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「え、どうして……」
「大学で、北欧の民族学を専攻していたのです」彼は実に柔らかな表情で、「捜査のためとはいえ、サーミの方にお会いできて光栄ですよ。とても嬉しい」
「えっと、その」ビガはまたしても赤面し、急に立ち上がる。「おかわり、持ってきますね」
彼女はそのまま逃げるように、リビングを出て行く。まだマグカップの中身はこれっぽっちも減っていないのに、だ。初々しいことこの上ない、などと微笑ましい気持ちではいられない。
暖炉の中で、一際大きく薪が爆ぜる。
「色々と言いたいけれど」エチカはじっとりと、ハロルドを見た。「一体どこの大学を出たの?」
「噓も方便と言うでしょう」彼は真顔に戻っている。「まずは彼女の心を開かないと」
「開くどころか口説き落とそうとしてるでしょ。さっきのあれ、何?」
「どれです?」ハロルドは不可解そうに眉根を寄せる。とぼけるな。「それよりも、『最近いじめられたことはありませんか』? 戦慄しました、事情聴取が苦手ならそう仰って下さい」
エチカはぐうの音も出ない──自分はこれまで、電索の飛び抜けた能力だけでやってきている。対面でのコミュニケーションはいつだって補助官頼みで、苦手分野なのだ。
「今後、こういう場面はきみに任せたほうがよさそうだ」
「賢明なご判断に感謝します」
「ただ、ビガはリーを匿っているようには見えないし、バイオハッカーだとも思えない」
「何故です? 私をアミクスだと見破れなかったから?」
「そうじゃない。そもそもバイオハッカーの知識は、ガジェットとかサイボーグ技術に偏っている。ロボット工学には暗いよ」
「そう、ガジェットに対しては一定の知識がある」ハロルドは自らの手首を見下ろし、「先ほど、ビガはこれを端末だと見抜きました。機械否定派の知識は一般的に小型携帯電話機で止まっていますから、本来であれば、彼女にはただの腕時計にしか見えないはずです」
つい聞き流していたが、言われてみればそうだった。ビガはコーヒーを零して焦るあまり、うっかり端末だと言い当ててしまったわけか。確かに信憑性がある。
「でもそれなら、リーのことは?」
「もちろん匿っています。彼女がこうして席を立ったことが、その証拠ですよ」
「あれはきみが質の悪い笑顔を向けたせいでしょうが」
「質が悪いというのは?」白々しいことこの上ない。「彼女はどのみち、リビングを出るつもりでいたはずです。私たちからリーを逃がさなくてはなりませんから。今頃準備をしている」
「どうして分かる?」
「外に出て、裏口で待機してみて下さい。確証が得られますよ」
冗談だろと笑い飛ばしたいところだが、ハロルドの観察眼が侮れないことは事実だ。当然まだ認めたくない気持ちはあるのだが──エチカは渋々、ソファから立ち上がる。
「で。わたしが裏口に行くとして、きみはどうする」
「ここに残って、ビガから真実を聞き出します」
「妙な真似だけはしないで」
エチカはしっかりと念を押してから、家の外へ出た。途端に、痛いほどの寒さが押し寄せる。凍えながらデッキを降りて、裏手へと向かう。これで本当にリーが現れたら、いよいよハロルドの目とやらを受け入れなくてはならなくなりそうだ。
家の裏には、一台のスノーモービルがぽつんと置かれているだけだった。人影はなく、しんと深い静寂が行き渡っている。だが、どことなく違和感を覚え──気付く。スノーモービルには、一切雪が積もっていない。どこかのガレージから運び出してきたばかりなのだろうか。
エチカが近づいて確かめようとした、その時だった。
図ったかのように、裏口の扉が開く。
はじめ、現れたのはビガだと思った。シルエットがとてもよく似ていたのだ。その少女は、頭からすっぽりとポンチョのような外套をかぶっていた。周囲に目を配る様子もなく、急き立てられるような足取りでスノーモービルへと向かって行く──顔は見えない。
だが、ビガ以外の娘が家から出てくる理由など、ひとつしかない。
エチカは、ほとんど突き動かされるように駆け出していた。
「止まれ!」
スノーモービルにまたがった少女が、はっとしたように顔を上げる。初めて、こちらの存在に気が付いたらしかった。暗がりの中、消えかかった街路灯に照らし出される面差し。目が合う。データベースとの照合がおこなわれ、彼女のパーソナルデータがポップアップする。
全身の血が粟立った。
「クラーラ・リー!」
引き止める暇もない。
リーはスロットルを全開にし、スノーモービルを発進させた。飛沫のように雪が吹き上がり、エチカの視界を白く染める。最悪だ。とっさに払いのけて目を開けたが、スノーモービルは早くも遠ざかっていた。かなりの速度が出ている、徒歩では追いつけない。
「くそ……!」
やっと見つけたのだ、ここで逃がすわけにはいかない。
「電索官!」呼ばれて振り向けば、裏口からハロルドが身を乗り出している。「リーは!」
「逃した!」だが、路肩に置いてきたニーヴァまで戻る余裕はない。「ビガの車を借りて!」
エチカは怒鳴りながら、ユア・フォルマのマーカー機能を起動する。深い雪に、くっきりと残された轍が浮かび上がる。リーの足跡だ。頼みの綱に、しっかりとホロマーカーをつけておく。これで見失わない。
家の正面へと戻ると、停まっていたジープのクラクションが鳴った。ハロルドだ、早くも運転席に乗り込んでいる。ビガは見当たらないから、室内に籠もっているのだろう。どのみち、今の彼女に逃げ出す足はない。放っておいていい。
エチカは助手席に飛び乗り、すぐにドアを閉める。「マーカーをつけた。全速力だ、急いで」