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    カレン
    例外アークエネミー【ヴァルキリー】


第八章



   1


 光十字に与する例外アークエネミー。

 ヴァルキリー・カレン。

「……っ! マクスウェル!!」

「お・そ・い」

 いっそ青いバニーガールは、ゆったりした動作で豊かな胸の谷間から何かを取り出した。青いフレームのスポーティなメガネにも見えるそれ。風景に画面を重ねるスマートグラスだ、と気づくと同時、背筋に壮絶な寒気が突き抜ける。

 マクスウェルをはるかに凌駕する恐るべきシミュレータ・ラプラスとヴァルキリーがリンクする。ただでさえ規格外の化け物が人類の叡智の結晶さえ手に入れてしまう。

「あ」

 予測なんて、無駄だと知った。

 抵抗なんて、敵わないと理解した。

 時間が無限に引き延ばされる。家から道路へ出た途端、出会い頭に巨大なダンプカーのバンパーが視界いっぱいに広がったような。勝手に再生される人生の走馬灯の中で、不思議と静かに確信を得る。こいつは、この青いバニーガールの形をしたバケモノは、もうそんなレベルの『死』の塊なんだって事に。

 体感時間の中では奇妙なほどにゆっくりと、でも正確極まるモーションで、ヴァルキリー・カレンが前の開いたロングスカートを大きくはためかせ、黄金の羽根付き十字槍を振りかぶる。

 純金の比重は鉄の二倍以上だ。彼女の身長に匹敵する大槍を野球のボールみたいな感覚で投げつけられたら、それは、まあ、絶体絶命だろう。当たった瞬間に胴体真っ二つどころか、冗談抜きに水風船みたいに血肉が木っ端微塵に弾け飛ぶ。

 ここはもう出会い頭にダンプカーのバンパーが視界いっぱいに広がるレベルの危機。

 今さら右や左に転がろうとしても、そんなのは机上の空論。規格外の力を持ったアークエネミーじゃあるまいし、心で思っていても体の方がついてきてくれない。

 だから、もう終わりだった。

 ただただ僕は自分の胸元に迫り来る純金の大質量を見ている事しかできなかった。

 だけど、僕はダンプカーで正面衝突みたいなバラバラのグチャグチャにはならなかった。

 理由はシンプルだった。


 ゴォ!! と。

 後ろから、棒立ちの僕の左右を回り込んで、魔女とダークエルフが助けてくれたからだ。


 その瞬間、永遠に引き延ばされていた体感時間が人並みに戻った。

 だから僕の五感では両者の間で何が起きたのか、もう理解も把握もできなかった。

 だけど、出会い頭のダンプカーのような、あの絶望的な体感時間の遅れから脱出できた事自体に、ある種の安堵を得ていた。

 ああ。

 命の危機を脱したんだなって。

 直後に凄まじい金属の激突音が炸裂した。僕はダークエルフの村松ユキエに肩を掴まれていたけど、回避は間に合わない。突出していた黒いワンピースの魔女、井東ヘレンが全身をカニのような異形の装甲に覆われていたにも拘わらず、前の開いたロングスカートで空気を叩くヴァルキリー・カレンの猛攻を受け、逆にこっちへ砲弾みたいな勢いで薙ぎ払われるのをかろうじて捉える。

 両手を広げて受け止めたけど、柔らかい女の子の感触とはほど遠かった。

 たとえるなら、地球の一一倍の重力を持つ木星に寝転がってお腹にバスケットボールを落とされるような、どうしようもない衝撃が胃袋どころか背骨全体を揺さぶってくれる。庇ってもらった身の上なのに、呼吸が詰まり、心臓さえ止まりそうになる。

 三人いっしょくたに吹き飛ばされる。

 それでも、そもそも一人も死ななかった事だけで僥倖と言えるような、圧倒的な戦力差。

「……マクス、ウェル」

『シュア』

「ヴァルキリーって何なんだ。ていうかそんなのアリなのか!?」

 確かに吸血鬼やゾンビだって規格外は規格外だ。偉大なダーウィン先生が見たらあまりのデタラメさに全部サジを投げて自宅に引きこもってしまうかもしれない。

 だけど、ヴァルキリーはさらにもう一歩踏み込んでいるだろう。そういう怪物、じゃなくて、そういう神の使い、なんだ。言ってみればガブリエル様とかミカエル様とかとぶつかるような感じ。オークとかスケルトンとかが必死になって挑んでいるバケモノ王決定戦にそんなの出てきたら、誰も無双を止められないに決まっている。いっそ大人気ないなんて言葉さえ口をついて出てきそうだ!

「いやいや、そんなに珍しいものでもありませんよ?」

 答えたのはマクスウェルじゃなくて、超重量の黄金の羽根付き十字槍を軽々と肩で担ぐ青いバニーガールのカレンだった。

「ヴァルキリーそのものの目撃例なら確かに珍しいですが、その亜種や、堕ちた姿なら話は別です。例えばバンシーやワイルドハント。これら欧州の妖精のルーツはヴァルキリーにあり、なーんて学説も色々ありますしね?」

 だから許されるのか。

 許されて良いのか。

 畏れ多くも『神』なんて馬鹿げたスケールの属性を軽々と振り回す、そんなアークエネミーがよりにもよって光十字に与していても『仕方がない』っていうのか!?

「せん、ぱい」

 僕に抱き抱えられた……っていうより、吹き飛ばされて頭から土手っ腹に突っ込んできた魔女帽子の井東ヘレンが、息も絶え絶えになって、それでも必死に言葉を紡ぎ出す。

「……私が、バケモノの相手は私がやりま、す。だから先輩は、いつも通り、指示を……」

「無駄」

 金の槍と盾を構える青いバニーガールが、断ち切るように囁いた。まるで、その一言さえ予測していたように。

 そして、実際に可能かもしれないんだ。

 お尻の丸い尻尾を小さく揺らす彼女の目線を覆うスマートグラス……青いフレームのスポーティなメガネの形をした最新モバイルと直結した大規模人材選定シミュレータ・ラプラスの力を借りれば。

 青ざめた悪魔は自らの口元を引き裂くように嗤って、そして宣告する。

「アークエネミーとしての力はヴァルキリーたる私が、人としての叡智はシミュレータのラプラスが、それぞれあなた達を完全に上回っています。故に、このカレンちゃんに勝てる者など存在しないのでっす☆」

「ッッッ!!!???」

 反論の隙なんてなかった。

 直後に、艶めかしく舌なめずりする青いバニーガールの全身が、爆ぜた。いいやそんな風に錯覚した。ピンヒールの足回りなんて関係ない、黄金の槍と盾が光の流線と化して勢い良く迫り、あっという間、ものの一瞬で神の使いが僕達の懐深くに潜り込んでくる。

 や、ばい。

 これは、死……ぬ……!?

 直後に交差があった。比重の関係で超重量と化したヴァルキリーの純金の槍と大きなマントの魔女がとっさに腰の後ろから噴き出した殺人クラゲの触手、半透明な九尾との激突だった。

 結果は火を見るより明らか。

「あっ、くぅえあっ!?」

 小鳥の首を絞めるような金髪少女の悲鳴と共に、軽く撫でただけで致死毒を与える殺人クラゲの触手が根こそぎ裁断される。一対九の太刀筋でもお構いなし。圧倒的戦力差。黄金色に輝く槍の太刀筋がいっそ遅れて空間を引き裂くほどの速度。地力が違う。今のままじゃガラスの杖を両手で握る井東ヘレンが一回手足を動かす間に、青いバニーガールは前の大きく開いたロングスカートで空気を叩き、一〇回でも二〇回でも好きな角度から自由に致命打を放てる勢いだ!

 その『必殺』の槍が、丁寧にマニキュアを塗った青いバニーガールの手の中でくるんと回る。まるでチアリーダーくらいの気軽な感覚で殺人兵器が躍る。

 その切っ先が狙うのは、僕の胸の真ん中。つまりは心臓。舌なめずりすら行う奇跡の冒涜者が、真っ直ぐに僕の命を狙う……!?

「くっ!」

 短い吐息と共に、僕の体が低く沈んだ。断じて僕の意思じゃない。ノースリーブにタイトスカートの村松ユキエが僕の足を払ってくれたんだ。後ろに向けて倒れ込むような格好で、目の前ギリギリ、上方をすり抜ける黄金の槍。獲物を食いそびれた大質量が、隕石の衝突じみた衝撃をダークエルフへ叩き込んでいく。

「む、村松さあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!」

 大きく後方へ投げ出される小麦色の肌の少女に、僕はそう叫ぶくらいしかできなかった。生死の確認さえ満足に取れなかった。

 そうしている間にも、飾り物の長い耳と羽根飾りを揺らして青いバニーガールは動き続ける。

「っ」

 今度は魔女帽子の井東ヘレンが応じた。ガラスの杖の中をカラフルな液体がいくつも通り、瘤のようなフラスコ部分に集結し、加熱、冷却、蒸留、濾過、分離、その他無数の化学変化を経て、物理法則では説明のつかない薬効を自在に生み出す。

 それでも。

 それでも、青いヴァルキリー、神の使いの前にはどうにもならなかった。

 手榴弾や火炎瓶のように投げ出された丸底フラスコを首振りだけで避けると返す一撃で黄金の輝きが飛ぶ。槍ではなく表面に羽根の意匠が彫られた丸い片手盾だった。その縁、エッジの部分で容赦なく殴りかかる。

 純金の比重を考えれば、その重さはメリケンサックどころかガラスの灰皿やレンガブロックよりもえげつなかっただろう。

「ああああああああっ!?」

 叫び、引き剥がされるように井東ヘレンも僕の後方へ吹き飛ばされる。

 これで僕はダークエルフも魔女も、全ての守りを失った。

 ただの高校生の僕に、下から顎を突き上げかねない勢いで、青いバニーガールはピンヒールを鋭く鳴らし、黄金の十字槍の切っ先を喉元へ正確に突き付けてくる。

 美しくも邪悪な神の使いは嗤って告げる。

「チェック」

「……何で、なんだ?」

 間近に迫る死の感覚から逃げられないまま、喉仏を優しく刃物で撫でられながら、しかし僕の口から出てきたのは命乞いじゃなくて疑問だった。

 そう、

「神の使い、って部分はこの際どうでも良い。だけどアンタもアークエネミーなんだろう? なのにどうして極悪非道な光十字なんかの味方をしているんだ……!?」

「くす。人にはそれぞれ事情というものが存在する。それだけですよ」

 ……駄目か。

 議論にならない。共に対峙して意見をぶつけ合うに値すると、そこまで認めてもらえない。これじゃ交渉も恫喝も……ブラフやハッタリの一つさえ挟み込めない。ただ素直な力量差に準じて殺されるだけ。

 そう思っていた。

 でも違った。


 バス!! ドスドス!! と。

 立て続けにくぐもった破砕音が響き渡ったんだ。


 実弾の発砲音なんて日本にいる間は滅多に聞けるものじゃない。ましてそれがサイレンサーを使って減衰されたものならなおさらだ。

 思い当たる節は一つしかなかった。

 ……まさかっ、井東たまご? でもどうして!?

「おやまあ」

 青いバニーガールの調子は崩れなかった。ただお尻の丸い尻尾を左右に振って、僕の喉元に突き付けられていた黄金の槍の矛先がわずかに変わっただけだった。手首をカフスで彩った細腕が……かき消える。

 バチュン! チュイン!! と。

 金属が削れるような耳障りな音と共に黄金の風が渦巻き、そして中空でオレンジ色の火花が何度も炸裂する。

 ……うそ、だろう……?

 空を引き裂く弾丸を、目で見て、叩き落としている? 吸血鬼の姉さんやゾンビの妹だって、シミュレータの中じゃ不意打ちのマシンガンはまともに喰らっていた。喰らって、でも死ななかった。それだけだ。

 銃弾の完全迎撃なんて、エリカ姉さんやアユミにだってできるかどうかは分からない。それをこいつは、僕の目を面白そうに覗き込みながら、まるで何かのついでみたいに……!?

「ただ弾き落とすだけじゃ芸がないな。そーうだっ☆ あらよっと」

「っ!?」

 抵抗の暇なんかなかった。

 目の前のバニーガールに片手一本で襟首を掴まれ、そのまま彼女のロングスカートと共に大きく円を描くように振り回される。

 射撃元に向けて、まるで肉の盾のように。

 ビスッ! と、僕の右の太股から響く音は、奇妙なくらい他人事に聞こえていた。

 直後に体の中に溶けた鉄を流し込まれたような、どうしようもない灼熱の激痛が蹂躙してきた。

「ぐぅあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 我慢なんて、ifの選択肢さえ頭に浮かばなかった。

「あっはは! どうですどうです? 組織を裏切ってまで拙い正義を満たそうとした結果、よりにもよって守りたかった小さな命を踏みにじる羽目になったお気持ちは!? この流血は、この苦痛は、この悲劇は! 全部あなたの人差し指が起こした事なんですよっ、はっ、はふう……! ぶるるっ!!」

 手前勝手な恍惚で背筋を震わせながら、お尻の尻尾まで左右に揺らして、頬の紅潮も熱い吐息も隠そうともせずに青いバニーガールは吼え続ける。

 正確無比な銃撃が、見えない何かによってわずかに押し留められる。

 その隙を、ヴァルキリーという戦の支配者は決して見逃さない。

「ほいさー。お疲れさん☆」

 呑気な掛け声と共に。

 ゴォ!! と辺り一面の空気を引きずり、烈風を生み出す形で。円盤状の片手盾がギロチンじみた重さと鋭さで飛ぶ。

 あるいは銃弾よりも鋭く、流星よりもド派手に、突き刺さる。着弾する。

 まさしく大爆発だった。

 景色の一部が莫大な衝撃波と、そこから続く入道雲のような粉塵の山に覆い尽くされていく。

 それで。

 色々回り道をしたけれど、ようやっと妹のために世界を敵に回して戦う事を決めた一人の男の可能性を、こうも簡単に摘み取られて。

 頭の中で。

 本当に、何かが弾け飛んだ。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 別に、特別な何かができた訳じゃない。

 僕は岩に刺さった伝説の剣を引っこ抜いた訳じゃないし、呪文を唱えれば魔法陣から漆黒の巨竜が飛び出してくる訳じゃない。

 ただ、がむしゃらだった。

 片手一本で宙吊りにされたまま、人様の襟首を掴むその手を逆に両手で包み込む。より正確には青いバニーガールの親指。そのまま電子レンジのタイマーみたいに、勢い良くねじってやろうとする。

 普通に考えれば親指の骨は粉砕レベルだ。

 だけど実際には、一〇本指全部を使って、両腕の筋肉が千切れそうになるまで力を振り絞って、ヴァルキリーの眉一つ動かせなかった。

 そして至近で囁かれた。


「……これが、人と神の使いの歴然とした差なんですよ」


 直後に、身の丈より巨大な太鼓を思い切り叩くような低い轟音が炸裂した。

 手近な墓標の一つに、片手一本で背中から叩きつけられたと気づいた時には、あまりにも莫大な激痛に僕の人格は危うくバラバラに弾け飛ぶところだった。

「ぐはあ!! あごぐらがぶふばァァァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」

 勝てない。

 一撃さえ入らない。

 目の前には柔らかそうな女の子の肌があるのに、爪を立てて傷の一本さえ走らせられない。たとえ何十のアークエネミーが揃って何百の兵隊が武器を揃えても、この神の使いの顔色一つ変えられない……!!

「……どう、して……?」

 無駄な事だと分かっていた。

 時間稼ぎをしても勝ちの目はやってこない。そもそも軽く尻尾を揺らす青いバニーガール側にはまともに答えるつもりもない。だけど、どうしても僕の口からこぼれるのは、怨嗟や憎悪よりも、やはり疑問の声だった。

「それだけの力があれば……神の使いなんて馬鹿げたカテゴリが本当にあるなら……人間達が作り上げた傲慢な光十字なんて、一人で壊滅させられるだろうに……。どうして、わざわざ、自分を苦しめる集団に忠誠を誓うんだ、ヴァルキリー!?」

「ふうむ」

 片手一本で人を黒い壁に押し付けたまま、首元のリボンを小さく揺らし、喉を震わせて、青いバニーガールは興味深そうに嗤う。

 嗤いながら、彼女は短く持った黄金の十字槍をゆっくりと突き入れた。

 僕の右足。太股に空いた赤黒い指先大の銃創に。

「あぐはあっ! ぎぃやあァァァァァァァァァァ!?」

「何か、セコンドさんは根本的な思い違いをしているようですが」

 まるで片手間。

 ちょっとした寄り道。

 だけどそんな悪意にさらされている事さえ、次の言葉で頭の中から吹っ飛んでいた。


「そもそも、光十字は人間達が作った組織ではありませんよ?」


…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………、あ?

「ま、九割九分人間達で構成されているのは事実ですし、構成員の大半はアークエネミーが創設した組織に忠誠を誓っている事さえ知りませんけどね」

 意味が、分からなかった。

 いいや、正しい答えを導き出す事を、頭の中の優しい部分が全力で拒んでいた。

 ……だって。

 それは、その結論は、だって、あまりにも!?

「『私達』もね、飽き飽きしていたんですよ」

 やってほしくもない答え合わせを、黄金とスマートグラスで武装する青いバニーガールが勝手に進めてしまう。

「これでも説明に努めてきたんです。人間とは違う、だけではそんなに危ないものじゃないんだよって。でも、吸血鬼だのゾンビだの……人間達は、そういう派手で目立つ、分かりやすいものばかりサンプルに選んできた。そうする事で利益でも作っているように。アークエネミー、大いなる敵という像を勝手に塗り固めていくのを止められなかった。こっちはね、何も悪い事なんてしていないんですよ。ご近所付き合いを笑顔でこなし、不死者としての力を封印して自分の力だけで家事をこなして、税金だってきちんと収めてきた。全てはただただ愛する人の隣に寄り添っていただけなのに、『きっとお前もヤツらと同じだろう』って。『ヤツら』なんて言いますけど、一体どなたの事なのやら。おそらくそれはもう、大元の伝説とも違うんじゃないでしょうか。そしてそんな虚構の産物のために私達は一方的に糾弾されて、住んでいた小さな家は焼き討ちされて、大切なものはみんなみんな奪われて……」

 嗤っていた。

 頭のてっぺんから爪先まで南国の蝶のように輝く青いバニーガールは、嗤ったまま奇妙に固まっていた。何故だか僕には、その笑みが血の涙でも流しているような、そんな錯覚に襲われていた。

「そりゃあリベンジくらいしますよ? 教会兵だろうが義勇軍だろうが片っ端から首を刈り取りますよ? 『彼らが望んだ通りの』アークエネミーになって。でもね、戻らないんですよ。一度胸にぽっかりと空いた大きな穴は、何をやったってもう戻らないんです。それでも新しい人生を歩もうとしていた時期もありました。素敵な男性とも巡り合って、またやり直せるって本気で心の底から信じた事も。……でもどうやったって、無慈悲に下世話に邪魔する者が出てくるんですよねえ」

 ヴァルキリーとは、何だった?

 それは神の使いにして、世界を滅ぼす軍勢と正面切って戦う勇猛な女戦士。

 だけど同時に普段は下界に降りて、効率も合理性もなくただただ人間の男性に恋をして普通のありふれた家庭を築く、一人の妻。

 こいつの道は、一体どれだけねじれていた?

 人間は……ヴァルキリーに、アークエネミーに、どれほどの絶望を与えてきた?

「何度も何度も失敗しました。そのたびに世界の全てに復讐し、血の海の中で慟哭を放ち続けました。その内にね、どこかの誰かが気づいたんですよ。人間は、ダメだ。でも、このダメな部分をアークエネミーたる我々の方から束ねて矛先を逸らしてやれば、ダメな部分を支配し、空回りさせて、封印できるんじゃないかって。そんな考えを持つ者同士が集まったものが、世に言う光十字の始まりなんです」

 人間にもアークエネミーにも、どちらに肩入れするでもない。ただただ両者の闇を完全掌握する組織。

 カレン達が戦っていたのは、アークエネミー、大いなる敵という言葉だった。だから彼女達は可能性がないと判断した個体を粉砕すると同時に、まだまだ迎合できる者については人間社会の仕組みを学ばせ、静かに寄り添えるよう後押しもしてきた。

 光十字の成り立ちは、一五〇〇年前だったか。

 こいつらはそんなにも長い間、人間の愚かさに絶望し、でも、完全には見捨てられなかった。ヴァルキリーはやっぱり人間に恋する事をやめられず、天には還れなかった。

 こいつは。

 ヴァルキリー・カレンは。


 ……僕達と、全く同じ側の存在だった……。


 なんて。

 救いがない話なんだろう。

 そして、どこまで人間を愛し続けたんだろう、この女は。

 だって、僕はたったの一回で見限った。

 災害環境シミュレータ越しにこの供饗市の地下いっぱいに広がる『秘密』を見て。世の中にはどうにもならない、救いようのない、絶対に分かり合えない、クズの中のクズみたいな人間がいるんだって。

 でもこいつは諦めなかった。何度も何度も小さな幸せを突き崩されて、そのたびに砕け散った砂の塔の欠片を必死になってかき集めて、新しい塔を少しずつ積み上げていって、後はずっとその繰り返しで。

 どうしてそこまでできた?

 絶望して、諦める事をしなかった?

 答えは決まっている。

 僕なんかより、よっぽど深く人間を愛していたからだ。馬鹿馬鹿しいと分かっていても、絶対に叶わないと答えが出ても、だけど、それでも、どうしても愛する人間との幸福な生活っていう夢を捨てられなかったからだ。

 青く染めた長髪のカレンが僕を一息に殺さないのも、そこに逡巡があるのかもしれない。魔女やダークエルフ。同胞たるアークエネミーに手を掛ける事はできても、粗暴な力を磨き上げたプロの兵隊に憎しみをぶつける事はできても、非力でか弱い、『何も持たない』隣人を引き裂くのは気が咎めるのかもしれない。

 ……何をやっているんだろう、僕は。

 実に一五〇〇年以上も諦めずに人間を信じ続け、人間との理解を深めるために『悪い見本』たる人に害為すアークエネミーをひたすら屠り続け、そして同時に人のダメな部分を一極支配して外に漏れ出るのも防いでいたヴァルキリー。人もアークエネミーも肩入れせず、両者の闇と向き合ってきた女。彼女が心の底から焦がれる『人間』として、一体何を見せられるっていうんだ。

 当然ながら、僕はカレン、あるいはカレン『達』のやってきた事は許せない。それが一番効率的だから、って理由だけでアークエネミー同士を分厚い密室に閉じ込めて互いに殺し合わせる『コロシアム』なんて絶対に容認できない。その被害には、黒山ヒノキも、羽裂ミノリも、村松ユキエも、井東ヘレンも、そしてエリカ姉さんや妹のアユミだって味わってきた。大元はどうあれ、今の光十字が正しい選定基準を維持しているのかは謎だし、その選定基準とやらもそもそも一方的過ぎる。例えば、大きな縄張りを持つ気高い野良猫を拾い上げて、窮屈な鈴をつけて不要な服を着せて一生部屋から出さないのは、誰にとっての、どちらにとっての幸せか。人の目から見ただけで判断しちゃあいけないんだ。明らかに『コロシアム』はやり過ぎで、絶対に阻止しなくちゃならない。今さら青いヴァルキリーと仲良しこよしで仲直り、なんて道は絶対にありえない。

 でも。

 だけど。

 それができない事が、確定事項となってしまった道が、はるか遠くにある選びようのない別の選択肢が、ほんの少しだけ胸を刺した。

 この女とは。

 一体どこまで時計の針を逆回しにすれば、一緒に笑い合う事ができたのか。そんなどうしようもない妄想が、何故だか頭から離れなかった。

 迷いを振り切るように。

 僕は敢えて大きな声で宣言した。


「ふざけるなよバケモノ。それで人殺しの正しさでも説いているつもりか」


 青いバニーガールは。

 ヴァルキリー・カレンは。

 嗤ったまま、顔面の血管という血管を浮かび上がらせ、不規則に蠕動させていた。きっと、『人間』からそう言われるのが一番響くと分かって、敢えて貫いた。やっぱり僕は最低な側で、そして何より『人間』のようだった。

 人様の太股に突き刺さっていた十字槍の穂先が、無遠慮に引き抜かれる。

 柄を短く握って、改めて血まみれの刃で狙い直す。

 お次は心臓か。

 カレンの力と鋼鉄の二倍以上の重量を持つその槍があれば、心臓一つなんてケチな事は言わず、十字槍の羽根飾りに引っかかった胴体丸ごと木っ端微塵になったっておかしくない。

 対して、こっちにできたのは片手一本で宙吊りにされたまま、懐へ手を伸ばすくらいだった。中から出てきたのは伝説の剣でも魔法の杖でもない。単なる四色ボールペンだ。

 鼻で笑って、カレンが動く。

 どうしようもないまま、僕も三〇〇円もしない筆記用具を振りかざす。

 相手は本物の神の使い。しかもマクスウェルよりはるかに高性能なシミュレータ・ラプラスの補助まで受けている。普通に考えればどう見たって勝ち目なんかない。両腕で全力を振り絞ってもカレンの指一本折れなかった。仮に目玉や喉、筋肉の質や量に無関係な場所を狙っても、飛び交う銃弾すら正確に落とすヴァルキリーの槍をすり抜けて攻撃を当てるなんて不可能だ。

 だけど。

 次の瞬間。


 だちゅっ、と。

 水っぽい音と共に、ボールペンの先端が真っ直ぐ青いバニーガールの首の横へと吸い込まれた。


「……、あ?」

 おそらく一番理解できなかったのは、当のヴァルキリー・カレンだっただろう。首の横、頸動脈。リボンタイのすぐ近く。急所というにも有名過ぎるそこにちっぽけな杭を打ち込まれ、しかしその顔にあるのは苦痛や恐怖ではなく、ただただ空白じみた疑問ばかりだった。

 何故? と。

 ろくに反撃もできないまま、青いバニーガールは真後ろへ、仰向けに倒れていく。片手一本で宙吊りにされていた僕を引きずるようにして。血まみれの女の上にのしかかる格好になってしまった。カレンは急所に刺さったボールペンも気にせず、取り落とした黄金の槍にも執着せず、まるで僕の頭を抱き寄せて耳たぶに甘噛みするような格好で、こう囁いてきた。

「……お見事です。よくもまああのタイミングで、筋力差お構いなしの首元を正確に狙えたものです。でも、素人さんが一体どうやって?」

「実を言うと、最初からアンタを説得できるなんて思っていなかった」

 たとえどんな発端があろうとも、青いバニーガールは光十字の精鋭であれだけおぞましい『コロシアム』を散々運営してきた中心人物だ。今さら一朝一夕の説得くらいで主義主張を曲げてくれるなんて思わない。

 なら、あれだけ散々吐き捨てた言葉は誰に向けたものだったのか。交渉や恫喝、ブラフやハッタリ。そうしたチャンスはどこに転がっていたのか。

 ゆっくりと息を吸って、そして奇妙に掠れた声で青いフレームのメガネを掛けたカレンはこう呟く。

「……ああ、にゃるほど」

「シミュレータ・ラプラス。こいつを説得できれば、その補助に頼り切りのアンタの矛先を逸らしてもらえるかもしれない。まあ、どっちにしても分の悪い賭けだったけどさ」

 確かにラプラスはあくまで機械だ。基本的には、ユーザーからのコマンドを拒否する権限はない。AIやプログラムそのものに善悪論を当てはめるなんて馬鹿馬鹿しいと思うか。でも、それならなおの事。僕だって計画を知った時は呑まれそうになったけど、でもラプラスを絶対悪に据え置くのは、どこかおかしいんだ。

 思えば、節々にそんな痕跡はあった。

 もしもラプラスが圧倒的な演算能力でマクスウェルを凌駕するシミュレーションを繰り返し、徹底的に僕達を追い詰めているとしたら、僕と井東ヘレンは最初の第一戦さえ勝ち進められなかったはずだ。取り得る選択肢全てに始めからキャップをされ、どれを選んでもカウンターで即死。そんな未来しかなかっただろう。

 もちろん、エンターテイメントとしての『コロシアム』を盛り上げるため、敢えて僕達が勝ち進めるように仕向けていたのかもしれない。どのみち五戦の絶壁、統計の悪魔にやられて必ず死ぬのなら、その過程だけでも助かるかもしれないという夢を見せていた可能性だって否定はできない。

 ただ、何となく、回りくどいとは思った。

 単に視聴者を沸かせるだけなら、より残虐で、より大番狂わせな、流血必至のアクシデントを連発すれば良い。だけどラプラスはそうしなかった。明確な光十字の所有物でありながら、ラプラスはどこか『コロシアム』のアークエネミー達を見守っていた節がある。

 だったら。

 ひょっとしたら。

 説得次第で、ラプラスはこうジャッジを下すかもしれないじゃないか。多くのアークエネミーを犠牲に捧げる『コロシアム』そのものに、否、と。

「僕は……AIそのものに善悪はないと思う。人間の未来を個人レベルで勝手に選定するっていう『存在理由』に振り回されそうになったけど、でも、冷静になるとやっぱり違う。そう見えるのは、そんな風にしか彼らを使ってやれなかった人間側の問題だって」

 僕だって、一〇〇%人類貢献のためにマクスウェルを使っているなんて信じていない。ぶっちゃけ七割八割は私欲のためで、周りから見れば悪用しているようにしか思えないかもしれない。委員長の水着ダンスファイルセットなんて申し開きのしようもないし。

 でも、だけど、これだけは断言できる。

 ……僕は絶対に、光十字みたいな目的で彼らを使う事はないって。

「なるほど、なるほど……なるほどなあ」

 心底感心した口振りで、自分の血で青いバニースーツを赤く染め上げながら、弱々しくカレンは呟いていた。

「最後の最後に立ち塞がったのは、やっぱり『人間』の優しさ……いえ、強さ、ですか。そりゃあ、こんなの見せつけられちゃったら、流石にもう悪足掻きはできませんよねえ……」

「……すまない……。結局僕も、愚かな『人間』だった」

「はは、やめてくださいよ、こんな土壇場で。これから死んで天に還るのに、ここで恋をしちゃったらどうするんですか。……カレンちゃんはですね、こう見えても惚れっぽいタチなんです。まったく、いつもそれでヤケドばっかりしている……」

 誰よりも人間を愛して。

 何よりも人間を諦められなかった。

 そんな不死者、アークエネミー、大いなる敵。

「おっと、私は身も心も最後の最後まで醜いバケモノですので、あんまり同情するとそっちまでヤケドしちゃいますよ? 今まで隣を歩いた旦那様みたいに」

 くすくすと、血まみれの女は笑っていた。

 もう長くない。

 このアークエネミーは、僕が殺した。自分の手で、自分の意思で。自分の家族や後輩と同じモノを。それだけは絶対に忘れちゃいけない。

 そしてカレンは最後の力を振り絞ってこう囁いた。

「……こうしている今も私は井東ヘレンを確実に窮地へ追い込むために機能しています。ええ、こんなのは負け惜しみで、この場面での敗北なんか一ミリも想定していませんでした。ですがそんな事は関係なく、ただただ当初の予定通り着々と井東ヘレンは崖っぷちに向かっていますよ、このカレンちゃんの手で」

「なに、を……?」

「五戦の絶壁」

 ヴァルキリーが、呪いの言葉を吐き捨てる。

「どんなアークエネミーでも『コロシアム』フォーマットで五回連続戦えば必ず敗北、死亡するという統計学の設計データです。カジノの胴元と同じく、これについては絶対に揺るぎません。……まあ、あなたの姉と妹は唯一例外的にそんなセオリーすら覆す天才ギャンブラーだった訳ですが。でも井東ヘレンは違う。五回の戦いは、確実な絶命のスイッチとなるでしょう」

「だったらどうした」

「分かりませんか。井東ヘレンはすでに第三戦を勝ち抜き、たった今、あなたの手を借りてVSヴァルキリーすら乗り越えた。変則的ではありますが、これで第四戦も終了。つまり、チェックメイト、王手なんですよ。次の第五戦に誰が来ようが、試合開始のゴングを聞いたらもうおしまいです。井東ヘレンは統計の悪魔に絡め取られ、絶対確実に敗北、死亡します」

「だったらどうした!? 僕達は光十字を特別にしているラプラスの位置を突き止めた。運営全体を支えていたヴァルキリーも撃破した。これ以上茶番劇の『コロシアム』に付き合う必要なんかない! 最大の障壁だったラプラスさえ止まれば、後はマクスウェルが全て暴いてくれるさ。光十字の横暴も、エンターテイメントに見せかけた本物の殺し合いも! 世界中が光十字の敵になる。組織は空中分解して囚われていたアークエネミーはみんな解放される! それで全部おしまいだろう!? 何で今さら僕達がテレビカメラの前に立たなきゃいけないんだ!」

「……あなたは、それでも、絶対に特設会場に向かいますよ」

 仰向けに倒れたまま、大量の出血も気にせず、そのヴァルキリーは笑っていた。

 あるいは彼女にとっての死とは、すなわち地上での仮初の生を終えて天界へ帰るに過ぎないのか。

「皆様お待たせいたしました、『コロシアム』第五戦、運命の対戦カードはこちら……」

 謳うように、現実から逃げるように、蒼ざめた唇がそんな風に囁いた。

 何だ。

 お次は魔女の井東ヘレンとどこの誰をぶつけるつもりなんだ。イレギュラーなカレンを含めて運命の五回目。必ず死ぬというからには、さぞかし大物でも待ち構えているんだろう。あるいはメデューサ、あるいはキメラ、あるいはマンティコア、あるいはゴーレム。もうこっちはヴァルキリーなんていうのとガチで殺し合っているんだ。今さらどんな有名人が出てきたって驚くものか。

 そんな風に思っていた。

 甘かった。


「吸血鬼・天津エリカVSゾンビ・天津アユミ。勝ち残るのは一人だけ。さあさあ一体美しい姉妹のどちらが生きて檻から出ていくのか、乞うご期待です……☆」


 おっ……。

「お前ッッッ!!!!!!」

「にひっ、だから言ったでしょう、セコンドさん。あなたは『絶対に』特設会場に行くって。あるいは魔女やダークエルフが拒否したって人間のあなただけは、絶対に……」

 最後の最後まで、カレンは邪悪であった。いいや、ヴァルキリーやラプラスの補助が消えた今、元から脱線気味だった光十字が既定のレールを外れてどこへ向かうかは誰にも予測できない。本当に、ここから先はどんなアクシデントで命が散るかは誰にも分からないのだ。

「私も似たような事を考えた事がありますから、良く分かります。……自分の秘密に家族を巻き込むまいと情報を遮断していたようですが、それが裏目に出ましたね。スタジアム球場に残っていた折り畳み自転車をちょちょいとスクラップにして送り届けただけで、天下のアークエネミー達は顔を真っ青にしていましたよ。姉妹からすれば、行方知らずの『人間』が光十字に囚われたと勘繰ってしまってもおかしくなかった。後は交渉人を差し向けるだけで簡単に対戦カードは作れました。姉と妹、吸血鬼とゾンビ、かつてのように全力で殺し合え。そうすれば非力で可愛い家族は帰してやる。そんな胡散臭い言葉にも従う他なかったようで☆」

「ちくしょう……!!」

 慌ててスマホを操作するけど、通話もメールも応答なし。

 ……モバイルは没収済みか。

 振り込め詐欺なんかじゃ、ターゲットを孤立化させて周囲に相談させないのが重要なんて話も耳にするし。

「さあ、どうします、セコンドさん」

 くすりと笑った青いバニーガールの全身が、淡い光を放った。

「放っておけば姉妹のどちらかが必ず死ぬ。ですが割り込みをかける権利を持った勝者、井東ヘレンは次で運命の第五戦。つまり家族を助けるか、後輩を助けるか。道は二つに一つしかありません」

 その体が、輪郭が、光の中で崩れていく。パーティクルというか、無数の蛍の光というか。とにかく青いバニーガールは人工物のスマートグラスだけ残して、この世界から消えていってしまう。

 人間の、仮初の生を捨てて。神の使いとして、天に召されるために。

 最後に彼女はこう言った。


「選べ、愛しい人間よ。あなたは三人の内、どの少女の命を犠牲にするのですか?」