• 羽裂ミノリ

    羽裂ミノリ
    アークエネミー【妖精】


第三章



   1


 終わったんだ。

 あれから一夜が明けた。

「……おにいーちゃん。朝ですぞー?」

「ん」

 律儀に起こしに来てくれたアユミに、僕は目元を擦りながらベッドから起き上がる。

 眠れないかと思っていたけど、昂ぶる意識とは裏腹に神経は相当参っていたらしい。特に止めた覚えもないのに、目覚まし時計のセット時間を少し過ぎていた。あれだけの大音量に頭を叩かれても全く目を覚まさなかったみたいだ。

 妹と一緒に廊下へ出ると、制服姿の姉さんとすれ違った。とはいえ、学校へ行く準備じゃない。吸血鬼の姉さんは夜間部なので、行きと帰りが逆転している訳だ。

「姉さん、早く棺桶に入らないとまずいよ」

「むー。お姉ちゃんはサトリくんが心配で心配でもうふらふらなのです……」

 本当に体を左右に振りながら、エリカ姉さんは分厚い遮光カーテンに守られた自室に向かう。あの分だと寝巻きに着替えられるかな。半端に制服を脱ぎ散らかしたまま、ベッドの下の収納スペースを改造した棺の中に潜り込みそうな勢いだ。

 姉さんの消えたドアを見ながら、アユミもアユミでこう言った。

「あたし達は不死者だから顔色とか分かりにくいかもだけどさ」

「うん」

「お兄ちゃんはもうちょい家族に心配かけているって事実を思い知った方が良い。ああ、分かりやすいクマができない健康優良体が今は恨めしい……」

 色々済まない。

 でも退けない。井東ヘレンも、他のアークエネミー達も、カメラの前で嬲り殺しなんて許せるか。

 アユミや姉さんがあんな仕組みに巻き込まれる前にケリをつける。ここだけは曲げられない。

 下に降りて父さん母さんと合流。姉さん以外のみんな揃って朝ご飯を食べる。

 義理の母さんは天気予報を観ながらのんびりした声を上げていた。

「あら。しばらく晴れ続きなのね。この街にしては珍しい。久しぶりに乾燥機じゃなくて表で干そうかしら」

 ニュースとニュースの間の天気予報だったらしく、再びカメラがアナウンサーに返される。テレビの中ではスポーツ解説者が呑気に話をしていた。野球やサッカーの結果報告と同じように並べて。

『いやあ、ついに始まりましたね「コロシアム」。時代というのは変わったものですな、わたしなんかはサッカーくじだってちょっと野球賭博を連想してしまって腰が引けるものがあったんですけど、今はもうオーナー制や優先放映権だけで経営が回るものでもないらしい。さて注目の第一試合は魔女・井東ヘレン選手VS人魚・黒山ヒノキ選手。試合結果は……』

 父さんは小さく折り畳んだ新聞に目をやったまま、箸の先で野菜炒めをつつきつつ呟いていた。

「良い気分じゃないな」

 短い言葉だった。

 だけどそれだけで、僕は背中を支えられているような気分になった。悪意と狂熱で埋め尽くされた『コロシアム』の中に放り込まれて、人間なんてものが信じられなくなりそうで、でも、そう考えていたのは僕だけじゃなかった。それだけで。

 アユミはどうなんだろう?

 家族の言葉を受けて、胸にはどんな想いがよぎったのか。

 ちらりと横顔を盗み見たけど、表情の変化は分からなかった。

 ご飯を食べた後は、顔を洗ったり歯を磨いたり髪を整えたり。いつも通り、学校に行く準備を進めていく。

 ちょっと見ない間にセーラー系の制服に着替えていたアユミが、鏡の向こうで学生カバンに制汗スプレーをゴロゴロ詰め込んでいた。

「……オンナノコっていうのは大変だね」

「まったくだよ。ふぐうー、女子校がお菓子や紅茶の匂いで満たされていると思う? 大体ケミカル系ばっか! 授業参観とか笑ってられないレベルでさー」

 皮肉のつもりで言ったのに素で返されてしまった。私立女子校への甘い夢を壊さないでおくれ。しかもアユミのヤツは何だか正面に回り込んでくる。いいやすり寄ってくるとでも言うべきか。

「自分で自分の匂いって分かんないじゃん? ほら、あたしゾンビだし。だ、大丈夫だよね。変な匂いとかしてないよね?」

「……あーもう」

 いつもの儀式が始まった。

 別に毎日って訳じゃないけど、アユミはちょっとでも胸の中で不安が湧くとこうなる。そして儀式が無事に終わるまでソワソワしっ放しなのだ。

 仕方がないので、アユミの華奢な体を正面から緩く抱き寄せる。吸血鬼の姉さんみたいに首筋に顔を埋める。

「あっ……」

 ぴくん、とアユミの細い肩がわずかに跳ねる。

 でも歯を立てて血を吸っている訳じゃない。

 すんすん。

「ちょ、お願いしている立場で注文つける事じゃないかもだけど、音立てるのやめて……っ」

 女の子の髪の、良い匂いがする。

 石鹸とヘアスプレー、後はわずかな汗が化学反応でも起こしたような、甘い匂い。

 だけどゾンビのアユミは善し悪し関係なく『匂いがある』と言われるだけで、もう過剰反応する。なのでこの場合の模範解答は以下の通りだ。

「別に何も感じないけど」

「ほんとに? 鼻詰まってるとかじゃないよね」

「僕の言ってる事が全部信じられないんだったら、もう確認作業の意味ないけど」

「ふぐうー。いやまあ、気を遣ってるとかじゃなけりゃ何でも良いんだけどさ……」

 ?

 アユミのヤツ、何やらバツが悪そうな顔をしている。まるで知らない街の人混みで手を離されるのを怖がっている子供のような。

 そういえば、こいつが他の人に儀式を頼んでいるとこ見た事ないな。例えば姉さんとか。

 何だか良く分からんが頭でも撫でておけば調子も戻るだろ。アユミは単純だし。

「うー……な、何なのいきなり」

「いや別に。良い所にあったのでつい」

「やめてよー。セットした髪わしゃわしゃしないでってば。ふぐうー……」

 大体こんな感じだ。

 二人して玄関から出る。とはいえ、学校が違うので一緒に同じ通学路を行く訳じゃない。

 折り畳み自転車の留め具を回している僕の横で、アユミは駆け足っぽい動きで足踏みを始めた。

「それじゃお兄ちゃん、あたしはさっさと行くので」

「ん」

 ていうか汗の匂いがダメなのにジョギング好きだよな、こいつ。学校着いたら即シャワー室行きとかなんだろうか。お兄ちゃんとしては短いスカート以外は何も心配してないけど。

 そしてアユミが走り去った後、僕は僕で折り畳み自転車を引きずって表の道へ出る。そこで意外な顔と出くわした。

「あれ、委員長?」

「おはようサトリ君」

 長い黒髪におでことメガネ、華奢でスレンダーだけど小ぶりな割に自己主張の激しい胸囲の膨らみ。まさに世界に誇る日本の委員長って感じの幼馴染みだった。

「どうしたの珍しい。委員長っていつもはもっと早かったよね。寝坊でもした?」

 家が隣の幼馴染みだからって、毎日おててを繋いで一緒に学校へ行く訳じゃないのだ。なんていうか、その、委員長は姉さんやアユミともまたちょっと違う! 謎のバリアーで近づく僕をドキドキさせる機能があるから、いつまでも行動を共にする訳にはいかんのです!!

 が、委員長は中学入学以来の密約、秘密協定を無視していきなりこう言った。

「ええ。今日はサトリ君を待っていたの」

「ええっ!? 何それ委員長!! ……えと、ほんとに何で木刀片手に人の家の前で張っていた訳。た、確か剣道二段だったよね?」

「空手初段、剣道二段、柔道二段、合気道初段です。押忍!!」

 ……何でまたこんなにアクティブになってしまったんだ委員長。

 そんな僕の想いなどお構いなしに、委員長は(木刀つきで)にっこりと微笑んで。

 言った。


「ねえサトリ君。『デコメガネ委員長の水着ダンスファイルセット』ってナニ?」


 まっ……。

「マクスウェえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええル!!!???」

「ほらスマホの電源切ってこっち来る! 裏来いサトリ君!! あなたは何かっていうとピコピコに頼るから軟弱なままなのよ!!」

「ピコピコ、まだ絶滅していなかった、だと!?」

「幻のニホンオオカミをチラ見したような顔されても誤魔化されないわよ。ハイ正座! あなた災害環境シミュレータの中で一体何しているの!? マクスウェルが断れないからってやりたい放題してー!!」

 木刀つき仁王立ちブレザーデコメガネ委員長、という属性盛り過ぎな幼馴染みの正面で正座させられた僕は全身から汗ダラダラ。やばい、これはもう背脂出そう!!

「ていうか何であの隠しファイルの存在が表に出ているんだ! 吸血鬼とゾンビの夜は完全に処理したはず。ハッ!? よもやこれが光十字からの報復かーっ!?」

「……何でアフリカで井戸掘ってる平和団体がサトリ君を目の仇にしなきゃいけないのよ。まったくもう」

 詳しい経緯を話せば丸々一日かけられる自信はあるけど、この街の秘密に委員長を巻き込むのは死んでもごめんだった。

 そんな事より、

「……昨日の夜、お隣からエキサイティングな声が飛んできたのよ。例の姉妹のね。サトリ君は一緒じゃなかったの?」

「?」

「多分テレビを観ながら怒鳴り散らしていたんだと思うけど。何でも『デコメガネ委員長の水着ダンスファイルセットのためならいざ知らず、もうその辺で出くわしたアークエネミーとかでも命懸けるのかーっ!? ぐぬぬーっっっ!!』とか何とか」

 あっ……。

「あいつら……っっっ!!」

「こらこら、怒りの矛先が筋違い。正しい怒りはこっちよ? ……で、水着ダンスファイルセットってナニかしら。返答次第じゃサトリ君、アークエネミーの他にも人類の意外な強さってヤツを目の当たりにする羽目になるけど?」

「あっ、ああ―――っ!?」

 ヤバい、ぽっきゅぽきゅにやられる!?

 でも今さら駆け足で逃げたって振り切れない。折り畳み自転車だってサドルにまたがってペダルを漕ぎ出すまでにメンドウコテ全部いかれる。どうする、僕はどうすれば良い!? くそう、マクスウェルがいないと僕はこんなに非力なのか!!

 もはや念じるしかなかった。

 もう一発二発もらうのは覚悟した。だからせめて風よ吹け! 仁王立ち委員長のスカートよめくれ上がれーっ!!


 直後の出来事だった。

 ほんとに良い風が委員長の股の間を吹き抜け、目の前で制服のスカートがぶわりとこれ以上ないくらい盛大にフルオープンされた。


「……、」

「……。」

 お互い、しばしの無言であった。

 あまりに突然の事態だったのか。委員長は舞い上がる布地を押さえる事さえできなかったようだった。両手を腰に当てての仁王立ち、まさに御開帳。ちなみに御神体は白一択であった。安易なシマシマなどに浮気しない、これぞ日本の委員長だった。正面を彩るワンポイントの小さな赤いリボンに、僕は山の頂上で初日の出の御来光を拝んだようにクリアな気持ちになる。

 当然、真正面で正座させられていた僕は全部見た。それはそれはローアングルから余す事なく。

 正直に言おう。

 合掌したい。

 光十字とか『コロシアム』とかアークエネミーとか色々大変だけど、これ見たら今年も一年頑張ろうって思える。

 そして数秒。ようやく重力を思い出したスカートがひらりと幕を下ろし、最高にクールでエキサイティングな本日のメインイベントは終了した。

 俯く委員長は何故だか見えない静電気みたいなので長い黒髪を数本波立たせて、

「……サトリ君……?」

「いいや待て、待った委員長! これで僕が一方的にメンドウコテされるのは流石におかしい、念と風の因果関係はまだまだ科学的に証明された訳ではないはずだ!!」

「……つまり、念自体は送っていた訳ね? 私、結構真面目な話をしていたつもりなんだけどなあ」

 きゃっ、きゃーっ!! 何にしてもヤブヘビ、どっちに舵切っても大ダメージの予感!!

 正座のままガタガタ震え、今走馬灯が見えるとしたら委員長の白とかリボンとか眩い太股とか布についたシワとかで埋め尽くされるんだろうか、それもまた一興だな、もはやそう思うくらいしか心の逃げ道はなかった。

 その時だった。


「ごほんっ!」


 わざとらしい咳払いがあった。

 早朝の住宅街にて、木刀で脅されて家の裏手に引きずり込まれた僕と引きずり込んでパンツ見せた委員長(ここだけ切り取ると意味深)が同時に振り返る。

 そこに立っていたのは……女の子?

 地味なスタジャンにジーンズという出で立ちもさる事ながら、長い黒髪を帽子の中へ無理矢理詰め込み、顔をサングラスとマスクで隠しているから性別も分かりにくい。胸まわりの膨らみから何となく女の子だっていう区別がつくくらいだ。……まあ男であのコーディネートだったら変質者扱いで即通報されたっておかしくないほどだけど。

 でも、根本的に誰だ?

 変質者でなければあんな格好、ドラマの中で良くある顔バレを防ぎたがる芸能人とかアイドルとかのベタな変装に見えるんだけど……。

「えー、あー。同じ女性として引き止めるのも心苦しいんだけど、木刀持ってるし一応仲裁に入った方が良いかな? どんな形であれ助けられた身の上としては、『恩返し』をするのが相場でしょうし」

「ちょっと待て……その帽子の中の黒髪……」

 顔を隠しているから相変わらず分かりにくいけど、言われてみれば。

「自己紹介が遅れたわね」

 テレビカメラの前に出て。

 長い長い髪を体に巻き付ければ全身を水着のように覆い隠し、両足を大きな尾びれのように作り替える。そんな不死者に心当たりはないか。

「黒山ヒノキ。ご存知、あなた達に敗北して、救ってもらった人魚のアークエネミーよ」


   2


 アークエネミー。

 元来の意味は『大いなる敵』で、とある一神教ではサタンの事を差す。転じて『魔王』という意味でも使われてきたらしい。

 今では寿命という概念を超越し、またそれを周囲の人へばら撒きかねない存在。不死の病という感染源に指定されたモノ……なんていうのにあてられる名称の方が一般的だ。

 例えば吸血鬼の姉さんや、ゾンビのアユミのような。

「……アークエネミーって、サトリ君また何か首を突っ込んでいる訳?」

 第三者の介入で頭を冷やした委員長は、手にした木刀を生垣の向こう……つまり自宅の庭に放り投げながらそんな風に言った。

 これに、かえってびっくりしたのは黒山ヒノキの方だった。

 僕も同じ気持ちだ。

 委員長は昨日のテレビを観ていなかった? あるいは、カメラが注目していたのは選手だけで、セコンドの僕なんて映っていなかった?

 何にしても僥倖だ。委員長を巻き込むリスクがまた一つ減った。

 人魚の黒山ヒノキは、サングラスを通して目線で語りかけてきた。

 ……このまま話をして良いか、と。

 対して僕は首を横に振る。

 ダメ。

「何よ、もう……」

 委員長は網の上に置いたお餅みたいに白いほっぺたを膨らませてしまった。内緒の話があるっていうより、自分には分からないアイコンタクトがあるっていうのがもう気に入らないって感じの顔で。

「サトリ君のバカ。くそうーもっと鍛錬に励んで不死者なんてぶっ飛ばせる秘奥義を身に着けてやるんだからーっ!!」

 とんでもなく不穏な宣言を言い放ち、彼女は勝手に走り去ってしまった。

「……マジでやりかねないから怖い。どうしよう、片眉剃った委員長がボロボロの袖なし道着纏って山籠もり始めるなんて言い出したら。僕には止められるか自信がないよう」

 小さくなっていく背中を見送りながら思わず呟くと、帽子、マスク、サングラスの三種の神器で人相を隠したまま、二本足の人魚はくすくすと笑っていた。

「……良いじゃない、可愛らしいお友達で」

「あれが無駄な努力ならまだしも、ほんとに有段者の道を登っちゃうから委員長は油断ならないんだ。全体的に何でもかんでも真面目過ぎる」

 ようやくスマホの電源を入れ直し、マクスウェルと繋がりながら僕は息を吐く。

 が、黒山ヒノキは眩しいものを見る調子を崩さなかった。

「それでも可愛らしいわよ。……そっか。彼女、『私達みたいなの』に取られるのが怖くて体を鍛えていたのね。だとすれば団欒の最中に悪い事をしてしまったわ」

「?」

 何の事か良く分からないけど、アークエネミー達の間じゃ木刀片手に詰め寄られるのが団欒に映るのか。彼女達の感性はちょっと理解しがたい。

 僕は折り畳み自転車を両手で押して、改めて表の道路に出ながら、

「今日は何の用? アンタはもう『コロシアム』から解放されたはずだ」

「だから言ったでしょう。その恩を返させて」

 サドルにまたがるのも忘れた。

 わずかに沈黙し、向かい合い、そして言う。

「……もう一度、光十字と接点を持つ事になってでも?」

「っ」

「ノーなら出直した方が良い。イエスならそれはそれで気軽過ぎて腹が立つ。良いか、命を張ったのは僕じゃない。井東ヘレンだ。彼女は赤の他人のために文字通り命を賭けて、アンタの借金を背負い込んだ。それをもう一度棒に振って、どぶに捨てるだって? 冷静に考えてくれ、逆の立場だったらどう思っていた。……ぶん殴られても文句は言えないってくらい、ここに来るまでに分からなかったのか?」

「……だからこそ、よ」

 黒山ヒノキも黒山ヒノキで、僕の折り畳み自転車のハンドルに手を置いた。

 勝手には行かせない、っていう意思表示みたいに。

「あれが逆の立場だったら、あそこまで対戦相手について考えられたか分からない。いえ、実際に私は戦って生き残る事しか考えていなかった。できるできないじゃない、最初からそれしか頭になかったの。だから魔女……井東ヘレンの出した答えの尊さは理解しているつもりよ。私には思いもつかなかった夢物語を、実際に現実のものとして表に出してきた」

「……、」

「人魚姫の魔女は意地悪だけど、でも、夢を叶えてくれた魔女に人魚は最後まで感謝していたはずよ。私もそれは一緒。だから、できないはずの夢を叶えてくれたから、私だって無下にはできない。あの子を見殺しにして自分だけ陸(おか)で幸せになるだなんて、そんなの自分で許せない」

 黒山ヒノキは、サングラス越しの瞳でこちらを見据えた。

 彼女は目を逸らしていなかった。

「殴りたいなら殴りなさい。それが魔女を助ける通過儀礼なら、私は流れに乗っかるわ。さあ、あなた達の一員になるために私は何をすれば良い?」

「……分かったよ」

 片手で前髪をくしゃくしゃにして息を吐き、僕は呟いた。

「協力には感謝する。ただしアンタは裏方だ、実際に光十字とかち合うのは僕と井東ヘレン。……基本的にアンタは『引退』したんだ。どんな事情があるにせよ、現役復帰デスマッチなんて絶対認めない。それさえ理解してくれるなら」

「了解。……本当に心配性なのね。でもそこに多くのアークエネミーが惹かれるのかもしれないけど。私達は基本的に頑丈だから、ムチャぶりされる事は多くても人並みに心配される機会は滅多にないのよ」

 握手を交わした。

 ひんやりと冷たい、釣り上げた魚を掴んだような感触だった。

「早速だけど……その制服を見るに、学校生活のサイクルは継続よね?」

「すまない。ほんとはそれどころじゃないんだろうけど」

「良いわ、分かってる。異常な事態に引きずれられて自分も異常に慣れていく、っていうのは、ミイラ取りがミイラに、と何も変わらないもの。……でも、井東さんの次の試合がいつ始まるか分からないっていうのも理解しているわよね」

 当然。

 第一戦は無事に勝てた。でも次がどうなるかは誰も保証してくれない。というより、設定値では連戦を重ねるほど危なくなるのが前提なんだ。ロシアンルーレットの勝率と同じで。

 こんなのは執行日を教えてもらえない死刑囚と同じ。今日は大丈夫だった。でも明日は? 一週間後は? いつか来るであろう破滅の瞬間に蓋をされて、ちっとも開放的な気分になれない。

 だから僕は、いいや僕達は止めなくちゃならないんだ。

 単純に壁に穴を空けて井東ヘレンを連れ出したって、大量の猟犬を放たれて連れ戻されるだけかもしれない。だからもっと大きな、死刑制度、処刑装置そのものの息の根を止めなくちゃ。

「光十字と戦うにしたって、その最中に井東さんがやられてしまったら元も子もないわ」

 僕の決意の目に、黒山ヒノキも小さく頷いて、

「だから、当座のリミットを引き延ばす意味でも、次の対戦相手は誰だとか、どんなアークエネミーにはどういう特徴があるのかとか、何にしても情報を集めるのが大事だと思うの」

「……言われてみれば。昨日はその辺が不足していて、色々振り回されたっけ」

 人魚の黒山ヒノキはもちろん、力や本音を隠していた井東ヘレンにも。

 最初から全部理解できていたら、展開だって随分変わっていただろう。

「後は魔女の力そのものについても知っておきたいな。限界とか、応用範囲とか。ようは、何がどこまでできるのかって話だけど」

 単純に毒針で対戦相手を刺して仮死状態にして解放……は何度も何度も使える手じゃないだろう。でも、逆に言えば『それ以外』の方法をたくさんストックできたら、その数だけ他のアークエネミーを助けられる可能性も増えていくんだ。

 そもそも光十字が用意した土俵の上で戦い続けるだけで僕達は圧倒的に不利で、策略としては下の下、愚の骨頂。だけど救済のストックがあるか否かは、心の余裕ってヤツをかなり左右させる。

「分かった。アンタの仕事は基本的に調べ物って考えれば良いのか?」

「使い捨てのアドレス渡すわ。検索エンジンみたいな感覚で気軽に使ってくれて構わない。リクエストが来たらバンバン情報集めるから」

 ……光十字そのものの仕組みや弱点探しも必須だけど、そっちについては教えない方が良いな。それこそ、せっかく助けた命を無為に散らす羽目になりかねない。

 と、折り畳み自転車のハンドルに取り付けたカーナビ用のスロットに刺さっているスマホからこんなメッセージが投げ込まれた。

『ノー。ユーザー様の情報収集エージェントはこのマクスウェルが一括して行っているため不要ですが』

「……ねえこれ何? どこかから私達を見てるの?」

 変装した人魚が辺りをキョロキョロ見回しながら疑問の声を放つ。

「違う、まあAIみたいなのがスマホに入っているって考えてくれ」

「うん? 電子系のアークエネミー? グレムリンみたいなものかしら」

 黒山ヒノキはいまいちピンときていない顔だったが、

「でも、アークエネミー関係はネットで調べるより古い書物の方が役立つのよ。得体のしれないネット辞典に命預けるよりマシでしょ。私はそういう図書館や古本屋に詳しいから、適材適所で住み分けしない?」

『……、』

「マクスウェル、わざわざ点々をメッセージで返すな。言いたい事があるならはっきりとだ」

『シュア。すでにユーザー様の承認があるなら、システムは決定された方針に従うのみです、ぶう凸(´Д`)』

「マクスウェル。何があったか知らないけど女の子に中指を向けるな」

「良いわよ。そうだ、図書館とか古本屋についてはあなたにも紹介しておくわ。別にソースを隠すメリットはないんだし。放課後は空いているかしら」

「分かった。授業が終わったらどこかで落ち合おう」

 それだけ言って、僕達は別れた。

 少しずつでも良い。

 井東ヘレンを助けたい。そう思う人だって、やっぱりいるんだ。


   3


 折り畳み自転車を漕いで学校まで行くと、話題は大体昨日の一件で埋め尽くされていた。

 テレビ中継されたアークエネミーの処分場、そのレベル4。

 華々しいショービジネスに姿を変えた、『コロシアム』だ。

「すげえよな、井東って一年のアレだろ? 全国デビューだぜ、俺達有名人と同じ学校で勉強していたんだよなあ……」

「ヘレンちゃん今日はまだ来ていないのかしら。一緒に写真撮らせてもらったらカンストグラムの話題独占なのにい!」

「いやあ先生は前から気づいていたよ。あいつはただ者じゃないオーラを出していたって。ていうかアークエネミー? トーゼン気づいていたし?」

 ……どいつもこいつも。

 話題好きの後輩から先輩まで。いいや流行に乗っかるくらいの軽い気持ちで大人の先生まで噂話に花を咲かせている。

 相手がテレビの中に出てきた途端にこれか。煮る側と煮られる側で線引きか。昨日まで同じ学校で一緒に勉強して、ちょっとした一言で顔が綻んだり胸が痛んだりする普通の女の子だったんだって、何で分かってあげられないんだ!

 イライラを隠せなかったけど、僕にはちょっとした用事があった。井東ヘレン、つまり後輩の教室へ足を向ける。

 彼女とは直接『面会』はできない。

 そもそもどこにいるかも分からない。

 ただし、毎日決められた短い時間だけ、スマホ越しの動画チャットで話をする事が許されていた。

『あの、インコのぴーちゃんが無事かどうか確かめてほしいんです』

 画面の向こうの魔女は本気でそんな心配をしていた。鳥かごに押し込められた自分自身よりも。そういえば、彼女は飼育係だったはずだ。

『ぴーちゃんは意外と神経質な子ですし、その、私の見ていないところでたまに変な言葉を覚えている事もありますから……』

 学年をまたいで長居するつもりはなかった。

 井東ヘレンがいなくなった今、誰が水やエサの交換をしているか確かめて報告する。それくらいの気持ちだった。

 そんな気分は、ドアから教室をちょっと覗き見ただけで吹っ飛んだ。


「うっは! これだろ動画に載ってたゾンビインコ!! すげー、マジでキモい。ほんとに傷治ってんじゃんマジキモい!!」


 なんかいた。

 ガタイの大きい男子生徒だった。窓際にある鳥かごに向けてケータイのフラッシュをバシバシ焚いて、一人で勝手に盛り上がっている。

「すげーわ、何で死んでねーのこいつ何度でも蘇る系なの? やべーってこれで俺も有名人じゃんマジで大スクープだって!! アップ、アップ! マジアップ!! うはは!」

 教室からは変な匂いがした。

 小鳥のエサは辺りにぶちまけられ、水と合わさって異臭の元になっていたのだ。

 無遠慮な雄叫びに猛烈なフラッシュ、おまけに劣悪な水とエサ。

 気にするような人間じゃないんだろう。

 僕もこの馬鹿の人権を気にしない事にした。

「マクスウェル」

『ノー。メリットがありません。インコを助けても井東ヘレンを取り巻く環境は変わりません。しかも相手はユーザー様より体格面で優れています。おそらく年齢的にも先輩にあたるでしょう。波風をご所望ですか?』

「そんなのはどうだって良いんだ。……命令する、僕に協力しろ」

『シュア』

 このクラスの面々だって特別井東ヘレンを擁護している訳じゃないだろう。ただ、いきなり乱入してきた最上級生の扱いに困っているような顔ばかりだった。

 なら教えてやる。

 こういう馬鹿をどう扱えば良いのかを。

「おい限度を超えたブサメン。生意気に人間様の言葉が通じるならこっち向け」

「あァ?」

 やっぱり人語は話せなかった馬鹿がもったいぶって振り返った瞬間を狙って、その鼻先でスマホのフラッシュを一発。

 相手の目を潰したところで上体を後ろに反らし、思い切り勢いをつけてヘッドバットを人間になれなかった類人猿の額に叩き込む。

 我ながら結構良い音が炸裂した。

 額と額を押し付けながら、僕は超至近で提案した。


「表出ろクズ。二度と顔上げて廊下歩けないようにしてやる」


 いちいち相手の言葉なんて待たなかった。

 そのまま両手で馬鹿を押して、二階の窓から突き落とした。


   4


 てっきり停学でも喰らうと思っていたし、そうなったら調べ物に集中できるとも打算していたけど、意外と大丈夫なものらしい。学校の先生方としては、書類に記録を残して学校のブランドに傷をつけるのを嫌がったのか。

 形だけのお説教を終えて生活指導室を出ると、先に学校に着いていたであろうデコメガネ委員長が廊下で待っていた。両手を腰に当てる彼女は、インコを収めた鳥かごをぶら下げていた。

「……まったく、正面から勝てないからって出会い頭に校舎の窓から突き飛ばす、普通?」

「ああしないとボコられておしまいだった」

「という事は?」

 委員長の言葉に、僕は黙ってスマホの画面を見せた。

 あちこちボコボコに腫れてさらにブサイクになった誰かさんが大写しになっていた。

「やれやれ……」

 呆れたような声なのに、何故だか委員長は笑っていた。

 僕はケンカが得意な訳じゃない。

 体格差のある相手に素手で逆転なんて漫画の中だけの話だ。多くの格闘技が体重ごとにクラス分けされている通り、体格差は絶対。だけど相手が恐怖と混乱で頭が真っ白になっている間なら、ほとんど一方的に蹴り回せる。それだけだ。

 マクスウェルが補足を入れてくれた。

『シュア。普通科三年二組在籍の岡田ミツルというらしいです。学校裏サイトでユーザー様の名前を出してムカつく後輩をシメるために人材募集をかけていたようですが、完全に裏目に出ています。大炎上です。まあ小動物をいじめていたところを諌められ、しかも後輩にしてやられた腰抜けのリベンジ宣言ですから、笑いの的以外の何物でもないのですが。……ちなみに匿名で学校裏サイトの存在が全国有名大学へ報告されたため、進学関係でも大きなマイナスがつく事でしょう。ざまーみろです凸(`^´)』

「……あなた達ってやってる事は最悪だけど、でも何故だか最短コースの最適解ばっかりだから手に負えないのよね」

 はあ、と委員長は息を吐いて、

「絶対叱らなくちゃいけない場面なのに、こんなの見せられたら『ならば良し』しか言えないじゃない、もう」

 二人して、すでに授業が始まった静かな校内を歩く。

「インコどうするの?」

「私が預かる。一年の教室じゃ単純に飼い方分かんないって感じだったし、朝のああいうのの相手もしなくちゃいけないのかってかなり及び腰だったから。しばらく私の家で面倒見るわ」

「そこまでしてもらわなくても。小鳥くらいなら僕の家でも飼えるし」

「サトリ君に預けると変な言葉覚えそうだから絶対ダメ」

 ……水着ダンスファイルセットの件は意外と根深いのか? やだよー委員長とギスギスするの!!

「ねえサトリ君」

「うん?」

「……大丈夫?」

 委員長はそんな事を聞いてきた。

 僕より早く学校に来ていたんだから、周囲の話題を独占する『コロシアム』については耳にしていたはずだ。僕が深く関わっている事までは分からなくても、アークエネミー同士をかち合わせて悪趣味なショービジネス化したあのテレビ番組の存在を知って、彼女なりに胸を痛めてくれたんだろう。

 吸血鬼の姉とゾンビの妹。

 そんな僕の家族を想って。だから委員長は、僕が自暴自棄になってイラつく先輩にケンカを吹っかけたと考えているのかもしれない。

 ……いや、あながち間違っていないかも。

 インコを助けるにしても、いきなり人間を窓から突き飛ばして後追いで飛びかかる以外にやり方はなかったのか? 本当に?

 彼女は僕以上に僕を見ているかもしれない。

 小さく笑って、僕は答えた。

「……大丈夫だよ。ほんとにヤバかったら委員長に相談してる」

「そう」

 委員長は深く追及してこなかった。

 この押しと引きの絶妙な距離感が、長年付き合った幼馴染みのなせる技なのかもしれない。

 ちょっとレクリエーションを挟んだけど、授業自体は平常運転だった。そもそもケンカ沙汰があった事自体アナウンスされている訳じゃないらしく、事情を知らない人からすると僕は盛大に遅刻してきたと思われているみたいだ。

 つまり先生方は波風を避けている。

 善と悪。どちらにしても、僕に何かしらのジャッジが下る事そのものを良しとしない。僕が英雄になっても、イジメの標的にされても、どっちも減点材料なんだろう。

 まるで。

 自分の学校の女子生徒が誘拐されたのにそれっきりで関知せず、平常運転で授業を進めているこの状況と同じく。

 大人になれば見える世界が広がるっていうのは、必ずしも全員に当てはまるものでもないらしい。中には生徒の『ツカミ』を取るため、率先して『コロシアム』で笑いを取りに行く先生までいる。

 あれが本当の命の取り合いだって分かっていない部分もあるんだとは思う。心停止だの遺体回収だのマイクパフォーマンスでどれだけ謳っても、ただの演出だろうって。

 でも思わず奥歯を噛んでしまう。

 要領が良いだけの大人なんかみんな死ね。僕は一〇年経っても絶対他人の不幸を喰い物にする人間になんかならないからな。

 そんな風にギリギリ胃袋を絞られていると、ポケットの中のスマホが振動を放ってきた。

 マクスウェルか、アドレス交換した黒山ヒノキか。

 予測は外れた。

 動画チャットで小さな画面いっぱいに表示された『そいつ』の正体は、


『ははーはー! みんなの恋人、寂しい夜のパートナー!! どうぞご自由にお使いください、生けるコケティッシュ、バニーガールのカレンちゃんだーっ!!』


 ……っ!?

 思わず世界史の教科書を立てて、古き良き早弁スタイルでスマホを隠す。

「?」

 隣の席の委員長が黒板の板書をノートに写しながら怪訝な目を向けてきたが、今は説明していられない。ただでさえ水着ダンスファイルセットの存在で大噴火なのに、授業中にバニー衣装の美女と動画チャットとか馬鹿か!? 絶対変な勘違いを払拭できなくなるでしょうがもおー!!

 なのでそのまま、やりたくもない内緒話をこそこそ始める羽目に。

「(……何しに来た!?)」

『おっとご挨拶ですねえ。私は運営サイドの窓口、対してあなたは井東ヘレン選手のセコンド、つまり窓口管理のエージェント。仲良くやりましょうよう』

「……、」

『次の対戦相手についての情報を開示します。あなただって何も知らずにぶっつけ本番は望んでいないでしょう?』

「(……そのデータが本物だっていう保証は?)」

 何しろ『あの』光十字だ。フェアプレイだのスポーツマンシップだのから最も遠い位置にいるって言っても良い。警戒するなっていう方が不思議なくらいだ。

『だーいじょうぶですよう。その辺はわたくしカレンちゃんが請け負います。対戦相手の情報について嘘はつきません。そうですね、約束を違えたら、その時はこのカレンちゃんの魅惑ボディを三日三晩好き放題にしてもらって構わない、と提案しますけど?』

「ぶっ!? ……げほんごほん」

 思わず噴き出した事で、教室中の注目を集めてしまった。隣の委員長からはメガネのつるを片手でくいくいされるくらい不審がられているし。廊下に立ってなさいは怖いので慌てて咳払いして誤魔化す。

 画面の中では両腕を使って外側から胸を絞って谷間を強調しながら、青いバニーガールがおめめをくりくりさせていた。

 ……完全におちょくってやがる! ちくしょう心の中でご馳走様ですとだけ言っておいてやろう!!

『あっはは! でもでも冗談ではありませんよ? こちらとしても参加者の皆々様には是非とも「コロシアム」を盛り上げていただきたいんです。我々が望むのは血沸き肉躍るデスマッチ、怒涛のデッドヒート! なのでそのために必要な材料ならいくらでもご提供いたしますので』

「(……アンタは、どうして笑っていられるんだ)」

 思わず、無駄な事だと分かっていても、相手の正気を疑うような口振りで言ってしまった。

「(……アークエネミーって言ったって、僕達と同じように泣いたり笑ったりするんだっていうのは分かるだろう? 噂の中で見聞きしただけじゃない、実際に目の当たりにすれば理解できるだろう? なのにどうしてそんなに邪悪でいられるんだ)」

 おかしいじゃないか。

 エリカ姉さんやアユミを見て、拳を振り上げられるか? アークエネミーって、人間じゃないって教えられても、いざ目の前に立った時、あんな女の子相手に暴力を振るえるか?

 僕にはできない。

 絶対にできない。

 どれだけ教え込まれて刷り込まれても、絶対に思ってしまう。ああ、そんな事したら痛いだろうなって。哀しむだろうなって。手の中にどれだけ強力な武器があるかどうかじゃない。アークエネミーに対抗できるか否か、それ以前の問題。あんな女の子に躊躇なく攻撃の意思を向けられ続けられるのが、もう信じられない。

 普通、萎むだろう?

 どこかで折れるだろう?

 悪意を維持するのって、疲れないのか?

 それとも僕の方が間違っているのか。いいやそんなはずはない。これって『普通』で『当たり前』の感覚じゃないのか。誰かを泣かせたくないって、泣き顔よりは笑顔の方が良いって、そんなに特別な心の動きなのか。

 対して、青いバニーガールは笑ったままだった。

 笑顔のまま、何かが硬直していた。

『それはですね』

「……?」

『……私がかつてアークエネミーなんて名前を持った感染源の言葉なんぞ信じたが故に、正しい道を踏み外す羽目になった外道なんだって言ったら、あなたはどう思います?』

 息が、詰まる。

 まるでボロボロに錆びた刃物で胸の真ん中を突かれるような。そんな気持ちにさせられる、その声。

『なんちゃってね、あっはは! 何でもかんでも信じちゃうそのお人好し機能はしばらく封印しておいた方が良いですよ? そんなんじゃあ文字通り魑魅魍魎が跋扈する「コロシアム」は生き残れませんからねっ』

 乾いた空気は一瞬で吹き散らされた。

 今のは、何だ?

 彼女の本音? それとも感情移入が織り込み済みのブラフ?

『知りたいのは私じゃなくて、井東ヘレン選手の次の対戦相手の情報でしょう?』

「(……っ。話したいなら勝手に話せ。僕はアンタなんか信じないけどな)」

『あっはは! それで良いんですツンデレめ。愛い愛い、苦しゅうない、近う寄れ。ではでは発表いたします、井東ヘレン選手の次なる相手とは!? ざざんっ!!』

 もったいぶった上に自分で効果音までつけていた。

 ……つくづく惜しい。敵同士でなければかなりの美人なのに。


『第二戦のお相手は「妖精」の羽裂ミノリさんでっす! 奮って参加せよ』


 ……、何だって?

 妖精?

「(……ちょっと待て、何なんだそれは!?)」

『ええっ? ですから絵本に出てくるあの妖精さんですよ。結構メジャーなアークエネミーのはずなんですけど、ご存知ありません?』

 確かに妖精は、知名度だけなら吸血鬼やゾンビに匹敵するだろう。妖精にさらわれた犠牲者は人間をやめて同じ妖精になる、なんて話もあるから、感染源としてのアークエネミーの条件にも当てはまる。

 でも、だけどだ。

「(……それじゃ範囲が広すぎるだろう? ヒントになっていないぞ! 掌サイズのピクシーから人の形をしていないユニコーンまで何でもありじゃないか!?)」

『あったりまえでしょう? まったくゆとり世代(笑)はこれだから。最初から全部答えを言ったら逆に試合が盛り上がりません。我々には我々の利害があって情報を無償提供している事実をお忘れなく。大体、井東ヘレン選手のデータもある程度は「妖精」側に流しているんですよ? それが弱点全部網羅なんて事になったらあなただって怒るでしょう?』

「(……っ!?)」

 痛い所を突いてくる。

 というか、やっぱり魔女のデータは向こうに流れているのか。それはどの程度? 把握できない事には、こっちも安心していられない。

『ま、すでに出場経験のあるアークエネミーは番組の録画があるだけ弱点の研究、暴露もされやすいんですが。連戦するほど不利になるっていうのは、何も体力的な問題だけとは限らないんですけどねっ。あっはは!』

 くそ。

 この女。ほんとにこっちのアキレス腱を理解していやがる!!

 意図してクールに努め、煮える頭で無理矢理にでも有益な情報を引き出そうとする。

「(……次の試合はいつなんだ?)」

『のんのん、それを教えちゃあつまらない。死刑囚は明日をも知れぬ運命に脅えるのも仕事の内です。でなければ、一人殺しても一〇人殺しても等しく死刑なんて逆に不公平でしょう? あっはは! その分ですと、無事に胃袋を絞っていただいているようで安心しました!!』

「……、」

『一つだけ教えておきましょう。次の舞台は供饗第一放送ではありません』

 嘲笑うように、青いバニーガールは言った。

『情報操作や印象操作は十分過ぎるほど実施していますが、中にはあなたのようにブレない心の持ち主もいますからね。万一に備え、我々は一つの場所に留まらないのです』

 つまり井東ヘレンの現在地……監禁場所も不明。

 でも逆に言えば、『あの』光十字だって脅えを覚える存在なんだ。絶対の壁なんかじゃない。手を誤れば敗北、壊滅の危機もありえると、自分から宣言している。

 そう。

 僕とマクスウェルの存在を察知して、即座に広大な地下を引き払ったのと同じように。

『ではそれは具体的にどこなのか。色々想像してくださいね、きっと裏切りますから。あっはは! 以上、大会公式広告塔・バニーガールのカレンちゃんがお送りいたしましたー☆』


   5


 次の相手は『妖精』。

 羽裂ミノリ。

 バニーガール発の情報に踊らされるなんて業腹だけど、今はそれが取っ掛かりだ。これでガセだったら本気であのわがままボディで支払ってもらおうと心にメモしておく。

「三日三晩、バニー衣装も込みでな!! 念のために薬局寄ってゴム買っておこう!! 栄養ドリンクってほんとに効くのかなあ!?」

『ユーザー様、覚悟の方向性をシステムに提示してください』

 放課後、学校を出たところで新たな決意を胸にした僕に何故だか冷たい調子でマクスウェルが問い質してきた。

 スマホを折り畳み自転車のカーナビホルダーに突き刺し、スピーカーフォンで指示を飛ばす。

「マクスウェル。羽裂ミノリの個人情報について確認」

『シュア。確かに一週間ほど前から行方不明になっています。家族から捜索願の提出記録あり。通常の失踪扱い、つまり自発的な家出とみなされ、大した捜索は行われていないようですが』

 改めてサドルにまたがり、ペダルに体重を押し付けながら僕は先を促す。

「光十字が介入した痕跡は?」

『シュア。供饗市警の生活安全課刑事が独自に動いていたようですが、パッタリ途切れています。書類上のデータがある訳ではありませんが、おそらくは』

「……上層部の圧力、か。ドラマの話じゃないんだぞ、くそ」

 カレンとかいうバニーガールを信じる事はないけど、羽裂ミノリがクサいのも事実だ。

 僕達を釣る疑似餌を作るためだけに、全く無関係の一般人を『消した』……なんて外道な選択をしていなければ、だけど。

 ちなみに世界へ広がるSNS、カンストグラムからマクスウェルが拾ってきた羽裂ミノリの写真は、垢抜けない二本三つ編みの地味そうなインドア系メガネ少女だった。メガネはメガネでも、勝気でバンバン押してくる委員長とは違う種類のメガネか。『妖精』のアークエネミーらしいんだけど、体のサイズは人間大だし、背中から羽が生えていたり、顔が馬っぽくておでこから一本角が伸びていたり、なんて事は全くない。

 率直に言おう。

 これだけじゃどんな『妖精』なのか判断基準がない。ていうか、ほんとにアークエネミーなのかどうかも自信がないくらい、彼女はヒトだった。

 ……あるいは、捕まった当人が一番信じられないのかもしれないけど。

「お待たせ」

 折り畳み自転車で待ち合わせの場所に向かうと、ややあってそんな声が飛んできた。

 長い長い黒髪を無理矢理に帽子の中へ押し込んで、アイドルのお忍びみたいにサングラスやマスクで人相を隠した、意外とグラマラスな少女。

 人魚のアークエネミー、黒山ヒノキ。

「……そんな派手に遅刻したつもりないんだけど、待たせちゃった? ぴりぴりしているわね」

「いや、すまない」

 自転車にまたがったまま、僕は率直に頭を下げた。

「話はメールで送った通り。次の対戦相手は羽裂ミノリとかいう女の子らしい。『妖精』のアークエネミーみたいだけど詳細不明。掌サイズのピクシーから人間の形をしていないユニコーンまで何でもありだ。協力してくれ、手分けして調べよう。まずはここを詰めないとどうにもならない」

「良いですとも。そんなものが恩返しになって、あの子の起死回生に少しでも関われるなら」

 決まりだ。

 とはいえ、いくら格好つけたって僕にできる事は限られている。アークエネミー絡みの文献だと、逆に最先端のマクスウェルには見つけにくいって事も含めて。人魚の時は何とかなったけど、ネット全体から吸血鬼だのゾンビだのの情報をかき集めたら、八割方はテレビゲームやらホラー映画やらのデータで埋まってしまう。残る二割だってソースの怪しさは変わらず。一見学術系の体裁を整えているが、蓋を開けたらRPGの攻略本が管理人のバイブルでした、なんて良くある話だ。

 そんなこんなで基本的には人魚の黒山ヒノキ任せ。確か、アークエネミーに強いアナログな図書館とか古本屋とかを教えてくれるって話だったけど。

 折り畳み自転車で二人乗り。背中に密着する柔らかい膨らみに心拍数を無駄に倍増させながら、ナビされて連れてこられたのは商店街だった。

 ここ、うっぷ。現実とヴァーチャルを混同するのは良くないけど、シミュレーションの中でトイプードルのゾンビを殴り倒した辺りか。

 でも、

「……?」

「意外だったでしょ。ちょっと日陰の方に歩くと古本通りがあるのよ」

 黒山ヒノキが言った通り、同じ商店街でも普段あまり入らない狭い路地みたいな所に向かっていく。一風変わったスパイスや紅茶の茶葉がたくさんあって何より深夜営業どんと来いな姉さん御用達の輸入食材スーパーや、たまにアユミのヤツが無理に大人ぶって頭のイカれた下着を買ってくるランジェリーショップなどが並ぶ目抜き通りからはかなり離れている。

 ……確かに、古本屋は日焼けを嫌うから、西日の入らない方角に門を構えるのが基本、みたいな話は雑学クイズとかで耳にするけど。でもここまで徹底していると逆に湿気にやられそうだぞ。

 僕が自転車を止めると、荷台から降りながら黒山ヒノキはこう言った。

「……そう、そこの、怪奇堂さんって所、アークエネミーって言えばとりあえずここだから覚えておいて」

 言いながら、彼女は先に立てつけの悪い引き戸を開けて半ば傾いた小さな店に入ってしまう。

 自転車にチェーンロックを掛けてから、僕も置いていかれないように慌てて後を追う。

 と、スマホが震えた。

 画面を見ると、こんなメッセージがある。

『警告、電波が微弱です。以降は万全のサポートを保証できない事態が想定されます』

「何だ、検索エンジンにはできない調べ物って言われてむくれているのか?」

『……、』

 わざわざ点々だけ送信してくるんじゃない。

 半ば呆れながら、今度こそ時代に取り残されたような古本屋に入っていく。

 外から見た以上に狭かった。

 まさにぎっちりと本棚で埋め尽くされ、体を横にしないと通路を歩けない。でもって床や本棚の上にも重たそうな段ボール箱がいくつもあって、その全部に分厚い本が詰め込んである。

 手軽に触れる安っぽい文庫や漫画の単行本なんて一冊もない。基本的に革張り。下手すると中の紙自体パルプじゃなくてパピルスとか羊皮紙とかかも? っていうのも珍しくない。日本語以外に、英語、ドイツ語、中国語、どこの国かイメージも湧かないヤツはラテン語か、あるいは北欧とか東欧とか?

「いらっしゃい。埃っぽくてすまんねえ」

 レジなんて上等なものはなくて、電卓と小さな引き出しに、収納するために生まれてきましたって感じのこぢんまりしたお婆ちゃんが静かに座っているだけだ。

 と、いうか……。

「お、おい。こんなの一冊いくらかかるんだ。冗談抜きに変なプレミアがついているお年玉クラスばっかりだろう。情報収集って言ってもこっちは高校生だ。できる範囲には限界だってあるんだぞ」

『えっへん。だから基本無料のネット空間は万能なのです』

 うるさいマクスウェル。

 何で主人が窮地に立たされるとお前が得意げになるんだ。

 が、当の黒山ヒノキは簡単に笑って、

「立ち読みオーケーだから問題ないわ」

「……これが?」

 恐る恐る本棚の方を見てしまう。

 本の価値は中身であって装丁じゃない。だけど本革に金文字、羊皮紙なんて使っている古文書なんか不用意に触る気も起きない。万一ページを破ったら、なんて次元じゃない。指の油がどうたらこうたら難癖つけられるかもって考えるだけで足がすくむ。

 そう。

 シンプルな本っていうより骨董品とか美術品とか、そっちの匂いがするんだ。

 ところが、人魚の少女は何の気なしに適当な一冊を本棚から引っこ抜いた。カステラの表面を守っているような薄い油紙で保護された、電話帳よりも分厚い書物を手慣れた調子でめくりながら、

「逆に一冊何万もする古本を触らずに買えっていう方がおかしいのよ。買ってから文句が噴出したらクレーム合戦の嵐じゃない。この辺りは車のディーラーと一緒かしら。一度に扱う額が大きいからご成約までのサービスは豊富なの」

 頑固親父が店番しているところだと誤解されがちだけど、と黒山ヒノキは付け足す。

「……それより、『妖精』について調べたいんでしょう? 対戦相手の羽裂ミノリは見た目自体は人間と変わらない。となると人と変わらない容姿を持つか、人に変身できる種族辺りがクサいわよね。妖精図鑑ならこの通り腐るほどあるけど、もう少し絞り込みはできないかしら」

「うーん……」

 そう言われても、こっちは羽裂ミノリがワタシって言うのかボクって言うのかも分からないからな。

 ともあれ、

「情報が足りないならおいおい補完していくって事で、ひとまず案内を済ませるか。じゃあ怪奇堂さんの場所だけ覚えておいて。次に行きましょう?」

「次?」

 質問すると、人魚の少女はサングラス越しに片目を瞑った。

「図書館よ」


   6


 アークエネミーに詳しい図書館なんていうから、入口の左右には山羊ツノ悪魔の石像があって、床には血の魔法陣がびっしり、場所そのものだって異次元の隙間にでもあるんじゃないかって思っていた。

 とんでもなかった。

「いやいやいや。普通の市民図書館じゃないか! 僕だってテスト前とかお世話になるよ!! あとアユミのバカに夏休みの宿題で泣きつかれた時とか!」

 なんていうか、どこかに美味しい隠れ家的なレストランはない? って質問したら、近所の牛丼屋に連れて行かれたような気分。確かに美味しいけど今そっちじゃねえよ!! って想いで胸がいっぱいになる。

 ところが黒山ヒノキは自信満々に(意外と豊かな)胸を張ったままだった。

 ……近所の牛丼屋感覚なのに……?

 ツユダクネギモリみたいな秘密の合言葉でもあるんだろうか。半信半疑で人魚についていく。

「確かに平凡な図書館だけど、奥の方に寄贈コーナーがあるのは知っている? つまり、一般市民から寄付してもらった古本を集めた本棚なんだけど」

 分かりにくかった。

 奥まった誰にも見つからない場所にある訳じゃない。逆に普通の本棚と普通の本棚の間に、ごくごく普通にしれっとした顔で混じっているのだ。

 カオスであった。

 単純にアークエネミーってだけじゃない。ネス湖の秘密とか時空を越えたアトランティスの戦士達とかノストラダムスの新事実とか火星の人面岩とか、もう何でもありだ。逆にこの本棚から虚実を選り分けるのが大変そうなくらい。

「……よっぽどの物好きがご近所に住んでいるのね。あるいは本物のアークエネミーとお近づきになるためにわざわざ引っ越してきたのかも」

 紹介した黒山ヒノキも苦笑混じりだった。

「ともあれ、私達みたいなのにとってはありがたいわ。知識は相当偏っているけど役に立つ。人魚ってどういう生き物で何ができるのか。ぶっちゃけそれもここで調べたくらいよ」

 そうか。

 妖精だけじゃない。魔女についても深く調べられれば、井東ヘレンの方の手数を増やす事で優位に立てる道もあるんだ。

 何しろこっちは取扱説明書もない状態でぶっつけ本番の格闘ゲーム大会に巻き込まれたようなもの。とりあえずレバガチャで必殺技は出るんだけど、そこには何の確約もない。何色のゲージや数字が何を意味しているのかも分からないのに近い。そしていちいちトライアンドエラーで一つ一つ確かめている余裕もない。失敗、敗北はイコール死刑執行なんだから。

「他にも大学の奥とか研究機関とかにも生物学とか民俗学とかのエキスパートはいるんだろうけどさ、ツテなしで自由に調べられる範囲だと怪奇堂さんと市民図書館の二つはマストかなー」

「だろうね」

 民俗学者なんて下手したらアイドルよりも接点がない。何をしてどういう風にお給料もらっているのか全く想像がつかない。

『ユーザー様。今後の方針を教えてください』

「まずは羽裂ミノリの特徴が分からない事には『妖精』の種族も絞り込めない。マクスウェル、こっちにあるのは名前と顔写真くらいだ。これだけでどこまで洗える?」

『シュア。どこまでも』

 人魚の黒山ヒノキは肩をすくめた。

「となるとこっちは結果待ち?」

「まさか。明日にでも、いや今日にでも不意打ちで次の試合が組まれるかもしれないんだ。とにかく時間が惜しい。こっちはこっちで先行しよう。妖精図鑑とやらから人間そのもの、あるいはそっくりに化ける妖精を片っ端からピックアップする。細かい取捨選択は後回しで良い。夜はご飯を食べないとか水が怖いとか、羽裂ミノリの行動パターンが分かってくれば、自然といらない候補は弾いていける」


   7


 そこから先は文字との格闘戦だった。

 実を言うと学校に行っている時間だって惜しかった。でもこれを切り離したら、合理的ではあっても異常に取り込まれるようなものなんだ。ミイラ取りがミイラに。僕が光十字みたいに『人間』を見失わないようにするには、とても大切な事らしい。

 古本屋の怪奇堂に誰もが使っている市民図書館。

 放課後になるとすぐに自転車を走らせて、門限ギリギリまで調べ物に没頭した。家に帰ってくるとコルクボードにメモを張り、関連項目をピンと紐で結び、浮かんだアイデアをノートにまとめ続けた。行く先々では必ず黒山ヒノキと合流できる訳じゃない。メールを使った情報共有さえできれば、互いの調べ物は邪魔しない。それが暗黙の了解になっていた。


『座敷童みたいに家を守る白い家政婦のシルキー、金髪の子供だけをさらうタルウィステグ、雨の日にずぶ濡れで戸口に現れて家人の優しさを試すグルアガッハ。……意外と探せばいるものなんだな。完全人型の、全く見分けがつかない妖精って』


 しかもこのパターンは美女や美少女ばっかりだ。接し方次第では結婚もできて子供も作れるけど、いくつかあるルールを破ると行方を晦ませてしまう、とかいう話も多い。


『妖精全般の弱点は……鉄? いたずら者の妖精が家に寄りつかないようにするには、馬の蹄につけるU字の蹄鉄を戸口にぶら下げておくと良い、か。姉さんにとっての銀の武器みたいなものなのかな』


 厄介なのは、オカルト本には単純な事実の他に編纂者の願望みたいなものも結構混じっている事。例えば、西洋圏の怪物は大体十字架を突き付けると弱体化される。……生まれが十字架に特別な意味ができる以前、紀元前からの怪物であってもお構いなしに、だ。そこまで単純なら、個別の種族名を冠した恐怖心が今日まで残るとは正直思えない。どれもこれも全く同じ対処法で楽々倒せるなら、それらはゴーストとかモンスターとか、一括りの有象無象にされてしまうんじゃないかな。

『妖精に鉄』は、果たしてどちらか。

 あまり万能で何にでも効くは鵜呑みにしないと考えた方が良いかもしれない。


『そもそも一口に妖精って言っても出自は色々あるのか。最初からそういう種族、古代宗教の神様がみんなに忘れられた末、元は人間だったのが仲間入りを果たしたモノ……』


 古本屋や図書館だけが情報源じゃない。

 家にいる時は、惜しみなくエリカ姉さんやアユミからも話を聞いた。彼女達は僕が少しでも光十字に関わるのをほんとに嫌がっていたけど、でも聞かれた事にはきちんと答えてくれた。


『「コロシアム」の装丁も随分変わったけれど、根っこの理論が同じものなら一つの不文律があるんです。その名も「五戦の絶壁」』

『その名の通り、どんなアークエネミーでも「コロシアム」で五回連続戦わされると必ずどこかで死ぬ、第六戦には絶対届かないっていうルールだね。あたし達は例外で、統計の悪魔なんて恐れていたけど』


 つまり、それがリミット。

 道理で青いバニーガールがいらないヒントをバンバン出してくる訳だ。向こうからすればどっちが勝っても良いんだ。互いに深手を負うような激しい戦いを演出できれば、後は積み重ねた傷口が泥沼のようにアークエネミー達に絡み付いていく。

 僕達としては、目の前の一戦を乗り越えたのは喜ばしい事だけど、死神の時計の針は確実に動いている。始めてしまったら途中で降りられない以上、実質的に壁となる第五戦には井東ヘレンを進ませられない。こっちのストックは、二、三、四、すなわち残り三つしかない。それだって、一戦一戦は命をすり減らす本物の殺し合いだっていうのに。

 仮に四日連続なら四日目で足が出る運命。

 最短なら一週間の半分しかない猶予。

 ……本当に『コロシアム』を止められるのか。光十字を潰せるのか。自信なんてあるはずがない。でもやるしかないんだ。少なくとも、諦めた先に未来はないんだから。


『シュア。対戦相手、妖精の羽裂ミノリについての情報を一定量蒐集しましたのでユーザー様に報告します。羽裂ミノリは私立エリクシール女学園高等部に在籍。学業、運動、共に平均。クラスでは目立たない位置にいて、学校関係者周辺のブログやSNSに名前が挙がる頻度は水準以下となっております。一方でこちらはあくまで書き込みの分析ですが、恋多き少女としても知られており、過去数回にわたって、学校の生徒や教師との関係を疑われているようです。いずれも将来有望な天才少女やエリート女教師ばかりですが、流石にここから先はゴシップ色が高過ぎて確度の保証はできません。真実にしても風説にしても、女子校にも色々あるようですね、としか』


 エリクシール……という事は、アユミの中学校の上位互換になる。

 それにしても、影が薄くて恋多き、とはアンバランスな。一体どういう話し方をする人なんだか想像がつかない。

 ……スマホの画面と長時間睨み合ったのがまずかったのか、時折視界がぐらつく。頭の芯を見えない手で掴まれるような感覚だ。

 騙し騙し休憩を挟みながら、でも調べられる時にできるだけ作業を済ませておきたい。

 久しぶりに図書館で会った人魚の黒山ヒノキは相変わらず屋内でも帽子、サングラス、マスクの三点セットだった。かえって目立ちそうな気もするが、アユミの匂いの儀式と似たようなものかもしれない。安心を得るためなら、流石に取り上げられないか。

 彼女はボールペンや蛍光マーカーで色々書き込んだ大学ノートを机に広げながら、こんな風に言ったものだ。


『魔女の力を最大限に使うなら、自分で薬を飲むだけじゃなくて、妖精側にもぶつけられれば幅が広がるんじゃないかしら。粉薬だったら小さな袋に、塗り薬だったら小瓶に詰めて投げつけるとか。注射系だと麻酔銃もあるけど、そこまで持ち込めるかは謎ね。自分用に解毒剤やワクチンを作れるなら、四角い虫かごいっぱいを丸ごとガスで埋め尽くすって手もある。後は刃物に塗ったり? 何にしても、応用次第で遠中近、一対一から全方位範囲攻撃まで、メチャクチャ応用効きそうじゃない。井東ヘレンにこのノート見せて、具体的にできるものとできないものをチェックさせてみましょう。彼女ができないと思っても、私達がアイデア出せばブレイクスルーが起きるかもしれないわ』


 井東ヘレンとも話はできた。

 もちろん直接会ってじゃない。青いバニーガールと同じく、彼女がどこにいるかは不明のまま。一日一回、決められた短い面会時間にスマホ越しの動画チャットで話ができるだけ。

 それでもマシだ。

 こうして『外』で調べた情報を少しずつでも渡せるんだから。戦う前に準備を固められるんだから。


『……ぶう。何だか黒山ヒノキの話ばっかりです。あっ、こっちは大丈夫。ちょっと体が重たいけど、きっと緊張が取れなくて眠りが浅いだけ、ですから』


 体も心もどんどん擦り減っていったけど、色んな人の協力を得てたくさんの情報が集まってきた。

 それらを基にふるいをかけていく。

 僕達の手元には大学ノート。オカルトな妖精図鑑から、人間そっくりな妖精、または人間そっくりに化けられる妖精をざっくりピックアップして並べたもの。

 それに、マクスウェルを中心に蒐集してもらった羽裂ミノリの特徴と照らし合わせていく。

 いきなり答えを出す必要はない。

 羽裂ミノリはパッと見なら普通の人間と区別がつかない。『コロシアム』に連れ去られたとして、周りも寝耳に水だっただろう。あるいは、当人が一番驚いたのか。

 だから。

 例えば、血を吸う美人だけど足が鹿の蹄そっくりのバーバンシーは違う。

 例えば、男性を惑わす美女だけど背中に木のうろみたいな大穴が空いているスクーグズヌフラも違う。

 首なし騎士のデュラハン、掌サイズのピクシー、一本角の馬のユニコーンなんかももちろん違う。


『人間、女性、影が薄い、恋多き、天才やエリートを好む……』


 手に入れた情報を細かく区切って、手探りで検索を進めるように仕分けを続けていく。

 大雑把な岩石を削り取り、中に隠れた一粒のダイヤを浮き彫りにしていくような。

 最初は冗談抜きに数十はあった候補も、気づけば二つか三つになっていた。

 達成感と同時に疲労感も体にのしかかる。思わずこのまま床で丸まって眠ってしまいたいくらいに。

 だけど答え合わせの方が先だ。

 そう。

 僕はもう答えを知っている……!


『リャナンシー。これじゃないか? 人に恋する事で取り憑き、美人なんだけど憑依された人にしか見えない。そして恋人に優れた才能やインスピレーションを与える代わりに、その精気や寿命を吸い取って死なせて、しま、う……!?』


 くらり、と頭が揺れた。

 ああもう、何で今の今まで気がつかなかった。これは本当に僕の力『だけ』で辿り着いた真実か。ここに至るまでのインスピレーションは誰からパスしてもらったものだ。何もかもトントン拍子過ぎる。古本屋に図書館、アークエネミーに関する情報全部。都合が良過ぎるんだ。

 そしてこの疲労感。

 次の相手は妖精・リャナンシー。

 恋人に優れたインスピレーションを与える代わりに、精気や寿命を奪って早死にさせる。そんなアークエネミー。

 だとしたら。

 今、僕達の―――そう、おそらくは離れた場所に閉じ込められている井東ヘレンもだ―――体にのしかかっている重さは、単なる徹夜続きの疲労じゃなくて……。

 エアコンの効いた静謐な図書館。生き物らしいぬくもりがなくて古代遺跡の石棺みたいなその広大な空間で、僕は今さらながらパートナーへ目をやる。

 帽子、サングラスに、マスク。

 不自然なくらい人相を隠した少女は、テーブルの向かいでうっすらと微笑んでいる。

「くっ……!」

 間のテーブルなんて蹴倒す勢いで、倒れ込むような格好で、黒山ヒノキに掴みかかる。

 いや。

 いいや!?

 ずるり、という音があった。

 帽子と一緒に、巨大な塊がずり落ちる。全身に巻き付けても余りある……はずの、長い長い黒髪。まとめて帽子の中に押し込んでいると思っていた。でも違った。

 外れたのだ。

 ……ウィッグ、だとすると、やっぱり……?

「ばーれちゃった」

 そのまま力を失って床に転がる僕に巻き込まれないよう、その少女は後ろに下がった。

 帽子は取れ、ウィッグも外れ、そして彼女はサングラスとマスクも自ら取り去っていく。

 出てきたのは、黒山ヒノキとは似ても似つかない誰か。

 彼女はくすくす笑いながら、短い茶色の髪をヘアゴムで縛っていく。アユミほどじゃない。飴玉の包みみたいに頭の左右から髪束を飛び出させるような格好の少女の正体は……。

「リャ、ナンシー……? でも、羽裂ミノリ本人が自由に外を歩けるとは思えない……」

「良いのかなあ、わたしに答えを求めて。インスピレーションを得るたびに、どんどん衰弱は進んでいくはずだけど」

 くそ……!

 本人でなければその身内か。口調だって全然違う。僕と同じようなアークエネミーのセコンド役? それにしても、確実に試合で勝つために、ゴングが鳴る前から場外乱闘を仕掛けてくるだなんて!

 折悪く、大学ノートや筆記用具と一緒にテーブルから床へ落としたスマホが小刻みに振動した。

 画面の方からはこうあった。

『ぴんぽんぱんぽーん! 数日ぶりで寂しかったかにゃ? カレンちゃんは哀しくて哀しくて死んじゃいそうでした! ではでは準備も整いましたので添付地図の特設会場までどうぞ。「コロシアム」の第二戦、魔女・井東ヘレンVS妖精・羽裂ミノリ! みんなで力を合わせて最高にエキサイティングな世紀の対決を演出しましょう!!』

 青い、バニーガール!?

「……ま、て! こん、なの、あり、なのか……。こっちは、全然、万全なんか、じゃあ……!」

『はにゃにゃー?』

 鮮やかに輝く青い髪を揺らして、分かりやすいくらい首を傾げるバニーガール。

『なら、「五戦の絶壁」はここらで牙を剥くのかにゃ?』

 ちくしょう。

 こんな連中にフェアプレイの精神なんて求めるだけ無駄だった。光十字は試合展開なんてどうでも良いんだ。ただアークエネミーを檻の中で殺し合わせ、安全に効率良くその数を減らせられれば。

 倒れる僕を仁王立ちで睥睨しながら、セコンドの少女は言った。

「お互い身内が大切なら、方法なんて選んでいる場合じゃないんじゃない?」

「……、」

「それに選手まわりの健康管理もセコンドの大事な仕事だよ。君はそれを怠った。ま、こんな『助言』を丸呑みするようなら衰弱は避けられないけどね、あははは!!」

 どこからどこまで迷宮を敷かれた?

 この少女からもたらされたデータは多い。敵の妖精にしてもそう、魔女としての戦い方にしてもそう。

 そしてそれらを活用しようとすればするほど、逆にこっちの精気や寿命が奪われる。

 先回りされた。セキュリティホールを埋めるように。

 自分で自分の正体や弱点を表にさらす事で、逆にこっちが攻撃できない状況を作ってきた!?

「それじゃあ今夜をお楽しみに」

 変装用のサングラスやマスクは適当に放り捨てたまま。

 彼女は僕に背を向ける。

 悠々と出口へ歩く。

 振り返らず、しかし片手を振って、嘲るように彼女は言った。

「自らの無策と無力を呪い、全てを失う瞬間に立ち会いなさい。君にとっての『大切』はその程度のものだったんだってね」