吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第四章

   第四章

 考えている時間なんかなかった。
 枯草色にミステリーサークル、カエルみたいな質感のデロデロの宇宙人がどうとか怖がっている余裕さえ。
 頭の中は恐怖で満ち満ちていた。真上を見上げても、この暗闇と大嵐じゃ電波塔のてっぺんなんかもう見えない。
「……くそ、どっちだ? どの方向に倒れるっ!?」
 無闇に外に出るより、建物の中にいる方が安全です。
 理屈は分かる。多分それが正解で、非の打ち所なんかないんだろう。
 だけど、そいつは想定の範囲内での理屈だ。
 全長六五〇メートル。あんなガラスと鉄骨の大質量が巨人の棍棒でも振り下ろすように倒れかかってきたら、受け止められる建物なんかあるか? ダメだ、ネジや体に突き刺さる世界だぞ。そこらのビルに逃げ込んでも、鉄筋コンクリートの塊ごと叩き潰されるのがオチだ!!
 屋内だろうが屋外だろうが関係ない。一ヶ所でじっとしていたら死ぬ。全滅する。そうなるともう、僕達にできる選択は非常に限られてくる。
「にげろ……アユミ、姉さんも! とにかくっ逃げるしかない!!」
 そのまんま倒れても六五〇メートル。空中分解して細かい破片の雨が暴風に乗ればさらに広範囲まで。単純な一直線で、スカイツールを中心とした円から抜け出そうとダッシュしても、多分間に合わない。
 考えるべきは、
「風に逆らうんだ!」
 ジャージの上着をばたばた膨らませながらアユミは目を剥いていた。
「ふぐっ、その嵐にひっくり返されそうになってるお兄ちゃんが何言ってんの!? それじゃ距離を稼げない!!」
「大量の破片も風に乗るのを忘れたのかアユミ! 見た目の距離を稼いでも意味はない。それより風上に向かって走れば、直線距離は短くても破片が頭の上へ降ってくる可能性は低下する。そうだろマクスウェル!」
『シュア、ただし現実の地形は真っ平らではないため東西南北真っ直ぐ突っ走るのは難しい事、頭上のビル風は複雑に絡み合っているため一口に風上と言っても把握が困難な事なども問題点として挙げられますが』
 画面の文字を読んでる間に強い力で右と左の肩をそれぞれぐっと掴まれた。言うまでもなく妹のアユミとエリカ姉さんだ。向かい風の方向に突っ走る、これは自分の口で言った。となると、
「うわああ!? 崖っ縁じゃねえか!!」
「スカイツールの基部は五階分ほどモールになってるから東西南北どこだってそうだよお兄ちゃん」
 いやでもっ……、
「そんな訳で生き残りましょうサトリ君。ゴーですゴーゴー☆」
「待って待ってよ五階建てって学校の校舎より高いじゃんかよお!!」
 いくらジタバタしても両サイドからアークエネミーの腕力で固められたらどうにもならないのだ。
 いきなり重力の感覚が頭からすっぽ抜けた。
 手すりを飛び越えた……のは分かる。
 だけど、その、何だ?
 真下も真っ暗闇でっ、高さが分からない!? ほんの一〇センチなのか何十メートルもあるのか、見えないからっ身構える事もできない!!
「ららっばぶあ!?」
 ほんとはもっと尾を引くような絶叫が続くつもりだったけど、意外とすぐに着地できた。改めて、スマホのライトを足元に向けてきちんと地面があるのを確認する。とにかく安心したいっ、順番が逆なのは分かってるけど、こぶっ、こうでもしないと心臓が壊れそうだっ。
 ち、地上までは五階分くらいの高さがあるようだけど、そりゃそうだ、途中にも家とかビルとかニョキニョキ生えているはず。どうやらその屋根の上に乗っかったようだった。
 バクバク鳴ってる心臓を落ち着けてる暇もない。チュンッ!! と、空気を焼くような音と共に前髪が数本散った。すぐ足元で、分厚い木の板を叩き割るような凶悪極まりない音も。理解が遅れる。気づく。天高くから降ってきたボルトか何かだ!!
 思わず真上を見上げようとして、強い力で手を引っ張られた。
 破けた袖から伸びた手で。
「行きますよ!」
「ちょ待っ姉さん!?」
 どうしていつでも優雅なエリカ姉さんの口振りに焦りがあるのか。夜目が利く吸血鬼が何を見ていたか、もっと頭を働かせるべきだったんだ。
 この土砂降りの大嵐の中、わざわざ暴風に逆らうように姉さんやアユミが屋根から飛んだ直後だった。

 爆撃があった。

 凄まじい轟音と共に、ついさっきまで立っていた建物の屋根が沈む。消える。いいや、真上から降ってきた列車のレールよりも太い鉄骨が何本も直撃して、建物ごと押し潰されたっ!?
 驚愕に心臓が縮むけど、こっちもすでに空中に躍り出ている。今さら進めてしまったコマは戻せない。
 ガンッ! ゴンッ!! と。
 立て続けの衝突音と共にあちこちでビルや家屋の倒壊が連鎖していくようだった。この場合、濃密な闇で何も見えないのは、かえって救いだったのか。今いる高さや周りの被害を目の当たりにしていたら、絶対に腰が抜けていた。
「くそっ、風に逆らって逃げてもこんなに落ちてくるのか!?」
 ぎぎぎギギぎぎぎぎギギギギギ、と。
 今まさに崩れ落ちようとしているスカイツールから、断末魔の叫びが放たれていた。ガラスだろうが鉄骨だろうが、落下物はすべからく暴風の影響を受ける。一番数が少ないであろう向かい風方向でもこんななら、あっちの追い風側はどれだけ地獄が広がっているっていうんだ!?
『警告』
 そんな風に考えていた時だった。
 人がせっかく存在しない誰かに自分以上の不幸を押し付けて罪悪感なく心の安定を保とうとしていたのに、スマホの画面からなんかきた。
『上空で暴風の流れに変化あり。上下でS字のねじれが発生しているようです』
「はっ?」
『平たく言えば、東京スカイツール上部はこちらに向けて折れてくる可能性が増大しました。超警告』
「じょぶっ、ば、待ァァァっ!?」
 もうアユミや姉さんに持ち上げられてそこらを飛んでもどうにもならなかった。何かしらの背の低いビルの屋上に着地したはずの感触が、いきなり沈む。消える。バラ、バラ、バラ、バラ、と。真上から次々降り注ぐ鉄骨だの何だのが平面な足場をまとめてぶち抜き、割って、砕いて、僕達全員をそのまんまアリジゴクみたいに屋内へ引きずり込んだんだ。いやに柔らかい音が混じってるのは、例のブーメランなデロデロか?
 アリジゴク、飛び出た鉄筋や鋭く尖ったコンクリの断面に血肉を引き千切られなかっただけでもマシだったかもしれない。
「ぐっ」
姉さんが呻いたけど、ケガした訳じゃなさそうだ。吸血鬼は家主の許可がないと家屋に入れないんだっけ。崩れて廃墟となりつつあるけどある程度効力が残っていたのか。
 だけど、落ちてそこで終わりじゃない。
 こうしている今も高所からは次々と鋼やガラスは降ってくる。コンクリの屋根の下に逃げ込んでも関係ない。僕達と落下物の座標がぴったり重なったら最後、建物ごと串刺しにされる。
移動だ、動き続けないと死ぬ。
「ひい、ひい、ひい」
 もうさっきからまともな言葉になってない。スマホのライトを闇雲に振り回すと、アパートやマンションってよりも何かしらの雑居ビルの通路みたいだ。元々消防法は大丈夫だったのか、あっちこっちに段ボールやビールケースが山積みされた狭い直線が、爆撃でも受けたようにコンクリの瓦礫の雪崩で埋もれかけ、土砂降りのせいで小さな滝みたいに大量の雨水を流入させている。
 正しい判断とか気にしている暇もなかった。
 ゾンビのアユミに手を引かれ、ほとんど壊れかけた屋内を走る。白い短パンが張りついた小さなお尻が大変な事になっているけど、注意している余裕もない。感覚的には頑丈な建物の中へ逃げ込んでいる様子は皆無だった。なんていうか、そう、今まさに落盤していく洞窟って感じ。ゴン! ドン!! とすぐ近くで重たい音が炸裂するたびに、天井も壁も容易く崩れてこちらへ迫り来る。当然、生き物みたいに蠢く瓦礫の山に手首足首を噛み付かれたらそこでおしまいだ。
「どうすんだっこんなの!?」
「窓まで走って! 飛びます!!」
 姉さんは発破をかけたつもりだったようだけど、こっちは逆にそれで足がすくみかける。飛ぶ? ここ何階? 背の低い雑居ビルって言っても一応は屋上の真下、つまり最上階だぞ!?
 が、いきなりすぐ真後ろの天井を突き破ってやたらと太い鉄骨が退路を奪った。さらにたたらを踏む。踏み切りの直前になってますますバランスが崩れる。ダメだもう進むも戻るもできないっ。
「わああっ!!」
 せいいっぱいがんばったよ。
 でも何故だろう、視界は真下に落ちていくんだ。
 やっぱりだめっだ飛ぶ前にさっきの鉄骨で床割れやがったァ!?
 姉さんはこっちの変化に気づいたようだけどすでに窓から良い感じに飛んじゃった後だ。どうにかこうにかアユミがリカバリーに来てくれる。てか踏み止まって僕と一緒に落ちただけだ!!
「どぶっ、ば、アユミ……」
「頭の上からドバドバ滝みたいに雨水入って来てるから口開くと溺れるよお兄ちゃん。ほらこっち」
 参ったな、今ここ何階だ。
 前後左右は瓦礫で塞がり、上下はぶち抜いて大穴だらけ。これが真っ暗闇で継続中だ。もはやちょっとした迷路みたいだし、何よりこんな調子じゃ建物自体が潰れかねない。
「水の流れひどすぎて上には上がれないみたい。面倒だけど下まで下りて地べたを進むしかなさそうだね」
「そんなにか? ゾンビの腕力でも?」
「リアルの滝登りがどれだけ大変かマクスウェルに計算させてみたら? 普通の坂道だって無理だろうね」
 そもそも無理に上へ上がってどうするんだって話もある。わざわざ高所に行ってから命懸けのジャンプに挑戦するくらいなら、素直に近場にある地べたを目指した方が安全に手早く移動できるんじゃないのか。
 こうしている今だって、目に見えないだけで大量のネジ釘ガラスに鉄骨得体の知れない枯草色のデロデロまで降り注いできている。いつまでも一ヶ所に留まっていたら直撃そして建物倒壊に巻き込まれるリスクは膨らむ一方だ。どっちみち、力業で屋根をぶち抜かれた時点で僕達の方針は決まっている。常に流動的に動き回って直撃を避けるしかない。
「分かったアユミ、とにかく地面を目指そう」
「ほんとに分かってるう? 下も下でアブない事は変わらないんだけど」
「?」
 不思議に思ったけど、今は濡れて白いタンクトップを胸元に張りつけた義理の妹相手になぞなぞやってる場合じゃない。とにかくアユミに手を引っ張られる格好で暗く潰れかけた通路を走り、あちこちスマホのライトで照らしながら階段は床の抜けた大穴を探していく。もはや当然といった感じで階上からは激しい打撃音が響いていた。言うまでもなく種々様々な落下物だ。
 都合三階ほど降りると、ようやっと一階に到着。……したかと思ったら、いきなりどぷんと生温かい水の感触が腰の下まできた。不意打ち一発。なんかお漏らししたみたいな居心地の悪い感じが下半身を支配する。
「なんだっ水没してんのか!?」
「そりゃこれだけざあざあ降ったらね。お兄ちゃん、外に出たら泥水の中にある地雷に気をつけて。ネジに釘にガラスはもちろん、濁流の勢いによってはまんま鉄骨がぶつかってくるよ。ほら大河ドラマとかの、大勢で一本の丸太抱えて城門ぶち破るみたいにさ」
「じっ冗談じゃない、注意したって見えないだろそんなの! 僕は透視能力が使える訳じゃない!!」
「今から潰れた屋上まで上がる時間があると思う? 絶対手は離さないでね、行くよ!」
 腰の下まで水没している以上、ドアなんて押しても引いても開かない。ゾンビのアユミが蹴って割ると、一気に押し寄せる水の勢いが増してきた。
 マジかよもう、ほんとの濁流じゃんか!? これもう傍から見れば川で溺れて流されているのと大して変わらなくない!? なんかこう、あれだな。バカのアユミのやる事はキホンどっか抜けてて力業になるな!!
「うぐぐ、なんか横に滑る……」
「お兄ちゃん楽して泳ごうとしちゃダメ! いったん両足が浮いたら二度とまっすぐ立てなくなるよ!!」
 そんな風に言い合っていると、あちこち毛糸の網目みたいに絡み合った濁流の上流側から、何か大きな黒い革の塊みたいなのが流れてきた。
 大の字で浮かんでいるエリカ姉さんだった。
「うわあー!!」
「ああ、吸血鬼は流れのある水がダメだったんだっけ?」
 呑気に言ってる場合かっ! 慌てて姉さんの細い手首を掴んで手元に引き寄せる。水に浮いている分には軽い人だ。
 でも、待った、あれ?
「まずいんじゃないか、そいつは。東京スカイツールって隅田川のすぐ近くだったろ。今じゃ増水してもうどこに走ってんだかさっぱり見えないけど、一方向ズバッと通行止めの壁みたいな扱いになるのか!?」
『ノー。東京スカイツールは隅田川とその支流の根元、つまりYの字の根っこに位置します。川や海など流れのある水がアウトだと一方向除いて全滅ですね』
「ち、ちなみにその一方向とやらは……」
『スカイツール挟んで完璧に正反対です。しかもそちらにはもっと大きな荒川が待っていますね』
 割とっ本気で詰んだ!?
 しかし濁流に身をさらすゾンビで色々透け透けなアユミは場違いに可愛らしく小首を傾げて、
「でもお姉ちゃん、来る時はあたし達と一緒にバスだったよね。普通に橋渡っていたはずなんだけど」
「……?」
『世界一有名なトランシルバニアの伯爵の場合、船で川を下る間はひたすら自前の棺桶の中に閉じこもって眠り続けていましたね』
 言われてみれば、バスの中でも姉さんスイッチが切れたように眠りこけている場面が何回かあったかな。姉さんに合わせて始発前に到着する夜行バスを選んだせいかとも思ったけど、本来吸血鬼は昼夜が逆転しているはずだ。あれは川に架かる橋の対策だったのか。
 姉さんにとって遠出は怖いものだったのかもしれない。ゴスロリドレスに革のズボン。ライダースーツみたいな耐衝撃重装備は、普段着回しているのとはちょっと違うし。
 つまり、
「目を回してる今がチャンスだよ。お兄ちゃん、このままお姉ちゃん引っ張って川を渡っちゃおう」
「バカの力業が止まらなくなってきたぞ……」
 スマホのライト以外はほとんど真っ暗闇。腰下まで泥水で何が流れているか分かんないし、マンホールの蓋が持ち上がっていたりすぐ近くを側溝が通っているかもしれない。問題の川だって一体どこにあるのやら。冷たい水への恐怖が止まらない。
 だっていうのにいきなりちょっとその辺くらいの場所で爆発が巻き起こった。オレンジ色の炎の華が咲き乱れ、ストーブに近づき過ぎた時みたいに肌にチクチクと熱さが刺さる。
「うぶぅあ!? なっ、何だあ!」
「プロパンガスか何かのボンベが流れてきてるっ。立ち止まっていても良い事はなさそうだよお兄ちゃん!」
 水に備えていたのにまさかの火属性。どこかのご家庭の裏から一本二本が外れたって訳じゃなさそうだ。例のボンベはマンションなんかである程度まとまった数を束ねていたのか、あるいは運搬用のトラックでもあったのか。立て続けの爆発が巻き起こり、危険域がじわりとにじり寄ってくる。
「やばいっ、ヤバいヤバいヤバい!!」
 別にこれまであった危険性がなくなった訳じゃない。こうしている今も頭の上から無数のガラスだの鉄骨だのは降り注いでくるし、腰下まで迫る濁流の中は危険物だらけだし、そもそも電波塔にびっちり張り付いてた枯草色だのミステリーサークルだののデロデロは一体何なんだ。だけど人間ってのはテキトーにできているものらしい。
 危機感が上書きされた。
 一発で全部吹っ飛んだ。
 とにかく水辺で立て続けに起こる爆発の花に巻き込まれたら終わりだ。水に浮かぶ姉さんの細い肩を掴んだまま、僕とアユミは濁流に逆らわずボンベの軍団から遠ざかるように動き出す。エレベーターでは姉さんの体重に相当苦戦したけど、全身の力が抜けて水の上に浮いている今なら片手でケアできる。
「おくないだっ。どこでも良い、やっぱりとにかく建物の中に入らないと!」
「頭の上の鉄骨はどうすんのお兄ちゃん?」
 ごぽりと行く先で何か大きな泡が弾けた。マンホールの蓋でも押し上げられたかと思って警戒したけどそうじゃない。
 目が合った。
 ……目? 何の???
 一体。一体どこのご家庭から逃げ出したんだあいつ!?
「ヤバいアユミっワニだ白いワニっぽいのがいる!」
「なぁにい?」
「何で噛み付きモンスターの対抗意識出してんだっ、とにかくどこか建物だ!」
「だからいちいち屋上伝いの段取り踏んでる暇ないってば、一ヶ所に留まってたら鉄骨に雨にやられちゃうよ! しかも今はぐったりお姉ちゃん抱えて移動する事になるんだよ!?」
「狙いは屋上じゃない!!」
 元から壊れていた民家の窓辺に飛びつくけど、中に入るつもりはない。どうせ海底洞窟みたいに暗くて水浸しだろう。水の流れはさらに複雑で、包丁とかノコギリとか危ない家庭用品が泥水の中を動いていたら最悪だ。
 欲しいのは、
「乗れアユミ! この雨戸をイカダ代わりにしよう!!」
「ふぐっ?」
「浮力が足りない場合はバケツでもポリタンクでもくくりつけて後から盛る。今は素のままで三人乗っても沈まないかどうか確かめたい!」
 何だこりゃ、アルミ、それともステンレスか? ともあれサーフボードみたいに泥水の上に外れた雨戸を浮かべるだけでも大変だ。流されてしまわないよう両手で押さえつつ、まずはアユミが姉さんの体を乗せて、続いて僕と妹も乗り上げていく。
「ういっ……た?」
 ほとんど四つん這いのアユミはおっかなびっくりだ。
 よし。アユミの動きに合わせてこっちも対角線を意識していたから、いきなりひっくり返るような事もないな。もうちょい安定したら白いショートパンツからぴっちり形の浮き出たお尻について怒ってやろう。
「流れに乗るだけなら泳ぐより早いし、濁流の中に沈んだ鉄筋だのガラスだのも怖くない。アユミほらっ」
 僕は辺りを流れていたアルミの物干し竿に手を伸ばし、妹に手渡す。
「舵はないから地面を棒で押して方向を決めるしかない。いいか、あくまで方向転換だ、全体の流れには逆らえないぞ」
「ゾンビの筋力でも?」
「お前が持ってるの、水に浮かんでいたんだぞ。物干し竿は薄いパイプだ、無理に力をかけても折れちゃうよ」
 こうしている今も勝手にイカダは進んでいるからモタモタできないんだけど、後は、そうだな。
「少しでもヤバいと思ったらすぐイカダを捨てて飛び込むぞ。どこにスカイツールの鉄骨が降り注ぐか分からないんだ。便利だからって躊躇ったらおしまいだ」
「わっ」
 アユミが何やら物干し竿と格闘していた。反対側の端に噛みついてるのは……何だっ、南国っぽい色した、魚? 名前も分からん、少なくともピラニアよりはデカそうだけどっ!?
「これでも飛び込む気ある? お兄ちゃん」
「……狂ってんのか東京のペットマニア。い、いざとなったら天秤を意識しよう。頭の上に隕石みたいな鉄骨が降ってくるのとどっちがマシか」
 もうなんていうか、痛みもなく一瞬であの世行きか細々と貪り食われる自分の体を眺めるかの話にもなってきた。単純にダメージの大きさだけでも測れないような。いいやダメだ弱気になるな、嫌な死に方ランキングなんて並べても不毛過ぎる。生き残る前提で考えないと。
 そんな風に尻込みしていた時だった。
 スマホのふきだしで一言きた。
『警告』
 良い予感なんぞする訳がなかった。

 ぎぎぎギギギギぎぎギぎぎぎぎぎぎぎギギギぎぎギギぎぎぎギギギぎギギぎぎぎギギギギギぎぎぎギギぎぎぎギぎぎぎぎギギギギ。

 聞き慣れた音だった。しかも今度はっ、大きい!! 東京スカイツールの悲鳴に思わず僕とアユミが真上を見上げると、そこでおかしな現象とでくわした。
 ふっ、と。
 束の間、バケツをひっくり返したような暴風雨が止まったように見えたんだ。
「ふぐっ!? スカイツールが覆い被さってくる!!」
 実際には横殴りの雨だから、全部が全部を『屋根』が防いでいた訳じゃあないんだろうけど。それにしたって。こんなスケール、もはや海を割って山を造る神様辺りの所業だぞ!!
 くる。
 パラパラと鉄骨が、じゃない。今度の今度こそ、全長六五〇メートルの塊、東京スカイツールそのものが倒れ込んでくる!?
イカダに残るか。
 飛び込むか。
「アユミっ壁際へ寄せろォ!!」
 この時、正解なんかどこにもなかったのかもしれない。
 とにかく妹が物干し竿を使って流れるイカダを雑居ビルのコンクリート壁に擦り付ける勢いで近づけた途端、真上で爆音が炸裂した。
 鉄塔が……塊のまま、ビルの屋上にぶち当たった!?
 あれだけの重さ、そして高さ。
 鉄筋コンクリートなんてスポンジ同然だった。それでもわずかな時間は稼げる。雑居ビルは自ら沈み込むようにして超重量の塊を押さえ込む。考えなしにフォークで切り分けようとして上から潰してしまったミルフィーユみたいに様々な残骸が飛び出してくるけど、スカイツールの展望台を丸ごと喰らうよりはマシだ。
 トンネル状の空間をイカダが抜けていく。
 僕としては、無防備に寝かされている姉さんに覆い被さるようにしながら叫ぶしかなかった。
「保たないぞ……。アユミ、ビルが完全に潰れる前に早くここ抜けてくれ!!」
「分かってるけど、ええい、意外とヤワだな! 物干し竿ぐにゃぐにゃするっ!!」
 まるで真夏の車の中にバターの塊でも置いておいたように、鉄筋コンクリートのビルがひしゃげていく。
 抜けるか。
 ……ダメかっ……。
「アユミもう良いっ、姉さん抱えて飛び込
「ふぐう! まだっだよ!!」
 アユミが歪んだ物干し竿じゃなくて、太股の付け根辺りまで露出した縫い痕だらけの細い足を動かし、その靴底で直接ビルの壁を蹴った。
 アークエネミー・ゾンビ。筋力はおよそ人間の一〇倍。
 ぐんっ、とイカダの速度が上がった。
 鉄骨と瓦礫のトンネルを、抜ける。
 ごんっ! と強い衝撃に体を揺さぶられたのはその時だった。電波塔全体じゃなくて、表面のガワがある程度砕けたらしい。
「ふぐっ!?」
「ああくそ、あっちもこっちも……」
 大きな塊はやり過ごしたけど、辺り一面、さっきとは比べ物にならないくらいたくさんの鉄骨が降り注いだようだ。勢い余ってアスファルトに突き立った鉄骨とイカダがぶつかって、身動きが取れなくなっている。
「ここだけ抜けてもダメだな……。もう水の流れに乗るのは諦めた方が良い」
「諦めるって言われてもどうすん……」
 言いかけたアユミの口が止まった。
 今ので東京スカイツールは完全に倒れたみたいだ。つまり落下物問題はほぼ片付いた。これ以上ガラスや鉄骨が雨のように降ってくる事もない。
 そうなると怖いのが濁流の中に隠れている危険なペットや、地雷やマキビシみたいな突起物。なるべく水には落ちない方が良さそうだ。
 そうなると、
「スカイツールが……」
「流石のスケールだな。横たわっているだけで、ほとんど鉄橋みたいだぞ」
 辺りの家屋や雑居ビルを薙ぎ倒すようにして、倒れて斜めに傾いた巨大な鉄骨の塊。でも完全に地べたに沈んでいる訳じゃない。あそこを伝って移動するのが、水辺から遠ざかる一番の手かな。
『例の未確認クリーチャーが張り付いていないと良いのですが』
「そっちがあったか……。結局アレ何だったんだろうな」
 そもそも異常気象って言ったってそこらの暴風雨くらいで国内最大の電波塔が倒れるとは思えない。あのカエルみたいな質感でその辺這い回るブーメラン野郎が電波塔の片面にびっしり張り付いて重量バランスを崩していたからこそ起きた大惨事だ。
「ふぐ、結局どうすんの?」
「姉さん頼めるか、アユミ。何にしても、あれだけの衝撃があったんだ。アレがアークエネミーなのかも分かんないけど、あの連中がいつまでも電波塔にしがみついてるとは思えないよ。絶対振り落とされてる」
 危険な生き物はアレだけじゃないんだ。この濁流にどっぷり浸かって進む方がリスクは大きいだろう。
 ……さて。
 潰れかけているとはいえ、この暴風雨の中を外壁よじ登って倒れた鉄塔まで向かおうとは思わない。やっぱり階段が使えるなら、途中まででも使った方が良い。アユミから物干し竿を受け取って、濁流の底を適当に引っ掻き回す。鋭いガラスや鉄筋は、なさそうだ。危険なペットが噛み付いてくる事も、ない。よし、怖いけど、今しかない!
「行くぞアユミ!」
「ふぐ!」
 思い切って泥水の中へ身を投じる。この大災害の中じゃ、絶対確実なんて言葉はない。何にしたって判断基準は『比較的』で『マシな方』、天秤の左右にはどっちも致死の可能性が乗っかっているのは変わらない。
 即席ボートのすぐ近くで、倒れた鉄塔と直接接触していて、適度に潰れて中の階段が使えそうで、水圧の関係でドアの開閉は絶望的だろうから元から玄関が壊れている家屋が望ましい。条件に合う場所なんて一つでも見つかれば御の字だ。ざぶざぶと腰の辺りで泥水をかき分けて屋内へと入っていく。
「暗いな、また……。スマホのバッテリー大丈夫か?」
『省電力を目指す場合、まず不要なコマンドを控えるべきかと』
 三階構造の一戸建てだった。やっぱり東京は土地が狭いのか。でもって一階部分はすっかり水没してるし天井は弓なりにぐわんと歪んできている。このまま暮らすのは無理そうだ。
 しかしまあ……。
 さっきも雑居ビルに入ったけど、やっぱり人、いないんだな。ガチの生活空間だと違和感がすごい。
「とにかく階段だ、上がれる所まで上がろう。アユミついてこい」
 階段の方もびしょ濡れだった。鉄塔をまともに受け止めて、外から見た限り半分くらい潰れていた。滝のような雨が屋根の大穴から流れ込んできているんだ。
 この家にとっては災難だけど、安全に鉄塔へ上がりたい僕達にとっては貴重な中継ポイントだ。スマホのライトを頼りにべこべこ音が鳴る木の階段を慎重に上る。
 二階に上がると、ひとまず腰まであった濁流からは逃れた。危険なペットの襲撃は……まあゼロじゃないか。水を泳ぐのは肉食魚だけじゃない。毒ヘビやワニだって普通に泳ぐ。
「……逆に言えば、いざとなったら食べ物には困らないって訳か」
「ふぐう、なんかすごい事考えてる? あたしゾンビだけどさ、一番思い切りがあって悪食なのって人間のお兄ちゃんだよね。大体家族みんなで旅行に出かけると真っ先にゲテモノ料理に手を出してるし」
 むしろ肉専門のアユミとか血液製剤や代用血漿を抱え込んでる姉さんとかの方が、食については先細りな気がする。人間は何でも食べる雑食性の生き物なのだ。
 とはいえ、食べ物だけの話じゃないか。
「アユミ、ほらタオル見つけたぞ。とりあえず身体拭いておけよ?」
「何で? すぐまた土砂降りの表に出るのに。どっちみちシャワー状態なんだから泥水とか関係なくない?」
 不思議そうな顔をしたまま、ツインテールの先っぽをくるくる丸めた妹は頭の上にタオルを載っけていた。
 ……天津アユミ、どうやらお兄ちゃんの念は通じなかったようだな。お前ただでさえ薄手のジョギングウェアだから水に濡れるとあっちこっちがタイヘンな事になるんだよっ! 水気を拭え、でもって隠せ!! いつもと違って名札のガードもないんだから!! 何で気絶して無防備に背負われている(黒革を多用して厚手な)姉さんの方がレディっぽさを保っているんだ!?
 そして、だ。
 結論を言えば、この場に留まって救助を待つっていうのは現実的じゃなかった。確かにスカイツールが倒れた今、直接的な脅威は暴風雨や濁流だ。頑丈な建物に入って高い所で身を潜めれば済むようにも見える。
 ただし、まずその頑丈な建物なんて理想の環境を確保できない。この崩れかけた家屋だっていつ潰れてしまうか分からないんだから。
 さらに言えば、だ。
 うちの家族特有の問題も絡んでくる。つまり、アークエネミーとしての。吸血鬼の姉さんは日光に弱いし、ゾンビのアユミは不衛生な場所に長時間置いたら腐敗が始まってしまう。そこらじゅう穴だらけで雨風の入ってくる廃墟の中じゃダメだ。乗り越えられない。
 つまり何にしても、夜が明ける前に『安全な場所』まで逃げ出さなくちゃならないって事。具体的にどこなんだって話だけど、とりあえずスカイツール周辺を脱したい。ここは首都東京だ。誰もいないって事は、どこか別の場所にかなり大掛かりで専門的な避難所が用意されているはずなんだから。何だかもう、蓬莱だのエルドラドだのに思えてきたけど。
 そんな風に考えを巡らせながら、三階まで向かう。
 天井なんかなかった。
 バキバキに折れた木の板が散乱し、階の高さは半分くらいまで押し潰されている。なんていうか、圧迫感で胸が詰まる。安っぽい内壁やフローリングの床に半ばめり込むような格好で、複雑に組んだ鉄骨の群れが横たわっていた。東京スカイツール。あまりに縮尺が違い過ぎて一瞬何が何だか形が分からなくなるほどだった。
 ……感覚としては、三階のベランダから橋を架けている感じ、かな?
 白く塗装された鉄骨は、太さだけならコンクリ製の電信柱くらいか。断面は四角じゃなくてまん丸。ただでさえやりにくい。これが雨で濡れたらどうなる事やら。
 恐る恐る冷たい鉄骨に触れ、メチャクチャになったフロアを歩いて、崩れた外壁の端を目指す。
 下を覗く余裕もなかった。
 塊みたいな暴風に顔を叩かれ、後ろへひっくり返りそうになる。
「うわあ!?」
 こんなにっ、強かったか、風!? 今まで当たり前みたいな顔して外をほっつき歩いていた自分自身が信じられない。ちょっとでも屋内に入って正常な感覚を取り戻したらもうこれだ。
 鉄塔だって下から見上げた時は頑丈な橋みたいだって思ったけど、一本一本の鉄骨自体はさっきも言った通り電信柱くらいの太さしかない。手すりはない、雨で濡れててつるつる滑る、おまけに予測不能で大暴れなこの暴風。ちょっと気を緩めたら一発で真っ逆さまだ。
 ……これが、比較的まともなルートっていうんだから恐れ入る。ここで駄々をこねても、水没した地上の濁流ルートの難易度が変わる訳じゃない。言うまでもなく、無数の鋭い障害物、危険なペット、挙げ句にガスボンベ溢れ返った向こうはもっと悲惨だ。
「ふぐう、どうするのお兄ちゃん?」
「ここを行くしかなさそうだけど……」
 そうか、姉さんをおんぶしているアユミは両手が塞がっている。いくらジャングルジムみたいに複雑に鉄骨が交差する鉄塔だからって、手で何も掴まず足だけで綱渡りしていくのは流石に無理だ。
 となると、とにかくアユミの両手を自由にするのが先決か。ビニールロープで良いかな。ダメならダクトテープを何周も巻いても。ゾンビは人間の一〇倍の筋力があるらしい。一〇人もいれば普通に胴上げができるはず。赤ちゃんのおんぶ器具みたいに姉さんをアユミの背中側で縛り上げて固定したって問題なく動き回れると思う。
「……う……」
 と、そこで妹に支えられていたエリカ姉さんの妖艶な唇が、久しぶりに声を洩らした。
「アユミ、ちゃん? サトリ君も……」
「悪い姉さん、状況は一個も好転してない。相変わらず水没エリアのど真ん中だ。マクスウェル、ベビー用品のサイトをチェック。体重分散させるロープの巻き方を調べて、シミュレーション頼む」
 自分の気を鎮めるためゆっくり何度か深呼吸した金髪縦ロールの姉さんが、やがてのろのろとアユミの小さな背中から降りていった。苦しそうなのは家主の許可を取らずに中へ運び込まれたのもあるかもしれない。
「何とか……大丈夫、戦う訳ではないなら、手をついてゆっくり歩くくらいでしたら……」
「お姉ちゃん、吸血鬼はそういう性質なんだから無茶しちゃダメだよ!」
「大体やるべき事はぼんやり耳にしていたんです。そこから、渡るんでしょう? アユミちゃんにとっても楽な道ではありませんよ」
「ふぐ」
「でも一番危ないのは姉さんだ。仕方ない、電車ごっこに変更しよう」
 実を言うとアユミの背中に縛り付けてしまった方が安全なんだけど、こういう災害現場で仲違いしたら最悪だ。できる限りは相手の意思を尊重したい。
「こいつ、このビニールロープをみんなの腰に巻くんだ。命綱だよ。誰か一人が足を滑らせても、残る二人が踏ん張って引っ張り上げる。分かった?」
 ……これだってタイミングが悪いと一人をきっかけに全員道連れのリスクもあるけども、それは口にしない方が良いか。ゾンビも吸血鬼も筋力はケタ外れだけど体重それ自体は可憐な女の子なんだから、いきなり二人同時に落ちたりしない限りは大丈夫とは思いたいけど……。
 やっぱり絶対確実はない。
 判断基準は、比較的で、マシな方だ。
「姉さん、両手上げて。腰に巻くよ。ちなみに姉さん体重はどれくらい?」
「よ、よんじゅうなな……」
「ふぐう!? 何寝ぼけた事言ってんのあたしより軽くなってんじゃん! お姉ちゃん絶対それ以上あるでしょ。あたし実際にここまで背負ってきたんだよ、あのずっしり感が水吸ったドレスの分だけだなんてとても思えない!」
「ここ大事な場面だからサバ読んでる場合じゃないんだ肉感的姉さん。ああもうマクスウェル、過去のシミュレーションデータで使ったVRプレイヤーデータから推測。食事と運動量はひとまず概算で構わない、あの時点から姉さんどれだけ増えてる!?」
「……ふたりとも、あとでちょっとしんけんにはなしあいましょうか?」
 僕、姉さん、アユミの順に列を作る。やっぱり一番ふらふらしていて危なっかしいのは吸血鬼の弱点の一つ、流れのある水にやられているエリカ姉さんだ。リカバリーのしやすい位置にいてもらいたい。
 正直、吸血鬼がどれくらい弱点に抗えるかは当の姉さんにしか分からない。水関係だと前に不意打ちをお見舞いした時は東欧一三氏族の連中がバタバタ倒れていたけど……結局はブードゥーのボコールが作った幻覚での話だ。どこまでリアルかは担保がない。ああいう事態でもじっくり覚悟を決めて挑みかかれば乗り越えられるのか、やっぱりダメで気を失うのか。姉さんの動向には気を配らないとな。
 スマホのライトを正面に向けても暗闇に吸い込まれるばかりで、倒れた電波塔がどこまで横たわっているかは見えなかった。
「マクスウェル、スマホはポケットに入れとくぞ。こりゃ片手じゃ無理そうだ」
『シュア。ありきたりですが、お気をつけて』
「それじゃ行くぞ……二人とも」
「……了解です……」
「ふぐ」
 改めて、恐る恐る、慎重に。
 顔くらいの高さを走っている別の鉄骨を両手で掴み、じりじりとゴムの靴底を少しずつ前へ滑らせるような格好で、最初の一歩を。とにかく、始めてしまったらもう戻れない。立ち往生もできない。幸い、倒れた鉄塔を渡るって言ってもまんま六五〇メートルノンストップで綱渡りするんじゃないんだ。絶対に倒れた衝撃でいくつかのパーツに分かれているし、僕達は橋げた代わりの家屋なり雑居ビルなりの屋根に到着するたびに、小刻みに休憩を取れる。
 大局に惑わされるな。
 そのスケール感に圧倒されるな。
 少しずつで良い。次のマンホールまで小石を蹴る感覚で、その積み重ねで学校まで向かうように。一つ一つを間違えなければ記録は達成するんだ。これは、決してできない事じゃない。
 まずは、多めに見積もっても二〇メートルくらい。すぐそこの雑居ビルの屋上を目指そう。
 そこへ、透明な塊みたいな暴風が真横からやってきた。
 妹のジャージの上が大きく膨らむ。
「ふぐう!?」
「大丈夫だアユミ、足を止めて耐えろ! 人間の僕の力でできるんだ、一〇倍のアユミが力負けするはずない!」
 手すり代わりに使っている別の鉄骨は、足場と平行に走っている訳じゃない。緩やかだけど、下に向けて傾斜している。スカイツールの特殊な組み方だっけか。この小さな誤差も、のちのち響いてこないと良いけど。
 暴風は方向がバラバラで、強弱もヒステリックに変化する。不安定な足場で鉄骨を掴んで歯を食いしばると、自然と視線は下を向いた。黒々とした濁流。三階、って高さは致死量と考えるべきかもしれない。腰までの高さくらいまでの水じゃあ、きっと衝撃を殺しきれないだろうし。
 しかし、だ。
「……何だ? 水の流れ、おかしくないか」
 上から見て分かった違和感、なのか。
 あるいはスマホのライトがないから確かな情報を得られず、自前の錯覚にやられているのか。
 両手の自由を確保するためポケットに突っ込んでおいたスマホがぶーぶー振動したけど……ダメだな。このままじゃマクスウェルからのメッセージは読めそうにない。
「風、弱まりましたよ、サトリ君」
「よし、一歩ずつだ。まずはあの雑居ビルまで、残り半分……一〇メートル」
 行けるか……?
 行ける。
 これくらいならっ、
「とう、ちゃくっと! よし!!」
「きゃああ!?」
「ねえさっ、ッッッ!!」
 僕が潰れかけた雑居ビルの屋上、そのへりに足を乗せた途端だった。振り返る余裕もない。エリカ姉さんの鋭い悲鳴と共に、いきなり視界がブレる。そんな訳ないんだけど、不意打ちで黒い上着ごと胴体抱え込まれてバックドロップでも決められたかと思った。
 そうかっ、腰のビニールロープ!
 真後ろに体を引っ張られたと気づき、慌てて両手を振り回した。がつっ、という硬い感触と共に、どうにかこうにか倒れた電波塔の鉄骨を掴み直す。
 腹の中身が搾られるように痛むけど、ようやっと僕は後ろを振り返った。
 一段低い場所に姉さんの顔があった。
 当然、そんな段はない。腰に巻いたビニールロープで宙吊りにされているだけだ。
「ねえさん、だいじょうぶっ?」
「はあ、はあ、すみません、サトリ君……」
「アユミも無事か!?」
「お兄ちゃんそれで支えてるつもり? あたしが踏ん張ってなかったら前の二人、仲良く転落してるよ」
 どうやらアユミ一人の力でも足を滑らせた姉さんは引き上げられそうだ。ただそれだとお腹まわりが痛そうなので、片手で鉄骨を掴んだまま姉さんにもう片方の手を伸ばす。重量分散だ。一点にかかる荷重が少なくなれば、食い込みも和らぐはず。
 ゆっくりで良い。時間をかけて、確実にエリカ姉さんを引っ張り上げる。
「す、すみません、本当にすみません、二人とも。サトリ君が屋上に着いたのを見た時に、思わずホッとしてしまいまして……。自分はまだ鉄骨の上だったのに」
「ふぐ。そいつは仕方がないと思う」
「それから何回も謝るなよな。逆の立場なら姉さんだって助けてくれたろ。何もこんなの特別な話じゃない」
 言いながら、ひょっとするとこれは『姉さん』だからかもしれないな、なんて事を思った。この人は助ける事には慣れていても、助けられる事には慣れていないのかもしれない。
 ともあれ、だ。
 最初のチェックポイント、崩れかけた雑居ビルの屋上まで辿り着いた。横倒しの電波塔は、渡れる。自分で実証して、前例を作ったんだ。後はこの繰り返しで……行けるか?
 あちこちびちょびちょで白いタンクトップも短パンも肌に布が張り付いてるアユミは、難しそうな顔で遠くに目をやりながら、
「ふぐ。でもさお兄ちゃん、最終的にどこまで行けばゴールになるの?」
「どこってそりゃ、これだけの人を避難させてる場所があるんだろ。そうでなかったとしても、最低でも地上が水没してないトコくらいは行きたいじゃないか」
「だからそれは、具体的にどこ?」
 うぐ、痛いところを突いてきたな……。何にしても僕達には情報が足りない。ゴールはどこだ? 快適さを求めて人工物だらけになった首都だって坂道や高低差くらいあるはずだ。東京二三区全滅とか関東平野全部水没なんて話にまではなっていないと信じたいけど。
 と、そこで震えどころか耳で聞いて分かるくらいド派手にぶーぶースマホが振動してきた。
「おっとそうだった、マクスウェル」
『この暴風雨の中では火は熾せないでしょうし、服を脱いで肌で暖め合う格好のチャンスですね。びしょ濡れすけすけの美人姉妹ともうちょい密にコミュニケーションを取りたいのでしたら小一時間ほどネットの隅っこで暇を潰してきますが』
「不貞腐れてんのかお前。ほんとにそれくらいしか言う事ないなら今すぐスマホを水の中に投げ込むぞ」
『本題はその濁流についてです』
 画面の中でマクスウェルは次々とふきだしを連投しながら、
『先ほどユーザー様が違和感を覚えました通り、東京スカイツール跡地周辺の水の流れに変化が見られるようですね』
「ふぐ? 何でまた、ゴミの山が通り道を塞いじゃったとか???」
『ノー。むしろ逆です、風通しが良くなったのでしょう。マップデータと照らし合わせると、電波塔を囲むようy字に流れる隅田川とその支流を境にラインでも引いてコントロールするような形で、明らかに全体水位が下がっています。川を境に地上一帯の濁流は呑まれているのです』
 お上品に腰を下ろしていた姉さんが、川という文字を見ただけでくらりと頭を揺らしていた。やっぱり相当無茶をしているんだろう。僕とアユミで細い肩を支えてやりながら、
「でもマクスウェル、そもそもその隅田川? が氾濫してそこらじゅう水浸しになっているんじゃなかったのか?」
『ノー。冠水の原因はマンホールからの逆流や逃げ場を失った豪雨が低地に溜まるなど複合的です。かつ、電波塔倒壊前はこのような水の流れは観測されませんでした』
「だとすると……そうか」
「ふぐ?」
『シュア。多摩川や荒川と同じく、隅田川もその地下には災害対応レベルの大規模な共同溝を備えています。地上で増え過ぎた雨水を地下から逃がす設備ですね。川に沿って等間隔で設けられた水門を開放し、濁流の誘導を始めたのではないかと』
「つまりお風呂の底にある、ゴムの栓を抜いたんだよ。アユミ」
「何それ、今になって? 街がこんなになるまで放置して!? そんなのあるなら最初からやってれば良かったじゃん!」
「できない理由は色々あるんだけど……マクスウェル、やっぱりトリガーはスカイツールが倒れたからか?」
『気象庁や水道局のサーバーまで潜った訳ではないので断言はできませんが、高確率で。東京スカイツールは水没した墨田区一帯における、最後の価値ある砦だったのでしょう』
「つまりどゆことなの?」
「いいかアユミ、お風呂の栓を抜けば簡単に水はなくなる。だけど水面に小さな虫が浮かんでいたらどうなる? 命を持った生き物がだ」
「あ」
「街全体が水没したからこそ、簡単には水門を開けられなかったんだ。もしも濁流の中に生存者がいたら危ないから。その『街が生きている』象徴が、どこから見ても分かる文明の証、スカイツールだったのさ。あれが折れた事で、みんなの心も折れた。生存者ゼロ、そういう事にしてしまえ。ゴーサインの経緯はそんなトコかな」
「そんな乱暴な!」
「だと思う。でも、この状況じゃ生存者の正確な数や位置なんて誰にも分からない。結局、概算で話を進めるしかなかったんだろう」
 ……そうなると、濁流を抜けて倒れたスカイツール経由で危険な水没エリアから離れようとして正解だった訳だ。いつまでも濁流の中を漂っていたら、等間隔に空いたブラックホールに吸い込まれていた。いったん大口が開いたらもう逃げられない。
 つまり、だ。
「こうなるとあそこには戻れないぞ……。足を滑らせても確実にアウトだ」
『ポジティブに捉えるしかありません。地上の全体水位は隅田川を境に激減しています。東京スカイツールを伝って、そのまま川を渡ってください。その先は比較的無事なはずです。上りの傾斜を越えれば水は引いています』
 こっちとしては、ひとまず地上の水没さえ何とかなれば川や海なんかの流れのある水に弱い吸血鬼の姉さんが復活するんだ。夜明けまでに安全な暗がりに避難する、っていう根本的な目的の達成にはならないけど、かなり移動の効率は上がるはず。
「さて、と。それじゃそろそろ再開しようか、二人とも」
「まだ一〇分と経ってないよ、お姉ちゃんだって顔青いまんまじゃん!」
「……良いんですよアユミちゃん。ここはサトリ君が正解です」
 長々と説明しなくても分かってくれるのがエリカ姉さんだ。おかげで開きかけた僕の口から言葉が行き場を失ってしまう。
 この暴風雨だ、あまり長い間休むと雨で体が冷え切って筋肉は強張り、あちこちから叩きつけるような風に翻弄されるとせっかく体で覚えた綱渡りのバランス感覚を手放しかねない。……何より、今は興奮して神経が昂ぶっているくらいでちょうど良い。死の綱渡りなんて尋常じゃないんだ、ゆっくり休んで頭が冷静さを取り戻したら、もう挑戦なんかできないに決まってる。
 潰れかけた雑居ビルから、さらに先へ。
 今度は……次の休憩地点まで、さっきよりも長いな。三〇メートルくらいはありそうだ。途中には家屋やビルもあるんだけど、倒れた鉄塔と重ならない。
「……、」
 真下からごうごうという低い音が響いていた。ちょうど、大きな川に差し掛かる辺り……なのか? 元から水没しているから分かりにくいけど、おそらくでっかい排水口みたいに水の流れが変わっている。
「ここが件の隅田川、で良いのかな?」
「……う……」
「姉さんっ」
 貧血でも起こしたように体をふらつかせたエリカ姉さんの細い肩を慌てて両手で掴んで支えてやる。
「大丈夫、です。ここを渡れば水没エリアから脱出できるんですよね……。『外』にさえ抜け出せれば。早く、参りましょう?」
 極端に血に弱い人と同じか。流れのある水の苦手な吸血鬼の姉さんには、あんまり川を連想させるような言葉を聞かせない方が良さそうだ。
 それに、そうだ。
 マクスウェルや姉さんの言葉が正しければ、現場一帯では水害対策にも使われる共同溝が開放されている。この川さえ渡ってしまえば、地上の水は引き、安全になる公算が高い。流れのある水にやられた吸血鬼の姉さんを回復させてやれる。
 行くぞ。
 行かなきゃダメだ。
 僕が先頭になって、電車ごっこみたいに全員の腰をビニールロープで結んだまま、じりじりと横倒しの鉄骨に足を乗せ、滑らせるようにして暗闇の先に挑む。心配ない、すでに一度渡ったんだ。もう経験は積んでいる。多少距離は長くても根本的な部分で同じ事の繰り返しなら、何もそんなに難しい話じゃな

「う
       わあ
   ッ!?」

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ぁ、うあ? 「大丈夫ですよ、サトリ君。アユミちゃん、ちょっとの間踏ん張っててください。私がサトリ君を釣り上げますので」 「ふぐ、任せておいて」
 ものの三歩も進まない内に体が重力を忘れていた。腰に回したビニールロープが食い込んで痛い。どうやら足を滑らせて落ちたらしい、という当たり前の事に気づくまで、かなり長い時間呆けていた気がする。弱っているはずの姉さんの手で引っ張り上げてもらっている間も、ずーっと頭の後ろの辺りを空白が支配していた。濡れて重くなったはずの上着の感触すら消えている。
 慣れがどうとか、関係ない。
 それより油断、甘え、弛緩の方がはるかに怖い。
 心臓の鼓動が痛い。川に沿って等間隔に並ぶ巨大な排水口が開いた今の水没エリアに落ちたらブラックホールに呑まれてもう終わりなんだ、たった一回のミスで全滅するかもしれないんだ。ようやっと、じわじわと、死の指先が喉元をなぞってくる実感が湧いてくる。
「あ、あ、ああ……」
「大丈夫、大丈夫ですよ、サトリ君。ゆっくりと息を吐いて、死の感触を遠ざけましょう? 何かあっても、お姉ちゃん達が受け止めてあげますからね」
 左手で手すり代わりに別の鉄骨を掴んだまま、袖の破れた右手の方を僕の肩に回して、姉さんがこの不安定な足場でも僕の頭を胸元へ抱き寄せてくれた。
 こんな細い鉄骨の上で一秒足踏みするのは、どれだけ大変な事だろう。今にもパニックを起こして暴れそうな人間とビニールロープで繋がったままなのは、どれほど恐ろしいだろう。
 だけど、エリカ姉さんも妹のアユミも、待ってくれた。
 お互いずぶ濡れだったけど、確かなぬくもりが問答無用でパニック寸前の心に染み入ってくる。散々雪山を遭難して歩き回った末、山小屋を見つけて熱々のホットミルクを振る舞ってもらったように。スマートだ効率だって言葉が幅を利かせる時代だけど、こういう時はじかの触れ合いの方がてきめんらしい。
 現実を思い出す。
 意識が再起動する。
 頭の裏側いっぱいに張り付いていた空白が、姉さんの鼓動やぬくもりでよそへ追いやられるのが良く分かる。
「……大丈夫」
 やがて、そう呟いた。
 姉さんの胸元から、自分から顔を離していく。
「もう大丈夫。この夜を終わらせよう。この鉄骨を渡って、安全な『外』まで逃げ切るんだ……」
 とにかく慎重に、だ。
 慣れたって経験を積んだって、手順は短縮できない。一歩一歩確実に。ミスさえしなければ、いつかゴールに辿り着けるんだ。濡れて滑る鉄骨の感触を靴底で確かめ、別の鉄骨を両手で掴んで、先を見据える。
 三〇メートル。
 途方もない距離じゃない。いつも学校に行く事を考えろ。毎日当たり前に行き来している通学路の方がよっぽど遠いくらいだ。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 ごうごうと足元で黒い水が飲み込まれていく音が鳴り響く中、僕達三人はじりじりと倒れた鉄塔を渡っていく。
 ……いける。
 いけるはずだ。
 手は冷たい。だんだん感覚がなくなっていくようだ。肘まで袖のある黒い上着が邪魔だ。手の指が掴んでいるのは、硬い鉄骨? 雨で濡れているせいか、まるで印象が違う。今は……もうすぐ半分くらいかな。だけどこの節目ってヤツに気をつけろ。さっきも姉さんは橋げた代わりの雑居ビルに到着する寸前で集中が途切れた。僕の場合は、慣れてきた二回目の初っ端でやられた。結論はこうだ。節目はヤバい。過去の失敗が語っている。どうしてもホッとしてしまうこの区切りのタイミングが、一番危ない。
「姉さん、アユミも。注意して」
「ふぐ。分かってるよ、言っておくけどレコード傷ナシなのはあたしだけなんだからね」
「アユミちゃん、その感覚が危ないんですよ」
 一歩一歩。
 不規則に顔へぶつかってくる塊みたいな暴風や、濡れて滑る足場に気をつけて。間違ってはいなかったと思う。少なくとも油断や弛緩はなかったはずだ。半分、中間地点、折り返し。ここで途切れる事なく、集中は保っていられた。
 だから。
 これだけははっきり言える。ここから先で起きた事は、僕達三人の失態じゃない。

 ドカカッ!! と。
 行く手を阻むように、暴力的なまでの人工の光がこちらの視界を潰してくる。

「うっ……!?」
 最初、何が起きたか分からなかった。爆発、とは違うのか。顔を白い壁でたたきつけられたようだ。眩しいというより、もはや左右のこめかみが痛い。状況を忘れて反射的に片手で目を守ろうとした僕の体が、ぐらりと揺れる。喉が干上がるけど、後ろからエリカ姉さんが支えてくれた。
 ……なんっ、だ……!?
「ふぐ……!!」
「ダメだアユミ、下手に動くな!!」
 ギリギリと見えない千枚通しを左右のこめかみにねじ込まれたような痛みの中、顔の前にかざした掌の指と指の間から状況を確かめようとするけど、やっぱり正体は見えない。逆光。明と暗のコントラストがあまりにひどすぎて、暗闇の向こうから強烈な光を投げかけてくるモノの素顔が見えないんだ。
 たかが光。
 阻んでいるのは鉄やコンクリートの壁じゃない。
 でもこっちは倒れた鉄塔を伝い、暴風雨にさらされている真っ最中。ほんの一〇センチ足を踏み外せば濁流に真っ逆さまだ。
 暴れ回る心臓を必死に抑え込もうとする。
 その場でじっと待ち、状況を確かめる。
 ギリギリと、無理矢理こじ開けるようにして視界を確保していく。
 ただ、光源自体は意外と遠いみたいだ。
 しかも複数ある。
 距離にして一〇〇メートルくらいはありそうだ。僕達がひとまず定めた次のゴールより、さらに先。複数の雑居ビルや家屋の屋根の上から、人工物と思しき光がいくつも横一列に並べられているみたいだ。
 そう。
 ここは三〇メートルの鉄塔橋の、ちょうど中間地点。光源は隅田川を挟んだ対岸を守るように並べられている、のか。
「サーチ、ライト……?」
 人工物。
 誰かいる。
 暗闇に突き落とされたような首都東京だったけど、やっぱり誰かいたんだ。……そのはずなのに、このちっとも安心できない感じは何だ? 廃校とか廃病院とか探検している間に、中で名前も知らない誰かと鉢合わせるような、薄気味悪さすら伝わってくる。
 ……ここは、まだ『無人の空間』のままなんだ。真っ暗闇の、コンクリートの樹海。誰か人が歩いている方が不自然に見えてしまうような……。
 常識は、通じるのか?
 通じるよな?
 ビルとビルの間を渡す倒れた鉄塔、その鉄骨部分にしがみついたまま耐え忍ぶ僕達の耳に、拡声器か何かで増幅した声が飛んできた。
 ひび割れた声は男性のもののようだった。
『そこまでだ! そこで止まれ、君達は墨田停止線を越えている!!』
「てい……何だって……?」
 思わず呟いたけど、こっちの言葉なんて届くはずもない。軽く見積もっても光源までは一〇〇メートルくらいありそうだ。公園なんかにある災害用のスピーカーみたいに、何度も音が重なり合って聞き取り辛いくらいだった。
 だけど、流せない。
 これは聞き逃したら死ぬ類の何かだ。
 ビリビリと、背筋の辺りの震えでそれが分かる。今日だけで何度も感じてきたアレだ。
『ゆっくりと、少しずつで良い。後ろへ下がるんだ! 元の、位置へ、戻れ。今ならまだ防衛行動へ入らずに済む!!』
 それでも。
 それでも、だ。
 最初、鼓膜に入ってきた音を声として理解できなかった。同じ心を持つ人のものではないと。だって、戻れ? ここから、こんな中途半端な所から??? 広い道で回れ右するんじゃないんだ、たった一歩、一〇センチ踏み外したら濁流に飲み込まれる不安定な鉄骨の上だぞ。いったん進んだら渡り切るしかないんだ! それが分からないのか!?
 が、そこで同じロープを腰の辺りで結んでいる姉さんが、青い顔しながら耳打ちしてきた。川や海など流れのある水は渡れない。タブーを踏んで僕より苦しんでいるはずなのに。
「……サトリ君、合図と共に下に飛び降りますよ」
「えっ、ああ? だって下って……」
 あの濁流、だろ?
 水の流れだけで十分凶器。さらに割れたガラスや鉄くずが牙を剥いてくるし、肉食魚とかワニとか危険なペットだって息を潜めてる。ガスボンベだって。とてもじゃないけどまともな選択肢とは呼べない。大体偉そうに命令飛ばしてくるけど、あのサーチライトの連中は一体どこの誰なんだ?
 真っ当な意見だったと思う。
 だけどどうやら、今は壊れた意見が多数派をもぎ取っているらしい。
「逆光の向こうにいるの、どうも自衛隊のようですね。これ以上まごまごしていると七・六二ミリのセミオートで蜂の巣にされます」
「……、」
 意味が
 。それにしたって、
 ちょっと待て!?
「ふざけ……!!」
「サトリ君、私が言っている問題はそちらではありません」
 冗談じゃなかった。これ以上まだ何かあるっていうのか。自衛隊? ようはお巡りさんの親戚みたいな連中だろう。そんなのから本物の銃口向けられているとしたら、それよりひどいスキャンダルなんかあるものか!
「わざわざサーチライトを点灯してから、拡声器で事前警告。上の決定はともかくとして、現場はよっぽど良心の呵責があるんでしょうね」
 なのに。
 なのに、だ。
 何でそんな、憐れむような慈しむような声が出てくるんだ……?
「……サトリ君。彼らは光十字やコロシアムの兵隊とは違います。一体、何をそんなに脅えていると思います?」
「……?」
 おびえ、る???
 そういえば、季節外れの爆弾低気圧のせいで電波塔が折れたり大洪水になったりして大変だったけど、もう一個気になる話があったような。
 スカイツール展望台のレストラン、その事務室でアユミが遭遇したのは。いいや、清掃用のゴンドラを使って地上を目指していた間、鉄塔の表面をびっしり覆い尽くしていたのは……。
 マクスウェルは、なんて言っていたか。
「ちきゅう、がい。みかくにん」
 いや。
 でも、だって。
「ちてきせいめいたい?」
 確かにそんな名前を見た。それっぽいのも目撃した。でも、待ってよ。それはそういう、コードネーム的なものなんだろ。警察や消防の無線にエイリアンって呼び名が出てくるだけで、そういう独特の言い回しに過ぎないんだろう?
なのに。
 なのに、なのに、なのに!
 エリカ姉さんは、それ以上語らなかった。ただ目線を振って、何かを指し示した。ゆっくりと、そう非常にゆっくりと、僕も引きずられていく。確かめてしまう。
 折れた鉄塔。
 横倒しで複数の雑居ビルを押し潰すように倒れ臥すそれらは、あたかも不恰好な鉄橋のようにも見えていた。
 出来損ないのジャングルジムにも似た、手や足の置き場所。
 緊張や寒さのせいか指先から伝わる感触のおかしくなったモノ。
 その全てが。
 複数のサーチライトと、束の間、黒々とした分厚い雨雲の切れ目から覗いた月明かりとを浴びて。

 ぐじゅり、と。
 枯草色にミステリーサークルのような模様。ブーメラン型の塊。カエルみたいな質感の何かに埋め尽くされつつあるのが、見え……?

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第四章

【mobile temp】第一号異種防疫手引書の取り扱いにあたって【file 06】

 ただでさえ人口過密の東京で、この水害の中、陸路を使うだけで関係省庁から一般住人までその全ての避難を完了できたかと言われれば相当苦しかっただろう。だが諸君は輸送ヘリやティルトローター機など空路も活用して迅速に渋滞や停滞の詰まりを除き、全員の避難を迅速に完了させた。感嘆に値するが、これだけでは足りない。
 以前、諸君らに貸与した資料は完全なものではない。抜け落ちを今から配布する。
 本資料は全員の一読を確認したら即時回収する。諸君の手元には残さないし、文面の写しや撮影も厳禁だ。一字一句覚え、そして死ぬまで抱えるように。
 今回のマニュアル、第一号異種防疫手引書は防衛省と厚生労働省が制作の主導を担い、光十字に外部監修を依頼した形のものだった。抜け落ち分は、特に光十字の個性が色濃く残った部分と受け取ってもらって構わない。
 諸君も知っての通り、光十字という国際組織はすでに存在しない。しかしマユツバな妖怪退治ではなく、現代戦という形で最も数多くの異種汚染源と秘密裏に実戦を重ねてきた事実は捨て置けるものではない。
 今回の事案の軸にいるものが本当に異種汚染源、通称アークエネミーの範疇に収まるかどうかははっきりしていない。しかし現状に最も想定状況の近いマニュアルは異種汚染源との戦闘・鎮圧行動のために制作された本資料となる。
 我々自衛隊に足りないのは頭数と経験だが、前者については無人機等のテクノロジーによって、そして後者については先人の知恵を吸収する事で底上げする。
 そのための資料だ。
 だから完全に覚え、決して洩らすな。
 目的は隔離領域の封鎖であり、余計な血を流す必要はない。しかし一方この混乱は、ここで食い止めなくては収まりようがなくなる。諸君らの筋骨を育て、支給された弾の一発までもが全て国民の血税に支えられてきた。よって無駄遣いは許されない。

 この国を守れ。
 諸君らの正当性は私が担保する、必要だと思う事については出し惜しみするな。
 以上。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第五章

   第五章

「う」
 勇気ある決断なんて言ってる場合じゃなかった。
 それより嫌悪感の方が強かったと思う。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
 埋め尽くすようなブーメラン状の生き物。カエルみたいな枯草色の肌の上を、ミステリーサークルに似た不気味な模様が蠢く。
 それは、壁一面をびっちりと埋め尽くすゴキブリの群れにも似た衝撃を叩き込んできた。思わず手を離してしまった。
 一人が落ちてしまえば一連托生なのか。
 あるいはアユミや姉さんが合わせてくれたのか。
 落ちるというより浮遊感の方が不気味だった。ぶわりと膨らんだ風の塊に全身を叩かれたと思ったら、視界が回る。一〇メートルほどか。覚悟を決める暇もなくヘドロ臭い泥水にぶつかり、濁流へ呑み込まれていく。
「がふっ、くそ!?」
 上下も分からないまま必死になって手足を振り回す。ぐいっと、腰の辺りで強い抵抗感があった。そうか、エリカ姉さんやアユミと繋いでいた命綱……。落ちてしまった今となっては無用の長物だ。
「ぶは!!」
 何とかして波打つ水面に顔を出す。
 真上は例の折れた鉄塔だ。あいつらは、カエルみたいな肌のぐにょぐにょ達はどうなった。未だにびっしりだったらいつ降り注いでくるか分からないし、そもそも鉄塔だけとは限らない。濁流の中にどれだけ混じっているんだ!? 噛むのか、刺すのか、溶かすのか、半透明の卵でも植え付けてくるのか。一体何をどうしてくるのかさえはっきりしてないけど、でも、だからこそ予防のしようがないぞ!!
 と、そんな風に思っていた。
 だけど事態は僕なんかの想像を軽く越えていく。

 ゴァア!! と。
 炎が酸素を飲み込む不気味な大音響と共に、真上の鉄骨が、燃え広がり……!?

 息を飲んでいる暇もなかった。
 というか迂闊に呼吸なんかしてたら気管も肺も焼けただれていた。助かったのは、猛烈に強い力で水の中へ引っ張り込まれたからだ。
 直後だった。
 この泥水の中でもはっきりと分かった。やけにぬめったオレンジ色の光が、水面いっぱいを天井みたいに埋め尽くしていく。
 驚いて開きかけた口を、やはりしなやかな掌で無理矢理塞がれる。ひらりと黒い革が視界の端で踊っていた。
 ねえさんっ、それにアユミも……!?
 たっぷり一〇秒以上炎の天井が頭の上を覆っていた。怖い。実際に人間の息がどれくらい保つかは知らない。だけどこの一〇秒を待っても、次の一〇秒は息を吸わせてくれるなんて誰も言っていない。一分、一〇分、一時間経ってもこのままだったら? ダメだったらこっちは命がなくなるんだ!!
 我慢しているせいで頭に血が上っているのか、頭部全体がじわじわと膨らんでいくような、気持ちの悪い熱と圧を錯覚する。
 ふっ、と。
 一面が夜の暗さを思い出したタイミングで、忍耐が決壊した。火事場の馬鹿力、なのか? 単なる人間のはずの僕が、半ば姉さん達を振りほどくようにしてがむしゃらに水面を目指す。やらかしてしまう。
「ぶはっ!! はあ、はあ、あぶ!?」
 久しぶりに酸素を吸い込む。
 真上。
 雑居ビルを半ば押し潰すように倒れかかった電波塔では、この嵐の中でも未だにあちこちぬめった炎がこびりついていた。さっきの爆発は、アレか? 水面を舐めていったのは、余波や流れ弾みたいなものだったんだ。本命は即席の橋。入り組んだ鉄骨にびっしりまとわりついていた枯草色のデロデロを、『別の何か』が……焼き尽くしていった……?
「ふぐう! お兄ちゃん早く戻って!!」
「アユミ……?」
 言われた事の意味が分からず、命綱で繋がったままちょっと流されつつあるアユミの顔を見返した時だった。
 ガカァ!! と。
 まるで雷に打たれたようだった。
 そんな錯覚を覚えてしまうくらいの、圧倒的な閃光。白の光が、頭の上から落ちてきたんだ。
「……なっ……?」
 痛い。左右のこめかみから見えない千枚通しでも押し込まれるようだった。思わず片手でひさしを作っても、鈍痛から逃げられない。
 だけど。
 この明らかな異変は、一体何なんだ!?
 遠くから投げかけられるサーチライトじゃない。頭のてっぺん。あんな角度から光を投げかけられるはずがない。
 何かある。
 空中に。
 地球外未確認知的生命体。
 爆弾か、熱線か。とにかく何かしらの殺人兵器を垂直に落とし、一斉にヤツらを焼き尽くした何か。この猛烈な嵐の中、人様の頭の上でビタリと動きを止めた、手裏剣みたいな形の、軽自動車より大きな飛行物体。
 思わず。
 思わず、だ。
 濁流に飲まれながら、こんな馬鹿げた言葉が洩れていた。

「……ゆー、ふぉー……???」

 もうそろそろ、こっちは頭の処理能力が限界に達しつつあった。だって、どこまでなら受け入れられた? 国内最大の電波塔は大嵐で折れた。首都東京から人がいなくなった。枯草色にミステリーサークルみたいな模様を走らせるぐにょぐにょは宇宙人だった。それを今度は別口のUFOが共食いした??? どこか、じゃない。ああ、ああ! 一番最初、エレベーターに閉じ込められて宙吊りにされた時点でもう『ありえない』だろ!? 夢なら何で覚めない、バーチャルならログアウトさせてくれ!!
 しかし、その時だった。
 得体の知れないテクノロジーが、いきなり人の言葉で叫んできた。
『済まない!!』
 ……さっきの、拡声器と。
 同じ……?
「どっ、ドローン? 自衛隊の無人兵器なのか!?」
 ぐるりとスポットライトのような光源がよそを向いた。飛行機やヘリコプターの動きではない。闇夜をキャンバスにして落書きでもするように、一本の光が曲線を描いてうねった。少し離れた場所、濁流の下流側で、凄まじい爆発が連続して巻き起こる。
 電車ごっこみたいな腰の命綱を手繰り寄せ、近づいてきたアユミやエリカ姉さんと水の中で肩を寄せ合う。そんな僕達に頭上から声が投げかけられた。
 改めて、遠目に見てみれば、『UFO』から垂直に地上へ放たれたモノの正体が分かってきた。
「みさ、イル……?」
「陸自の空対地ミサイルだと、おそらくトカラハブでしょう」
 確かに。
 宇宙人が宇宙人を攻撃したって言われるよりは、まだしも整合性がある、のか?
 いいや冗談じゃない、常識の部分で妥協するな。宇宙人が攻め込んできたのと自衛隊が殺人兵器を振り回しているの。一体どっちがまともな状況だっていうんだ!!
「元々はティルトローター機導入を見越して先行開発された装備でしたが、機体調達の遅れに引きずられて実戦配備が遅れていたミサイルです。大雑把に平原を焼き尽くす野戦用ではなく、大都市圏に紛れた標的をピンポイントで叩く精密誘導自己推進狙撃弾。光十字の要求書に理系学研究所が具体的な形を与えた、対アークエネミー打撃焼夷兵装。……過ぎ去った時代の、負の遺産となります」
「何でそんなもの……ここは豆粒みたいな鉛弾だって持ってちゃいけない国じゃなかったのか!?」
「災害対策名目なんですよ。爆風消火って聞いた事ありませんか。どうしようもない山火事やコンビナート火災を瞬時に鎮火させるため、高威力の爆弾を落とすやり方です。日本は元々木造建築の国で、延焼を防ぐため周りの家屋から壊していく文化がありましたからね」
『水中障害物は排除した。流れに沿って進めば停止線から離れられる。赤い看板まで流されたら、すぐに最寄りのビルに取りつくんだ。それ以上進むと地下への放水口に飲み込まれるぞ。すまない、これくらいしかっ協力できん!!』
「ふぐ……」
 濁流の水面から出たり沈んだりしながら、アユミがこんな風に言ってきた。
「ひとまず従うしかなさそうだよ。水の中じゃ闇雲に進んでもあの大型ドローンは振り切れない」
「……、」
 頭上からの声は一見力強くて、頼もしく聞こえるかもしれない。
 でも違う。
 ほだされるな。そうじゃない。
 ようは檻の中から獣を出したくないから出入り口を全部塞ぐって言っているんだ。自分で手に負えないって分かっている『何か』と何日でも一緒にいろって。大局的には正しいかもしれない。だけどあいつらは、僕達の命を守ってくれない。
 自分達のプランが崩されようものなら、さっきのアレが僕達の頭の上に降り注ぐ。
「……アユミ、今何時か分かるか?」
「ふぐ? そりゃあ、最初のエレベーターから結構経ってると思うけど」
「さっきスマホで見た。もうすぐ日付が変わる」
 短く答えたその意味が分からないなんて言わせない。
 自衛隊の連中はじっくり腰を据えて二ヶ月でも三ヶ月でもかけて助けられる命を助け、かつ二次被害を広げないよう用心に用心を重ねるつもりかもしれない。
 だけど、こっちはそれじゃダメなんだ。
 朝の六時前には陽が昇るはずだ。つまり、日光に弱い吸血鬼の姉さんのタイムリミットは決して無限じゃない。この嵐と洪水で地上から突き出た建物はどこもボロボロだ。全く光の差し込まない隠れ家を確保できる保証はないし、地下街や地下鉄なんかは軒並み水没してる。よしんば都合の良い隠れ家を見つけたとしても、そこにあのデロデロ宇宙人が攻め込んできたら? 昼の間は、姉さんはどこにも動かせなくなる。おそらくそこで逃げ場を失っておしまいだ。
 それに、危ないのはアユミだってそうだ。普段様々な防腐剤を注入して体の管理をしているゾンビの妹は、こんなヘドロ臭い泥水に長時間漬け込んでおいて良いアークエネミーじゃない。本来だったら今すぐ病院に連れて行って精密検査を受けさせたいくらいだった。
 ……事態が終息するのはいつになる?
 ゾンビ映画なんかじゃ指示を無視して隔離エリアから逃げ出そうとする生存者は無用な感染リスクを増やすとして、人類全体の敵扱いされる。僕だってリビングでポテチを食べながら観ていた時は馬鹿げたストーリーだと思っていた。でも違う。黙って指示に従っても死ぬだけです、みんなのためになりましたお疲れ様です。これでまだ家族を焼却炉行きのベルトコンベアから降ろさないとしたら、そいつは相当の野郎だ。
 脅威の正体も説明されず、自分の体が健康なのか何かしら汚染されているのかも分からない。なのに危険性があるからとりあえず永遠に保留なんて納得なんかできるか。
「何とかしよう……」
 停止線の内側は恐ろしい嵐と水没エリア、そして謎の地球外未確認知的生命体。外側はドローンと狙撃銃に代表される自衛隊。
「何とかしなくちゃダメだ」
 どうにかして夜明けまでに停止線を乗り越えて脱出しなくちゃ、おそらく姉さんとアユミの体は保たない。

 ひとまず濁流に流されて見た目の停止線から離れていく。しばらく真上に例のUFOドローンがついて回ったけど、僕達が指示通り近くのビルの壁に取り付くのを確認すると、不意にスポットライトの矛先がよそへ逸れた。
「……警戒エリアを離れたって訳か」
 僕達には何もできないってタカをくくってやがる。
 言うまでもなく、こっちの目的は吸血鬼の姉さんとゾンビのアユミを夜明けまでに隔離エリアの外へ逃がす事だ。
 元々はガラスの自動ドアか何かだったのか。完全に壊れて銀色の枠組みしかない出入り口を潜る。真っ暗な屋内も水浸しだった。腰まで泥水。吸血鬼は家主の許可がないと家屋に入れないって話があるようだけど、ここはもう廃墟扱いなのか?
 だけど、真っ先に意識を埋めたのは暗闇でも、鋭いガラスが残っているリスクでも、不快な泥水でもなかった。
「うっ……! 何だ、この匂い」
 黒い上着の二の腕で鼻を覆う。
 何かが腐っている、とは違う。真夏の運動部の部室だってもう少しまともだろうっていう、鼻に突き刺さるような強烈な刺激臭だった。
 そして改めてスマホのライトで辺りを照らしてみれば、見えてくるものもある。受け付けらしきカウンター、あちこちに沈んだ大型のケージ、ふやけたまま壁に残る犬や猫のポスター……。
「ペットショップだったのか、ここ」
「ふぐ!? 檻が沈んじゃってるよお兄ちゃん!!」
 こんな事をしている場合じゃないのは分かっている。そもそも手遅れだろう。だけど、どうしても僕はアユミに注意する事ができなかった。
 しかし、だ。
「しっ。ちょっと待ってくださいアユミちゃん、いくつかのケージは壊れているようです」
「そんなの! この濁流であっちこっちにぶつかったからじゃない? でも考えようによってはそっちの方が良かったのかな、お兄ちゃん。ひょっとしたら頑張って犬かきで生き残るチャンスがあった訳だし……」
「……、」
 待てよ。
 ケージが壊れて、逃げ出す……?
「くそっ、離れろアユミ!! 表を泳いでいたワニだの肉食魚だのの出所はここだ!!」
「ふぐっ?」
『壊れかけた檻』が他にもあるかもしれない。腰から下が見えない泥水の危険度がぐっと増す。
 なのに、だ。
「き、危険な子とそうじゃない子は分けられないのかな。やだよ。お兄ちゃん助けてよ……」
 ええいっ。
「……ビニールシートだ」
「えっえっ、どゆこと?」
「浮き輪になるものなら何でも良い。人の手でこんなの持ち上げられるか!」
 本当はこんな事している場合じゃないんだけど。
 ひとまず二階に上がる狭い階段を上り、廊下に畳んでまとめてあった青いビニールシートを引っ張り出す。こんなのでも縛り方に気をつけて耐水性のダクトテープで目張りすれば袋になるはずだ。
「マクスウェル、適当なサイトを覗いて風呂敷の縛り方を調べてくれ」
『シュア』
 袋は萎んだままで良い。ペットショップって事は、あるな、熱帯魚用のエアコンプレッサー。停電したら何万円もしたお魚が全滅しますじゃ困るから、非常用のバッテリーもあるはずだ。エアコンプレッサーとゴムホースを繋いで電源にバッテリーを接続すると、一階に戻る。
 まず萎んだままの袋を沈めてダクトテープでケージと固定。それから機械の力で空気を送り込めば一丁上がり。ぶわりと重たい檻が水に浮かび上がる。
「ほらアユミ一緒に押せ! 持ち上げる事は考えなくて良い!!」
「んっ、分かった!」
 ……結論からすれば、やっぱり散々だった。自力で檻を壊して抜け出すような危険生物はとっくにいなくなっている。無害な犬や猫は檻ごと沈められて助からない。ほとんど事後処理みたいな作業で、生き残っている小動物はほんのわずかだった。
 でも、
「生きてる……」
 いくつもの檻を階段の上に上げ、すっかり徒労に終わったアユミはそんな風に呟いていた。
「こっちのウサギまだ生きてる! 犬も何匹か!! あはは、良かった。ほんとに良かった……!!」
 ……敵わないな、こりゃあ。
 とはいえまさかここにいる動物をみんな連れていく訳にはいかない。僕達にできるのはずぶ濡れのケージからペットを出してやり、体を拭いて、清潔な別の檻に入れてやるくらいだった。後は、そうだな。
「お兄ちゃん、そのペットボトルなに?」
「ちょっとした時限装置。放っておいたら飢え死にするし、エサとか水とかまとめて置いていってもペースなんて考えずに食い散らかすだろ」
「ふぐ……」
「檻から逃がすのもダメだぞアユミ。この暴風雨の中じゃ足滑らせて溺れるだけ。よしんば生き残っても野生化して危なくなる」
 だから、だ。
 妥協点としては、
「時間に合わせて一定量のエサと水が落ちてくるような仕掛けを作る」
 これでも先延ばしが限界だ。チャンスを増やす程度のもので、絶対助かる保証はできない。流石に首都東京が何年も封鎖されるとは思いたくないけど……。
「助けを待てる環境を作ってやろう。できるのはそれくらいだ」
「分かったよ、お兄ちゃん」
「勝手に萎れるなよ。僕達が場所を教えてやらなきゃ誰も助けに来ないんだ。そのためにも早く外へ出る必要がある」
「ふぐ! そうだよねお兄ちゃん!!」
『厳密にはシステム経由でネットを使えば情報のやり取りはできますが』
 スマホの画面はアユミに見せなかった。野暮だから黙ってろマクスウェル。
 それで、だ。
 改めて情報を整理しよう。
 吸血鬼のエリカ姉さんは日光に弱い。大嵐や洪水でボロボロになった街じゃ完全に遮光できる隠れ家を確保できるチャンスは少ないし、よしんば見つけても例のくの字のブーメランみたいなデロデロ宇宙人(?)がいる。昼の間に見つかって襲われたら外へ逃げられない。
 濁流についてはゾンビのアユミも危ない。普段は分かりにくいけど、不衛生な環境に長時間さらしてはおけない。
 となると、一刻も早く停止線の外へ脱出する必要がある。ひとまずの目安は夜明けまでに。
 そのためにまず必要なのは、自衛隊? あの連中がどうやって停止線に近づく人間やデロデロを探知しているか、だな。
 停止線の外から大雑把に双眼鏡で監視しているだけ、なんて甘い話じゃないだろう。これだけ入り組んだ大都市で一人の撃ち漏らしも許さないとなれば、肉眼だけじゃ追いつかない。街は水没しているけど、意外と防犯カメラ網は生きているのか? あるいは偵察用のもっと小さなドローンが飛び交っていたり、衛星から監視されている線は? ……色々仮説は頭に浮かぶけど、根拠らしい根拠なんか何もない。そもそも自衛隊って名前は字面だけならそう珍しいものでもないけど、『本当の本当に』どんな活動をしているのかは、実は結構謎な組織だと思う。有事の際に対応する力があるのか、ないのか。こんな基本的な質問だって、人によって答えはまちまちになるんじゃないだろうか。
 ……一つ一つ潰していくしかないか。
「マクスウェル」
『シュア』
「自衛隊の手足の長さを測りたい。ネットの利用状況は? このスマホが通じていて、ヤツらのドローンが飛び回っている以上、何かしらの生きた回線があるはずだ。官民問わない、分かる範囲でリストアップ」
『これはスカイツールでの報告と重複するところもありますが』
 いちいち前置きしてくれる辺り、無駄に高性能なアルゴリズムに育ってしまったものだ。
『まず第一に、システムは警察消防などの優先信号コードに相乗りしています。平たく言えば、民間敷設の光ファイバーや無線LANです。一般ユーザーは締め出されているため分かりにくいですが、東京のネット環境は有線無線共に生きています』
「……つまり、防犯カメラや警備会社のセンサーの類も?」
『シュア。ただしこれらのカメラは一般に夜間であっても十分な光源があるのを前提にしています。ここまで真っ暗な東京の街で記録を残す事は想定されておりません。壁や屋根に大穴が空いて自由に行き来できる事態もです。監視エリアはかなり低減しているのでは』
 ……それでも、元から閉店後は真っ暗になる銀行やデパートなんかの屋内に取り付けられた防犯カメラはお構いなしのはずだ。次からは見かけたら死角からカメラを潰す努力をした方が良いかもしれない。
「自衛隊のドローンは? 電波がなければオモチャに指示出しできないけど、まさか民間回線に相乗りって訳じゃないだろう」
『基本的には地上敷設の大型アンテナを使った、無線式の広域データリンクを使用している線が濃厚です。流石に暗号解析は難しいため、予測でしかありませんが。ちなみにシステム側での捕捉が遅れたのは、携帯電話や無線インターネット、テレビ放送など一般の情報通信電波からあまりにかけ離れた帯域が使われていたためでした。超長波です』
「説明頼む」
『シュア。波長が最大で二〇メートルにもなる大きな振幅を使った電波になります。非常に減衰率が低いのが特徴で、GPS普及前にはたった八基の地上局で全世界をカバーした位置情報システムで採用されていました。現在はサービス終了しています』
 開発者には申し訳ないけど、なんかミリタリーな遺物っぽい香りがしてきたな。GPSはアメリカ、つまり友好国ではあっても外国依存のサービスなんだし、自分の国だけで形にできないものかと自衛隊の中でガラパゴス的に進化を続けているのかも。
「衛星回線は?」
『いくつか飛び交っていますが、通信の頻度は低めです。大量のドローンを常時飛ばすために使っている可能性は低いでしょう。上との報告のためではないでしょうか』
 ……つまり、停止線の向こうに取り付けられた大型アンテナさえ何とかなれば……?
「他に気になる電波は? 民間のブロードバンドと自衛隊のデータリンクの他に利用帯域やユーザーはいるのか」
『辺りを飛び交う電波だけならそれこそ電波時計の基準周波数から電波塔に依存しない衛星放送まで多岐にわたります。東京を除く関東六県を中心に、スカイツール依存で行われてきたテレTの放送が途切れている中それでもBSラムダは深夜アニメがまだ映るとして、掲示板では覇権が変わったとお祭り騒ぎになっていますが』
 ……相変わらずあの界隈は元気が無駄に有り余ってるなあ。深夜に作業する事の多い僕も他人事じゃないけど。
「一方的に送りつけるだけの片道サービスはひとまず除外。双方向では?」
『地デジ放送もdボタンなどで視聴者参加可能ですが』
「除外」
『シュア。放送電波以外ですと、いくつかアマチュア無線の電波が飛び交っています』
 っ。
「それは、僕達の他にも隔離エリア内に生存者が取り残されてるって話か!?」
『ノー、発信源は停止線の外からです。おそらく呼びかけに応じる者がいないか、ソナー感覚で不定期に信号を放っているだけでしょう。それからこちらの安否を真剣に考えているかも未知数です。生存報告が上がり次第、SNSにでも記事を投稿して注目を集めたいだけかもしれません。今はもう火事の現場に居合わせたらイイナ! を稼げるラッキーと考える時代ですからね』
「となると」
『ひとまず自衛隊のデータリンクを注視すべきでは』
 超長波だったか。
 地上、あるいはこれだけ水没してたら船か? とにかく馬鹿デカいアンテナ自体をへし折るか、あるいは電波障害とか割り込みで信号を遮断するなり侵入するなりすれば、あの宇宙船みたいなドローンから頭の上にミサイル落とされて粉々にされる心配はなくなる。
 もちろん街の防犯カメラや衛星画像も怖いけど、この大嵐の夜だ。分厚い雷雲が頭上を覆う中ではまともな映像はもちろん、土砂降りの冷たい雨のせいでサーモグラフィーだって機能しないだろう。
 チャンスは、ゼロじゃない。
 水面より下を進むのか、ゴミなど大型の漂着物に紛れるのか、酸素ボンベでも手に入れて水没した地下鉄でも利用するか……。リアルタイムで不規則に巡回するドローンさえ何とかなれば、夜明け前に包囲の外へ出るって目標は叶えられるかもしれない。
 考えろ。
 プロの技術者集団が作った本物の兵器だからって、向き不向きが全くないって訳じゃない。
 どんな分野だって同じだけど、一つで万事を解決するマシンなんか存在しないし、作ろうともしない。組織っていうのは将棋やチェスみたいに色んな駒を揃えてあらゆる方向から敵の動きを封殺する。はずだ。
 そういう意味じゃ、ドローンしか投入できない今の状況は自衛隊にとっても歪なんだ。
 たった一種類の駒を一〇個も二〇個も並べて将棋をするようなもの。しかもドローン自体はあれば便利だけど戦場の主役にはなれない。桂馬とか香車とかの立ち位置なんだ。
 どこだ?
 そりゃあ簡単に見つかるトコにはないだろうけど、絶対あるぞ。歪みが集約したような、でっかい穴が。
 問題は、その穴の存在に自衛隊側が自覚あるのか、ないのかなんだけど……。
「そもそも脱出するって言っても、東西南北どっちに向かうの?」
 拾ったタオルでわしわし髪を拭いているアユミが根本的な事を尋ねてきた。……前にタオル投げた時もそうだったけど、こいつやっぱり薄手のジョギングウェアには気が回ってないな? まったく困った妹め、両手頭にやってるから思いっきり透けてる部分を強調してるようにしか見えん!! 胸元に名札のガードもないからダイレクトだよ!?
「やっぱりさっき見つかったトコはまずい、よね? となると正反対かなあ」
「いいや、自衛隊同士は無線で連絡を取り合っているんだ。僕達の目撃情報はとっくに拡散してる。今じゃどこでも似たように警戒してるだろ」
 もちろんじっくり解決に臨むなら、針の穴みたいな警戒網の綻びを見つけてかい潜るのが一番だ。
 だけど、僕達にその選択肢はない。
「そもそも、自衛隊が設定した停止線? が厳密にどこをどう這い回っているか調べるだけの時間がない。まして隙を見つけるだなんて! 一体何日かけて連中の巡回コースを覚えなくちゃならないんだ」
「ふぐ」
「こっちは夜明けまで、あと五時間そこらで脱出しないといけない。どこでも危険度が同じなら最短コースで行くべきだ。分かっている停止線はあそこだけ。だからあの一線を突破する。それしかない」
 ヴン!! と虫の羽音や電気シェーバーを大きくしたような音と共に、例のスポットライトがすぐそこ、窓の外を通過した。天から一直線の強烈な光がぬるぬるした動きで移動していく。
 例のドローンだ。
 こまめにエリアを巡回しているのか、単純に数が多いかは分からない。
 姉さんはそっと物音を隠しながら、
「でもサトリ君。言うまでもなくそれは一番危ない選択肢でもありますよね? 危険度がみんな一緒というだけで、値が下がっている訳ではない」
 ……そうなんだよな。
 そこしかありませんハイ突撃なんて展開になったら、あのドローンが頭の上にやってくる。その気になれば秒で粉砕だ。
「姉さん。サーチライトを浴びせられていた時、逆光の向こうにいた兵隊が見えていたようだったけど」
「この場合は自衛隊ですね」
「セミオートがどうとか…… 他には何かあった?」
「いえ、基本的には普通科クラスで固めていたようでした。水回りの災害環境ってやりにくいんですよ。船でも車でもホバーでも入り込めないから。それに、専用の狙撃銃はニッチなアイテムですから、包囲網全域へ均等に支給するのは無理があると思います。大半は五・五六ミリのアサルトライフルでしょう」
「アサルトライフルは飛距離だけなら七〇〇以上飛ぶけど、実際逃げる相手を狙ってまともに当てられるのは二〇〇から三〇〇メートルくらいかなあ。電波塔へし折るほどの、この嵐だし。兵器って見栄の世界でもあるから、スペック一覧だと大袈裟に書いてあるんだけどね」
 ……二人が妙に詳しいのは、光十字時代の話もあるんだろうなあ。
『状況にもよりますが、開けた「上」を進まない限り、これだけ入り組んだビル群の中で直線の射線を確保するのは至難だと思われます。ひとまず無視して構いません』
 むしろ停止線を越えて、至近まで肉薄してからが怖そうだけど、そうだな。脱出する前から怯えるような話でもない。
「マクスウェル、あのドローンの挙動についてお前の意見を聞きたい。あれはマニュアルとオート、どっちを重視している?」
『トラフィック量を観察する限りマニュアル操縦でしょう。つまりRCヘリと同じです。元々、ドローンやティルトローターは横風に対する安定性に難のある構造をしています。これだけの暴風雨の中プログラムに丸投げするのは危険です』
「……、」
『とはいえ、自衛隊のデータリンクを利用していますので、そう簡単にサイバー攻撃で侵入できるものではありません。ジャミングについても、そもそも超長波なんてニッチな帯域の電波を放てる機材を調達するだけで苦労させられるでしょう』
 いや、待てよ。
 マニュアルメインって事は、ドローン本体以外にも……。
「マクスウェル、この通信電波は自衛隊に傍受されていると思うか?」
『ノー。だとすればもっと早い段階でドローンからコンタクトがあったはずです。システムの通信は他の信号に紛れて潜伏状態を持続できているかと』
「データリンクの他に、アマチュア無線の電波が飛び交っているって話があったな。停止線の外から飛んできているっていう」
『高確率で面白半分のソナーです。反応を返して助けを求めてもSNSや掲示板でゲラゲラ笑われるだけですよ。生存者キター』
「……当然、そっちは自衛隊に傍受されてる?」
『シュア。何の暗号処理もしていませんし、他のフォーマットに偽装している訳でもありませんからね』
「……、」
 少し考える。
 パズルのピースは揃ってきた、か?
「マクスウェル、自衛隊のデータリンクは良い。レベルを一段落として、警察や消防の無線を聞けないか? エイリアンや宇宙人って言葉が出てくるヤツ」
『シュア。可能ですが、膨大ですよ。何を調べれば?』
「……現場の声を知りたい。実際のところ、どれくらい混乱しているか。プロアマ問わず、誰だって寝耳に水だったはずだ。冷静でいられるはずはないと思う」
 あのUFOじみたドローンはマニュアル操縦なんだ。
 ドローン本体やデータリンクは攻撃できなくても、そいつを止める方法は他にもあるかもしれない。
「それから可能な限り停止線の向こう側、ドローンの発着基地についての画像も頼む。間取りや見取り図を知りたい。防衛ナントカだと民間衛星地図は使えないかもな、それでもそういうの好きな人いるだろ。この土砂降りの中、超望遠のバズーカみたいなカメラ構えた物好きがネットに画像上げていないかチェック」
『大量のフェイク画像が出てきそうではありますが……』
「気象データと照らし合わせるんだ。大嵐って言っても刻一刻と風向きや雨足は変わっているからな。撮影日時と一緒に確認すれば良い。お前本業は災害環境シミュレータなんだからできないとは言わせないぞ」
『シュア。ようやっとデコメガネ委員長の水着ダンス以外に価値を見出していただいて光栄です』
 少しだけ。
 本当にほんの少しだけ、流れが変わってきた。
「お兄ちゃん、つまり何がどうなったの?」
「やれるかも。そういう話だ」

 結局鉄砲構えてドンパチなんて僕達にできるはずもないのだ。
 第一線の軍用データリンクにアドリブで侵入するのだって無理。僕達はアクション映画や海外ドラマに出てくるヒーローじゃないんだから。
 現実的な線を追い駆けていくと、自然と叩くべき箇所も見えてくる。
 そう。
『この分野』は明確な脅威になりつつあるけど、プロの軍隊や組織だって未だに明確な対処法が構築できていないはずなんだ。
『アマチュア無線の電波を拾いました。いつでも行けます』
「分かった」
 ……さて。
 僕達はUFOみたいなドローンが飛び交う水没都市を抜けて、自衛隊が張った停止線の向こうまで抜け出さないといけない。それも夜明けまでに。ざっと見て五時間弱、実質的にチャンスはこの一度きり。失敗したらおそらく立て直しは効かない。
 アユミは最後の見回りと称して、ペットショップの生き残りにエサをやっているようだ。まあ、下手に逃がしても寿命を縮めるだけだってくらいは理解してくれているはず。あの餌やり機は故障さえしなければ二週間くらい保つ。飲み水だってショップ内にあった消毒タブレットを入れているから大丈夫のはず。トイレとか衛生面は不安が残るけど、飢え死にさせるよりはマシと考えるしかない。二週間。それまでに事態が終息してくれる可能性に賭けるしかないな。
「サトリ君……」
「姉さん」
 準備と言っても実際に作業するのはほとんどマクスウェルだ。手順の確認がてら一人でスマホを弄んでいると、エリカ姉さんが話しかけてきた。
「順調にいきそうですか?」
「確率的にはこれ以上はなさそうだよ」
「そうではなく」
 姉さんはわずかに逡巡したのち、
「私とアユミちゃんはアークエネミー、不死者です」
「?」
「覚悟さえあれば、かなりの割合肉体を破壊されても一命を取り留めるという訳です。従って、私達に気を配って夜明けをリミットにする必要はありません。焦ってサトリ君が倒れてしまっては元も子もないんですから」
「ちょっと、何言ってんの姉さん! 今ヤバいのは確実な夜明けが待っている姉さんと、濁流にさらしておけないアユミだろ!? 僕だったら……」
「私達は、最悪細切れになって水を漂う選択肢もあるんです。吸血鬼は心臓、ゾンビは脳さえやられなければ」
 ゾッとするほど。
 恐ろしく芯の通った声だった。
「『本当の本当に』手段さえ選ばなければ、私達はかなり選択肢の幅が広がります。私が、そしてアユミちゃんもそうしないのは、人間のサトリ君を一人だけここに残すのが耐えられないからです。だからお願いします、本当にお願い、サトリ君。私達のために不安定な確率や可能性に自分の命を預けたりしないでください。どうか、お願い……」
 ……ろくに明かりがないから気づかなかったけど、さっきよりもさらに顔色が悪くなっている。白いというより青みがかっている。無理もないか、スカイツールのエレベーターでは千切れたワイヤーに腕を落とされて、今も流れのある水に弱いって弱点を刺激されたままだ。不死者と言っても万能じゃない。
 くそ。
 僕がしっかりしないとな。
「分かったよ、姉さん」
 具体的に何が変わる訳でもないかもしれない。
 だけど、これ以上の言葉はない。姉さんに心労を押し付けるのだけは、絶対にダメなんだ。
「確率論はやめだ。絶対に全員で生きてここを出る。それで良い?」
 エリカ姉さんは大きな胸を上下させ、見て分かるほど安堵の息を洩らしていた。
「……ダメですね、私。こんな風に弱い部分を見せて弟に言う事を聞かせるだなんて。頼れるお姉ちゃん失格です」
「今さら何言ってんの。姉さん、言うほど強くもないでしょ」
「まあ」
「……何その呆れ顔。夜明け前によその部屋が妙にドタバタしてると思ったら、ゴキブリ一匹に錯乱してネグリジェ一丁で抱き着いてきたのはどこの誰?」
「あれは不可抗力というか、ノーカウントでしょう!? だっ、大体顔色一つ変えずに新聞紙を丸めて棍棒作るサトリ君の方が勇気ありすぎなんです! ……まあ、その、おかげでいつも助けられていますけど……」
 子供みたいに唇を尖らせ、大きな胸の前で両手の人差し指をちょんちょんくっつける姉さん。もちろん首引っ込めての上目遣いであった。カワイイ。……んだが、害虫まわりならそれこそ古巣の東欧一三氏族にも蝿の権化みたいなヤツがいたような? 微妙に裏の対人関係が気になるコメントだな。
「姉さん」
「はい」
「いったん始めちゃったらもう引き返せない。自衛隊はきっと、容赦をしない。どっちが正しいか正しくないかじゃない。というか、その論だときっと自衛隊の方が正しい。僕だってリビングでテレビを観てたら思うよ、余計な事してないで隔離エリアの中でじっとしてろって。僕達は、脅かす側だ。だから、守るための軍隊は絶対に容赦なんかしない。僕たちは、世の中のルールを曲げてでもみんなで生き残るって言っているんだ。悪者になる準備はオーケー?」
「もちろん」
 即答。
 こういうところは、やっぱり姉さんであった。
「ここで家族を見捨ててしまったら、何のために光十字の暗闇から這い出てきたか分かりませんもの。私は、天津の家の者です。七〇億人を敵に回しても、ここだけは曲げられません」
 それならよし。
「マクスウェルも悪かったな。災害環境シミュレータにとっては、今の状況って存在意義を直接否定してしまってるだろ。重ね重ね申し訳ない」
『ノー。システムはユーザー様の不足を補う事を第一に定義しております。よってユーザー様にとって意義のない演算を行うつもりはありません』
 ……本当に、僕は恵まれている。
 こんな所に一人ぼっちだったら、実際にできるできないを論じる前に抵抗の意思が折れていたかもしれない。
 そして、周りに与えてもらったのに、そいつをみすみすドブに捨てる道理なんかない。絶対に活かす。恩を仇でなんか返すものか。
「マクスウェル」
『シュア』
「それじゃあ始めるぞ。迷彩服のプロ集団相手に最先端の戦争を仕掛けてやろうじゃないか」
『了解しました。陸上自衛隊を脅威対象として定義、最強モードで徹底抗戦に入ります』

 実際のところ、答えを言ってしまえば何だそんなものかと思うかもしれない。
 一番の脅威はミサイルをしこたま抱えたUFOみたいなドローン。だけど分厚い装甲の塊である殺人兵器を撃ち落とすのは現実的じゃないし、操縦電波に割り込んで制御を乗っ取るのも以下略。相手は自衛隊最新のデータリンクだ。暗号難度やファイアウォールはケタ外れで、とてもじゃないけど一朝一夕で破れるとは思えない。
 ならどこを狙うか。
 ドローンはマニュアル操縦なんだ。残りはもう限られている。
「人だ」
 僕は結論を言った。
「ドローンを操っているのは人。停止線の向こう、安全地帯にある発着基地を混乱の渦に叩き込めばドローン編隊は無力化できる!」
 これが完全なプログラム自律飛行ならお手上げだったけど、ひたすら入り組んだ市街地に暴風雨だ。ヘリ、ティルトローター機、そしてマルチローター式ドローンみたいな『プロペラで垂直離着陸する』機体は基本的に横風に弱い。こればっかりは構造的な問題だから改善のしようはないって訳。
『アマチュア無線の電波をキャッチしました。いつでも交信可能です』
「声の波形を変えてくれ。見た目は嵐のせいでノイズがひどいくらいのさじ加減で」
『シュア』
 真剣にこちらを心配して呼びかけてくれるなら罪悪感も湧くけど、こいつらはSNSだの掲示板だのにネタを投下したいだけらしいからな。それならこっちもせいぜい利用させてもらおう。
 一度深呼吸して、それから頭のてっぺんから突き抜けるような金切り声をイメージ。ここは思い切りが大切だ。
「たすけって、くれえ!! ひい、ひい。何が自衛隊だ。このままじゃ殺されちまう。うげえ、うっ、いやだ。このまま死にたくなぁい!!」
 実際のところ、顔も見えない無線相手が食いつくかどうかはあまり関係ない。ぶっちゃけここで興味をなくしてスイッチを切られても。
 欲しかったのはきっかけだ。
 そして聞かせる相手は物好きな素人じゃない。自衛隊はプロだ。どんな些細なものであれ、活動エリア内を飛び交う電波は察知次第片っ端から傍受するはず。
 ウィルスやDDoS攻撃だけが情報戦じゃない。むしろこの現代社会でもっと深刻なサイバー攻撃は他にある。
「水も食料がない。このままじゃ飢え死にだよう……」
 こっちはアマチュア無線の相手へ必死に訴えている『体裁』さえ保てれば良い。最低限、聞き耳を立てている自衛隊が怪しまない形であれば。

「それにどこまで逃げればゴールって事になるんだ。あのブーメランみたいなデロデロ、自衛隊のドローンにも張り付いてたぞ。今頃発着場は汚染されてるっ。もう停止線の外もダメだあ!!」

 すなわち、フェイクニュース。
 SNSのアカウント一つあれば国家さえも揺るがす、最低最悪のインターネット兵器。
 もちろんいきなりブーメランとかデロデロとか言われても、アマチュア無線の連中はついてこられないだろう。だけど傍受している自衛隊は違う。連中だって生存者からのナマの情報には飢えているはず。今頃、大至急確認を取っているはずだ。
「もうダメだあ……」
 ことさら、この世の終わりみたいな声を作ってみた。演技なんてチープなものだけど、波形を変えて噛ませてノイズまみれにすれば違和感なんて潰してしまえる。
「だってあの調子じゃ一〇や二〇じゃきかないもの。あいつらは目で見てもカメラで撮っても素通りだ! はは、あいつらもうダメだあ!! ならどこまで歩けば良いんだよう!?」
 タネは、蒔いた。
 あと一押しするならっ、
「おいっ、これ聞いてるお前達。ヤバいと思ったら使い終わったフィルターだ、コーヒーの粉っ。とにかくそいつをお守り代わりに持ってろ!! 理屈分からんけどひょっとしたらヤツらから見逃してもらえるかもしれないっ!!」
 何でも良い、争奪戦の材料を作っておけ。
 船が沈んで、みんなまとめて海に突き落とされても争いは起きない。板切れや救命ボート、もしかしたら頭を使って立ち回れば自分だけは助かるんじゃないか……っていう抜け道があるから人は醜く掴み合いになるんだ。
「……サトリ君。ドローンの動きにブレが出てきましたよ」
「向こうで争奪戦が始まっているんだ。使い終わったコーヒーの粉なんて何の価値もない生ゴミのために命まで張って」
「ふぐう。じゃあ今なら」
「ドローンの操縦桿は誰も握っちゃいない!!」
 自衛隊はアサルトライフルやスナイパーライフルで身を固めていたんだっけ。流石に味方に向けるような事までは願ったりしないけど……。
 何にしても、自衛隊にとって未知の現象ってのが大きかった。単にカエルみたいな肌の宇宙人だけじゃない。社会問題になっているフェイクニュースだって抜本的な対策は打ち出せずじまいで足踏みしている状態なんだから。泣きっ面に蜂、ダブルパンチは縦割りの体育会系社会にとってさぞかし堪えた事だろう。たとえ部隊の中の少数が何か変だと勘付いても、上が混乱してしまえば下は異を唱える事もできないんだから。
 枯草色にミステリーサークルのデロデロはいったん風景に溶け込んでしまえば目で追い駆けられなくなる、っていうのも大きい。何回確認作業をしたって疑心暗鬼を潰せない。
 今ならいける。
 というか正確な情報が集まって自衛隊が冷静さを取り戻したら、唯一無二の綻びが完全に閉じてしまう。そうなったらチャンスはもうない。
 連中はマニュアル遵守の世界だ。
 そこに記述が並んでいれば命知らずの突撃命令にだって従えるし、手榴弾の上に覆い被さって味方の損害を減らせるんだろう。躊躇なく。だけど、マニュアルに書いていない未知の現象は処理できない。完成された隊員じゃなくて、当たり前の人間の部分が顔を出してしまう。
 そもそも、恐怖がなければ賛同なんかしない。
 わざわざドローンに専念して歩兵の侵入を禁じたのは何故? そこに合理性以外の単純な恐怖がないと言えるのか。連中だって本気でここで封殺しないとまずいと思っているからこそ、首都東京を切り捨てたんだ。中に守るべき生存者がいると分かっていても。
 トラウマ。
 そいつが、たった一つのデマで爆発し、無秩序に広がっていく。
「……いける」
 念のため、間近で滞空し、強烈なスポットライトを垂直に落とすUFOドローンへ小石を投げつけてみた。反応がないのを確認してから、
「もぬけの殻だ。今ならドローンからミサイルをぶち込まれる事もない!」
 ドローンは便利だけど戦場の主役にはなれない。将棋で言えば桂馬や香車。そんなニッチな駒だけびっしり並べて盤を埋めたら、どこかに歪みが浮かび上がる。
 それが。
 ここだ!!
「行くぞ。今しかない。姉さん、アユミも!」
「了解しました」
「ふぐ」
 ドローンの他に停止線の辺りにはアサルトライフル構えた迷彩服の連中がいるようだけど、あっちはよっぽど開けた空中ルートでもない限り、入り組んだ市街地じゃ真っ直ぐな射線を確保できないらしい。『停止線の中には入れない』のが災いしているんだろう。
 アユミは一度だけペットショップの入った雑居ビルの奥を振り返って、
「……いったんバイバイ。必ず助けを呼んでくるからね」
「マクスウェル」
『シュア。座標情報は記録済みです。問題さえ終息すればすぐにでも救援要請を出せます」
 ……そういう意味でも、早く何とかしないとな。くの字のブーメランに似たデロデロだか平和を守る自衛隊だか知らないが、いつまでも東京をこんな状態にはしておけない。
 みんなで水没した一階に降りる。
 再びあの不快な泥水に腰まで浸かる羽目になった。姉さんとアユミにはビニールプールを押してもらって、僕は一人先行して水を掻き分け、雑居ビルの出入り口を目指す。今はまだ屋内。水については支流も支流、吹き溜まり。だけど、早くもぐぐっと強い力で黒い上着ごと背中を押されるようだった。外に出て本格的な流れに呑まれたらもう脱出できない。僕達なんて湯船に落ちた羽虫も同然、しかも今は排水口の栓を抜いてある。大量の雨水を飲み込む共同溝まで一直線だ。
「……、」
 倒れた電波塔を利用した空中ルートを使えない以上、それでもこっちは濁流と格闘するしかない。僕達はペットショップの入っているビルからゴムボートの代わりを確保していた。おそらく魚の展示販売用だろう、子供向けのビニールプールがあったんだ。洗面器やタライと一緒で、こんなものでも水に浮かべれば船の代わりになる。
「いいかアユミ、オールで漕いでもダメだ! 地下に水を逃がすための水門、でっかい排水口に飲み込まれる!!」
「分かってる!」
「まずロープを投げてピンと張る。十分な手すりを確保してから、そのロープをにベルトを引っ掛ける事で橋渡しするぞ。この方法なら濁流も怖くない!」
 ドローンは誰も操縦してない。
 下を進む限り、普通のライフルは射線を確保できない。
 分かっていた。
 僕が自分で提案した作戦だった。
「……、」
 だけど実際に身を乗り出してみれば、まるで重たい吊り天井が頭の上にぶら下がっているようだった。結局は予測、僕は発着場の混乱をじかに見ている訳じゃない。もしも、思った以上に自衛隊が冷静だったら? あのドローンが何かの気紛れで再び動き出せば、ミサイルを落とされて僕達は粉々だ。
 命がかかっているんだ。
 それも自分一人じゃない、姉さんと妹の分まで。
「始めるぞっ」
 道具は何もかも手作りだった。猫トイレの砂を均すための熊手にロープをくくりつけ、忍者グッズの鉤縄みたいにしたものを振り回す。狙いは濁流を挟んで向かい側、別のビルの壁から突き出た蒸気パイプだ。
 やるべき事は分かっていても、ぶっつけ本番で成功するとは限らない。重心なんかの勝手が分からず、暴風雨に翻弄されて、二回三回と失敗を繰り返す。
 それでも何とかして狙いの突起に熊手を噛ませる。ぐいぐい引っ張って強度を確かめながら、
「よしっ」
「こっちの端も引っ掛けるだけ? 結んでおかないの?」
「あっちこっちロープを張ったままじゃ足取りを追ってくださいって言ってるようなもんだろ。ドローン発着場の混乱がいつまで保つは分からない。濁流を渡ったらその都度ロープは回収。それくらい慎重に行こう」
 両方引っ掛けるだけだと若干強度が心配だけど、こればかりは仕方がない。
 頼りの綱は子供用ビニールプールなんだけど……よし、浮力は十分。まず水に弱い姉さんを乗せて、アユミが乗り込み、最後に僕が。
 アユミと姉さんには軍手を渡してあった。アークエネミーとしての筋力は桁違いだけど、それでも素手でロープと格闘させる訳にはいかない。U字に曲げたベルトを引っ掛けるつもりだけど、何のタイミングで手を挟むかは分からないし。
 ついに。
 出た。表に。上はミサイル満載のドローン、下は地獄の底まで続く濁流。しかもどこに宇宙人とやらが潜んでいるか分からない。これ以上ないくらい死が蔓延した屋外に。
 管理の外に出る。
 それはつまり、自由と引き換えに安全も見失うって事だ。
「わわっ。 何もしなくても勝手に進むよ?」
「濁流に対して直角じゃなくて、斜めにロープを張れば流れの力を味方につけられるからな。それよりベルトは離さないでくれよ。リカバリーは多分無理だ」
 ペットショップを抜けて、濁流を横断し、そのまま別のビルへ。
 距離にして一〇メートルあったか。
 だけど僕達は今、全ての状況を作っている自衛隊の予測を外れた場所まで突き進んでいた。
 死んでいない。
 僕達は違反をしてもまだ気づかれていない。生きているんだ!
「やれる……」
 端まで辿り着くと、屋内へ。いったんビニールプールから降りてロープを上下に揺するように引っ張り、向かい側の熊手を突起から取り外す。
「ルーチンはできた。後は同じ事の繰り返しだ。このまま進めていけば、停止線を越えられる!」
 最短最速の停止線はさっき警告を受けた辺り。多少流されたここからだと、距離にして二、三〇〇メートルといったところか。おそらく共同溝のある隅田川辺りをなぞる形で設定されている。
 こっちとしてはできるだけヤツらの予測の裏をかきたい。つまり、そんな所絶対通れないとタカをくくっている場所。そこが一番警戒が緩いはずだ。
「……できるだけ川沿いの水門、でっかい排水口に近づいていこう。普通に考えれば自殺行為。でも今の僕達なら通り抜けられる!」
 地味でも何でも良い。
 とにかく同じ事を繰り返し、ロープとビニールプールを駆使して少しずつ小刻みに濁流を制覇していく。
「近づいてきた……」
 ピンと張ったロープを掴んだまま、アユミは真上を見上げていた。両手が塞がっているから白いタンクトップの薄い胸元が無防備すぎる。
 ドローンとは違う、真正面から突き刺すような固定のサーチライトの光があった。だけど位置が高い。三階か四階くらいある。何かしらの屋上を陣取っているのか、鉄パイプでも組んで急拵えの見張り台でも作っているのか。
「連中、やっぱり屋根伝いのルートを一番警戒してるみたいだな」
 僕達も最初はそれでやられた。
「まともに泳いでも水門に飲み込まれるだけだけ、濁流に力業で抗うだけの力を持ったエンジン付きのボートみたいに大きな的ならドローンで上から見つけられる。やっぱりタカをくくっていたんだ。僕達は死角に潜り込めた……っ」
 ヴァン!! と歪んだプロペラの唸りが耳に刺さったのはその時だった。
 真上から突き刺さるような光が降り注ぐ。
「ドローン……っ」
「でも挙動がおかしい、サトリ君伏せてっ、横風に煽られています!!」
 やっぱり遠隔地で誰かが操縦桿を握っている訳じゃないんだ。
 壁に激突して潰れたドローンは、それこそ子供の癇癪で投げつけられたプラスチックのオモチャのようだった。
 そして呑気に見上げている場合じゃない。
 バスケットゴールに入ったボールと一緒だ。壁に当たった、軽自動車よりも大きな機械の塊が、そのまま落ちてくるっ!?
「……っっっ!!」
 ズボンのベルトをUの字に曲げて真上を走るロープを挟み込んで両手で掴むと、後はもう、奥歯を噛んでみんな一緒にビニールプールの底で丸まるくらいしかできなかった。映画みたいに飛び込む選択肢はない。落ちれば濁流に飲まれて巨大な排水口まで一直線だ。
 少し離れた場所に大きなスクラップが落ち、派手な水柱が上がる。不意打ちの大波にビニールプールが下から突き上げられ、アユミが慌ててピンと張ったロープ引っ掛けたU字のベルトを掴み直す。
「あぶなっ」
「まだ気を抜くなアユミ! あいつは爆発物の塊だぞ!!」
 くそっ。
 もう少し、あと少しで停止線に差し掛かる。あそこさえ越えてしまえば、僕達はしれっとした顔で『どこにでもいる一般人』に紛れ込める。宇宙人に自衛隊? そんな連中だって追ってこれなくなるだろうに。
 姉さんが僕とアユミの頭を掴んで無理矢理伏せさせた。
 直後に閃光と肌に突き刺さるような熱。
 もう音なんて聞こえなかった。
「……ちくしょう」
 それでも、みんなしてロープに引っ掛けたベルトを掴んだ。流れを利用して、最後の岸を目指す。
「穴が空いてる……破片が刺さったんだ。お兄ちゃん、このビニールプール!?」
「もうすぐそこだ、気張れアユミ!!」
 今さら引き返す選択肢はない。
 どうにかこうにか、最後の五メートルを渡り切る。
「はあ、はあ……!!」
「着き、ました。サトリ君、停止線です、越えたんですよ私達……」
 相変わらず腰まで水に浸かったままだったけど、ゴールテープなんてなかったけど。思わず気を失ってしまいそうなほどの安堵と疲れが襲いかかってきた。濡れてぐちゃぐちゃなのが気になるのか、姉さん達は軍手を外していた。
 ここは……。
 皮肉な事に、無人の交番らしい。
 警察関係なら色々専門的な道具もありそうだけど、かえって怖くて手が出なかった。拳銃なんか拾っても使い方が分からない、下手すると家族の背中に当たりかねない。……それに多分、あの連中相手に本気の撃ち合いなんて状況作っちゃダメだ。そのやり方だと生き残れない。
 そう。
 そういう話だったんだ。

 ドカカッ!! と。
 窓の外から凄まじい人工の光をぶつけられてしまった。

「くっ……!?」
 じえい、たい!!
 サーチライトだ。慌てて両手で顔を庇い、窓から離れようとしたけど、それで何になる? こっちは小さな箱の中。アサルトライフルやスナイパーライフルを向けてくる自衛官が一体どれだけ外を囲んでいるか、もう数えたくもない……!!
「ふぐ、どうしてここが……停止線の発着基地だって、ドローンの操縦桿を放り出すほどの大混乱のはずなのに」
「……そうか、その落ちたドローンだっ。ロストの報告があったから辺り一帯の警戒度が上がったんだ、ちくしょうっ」
 停止線の中には自衛隊は入ってこない。
 だけど停止線の外なら違う。
 普通に足を使った見回りもあり得る。僕達は馬鹿が勝手に鳴らした警報が響き渡る中、フェンスを乗り越えようとしているようなものだったんだ!
 警告なし。
 さっきのドローンみたいに声を掛けてくる事もない。連中やる気だ。こんな薄い壁が何の役に立つっていうんだ。小石一つ落としただけで狭い小屋みたいな交番ごと蜂の巣にされるっ!!
「マクスウェル、周辺地図を呼び出してくれ。どこかに抜け穴は?」
 返事はなかった。
 自分の心臓の音だけがいやに響く。
「マクスウェル!!」
 ジャミングかっ。
 閃光で目を潰し、お次は電波まで封じてきた。これ以上はない。下拵えが終わった以上、自衛隊は躊躇なく引き金に指を掛けてくる……!!
 まさしく絶体絶命。だけど僕はハリウッドスターじゃない。伝説の特殊部隊にも所属していない。ただの高校生。その目線で、今現実にできる事を考えろ。
 できる事は?
 やれる事は何だ!?
「アユミ、姉さんも。ビニールプールはまだあるな」
「ふぐ。でも破れちゃってるよ、もう使い物にならない」
「良いんだ」
 交番の机にあった耐水性の布ガムテープで破片の刺さった辺りを適当に塞ぐ。
 むしろパンパンに膨らませて十分な浮力を与えてしまったらダメだ。沈めておけなくなる。
 つまり、
「……こいつが最後の生命線だ。酸素ボンベの代わりになる。合図と共に泥水の中に潜れ。腰から下は誰にも見えない。ギラギラしたサーチライトのせいで水の表面は温度も上がってる、サーモだって正常に機能しない。ようは、連中の足に直接ぶつからなければ良いんだ。そっと進めば自衛隊の間をすり抜けられる!」
「ギャンブルになりますよ……」
 分かってる。
 あの泥水の中じゃこっちだって視界を確保できない。どこに何人いるか分からない。こっちは三人で固まって一つのビニールプールを共有する。結構な団子状だから、自衛隊の連中の密度が高かった場合は間をすり抜けられない。
 目隠しをして電車の中を歩くのをイメージすれば分かりやすいかもしれない。空いていれば誰にも当たらないし、混んでいたら三人お団子ではとても無理だ。そして、混雑状況はこっちで決められない。
「でもこれくらいしかない。アークエネミーだって万能じゃないんだから」
「……、」
「ゾンビは人間の一〇倍、吸血鬼なら二〇倍の筋力。でも逆に言えば、一度に二〇人虐殺できる火力を持ち出されたら危ないんだ」
 そう、アークエネミーは単体よりも伝染力で仲間を増やしてこそ華だ。倒しても倒しきれない状況を作るから街を国を文明を滅ぼせる。当然そんな真似は強要できない。
 なおも食い下がる姉さんは、ほとんど泣きそうだった。
「確率や可能性では考えないと、そう約束してくれましたよね?」
「全員生きてここを出るとも言った。姉さん、ちょっと頑丈だからって変な自己犠牲を出すのはこの辺にしておこう。現実の話だ、今は手の中にある方法で自衛隊の連中を出し抜くしかないんだ!」
 僕だって、怖い。
 自衛隊って何だよって思う。
 こんな国でアサルトライフルなんて反則じゃないか。
 だけどここで助けてくれってすがりついたら、きっと姉さんやアユミは真正面からアサルトライフルの群れに突っ込んでしまう。というか、多分、姉さんはその一言を待ってる。アークエネミーとしての限度なんて考えもせずに。許すものか。そんなの絶対にダメだ。
 ざばざばと水を掻き分ける音があった。流石にプロアマ関係なく、水の音は完全に消せないものらしい。
 覚悟を決めている時間もなかった。
「ふぐっ、来たよ!」
「行くぞちくしょうっ。停止線を越えて帰るんだ」
 ビニールプールの空気吸入口を開けて、泥水の中に沈めた。ヤツらが交番へ入ってくるより早く、僕達は頷き合うと泥水の中へ頭を突っ込んでいく。
 一秒で姉さんの懸念の意味が分かった。
 単に自衛官の足がどこにあるかなんて次元じゃない。大雑把な方角さえ掴めない。下手すりゃ交番の外に出られるかどうかも怪しくなってきたぞ!
 姉さんは、アユミも……。
 とにかくビニールプールの吸入口に口をつけて空気を確保し、同じ場所をぐるぐる回っている訳じゃないのを信じながらゆっくりと水の中を進んだ。息が保つのは一分? 二分? くそっ、マクスウェルに検索してもらわないとこんな事も分からないのか僕は。途中何度も空気を補給して、ふと気づく。
 さっきから僕ばかりだ。
 アユミや姉さんはどうした? 彼女達だって酸素は必要なはずなのに!!
 視界を塞がれた中、得体の知れない恐怖があっという間に喉元までせり上がる。衝動的に自ら水面に顔を上げて確かめようとさえした僕だったけど、そこで滑らかな掌の感触が僕の手をそっと包んだ。
 エリカ姉さんだ。
 それにアユミもいる。
 渾身の力を込めないと、本当に泣き出しそうだった。疑心暗鬼に囚われるな。とにかく停止線の外に向けて、ゆっくりでも良いから前へ。それだけ考えて足を動かす。上はどうなっているだろう。交番に踏み込んだ連中は、もぬけの殻になっているのには気づいているはずだ。水の中まで思考が追い着くか。ああ、机の上のガムテープとハサミ。隠しておけば良かったと今さら後悔する。
 ぬっと。
 この濁流の中でもはっきり分かるくらいすぐ近くを、迷彩服の足が横切っていった。
「……、」
 いける。
 心臓が縮む想いだったけど、向こうはこっちに気づいていない。方法自体は間違っていない。今なら包囲の外へ抜けて、停止線を越えられる!
 そう思っていた矢先だった。
 僕の手を掴む姉さんの掌に、わずかに力が込められたようだった。
 そして気づく。
 明るい。頭上が眩しい。どんどん白い光が強くなっていくけど、これは、自衛隊のサーチライトじゃない? なら一体何なんだ!?
 気が緩んだのか。
 変に力が入ったのか。
 足元の感覚が消えた。水の中で体が浮かんだんだ。慌てて足を振るけどどうにもならない。まずいっ、顔が水面に出る!!
 ざばりという音があった。
 でも。
 僕はどこにいる???
「……は?」
 強烈な白い光のせいで、最初分からなかった。だけど自分の体重さえ感じられない僕が漂っているのは、水の中じゃない。
 くう、ちゅう?
 僕だけじゃない。萎んだビニールプールにしがみつくアユミや姉さんも、辺りを包囲していた迷彩服の連中も、それどころか暴風雨の雨粒や地面を埋める濁流さえも宝石みたいに奇麗な球体になって、上へ上へと浮かび上がっていた。
 こんな時まで律儀に銃を向けようとする輩もいるけど、半数以上は手元から離れた場所に武器を浮かばせてしまっていた。よしんばグリップを掴んだままの自衛隊も、空中でくるくる回る中では僕達に狙いをつけられないようだ。
 重力を無視。
 ありえない現象。
「いったい、なにが!?」
 体が浮いているんだから、今さら手足を振り回したって何もできない。縄や手錠よりも明確な、これ以上ない拘束だった。思わず頭上に目をやり、白い光を投げかけるモノの正体を見極めようとする。
「……、」
 僕は。
 この時まで、何かのたとえだと思っていたんだ。
 枯草色のブーメランみたいな宇宙人にUFOに似た形のドローン。自衛隊だの何だのが未知のアークエネミーに偏見だらけのコードネームをつけて対応しているだけだって。
 だけど。
 夜空いっぱいに広がり、白い閃光を真っ直ぐ落とし、重力を無視した手段で地球の生き物をさらっていく、その巨大な構造物の正体は……。
「う」
 これ以外に、一体どんな言葉でまとめられるっていうんだ。

「宇宙人の、UFO……?」

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第五章

【mobile temp】ラジオ機材の未来を考えるホームページの序文【file 07】

 光を使った信号や灯台、音を使った警笛には限界があるため、現代の船舶や航空機では率先してラジオビーコン、つまり電波を使った相互警告を利用しています。
 大きな船は停まるまでに時間がかかるため、目視で危険を察知してから緊急制動に入っても回避できないケースが多々あります。
 また、世界の空は過密状態にあり、場所によっては三〇秒に一機の間隔で何かしらの航空機が通過していく箇所もあります。
 これらの条件を踏まえると、何の連携もなく広い海や空を通り抜けていくのはほぼ不可能というのがお分かりになるでしょう。
 長い長い旅路の安全を守る電波航行装置ですが、皆様にとっても馴染みの深い電波を利用しているため、偶発、人為を問わず、実に様々な阻害要因があるのも事実です。多くの命に直接関わる案件ですので、こういった危険な阻害要因は見つけ次第、可能な限り排除する他ありません。

 近年盛んになりつつあるドローン市場や現在開発中の空飛ぶ車についても、いずれは識別電波を取り入れた地上管制基地局との相互連携が不可欠となる時代がやってくるでしょう。
 何者も、個人の自由のために公共の安全を脅かす事があってはならないのです。

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吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第六章

   第六章

 何千メートルか、何万メートルか。
 雲の高さを越えてしまった辺りで、もうそんなのいちいち数えている暇もなかった。おかげで雨なんか降っていない。分かっているのは肌寒い訳でもなければ息苦しい訳でもないって事。こんな、街並みが豆粒みたいに見える高さで地べたとおんなじ環境を整えるなんて普通じゃない。いっそ夢かバーチャルにでも飛び込んでいるんじゃあ、なんて可能性まで頭に浮かぶ。
 もうこれくらいの高さになると、スマホの電波は地上の基地局まで届かないものらしい。東京のど真ん中にいるはずなのに表示は圏外だ。
 表を曝露していて良い高さじゃない。
 しかも、だ。
「っ?」
 わたわたと手を振る自衛隊員がいた。
 でも違う。
 いきなり、すっと真下へ落ちたんだ。見えない糸でも切るように。
「なあっ!?」
 驚いて手を伸ばすけど、届くはずもなかった。どうしようもない悲鳴がドップラー効果で地上へ流れていく。
 見えなく……なった。
 今の、何がどう、なった?
 真下は水没した東京だけど、この高さだぞ。そんなの何の気休めにもなるか!!
 でも、ちょっと待て。
 なんだ。
 これは、何だ。
 気休めにならなかったら何がどうなる!? くそっ、どこの誰だか知らないが、理屈も分からない方法持ち出して自分から勝手に宙吊りにしておいて……!!
「おっ、お兄ちゃ……!」
 近くでは、青い顔したアユミが手足を振り回していた。白いタンクトップやジャージ、黒髪から宝石みたいな水滴が浮かび上がる。
 そのすぐ横を、黒い影が上から下へと突っ切った。今のは、自転車? それから球体みたいになった泥水や、自衛隊のヘルメットやアサルトライフルも。
「……ただの事故ではないのかもしれません」
「まさか……ふるいに、かけているっていうのか? ひとまずざっくり掴み取りしてから!?」
 どういう基準かは分からなかった。
 とにかく次々と雄叫びがあった。彼らは、自衛隊は、どうやら化け物のお眼鏡には適わなかったらしい。潮干狩りで死んだ貝を放り捨てるような気軽さで謎の浮力を断ち切られ、戦闘のプロ集団が何もできずに回転しながらただ落ちていく。
 あまりにもあっけなくて、豆粒みたいな街に消えてしまうのも手伝って、人が死んでいくという事実に自分の中のリアリティが追い着かない。
 ただ、漠然とした震えがあった。
 情けないけど、もはや他人の心配なんてしている場合じゃなかった。僕は、アユミやエリカ姉さんはどうなる? 何かの気紛れ一つであんな風になるっていうのか!!
 その時だった。
 がぱりと金属の蓋を開けるような重たい音が頭上から響いた。
 雲の上まで出たのに月は見えなかった。
 深夜の夜空を覆い尽くすほどの巨大な宇宙船、その底の部分が大きな口みたいに開いていったんだ。
 ……僕達は、招待客なのか?
 吸血鬼の姉さんは家主の許可がないと家屋に入れないって話があったけど。
 一縷の望み、と考えて良いんだろうか。宇宙人の目撃談なんてどれもこれもマユツバも良いところだけど、会ってハッピーな一日になったって話はあまり聞かない。というか、相手が本当に本物の宇宙人かどうかは脇に置いても良い。少なくともヤツは条件に合わなかったって理由だけで何十人もの人間を大空から投げ捨てるような心の持ち主だ。一体どんな歓迎会になるか、もはや想像もつかない。
「姉さん……」
 我ながら、馬鹿げた質問だと思った。
「宇宙人ってアークエネミーはいるの?」
「聞き及んだ事はありません。ショゴスという登録はあったようですけど、正体不明なモノにとりあえずつけたという感じでしたし」
 だろうよ。
 僕はバニーガールな女神様やパートのレジ打ち魔王な義母さんとは話をした事あるけど、これはあまりにベクトルが違い過ぎる。こんなのが許されたら合体ロボも巨大怪獣もみんな学術的に認められたアークエネミーって事になってしまう。
 どうする事もできず、最後に残った僕達三人は巨大な宇宙船に取り込まれた。デカい、あまりにも大きな倉庫のような場所だった。宇宙船のくせして二重扉みたいなものは必要ないのか。そして真下の大口が閉じたと思ったら、体が重力を思い出した。二本足で立つのがこんなに懐かしく思える日がやってくるなんて考えてもいなかった。
 いきなり四方八方の壁が複雑に動いた。
 ……いや、倉庫とかコックピットとか、間取りを意識した造りになっていないのか?
 学校の校舎くらいある『部屋』が次々スライドしていき、玄関口があっという間に大広間に変わっていく。全体で大きなハコモノになっていて、用途を選ぶたびに中を組み替えていく仕組みなのか。
 そう、大広間。
 果てなんてなかった。
 曲がりなりにも屋内空間なのに、だ。
 普段地べたで地平線や水平線が見えるのは、言うまでもなく地球が丸いからだ。でもこの宇宙船はそうじゃない。だとすると、深い水の底を覗き込むのと一緒か。空気も一〇〇・〇%完全に光を通す訳じゃないから、視程には限りがあるって話を聞いた事がある。けど、あれ、具体的な限界はいくつくらいだったっけ。二〇キロか三〇キロか。月や太陽はひとまず例外扱いとして、でも、東京からでも富士山は見えるらしいし、富嶽三十六景、あれって一番遠くから見た富士山はどこからだった? 何にしても、このUFO、実際にはどれだけ馬鹿デカいサイズのモノを浮かばせているんだ!?
 若干の肌寒さがあった。
 エアコンの冷房が強い、のか?
 むしろこの高さでずぶ濡れの全身が凍りついていないだけ、ここはまだまだ温かいのかもしれないけど。
「ふぐ、お兄ちゃん……」
 流石のアユミも不安げな顔で僕の上着をちょこんと掴んでいた。
 宇宙人。
 枯草色のデロデロ。
 だけど親玉らしき影はなかった。広間の中央でヤツらは何十何百と集まって小さな山を作り、ガラスでできた円筒形のポッドを王の棺のように恭しく掲げているだけだ。どろりとした液体が詰まっていた。その中には、紐で縛る形の紙の下着を纏う半裸の少女が仰向けに寝かされていた。
 いいや……?
『奉仕種族からの勧めもあり、多少なりとも会話のできる相手を選んだつもりだったのだがな。こんなガキか。まあよい、わらわの暇を潰してみせよ現地人。無理だと言うなら今すぐ放り出す』
 やはり広い天井。そこから軽く見積もって三〇〇インチ以上はありそうな巨大モニタがあった。しかも一つじゃない、四面に。大きなボックスでも形作るみたいに。まるで格闘技の試合やポーカーの国際大会を彩る大画面のようだった。
 そこに、だ。
 小柄な少女の顔が大写しにされる。いいや、こちらは本物ではないのか。寝かされている本体と違い、しっかりと両目は開かれ、勝ち誇った表情でこちらを見下していた。
 とりあえず、同じ言葉が通じるのが驚きだった。
 たった今到着したって訳でもないのか?
「アンタがデロデロの親玉だったっていうのか? あまりにカラダが違い過ぎるだろう!!」
『おいおい、こんな不気味なモノといっしょくたにしてくれるなよ。辺りにいるのは子飼いの奉仕種族に過ぎん。前の前の前……まあ正確にいつだったか忘れたが、惑星一つ潰した際の拾い物だよ』
 ……ダメだ。
 スケールが違い過ぎて、どこまでブラフか全く読めない。これじゃほとんどクトゥルフ神話の世界だ。もしくは香辛料ドバドバ入れて真っ赤になったカレーから隠し味を探せと言われるようなもんだ。しかも白い下着をつけた本体の少女はポッドで昏睡、モニタの顔は良くできた作り物。質問をぶつけても、表情や息遣いから狼狽を探る事もできない。顔を合わせての麻雀とネット対戦じゃ勝手が違うのと一緒。これじゃ会話で何かを引き出すのは至難だぞ!
「僕達を、どうするつもりだ?」
『いきなり結論を急ぐのか。平和だな、わらわが答えを言ったらそこでジ・エンドとなる可能性を考えなかったのかね?』
 っ。
『そうだ、試練の中にある者よ。貴様の命はわらわが握っている。後ろの二人もな。言葉は武器だよ、だから切り札の扱いには気をつけよ。しくじれば大空に、おっと今では宇宙へ投げ捨てられるぞ』
 宇宙。
 窓の外は見えないし、足元には自分の重さがのしかかっているけれど。実際の高度なんてどうでも良かった。少なくとも、ものは試しで放り投げられたら無事では済まない高さにいるってくらいは骨身に沁みている。
 冷房の寒さが、死体安置所のような不気味さを滲ませてきた。
 ……それにしても、こっちの心臓の軋みを楽しむような声色だった。相手が地球人であれ宇宙人であれ、誘拐犯は誘拐犯か。こういう犯罪をするヤツが捕まえた人質に対して下手に出るって話は聞いた事がない。
 人工重力だか何だかで床に足をつけたまま、僕は嫌でも考えさせられた。
 波風を立てるな。
 それでいて思考を捨てるな。
 頭を使って切り抜けるつもりで意志薄弱な操り人形にされちゃ意味がない。
「……そっちも災難だったな。何もこんな大嵐の日に攻め込んでくる事もなかっただろうに」
『はっは、よりにもよって天気の話か! 男女経験が浅いのか? ナンパの導入としては下の下だよ』
 それに、とモニタの顔は含みを持たせた笑みを作ってから、
『災難も何もない。あの爆弾低気圧は、わらわが作った気象兵器だ』
「なっ……」
『そこまで驚く事かね? 人工的に落雷やハリケーンを作るくらいなら、そちらの未熟なテクノロジーでも手が届くと思うが』
 ……確かに。
 僕だってラスベガスでの一件では災害環境シミュレータの力を逆手に取って、自分から人工ハリケーンを作った事がある。
 ネット通販大手ワイルド@ハントが大量のドローンを暴走させた一件では、活路を開くために人工衛星を落として隕石の空中分解に似た大爆発を起こした。
 でも。
 まさか、それにしたって……。
「スカイツールが突風で倒れたのも、東京が水浸しになったのも計画通りだった? 何のために!?」
『その電波塔だよ』
 天井からぶら下がる四面モニタはあっさりとしたものだった。
 罪悪感なんてないんだろう。
『使用可能帯域と言っても良い。ラジオ、テレビ、携帯電話、電波時計、レーダー、GPS、ドローン……。この星はたかだか七〇億人「しか」いないくせに、無秩序に電波を占有し過ぎる。いいや、自前の星の外にまで原子力電池を積んだ探査機を飛ばしたら飛ばしっ放し。思いつく限り、あらん限りの帯域を片っ端から垂れ流してな。こちらはただでさえ星系間航行において恒星のフレアだクェーサーだ重力レンズだ超新星爆発だでラジオビーコンを狂わせる阻害要因に苦しめられてきたのに、ここにきて人為的なミスまで許容していられるか。貴様達が邪魔をするなら、わらわ達も安全な航路保全のため阻害要因を物理的に排除する。自衛権はわらわ達が持つ正当な権利だ。電波の形で航路妨害する侵略者は断じて許さない』
 侵略者……。
 ……インベーダー。
 ???僕達の方が???
 地球の人間に悪意なんかない。こっちは宇宙人がこんな近くにいるって事さえ知らなかったのに!?
『無知を棚に上げるなよ』
 顔色でも読まれたのか。口に出すより早く先回りでもするように四面モニタの少女は言葉で覆い被さってくる。
『十分に学ばぬ内から不用意に手を出したそちらが悪い』
「ほ、本当に地球の外まで飛び出す電波なんて微々たるもののはずだろ!?」
『貴様達の稚拙な学問ではな。やはり星一つ管理のできん未熟な文明か。宇宙原子炉を積んだ事故機の回収作業もままならず、デブリは撒き散らす、カビや性病の菌を星の外まで持ち出す、おまけに電波まで……。公衆の面前でクソを撒き散らしてゲラゲラ笑う生き方はその辺にしておけよ、こちらはいい加減にそのマナーの悪さにはイラついてきてる』
「……、」
『貴様にも分かる物言いで良ければ、無免で人を轢き殺すようなものかね。貴様の思惑など知らん。結果として現実にわらわ達は遭難、死亡のリスクを負わされた。報復と是正を求めて何が悪い?』
 つまり。
 航空機にレーザーペンの光を浴びせて針路妨害するクソガキでも見るような感覚なんだろうか。そんなもので? 東京スカイツールは国内最大どころか世界でも指折りの電波塔だったのに……!!
『ただあの鉄の棒切れは少々しぶとくてな。難儀した。爆弾低気圧くらいでは折れる様子もなかったので、試しに奉仕種族を一万体ほど投入してみる羽目になったのだし。電波塔のガワにびっしり貼り付けるだけで随分変わってくれたよ。くつくつ。重心も、風の受け止め方もな』
「……その人達は、どうなったんですか? ここにいるのは私達だけ、自衛隊も切り捨てられました。奉仕種族とやらが回収された様子はありませんが」
『何故その必要が? 奉仕種族は役立てるためにこれまで数を増やしてきた。使い潰したら捨ててしまうのが世の習いだろう』
 憎悪も見下しもなかった。
 むしろ、キョトンとするような。
 その『当たり前』の顔に内臓が冷える。なんていうか、友達が笑顔で話す家族ルールがとんでもない虐待の見本市だった、といったような。
 ダメだ。
 迎合なんて無理。こいつは特別何かが憎いからレールを脱線してしまうんじゃない。異常な快楽に溺れている訳でもない。常日頃からおかしい。世間話に付き合う感覚で何が飛び出してくるか分かったものじゃない。
 自衛隊だって、必ず死ななきゃいけないほど切迫した理由はなかった。これだけ広い宇宙船なら、数十人くらい腹に入れても問題はなかったはずだ。
 理由がないから。
 必要な場面じゃないから。
 これだけで、ポッドに入った女帝は命を踏み潰す。あのブーメラン状のデロデロ、奉仕種族とかいうのもきっと、究極の選択を迫られた僕達の末路なんだ。
 死の恐怖に押し潰されて形を失いたくなければ、自分を保て。
 冷房の利き過ぎた広大だけど無機質な宇宙船で、改めて仕切り直す。
「東京スカイツールは確かに国内最大の電波塔だった。でも、アンタの言い分じゃあれ一つ薙ぎ倒したって事態は変わらないだろ!?」
『だな。正直辟易している。必要に迫られて始めてみたが……フロリダ航空宇宙局、アマゾン熱帯雨林保全気象台、EU広域放送フランクフルト基地局。多過ぎる。人間よ、よくぞここまで無駄を極めて乱立させたものだな。電波に胸を潰されないのか』
「……、ちょっと待て」
『ギブソン砂漠広域無線ネットワーク基幹塔、多目的宇宙ステーション、ああ、ビートバズのヒット曲とやらを宇宙に放出するなんて近所迷惑甚だしい電波基地もあったな。貴様らの美的感覚など知らん、興味もないものを一日中延々叩きつけられる側の身にもなってほしかったが』
「僕達がエレベーターに閉じ込められている間、一体外の世界じゃ何が起きていたっていうんだ!?」
 天井からぶら下がる巨大な四面モニタ、そこに映る顔が、わずかに首を傾げた。
 そのまま答えた。
『必要な事を、必要なだけ。驚く事か?』
 ……冗談じゃない……。
 確かに地球はいっぱいいっぱいだった。極限モラルハザードのカラミティがいつ噴き出すかは分からず、終末論に抵抗するための秘密組織アブソリュートノアだって暴走の果てに自壊した。
 でも。
 だけど。
 こんなの予測できたか? 一体地球の誰がっ! これで準備不足の平和ボケと罵られるのはいくら何でもあまりに理不尽じゃあないか!?
『しかしこれ以上惑星大気を掻き回してもラチが明かないのでな、そろそろ派手にやろうと思う』
「まだ、何か……」
『主要基地局だけでもうんざりしているのに、貴様達は小型機器も山のように抱え込んでいるのだろう。何がIoTだ馬鹿馬鹿しい、切手サイズのSDカードさえ無線LANを実装する愚物ぶりではないか。これをいちいち一つ一つ潰していったのではいつまで経っても終わらない』
 小型機器……。
 暴風で電波塔をへし折るだけじゃない。東京の広範囲を水没させたのは、それこそノアの大洪水でも気取っていたっていうのか。あのデロデロに調査させていたのかもしれないけど、こいつ、どこまで僕達の技術や文化を吸収しているんだ?
『なので、ひとまず地磁気でも歪めてみようと思う。貴様達の未熟な文明の清算は、貴様達の未熟な星の力で行うとよいだろう』
「……、」
『できないとでも思うのか。このサイズの母艦がどのような方式で航行していると考えている。イオンエンジンを、そうだな、ざっとシフト3辺りまで噴かせば、それだけで大量の荷電粒子が惑星の磁気圏を押し潰すぞ。莫大な磁気異常は速やかに地べたの半導体や電子回路をくまなく破壊していく事だろう。これは、一つの星に依存する限り逃れられん』
「……冗談じゃ……もう無線送信なんて関係ナシじゃないか! 研究所、コンビナート、旅客機、原発、心臓ペースメーカーに生命維持装置、どれだけ潰すと思っているんだ!?」
『だから、このタイミングまで待った。気象兵器だけで目標達成できていれば、このような選択は不要だったのだがな』
 ……それに、まずい。
 地球上の電子機器が壊滅するような事態になったら、マクスウェルはどうなる。海の上でも地下深くのシェルターでも助からない、惑星全体の地磁気を狂わされたらどこにも逃げ場なんかなくなるぞ!!
 顔の皮膚を一枚挟んで、体の中の熱と外の冷房が迎合できずにせめぎ合う。
 考えろ。
 考えるんだ。
 言葉は武器で、切り札だ。この女帝自身がそう言った。引き伸ばしでも先送りでも良い。ヤツが弄んでいる破滅のスイッチから指を遠ざけるにはどうしたら良い? 液中で紙の下着だけの女帝は、やろうと思えば無言でトドメを刺せたはず。それに、自衛隊は呼ばなかった。選定理由があるんだ。僕やエリカ姉さん、妹のアユミをわざわざ選んで母艦の中まで連れ込んだ理由は何なんだ。もちろん気紛れだの酔狂だのだったらここで終わり。その可能性だってゼロじゃない。でも、もしもヤツにとっても必要な事だとしたら、そこを逆手に取れば交渉に使えるかもしれない……!!
『策を弄しているな、人間』
「っ」
『よい。スケールの違いに自らの思考を捨て、大して考えもせず帰依してくる輩にはもう飽きた。わらわの腹を使うなら、それくらいの気骨のある因子が好ましい』
 ……?
 なん、だ。
 いきなり話がよそへ飛んだ? 帰依に、腹、それに因子。航路妨害だの電子機器の破壊だの話とは系統が違うような……。
『おいおい、そもそもこちらが本題だよ。わらわはいくつもの星系間を行き来しているが、目的もなく漫然と移動を繰り返すはずもないだろう。航路妨害や電波障害は、その道筋を邪魔するから潰すだけだ。リアクションであってオブジェクティブではない』
「これ以上、まだ何かあるって言うのか……」
『その遺伝子を提供しろ』
 一瞬。
 言われている事の意味が分からなかった。

『わらわとの子を成せと言っている』

「「はァっっっ!?」」
 僕よりも、むしろこれまで様子見していた姉さんやアユミの方が素早く叫んでいた。
『どうした。新たな命が熟すのを待たねばならん女の身と違って、男の側は出すだけだ。負担らしい負担などさしてあるまい』
「ふざっばあふざけるなよふぐう! いっいいいいきなりお兄ちゃんに何言ってんの痴女か欲求不満なのかふぐふぐう!?」
『貴様達は三つの階層に分かれる』
 天井からぶら下がる巨大な四面モニタの中の顔はけろりとしていた。一万ものデロデロ、奉仕種族とやらを地球に送り出すだけ送り出して見捨てた時と同じ。自他の貴賎なんてない。必要な事のために使う。こいつはこういうヤツなのか?
『わらわとの子を成す近似種族、子を成せないが労働力となる奉仕種族、後は存在の定義を見出せない根絶種族だ。……何の意味もなく貴様達をここまで連れてくると思ったか? 貴様は今試されているのだぞ。三つの内のどれに当てはまるかを』
 あまりにも荒唐無稽。
 でも、こいつ、まさか、お見合いでもしているつもりなのか? この状況でっ!? 星を一つ攻め滅ぼすつもりでか!!
「……その、話が本当だとして……」
『うん?』
「姉さんと、アユ……妹は」
『いらないのなら外へ投げるが?』
 心臓が縮む。
 画面の中の顔は楽しげだった。
『実際にはそこまでせん。これでも因子提供者にはある程度の便宜も図る。上から観察していたが、貴様は他の現地人よりは面白そうだ。AGCTの配列を見てみたい。遺伝子をわらわに寄越せ』
「……まさか、あなた……?」
 眉をひそめる姉さんは、天井近くの巨大画面ではなくカエルみたいな肌のデロデロ達が掲げている円筒形のポッドに目をやっていた。液中に、清潔な白い紙の下着だけ。
 そう。
 体感的な時間を止めて、無理矢理現状を保存しているかのような。
『わらわは繁殖力が低い。それも極めてだ』
 躊躇はなかった。
『というより、すでにわらわの対となる性別は存在しない。絶滅した。なまじ個として優れ過ぎていたのが災いしたな。群れを作る作業を後回しにしたツケがやってきたのだ』
「……、」
 世界にただ一人取り残された誰か。
 未だに宇宙人なんてものにリアリティは感じられないけど、冗談にしたって茶化せない。致命的な地雷を踏んでしまいそうで、迂闊に返事や相槌もできなかった。
『よって、今では遺伝子の配列が近い近似種族を探すしかない。貴様にとっては荒唐無稽でも、こちらにとっては最優先の急務だよ』
 僕の生まれた国でも少子高齢化が叫ばれているけど、それとも違う。
 こいつの語る内容は、もっと腹の底からぞっと冷たいものが込み上げる、そんな話だった。
『選べ』
 シビアで。
 どうしようもない生存競争を生きる命があった。
 純粋に。
 本当に一切の不純物を持たない水は特殊な振る舞いを見せるように。
『わらわとの合成を試すか、諦めて労働力を提供するか、それすら拒否して根絶されるか。全星系の生命は三つの種族に分けられる。この歴史上不可欠な急務に対し何人も無関係でいる事は許されない。自らがどの階層を目指すべきか、その手で選択するがよい』
 ……逆の立場だったら、僕はどうしていただろう?
 地球最後の一人。ゾンビや吸血鬼なんていう元人間もいない、本当におしまいの一人。そうなったら、どうする? どんな手を使ってでも子孫を残そうとするか、日記やデータの形で何かを伝えようとするか、AIやバーチャルで寂しさを紛らわそうとするか、いっそ全ての痕跡を消して回ってキレイさっぱり消滅するか。
 答えなんか出なかった。
 生存か絶滅か。
 今までカラミティやアブソリュートノアの件で論じられてきたのは、その辺りだった。どん詰まりの最後の一人にされるなんて展開は想定されてこなかった。むしろ、当たり前にそんな状況を回避するため、自然と方舟はあんな風に肥大化していったんじゃないだろうか。
 死よりも。
 あっけない絶滅よりも逃げ場のない。
 惑星自体が巨大な監獄となる、逃げ場のない滅亡に押し潰されるのはごめんだと、無意識の内にでも忌み嫌って。
 その上で、だ。
 僕は顔を上げ、天井からぶら下がる巨大な四面モニタに目をやった。

「断る」

 突き放す。
 彼女の檻を破る可能性を、取り上げる。
 確かに男の体と女の体じゃ負担は違う。協力したって僕の命が危険にさらされる訳じゃない。遺伝子? ようは黙っていても数週間もあれば勝手に吐き出される粘液だ。
 だけど、だからってハイそうですかで渡せるか。
「正しい事? 種族を救うため?」
 こいつにはこいつのロジックがあるように、僕達の側にだって自分で守る一線がある。リトマス試験紙を使った実験みたいな感覚でやらかしたら、僕はきっとその後の人生をずっと後悔しながら生きていく羽目になる。
「ふざけるなよ絶滅ボッチ。こっちはそんなロジックで人と人とがくっつく訳じゃないんだ! くだらなくても、恥ずかしい事でも、それでもこれと決めた好きな人と結ばれたいんだ、誰だって!! そんな道を正当化だの理論武装だの、お前の勝手な都合で取り上げられてたまるか!!」
 命だ。
 たかが高校生の僕に、そんな大それたものと向き合う覚悟なんかあるか。
 一度根付いてしまったら、そこには責任が発生するんだ。どんな思惑があったとしたってここは曲げられない。
 いいや。
 誰だって、大人だってきっとそうなんだ。
 命を背負うのは怖いんだ。
 それでもとびきり好きな人と結びついた結果だから、恐る恐るでも仮免みたいな状態でも、とにかく漕ぎ出していくんだ。全部が全部順風満帆って訳じゃない。現に僕の母さんは二人いる。だけどそれだって半端な想いじゃなかったはずだ。精一杯頑張って、それでも破綻を抑えられなくて、自分の胸を引き裂くようにしながら前の母さんは家を出て行ったはずなんだ。
 それを。
「ふざけんな……」
 ああ。
 ああ、ああ! こんなのっ、顔を思い浮かべるだけで恥ずかしくなるけどさ!!
 おでこを出した黒髪ロングにフレームのないメガネ。いつだって僕を支えてくれた幼馴染みの委員長がいる。それを効率だ配分だでとっかえひっかえなんか絶対にごめんだ。もしも委員長をそんな目に遭わせようとするヤツが現れたら、僕は世界中のあらゆる文明を破壊してでもそいつを見つけ出して殺す。月の裏側まで逃げても許さない。僕達は実験動物じゃない。誰にもそんな目には遭わせない!
「ふざけるんじゃあない!! 世界はお前のためになんか回ってない! 自分の問題は自分で片付けろ。今まで恋をしなかったのは、好きな人を見つけられなかったのは、そういう努力を怠って孤独に満足してきたのは全部お前の責任だろう!? 僕達がお前一人の借金を背負わされるいわれなんかどこにもないんだ!!」
『……それは』
 モニタの声は、むしろ平坦だった。
 作り物の顔に睨まれているはずなのに、キリキリキリキリキリ、と目の前で見えない弓の弦を引かれていくような不気味な圧が僕の眉間の辺りを炙っていく。
『合成を断念し、奉仕種族として労働力を提供したいという意味か?』
「いいや」
『ならばわざわざ根絶の道を歩むと? わらわにできないとでも思ったか』
「アンタが一方的に決めた道は進まない。そういう話をしているんだ、女帝」
『……今は試練の時と言ったはずだぞ、愚かなる現地人。己が人生を決定づける試験を放棄して席を外せばどのような評価を受けるか、少しはその未熟な頭で考えてから行動に移すべきだったな』
 ざわりと。
 蠢いたのは殺気じゃない。
「これは、多い……っ!?」
「お兄ちゃん下がって!」
 兄弟姉妹で背中を預け合い、辺りをぐるりと見回す。
 カエルみたいな質感の、枯草色のデロデロ。どこかの星が滅びる時に服従を誓わされた奉仕種族。円筒形のポッドを担いでいる山だけじゃなかったんだ。山脈。それこそ四方八方ぐるりと囲むように。ズレているのは僕達の認識であって宇宙人の体を光が透過する訳じゃないって姉さんは言っていたけど、マジか? ヤツらがざわつくたびに、砂糖水を通して風景を見るように景色が揺らめく。多数のミステリーサークルが繋がってプラネタリウム一面を星座が埋め尽くしていくようなビジョンがちらついた。全部で千か、万か、いいやそれ以上……!? 天井にまでびっしりと……!!
 始まってしまうのか。
 結局女帝のアキレス腱はまだ分からない。
 強いて挙げるなら僕の体そのものになるかもしれないけど……。
『死体も射精するという話は聞いた事あるかね? 主に絞首刑や電気椅子で語られる伝説だよ。ギロチンで落とされた首が瞬きする、という話と似たり寄ったりで語られているが、こちらはもう少し信憑性のある話だぞ。死後五分以内であれば活動サンプルは採取可能だ。つまり、ここで貴様が死んでも合成実験は行える』
「……っ!!」
『生の快楽に搾られるか、死の痙攣で吐き出すかだ。わらわはどちらでもよいぞ。どの道こちらの目的は果たされるのだしな』
 考えろ。
 推測でも良い。
 一から十まで適切に証拠を並べている時間はない。今から切り込むとしたら、どこだ? これまであった会話を思い出せ。いいや、そもそもこの会話は何のためのものだった。こんな所では投げ出せない。吸血鬼の姉さんにゾンビの妹、足元に広がる地球だってこのままにはしておけない。四面モニタの顔、ポッドの少女、ブーメラン状のデロデロ、巨大な母艦。注目すべきはどこだ。何もかもメチャクチャなスケールの話だったけど、焦点は『会話』だ。思い出せ、何が引っかかっていた?

 ……。
 いや。
 まさか、でも。
 そういう可能性も、アリなのか???

「……画面だ」
 思わずそう呟いていた。
「アユミ、姉さんも! 高い所にあるけど、あのデカいモニタを壊せるか!?」
「ふぐ?」
「良いから頼むっ!!」
 首を傾げるアユミよりも早く姉さんが動いた。僕が放り投げたスマホ充電ケーブルを袖の破れた右手で掴み取ると、プラグ部分を錘にしてぐるりと回し、勢いをつけて天井から下がった大型モニタを撃ち抜いたんだ。
 甲高い破砕音があった。
 そう。
 そうだ。
 用途に合わせて常に内装がガチャガチャ組み変わっていく宇宙船の中で、じゃあそもそもあの大仰なモニタは何なんだ。どんな役割があった。奉仕種族とやらに話しかけるのにいちいち三〇〇インチ以上の大画面を使って語りかけなきゃコンタクトは取れないのか? いいや、ポッドの少女は上から僕達を見ていたと言っていた。ギロチンだの絞首刑だの、地球の文化にも詳しそうだった。つまり通信手段はあるはずなんだ、地球に降りた奉仕種族との。それなら艦内だって同じ仕組みを使えば良い。わざわざ大仰に語りかける意味がない。
 天井近く。巨大なモニタを四つ組み合わせて、大きな箱を作るようだった。
 格闘技やポーカーの国際大会にあるような。
 でもブラウン管を使っている訳でもないんだから、中まで全部ぎっしりとは限らない。液晶の壁に囲まれたあの中は空洞……というか、この広々とした大広間で唯一、外からは見えない密室になっていたんだ。
『きひっ』
 そもそも。
 ポッドの少女にそっくりな作り物の顔と声を使って話しかけてきてたけど。ポッドとモニタ、この二つは本当にイコールだったのか。ポッドの中の少女は紐で縛る薄い紙の下着だけなのに身じろぎ一つしないし、僕達はまだ直接肉声を聞いた訳じゃない。
『きひひひひひ』
 腹を使う。
 男の側は負担が少ない。
 ……どうにも自分の体を大切にしないっていうか、傍観者臭かったよな、あの言い回し。
『きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ!!』
 砕け散った液晶画面の向こうから、何か大きなカタマリがぼとりと落ちてきた。床で蠢くのは……何だ? 黄色っぽい節くれ立った『脚』が六本ついた、ガリガリに痩せ細った何か。手と足の区別はいまいちはっきりしないし、本当に二足で直立する生き物なのかも確証を持てない。
 人間にしてはデカい、くらいのサイズか。
 床でもぞもぞと蠢く不気味な塊は、ギラギラ光る複眼でこちらを見上げ、喉というより退化して小さく縮まった背中の薄い羽根を鳴らして肉声をこぼしていた。
『いひいひいひひ。ああバレてしまったか。ガラス容器に詰めてあるのは地球で拾った代理母だよ。確かスキュラとか言ったかな、様々な生物が混ざり合った性質を有するので、母体として振り幅が大きそうだと思ったのだが』
「……こいつ、何か変だと思ったらジガバチ辺りの仲間なのか……!?」
 宇宙人。
 いいや、人というよりもはや虫の方がイメージは近い。
 頭の触覚をあちこちに向け、どうしようもない侵略者は語る。
『それに全部が全部嘘でもないぞ。子を成すのは女帝にとって最優先の急務だ。貴様が首を縦に振ってそこの腹に因子をぶち込んでいれば、後で体内から試験管へ遺伝子を移すのも容易だったのになあ?』
 捕らえた獲物を巣穴に持ち帰り、卵を植え付けて、生きたまま幼虫の養分とする特殊なハチ。人がサルから進化しなければ、ある種の虫から出発していれば、こんな道筋もあったかもしれない……惑星単位の環境によって枝分かれした可能性。
 女帝。
 繁殖に役立つか、兵隊となるか、それ以外か。その三つで他の全ての生命体を評価する存在。元からあった生態系や自然環境を荒らし回る危険極まりない外来種。
 人と同じように生きる、生きたいと願うアークエネミーとは、決定的に何かが違う。
 こいつ。
 こんな野郎は野放しにしておけない。
 話し合えば何とかなる領域を超えている。善も悪もなく、ただ当然のものとして他者を踏みにじり利用する生き物なんてこれ以上この星に留めちゃダメだ!
「この野郎!!」
『ぎきいひひ。これでは腹として不満か。リクエストでもあるのか。一応スペアとしての部品も揃えておいたのだ。後ろの二人、要望があれば好きな方をポッドに詰めてやるぞ?』
 頭が。
 ダメだ、空白で埋まる。
 ……この一言だけでもう殺してやりたい……!!
「っ、ダメですサトリ君、気を抜かないで!!」
 姉さんの叫びが遠かった。
 そこまで頭に血が上っているのかと、そんな風に思った。
 でも違う。
「あ」
 ……針……?
 いつ、やられた???
 驚くべき事に、僕の親指より太い、針っていうより杭に近い何かが右の脇腹に刺さっていたんだ。肘まで袖のある黒い上着ごと貫いて。しかも一番恐ろしいのは、そうまでされても、痛くないってところ。全く痛みを感じない。
 針の逆側と連結したチューブのようなものは女帝の腰の後ろまで伸びていた。
 体内にどこまで針が潜り込んでいるか全く感覚はないけど、この太さなら一センチ二センチって話じゃないだろう。
 ……ああ、確か蚊とかヒルとかは麻酔成分のある体液を使って、標的が血を流している事実に気づかせない仕組みがあったんだっけか。ハチの毒っていうと焼けつくような痛みばっかりイメージしていたから盲点だった。そうだよ、ジガバチの針を痛みを与える攻撃用じゃない。麻痺させて、手元に置くための針。
「ぐっ、ぶご」
「お兄ちゃん!?」
 ききいひききき、という薄い羽根を擦り合わせる哄笑だけが全てを埋め尽くしていく。風邪を引いたっていう自覚が追いついていく感覚が近いかも。いったん意識した途端、一気に額の辺りで熱が膨らんでいくのが分かった。足元のバランス感覚を失い、体が斜めに傾ぐ。痛みの信号を散らすため、相当無茶な化学物質をぶち込んでいるらしい。
 でも。
 だけど。
 冷房の利き過ぎた寒々しい宇宙船の中で思う。
 ……女帝だろうが恐ろしい外来種だろうが、やっぱり生まれは選べないって訳か。こいつは最適な進化の道筋を選んだつもりかもしれないが、すでに露呈しているんじゃないのか。弱点が。まあ、人間だって自家生産のストレスだの活性酸素だので寿命を縮めているんだ、偉そうに言えた義理じゃないけど。
 僕は、どうあってもこんなヤツに姉さんやアユミの身柄を預ける訳にはいかない。
 そしてアンタがハチなら。
 ハチのやり方で潰させてもらう。
 とは言っても、大それたスーパーアクションをお披露目した訳じゃない。熱病じみた症状を引き出す猛毒にやられているかどうかは関係ない。そもそもただの高校生にできる事なんて限られている。

 ただ、両腕を広げてばたりと前のめりに倒れていった。
 六本の脚を床に押しつける巨大な虫、女帝の上へ。

『ぎびいばざ!?』
 背中側、透き通った羽根が押し潰されたせいか、女帝の肉声がノイズまみれに歪んだ。
 でもこれで良い。
 殴るでも蹴るでもない。覆い被さる事に意味がある。
 ギィンギィンみいん!! と薄い羽根が甲高い音を発した。これが、本来のヤツらの言語なのか? 途端に四方八方の景色を歪めていた奉仕種族、枯草色のデロデロが洪水みたいに殺到してきた。大勢で僕を引き剥がすつもりかな。でも逆効果だ。アンタ、術中にハマってるよ。
「知ってるか、女帝……」
 熱で頭が朦朧とする。
 でも。
 これだって使い方次第では家族を守る武器になる。
「ミツバチは獰猛なスズメバチが巣を襲ってきた時には、幼虫を守るために集団で決死の防衛戦を始める。体格や毒の強さで劣るミツバチは真正面から一対一じゃ戦わない。それこそ大勢でまとわりついて、でっかいお団子を作るんだ。刺されようが噛み付かれようが、お構いなしに」
『……っ!?』
 次から次へと、のしかかるような圧があった。
 くの字のブーメランに似たデロデロが立て続けに覆い被さってくる。
 今さらのようにびくりと体を硬直させる女帝だけど、もう遅い。コンタクトの窓口は上に向いたその薄い羽根だ。両手両足で女帝の体にしがみついて、腹で押し潰すようにして動きを止める。
「そう、体温だよ。ハチは熱に強くない。大量のミツバチが密集して温室状態を作ると、中のスズメバチを熱で殺すチャンスが生まれるほどだ」
 この寒々しい冷房だって、本来はそういう話だったんだろ。
 今まで悠々自適の生活だったか?
 不満も衝突も一切存在しない人生。でも裏を返せばミスを指摘してくれる人には恵まれなかった。
「……この熱病みたいな毒はおあつらえ向きだったな。ちょっと不安だったけど、アンタなら何か問題があればすぐ奉仕種族とやらを総動員すると思っていた。ああ、しゃべらなくて良いぞ羽根は押さえ込む。絶対に、一言たりとも、奉仕種族に言葉なんか与えるか。命令には絶対服従。それってつまり、取り消し命令が出ない限りヤツらは手を緩めないって事だろ?」
 絶対王政も良し悪しだ。
 誰もが疑問を持っていたって、権力が怖くて異を唱えようとも思わない。結果、誰が見ても明らかなミスがそのまんま流れていく。
 くそ。
 ……熱殺蜂球。つまりこのミツバチ団子。唯一の欠点は、基本的に決死隊でスズメバチと戦うミツバチ側も助からないって辺りかな……。
 重いし、熱い。
 今ちょうど痛みの感覚消されているからアレだけど、メキメキと体の中で変な音がしてきた。まあ、こっちはひとまず女帝を蹴散らして、姉さんとアユミが無事ならひとまず及第点。高校生にしては良くやったって言ってくれ。流石に宇宙は辛い。マクスウェルと繋がっていられたら、もうちょいまともな作戦を立てられたのかなあ?

 く、そ……。
      いい    加減に
   意識            保たな    。

 どれくらい。
 時間が経ったんだろう。
 五分くらいのものかもしれないし、一時間以上だったかもしれない。
 とにかく僕が体を起こすと、もう女帝もカエルみたいな肌のデロデロもいなかった。僕は広い宇宙船に取り残された、円筒形のポッドの近くで寝かされていたらしい。
「ふぐ」
 アユミが僕に気づいて声を上げた。こいつ……相変わらず白いタンクトップも短パンもとんでもない事になってるな。肌の縫い痕まで見えそうだ。
「無事じゃないから静かに。よっぽどハードな麻酔効果だったんだね。脇腹の辺り見ない方が良いよ、お姉ちゃんが半狂乱になるくらいヤバい事になってるから」
「ここは、まだ……宇宙船なのか?」
「降り方分かんないしね」
 そりゃそうだ。
 例のスポットライトみたいな光に導かれてゆっくりと地上に降りていくビジョンは全く浮かばない。しくじったら真っ逆さまだ。今すぐ宇宙船自体が傾いて墜落するでもなし、確信を持てるまで触れない方が良いだろう。
「姉さんは……?」
「半狂乱って言ったでしょ。何で、この場にデロデロ奉仕種族がいないのかちょっと考えてみて」
 ……おっかない。とはいえくの字のブーメランみたいな連中からすれば全力で戦ったとかじゃなくて、命令者が意識を失った時点で目的意識を見失って立ち往生していたんだろうけど。
 単調な電子音が鳴り響いたのはその時だった。僕やアユミのケータイじゃない。そもそも地上基地局からの電波はこんな所まで届かない。はずだ。例の女帝の口振りは違ったけど。母艦、艦内のどこかから響いているものらしい。
「ふぐ、床になんか埋めてあ……」
 ジャコンと伸縮式の警棒みたいに支柱が伸びて僕の腰くらいの高さまでせり上がった。やっぱりアユミは運動神経が良い、顎を打たれる前に避けていた。
 そして真っ赤な画面にはこうあった。

 error report>>This problem is high-risk case.Please check your system back up & all reboot.

 翻訳して、じゃない。
 最初から液晶に、そうあった。
 正直に言えば僕はさほど英語に強くない。ラスベガスに行った時もデコメガネ委員長やアナスタシアにほとんど頼りきりだった。でも、そんな僕でもこの一文は見覚えがあった。
「……エラーメッセージ?」
「ふぐ?」
「ちょっと待て、これは宇宙人の船なんだろ。何でこんなトコに普通のパソコンOS、どこにでもあるウィナーズの定型文が出てくるんだ!?」
 この文章。妙なカタコト英語がバグなのか仕様なのかで、掲示板やSNSなんかでちょっと話題になったのを覚えている。スマホの辞書に登録した覚えのない単語が埋め込まれている有名なバグと似たような感覚で。
 対応待ちらしき画面を指で触れて、恐る恐るアルファベットを並べていくと、ああくそっ、やっぱり動く!? 一般OS用のコマンドがそのまま走ってしまう。
 まさか、ここに来て三〇億人が利用している基幹OSウィナーズが得体の知れない宇宙人との密約によって作り出されたなんて大胆過ぎる仮説は打ち立てない。
 それよりも。
 もっとシンプルな論法で良ければ……。
「このUFOは、地球で作られたモノだった?」
 いったん、だ。
 そんな疑問が出てからは早かった。
 異変に気づいたのか、こちらへ姉さんがやってくる中、
「ジガバチから進化した女帝。……でも、そもそもジガバチは地球にいる生き物だ。こいつが僕達の言葉に合わせてきたのも、ギロチンだの電気椅子だの地球の文化に詳しそうだったのも……みんな、そういう事だったのか? 外から観察して調べたんじゃない。元から地球の中で生まれた存在だったから!?」
 これも女帝の計算の内。
 なのか?
 本当に???
 ……不要な電波障害で航路を邪魔された。子を成す事は急務。ヤツが口走っていた内容それ自体は、悪意のある演技じゃなかったように思う。本当の本当にそれが当たり前の事として口から出てきたからこそ、僕達は圧倒されてきた訳だし。
「女帝も、騙されていた? というより、そう信じ込まされてきたのか?」
 例えば、そう。
 生まれた時からずっと窓のない地下深くや宇宙船の中にいて、地球の空気を吸っている事を教えられないまま育ってきた、とかで。
 だとすれば。
 実際には荒唐無稽な単語なんて何もなくて。
 ただ、この状況を演出した地球の事件があったってだけだ。
「そもそも巨大UFOだの宇宙人だの、こいつらを用意したのは一体どこの誰なんだ!?」

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