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アミクスがドアロックを解除するや否や、エチカは素早く助手席に体を押し込んだ。これでようやくあたたまれる……と思いきや、車内は恐ろしく寒い。期待と違う。
「ああすみません、寒いほうが処理速度が上がるもので」
アミクスが悠長な仕草で、暖房のスイッチを入れる──エチカの知識が正しければ、これは暑さや寒さを感じないはずだった。単に人間に似せられた機械として、『人間らしく』振る舞おうとしている。システムがそうさせるのだ。
「でもこの寒さでわたしが風邪をひいたら、それはきみの敬愛規律に反するはずだ」
「仰る通りです。もちろん、程度は弁えていますよ」
人間を尊敬し、人間の命令を素直に聞き、人間を絶対に攻撃しない──アミクスは皆、そうした〈敬愛規律〉を信念としてプログラムされている。
正直なところ、エチカはこの機械があまり好きではない。
いっそ、嫌いだった。
車は半自動運転によりゆっくりと走り出し、ロータリーを出て行く。サンクトペテルブルクの街並みは、時代錯誤な建築様式に彩られている。風情があって美しいが、外壁に次々と花開くホログラムの広告映像のせいで、何もかも台無しだ──MR広告システムは、ユア・フォルマの機能の一つだった。使用者の嗜好を読み取り、日頃から関心を持っている分野の関連商品や企業広告をこれでもかと表示してくる。最近は世界中のあらゆる建物が広告まみれで、どこへ行っても景色を楽しむ余裕が持てない。
非表示にすることも可能だが、高額な課金が必要だ。何せ開発元であるリグシティの財源は、大部分が広告収入で賄われている。加えて、ユーザーがユア・フォルマの導入手術をほぼ無料で受けられるのも、これら広告の恩恵なのだった。
「予定では、このままユニオン・ケアセンターに向かうことになっています。本日は電索により、ウイルスの感染源の特定をおこなうのでしたね?」
「そうだ」
「事件はワシントンDCとパリに続き、これで三度目でしたか」
「それより、わたしの新しい補助官は?」
「準備を整えて待っていますよ。彼のことを詳しくお話ししましょうか?」
「いや、合流できることさえ分かればいい」
エチカはそれだけ言い、ユア・フォルマのニューストピックスを開く。これまた最適化された見出しがずらりと並ぶ──〈AI作家、文学賞最終候補に選出〉〈関東地方に大寒波〉〈ノートルダム大聖堂、年末のカウントダウンイベントを規制へ〉〈スイス、年間自殺幇助件数世界一位と発表〉〈書店ネットワーク、年末セールで紙の本を増版〉……。
別に、誰が補助官になろうと興味はない。自分は目の前の仕事を片付けるだけだ。
随分前に、そうやって思考を止めることにした。あらゆる罪悪感から、心を守るために。
〈パンデミックの時代は終わった。これからは、新しい『糸』との日常を手に入れませんか?〉
最初期の宣伝広告には、そんなうたい文句が躍っていたらしい。
侵襲型複合現実デバイス〈ユア・フォルマ〉は、頭の中にある縫い糸を模した情報端末だ。
その形状は直径三マイクロメートルのスマートスレッドで、レーザー手術で脳に埋め込んで使用する。ユア・フォルマがあれば、健康状態のモニタリングからオンラインショッピング、SNSの更新まで、全てを頭の中で済ませられる。
三十一年前──一九九二年冬。『スポア』の名を冠したウイルスが、世界規模の感染爆発を引き起こした。短期間で変異し続けるこのウイルスを前に、ワクチンや抗体の開発は意味をなさず、あっという間に社会機能が麻痺。死者数は全世界で約三千万人にのぼり、死因のほとんどがウイルス性脳炎だった。そのため、脳炎の発症を予防することが喫緊の課題とされる。
世界保健機関主導のもと、各国機関が協力し合い、研究段階だったBMI技術を応用。数年がかりで、侵襲型医療用スレッドデバイス『ニューラル・セーフティ』が開発された。これにより脳炎の治療が容易となり、死亡率が減少。その後も改良が重ねられ、ついに脳炎自体を予防できるまでになる。ウイルスの時代に疲弊しきっていた人々が、この『糸』に飛びつかない理由は、何一つ存在しなかった。
パンデミック終息から久しい今日──二〇二三年。『ニューラル・セーフティ』は『ユア・フォルマ』として生まれ変わり、最新型多機能情報端末として大きく進化を遂げている。
中でも特筆すべき機能が、〈機憶〉だ。
機憶は実際の出来事とともに、その都度ユーザー自身が抱いた感情を記録する。海馬の記憶を情報変換することで生み出され、それ故に心の可視化を可能とした。
機憶は特に、犯罪捜査の有り様を大きく変えた。国際刑事警察機構電子犯罪捜査局は、機憶捜査の行使権限を有する唯一の機関として、これらを重大事件の解決に役立てている。もちろん、機憶の細工や抹消による犯罪逃れも稀に起こる。だが、機憶自体の偽造は現代の技術では不可能なため、捜査の進展に著しく貢献していた。
そうした機憶に潜るのが、エチカのような電索官たちだ。
電索官は『ダイバー』とも呼ばれ、被害者や加害者のユア・フォルマに接続し、文字通り頭の中に潜って事件の鍵を探す。機憶は、ネットワークから切り離されたスタンドアロン環境で管理されるため、直接繫がる必要があるのだ。しかもミルフィーユのような多層構造で保管されているので、平凡な情報処理速度では表層をさらうことすらままならない。
そのため、電索官には特定の適性が必要になる。それらは主に、遺伝情報によるストレス耐性や、ユア・フォルマとの親和性によって判断されていた。脳の発達期からユア・フォルマを使用した場合、ごく稀に、ユア・フォルマに極端に迎合する形での髄鞘化が起こる──分かりやすく言えば、脳にユア・フォルマが馴染みすぎてしまう──その影響で、情報処理能力が飛躍的に伸びることがある。電索官に選ばれるのは、そういった少しいびつな人間だ。
中でもエチカの能力は飛び抜けており、未だに釣り合う補助官と出会えていない。
つまり『天才』は褒め言葉などではなく、最上級の皮肉なのだった。