五キロほど走ったところで、不意にジープが減速する。まもなく、ウィンカーも出さずに左折していった。そのまま、一軒の民家の敷地へと入っていき、停車する。
エチカは敢えてジープが曲がった道を素通りし、数メートル先の路肩にニーヴァを停めた。
「降りてきた」ハロルドが呟く。アミクスは視力がいいのだ。「ほら、気付かれていませんよ」
エチカはダッシュボードの双眼鏡を手にし、ジープを眺める。暗視機能付きスコープのお陰で、はっきりと見て取れる──かなり若い娘だ、自分とそう変わらない。小柄で、栗色の髪を可愛らしく三つ編みにしている。大きく膨れあがった紙袋を、懸命に抱え上げようとしていた。
当然だが、ごく普通の女の子だ。リーを匿っているかどうかなんて分からない。
「で、何であの子だと思った? リーのSNSに画像でも貼ってあったの?」
「いいえ。説明します、彼女をよく見て」ハロルドが促してくるので、エチカは渋々従う。「手首に、ブレスレットをつけています。トナカイの角や腱、革にピューターを編み込んで作られたドゥオッチです。サーミ人の伝統工芸品ですよ」
「仮に彼女がサーミだとしても、サーミ全員がバイオハッカーというわけじゃない。ブレスレットひとつで、あの子がリーを匿っていると考えるのは飛躍してる」
「ですが彼女は、大量のインスタント食品を買い込んでいます。彼女以外に、そんな行動をしている客はいなかった。あえて生鮮食品を避けたのは、買い物に出かける回数を減らしたいと考えているからでは? 外に出て、人目に晒されたくない理由があるのです」
「いや……何でインスタント食品だって知ってるの?」
「紙袋の膨らみ方からして間違いありませんよ」
でたらめだ──そう言おうとした時、双眼鏡越しの娘が、抱え上げた紙袋を盛大にひっくり返す。雪の上に散らばったのは、他でもないインスタント食品のパッケージだった。エチカは内心、舌を巻く。出会った時も思ったが、このアミクスには透視能力があるに違いない。
「何よりも、駐車場での彼女の様子です。辺りを異様に気にしながら、首許に手を当てていた。首に触れるのはストレスを宥めるための非言語行動ですが、慣れ親しんだ地元のスーパーマーケットを訪れるのに、何故負担を感じる必要が?」
「さあ……何か別のことを気にしていたとか?」
「そうです、彼女にはやましいことがある。買い物を終えて、車に荷物を載せる時も顕著でした。足先が不自然に開いて、爪先の片方がずっと駐車場の出口を向いていた。すぐにでも逃げ出したい心理状態を表しています。逃げたい理由は何です?」
いちいち訊くな。「少なくとも万引きではないだろうね。そもそも小さな町だ、店員とも顔見知りのはず」
「ええその通り。彼女はリーを匿っていることを見抜かれないよう、警戒していただけだ」
「だから飛躍してる。第一、リーがバイオハッカーを頼ったかどうかもまだ……」
「電索官はバレエを見たことがないと仰いましたが」ハロルドはやんわりと遮り、「リーの踊りは完璧です。完璧過ぎて、動きと筋肉の付き方が見合っていない……もうお分かりですか?」
エチカは双眼鏡を下ろす──やっとこさ、先ほど抱いた疑問の答えを見つけ出していた。
「つまりリーは、とっくにバイオハッキングで不正をしている?」
「そうです。そして彼女こそが、リーを施術したバイオハッカーだ。だから匿っている」
確かにそれならば、辻褄が合う。
リーはもともと不正に体を改造し、バレリーナの卵となった。バイオハッキングはドーピングと同等に悪質な行為で、スポーツ界では厳しく規制されている。公になれば確実に、踊り手としての生命を絶たれるだろう。リーはハロルドの言う通り、ウイルス感染をバイオハッキングの不具合だと思い込んだ。だから医療機関に行くことを避け、再びバイオハッカーのサーミ人を頼ったのだ。
だが、まだ確証が得られたわけじゃない。アミクスの実力を認めたくないという馬鹿げたプライドが、そう思わせる。
「例えば、こうは考えられない?」エチカは無理矢理、推測を捻り出す。「あの子は最近、何かひどい目に遭った。いじめられるとか。そのせいで一時的な対人恐怖に陥っていて、地元のスーパーマーケットであっても人目を気にしてしまう。今は落ち込んでいて料理をするのも億劫だから、保存が利いて簡単に作れるインスタント食品を……ちょっと聞いてる?」
「聞いています。確かに、そうした可能性も十分に考えられますね」
ハロルドはバックミラーを覗き込み、髪を整えていた。急に何してるんだこいつ?
「答え合わせに行く前に、身だしなみを確かめておいたほうがいいかと思いまして」
「ああそう」機械に身だしなみも何もあるか。「そのわりに、後ろ髪が跳ねたままだけれど?」
エチカが刺々しく指摘すると、彼は目をしばたたいた後、当たり前のように微笑んでみせた。
「これはわざとです。隙を残しておいたほうが、可愛げがありますから」
あ、どうしよう殴りたい。