• 村松ユキエ

    村松ユキエ
    アークエネミー【ダークエルフ】


第六章



   1


 真夜中なのに外から見るだけで異様な熱気、活気が分かってしまう。

 今回の特設会場は湾岸観光区駅前繁華街の外れにあるスタジアム球場だった。

 球場全体を取り囲む楕円形の壁に面して二〇以上のゲートがあるはずだけど、僕達が案内されたのはそのどこでもなかった。スタッフ用の出入口から内部へ入る。

 収容人数四万人以上。

 そこを埋め尽くすだけの観客、人気、知名度、市民権、とにかく色々手に入れた訳だ、この『コロシアム』は。

 僕達がいるのは上の観客席ではなく、半地下のようになった場所だった。普段はあまり見られない投球練習場のスペースなどを抜けて、チームの控室に向かう。

 壁際にずらりと並ぶロッカーと、中央に寄せられたベンチ。

 魔女の衣装にガラスの杖を手にした、井東ヘレンが待っていた。

「井東さん」

「……先輩」

 何だか顔が青白く見えるのは、安っぽい蛍光灯のせいだけじゃないだろう。小さな額に浮かぶ冷たい汗を見るまでもなく分かる。脱皮だけじゃダメだった。第二戦で受けた、体の芯に残るダメージを取り除けなかった。

「もうすぐ終わる」

 僕はそう言った。

 今は少しでも勇気づける言葉が必要だと、そう感じた。

「光十字のアキレス腱を見つけた。もう一日くらいで何とかなる。この第三戦さえ乗り越えられればヤツらはおしまいだ。だから井東さん、正直に教えてくれ。……傷はどれくらいきつい?」

「私は、別に何とも……」

 最後まで言わせなかった。

 きゅっとマントを体に巻くようにして身を縮める彼女の脇腹……昨夜、羽裂ミノリの棍で激しく殴打された辺りを、警告なしに指先で軽く触れてみる。

 羽毛で撫でるくらいの感覚だった。

 だけど井東ヘレンは劇的に反応し、真上に肩が跳ねた。

「あっ、ぐうう!?」

「……やっぱり」

 努めて感情を顔に出さないよう気をつけながら、僕はゆっくりと言う。

「相当きついだろう。これは……折れている、のか?」

「……こ、これでもマシな方なんです。一応、肋骨はきちんと繋がっていますし」

 本気の涙目で震えながら、小動物系の金髪少女は答えてくれた。

 つまり板チョコの溝みたいなものか。繋がっているけど完璧じゃないからちょっとの衝撃でペキペキ折れかねない。

「他には? 特別痛むところはない?」

「別に……」

「答えないなら体中触って調べる」

「ひゃっ、ひゃい! 分かりました、言いますから!!」

 顔を真っ赤にして危なっかしい生足を内側に擦り合わせ、びくびく震える井東ヘレンは細い指を折って一つ一つ怪我の箇所を並べていく。

 多いな。

 ていうか赤いマニキュアを塗った両手の指じゃ足りなくなってる。やっぱりいくら魔女でも、二本の金属の棍を素手でガードし続けるのは無茶だったんだ。

 当然、死にもの狂いの対戦相手、ダークエルフ陣営だって録画を何度もチェックしているはずだ。

 ……そして悪意の塊みたいな光十字側のシミュレータだって。

「マクスウェル」

『シュア。正確な検査機器がないので自己申告を基準に考えますが、現状、井東ヘレンの身体機能は六五%出せれば良い方でしょう』

 数値だけならピンとこないかもしれないけど、ようは全力疾走が全力疾走に見えないくらい衰えているって事だ。この状況で髪の毛掴み合って床を転げ回ったら彼女は内側から壊れてしまうかもしれない。

「つまりダークエルフ・村松ユキエ側を近づかせないのが前提か」

『シュア。加えて言うなら向こうはこちらの弱点、負傷部位を率先して狙ってくるでしょう。しかし最初から分かっていれば逆手に取れます』

「……そうか。毒針なんかを仕込んでおけば」

 もちろん怪我している箇所にこれ以上ダメージが入らないのが理想だ。でもそうならなかった場合はできるだけ早く相手を昏倒させる必要が出てくる。それに、弱点には毒針が仕掛けてある、という情報が向こうに伝われば、攻撃を躊躇する可能性だって。

 壁際のスピーカーから青いバニーガールの声が響く。

『ぴんぽんぱんぽーん! ではでは関係各位は特設会場へお急ぎください。今回も全力を出し合って最高にホットなエンターテイメントを提供しましょう!!』

「……苦しい戦いになる」

 僕は正直に言った。

「でもこんなメチャクチャなセッティングをしてきたって事は、向こうもそれだけ焦っているって事だ。自由はすぐそこにある。追い詰められているのは光十字の方なんだ。だから乗り切ろう、この第三戦を」

「ん。先輩が、そう言うなら」

 係員に誘導されて、長い長い通路を歩く。

 今回はスパコンに集中したせいで、ダークエルフに関する情報は道半ばって感じだった。そもそも吸血鬼やゾンビと違って文献の数も少なそうだし。とりあえず委員長に教えてもらったのは、エルフロックとエルフショットか。

 人の髪や馬の毛を縛るもの。

 見えない火打石の矢や火かき棒を振るい、正体不明の激痛を与えるもの。

「そうなんですか……」

 魔女帽子の金髪少女は感心したように頷いているが、正直、井東ヘレンさえ万全ならさほど恐ろしい力には思えなかっただろう。人間を怪物に作り替える薬の方がはるかに派手で、恐ろしい。

 つくづくダメージの存在が痛い。

 五戦の絶壁。統計の悪魔。それらをデザインした光十字のシミュレータが重たい影となってのしかかってくる。

 そして球場入口のゲートまで辿り着いた。

 まだ入っていないのに、もう振動で歓声の大きさが分かる。おそらく青いバニーガールがマイクパフォーマンスで会場を盛り上げているんだろう。不定期に、波のような振動の強弱が生まれるのがはっきりと分かる。

「始めるか」

「ええ。よろしくお願いします、先輩」

 二人して地獄に向かう。

『コロシアム』第三戦。ダークエルフの村松ユキエとの死闘がいよいよ幕を開ける。


   2


『レディースアンドジェントルメン! ご覧ください、あちらが当「コロシアム」を連戦連勝する魔女・井東ヘレン選手! 出会った頃の愛くるしい少女の顔はどこへやら、今では立派なヒトクイ魔女に大成長! 今宵も皆さんのお財布を潤してくれるのか、乞うご期待でございます!』

 恐ろしいほどの閃光に全身を揺さぶる音の洪水。青いバニーガールはグラウンド中央に設置されたサイコロ状の巨大な虫かごのてっぺんに立ち、マイク片手に熱い口を寄せて狂気の煽りを繰り返す。

 ちらりと隣の井東ヘレンに目をやる。

 羽根飾りのついた魔女の帽子を目深に被り直し、その表情を隠していた。何度やったって慣れるものじゃない。悪意満点のアナウンスに何の疑問も持たず狂熱の雄叫びを上げるギャラリー達に小さな心がすり潰されそうになっているのが見て取れる。

『そして対するはダークエルフ・村松ユキエ選手! 未だ実力の見えない期待の新人はダークホースとなりえるのか? ギャンブルの世界では何が起こるか分からない! オッズを鵜呑みにするだけでは痛い目を見ますぞー? 何にしても乞うご期待です!』

 強烈なスポットライトの集中砲火に浮かび上がったのは、長身だがスレンダーな少女だった。たっぷり日焼けしたような小麦色の肌に長い銀の髪をたなびかせ、白い薄手のノースリーブとタイトスカートの組み合わせ。生地が薄いのか、所々白の奥に褐色の色彩が透けていた。足回りについては膝上まである長いブーツだった。……ちなみに両耳は普通にとんがっていた。自由に動かせるのか、時折揺らして猫みたいにあちこちへ向けているのが分かる。

 そして腰回りには矢筒、左手には木や動物の腱を張り合わせたと思しきコンポジット式の長弓。

 もはや武器の携帯を隠すつもりもないか。

 だけど何だろう。矢筒の中に肝心の矢がないぞ……?

 セコンド役は少女の倍はありそうな歳の小太りのおっさんだった。人の事を言えた義理じゃないとは思うけど、いまいち関係性は見えない。だけど世界中を敵に回してダークエルフ一人のためにこんな所まで来たんだから、悪い人ではないはずだ。顔つきは似ていないけど、ひょっとしたら父親や親戚なのかもしれない。

『そういえばー、前回またまたしてやられちゃいましたので、アークエネミーに対する死亡確認方法を更新させていただきました』

 ……またか。

『今回から該当のアークエネミーにガソリンを被せた上で火を点けさせていただきます。持ち帰る際は多少グロくなっちゃうかもしれませんけど、構いませんよね? 元々死体ですし!』

 どっちみち拒否権はないはずだ。向こうが提示した条件を逆手に取って乗り越えるしかない。

 だけど、どうしてなんだ?

 小細工は一切禁止、そもそも遺体回収の権利を剥奪します、で良いようなものを。何でわざわざ可能性を残す? いや、あのくりくりした大きな瞳を輝かせて『ナイスアイデア! だったら今すぐそうしましょう!』とか言われても困るから口には出さないけど。

 あるいは、可能性をちらつかせるからこそ、僕達が深追いして大怪我を負うって考えているのか……?

「先輩、それじゃあ……」

「うん。今回も乗り切ろう」

 小型のインカムを渡して、僕はマントを揺らす小さな魔女を送り出す。

 向こうも向こうで、小麦色の肌をしたアークエネミーが静かに虫かごへ入っていく。

 セコンド役の中年男がしきりに片耳へ手を当てているのが気になった。

 ……インカム?

 選手ならともかく、セコンドには不要なはずだ。使い慣れていない感じからすると、光十字にでも渡されたか。運営サイドと繋がる事はもちろんフェアプレイ精神に反するけど、事は人の命がかかっている。逆の立場だったら僕だって誘惑を振り切れたかどうか自信はない。

『警告、ユーザー様のスマホへのサイバー攻撃を感知、水際で防いでいます』

「早速か。マクスウェル、どこまで保ちそうだ?」

『断言はいたしかねます。単純なスペック差の他に、システム本体とスマホを結ぶラインや井東ヘレンとのインカム接続の都合上、完全切断によるスタンドアロン化もできない状況です。これらの回線の暗号処理を解析されると窓口が開いてしまいます』

「パケットの余白に円周率トラップ。解析しようとしたら永遠に計算が終わらないようにしてやれ」

『シュア。光十字側が単なる計算機ではなく論理思考を可能とする場合は焼け石に水ですが』

 虫かごの中では数メートルの距離を挟んで、井東ヘレンと村松ユキエが対峙していた。

 青いバニーガールはくびれた腰に片手を当て、虫かごの上から生贄達を睥睨して、そしてマイク越しに宣言する。

『それでは今夜も参りましょう! 魔女VSダークエルフ、勝つのはどっちだ!! 「コロシアム」第三戦、時間無制限デスマッチ、ここに始めます!!』

 低く太い、刑務所の房の扉を開け放つような電子音が延々鳴り響く。

 先に動いたのは村松ユキエだった。

 一歩二歩と後ろへ下がりながら、躊躇なくその大きな弓を引き絞る。全身の筋肉が強張りスレンダーな胸がわずかに反る。

 矢は番えていないようだが……?

 まるでパントマイムのような有り様だが、こっちに余裕なんてない。井東ヘレンのガラスの杖だって散歩に出かける老人が道路をつくものとは違うんだ。あの弓はあれで完成していて、ダークエルフのためにえげつない力を貸し与えるオカルトな武器なのかもしれない。

 何にしても思い当たるのは、

「火打石の矢、エルフショットか!」

 見えない矢を放ち、当たった者に原因不明の激痛を与える。

 肌を切り裂く、全身を痺れさせる、ぶつけた覚えのない場所にアザを作る……。

「マクスウェル、弾道予測! 直線と曲線全て!」

『シュア。矢は視認不可ですが弓を引いた長さからサイズを算出。総じて五パターンです。全てのパターンで回避できる安全地帯をスポット検出しました。画面の映像に重ねて表示します』

「井東さ……!」

 叫びかけた声が、詰まる。

 警戒して後ろへ下がろうとした井東ヘレンが、そのまま不自然に転んだのだ。

 見れば分かる。

 左右の靴のストラップ。それらがいつの間にか手入れをしないケーブルみたいに絡み合っていた。まるで小さな子供のようなイタズラ。だけど確実に逃げ足を封じるスキルだなんて、飛び道具持ちにとっては都合が良過ぎる……!!

「エルフロックか、くそ!!」

 どれだけ予測しようが、井東ヘレン当人が動けないんじゃ意味がない。

 直後に何かが空気を引き裂いた。

 ずばんっっっ!! と、あまりにも巨大な風船に鋭い針を突き刺すような轟音が炸裂したのはその時だった。

 倒れた金髪少女の小さな体がびくんっ! と弓なりに仰け反る。仰向けの状態から、たっぷり二〇センチ以上も体が浮かぶ。

 何だっ、あれ?

 傷口を蹴飛ばされたってあそこまで劇的な反応は示さないぞ!?

 床に激突し、絶叫して自分のワンピースを引き裂きかねない勢いでのたうち回る井東ヘレンを観察し、マクスウェルが警告を飛ばす。

『井東ヘレンの動きに癖があります。右のわき腹を庇うような体重移動と推測されます』

「まずい……っ」

 僕達に分かるって事は、光十字側のシミュレータを経由してダークエルフ側にも伝わっているはず。集中的に狙われる!

 束の間、小麦色の肌の村松ユキエがその場で立ち止まってタイトスカートも気にもせず足を広げて地を踏み弓を掴み直す。だがこちらはチャンスを有効に使えない。またも矢を番える事なく弓だけが引かれ、正確に狙いをつけられる。

 火打石の矢を使ったエルフショット。

 あれは見た目の出血はないけど、内部にスタンガン以上の衝撃を与えるらしい。深手を隠したまま戦う井東ヘレンとは相性が悪過ぎる。

「マクスウェル、矢が見えるかどうかは放置! 村松ユキエがここから取り得る有効弾道候補を網羅。候補の全てを回避でき、かつ、倒れた井東ヘレンがその場で転がるだけで飛び込める直近の安全地帯を検索!」

『シュア。座標でお伝えします』

 正確に回避スポットを割り出したはずだった。

 それをきちんと伝えたはずだった。

 魔女も言われた通りに頑張ったはずだった。

 なのに。

 ずぱんっっっ!! と悪夢の炸裂音がもう一度。井東ヘレンの体がその場で転がり、背を大きく仰け反ったまま口を限界以上に開けて絶叫する。危なっかしい生足が盛大に振り回される。

「どうなってる、マクスウェル!?」

『ノー。システムの弾道計算自体は確かで、井東ヘレンは指示通りの動きで対応しています。にも拘らず直撃したという事は、前提条件がおかしい。相手は直角に折れ曲がる魔法の矢でも使っているのか……』

 そんなの出てきたらお手上げだ。ただでさえ目に見えない矢を使ってきて、さらに予想もできない動きでウネウネ折れ曲がりながら迫ってくる? 勝てる訳がないじゃないか、そんなの!

 そうこうしている間にも、銀の長髪をなびかせるダークエルフは決して優勢でもスタンスを崩さず、あくまでも遠くから両足を開いて大きな弓の弦を目一杯引いていく。やはり矢はない。いいや見えない。僕は恨めしそうに虫かごの中を睨み付けるしかない。

 ……。

 でも、いや、待てよ……?

「マクスウェル、村松ユキエのこれまでの動きは記録しているか。弓を番えるまでのアクションを再分析。こっちはとにかく時間がないぞ、急げ!」

『シュア。無意味な催促などしている暇があったら適切な指示をください』

「ヤツは目に見えない矢を番えているはずだった。でもその矢はどこに携帯しているんだ? 矢筒みたいなものは中身がない。腰とか背中とかに手を伸ばしている仕草もない。ダークエルフは、いきなり弓に手を伸ばしている。矢を掴んで引き抜くアクションを無視してだ!」

 確証なんか何もない。

 だけど今はどんな仮説でも検証していくしかない。

『単に魔法の弓を引けば魔法の矢を無尽蔵に呼び出せる、という話では?』

「かもしれない。だけどこうも考えられないか。村松ユキエは矢を取り出していない。そもそも見えない矢なんて存在しない。そういう可能性だ」

 委員長の話が脳裏をよぎる。

 イングランドのエルフは目に見えない火打石で作った矢を使い、人々に原因不明の激痛を与える。効果はまちまちで、かまいたちみたいに肌を切ったり、全身を痺れさせたり、知らない内にアザができていたり。

 でも、何でまちまちなんだ?

 あれは一つの現象に伴う複数の効能、ダメージを表していただけだとしたら……。

「マクスウェル、特に村松ユキエの弓の弦と、それを掴む指をチェック。何か液体か粉末のようなものは付着していないか?」

『シュア。スマホのカメラでは頼りないですが、確かに村松ユキエの指の腹に何か白いものが付着しているのを確認しました』

「塩か砂鉄か、おそらく電気を通すものだ」

 井東ヘレンが不自然に跳ねたのもそれで説明できる。

「ダークエルフは弓の弦に擦り込んだ微細な粉末を勢い良く弾いて射出し、その弾道に沿って電気を流しているんだ! これなら突然肌が切れたり、体が痺れたり、内出血でアザができたり……とにかく委員長の情報が全部当てはまる。『感電』だったんだよ! お前の弾道予測が失敗したのもそのせいだ! 粉末と高圧電流の流れで再計算!!」

 具体的なボルトやアンペアは不明だが、高圧電流は内臓や筋肉を不規則に動かす。医療用のAEDなんかに使われている事からも分かるだろう。そしてAEDにはこんな注意書きがある。肋骨または胸骨損傷の疑いがある場合は使用を控えてください、だ。今のままじゃ井東ヘレンは自分の意に反する、外部からの蠕動によって自分の内臓を自分の肋骨で傷つけかねない!

「井東さん! 打ち合わせ通りに、こっちもクラゲ化で応戦できるか!?」

『っ』

 歯を食いしばるような吐息と共に、倒れてもがく井東ヘレンがガラスの杖を掴み直す。

 途端に黒いワンピースの腰の後ろ辺りから、半透明の九尾みたいなものがマントをなぞるように飛び出した。第一戦、人魚・黒山ヒノキの時にも使ったクラゲの触手だ。

 だけどまともに動かす前に横槍が入った。

 明らかに井東ヘレン本人の意思とは無関係に九本の触手がねじれる。まるでたこ足配線の末路みたいに、互いに絡まって動きを封じられる。

 エルフロック。

 地味だけど色々使い勝手の良さそうな力だ。こっちとしては血管とか大腸とかを直接蝶結びにできるほどじゃなかった事に感謝するしかない。

 そしてクラゲの触手は振り回せなくても構わない。これはそういう使い方をするものじゃない。

『シュア、このまま継続。村松ユキエのエルフショットにも対応してください。失敗すれば次の一撃で右肺に深刻なダメージを被ります』

「井東さん!!」

『んっ!』

 必死の掛け声と共に。

 パキパキパキパキ!! と九本の触手が急速に乾燥していく。白っぽく変色したそれらが砂の塔のように砕けて風に舞う。

 クラゲの毒針は、乾燥して粉末状になっても効力を発揮する。大昔の忍者なんかは目潰しとして敵に粉末を噴きつけていたくらいだ。

 直後、見えない矢が放たれた。

 うっすらと漂う毒針の粉末もまた元は生き物……つまり電気を通す。ズバヂィ!! と今まで火花が出ない形でギリギリの調整が施されていた高圧電流が弾けて拡散した。複数の青白い枝が金髪の魔女のすぐ近くを突き抜けていく。さらに細い喉を震わせてカラフルな薬を自ら飲み干すと、袖の中から巨大なカニのハサミのようなものを飛び出させて、左右で連結している靴のストラップを切り飛ばす。

 ようやく自由を得て、小さな少女が起き上がる。

 ノースリーブから肌の色をうっすら透かせるダークエルフの方は今までの弓一辺倒の他に、ポケットから透明な液体の入った小瓶を取り出した。まさかここまで来て、それもキルケの魔女相手に毒薬で威力強化なんて狙わないだろう。きっとより伝導率の高い物質を弓の弦に伝わせ、スプレー状に叩き込む事でクラゲ粉末の中でも一直線に高圧電流の矢でぶち抜こうとしているのだ。

 だけどもう遅い。

 今からモタモタ動くお前と違って、こっちの準備は終わっている。

「井東さん! 何でも良い、風を起こせ!!」

 指示の直後に、金髪少女はカラフルな液体を飲んだ。その黒いワンピースの背中からバサリと音を立て、マントを大きく弾く格好で白鳥の翼のようなものが飛び出す。

 まるで天使の羽ばたき。

 だが大きく攪拌された風の塊は辺りに漂うミクロな乾燥毒針を一方向へ叩き込む。そう、ダークエルフのいる方向一面を壁のように埋め尽くす形で。

 間合いの話なんて関係なかった。

「きゃあああああああっっっ!!!???」

 甲高い叫び声と共に、村松ユキエが大きな弓や小瓶を取り落とす。エルフショット、弦を使って粉末や液体などの伝導物質を任意の方向に飛ばした上で、宙に描いた軌跡通りに高圧電流を使って放つ見えない矢。武器を失った以上はそれもここで打ち止めだ。

 弓を番える事もできず、美しく健康的な小麦色の少女は顔を両手で覆っていた。クラゲの触手を乾燥させた場合、流石に一〇〇%毒性が残る訳じゃない。忍者達も目潰しに使っていた事から分かる通り、直撃させても即死はしない。

 でも、生きるか死ぬかのこの状況で目をやられるだけで十分に致命的だ。

 井東ヘレンは袖の中の大バサミと背中の羽を切り離す。

 赤いマニキュアを塗った小さな手でガラスの杖を操り、新たな薬品をその場で調合していく。

 ……これで終わり?

 後は異形化させる薬をダークエルフに振りかけ、死亡確認作業を誤魔化して、仮死状態の村松ユキエを引き取ればめでたしめでたし?

 腑に落ちない。

 光十字側のシミュレータはどこへ行った? 連中はこれ以上井東ヘレンに勝ってもらっては困るはずだ。アークエネミーを人間に作り替える、双方を自由にオンオフする薬を開発されたら困るはずなんだ。それを、こんなにもあっさり勝利を譲ってくるだって?

「マクスウェ……」

 訳もなく呼び出そうとした、その時だった。

 カラフルな薬を空き瓶に詰め替えた井東ヘレンが危なっかしい生足を動かし、顔を両手で押さえる村松ユキエに近づいていく。そのはずだった。なのに次の瞬間、何の前触れもなくダークエルフの右手が走る。短いタイトスカートより下、膝上まであるブーツの側面に収納していたのか、バチバチと不気味な音を散らす火打石の棒が。

『警告、エルフショットは弓矢だけとは限りません。火かき棒による直接殴打の事例も報告されていたはず』

 まずいっ、近接用の武器も隠し持っていた!?

『あっ!』

 井東ヘレンの声だった。

 見れば、不自然な態勢で薬瓶を手放している。高圧電流の直撃を避けるために無理矢理身をひねったようだったが、そのせいで赤いマニキュアを塗った手の中から瓶がすっぽ抜けたのだ。宙を漂いくるりと回る極彩色の瓶は、そのまま真っ直ぐ井東ヘレンの頭の上へ落ちていく。

 やばいっ、あれだと彼女は自分の薬で全身をぐずぐずにする羽目になる!!

 そう思った。

 でもそうならなかった。

 僕達の見ている前で、金髪少女が錠剤を口に含む。直後に元から裂けていた黒いワンピースの背中が盛り上がり、マントをなぞるように八本の虫の脚が飛び出す。

 蜘蛛、と。

 その名を頭に浮かべた直後、宙の瓶がまたも不自然に、ビタリと動きを止める。太い糸に絡め取られたのだ。そこから力強いスイング。今度の今度こそ、トドメの薬液がダークエルフの顔面に叩き込まれる。

 大地を引き裂いて悪魔が顔を出すような、凄まじい雄叫びがあった。

 ダークエルフの美しい全身がボコボコと泡立ち、血と肉でできた巨大な山が膨らんでいく。それは虫かごの天井に達するほどに肥大化して、ようやく動きを止める。

 勝っ、た?

 そう考えて、良いのか?

『おおっとう! 村松ユキエ選手、ここまでですかあ!? もしもーし、呼びかけても応答はないみたいです!! 「コロシアム」第三戦もやはり魔女・井東ヘレンの大勝利! もはや「コロシアム」の賞金女王の風格かーっ!!』

 地響きのような大歓声が遠かった。

 勝って、生き残って、でも実感がない。片手で脇を押さえながらこっちを振り返る伊東ヘレンも、何だか困惑気味だった。

『ではでは約束通り、遺体引き渡しの前に死亡確認をちゃちゃっと済ませてしまいましょう! 係員のみなさーん、ガソリンとマッチをお願いしまーす』

 普通に考えれば身の毛もよだつ話だけど、実は僕はそれほど混乱していなかった。

 というか、全高一五メートルの虫かごの天井に届くほどの肉の山だ。たとえ表面にガソリンを被せたって中まで熱は通らない。井東ヘレンも話を聞いた時に、それくらいは思いついただろう。後は黒焦げの山を引き取り、中から美しい少女を切り出せば安全にクリアできる。

 ばしゃばしゃとポリタンクの中身をいくつも振りかけられていく山を見ながら、そんな風に考えていた。


 甘かった。


 最後に係員が火の点いたマッチを投げ込んだ直後だった。

 確かに山の表面には炎が回った。

 でもそれ以上に、凄まじい勢いで黒い煙が噴出したんだ。あっという間にサイコロ状の虫かごの内側いっぱいを、体に悪そうな色彩が埋め尽くしていく。

 中に井東ヘレンを残したまま。

 不完全燃焼、一酸化炭素を含む黒い煙が。

「何をやっているんだっ、くそ!」

 慌てて外から扉を開けて、虫かごの中へと飛び込んでいく。

 そして二秒で後悔した。

 一発で目と鼻を同時にやられた。ただの黒煙だけじゃない。クラゲの乾燥毒針と混じり合って、炎の熱が生み出す気流の乱れに乗って暴れ回っているのか!?

「げほっ、がはごほ!!」

 今さら口を押さえてもどうにもならない。灼熱の壁にろくに吸い込めない空気。虫かごの内部はまるで巨大なガス室だった。

 大規模なシミュレータを備えた光十字が今さら予想外の展開に右往左往するとは思えない。最初からこれが狙いだった。ダークエルフで倒せればそれで良し、ダメならアクシデントを装って煙に巻く。いよいよ『コロシアム』のルールなんてどうでも良くなってきた!

 とにかく一刻も早く井東ヘレンの手を掴み、ここから出ないとまずい。

 どこだ、どこにいる?

 闇雲に手を伸ばすけど、ちっとも手応えはない。それどころか手元にあるスマホのメッセージさえ読めない。これじゃマクスウェルのサポートも受けられない!

 そう思っていた時だった。

 真っ黒な世界に一人取り残されていた僕の手を、ぐいっと引っ張る力があった。

「せん、ぱい……! けほっ!!」

 マントの布で口元を覆う井東ヘレンだった。

 助けるつもりが逆に助けられた。でも今は二人合流できただけでもありがたい。

 直後。

 すう……と。音もなく、井東ヘレンの側頭部を赤い小さな光点がなぞった。黒い煙に助けられ、一本の赤い光線が伸びているのが分かる。視界は悪いけど、おそらくは虫かごの外から。

 レーザー、ポインター!?

「井東さん!!」

 慌てて手前に細い肩を抱き寄せる。

 直後に強化ガラスの壁が砕ける甲高い音が鳴り響き、風の流れが変わった。溜まっていた黒煙の塊が外へ外へと逃げ出していく。

 ……狙撃。

 まさに間一髪だった。

 冗談抜きに細い金髪が数本、黒煙の中を舞っている。

 連中はどこまでも徹底的にここで決める気だ。普通に考えたら黒煙の中で女の子の頭に正確な狙いをつけるのは難しいかもしれない。でも今の光十字なら可能なんだ。

 マクスウェル以上のシミュレータに頼れば。

「どうする……」

 煙に乗じて虫かごの外に出るだけでも難しい。しかも脱出できたとして、今回はスタジアム球場なんだ。何もないグラウンドが何十メートルも続く。その間に何発撃たれるか分かったものじゃない。

 もちろん光十字側だって、スポーツ大会の体裁を守りたいから、可能な限り煙に包まれた虫かごの中で撃ち殺し、検死結果を誤魔化して、焼死体からおかしな傷は見当たりませんでした、で済ませたいだろう。だけど連中がどこまでその第一希望を守るかはもう見えなくなってきた。

 と、抱き寄せられたままの小柄な少女が、くいくいと上着を引っ張ってきた。

「先輩、あの……」

 いいや、どこかに案内しようとしている?

 でも彼女が引っ張る方向は、僕が出入りしたドアとは正反対。

 むしろ、黒煙を噴き出している山の方だ。

「残念だけど今はダークエルフを回収していられない。切り取り作業をしている間に撃たれるぞ!」

「そ、そうじゃなくて、それもあるんですけど、あの……」

 井東ヘレンはオロオロしながらも、自分の意見を曲げなかった。

 彼女は続けてこう言ったんだ。

「……あそこが一番だと思うんです、私」