唐突な囁きが響く──誰だ?
『お前のせいで死ぬところだった』『もう二度と、あんたとパートナーになるのは御免だ』
違う。これは、エチカ自身の機憶だ。どうして自分の機憶に潜り込もうとしている? 落ちる方向を間違えている──そうか、もしかしてこれが逆流か。最悪だな。
見える。
暗い廊下が映し出される。ぞっとした。病院だ。窓の外、街並みに星明かりが降り注いでいる。これまでないがしろにしてきたパートナーたちの呻き声が、どこかから。すすり泣きも聞こえる。パートナーの家族や友人、あるいは恋人の。『許さない』『機械みたい』『組むんじゃなかった』『謝れ』『天才だって?』『消えろ』平気だ。平気なんだ。何を言われても痛くない。痛むのはむしろ、自分が傷つけてしまった彼らのほう。そう言い聞かせて。
閉じろ。抜け出せ。ここは必要ない。
ぎこちなく世界が入れ替わる。どうにか軌道修正。感染者たちの、ネットワーク上の行動履歴へと導かれていく。SNSやメールボックスへ。よかった、調子を取り戻した。無数のやりとりが、嵐のように過ぎ去る──明日学校でね、パパと喧嘩したの、友達がアミクスを買ったって、トウシューズを新調したわ、今度のカウントダウンパーティだけど……ぞうぞうと流れ落ちる。ちりばめられていた情報の点が、機憶と合わさりぶつかりあって、繫がる。感染源への道筋が浮かび上がってくる。
ぱっと火花が散って、邪魔をして。
懐かしい姉の顔が見えた。あどけない顔立ちに浮かぶ、大人びた微笑み。薄桃色の唇から、真っ白な歯が覗いて──これはまたしても、エチカ自身の機憶だ。
『エチカ、手を握って。寒くないように魔法をかけてあげる』
会いたい。もう一度、本当にその手を握れたのなら。今度は、絶対に放したりなんかしない。誰にも放させたりなんかしないのに──違う。落ち着け。自分自身の感情に吞まれるな。
閉じなければ。
もがく。速度が上がりすぎている。止まりたい。いや、止まれるわけがない。舵を切れ。感染者のほうへ。ぎゅっと頭がよじれる感覚が広がる。熱い。十二人の機憶へと舞い戻っていく。全員の機憶が交差し、すれ違う地点を暴き出す。そこに立つ感染源を探し求め、そして。
視えた。
ぶつっと視界が弾ける。
古くさい匂いが鼻腔を突き抜け、エチカは病室へと帰ってくる。息を吐く。額に汗が浮いている──覚悟していた。ベンノの時と同じく、医師の悲鳴が耳に届くはずだ。さあ、来い。
けれどいつまで経っても、それは聞こえなくて。
「見つかりましたね」
柔らかい声が降ってきて、エチカは呼吸を止めた。
隣のハロルドは、平然と立っていた。電索を始める前と変わらず、涼しい表情だ。彼の手には、エチカのうなじから引き抜いた〈探索コード〉が握られている。ベンノのように倒れることもなければ、不調を来してすらいない。何一つ、異常は起こっていない──信じられない。
「どうしました、電索官?」
ああ──トトキ課長の判断は、正しかったわけだ。
電索官になって以来、こんなことは初めてだった。仮に倒れるまではいかなくとも、自分と電索を終えたあとの補助官たちは、決まって疲弊した顔だった。そうした負担が何度か積み重なっては、あっけなく故障していく。例外は一度もなくて。
だがどう見たって、ハロルドは無傷だ。それどころか、疲労の気配すら漂わせていない。
どこかで信じたかった。機械なんかと潜って上手くいくはずがない、と。そんなこと、あってはならない。受け入れたくない。なのに、どうやら現実は皮肉が大好きらしい。
やっと見つけた釣り合う相手が、大嫌いなアミクスか。
「電索官? 私は引き揚げるタイミングを間違えましたか?」
ハロルドが怪訝そうに覗き込んでくる──明け方の湖のように、凍りついた瞳。刻み込まれた虹彩の深さと、白目をなぞる澄んだ血管。綺麗で冷たい、完璧な目。
その無機質さが、どこか羨ましくさえあって。
「いや……」どうにか、掠れた声を押し出す。「タイミングは、完璧だった」
「ありがとうございます」
「驚きましたよ」医師が圧倒された様子で口を開く。「まさか本当に、十二人の並列処理をやってのけるとは……メンタルの調子はいかがです? 体の具合は?」
エチカは平気だと答えて、乾いた唇を湿らせる。思考を無理矢理、捜査へと引き戻し──手に入れた情報を整理しながら、ハロルドを見上げた。
「感染源の名前はクラーラ・リー、バレエアカデミーの生徒だ。ただ……この場にはいない」