第二章 散らばったままのキャンディ
1
まだ覚えている。柔らかな春の匂いを胸一杯に吸い込んでも、緊張が消えなかった。
「はじめまして、おとうさん」
マンションの共用廊下には、どこからか運ばれてきた桜の花びらが吹き溜まっている。五歳のエチカは、身の丈とあまり変わらないリュックを背負い、目の前の大きな玄関扉を見上げた──隙間から顔を出しているのは、エチカの父親だった。会うのは、今日が初めてだ。
「いいや、新生児室で会った」父はにこりともしない。「お母さんは誰と再婚した?」
エチカはうつむいて、黙りこくる。母はヒステリックに喚き散らしてばかりだったが、時々優しくしてくれた。彼女を連れて行ったのは、とても若い男の人だ。名前すら知らない。
「質問を変える。その怪我は?」
父の目線が、エチカの頰や膝の絆創膏に注がれる。何だか怒られているような気がして、手で隠そうとしたけれど、全部は隠しきれない。
「これは……その、ころんだだけ」
「いいかエチカ。恐らく、父さんもお前を大事にできない」
だから一緒に住む前に約束して欲しいことがある、と父は言った。
「父さんの機械でいなさい。父さんがいいというまで話しかけたり、物を欲しがったり、感情を露わにして騒いだりしないこと」
エチカは頷く。頷くしかなかった。これからきっと幸せではない日々が始まるのだという予感があって、でもそれはもうずっと以前からのことで。結局、どこへ行っても特に何も変わらず、ただ自分はどうしてか誰からも大切にされないのだ。それだけを、理解する。
父はエチカを、家の中へと招き入れた。玄関は、清潔を通り越していっそ潔癖に感じられるほど片付いている。憂鬱な気持ちで靴を脱いでいると、女の人が姿を見せた。
「スミカだ。今日からお前の面倒を見てくれる」
スミカは、母と同年代に見えた。そつなく整った顔立ちと、丁寧に編み込まれた黒い髪。目を焼くほどに青いワンピースが、細い体軀にまとわりついている。綺麗な人だな、と思った。
「初めまして、エチカさん」
スミカが微笑み、手を差し出してくる。エチカは求められるがままに、握手に応じた。すらりとした手から伝わる体温は、少し低い。ようやく気付く──スミカは、アミクスだった。
「それとエチカ、お前には姉さんができる。もうすぐ会えるぞ」
「え?」
エチカは目を見開く──父の一言には、新しい生活への不安やスミカへの戸惑いを打ち消すだけの魔法が灯っていた。鉛のようだった心が、ぴょこんと軽く飛び跳ねて。
これまで独りぼっちだった自分に、姉ができる。
*
冬のカリフォルニアは、湿り気を帯びた空気と曖昧な寒さに包まれている。
エチカとハロルドを乗せたタクシーは、サンフランシスコ湾に沿ってフリーウェイを走行していた。街並みは密集した摩天楼の背比べで、羽虫の大群のようにドローンが飛び交っている。あの真下にいれば、きっと空は常に灰色だろう。星も見えないに違いない。
「リグシティに着いたら、まずは電索だ」エチカは言った。「幸い、協力してくれる社員が何人かいるらしい。それが終わったら……ルークラフト補助官?」
隣のハロルドは、緩く腕を組んだままうつむいている。今日の彼は厚手のセーターだが、どう見ても支局から支給されるアミクス用のそれではない。一体どこで手に入れたのだろう──いやまあ、さておき。
カリフォルニアへ飛ぶことが決まったのは、ビガの家からペテルブルクへと舞い戻る道中でのことだった。無事にワシントン支局の電索官と連絡がついたのだが、
『こっちの感染源もリグシティの見学ツアーに参加していたよ。七月の独立記念日から何日間か休暇を取って、カリフォルニアを旅行している』
やはり感染源の共通点は、リグシティの見学ツアーである可能性が高い。
エチカはすぐさまトトキ課長に連絡して、リグシティでの捜査を取り付けた。合計で三十時間ほど車に揺られたばかりだが、今度は丸一日フライトだ。これがビジネスならホロ電話で済ませられるものの、電索となればそうはいかない。
『ウイルスの特徴を考えても、犯人は高度な技術の持ち主でしょうね』ホロブラウザ越しのトトキは、相変わらずの鉄仮面で言い、『その点、リグシティのプログラマは世界中から集められた精鋭揃いだし、犯人が紛れていても不思議じゃないわ。あるいは複数犯かも知れない』
「ええ、あらゆる可能性を考慮します」
『状況は悪化している。でも、リグシティという共通点が見つかったのはせめてもの希望よ』
曰く、エチカたちがリーを追っている間に、実に四カ国もの主要都市で新たなウイルス感染が確認されていた。香港、ミュンヘン、メルボルン、そしてトロント……何れも支局の電索官たちが感染源の特定を急いでいるが、遅々として進まないらしい。エチカのように並列処理ができる電索官はほとんどいない、捜査が後手に回るのは致し方なかった。
『だからこそ、あなたには期待しているわ。ヒエダ電索官』
「何かしらの手がかりを見つけてみせます」
エチカはそう言いつつも、内心、苦いものを吞み込まずにはいられない。
正直なところ、リグシティの名前を聞くだけでも恐ろしく気が重かった。
「ところで課長。ルークラフト補助官も、わたしと一緒にリグシティへ?」
『もちろん。ヒエダの所有物という扱いで運んでもらうわ』
これまで黙っていたハロルドが、にわかに眉をひそめる。「つまり、私は貨物室ですか?」