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3
感染源のクラーラ・リーは、感染当日からバレエアカデミーを欠席していた。
ユア・フォルマのユーザーデータベースによれば、リーはノルウェー人で、フィンマルク県チルケネス出身の十八歳だ。留学生としてペテルブルクのバレエアカデミーに入り、学生寮で生活していた。犯罪歴もなく、ワシントンやパリの感染源同様、善良な一般市民と思われる。
だがどういうわけか、行方を眩ましている。
「わたしの見立てでは、彼女はただの被害者だ。なのに、どうして逃げ出す必要がある?」
「友人を感染させたという罪悪感かも知れません。今、リーのSNSを調べていますよ」
エチカとハロルドは現在、揃ってニーヴァに揺られていた。ペテルブルクを出発してから、かれこれ二時間が経過する。そろそろフィンランドの国境検問所が見えてこようかという頃だ。
アカデミーに問い合わせたところ、リーは祖父の葬式を理由に休みを取ったらしい。しかしデータベース曰く、彼女の祖父は数年前に死去している。つまり、リーは噓を吐いた。
ペテルブルク市内の監視ドローンを調べたが、リーは学生寮から最も近いパーキングロットでシェアカーを借りていた。走行経路を確認した結果、車は、リーの故郷から五百キロほど離れたカウトケイノで彼女を降ろしている。理由が分からない。せめてリーの位置情報を特定できれば手っ取り早いのだが、感染したユア・フォルマは電波信号すらも途絶してしまう。
そのためエチカたちはやむをえず、地道にリーの足取りを辿ることになり、こうしてカウトケイノへと向かっていた。が、アミクスと狭苦しい車内で缶詰にされるのは、中々に気が重い。
「電索官、これを見て下さい。実に完璧な踊りです」
ハロルドが、ずいとホロブラウザを差し出してくる。線の細いリーがチュチュをまとい、しなやかに舞っている動画が再生されていた。彼女のSNSにアップされていたものだろう。
「パリの炎のヴァリエーションですが、軸に全くぶれがありません。プロ顔負けの技術です」
「彼女が優秀だとしても、事件とは関係がない」
エチカは寒さを紛らわそうと、自動運転中のステアリングに手を置く──助手席のハロルドは、先ほどから腕時計型のウェアラブル端末を使い、リーのSNSを眺めていた。アミクスはオンラインにこそ繫がってこそいるものの、その用途はIoT連携などに限られている。彼らがインターネットを使うには、端末が必要なのだ。
「では、こちらはどうです? 随分と変わった飲み方ですが」
続いて彼が見せてきたのは、たっぷりとチーズを入れたコーヒーの画像だった。『私のお気に入り』というテキストが添えられている──先ほど、機憶で垣間見たものと同じだ。エチカはユア・フォルマに解析させ、ネットワーク上から答えを引き出す。
「コーヒーにヤギのチーズ……少数民族サーミの食文化か」更に、関連情報へと飛ぶ。「リーが訪れたカウトケイノは、サーミ人の住民が多いらしい」
「あのあたりは、機械否定派が暮らす技術制限区域でしたね。それもサーミ人と言えば、トナカイ牧畜の裏で闇医者稼業に手を染めている人もいるはずです」
「捜査局では有名な話だね。ただ正確には闇医者じゃなくて、バイオハッカーだけれど」
バイオハッカーは、バイオハッキングと呼ばれるサイボーグ技術によって、依頼者の肉体を改造することで報酬を得ている。その際、違法な薬剤や筋肉制御チップなどを用いることから、闇医者とも呼ばれるのだ。こうしたバイオハッカーは、裏社会組織に雇われた少数民族であることも多い。彼らは文化維持のために貧困に陥りやすく、高額な報酬と引き換えに仕事を引き受けるケースが散見されていた。当然だが、法に触れる行為だ。
「つまりリーは、感染したユア・フォルマを取り出すためにバイオハッカーを頼った……いやでも、それなら一般の病院で十分か。わざわざリスクを冒さなくてもいいはず」
「ええ」ハロルドが頷く。「思うにリーは幻覚症状を、体内にある別の機械の不調だと思い込んだのではないでしょうか?」
「どういう意味? データベースによれば彼女は健康体で、これといった持病もない。ユア・フォルマ以外の機械を、わざわざ埋め込む必要がないよ」
「ところで電索官、バレエをご覧になったことは?」
エチカは目をしばたたく。何だ、藪から棒に。
「あるように見える? わたしを無頓着だと言ったのはきみだ」
彼は首を竦めた。「今更ですが申し訳ありません、女性に対して無礼な表現でした」
「いやそうじゃない」そもそも女扱いされたいなどとは、微塵も思っていない。「それで、バレエが何なの?」
「いえ……」ハロルドはわずかに逡巡し、「やはり、のちほど説明しますよ」
それきり、車内にはじっとりとした沈黙が落ちた。
居心地が悪い。エチカはどうにも落ち着かず、ウィンドウを下げる。凍りつくような風が頰を切るが、構わず電子煙草を嚙んで──ハロルドは、こちらがアミクス嫌いだと知っている。ベンノのように、感情を表にしてくれればいっそ気が楽なのに、彼はそうじゃない。冷静な分、何を考えているのか分からないのだ。
エチカは煙を窓の外へと吐き出して、
「電索官、いつから煙草を?」
ハロルドが問いかけてくるので、どきりとした。放っておいて欲しい。
「プライベートな話はしないと言ったはずだ。迷惑なら消す」
「構いませんよ。ミントの香りは好きです」