第〇章
「く……」
頭がぼんやりする。ここはどこだろう。床が異様に近く、僕は今倒れていたんだろうか。でも、うつ伏せとも感覚が違うような。視線は低いけど特に傾いていない。まるで首だけ残して縦に埋められたみたいだ。
「あっ、サトリ君。目が覚めたのね?」
「委員長?」
間近で聞こえた女の子の声に僕は反応する。壁際には確かに見慣れたシルエットが立っていた。
随分埃っぽい空気に、あちこち傷んだ床や壁、何より薄暗くてじめっとした空間。分厚いカーテンの方からわずかに光が溢れているから、きっと今は夜じゃない。ここは年中無休でこんな感じで、そしてだからこそ聞き慣れた少女の声は僕の心を潤してくれる。
委員長はいつものようにメガネで、長い黒髪をカチューシャで上げていて、おでこ丸出しで、そしてブレザー式の学校の制服姿だった。でもスカートはちょっと短めかな。あと僕倒れているんだからさ、近い近い! 気にして!! なにこのアングルっ、スカートの中が、白い布地を彩る小さなリボンまでっ、そんな、あー! 委員長っ、ああーっっっ!!
「気がついて良かった、サトリ君。よっと」
「そんな委員長屈まないで全部見えちゃうそしてその柔らかい両手で僕の顔を挟み込んでどうする気やめて待ってそんな風に持ち上げちゃったら委員長のお胸さんに僕の顔が……!!」
イロイロあって大いにパニクっている思春期の僕ですけど! でもここで流石に違和感を覚えた。
あん? 全身に力を入れて抱き寄せたでも身を起こしたでもなく……顔『だけ』を、サッカーボールみたいにひどくあっさりと、持ち……上げた……?
「い、委員長、ちょっと待って、全体的に何だか僕の存在が軽いというか物理的な重さの意味で大変おかしいというか」
言いかけて、言葉が止まった。
両手で僕の頭を抱えて不思議そうに小首を傾げている委員長。その小さな顔。もっと厳密には掛かっているメガネの、レンズの中。
そこに反射して映っているのは僕の顔じゃないといけないはずなんだけど。
えと、おかしいぞ。
人間の顔くらいもある、馬鹿でかいにんにくが映り込んでいるんですけどー!?
「ちょお! なんっ、これ、こここれ委員長どういう事?」
「しっ、サトリ君、大きな声を出してはダメよ」
「何だか常識知らずみたいな扱いだけども、こっちは顔も体もなくなってでっけえにんにくになってんだよ! ていうか何で委員長はこの状況に疑問を持たないの? こりゃ初っ端からシュール過ぎるわーって思うのは僕だけか!?」
「ああもうっ、だから……やばっ、騒ぎを聞きつけてきたっ。とにかくこっちに」
「僕はまだ最初の段階を消化してないのにもう次のがやってきてもだねもがむぐ!!」
やっやだっ、委員長に抱き寄せられたまま小ぶりだが存在感のある神々しい二つの丘つまりお胸様で口を塞がれた訳だが、そこから何がどうなった? エンドルフィン出まくりの間にパイプベッドの下に潜り込んでなかったか、今!?
「い、委員長っ、ベッドの上でも一大事なのに下へ潜るとはまたこじらせおってよしこの勝負乗った……っ」
「しっ。黙って、気づかれたらおしまいなの」
直後にあったのは音だった。
分厚い布を腐った水に漬け込んだ後に、床を引きずり回しているような……湿った音。
それまでの疑問も高揚もまとめて吹っ飛んだ。いきなり家に入ってきた覆面男に色々言いたい事はあっても、包丁を突きつけられたら頭の中が真っ白になってしまうような、そんな感覚。
つまり、そう感じているのか。
あの奇妙な音は、ぎらりと光る包丁の切っ先と同じくらい、一瞬たりとも意識から外しちゃならないモノなんだって。
「……、」
ベッドの下に潜った委員長は、もはや細かい説明なんてしなかった。その余裕もなかったんだろう。僕は僕で柔らかい腕の中に抱え込まれたまま、彼女の甘い匂い以上に冷たい汗と無秩序に暴れる鼓動を感じ取る。
音は……。
湿った布を引きずるような、あの音は……。
ダメだ、立ち去らない。ドアの前から動かない。その内に、ガチャガチャと金属の擦れる音が響いた。ドアノブを……いじっている……? 抱え込まれたまま委員長の顔の方を見上げようとしたけど、一言も、いやアイコンタクトさえなかった。それで知る。おそらく鍵はかかっていない。いや、鍵をかけたくらいで締め出せる相手じゃないんだ。開かないドアがあれば、かえって悪注目を集める。だからできなかったんだ、半端な準備での籠城、立て籠もりなんて。
ぎい、と。
開く。部屋のドアが、軋んだ音を立てて。だけど狭い部屋の淀んだ空気が入れ替えられる感じはしなかった。ていうか……何だ……? 甘ったるい、なんてものじゃなくて、空気全体が粘つくような、この甘ったるい匂いの塊は。薔薇か何かだろうけど、あまりに強過ぎて暴力的だった。同じエレベーターに乗り合わせたら、目的階に辿り着く前に意識を失って床に崩れ落ちてしまいそうなくらい……。
ベッドの下から、細長く切り取られた視界の中で、必死に情報を集める。
相手は裸足みたいだった。ぺたりぺたりと床に張り付くような足音は意外にも軽い。正体は女性かもしれない。どんな顔をしているのか、どんな服を着ているのかは流石に分からない。ただ、長い布のようなものを床に引きずっているのは見える。
その足取りに、目的があるようには感じられなかった。
くるくると、ぺたぺたと。決して広くはない部屋を不規則にゆっくりと回り続けている。
匂いの元も分かってきた。
軽い歩調と合わせて、何かが床に落ちる。目も鮮やかな色彩。可憐な花が開いたような印象を見る者に与えるその正体は……床に落ちた、血……?
「……っっっ!?」
叫びそうになる僕のにんにくヘッドを、委員長がとにかく全部抱きかかえた。そうこうしている間に、徘徊するモノが動く。
激震。
ベッドの上に飛び乗った、と気づいた直後、癇癪でも起こしたように破壊的な震動が連続した。飛び跳ねている、地団駄を踏んでいる、苛立って、思い通りにいかなくて、タンスの角に自分で足の小指をぶつけたのに喚き散らして近くの花瓶を壁に叩きつけるような、支離滅裂でメチャクチャな暴力思考。でも、何となく分かる。根拠もなく理解できてしまう。
真上からの獣のような咆哮に、魂を掴まれる。
こいつに見つかるのはまずい。
この、ひりつくような訳の分からなさ。深夜、一人きりのエレベーターにいきなり草刈り鎌を手にしたブツブツ男が乗り込んできたような身動きの取れなさ。壊れてる、完全にまともじゃない。憎悪とか快楽とか利益とか、分かりやすい目的の有無なんか関係ない。こんなのの視界に入ったら、もっと言葉にできないドロドロぐちゃぐちゃした意味不明な理由で綿の飛び出たぬいぐるみをしつこくかき回すみたいに殺される……!?
ぼたぼた、ぱたぱた、と。へたれたマットレスやスプリング越しに真上で暴れる……おそらくは女が激しく動くたびに液体が落ちて弾ける音が追従し、あのむせ返るような、度を越した甘い匂いが一段ときつくなる。にんにくボディには目も耳もないはずなのに、何だか視界が滲む。感覚的には『目』の奥が痛い。この分じゃ、委員長は喉が詰まって呼吸さえ難しいんじゃないだろうか。
血。
薔薇の血。
食べ物によって体臭に変化が出る事を見越して、特殊な配合のハーブ類を食べてわざと匂いに変化をつける、呑む香水なんてのがあるとかいう話は聞いた事がある。でも、どうやったらここまで変わる? 点滴のボトルに直接トイレの消臭剤をぶち込んだってこんなにはならないだろう……!?
戦慄している僕をよそに、ベッド上の子供じみた癇癪が収まった。いいや、派手に暴れすぎたせいでベッドから転がり落ちたのだ。結構な音が響いたけど、同情の気持ちはなかった。それ以前におっかな過ぎる。
そして何より、切迫した問題が一つ。
ヤツは転げ落ちた。床に倒れた。今はこちらに足や尻を向けてもぞもぞしている赤い……そう、血まみれのドレスの女だけど、目線の高さは同じだ。ざらりと錆びた銀の髪を揺らし、ヤツに今こっちを振り返られたら、ベッドの下に潜む僕達と目が合う……!!
行け。
このまま立て。
後ろなんか気にするな!
変な疑問を持たずに黙って立ち去れ!!
べちゃりべしゃりと自分のぬめるような血の海で手足の指を何度も滑らせ、もたもたと赤染めのドレスが蠢く。
立ち上が……らない!?
ダメか!?
「……、」
でも委員長は動かなかった。ただ黙ってにんにくヘッドの僕を抱き寄せ続けた。
ヤツが動く。
もう立ち上がるのも億劫だと言わんばかりに、ドロドロに汚れた赤い体を引きずって。濡れた布を引きずり回すような音が響いた。彼女はそのまま部屋のドアを目指し、細い指を隙間に差し込み、押し広げて、頭から廊下へ出ていく。
しばらく動けなかった。
ホッとしてのこのこベッドの下から抜け出した途端、一つきりのドアの前を陣取る血染めドレスが満面の笑みを浮かべて襲いかかってくるんじゃないかと、本気で考えた。
委員長も同じだったのだろう。
決して安易にベッドの下からは出ず、でも小声でこう話しかけてきた。
「(……行ってくれたみたい)」
「(……い、委員長? あれ何???)」
当たり前過ぎる疑問を放つと、委員長は少しだけ肩の力を抜いてこう答えてくれた。
「(……ああいうのは、サトリ君の方が詳しいと思っていたんだけど)」
「(……?)」
訳が分からない僕に、続けて幼馴染みの少女はこう続けた。
「(……吸血鬼。どういう訳かこの廃墟になった病院、安寧会静養病院跡地を徘徊しているみたいなのよ、彼女)」
それで何となく合点がいった。
何で廃墟になった病院に僕や委員長がいるのかとか、僕の体がにんにくヘッドになっているのとか、色々疑問は尽きないけれど。だけど何となくの符合、いいや記号性みたいなもので大体の繋がりは分かってきた。
いかにもな広い舞台。
決して失われてはならない委員長というフラッグ。
絶対的強者としての吸血鬼。
そしてにんにく。
……確か日光とか十字架と同じで、吸血鬼が苦手としているものの代表格、だったっけ……?
「まっ、マクスウェール!! 色々設定がおかしい、全体的にバグってる! なんだっ、僕はヤギとかパンとかが大活躍する系のシュールなゲーム空間にでも放り込まれたのもがむぐ!?」
「しっ! 学習してサトリ君!! 大声出したらまた集まってきちゃうよ!!」
新たな法則発見。大騒ぎすると委員長が無条件でぎゅっと抱き締めてくれるみたいだぞ? でもやり過ぎると血染めドレスとエンカウントするんだって。変なとこに死亡系の罠を張ってるな! 悪趣味か!? くんくん!!
そして必死にロールプレイする委員長はこう言ってきた。
「あとサトリ君。マクスウェルの話は今出しても意味ないと思うよ? ケータイもスマホも通じないから」
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いや、ちょっと待って。
頭が真っ白になる。だからパニクる前の今の内に聞いておかなくちゃならない事がある。待って待って待って!!
「い、委員長……?」
「なあに、サトリ君?」
「こっ、ここは災害環境シミュレータのマクスウェルが作った面白おかしいゲーム空間ですよね? だってそうじゃないと僕のにんにくとか廃墟の病院とか無敵モンスターの血染めドレスとか、諸々説明がつかないですもんね……!?」
僕達がいるのは地球ですか。それくらい簡単な質問だと思っていた。答えは一択で即答以外ありえないって。
だけど直後に嫌な沈黙があった。いや、実際には一秒未満だったかもしれないけど、滑らかな動画がいきなりガタつくような、極大の違和感だけを突きつけてきた。
トドメに彼女は言った。
「何の事?」
あっ、ああー……。
今回ばかりはほんとにヤバいんじゃないかーこれはあーっ!?
にんにく
マクスウェル:ユーザー様の第二の雄姿にして、特に吸血鬼に強い効果を発揮する対アークエネミー生物兵器でもあります。ちなみに日頃から防腐剤を多用しているゾンビのアユミ嬢にとっては、むしろその殺菌消毒効果は好ましいものに映るようです。
にんにくにも色々ありますが、ユーザー様の場合は一度に八つの実をつけるようです。
……ただ、にんにくにしてはやたらと巨大で、自発的に転がり、土に埋めてから実が生るまで異様に早いなど、単なるユリ科の多年草では説明がつかない部分も多々あると言いますか、このシルエットは本当ににんにくなのか……?