやれる……。マクスウェル、新しいシミュレーションを頼みたい!」
『シュア。パラメータをどうぞ』
「まっ、待ってよサトリ君! 私達が消火器で消せる火なんて焚き火の親戚くらいまででしょ。身の丈より大きくなった炎なんて太刀打ちできないってば!」
「それがそうでもない」
 そもそも、僕達の目的は街路樹の炎を消す事じゃなくて、よそへ延焼を広げない事だ。あの木一本で済むのなら、黒焦げになるまで待っても構わない。
「とにかく動こう。時間は都合良くこっちに味方してくれないぞ。街路樹の炎が地べたのマイクロプラスチックに広がったら難易度は跳ね上がる!」
「ちょっとあの、サトリ君!?」
 戸惑ったような委員長は廊下の隅にあった消火器のボックスへ目をやったが、僕の狙いはそっちじゃない。
 ひとまず下りのエスカレーターを駆け下りて、まだおっかなびっくりなデパートの店員さん達に大声で叫ぶ。
「消火栓か、何だったら蛇口にホースを繋いで! とにかく水を撒いて!!」
「えっ、はい???」
「外で火事が起きてる、火の手が迫ってから予防策を講じても遅い!」
 やっぱりマスクで顔を覆った素人の言葉なんか誰も聞かないか。こっちとしても、知っているのに教えなくて被害が出たら後味が悪い、くらいの感覚しかなかった。動くか動かないかも含めて彼女達の選択だ。
 そのままガラス扉から表に飛び出す。
 一面で、呻き声が上がっていた。
 焦げ臭いし、別の匂いも混ざっていた。鉄錆に近いけど、そうじゃない。
「サトリ君……」
「ダメだ委員長、火事が先だ!」
 僕だって怪我人に手を貸してやりたいけど、炎を止めないと苦しむ井人達も込みで全滅コースまっしぐらだ。心を鬼にして振り切るしかない。
「でも、あんなおっきな炎は水かけたくらいじゃ消えないよ!」
「だから狙いはそっちじゃない。とにかくマイクロプラスチックが溜め込んだ空気を外に吐き出させれば、これ以上は燃え広がらないはずなんだ!」
 変に立ち止まらなかっただけでも委員長は度胸がある方だと思う。
 ここだって安全じゃない。いつビル壁からギロチンみたいに固まったマイクロプラスチックの塊が剥がれて落ちてくるか分からないし、突風一つで大通り全体に雷雲が吹きすさぶんだ。
「プラスチックはプラスチックだ。妙な条件さえ整わなければ炎を浴びせても燃えたりしない。溶けて広がるのも有毒ガスとかで問題だけど、ひとまず最悪だけは避けられる!」
「だから水を……?」
「ロードローラーで踏み固めても良い。羽毛布団をぺしゃんこにして空気を抜くってイメージで考えるんだ」
 そして広い通りを全部処理する必要はない。今燃えている街路樹を囲むように隔離してしまえば。
「江戸の火消しだな」
「?」
 ヒントは不思議そうにしている委員長が握っている雪かきスコップだった。
 炎に消火器を浴びせるだけが消火活動じゃない。火元から延焼する物質を遠ざける、破壊する、切り離す事でも火事は消せるんだ。
 燃える条件さえ崩せば、熱を浴びせてもプラスチックは溶けてチーズのように広がる。それ自体が延焼を防ぐ分断の役に立つ。
 悪い連鎖から良い連鎖に切り替えろ。
 消える理由がない限り火は燃える。だけど消える理由で三六〇度囲ってしまえば逃げ場も奪える。
『火元から一番近い消火栓は五〇メートル先、長方形のマンホールです』
「雪で埋まっていて見えない! どっちみち専用のオープナーがないから開かない!!」
『なら直前で左に入ってください。ヒュージカメラ・湾岸観光区駅前繁華街店。営業時間内なので、必要なものを揃えるのに手っ取り早いのでは』
 あそこか。
 さて、直前までの暴徒騒ぎの後で、いきなりやってきた僕達に協力してくれるかな。
「委員長、スコップは入口の所に置いておいて。刺激するとまずい」
「……良いけど、大丈夫なんだよね?」
 ごうごう燃えている街路樹はヒュージカメラの出入り口のすぐ近くだ。お店の方に歩み寄るだけで顔がピリピリと痛い。人の手で管理されていない、自分の背丈より大きな炎を見上げる機会なんかなかなかない。崖の縁から真下を覗き込むような、本能的な恐怖が両膝を刺激する。
「念のため他にも候補をピックアップ」
『シュア』
 マクスウェルとやり取りしながら、ガラス扉を潜って店内に。
 幸い、いきなり殴られる展開はなかった。
「あっ、お客様!」
「?」
 知り合いじゃない、はずだ。
 だけど頻繁に立ち寄っているせいか、若い男の店員さん側が覚えていてくれたらしい。……マクスウェル絡みで、変な部品の質問ばっかり繰り返したからかな。
 電器店自体は僕にとって馴染みの深い場所で、大体の間取りも分かっている。一階はモバイルショップやネットのプロバイダー、後は契約の待ち時間を潰すための喫茶店や書店なんかが入っていたはずだ。全体的に上へ行くほど白物家電、テレビやオーディオ、テレビゲーム、パソコンやルーターとディープになっていくんだけど、例外的に最上階だけポップなレストランフロアになっている。
 会話ができる状態なら話は早い。
 単刀直入に聞くしかない。
「水あります?」
「っ」
「浄水器じゃない! 表の火事を何とかしないと、このビルにも燃え移るっ!!」
 道路の消火栓は見つけるだけでも大変だ。雪かきして、オープナーで重たい蓋をこじ開けて、外付けの金属パイプを突き立ててホースを繋いで、なんてやっていたら間に合いそうにない。水道だってマイクロプラスチックが詰まって使えなくなるかもしれない。だけど屋内の消火栓を使わせてもらえば話は別だ。確実。特に、タンクが独立しているものなら雪の影響はない。
 とはいえ、誰だって火災報知器のボタンへ無闇に指を伸ばそうとはしないだろう。普通に暮らしている分には、小学生でも分かるトラブルの素だ。
「良いんですかね。社の規定がありまして……」
「そのマニュアル見せてくれればこちらで分析させます。マクスウェル」
『シュア。ネットの公式サイトに転がっている採用情報欄程度のものですが……第三条二項と第八条九項の記述を照らし合わせるに、従業員には店舗設備、商品、売上金、個人情報等の保守義務があります。ビルが燃えるリスクが表面化している今なら、敷地の外の火災であっても店内の備品を使って対応するのが妥当です。むしろ、実際に燃え移ってから行動するのでは目に見える被害の予防を怠ったとみなされ、社内規定による処罰の対象となる恐れがあります』
 さて。
 目を丸くしている店員さんはプログラムの手際に驚いているのか。あるいは単純に人間の秘書でも従えているように見えているのかな。
「消防署のサイトにアクセス。防災講習のレポートでも良い。消火栓の使い方を表示してくれ、頼む!」
『はいはい。気合を注入されても通信速度は変わりませんよ、非論理的な(´-`)』
「……パソコンでもスマホでも、電波が弱かったりハードディスクの調子がおかしい時に祈る事ってあるよね?」
「私に同意を求められても困るよサトリ君」
 消火栓自体は学校の廊下にもあるタイプだった。赤いランプや火災報知器とセットになっていて、下の扉に蛇腹状に畳まれた白いホースが収まっている。
 ポンプは……最初から繋がっているみたいだ。根元にドアノブより大きな蛇口があって、ホースも固定されている。
『減災都市・供饗市一帯で規格化された屋内消火設備ですとホースの長さは五〇メートル程度。外まで引っ張ると結構ギリです。各フロアの失火を個別に消す機材ですからね』
「ええいっ」
 僕の腕より太い金属筒のノズルを掴んで実際にホースを引っ張り出してみると、通路にせり出したケータイコーナーの見本台だの芸能人の等身大看板だの、あちこち出っ張った部分に引っ掛けないよう注意するだけでも大変だ。しかも、思ったより重たい。一人でやる仕事じゃない。テレビ局のADさんなんかがこんな風にスタジオの大型カメラのケーブルを手繰ったりする仕事任されるんだっけ? とにかく四苦八苦しながら最寄りのガラス扉から何とかしてホースを外へ出す。
 再び炎と向き合う時が来た。
「委員長、これ持ってて」
「えっ、えっ。使い方分かんないよ!?」
「お店の方にある根っこのハンドルを回してこないと水が出ないんだ。とにかく腰の横でしっかり押さえて。ノズルのリングを回さない限り噴射はしないはずだけど、不意打ちで暴発すると腕より太い金属ノズルの先で顎を殴られるぞ。すぐ戻る!」
 拘泥している暇はなかった。火柱となった街路樹だって、いつまでもそのままじゃない。今すぐにでも枝や幹が折れてマイクロプラスチックだらけの道路に落ちるかもしれないんだ。
 店内に引き返し、フロアを横断する。壁際、開いたままの金属扉に向かう。加減なんて考えている場合じゃない。とにかくドアノブより大きな蛇口を目一杯回す。
 ぼこぼこぼこっ!! と。
 床のホースが内側から膨らんだ。根元から外へ、爆発的に加速していく。
「あっ、ヤバい……」
 勢いが速いっ、走っても追いつかない!?
 外から悲鳴があった。
「わあーっ!?」
「委員長!!」
 慌てて外へ飛び出す。
 大蛇と戦う人がいた。ぶしゅずばー、というとんでもない効果音つきで。
「ちょ、これっ、ねえサトリ君っ、このジェットこれぇ!!」
「ノズルのリングには触るなとこいつあれほど……!!」
 これだから真面目でお堅い顔してるのにあちこち脇が甘い委員長はっ!? ずぶ濡れで涙目じゃねえか! その可愛さで悶え死にさせる気か!?
 委員長を何とかして助けてやりたいけど、大暴れしたままのホースを受け渡しなんてしようものなら、握力を緩めたタイミングで二人揃って顎を叩かれる。
 仕方がない。
 本当に仕方がない!! 受け渡しが無理なら、後ろから委員長に抱きついて二人仲良くホースを掴むしかないな! 緊急事態だし!! おおお僕は幼馴染みを助けるぞー!!
「あわわあわわわわあわわわわわ」
 よしナイス、パニクって目を回してる委員長はそれどころじゃないな。ここぞとばかりに密着だな!! もう大丈夫だびしょ濡れ少女、今温めてやる!!
「……いやあ、頑張ってきて良かった。正義っていうのはいつか必ず報われるものなんだなあ」
『システムは非論理的な事象に対し信憑性など考慮しませんが、地獄に落ちると良いですよ』
 あとこのデコメガネ、さっきから必死になって燃え盛る街路樹のてっぺんに狙いをつけようとしているようだけど、それだと間違いだ。僕達の目的は一面のマイクロプラスチックに水を浴びせる事でぺしゃんこにし、毛糸みたいに溜め込んだ空気を逃がして引火を防ぐ事。三六〇度経路を全部奪ってしまえば、街路樹の火種は勝手に消える。
 だから、こう。
 狙いは足元。上からホースを押さえつけるようにして暴走を食い止めて、至近から順番に浴びせていけば良い!! 地面を塗り潰して陣取りゲームをするように!!
「きゃあっ!!」
 路面にぶつかって跳ね返った飛沫を浴びた委員長が短い悲鳴を上げたけど、今はマイクロプラスチックの雪を何とかする方が先だ。このまま二人羽織状態でさらに矛先を前に、奥へ。レーザービームでも浴びせるくらいの感覚で燃え盛る街路樹の根元まで一気に高圧放水をお見舞いしていく。
『雪に覆われた地面が一五センチから二〇センチほど沈んでいます。効果あり。空気を溜め込んで膨らんでいたマイクロプラスチックが、水の力で潰れて見かけ状ではくっついているようです』
 ええいっ、スマホ持ちながらだと両手で金属ノズル握りにくいな。結構振動あるし、画面やレンズに傷が入らないと良いんだけど。
 燃えている街路樹を中心にぐるっと囲むように水を撒かなきゃいけないんだけど……ダメか。ホース自体は届かない。仕方がないので今いる位置から街路樹を挟んで奥に高圧放水を叩き込んでおく。
 ばぎっ、という硬い物が割れるような音があった。
「なっ、なに?」
「下がれ委員長、倒れてくる!!」
 半ば背後から線の細い体をホールドしたまま、無理矢理後ろへ引きずった。
 オレンジ色に輝く滝のようだった。
 半ばから街路樹の幹が折れ、路面に向かって倒れ込んだんだ。燃えたままの木の枝がいくつも砕ける音が重なり、叩きつけられた反動で大量の火の粉が舞い上げられる。
 けど、それだけだった。
 熱した鉄板に水をかけるような蒸発音と、プラスチックの溶ける嫌な匂い。だけど枯れ草に火を放つような、どうしようもない炎の壁には発展しない。むしろ溶けた飴みたいな塊に絡め取られるようにして、しつこく倒れた木に残っていた炎が小さくなっていく。
「……、」
「……。」
 へたり込んで抱き合ったまま、僕も委員長もしばらく動けなかった。手を離れて暴れ回るホースなんて気にしていられてない。
 ひとまず終わった、のか?
 木が折れた時に馬鹿みたいな量の火の粉が飛んだから怖かったけど、恐る恐る首だけ動かして観察してみても、どこか別の場所に飛び火している感じはしない。
「……マクスウェル」
『シュア』
「今日と同じ事が起きる可能性は?」
『地面に積もった雪の密度と風の強さによりますが、いくらでも』
「静電気以外の出火原因は?」
『リスト化もできますが不毛です。この現代において、人は火と電気を使わずに生活できません。また使用を控えたとしても、細かいマイクロプラスチックは変圧器や送電線などに絡んでショートを起こすという点もお忘れなく』
 今日を……いやこの一分を乗り越えたとして、次はどうする? たった一分後には別の場所で火の手が上がって街全体を呑み込むかもしれないんだ。その全部を事前察知して食い止めるなんて、災害環境シミュレータの力を借りても無理だ。なら予防措置を取る? いくらでも季節外れの雪が降り続ける中で、街全体にくまなく水を撒き続けろっていうのか。冗談じゃない!
「サトリ君……」
 委員長が、抱き寄せられたまま不安げに声を掛けてきた。
「ねえサトリ君。終わったのなら、大通りの人を助けに行かないと。怪我している人もたくさんいるはずよ」
「分かってる……」
 当たり前の生活。その根底にある身の安全が崩れていくのが分かる。一分後には炎に巻かれて死ぬかもしれない、自宅にこもって全部の扉や窓に鍵を掛けても除外はされない。ちょっとした風向き一つで、死は平等に街を呑み込んでいく。起きていようが、眠っていようが、容赦なく。
 今のままじゃダメだ。ダメだとして、ならどうすれば良いって言うんだよ!?

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第一章

【crawler search】空気と燃焼性【you need word!】

 そもそも火が点く、物が燃えるという現象は物質が急激に酸化する化学反応を指す。つまり、たとえ摂氏数万度の高熱源と接触しても酸素を含む空気またはその代わりとなる酸化剤がなければ『炎が燃え上がる』事はない。これについては、LED以前の古い電球を思い浮かべると分かりやすいだろう。ガラス球の中が真空なら、フィラメントは燃えないのだ。……燃えないだけで熱エネルギーは伝わるので、太陽に抱きついても大丈夫、とはならないが。
 また、着火のきっかけに必ずしも火や熱を伴う必要はない。例えば物体に強酸を浴びせる事でも黒炭化、すなわち燃焼は発生する。短時間で酸素と目的の物質を結びつける、これが重要なのだ。
 特殊な条件としては、綿、羽毛、毛糸のように素材の内部で空気を溜め込むケースが挙げられる。空気と接する表面積が広いほど多くの酸素消費を促すため、燃焼の規模も大きくなる。ふわふわしたコットンの塊に火を放つと、あたかも爆発したような燃え方をするのは有名な話だ。
 通常は燃焼が穏やかか、あるいは燃えずに溶けたり焦げたりする物質でも、形状を整える事でその条件が変わるケースもある。たとえ金属やプラスチックでも、場合によっては『火柱を上げて激しく燃える』のだ。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第一章

   1

「わあー」
 翌朝の事だ。
 自分の家の屋根を見上げて思わず声が出てしまった。
 すぐ後ろをきゃっきゃはしゃぎながら小学生が何人か走り抜けていく。今はもうあんな歳の子でもケータイスマホを買ってもらっている時代だ。どうやら晴れの日に降り注ぐ雪のおかげでプリズムみたいな七色に空気が乱反射するのが面白くて仕方がないらしい。カシャカシャピロポロ、電子音を鳴らしながらひたすら写真を撮っている。
 もはや当たり前みたいな顔で、みんなマスクが手放せなかった。水と食料の次くらいに必需品だ。
「ざっと一〇センチくらい?」
『ノー。八センチもあれば良い方です』
 子供達に交ざって頭上にスマホをかざしながらそんなやり取りを。僕達が注目しているのは屋根だ。そこには人の足や車のタイヤで踏み荒らされる事のない、自然なまま(?)の積雪が確認できる。
「……だとすると、一時間に一センチくらいか」
『今回のケースですと、マイクロプラスチックの比重は水より重たい事が確認されております。従って屋根も油断はできません』
 この雪は本物じゃない。日中太陽の下に置いておけば勝手に溶けて屋根から滑り落ちてくれる訳じゃないんだ。
 昨日まではしれっと父さんや義母さんが大人パワー全開で雪かきしていたんだけど、この辺も僕達が何とかしないといけないかもな。
 ……でも気をつけないと。
 マーメイドとかダークエルフとか、後はセイレーンなんかもいたかな。供饗市では意外とあちこちにアークエネミーが暮らしているんだけど、彼らは不気味なくらいなりを潜めている。
 警察も消防も動かない。外からの支援もあてにならない。見た目はのんびりしてるけど、でも冷静に考えたらかなりの状況だ。
 おそらくだけど、ルールのなくなった孤立空間で下手に目立つ行いを避けようとしてるんだと思う。それは不死者同士を殺し合わせて数を減らそうとした『コロシアム』でタガの外れた人間の怖さが骨身に沁みたからか。
 例えば人間の何十倍の筋力を持つアークエネミーがいたら、こっちの雪かきやれよウチの屋根の雪下ろしも頼むよって四方八方から迫られるかもしれない。宝くじで大金を手に入れた人と似た感じで。そうなったら他人の世話だけでへとへとだ。家の屋根は心配だけど、姉さんや妹任せにして『ウチだけ安泰』にしてしまうのも別の意味で危ないかもしれない。
『落とした雪もまた問題ですよ』
「分かってる」
 やっぱり屋根から落としておしまいとはいかない。自然に溶ける訳じゃないんだから、太陽に任せたり側溝に落とせば済む話じゃない。通行の妨げにならないようおざなりに道の端へ寄せた山は、すでに僕の背丈を越えようとしていた。
「ナントカ資源とかって適当なラベルを貼って、お金に換算してしまえば良いんだ。そしたら黙っていてもみんなで奪い合いになるのに」
『ノー。貨物船火災の折、積載されていた複数の原料物質が混ざり合っています』
「大気中の塵や埃に窒素酸化物とかの汚染物質なんかもな」
『シュア、分かっているじゃないですか。つまりこれらを全て適切に分離してリサイクル事業を回すとなると、コストが折り合わないかと』
 ……採算度外視でもやってくれないかね、と考えるのは流石に子供の理屈か。ビジネス以外、例えばどっかの大富豪とかが慈善の寄付金代わりにそういうサービスを一つ打ち出してくれたら効果的とは思うんだけど。
 爆弾低気圧で水没した東京なんかはすぐに復活したし、技術自体はあると思いたい。
 と、その時だった。
 かなり慌ただしい感じでお隣さんの玄関のドアが開いた。
「ひゃー。なに、サトリ君いるじゃん? 今日こんなに遅れたの私!?」
「朝っぱらから元気だね委員長。そっちは寝坊?」
 黒髪ロングでオールバック。姉さんみたいにあからさまではないけれど、その分整ったスタイル。いつだってお美しい委員長もやっぱりマスクをつけていた。ただ美人はお得だね。隠れている方がかえって妖しい魅力が増している気がする。僕なんか半分不審者だ。
「昨日の夜に臨時速報あったでしょ、道路が封鎖されるって。今日からコンビニも学食も使えなくなりそうだから、急遽お弁当を作る事にしたのよ。ああもう、おかずは冷凍食品なんだからもっと簡単に行くと思ったのに!」
 そりゃあ何とも計画的なデコメガネ委員長っぽいエピソードだ。あと隣の家の幼馴染みが手作りお弁当ですって、何じゃその金の延べ棒よりもソソる爆上げワードは!? 萌え殺す気か!
「……サトリ君は今日のお昼平気なの? ネットの人なんだから私よりも情報早いはずよね」
 安心なされよ。
 準備は万端である。
「カロリーゲート、四個で一食」
「信じられない、言葉尻を変えただけの乾パンじゃない! 何でわざわざ自分から苦しい道を歩くの!?」
 情報が古いテレビの人はこの言い草である。正直、ワイドショーを信じて赤身の肉だけ食ってりゃ健康になれると考えてる人よりはよっぽどまともなはずなんだけどな。こんな雪に苦しめられる前から、徹夜のお供として業務用の箱買いで大量確保していたのでこっちは助かっているんだぞ。
 委員長は委員長であるからして、両手を腰に当ててこっちをジトっと睨んでから(いやあやっぱりこの人はイインチョポーズがサマになるなあ、お美しい)、
「……サトリ君、その乾パン後で半分寄越しなさい」
「メープル味がお菓子っぽくて羨ましいのは分かるが計算しないと太るぞ委員長」
「代わりに私のお弁当半分分けるって言ってるの! ご自慢の健康食なんでしょ? だったらお互いの口に入れても問題ないはずよね!」
 っ!?
 ガッ!! と思わずガッツポーズを取りたくなるのを必死に堪えつつ。これだよ、この何の脈絡もない謎の面倒見の良さが僕らの委員長なんだよ!!
『なんと! トレードの条件として成立しておりません。どう転がってもユーザー様の得にしかならない提案ではありませんか!?』
 マクスウェルもちょっと黙ってろ。正直に言うと僕だって経緯はサッパリ見えない、再現性ゼロの状況だ。やり直しは効かないんだから絶対このチャンスをモノにするっ!!
 メガネの委員長はちょっともじもじしながら、
「な、なに? 私だって恥ずかしいんだからね。ああもう……この歳になって隣の家の子とお弁当を分け合うだなんて……」
『あ、困り系のリアクションですね。甘酸っぱい感じではなさそうです。汚れた捨て犬を放置したままディナーに出かけると罪悪感が的な行動理由でしょうか』
「うるせえコンテナごと海に捨てるぞマクスウェル。あとお昼休みに教室のど真ん中で委員長からはいアーンしてもらえるなら僕は汚れた捨て犬で全く構わないし!! 委員長はちゃんと空いた左手をお箸の下に添えてくれる気配り上手だと思うのッ!!」
「そっそこまでやるとは言ってない!!」
『……自分から提案しておいて顔が真っ赤とか、デコメガネ委員長はなかなかに複雑高度な思考回路の持ち主ですね。これが世に言うツンデレか』
 違うなマクスウェル。確かにカリカリして怒りっぽいものの、委員長の場合は基本ストレートで心の扉は開けているからツンとは呼ばない。あれは素直になれない、ひねくれている場合につく属性だ。ふっ。甘酸っぱいとか罪悪感とかプログラムのくせにここ最近感情面の単語を頻出するようにはなってきたけど、まだまだ修行が足りないようだな。webの世界にさんざっぱら溢れ返った萌え少女でも眺めて引き続き精進なさい。ツンだのデレだの余計な添加物なんか何もいらない、委員長は委員長であるだけですでに完成していると理解するその日まで。
「あー、この流れだとサトリ君と一緒に学校向かう展開になりそうね」
「うふふ手を繋いでも良いんだよ委員長」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」 「顔くしゃっとして嫌がるのはやめようよ! ここは委員長らしく大声でお叱りをいただく場面でしょ!?」
『理由もなくご褒美をおねだりするからです愚か者』
 そんなケッペキな委員長と通学路を歩く。
 どこも大体似たような感じでマイクロプラスチックの雪と格闘した痕跡はあるけど、対策はまちまちだ。何しろ決まりがある訳じゃないから、家の人が出不精で杜撰な所だと結構道が埋まって片側車線になっているケースも珍しくない。ひとまず、今のところは雪の重みで潰れた家なんかはなさそうだけど……。
「……今日は役所のダンプ来てないのね」
 あちこち見回しながら、委員長が不安そうに言ってきた。
「マイクロプラスチックって溶けないでしょ? 誰かが持っていってくれないと道が塞がっちゃうのに……。車を出さないのって、やっぱりガソリンとかも届かなくなっちゃったから?」
『ダンプは基本ディーゼルだろと小一時間』
「マクスウェル、お前はきっとその六〇分弱で積み上げてきたものを台無しにする子だな?」
 不思議そうな顔をしている幼馴染みに画面は見せられそうにない。委員長は自分の頭に手をやって、
「やっぱり髪に絡みつくわね、例の雪。明日からはニット帽でも被ってこようかしら」
「ダメだ!! おでこを隠したらメガネしかなくなるぞ委員長!」
『ユーザー様は全好感度を一秒で粉砕なさる方ですね』
 意外に思うかもしれないが、こんな状況でも同じ制服を着た男女を結構見かける。学校に到着してみれば、うっすら白く化粧された校舎に多くの生徒達が吸い込まれていくのが分かる。目に見える異変なんて関係ない。誰かが声を大にして明確に止めない限り、いつものサイクルは続く。世の中なんてそんなものだ。
 教室に入ると、朝のホームルームの五分前だった。委員長は焦っていたけど実際の時間感覚はドンピシャで、いつもと変わらない。集まっている生徒は八割くらいだった。残りは慣れない雪かきで腰でもやったのかもしれない。
 ただいつもと違った変化と言えば、
「はーいみんなお静かに。朝のホームルーム始めるよー?」
「?」
 ハキハキとした声と共に教室に入ってきたのはいつもの担任じゃなかった。若い女の先生が我が物顔でテリトリーを侵害してきた。
「いつもの先生は道路渋滞に飲み込まれて使い物になりません。歩いた方が早かったな。そんな訳で代理の佐伯(さえき)です、他にもいくつか教室回らなくちゃならないからさっさと進めるよー?」
 なんて事だ。いっそ先生達が全滅なら大人のせいにして学校を休みにできたのに。半端にガッツのある人は笑顔で伝達事項を消化していく。
 元々は別の学年でも受け持っているんだろう。あんまり縁のない先生だからか、いまいち質問とかは挟みにくい。
「……そういう訳で『雪』はまだまだ詳細不明な部分も多いけど、かと言って必要以上に怖がらないように。一時のトラブルなので時間が解決してくれます。ああそれから」
 何ともざっくりしたビジネストークを一通り終えてから、だ。
「こんな時期で間が悪いけど、今日は皆さんに転入生を差し入れします。はいみんな拍手ー」
 えっ? ほんとに何でこんなタイミングで? そんなどよめきがあった。まあ、沖で貨物船が燃えたのは三日前なんだから、今さら予定は変更できなかったのかもしれないが。
「ちなみに転入生は金髪碧眼の女の子です。歳は一五だけど試験的に導入された六三三制以外の学校から従来のウチにやってきたから学歴はみんなと同じ、しかも特別な才能をお持ちになっております。はい男子は歓喜! ケータイスマホの用意はできたかな、教科書の貸し借りは先制攻撃の基本です。それじゃあ紹介するよ!」
 かつん、という足音が一つ。
 見慣れた教室を侵食していく新たな一石。
 華奢な体に白みの強い金髪。長い髪は単純な三つ編みともちょっと違う、いくつか節をつけて一本でまとめてあった。その髪や肌が、真新しい青のブレザー制服と強いコントラストをつけている。
 その正体は、
「初めまして。私は海風(うみかぜ)スピーチア」
 そこじゃない。
 問題の核心は別にある。
 僕は彼女を見た事がある。それも宇宙船なんて場所で、眩い裸身なんてとんでもないモノを。
 つまりは、

「アークエネミー・スキュラとしても登録されております。皆様、どうかよろしくお願いいたしますね?」

 これは攻撃だと、マクスウェルは言っていた。
 ただの災害じゃない。高確率で前回東京の街を人為的に水没させた連中が関わっていて、僕の住む街をピンポイントで狙って事を起こしたと。
『警告』
 だとすれば。
 どうだ、この状況?
『判断材料が少な過ぎてジャッジできません。であれば当然ネガティブ、最悪の事態を想定したシミュレーションに従うべきです。噛み付かれてからではもう遅い』
 前の事件と同じ時間を共有する女の子が、何の脈絡もなくポンと投げ込まれたこの状況。警戒するなっていう方が不自然じゃないか。
 実を言うと。
 僕は、スキュラ本人の裸は見ているけど直接話した事はないっていう何とも微妙な立ち位置だった。彼女は、宇宙人……として振る舞っていたクイーンの影武者みたいな形で保存されていたからだ。
 普通に考えれば、黒幕にさらわれていた側なんだから害はないはずだ。
 でも、さっきも言った通り、僕はこの人と話した事がない。前回は被害者みたいな立ち位置だったけど、実際にその中身はどうだか分からない。さらわれた先で徹底的な『教育』を受けて性根を曲げられ兵隊化してしまったかもしれないし、あるいはそもそも最初から望んで体を差し出していた可能性も完全にゼロとは言えない。だってこの人を知らないんだから当然だ。
 何だ。
 どっちだ?
 根本的に、こんな大変な時期にわざわざ転校してくるって不自然じゃないか。それとも下手の考え休むに似たり、こいつも僕の深読みに過ぎないのか?
「席はどこでも良いんだけどー、ちらほら休みがいて決めづらいな。今日は何日だっけ? えーとそれじゃあ出席番号的に天津! ア行トップバッターの君が転入生の面倒見といて。であるからして席は天津サトリの隣で決定!! はいみんな拍手ー」
 色を失う僕に向けて、佐伯とかいう女教師はあっさり決めてしまった。
 来る。
 こっちに、僕のテリトリーに。
 ゆっくりと椅子を引いて、すぐ隣まで。ナイフ一本あればいつでも脇腹を刺せる位置までにじり寄られる。
 しかもいきなり机と机をくっつけてきた。
 にこりと笑って、金髪の美少女は告げる。
「教科書は一通り揃えてありますけれど、オプションの地図帳とか参考書は自信なくて。足りないものがあったら見せてもらえます?」
「えっ、あ……」
 こちらの言葉なんて待たない。
 彼女はわずかに身を寄せると、僕の耳元で確かにこう囁いたんだ。
「(そんなに固くならないで。これからよろしく、天津君)」

  2

 天津君天津君、と午前中だけで何回呼ばれた事か。
 こうして見る限り、海風さんは物怖じしない女の子ってイメージしかない。教科書のどこまで進めているか教えてほしい、辞書や百科事典はアプリ版でも構わないのか。そういうローカルルールを授業中に結構聞かれた。
「大事な事ですわよ。始めに押さえておかないとのちのちまで引きずりかねません」
「ふうん、そんなものかな」
 僕自身は転校の経験はない。途中でいきなり教科書の出版社が変わるとか、そういう話に巻き込まれた事もない。
「他にも」
 と、金髪少女はシャープペンシルのノック部分についてる小さなイルカを唇に当て、片目を瞑ってこっちを見てきた。けどちょっと待て。あれ、なんかおかしい。椅子の下で小さく自分のスカートを摘んでいないか、あれ!?
「……長過ぎても短過ぎても浮いてしまいますし、ほんとはこのスカートがどれくらいの長さだと過ごしやすいかも知りたいところではありますが」
「ぶっ!?」
「まあ、こちらについては天津君に尋ねても仕方のない話ですわよね。参考までに、好みを聞いてみるのも面白そうではありますが」
「天津! 転入生の横顔に夢中になってないで早くプリント後ろに回せ!!」
 男の先生に言われて慌てて指示に従った。横顔って言っていたから、多分何に吸い寄せられていたかまではバレてないと思うけど。海風さんは海風さんで、何事もなかったように前を向いていた。一秒前までスカートの端を摘んでいた指先で自分のプリントを弄んでいる。
 なんていうか、もう。
 ちょこんと指先で服を掴まれ、横から袖をくいくい引っ張られるのも慣れてしまった。
 でもって。

「まためんどくさい事になってますね、先輩」

 お昼休みである。
 ……何が面倒かって、教室でお弁当交換会をやらかすのを嫌がったデコメガネ委員長とようやく安住の地・図書室の隅っこを見つけた矢先にもうこれだ。
 ショートのゆるふわ金髪に小柄な体躯、みんなの愛され系後輩ちゃん井東ヘレンその人であった。
 というか。
 固まってる。委員長は不意打ちでシャワーを覗かれたみたいに頭が真っ白になってる。何故そんなにも難解なたとえを持ち出したかって? どうしてもナゾを解きたければ何かと接点の多いお隣さんで夏場は窓の管理がザルな委員長にでも聞いておくれ。
「やっ、これは違うのええと私はホラあのその……!?」
「これがお昼ご飯以外の何なんですか。ちなみに私は同じお弁当でもサンドイッチ派です。小さなおにぎり派のメガネさん、トレードするなら今しかないですよ」
『なんか今日のヘレン嬢はグイグイですね』
「(……実はテンパってると信じたい。そもそも『あの』内気超小動物系の井東さんがすでにできてる輪に切り込んでくるのって、それだけで非常事態のはずだし)」
「先輩、どうしました?」
「さんどいっち食べたい」
 そんなこんなで三つ巴の交換会に。こっちはカロリーゲート四切れしかないから、何と何をトレードするかは割と死活問題だ。一発がデカい。
「ちなみに井東さん、何をどこまで把握してるの?」
「……ひとまず転入生の種族がスキュラで、訳もなく先輩とベタベタしたがっている辺りまでは。どうにも彼女、右も左も分からないからガイド役にすがっている、なんてタマにも見えません。実際、移動教室の時はさっさと一人で出かけてしまうようですし。先輩、タダより怖いものはないんですよ」
「だよなあ……」
 なんか吸われているって自覚はないんだけど、それだけ海風さんが巧妙にすり寄ってきている、って事なのかな。
 貨物船の火災による不自然な『雪』と、タイミングを合わせたような謎の転入生。
 これだけで関連性を勘繰ってしまうのは、てるてる坊主を軒下にぶら下げたら晴れの日が続いたからって理由で習慣化するのとおんなじ迷信……なんだろうか?
 と、
「……まったく、まったくもう。より包括的な『キルケの魔女』という私がありながら。何がスキュラですか、あんなもの。魔女の薬があれば全く同じ異能は手に入るんですから単一のクリーチャーなんて不要です。歳で言ったら私と同じなのにクラスメイトで隣の席とかずるいです、ぷんすか」
 ……なんか暗い顔してぶつぶつ言ってる。変にグイグイなのはこのせいか? そういえば井東さん、具体的にどうやってウチの教室の事情を観察していたんだ。とりあえず校舎の窓にヤモリやカエルみたいに張り付いていた訳じゃないと信じたい。
 とにかく不安を解消したい人ヘレンちゃんに向け、ようやっと委員長も会話に参加してきた。当たり障りのないトークをレーダーみたいにぶつけて距離感を測れるのは、デキるデコメガネの証拠である。
「井東さんだっけ? ツナマヨとか卵とかを見る限り、フードプロセッサーは使わない派?」
「……あ、あれ鶏肉とか野菜とか、繊維の向きなんてお構いなしでズタボロにするじゃないですか。作業が早いのは分かるんですけど、その、いまいち信用できなくて」
 おっ。
 普通トークに突入したおかげか、出だしから変なテンションだった井東さんがちょっと引っ込んだ。……具体的には僕の方に寄って、委員長との間に置く壁役にしようとしている。
 一方のデコメガネ、相手が身を引いたのを敏感に察したんだろう。井東ヘレンの内には踏み込まず、笑顔のまま自分の話へ切り替える。
「私はダメね。楽できると分かったらすぐそっちに逃げちゃう。食器洗浄機とか手放せないし。このお弁当だってそう、おかずの半分は常温で解凍できる冷凍食品だし、おにぎりだって型にはめると簡単に作れるキットがあるんだよ」
「悪い事じゃないと、思います。あの、私の場合、新しい事を覚えようとしないだけですし……」
「ちゃんと食パンの耳を一つ一つカットしてからサンドイッチにしてるのに? 偉いよー、私そういう細かい気配り部分から順に手を抜けないか考え込むタイプだからさ。味は変わんないだろーって」
「ち、違う。気配りとかじゃない、です。お弁当箱を開けた時の、周りの目線が怖いだけ。どうせ自分で食べるだけなのに、誰かに言い訳しながら作ってるみたいで情けなくて……」
 ドアにチェーンロックを引っ掛けたまま隙間から覗くようだった井東さん、いつの間にか身を乗り出して自分から心の内側にあるものを吐き出している事には気づいているだろうか。手から炎を出したり不老不死の肉体を持っている訳じゃないけど、これはまだマクスウェルに演算させたって実現できない、委員長の『力』なんだと思う。
 僕もこれでかなり救われてきた。
 特に、最初の母さんと父さんが連日夫婦ゲンカを繰り返していた頃は。
「……雪、またちょっと強くなってきたみたいね」
 窓の方を見て委員長が呟いた。
 貨物船の火の手にもよるけど、基本的に放出量は変わらないはずだ。それでも風向きなんかで窓に当たる印象は大分変わるんだろう。
「でもあれ、ようは一〇〇メートルだか二〇〇メートルだかの貨物船に詰めたプラスチックの原料が熱で形を変えたものなんでしょう? 供饗市の外まで、何十キロ四方って範囲を覆い尽くすのはおかしくないですか」
「船にあるのはあくまで高濃縮の原料物質だからね。溶けて、冷えて、固まるまでにお腹の中で空気や不純物を蓄えるし、単純計算もできないんだ」
 訳知り顔で語っている僕だって、実際にこの先何がどうなるか見えている訳じゃない。とりあえず爆発が起きたり家が飛ばされたりする事はない。そんなナァナァの気分でここまで先送りにしてしまった。電車も道路も封じられた今からじゃ、もう街の外には出られないっていうのに。
「どうなるんだろうね、これから」
 委員長がぽつりと言った。
 僕達には答えられなかった。

  3

「海風さん、部活とかどうするのー?」
「ええと、部というと……例えば一体どんなものがあるのでしょう?」
「マジか手つかずっ!? あのうー、私達は料理研究会の者でえー!」
「あっ、ずるい! その子にゃ是非ウチのマネージャーになってもらいたかったのに!」
「ちょっと待ってくれたまえ部活限定? 学校には生徒会を頂点とする委員会って枠組みもあってだね……」
 一人が切り込むと様子見モードの箍が外れるのか、なんかあちこちからわらわらと群がられている。やっぱり美人は得だ。しかも小柄なもんだから小動物感が漂っている。
 午後の授業が一通り終わり放課後になると、結構大変な時間がやってきた。掃除だ。この不自然な雪の中でわざわざ窓を開けたがるヤツはいないけど、それでも人の出入りがあると細かい粒が入り込んでくる。繁盛している海の家みたいなジャリジャリ感って言えば伝わるだろうか。
「隣の組、エアコン壊れたってよ」
「マジかっ。家とかどうなってんだ」
 そんな風に言い合いながら廊下へ向かう男子達を後目に、ひとまず教室の机を全部後ろへ。バケツで水を汲んできたのは例の海風スピーチアさんだ。
「言われた通りにいたしましたが、これ大丈夫なんですの? 廊下の蛇口だと浄水器とかはついていないみたいでしたけれど」
「マイクロプラスチックの雪って〇・五ミリくらいでしょ。花粉より大きいから、普通のガーゼやマスクを当てておくだけで何とかなるんだ」
「意外や意外、庶民的ですわね……」
「それより良かったの、あっちの方。掃除なんか用があるなら任せてくれて構わなかったのに」
「転入初日に自分の都合を優先して仕事を押し付ける子になれと? 灰色の生活が待っていそうですわね」
 アークエネミー・スキュラ。
 話が出てくるのはギリシャ神話辺りだったかな。船を襲う怪物みたいだけど、詳しいエピソードまでは追い切れない。
『美しい少女と複数の獣の頭を足したアークエネミーですね。頭の数については諸説ありますが通常は六、魔女キルケが成り立ちに関わる説では三つの犬とあります。つまり詳細不明』
「ソースは?」
『みんなでわいわい集まる悪魔討伐アクションの攻略サイトです。獲りに出かけようぜ!』
 犬の頭。それじゃどうして海に強いのか釈然としないけど、まあ伝説なんてそんなものか。魔女のホウキだって元から飛行に適したデザインをしている訳じゃない。海風さんが犬かき得意だったら可愛いけど。
 ただ、
「(……参ったな。それだと何がどうすごいアークエネミーか分かんないぞ。泳ぎがすごいのか、噛み付く力なのか、人魚みたいに歌声で海に誘い出すのか)」
『伝説では船の上にいたオデュッセウスの部下六人が軽々と食われています。犠牲者は民間人ではなくいわゆる勇者様御一行ですね』
「マジかよ……パーティ全体に即死魔法でもぶつけてくるのか」
『本気出すとかなり獰猛になるとは推測できますが……確かに、「どう」食べたのかは言及ありませんね。犬の頭を使って魚を釣るように、とありますが詳細不明。最悪、ろくろ首のように伸びる可能性もあります』
「どうしました?」
 バケツに向かってしゃがんだままぎゅーっと雑巾を絞っている金髪少女がそんな風に聞いてきた。身を屈めて両手も塞がっているので、短いスカートの裾がイロイロ危うい人だ。
「いやその、えと……」
「変な天津君。早く掃除を終わらせましょう」
 そう。
 初手でいきなりハダカを見ているせいか、今さら当たり前に笑ったり不思議がったりする女の子との距離の測り方が難しいんだよな、この人。しかも本人は見られた事に気づいていない。ドアを開けたら着替え中なアユミや姉さんとは順番が違う。緊張するのだ。
「天津君、この後用事はございますか」
「どうして?」
「何しろこちらに来たばかりですので、学校だけでなく街の事も聞いておきたいなって。お買い物とか、とりあえずどこを頼ったら良いのか知りたいのです」
「……この雪の中で?」
「あら。いつまでも続くものでもないでしょう?」
 金髪で敬語、スキュラの特性。
 これだけ並べると後輩の井東さんが変な対抗心を出すのも分かるんだけど、やっぱり雰囲気は違う。
 井東さんが青くて硬い実なら、海風さんは腐りかけの甘さを感じさせる人だ。口振りこそ丁寧だけど、精神的には上に立ちたい人なんだとも思う。
「こんな感じでよろしいですか?」
「うん、風を起こさないように、そっとね」
 ちなみにホウキでゴミを掃いてから雑巾がけだろ、という分かりきったツッコミは受け付けない。マイクロプラスチックの場合は細か過ぎて簡単に舞い上がるので、乾いた床と格闘するよりとっとと濡れた雑巾に絡めて拭い去った方が効率的なのだ。
 通り一遍拭き掃除が終わると、僕達は机を元の位置に並べ直す。海風さんはカバンの中から新しいマスクを取り出すと、
「それじゃあ行きましょう天津君。街の案内よろしく」
「はいはい」
 スピーチアちゃんばいばーい、という声が廊下に響いていた。この調子だと名前を覚えてもらうのに苦労する事はなさそうだ。
 その時、スマホが小さく振動した。
 画面にはSNSのふきだしでこうある。
『警告。気づいていますか、ユーザー様』
「……?」
『アークエネミー・スキュラはエリカ嬢とアユミ嬢がVR空間上の供饗市で派手に姉妹ゲンカをした時にも確認されています。街の地下、旧「光十字」の研究施設で。到着までの経緯は不明ですが、この街に初めて来たというのは誤りです。彼女は以前にも供饗市へ足を運んでいるはずです』
 それは。
 つまり。
『害意のあるなしはさておいて、嘘をついているのはほぼ確定です。この先、何かあると考えてください』
 ……やっぱり、印象の通りだ。
 海風さんには腐りかけの果実のような甘さがある。口振りは丁寧でも、精神的には上に立ちたい人なんだって。

  4

「買い物するなら大体ここかな」
「駅前かあ。荷物を抱えてここから街には入りましたけれど……」
「ここで見つからないものはネット通販だね。地方なんて駅から離れたらすぐ寂れるから」
「はあ、ワイルド@ハントとかですの? 正直、あまり使わないんですよね。映画とか音楽は見放題のサービスが別にありますし」
 はて、海風さん。リアルもそうだがネットまわりはどうなってんだろ。あの調子だと今日一日でかなりSNS関係の登録は増えたようだけど。
 放課後、初見のラグジュアリー系金髪美少女転入生と一緒に街をぶらぶら。……あれ、冷静に考えるとスーパー難易度高いステージに挑んでないか僕?
 制服なのでスキュラの金髪少女と仲良くペアルック、同じマスクまで揃えて散策を続ける。
「この辺り、港もなかったかしら。陸も海もなんて豪華な話ですわね」
「湾岸観光区駅前繁華街。休みの日にはよその街からも人が集まってくるけど、結局、地方都市だからさ。開発されている所は限られているんだ。地図アプリで見れば分かるよ、このエリアを出ると何にもなくなっちゃう。畑にも駐車場にもなっていない、おざなりなソーラーパネルばっかり」
「……あの手の地図って、目的もなく眺めるにしては広すぎて途方に暮れません? お店までの最短経路くらいでしか使いませんわよ」
 そんなものかもしれない。
 お店のレビューや星の評価も膨大で、どれを信じて良いのか分からない。小さな画面に表示した地図だけで不安が消えるのなら、案内なんて頼まないだろうし。
「とりあえずこの辺りを見て回って、それでも見つからないものがあるなら慣れてなくてもネット通販を覗いてみた方が良いかな。電車で隣街とかに行ってもあんまり品揃えは変わらないし」
「はあ。詳しくは知りませんが、何でも揃うのであれば最初からそちらに頼ってしまえばよろしいのでは?」
「……普段ならね」
 今はもう供饗市は封鎖されてしまった。外からトラックがやってくるのは望み薄だ。……それに生活必需品ってあんまりネット通販に頼りたくないんだよな、プライバシーの塊だから。例えばティッシュの減りが不自然に早いご家庭トップ10とか、企業のサーバーに蒐集されたいか? まあ、これと同じ事はモンスター級のポイントカードとかにも言えるけど。金銭的には便利でも、それ以上に価値ある情報を抜かれているなんて話はザラにある。
「あら?」
 わあわあ、という騒ぎの声が聞こえてきた。割と大きなディスカウントストアの方みたいだ。遠巻きに覗き込んでみれば、出入り口の辺りで老若男女の客達が店員と揉めている。
「そうは仰られてもトラックの配送が遅れておりまして、商品はどれも品薄の状態が続いているんです……」
「うそつけっ、絶対に隠している! 店の裏まで見せろよ裏まで!!」
「浄水器だ、浄水器! わしらはちゃんと分かっておるんじゃぞ。こんな時に電器屋を当たってもラチが明かん。見る者はこういうショップを当たるんじゃ!!」
「ウチには子供がいるのよ! あなたみたいなちゃらんぽらんな若者と違って!!」
 ……揃いも揃ってとんでもない言い草だ。お客様ってだけで神様パワーが溢れ過ぎている。いや、何も買わずに騒いでいるならもうお客様ですらないのかもしれない。
「何でしょうね、あれ?」
「浄水器とか言ってるね」
 馬鹿なヤツ。
 マイクロプラスチックにも色々あるけど、今回の雪は花粉よりも大きい。つまり、花粉マスクを輪ゴムで蛇口に留めておくだけで効果はあるんだ。それでも心配なら、砂と砂利と活性炭でも使ってろ過装置を自作すれば良い。下手に高性能『過ぎる』市販の浄水器なんか頼っても、すぐフィルターがヘタるだけなのに。
「ほんとに商品がないなら何で店を開いているんだ!?」
「売るものがないのに給料だけ出るのか! おかしいじゃないか!!」
「子供の前で嘘つくの? ねえっ、この子の目を見て言ってみなさいよお!!」
 チェーン店だとこういう時もマニュアル通りだから大変そうだ。朝の一〇時に出勤で夜の八時に退社っていうサイクルを変えられない。個人経営のパン屋さんとか喫茶店なんかは『独自の判断』を発揮して、とっくの昔に店を閉めて厳重にシャッターを下ろしているだろうに。
「……ほんとに浄水器があるって思っているんでしょうか」
 時折手を虚空にさまよわせ、でも割って入る事もできずに海風さんは呟いた。
「何か、もう、やり場のない怒りをぶつけられれば理由はどうでも良くなっているような……」
「でも確かに、売るものがないから立っているだけで時給が出るっていうのは羨ましいな。あんな事さえなければパートの義母さんがブチ切れそうな話だ」
「……、」
 その時だった。
 ふと僕の右の袖をきゅっと小さく握り込まれた。見れば、海風さんが不安そうな目をお店の方へ向けている。
 彼女自身、自分の手の動きに気づいていないようだった。
 アークエネミー・スキュラ。
 語り継がれる伝説が正しければ、神話に出てくるような勇者様をパーティ単位で薙ぎ払うほどの力を持っているらしいけど……。
「……何だか恐ろしい話ですね。あの人達も普段から粗暴という訳ではないでしょうに」
 ぽつりとそんな事を呟いていた。
 正直、自分の意見をごり押しするために小さな子供を矢面に突き出すような輩の素の顔なんて推して知るべしとは思うけど……確かに、アークエネミーで少数派な海風さん達が怖がるのも無理はないかもしれない。差別や偏見は何気ない日々ではナリを潜める。五人しか乗れない救命ボートに一〇人の生存者。こういう非常時こそ、悪魔が顔を出す時なのだ。
 エリカ姉さんや妹のアユミ、後輩の井東さん。他にも供饗市にはマーメイドとかダークエルフなんかもいたか。とにかく彼女達の動向もケアした方が良いかもしれない。アリとキリギリスの話は通じない。少数のアークエネミー達が計画的に水や食料を節約していたとして、さっさと食い尽くして勝手に飢えた大多数の人間達がどう思うかは分からないんだ。
 ヤツらはアークエネミーだから。
 そんな、理由にもなっていない理由で逆恨みされたら堪ったものじゃない。そして多数決の大多数を占めている側には許されてしまうんだ、どうしようもない横暴であっても。
「『人』をナメるのも大概にしろよ、コラ!!」
「同じ『人』なんだ、腹を割って話し合っても良いじゃないか」
「あなたには『人』の心がないっていうの!?」
 突き刺すような言葉を散々吐いておいてこれだ。人間の側に立っている僕だって、流れ弾を浴びているような気分にさせられた。

  5

 夜である。
「よいしょ。ま、こんなものかな」
『律儀にやりますね』
 リビングの床に古い新聞紙を広げた上で作業していたのは、やや型落ちした犬型のペットロボットだった。どうやらマイクロプラスチックの雪が中まで入り込んでいたおかげで、接触がおかしくなっていたらしい。外装を開けてエアダスターを吹き付けただけでご覧の通り、元気になった。
「こんなオモチャと思うかもしれないけど、心のケアも大事だぞ」
『そうではなく、無償で修理を引き受けたユーザー様に呆れているのです。非効率ではないですか』
「良いんだよ。僕としては、機械をいじくっていると心が和むしな」
 これでエルフの酒井イオリも泣かずに済む訳だ。同じ街に住んでるアークエネミーとはいえ相手は小学生だし、助け合えるなら何とかしてやりたい。
「ふぐう。お父さんもお母さんも帰ってこないね……」
 リビングで窓の方を見ながらアユミがそんな風に言っていた。
 今日も両親は戻ってこない。SNSのメッセージで事前に教えてもらってはいたけど、いざその時を迎えてみると味わう感覚が違った。自宅にいるのに、緊急事態。明らかにいつものレールから外れてしまっている。
 義母さんの代わりに台所を支配しているのは金髪縦ロールのエリカ姉さん(ガチの吸血鬼)だった。出席日数に余裕があるからか、姉さんはトラブルが収まるまで当面は夜間学校に行く気がないらしい。単位が取れればそれでよしなエプロン美人は僕達とは学校に対する考え方が違う。
「じゃんじゃかじゃーん。本日のメニューはこちらになります。カレーラーイス!!」
「……良いの姉さん? こんな大盤振る舞いで」
「カレーは日持ちしますし、アレンジ次第でバリエーションも確保できますから。お台所の話はデキるお姉ちゃんに任せておけばノープロブレムですっ」
 そういう事なら。カロリーゲートがあればひとまず生きてはいけるんだけど、刺激が欲しくなるのも事実だし。
 ちなみに我が家ではリビングとダイニング、どっちでも普通にご飯を食べる。今日はリビングの方だ。
「いただきます」
「うわっ、お姉ちゃんのカレー甘え!?」
 スプーンで一さじ口に含んだだけでアユミは目をまん丸にしていた。ちなみにエリカ姉さん的には特に失敗ではないらしい。時折ちびちび水を口に含んでいるから、これでも普通に辛いと感じているのだろう。
 何となく点けているだけのテレビの向こうは呑気なものだった。誰にも叱られる事のない、代わりに何の刺激もない雑学クイズが猛暑で延びきったプラスチックみたいに流れている。
『待ってください、待って……。フェイクニュースは出とるんです。そっちじゃない。ぽ、ポスト? 何だったかなぁー似たようなヤツ!』
『まさかのダブルアップを無駄死にか!? 流石は世界一早世田卒を持て余す男、結局この高学歴は何が残ってんだよ!?』
『コンビニのレジ打ちくらいできますよ! あっ、違うこないな小さな笑いで時間使っとる場合やない……ポスト何だっけぇ!?』
 どっ! わっはっは、というスタッフ感丸出しの笑いが挟まる。
 逆だろう、と思う。テレビの向こうで事件が起きていて、安全なリビングからそれを観る。僕達の知る毎日っていうのはそういうものじゃなかったのか。
 と、その時だった。テーブルの上にあるスマホが小さく振動して、ちょっと横に滑った。
『警告』
「サトリくん、お食事中ですよ」
 やんわりと先手を打たれてしまった。
 テレビは良いけどケータイスマホはダメってマナーは理にかなってないと思うんだけどな。とはいえ、ご飯を一〇〇%作ってもらった身としては無下にもできない。とんとんっ、と画面を持ち上げず人差し指で叩いてなだめるようにしてやると、マクスウェルは意を汲んだのかリアクションを返してきた。
 緊急災害警報の馬鹿デカいサイレンで。
「まくすっ、バカお前!!」
『警告っつってんだろこのふきだし出た瞬間にテーブルの下へ潜るくらいの緊張感を持ってください』
「それは今すぐじゃないとダメなのか? 具体的には姉さんの機嫌がみるみる悪くなるのよりひどい事が起きているとでも!? ほらあれ見てご覧超能力でもないのにスプーンが曲がっていくじゃん!」
『大至急』
 仕方がないので食事はいったん中断してダイニングの方へ。
 冷蔵庫に背中を預けてスマホの画面に目をやる。
「何があった?」
『ネット関係を巡回していたところ、ここ一時間で不自然な動きが急速に拡大しました。いわゆるフェイクニュースです』
「そんな事で……? 災害下なんだ、有象無象の馬鹿どもがはしゃぐのなんか珍しくないだろ! 今は誰でも写真や音声を加工できる時代なんだぞ」
『ノー。専門家のようなのです』
 マクスウェルがおかしな事をふきだしに表示してきた。
『SNSや掲示板を中心に投稿が広がっておりますが、まずダークウェブ系のサーバーを介しており発信源の特定を困難にしております。また、順を追って何段階かに分かれる投稿はいずれも心理学を応用し、最短で頭に血が上るよう計算されているとしか思えません』
「……、」
『こちらの参考文献は「堕とす心理学」と「誰にも言えないカウンセリング」の電子版。一昔前に流行った、コールドリーディング系のビジネス書の中に似たような手法が掲載されております』
 ……何で暇な夜にそんな電子書籍へ手を出したのかは聞かないでおいてね。本題はそっちじゃない。
「危険度は?」
『極めて大。少なくとも該当書籍の作者よりは技術を使いこなしております。単に知識を頭に詰め込むのではなく、プログラミングを用いてフローチャート化していなければ実行不能な速度と精度です。振り込め詐欺と同じく、人の心を追い詰めるマニュアルを独自に構築してから事に及んでいる。計画的です』
 さて。
 フェイクニュースと言っても色々ある。動物園から猛獣が逃げただの、災害の前に虫の大群が変な行動を取っただの。どこかの誰かは具体的にどんな情報をばら撒いているんだ。
「書き込みのあったサイトのURLを並べてくれ。自分の速度で調べる」
『シュア。こちらでまとめを作ってしまっても構わないのですが』
 立て続けに英数字だけのふきだしがずらりと並ぶ。自動的にリンク扱いとなった行を指でタップして問題のSNSや掲示板を巡回してみると……。
「……なるほど」
『大型の家電量販店やディスカウントストアが浄水器を隠している、という流言は以前からありましたが、かなり過激な流れに変化しています。具体的な店舗名や警備員の人数などにも言及がありますよ。襲えと言わんばかりです』
 法律について、間違った事も書いてある。大規模なデモや暴動では犯人を全員捕まえると留置場がいっぱいになるので警察は困る。だから何が起きても逮捕はない、だとか。……そんな訳あるか。万引きや痴漢なんかも勘違いされがちだけど、罪は捕まった時じゃなくて起こした時に発生する。その日逃げ切れば無罪放免なんて理屈は通らない。防犯カメラや指紋なんかで証拠が固まれば、後日でも普通に捕まるよ。
「マクスウェル、アカウントを偽装した上で投稿。活性炭を使ったろ過装置の作り方が載ったサイトへのリンクを貼り付けろ」
『三秒で瞬殺されましたね。フェイクニュース投稿者本人の速度とも思えません。すでに一定以上の群衆の視野が狭まり、望む答え以外は受け付けない状態に陥っているのでは?』
「……だとするとまずいぞ」
『だから警告っつってんだろこんにゃろう。襲撃の呼びかけがあるのは家電量販店ヒュージカメラ・湾岸観光区駅前繁華街店。単純に店舗が襲われるのも問題ですが、暴動から火災が発生した場合リスクが急上昇します』
「今は消防が動けない、か」
『加えて言えば、微細な粒子と粒子の隙間に空気を溜め込むマイクロプラスチックは、合成繊維の毛糸と同じく条件が整えば激しく燃え上がります。「雪」と呼称される同物質は街のどこにでも広がっています。推定延焼速度は最大で時速八〇キロ超。シミュレーションの結果、風向き次第では繁華街から始まった火災がこちらの住宅街まで呑み込む可能性もゼロとは呼べない状況です』
 そんな馬鹿な、と思うのは湿度の高い土地で暮らす日本人の感性だ。アメリカやオーストラリアなら、ドーム球場何十個分もの面積が一度に消失する森林火災も珍しくない。いいや、同じ日本だって木造建築が密集していた江戸の街はたびたび大火に見舞われていたらしい。火事なんてのは、消える理由がなければどこまでも広がるものなのだ。
「マクスウェル。店舗周辺の防犯カメラの映像は拾えるか?」
『非推奨のコマンドです。見ても足がすくむだけですよ』
 ……どれだけ集まってんだよ、それ。どこぞのハロウィンみたいになってるのか?
「でもそんな状態なら、今の僕達に何ができる? こっちは機動隊の放水車を乗り回している訳じゃないんだぞ。暴徒をダウンさせたって留置場にぶち込める訳でもない」
『今回のアクションが人為的だった場合、油を撒くだけでは足りないのです。イグニッション、誰かが火種を投げる必要があります。ネット越しの扇動だけで確実な暴動に結びつくかは未知数です』
「……犯人が現場入りしている? 予定通りにイグニッションを実行するか、不発に終わった時のアドリブも込みで」
『十中八九。そもそも事前の扇動でも、街の中にいなければ撮影不能な写真がいくつかありました。実行犯は同じ街にいるのです』
 イグニッション。
 モチベーションだのクリエイティビティだのみたいにカタカナにすると分かりにくいけど、こう考えれば良い。警官隊とギャングが銃を突きつけ合ってピリピリしている中、全く無関係な第三者が不意打ちで風船を一つ割ったらどうなるか。
 着火点。
 暴発は、外からコントロールできる。
 基本的には『元から緊張している集団を驚かす』やり方だろう。火、電気、カメラのフラッシュ、スピーカーからの爆音。よーいドンの合図は色々あるけど、集まってる連中がほんとに浄水器を欲しがってるなら、大なり小なり健康関係で不安を感じているはずだ。
 だとすると、
「マクスウェル、今すぐ特定する必要はない。通りの防犯カメラでハロウィン集団全体をサーチしてくれ、ターゲットは催涙スプレーまたは異臭源になる物質を持っている人間。そいつがイグニッションだ」
『シュア。そんなものですか?』
「だよ。火種だろ、馬鹿でも分かるくらい低いハードルの方が好ましいはずだ。合わない鍵を挿しても意味はないしね、人混みで闇雲にバットを振り回せば暴動になる訳じゃない」
 何百人? 何千人? とにかく暴徒達を全部相手取る必要はない。中に一人または数人紛れ込んでいる、極少数のイグニッションを排除すればこの暴動は不発に終わる。
 こんな消防も動けない中で、山火事みたいな炎に街を呑ませる訳にはいかない。僕だっておっかないけど、警察を呼べる状況じゃないなら放ってもおけない。
 ここは僕が生まれた街なんだ。
「姉さん! カレーは絶対食べるから残しておいて。勝手に捨てたら許さないからな!」
「やだっ。本来お説教するのはこっちのはずなんですけど、そんな大事に扱われたら怒るに怒れないじゃないですか!?」
「ふぐ? コンビニなんか棚はガラガラでしょ。お兄ちゃん一体どこへ?」
 何やらパニクっているエリカ姉さんよりバカのアユミが野性の勘を発揮しかけたので、ボロを出す前にさっさとマスクを掴んで家を出る事にする。
 が、
「サトリ君? 一体何してるの」
 うっ……!?
 玄関を出て三歩で呼び止められた。見れば、真面目でお堅いデコメガネ委員長がスコップ片手に家の前の道を片付けていた。もちろん季節外れの雪と格闘していたんだ。
 バレたら終わりだ。
 こんな所で捕まる訳にはいかないし、カヨワイ委員長を暴動寸前の繁華街まで連れ回すなんて言語道断だ。何が何でも誤魔化してやり過ごすッ!!
「うふふ僕が趣味のブログをやってるのは知ってるだろう委員長せっかく季節外れの雪なんだ写真撮りまくって話題の中心に立つんだい巨大ITに牛耳られたSNSにはできない僕だけのベースを固めるんだー!!」
「……、」
 ヤバいスコップで殴られそう!?
 とっとと嘘がバレて戦々恐々とする僕をよそに、委員長は僕のスマホの方に声を投げた。
「ねえマクスウェル」
『ノー。システムは登録されたユーザー様以外のコマンドは受け付けておりません』
「サトリ君のためになる事をしなさい。素直にゲロるか、サトリ君がスコップで頭叩かれて家まで連れ戻されるのを黙って見るか」
『シュア、ゲスト様。駅前の繁華街で沸騰寸前の暴徒達を止められなかった場合、ヘクタール単位の大火災に繋がるリスクが非常に大です。信憑性についてはいくらでも列挙できますが、それより災害環境シミュレータであるシステムを信じていただきたい』
 あっ、馬鹿!?
 慌てて画面を隠そうとしたけど遅かった。
「サトリ君」
「ダメだぞ委員長。今は困った事が起きても警察がやってくるとは限らないんだ、絶対にあんなトコには連れていけな……」
「エリカさーん! それからアユミちゃーん!!」
「外から呼びかけないでッ! 分かった、分かったから!!」
 つくづく幼馴染みってヤツは、僕のアキレス腱をことごとく掌握しているもんだ……!
「(……マクスウェル、どうにかして委員長を撒く方法はっ?)」
『ノー。仮に撒いても委員長は危険な外を一人でうろつくだけです。繁華街という目的地も提示したので、迷ったら委員長はひとまず単身で駅前に向かってしまうでしょう』
 全部お前がゲロったんだけどな!!
 頭を掻き毟るが、拡散してしまった情報は回収できないのだ。委員長については『知った人間』として扱うしかない。
 考えを切り替えろ。
「……分かったよ。ただし指示には従ってもらうぞ。これから行くのはほんとに危険な場所なんだ。一歩間違えたら大変な事になるし、やり直しなんかできないからな」
「良いけど、丸腰にスマホ一つでそんな所に出かける訳?」
「……、」
 今さらのように黙る僕に、デコメガネ委員長は掴んでいたものを軽く誇示した。
 つまり、雪かき用のスコップを。
「これくらいの用意はあった方が良いんじゃない?」

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第〇章

【crawler search】マイクロプラスチック【you need word!】

 厳密な定義はないが、極めて小さな合成樹脂の事。人為的に製造されるのではなくポイ捨てされたビニール袋、プラスチック容器、ストローなどが風化や摩擦など様々な原因で細かく砕けた結果生み出されるものとされる。近年、経口摂取によって動物の体内に蓄積される事が分かり話題を集めたが、今回供饗市の置かれた環境により危険度が一つ跳ね上がった形となる。
 なお、マイクロプラスチックという言葉が普及する前は、大都市や軍事施設に対する『安全な制圧』を企図した大規模非殺傷兵器として一部の国や軍需企業で研究開発が進められていた。これは製造が容易でミサイルや爆撃機などを使って大量散布すれば広範囲にわたってきめ細かい合成樹脂が電子部品の奥まで入り込み、配電盤、変圧器、発電機など電気・通信系統を焼き付きまたはショートによって確実にダウンさせる事ができるため。大気圏外で核爆発を起こすといった電磁パルス攻撃よりはるかに安価で扱いやすい大規模電子攻撃の急先鋒と期待されていたが、環境に対する影響が叫ばれる中で『安全で非殺傷』の建前を失ってしまい、頓挫した。
 代替兵器の候補としては砂鉄や木片チップなどが挙げられるが、砂鉄は保管を誤ると酸化し、木片チップは微生物の分解にさらされる。どちらもトン単位の大量保管時において条件次第では急激に発熱または発火の恐れがあるので注意が必要。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第〇章

 窓の外では、季節外れの雪が降っていた。

『続いては気象情報です。ここのところ暖かくなったり冷たくなったり気温の差が激しいですが、この人が風邪を引くようになったら世の中はおしまいですね。気象予報士の田中アリスさーん』
 晩ご飯も終えてのまったりタイムであった。リビングのテレビからは賑やかな声が響いている。時刻は夜の一〇時前。基本的には昼のニュースを繰り返し流している時間帯で、目新しさは一ミリもない。特にネット漬けになっている身としては焼き増し感がすごかった。
「あのさあアユミ」
「あによお兄ちゃん」
 バリボリという派手な音が、テレビとは別にあった。僕の膝からだ。
 そう。黒髪ツインテール(先っぽをくるくる丸めたバターロール仕様)のかわゆい妹が、何だか人様の太股に頭を乗っけてソファでくつろいでやがった。ご飯食べた後だっていうのにのり塩味のポテチの袋を抱えてだ。
「……普通、これ、この……逆じゃない? ポジション的に。おいこらゾンビ、せっかくの膝枕だぞ」
「うるさいな、ウチは男女平等なの」
「平等って言うならお前もフトモモ貸しなさいよ! ありえないでしょ一時間も居座るとか。そろそろ理想の域を超えて現実的に痺れて参りましたよ、足が!!」
「つかお姉ちゃんお風呂長すぎない? ふぐう、いつまで待たせる気なんだよ!!」
 そりゃ年中ジョギングウェアでそこらへん走り回っている汗だくゾンビの妹と違って何をやっても色っぽい吸血鬼のエリカ姉さんはお風呂好きだろうさ。夜間学校がない日は大体ここぞとばかりに満喫するんだから諦めるしかない。
「お前さんは女の子なんだから、不満があるなら今からでも姉さんとご一緒すれば良いじゃないか……」
「お兄ちゃんはドリーム見過ぎ。お風呂に乱入なんかやらかしたら女同士でも普通に引っ叩かれるよ。……なに、まさかこの歳で同じ試着室に入ってお互いに着せ替えっこするなんて考えてないよね?」
「やれよォォォ残念妹! せっかくの美人姉でしょ!?」
「ふぐう!? ばかっ、ドリーム光線が眩し過ぎ!!」
 と、勢いで身を起こしてしまったアユミは、頭を再び下ろすかちょっと迷ったらしい。同じソファの上、結構ギリな至近で子供みたいに唇を尖らせて、
「お兄ちゃん、ほんとに足キツい?」
「休憩が必要なくらいには」
「……ふぐ。なら交代」
 目を丸くした、と思う。
 なんかソファの上で座り直した妹サマが、揃えた太股をぽんぽんと掌で叩いている。
 えと、お風呂前って事はアユミったらいつものジョギングウェアですよ? つまり太股の付け根辺りまでがっつり迫った攻撃的な短パンなんですよ奥さん!
「男女平等って言ったじゃん。あたしだけ楽するのもアレだし、ほら」
「……今日は雪でも降るのかな?」
「外を見てみろ何の皮肉かなお兄ちゃん! あたしだって恥ずかしいんだからさっさと寝転がるっ、早く!!」
 アユミはこう、追い詰められると頑なになってさらに損失を広げる悪癖がある。おかげでこっちは髪の毛丸ごと掴まれてぎゅうぎゅう頭を押し付けられております。どこに? 女子中学生のお股から数センチの所にだ!!
 仰向けなので妹の上半身を下から見上げる不思議なビジュアルが待っていた。
 ……しかし起伏がないなあ、我が妹よ。キサマのジョギングウェアだと上はへそ出しのタンクトップなものだから肌と服の隙間から下着が見えそうでお兄ちゃんおっかないけども!!
 その時であった。
 アユミの手がよそに伸びて、何かを掴んだ。そして口元へ。
 変な音が続いた。
 バリボリと。
「ちょ、あの、アユミ。アユミさん?」
「うあー……人間、行き着く所まで極めると一周回ってキホンに立ち返るものだよね。やっぱのり塩以上の味って存在しないわ」
「かかってる。メチャクチャ顔に降り注いでんだよそのノリとかシオとか細かいヤツがっ!! おいゾンビ説明してくれ。何なんだこれ、こんな残念な膝枕生まれて初めてだわ!!」
「……まるで他にも経験がおありのようですな違いの分かるソムリエお兄ちゃん?」
 げふん。
 ……いやほら、ウチはグラマラスな姉さんとかあちこち持て余している義母さんとか、やたらと上から目線で優しさを振り撒く人が多いじゃない? ついでに言うとお隣のデコメガネ委員長も表面上は当たりがキツいけど中身は聖母だよ。
 年がら年中ジョギングしている割に食事の後もポテチを手放せない欲望まみれの妹はテレビに目を向けながら、
「しかしいつまで続くのかね、この雪は?」
「さあ? 沖で燃えてる貨物船次第だろ」
 ちなみに。
 おかしな返事をしたつもりはない。僕はきちんとアユミの問いかけに答えている。
 テレビもこう言っていた。
『明日の天気も本日と同じく、どこも一面快晴ですね。清々しい。ただ、気温はぐんと冷え込むので体調管理にはお気をつけください』
「雪の話しないね」
「そりゃ天気予報の範疇なんか超えてるからな」
 窓の外には季節外れの雪。
 ただし妹の格好はへそ出しのジョギングウェアだ。元々真冬でもガッツを見せる半ズボン少女でもあるけれど、今日はそんな寒々しい訳でもない。
 一〇時になると、天気予報からニュースに切り替わった。ヘッドラインはこうだ。
『三日前から続く沖合いの救助活動ですが、自然鎮火を待つ以外に目処は立たないようです。パナマ船籍の貨物船ノーブルインゴット号が積載していたのはポリエチレン系製品の原料物質が数種類。細かい霧のような形で炎の熱に舞い上げられた同物質が、空気に冷やされて固化してから再度降り注いでいる格好ですね』
『これもまた分類的にはマイクロプラスチックとなりますな。今回のケースですと〇・五ミリ以下となりますが、とにかく微細な合成樹脂は自然分解する事なく降下後も残り続ける。周辺環境への影響が懸念されます』
『一方、季節外れの雪はSNS映えするようで、一部ネットでは観光がはかどるのではないかという見方もあるそうです』
『ダメですよ。マイクロプラスチックの雪は高圧電線や変圧器にも絡むのです。溶けてショートを促した結果、すでに列車は止まっているでしょう。一般電源や信号機などもいつ停電が起きて不調になるかは予測がつかんのです。無理して車を走らせても、これで幹線道路が閉鎖されたらどうするんですか。嘆かわしい』
『周辺にお住まいの皆様は、どうか軽率な行動は控えてください。これは非常事態です。目的もなく現地入りしてから交通網が封鎖された場合、泊まる所を探すのも苦労させられる恐れがあります』
 ……という訳だ。
 アユミは人様の顔のすぐ上で、手元にあるポテチの袋を覗き込んで、
「ほんとにどうなるんだろ」
「さあな」
「……これ最後の一袋だよ。お父さんもお母さんも列車の混乱に巻き込まれたのか帰ってこなくなっちゃったし、ふぐう、やっぱりまずい事になってるよねえ絶対」
 状況のカテゴリとしては、火山灰による都市機能の低下や麻痺が近いらしい。
 ただし噴火活動と違って切迫した命の危機がある訳でもなし、貨物船の火災だけなら災害に指定されたかもしれないけど、ネックになってるのは沖の炎そのものじゃない。あるのはただ、毒にも薬にもならない『溶けない雪』が音もなく降り積もるだけ。住民の意識が全体的にだらっと間延びしていて、政府の手で避難所を作ったりしないのもそのためだ。このテレビだって、災害義援金のお知らせなんかは特に挟まない。
「あたし達どうなるのかなあ」
「さあな」
 先が見えない割にはのんびりムードだけど。
 マクスウェルの話だと、何でもマイクロプラスチックは『新し過ぎる』んだって。
 法律の世界では、災害っていうのはまず災害対策基本法に定義がこうある。書類上登録されているいくつかの自然または人的な被害、もしくは関連する政令に記述のある被害、って。自然に発生したものだから災害なんて話でもない。ダムが壊れたり煙草の吸殻で山火事が起きたって災害だ。あらかじめリスト化された危機に合致するものであれば、天災か人災かはお構いなしに法律は働く。
 レスキューが出動したり自衛隊だか自衛軍だかを派遣したりっていうのは、全部これが考え方の基本になる。大人はみんな指差し確認で間違いがないように動く。
 つまり、逆に言うとだ。
 理不尽でもこうなる。
「……法律に書かれてない内容は『災害と呼べない』から国の支援も始められないってさ。これが普通の砂とか灰とかだったら今すぐ迷彩服のマッチョ達が災害派遣でやってくるらしいけど」
「ふぐう」
「自分の街でできる事レベルなら自由に動けるかもだけど、正直、市役所一つにできる事なんかたかが知れてるだろ。外から支援がないんじゃ、デカい倉庫の鍵を開けてカップ麺を配るくらいしかできないんじゃないか?」
 でもって、マイクロプラスチック関係を新しい災害に登録してもらうだけでどれくらいかかるかは全くの未知数。議会の中継は流れてる時間が全然違ってて、目で追うだけで苦しい。
「じゃあケーサツとかは? 外に頼らなくたって、供饗市の中にだってレスキューだっているんじゃないの? 何しろ減災都市っしょ」
「原則として、彼らは助けを求められたら無視できないんだって」
「だから求めてるじゃん今!」
「……それで街中の人間が一斉に一一〇なり一一九なりしたらどうなるんだ? あっちの道で雪かき、こっちの屋根で雪下ろし。ウチには赤ちゃんが寝たきりの老人がいるんだぞ。これじゃ計画的な避難準備なんかできっこない。場当たり的に苦情を聞いてるだけで一日が終わっちゃうよ」
 こいつもまた、地震や洪水みたいなきちんとしたマニュアルがあれば違っていて、かなり早い段階で避難所が作られたかもしれないんだけど。
 逃げ遅れたらすぐさま即死って訳じゃないから、全体的に時間の流れがふんわりしてるんだよな。
 今は真面目な警官は数々の雑用で朝から晩まで押し潰されていて、真面目じゃない警官はおそらくそろそろ聞こえないふりをし始めてる。下手に制服のままパトカーや自転車なんかでパトロールに出かけたら最後、おそらく次から次へと頼み事が押し寄せてきて動けなくなるんじゃないか。
 何というか、だ。
 隙間に落ちてる。
 まるで人の心を引っ掻かないよう、社会の仕組みを意識した上で綿密にデザインされているような……。
「マクスウェルはなんて言ってるの?」
「……、」
「検索結果をまとめるだけじゃないでしょ。いっつもバーチャルでイインチョの水着ダンスばっかりさせてるけど、本業は災害環境シミュレータなんだもん。ふぐう、雪について何か言ってないの?」
 そりゃ、まあ。
 ここで言葉が詰まった事については、どうかご容赦いただきたい。災害現場で怖いのは、元々漠然とした不安や不満がうっすら蔓延している中に不確定な情報を投げ込む事だ。それで場が一気に沸騰してしまうケースも珍しくない。
 僕だって、どう扱って良いのかは分からないんだ。

『シュア。つまり八五・五%以上の高確率で人為的な攻撃です』

 話せるか、こんな事?
 下手に伝えてもパニックにしか繋がらないと、そういう風には思わないか。

『想定される標的は旧アブソリュートノアを率いていた天津ユリナ夫人か、あるいは名指しでJBなる未知の勢力から付け狙われているユーザー様本人という線が濃厚です。全体の規模は不明ですが、彼らの手によるゲームが始まったかと』

 JBについては、分かってる事は少ない。
 義母さん、天津ユリナが主導していたアブソリュートノアは、世界の滅亡カラミティを乗り越えるための巨大な方舟を造ろうっていう秘密組織だった。そのアブソリュートノア壊滅のきっかけとなったアークエネミー・エキドナの件辺りからチラチラと存在を匂わせてきた何かだ。
 明確に自分の事をJBと名乗ったのは、電波塔から始まって宇宙まで行った『前の事件』の黒幕。線の細い青年だった。
 だけどそいつ自身が警視庁の中で殺害されているから、おそらくは一人じゃない。
 組織。
 ガラクタを寄せ集めた巨大なサーバーシステムや軍用規格のシミュレータ・フライシュッツを保有するようだけど、目的も正体も不明。人間の組織なのかアークエネミーの組織なのかもはっきりしてない。
 分かってるのは。
 どうやらJBは今の世界に不満を持っている事。そしてどういう訳か、七つの大罪の義母さんでも吸血鬼の姉さんでもゾンビの妹でもなく、直で人間の僕を狙ってきている事だ。人質に取るとかじゃなくて。
「……、」
 義母さん。実はアークエネミー・リリスとかいう神話レベルの大物でもある天津ユリナは街の外に締め出されている。そこでのんびりしているという事は、裏を返せば『どこかの誰か』の攻撃の対象外で捨て置かれている、と見るべきだ。
 つまり、狙いは僕。
 地方一円を丸々飲み込むような事態を作っておいて、たかだか高校生一人を追い詰めるための小ネタだというのだから恐れ入る。
 そして笑ってもいられない。JBは前にもそんな事をしている。東京全体を水没させて、巨大な宇宙船を用意して、カミサマに手を加えて、それら全部は僕にちょっかいを出すためだったらしい。
『あの』JBは、警視庁の留置場で同じ顔をした『別のJB』に射殺されたって話だった。双子のような存在なのか、プリンタで作った立体マスクなのかは分からないけど……。
 とはいえ。
 今回の『攻撃』についてはあくまでもマクスウェルの予測。
 物証のないシミュレーションなんだから、何の説得力もない。
 僕自身さえ、未だに信じられない部分もあるんだ。マクスウェルは僕か義母さんの二択に絞ったようだけど、これだけの大都市だ。仮にこれが不幸な事故ではなく明確な悪意を持った攻撃だったとしても、もっと他に多くのターゲット候補がいても良いんじゃないかって。
 ……そういう風に心が逃げているっていうのも承知しているんだけど。

『分かりやすい爆発や閃光がないので実感を得にくいかもしれませんが、状況を放置すれば七日以内に供饗市全体の都市機能は完全に停止します。すでに一〇万七〇七二回演算を繰り返しておりますので、これについては間違いありません』

 元々この街は地形や気候的に災害が多い場所だった。そいつを逆手に取って対策研究やセキュリティ企業の誘致を進め、減災都市なんて通り名で呼ばれるようになったくらいだ。
 それが、こうもあっさり。
 まるで免疫の全くない未知の病にでも触れたような有り様だった。
 これが本当に僕一人を狙った人災かどうかは分からない。だけど僕を疎ましく思う人間がいるのは事実なんだ。
 ……前はそれで国内最大の電波塔をへし折られ、暴風雨で水没した街を自衛隊に追われながら進み、宇宙へ飛ばされる事態にまで発展した。
 一週間で都市機能は崩壊する。
 今日でその三日目が終わる。
 このまま状況の悪化を放置して、警察も消防も機能しなくなったら? どさくさに紛れて命を狙ってくる、くらいはあってもおかしくないんじゃないか。

『ユーザー様、ご決断を。すでにゲームが始まっている以上、出遅れれば被害が拡大するだけです』

 僕はハッカーじゃない。
 知り合いのアナスタシアはそういう風に担ごうとしているようだけど、こっちはあくまでもマクスウェルを組むために学んだ技術に過ぎない。
 使うのか。
 明確に敵がいるかどうかも分からない『予測』の段階から、先にミサイルを撃っておけくらいの感覚で、危ないものだと分かっている手持ちの技術を。
 それは。
 天候を自在に操り、神々の属性を切り替えて手駒とし、シミュレータの力を借りて悪事を行う『連中』と……もはや何も変わらないのでは……。
「なんか今日は忙しいね」
 のんびりとソファに腰掛けて膝を貸すアユミが呟いていた。
 妹の言う通り、ニュースキャスターは横から渡された原稿に急遽目を通している。
『たった今入った情報です。交通統合センターより、供饗市を中心に周辺一帯の高速道路や幹線道路に対する交通封鎖が発表されました。これは沖合いの貨物船事故から派生したマイクロプラスチック、通称「雪」の影響で……』
 列車に続いて、道路まで。
「陸路は全滅か」
「ふぐ。ねえこれトラックも? コンビニとかどうするんだろう」
 海上は燃え続ける貨物船とそれを取り囲む多数の消防船舶が封鎖してしまっているし、飛行機だってもっと早い段階から止まっている。どこにでも入り込んで熱を浴びれば簡単に溶けてしまうマイクロプラスチックは、エンジンの天敵らしいのだ。
 つまり。

 これで街は閉じた。
 どうやら逃げ場はなさそうだった。

 

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