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ハロルドが、耳を疑うように顔を上げる。
「何を言うのです、彼女は危険な状態だ」
「だとしても、電索で悪化させることはない」
「できる限り、リーの体を動かすべきではありません。心室細動を起こす可能性が……」
「そう。もしものことがあったらそれこそ困る」
ユア・フォルマは、謂わば脳と一体化している。そのため使用者の生命活動が止まると、ユア・フォルマもまた機能停止する。問題なのはその際、使用者のプライバシー保護を優先して、機憶を含むメモリ内のデータが自壊するようプログラムされていることだ。一度自壊すれば厄介極まりない。データの復元にはユア・フォルマの摘出が必要になるが、これにはどこの国でも法的拘束力がなく、遺族が反対すれば困難を極める。ああだこうだと揉め事になり、うっかりを装って遺体を埋葬されたことは過去に何度もあった。
だから電索官ならば、今接続を試みるのは当然だ。少なくともエチカにとってはそうだったし、そうでなくてはならなかった。
「リーをうつ伏せにして」
泣き叫ぶような風が、両足に絡みついて流れていく。
ハロルドは、茫然とこちらを見上げていた。信じられない、とでも言いたげに。本当はそんなことなど欠片も思っていない、ただ感情エンジンの道徳的な反応に従っているだけのくせに。
いい加減にして欲しい。
「ルークラフト補助官、わたしたちの仕事は何?」感情を抑えきれない声が、走り出る。「知覚犯罪の犯人を捜し出すことだよ、リーを介抱することじゃない。別に彼女を殺そうと言っているわけじゃないんだ、現に救急車は呼んだ。然るべき措置はとってる」
ハロルドは黙っている。
「早く繫いで」
エチカが〈命綱〉を差し出しても、彼は受け取ろうとしない。それどころか、守るようにリーの体に手を添える。向けられた眼差しは、どういうわけか哀れみの色を孕んでいた──やめろ。何でたかが機械に、そんな目で見られなきゃならない?
「電索官、冷静になって下さい」
「見ての通り冷静だよ」エチカは吐き捨てた。「捜査を妨害するの?」
「違います。ただ、物事には優先順位があるはずです」
「よく分かってるじゃない。だったらわたしを彼女に繫がせて」
「人命が最優先です、そうでしょう」
「この場でリーに潜れなかったら、捜査は後手に回る。彼女にもしものことがあったとして、きみはリーの遺族を説得できるの?」
「そんな話をしているんじゃない」
「そんな話だよこれは。どのみち、わたしたちには彼女を救えない」
しばし、まばたきもせずに睨み合う。
いつの間にか、雪が激しさを増している。涙のようにぼろぼろと降りしきっていて。
この機械は、こうやって正しく振る舞うのが得意なのだ。本当は空っぽなのに。敬愛規律が見せる、ただの幻想でしかないのに。
アミクスは、嫌いだ。
やがて、ハロルドが軽く唇を嚙んだ。刺すような沈黙の末、彼は葛藤した様子で口を開く。
「分かりました。では……あまり動かさずに、仰向けのまま繫ぎましょう」
やっとか。エチカが〈探索コード〉を渡すと、ハロルドはリーの体を揺すらないよう気を付けながら、そうっと頭を浮かせてうなじに接続した。続けて〈命綱〉で互いを繫ぐ。
彼は浮かない様子だったが、エチカは構わなかった。何と思われようと、これでいい。
「始めよう」
お決まりの言葉を吐き出して、落ちていく。落下速度に任せて、まとわりつく苛立ちを振り払おうとして──何があっても、潜り始めれば気にならなくなる。そのはずだ。
リーの表層機憶をさらっていく。アカデミーのレッスン室が見える。掌に感じるバーの感触。レオタードをまとった級友たち──踊ることが好きだ。いつか必ずプリマになる。固い決心の片隅に、黒い影がこびりついている。目を背けたい何か。バイオハッキングの罪悪感だ。
珍しく、エチカの気分もざわつく。
黒い影は、いつでもリーについてくる。レッスンの最中も、友人たちと休日を過ごす時も。目に映るペテルブルクの街並みは、冷たい灰色だ。バレエ用品とガジェットの広告で溢れていて、古めかしいトウシューズと最新のスニーカーが交互に行き交う。まるで、隠し持った筋肉制御チップを嘲笑われているかのようで。影が、不安が、後ろめたさが膨らんで。
リーの感情に同調するな。いつものようにやり過ごせ。
表層機憶を突き抜ける。更に深い中層機憶へ。
ハロルドはまだ引き揚げない。逆流の気配に襲われるたび、どうにか舵を制御して。
不意に、見覚えのある建物が視界を掠めた。流線形の屋根に、巨大な球体モニュメントが飾り付けられている。事あるごとにニュース動画などで見かける、テクノロジー企業『リグシティ』の本社──リーは長期休暇中の八月に、両親とアメリカへ旅行に出かけたようだ。リグシティの見学ツアーに参加している。バイオハッキングを通じて、近代的なガジェットに興味を持ち始め、リグシティを訪れたらしい。
ふとエチカは引っかかりを覚え、すぐに気付く。
パリの感染源だったトマ・オジェも、リグシティの見学ツアーに参加していたはずだ。