第六章



1


「ハッ!?」

 左胸の内側から鈍い衝撃みたいなものが走って、僕は飛び起きた。むせ返るような緑の匂いに湿った腐葉土の感触。肌寒いくらいの森の夜気。ほうほうと頭上で鳴いているのはふくろうか何かだろうか。思わず音源を目で追い駆けて真上を見上げると、青白い月が見て取れた。

 ……ここは、どこだ?

 座り込んだまま、辺りをぐるりと見回す。少なくとも静養病院の中じゃない。中庭なんかの敷地内でもなさそうだ。とにかく人工物らしい人工物は何もない。うねるような起伏に富んだ湿った地面と、腐りかけの葉っぱの海。辺りにはねじくれた木々のシルエットばかりで、しかも半分くらいは自ら腐って崩れていた。

 人の手入れが全く入っていない、日光や栄養を奪い合って自壊していく深い森だった。何となくその姿に、寝たきりのまま誰にも面倒を見てもらえずに、自家生産の床ずれで壊れていく老人を思い浮かべる。

 廃病院の外。

 深い森。

「……何がどうなっているんだ」

 記憶が繋がらない。

 委員長やエリカ姉さん達はどこにもいなかった。あの安寧会静養病院跡地から何がどうなってここにいるのか、皆目見当もつかない。今さらあれが全部バーチャルだった、なんて風には考えない。さっきまで委員長はダンピールで、義母さんはアークエネミーのリリスだった。これはもう、どれだけ非現実的でも認めるしかない。

 でも、だったら?

 バーチャル頼みにせず、足元のしっかりした現実世界で……僕は、直近の記憶を忘却してしまうほどの何かを経験した?

「……、」

 指先がぞわぞわする。

 記憶がない、その間の自分の行動に確約を持てない。冷静になればなるほど気味が悪い。

 一人きりで災害環境シミュレータ・マクスウェルを組み立てていた頃、似たような経験があった。当時の僕は徹夜なんて当たり前で、とりあえずスマホのアラームは一時間おきに時報みたいに鳴らすよう設定していた。仮に寝落ちしても最小のロスで作業に戻るために、だ。

 ……実際には六時間くらいぶっ通しで寝ていた事がある。しかもその間、僕はお弁当を持ってきてくれたアユミと世間話をしながら一緒にご飯を食べていたらしい。

 別に二重人格って訳じゃないんだろう。僕は僕のまま、うるさいアラームを一時間おきに切って、アユミのお弁当を食べていた。ただ、その間の記憶が一切脳に書き込まれていなかっただけで。

 あの時と同じ感覚だった。

 でも、あれは七二時間くらいぶっ通しで作業を続けていたからこそ起きた異常事態だ。何の脈絡もなくいきなり発生するものじゃない。

 よっぽどの事だぞ。

 だけど、そのよっぽどって具体的に何だ?

「姉さん、アユミ……?」

 そっと暗闇に声を放って、それから自分の行動に首を傾げる。何で僕は声を抑えているんだろう。まるで自分の居場所を周りに知られてはいけない、みたいな感じで。

「……そうだ、マクスウェル」

 あちこちポケットを探って、いつものスマホがいつもの場所にあるのに何だか感動してしまう。今の僕はこんな当たり前の事さえ担保がない状態なんだ。

「マクスウェル、一体何が起きた? 姉さん達や委員長は一体どこに……」

『警告、不用意なバックライトの点灯は推奨しません。危険度大、最優先』

「……?」

 いきなり遮るようなメッセージに眉をひそめる。

 そして暗い暗い森の中、唯一輝く光源に羽虫が誘われるように、『それ』はくしゃりと腐葉土を踏んだ。音源は真後ろ。思わずそっちを振り返った僕は……。



「ハッ!?」

 ドッドッドッドッ!! と心臓の音がうるさい。過剰に血液を供給されているのか、首の横を走る血管さえ不気味な脈動しているのが、指で触れなくても分かるくらい。

 相変わらずの暗く深い森。だけどさっきまでと場所は違うようだった。そしてあちこちを転げ回ったように、髪や服は腐葉土や冷たく湿った落ち葉だらけだった。まるで、なりふり構わず無様に逃げ続けたっていうか。

 ……何が起きた?

 思わずポケットをまさぐってスマホを取り出すが、そこで指が止まる。こんな真っ暗闇の中でスマホを使うのは危険だ。バックライトの光が何百メートル先から感知されるか分かったものじゃない。深夜の森に何がいるのかはまだ分からない。だけど『相手』にこっちの居場所を知らせて得することは何もなさそうだった。

 委員長、エリカ姉さんに妹のアユミ。そして義母さん。

 一体何があった。どうして僕は一人きりなんだ。彼女達は無事だろうか。

「……、」

 その場でゆっくりと身を屈めて、注意深く周囲を見回す。人間もアークエネミーも、気配らしい気配はない。だけどそれで安心はできない。まるで闇全体が巨大なバケモノにでもなったようだった。気を抜くと全方位から凄まじい圧で押し潰されそうなくらいだった。

 とにかく情報が欲しい。

 さっきはスマホのバックライトのせいで、何かに気づかれた。僕はその場に屈んで柔らかい腐葉土を手で掘って、その中にスマホを突っ込んでからスイッチを押した。完璧とは言わないけど、さっきよりは光の漏れは防げるはずだ。

「マクスウェル」

『シュア』

「一体何が起きた。直近の記憶が二回も飛んで全く当てにならないんだ。客観的な意見が欲しい」

『シュア。基本的には受け入れがたい事実や存在を意識の中から拒絶するための無意識的な排除行動でしょう。ユーザー様の脳構造が物理的に変化した訳ではないので、そこは安心してください』

「冗談じゃないっ、目で見ただけで記憶がぶっ飛ぶような相手が、他に目撃者もいない暗い森を徘徊しているって話だろ。そんなので安心なんかできるか。大体、何で僕は森の中にいるんだ。静養病院はどうなった」

『倒壊しました』

 売り言葉みたいなものだった。本気で答えが出てくるなんて思わなかった。

 でも、それにしたって……!?

「とう、かい?」

『シュア。今からおよそ一五分前の出来事です。安寧会静養病院跡地の「亡霊」についてはユーザー様自らの指示でデータをネット上のストレージに退避させるようコマンドを受けています。ただし容量がありすぎて退避先を確保できず、コマンドに失敗。「亡霊」の物理エンジンについてはフライトレコーダー並の外殻に包まれているようですが、現在、通信は途絶されています。後で掘り返す、とユーザー様は仰られていますが』

「……何も覚えていないぞ」

 片手で頭を押さえる。

 一応、ロジック自体は理解できない事もない。静養病院の地下から正体不明の怪物が湧き出てきて建物は倒壊。マクスウェルや、あるいは光十字のラプラスなんかと同じ『亡霊』を放っておけずに回収を試みる。廃病院自体がなくなってしまったのなら、現場に留まる理由もなくなる。何より、安寧会静養病院跡地を潰した怪物は野放しだから、できるだけ距離を取るしかない。そうなると暗い森で息を潜めているのも分かりやすい。

 でも。

 そもそも、廃病院では何が起きた?

 一緒に逃げたはずの、他の人達は一体どうなったんだ?

「……マクスウェル、お前は『何が起きたのか』を把握しているか。いいや、『何が出てきたのか』を」

『シュア』

「どうやら僕は直接『そいつ』を見ると記憶が飛ぶくらい錯乱するらしい。だからマクスウェル、お前の口から間接的に教えて欲しい。……一体何が起きた。ここにはどんな脅威があって、委員長達はどうなったんだ」

『シュア。説明するのは簡単ですが、それがユーザー様にとって望ましい情報であるかは確信を持てません。現状では非推奨、と警告させていただきます』

「……何だ? そんなに危険なものなのか。言っちゃ何だけど僕はもう吸血鬼もゾンビも大魔王だってこの目で見ているっていうのに」

『ノー。単純に肉体構造上の話だけではありません。むしろユーザー様の心の問題、その人格形成にあまりにも深く関与し過ぎているため、要求された情報と接触する事がユーザー様の内面にどのような変化をもたらすか、予測が困難な状況にあります』

 最初、もったいぶって遠回しな言い方をしていたため、言われた事の意味を掴みかねた。それが、与えられたコマンドに対し嘘をつけないマクスウェルなりの抵抗だと分かってから、徐々に言わんとしている事に実感が湧いてきた。

「……まさか、僕の知り合いだっていうのか」

『ユーザー様がそう判断されたのでしたら』

「気を遣わなくても良い。教えてくれ、マクスウェル! 地下から出てきたのは誰なんだ、そいつはみんなに危害を加えようとしているのか!? どうなんだ!」

 が、マクスウェルは答えなかった。

 いや、もっと優先的なメッセージを飛ばしてきた。

『警告』

「っ」

 それ以上は待てなかった。スマホを切ってバックライトを消し、身を屈めたまま、ゆっくりと足を動かす。できるだけ音を立てないように気をつけながら、湿った腐葉土の上を移動して近くの木の幹に寄り添う。

 ……さっきの二の舞はごめんだ。

『あいつ』はダンピール化した委員長やアークエネミー・リリスなんかとは何かが違う。目で見ただけで記憶が飛ぶんじゃ正面に立つ事もできない。まるで石化の瞳を持つメデューサにでも追われているようだった。


 ……ととんとんとん、とととんとんとん……。


 暗く深い森に、何か機械的な音を混じり込ませたそれがゆっくりと近づいてくる。僕の存在に気づいているのか、あるいは単なる巡回なのか。流石に判断できない。ただ、音源に合わせて僕は間に木の幹を挟むようにして、どうにかこうにか姿を隠そうとする。

 緊張で喉の奥が渇く。心臓が他人のものみたいに勝手に暴れ回る。叫んでも誰も来ない、スマホで一一〇に掛けても絶対に警官の到着は間に合わない。ここはもう日本じゃなかった。得体の知れないカルトの森だ。


 ……とんとんととん、ととんととん……。


 さっきから聞こえるあの音。

 きっとチェーンソーか何かだ。小型エンジンの回転数を落としたアイドリング状態のまま、腰で構えてあちこちを歩き回っている。当然、向こうが哀れなターゲットを両目で捉えたら何が起こるかは明白。吸血鬼やゾンビとはまた違った、地に足のついた恐怖が胸を締め上げてくる。あんな凶悪なブレードで生きたままバラバラにされるのは、アークエネミーに噛まれるよりもおっかない。

 こんな綱渡りよりも危険な状況で、不用意に記憶を飛ばす訳にはいかない。そう何度も無計画に逃げられるとも思えない。把握。まずは何とかして、敵を、状況を、確実に把握する必要がある。戦うにしても逃げるにしても、判断はそこからだ。無鉄砲が一番怖い。

 ……条件は見えないところもあるけど、とりあえず『直接』見なければ良いのか。それなら、間接だったら……。

 僕は木の幹から別の木の幹へ移りながら、スマホに意識をやった。当然、マクスウェルには聞けない。この暗闇でバックライトを光らせて文字を読むのは自殺行為だ。なので真っ黒な画面のまま、木の幹の陰からそっと差し出した。スマホの画面をちょっとした手鏡代わりに使った事なんて、中高生なら普通にあるだろう。

 これだけで記憶が飛んだらもうお手上げだけど、あれもこれも怖がって避け続けるだけじゃ先には進めない。そしてチェスや将棋と違って状況はリアルタイムで動いている。チェーンソーを抱えた誰かは待たない。ためらえばためらうだけ、こっちが致命的に追い詰められていくに決まっている。


 ……とんとんとんととん。とんととん……。


 近づいてくる。

 最初からこっちの位置が分かっているんじゃないかってくらいに。だけどまだ確証はない。今、プレッシャーに負けて絶叫しながら走り出したら、それこそ確実にロックオンされる。だから耐えろ。耐えて把握しろ。正体不明のヴェールに包まれた、恐怖の源泉を。

 幹の裏に隠れたままスマホだけを伸ばし、少しずつ角度を変えていく。頭上の枝葉にかなり遮られているけど、でも月明かりだって完全にはなくならない。今なら、見える。真っ黒になったスマホの画面に反射して、『何か』が映り込めば……。

「あ」

 そして、僕は見てしまった。

 わざわざ自分の記憶を吹っ飛ばしてまで守りに入ったんだから、そんなもの追い求める必要なんかどこにもなかったのに。百害あって一利なしの状況なんだから。

 怖いもの見たさ、パンドラの箱、禁忌破りの快楽。そんな単語さえ頭に浮かんでは消えていく。

 僕は後悔した。

 スマホの真っ黒な画面に映り込んでいる、単純にチェーンソーと呼ぶにもごちゃごちゃし過ぎた凶悪な金属の塊を抱えた……誰か。その正体は……。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」


2


 また記憶が飛んでいた。

 気がつけば暗い暗い森の中を何度も転びながら、闇雲に逃げ回っていた。おそらく手鏡代わりのスマホで『誰か』を覗き込んだからじゃない。その後に絶叫したところまでは覚えている。きっと、後先考えずに幹の裏から飛び出して、まともに直視してしまったんだ。

 怖い。

 怖い怖い怖い。

 ……あいつが持っていたのは、ただの材木用のチェーンソーじゃなかった。明らかにカスタムしている。たすき掛けにした革のベルトに草刈り機のようなV字の大きな持ち手。そもそも材木用のチェーンソーは回転刃を三つも平行に並べたりしない。チェーンソーの上面、刀で言えばミネのある方に、人の手で引くのも難しそうな、あまりにも巨大なボウガンなんか装着しない。

 あれは道具じゃなくて武器だ。しかも森を逃げる二足歩行の獲物を追うために各部を調整した、完全な人間狩り仕様。

 あんなので狙われたら遠近どちらでも即死だ。単純にエンジンのアイドリング音を耳にして近いか遠いか測っても意味はない。

 だけど。

 何故だか僕は、そんな直接的な危機よりもまったく違う事を脳裏に浮かべていた。



 前の母さん……と呼んでしまうと、あるいは失礼になるだろうか。

 でも今の僕にとって『かあさん』と言えばもう、エリカ姉さんや妹のアユミを連れてやってきた、天津ユリナの方が印象は強い。

 とはいえ、その人が憎い訳でも嫌いな訳でもない。アークエネミーで大魔王なリリスと比べたら幾分大人しいとしても、きちんと歳を重ねたきちんとその年代の奇麗な人だったと思う。

 ……僕にとっては、変わってしまった人、という印象だった。

 かつてはどれだけ優しくて自慢に思えても、もう絶対に戻ってこない人。何かのレールが切り替わって、それっきりな人。父さんと母さんの間にも色々あったんだろう。悩みに悩んだ末の離婚だったんだろう。でも僕の胸に残ったのは、どうしようもない心の亀裂と、家族はどんな時も支え合って生きていけるっていう常識なんて本当の荒波の前じゃ全く通用しないっていう、知りたくもない事実だった。

 今でも忘れられない。

 玄関に取り残されたままずっと眺めていた、その背中。一度も振り返る事なく閉められた、一枚のドア。家族が他人になった瞬間。



 何でそんな事を思い出したのかって?

 決まっている。

「なんでっ、何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何でえ!?」

 あらゆる前提も合理性も全部無視して、派手に絶叫しながら暗い森を走る。草刈り機のようなV字の持ち手のグリップにあるスイッチでも押し込んだのか、バォン!! と大型バイクのスタートみたいな爆音が響く。背後で誰かが回転刃を平行に並べた三連チェーンソーのクラッチを繋ぎ、サメの歯みたいにずらりと並ぶ金属ブレードを猛烈に回転させ始めたんだ。だけどもうどうでも良い。腐った森をほとんど転がるような格好で僕は走り続けた。そうしながら、改めてスマホを取り出す。バックライトをビカビカ光らせながら、怒鳴り散らすようにマクスウェルに質問を飛ばす。

「マクスウェルっ!!」

『警告、ユーザー様が置かれている状況において派手な光や音の発生は……』

「どうでも良い、全文読んでる暇ないから長文は送るな! それよりあれは何なんだ。どうして前の母さんが……旧姓で禍津タオリが殺人三連チェーンソーなんか抱えて森を徘徊しているんだよう!!」

『ノー。システムにも把握不可能な状況です』

 目の奥がチカチカする。

 後ろは振り返れない。直接見ればブレードの恐怖か、それ以外の理由か、とにかく記憶がぶっ飛ぶ。だから背後から追い駆けてくる三連チェーンソーの唸りに背筋を凍らせながらも、ひたすら前だけ見据えて走り続ける。

『ただし、禍津タオリとやらが静養病院の地下フロアから階段を上ってやってきたのは間違いありません』

 つまり、何だ?

 廃病院が最も恐れていた、封印区画の怪物は。三連チェーンソーとボウガンを組み合わせた人間狩りのオモチャを腰で構えて深夜の森を徘徊しているのは……。

 やっぱり、僕の……実の母さんって事で良いのか?

「狂ってる……!」

 義理の母の天津ユリナがアークエネミーなのはまだ分からなくもない。そもそも吸血鬼の姉さんやゾンビの妹だって出自は結構怪しいんだから、義母さんにも秘密はあるかもしれない。だけど、禍津タオリは実の母なんだ。その血は半分僕にも受け継がれているんだ。もしも母さんがアークエネミーだったら、僕だってハーフになる。だけどそんな話は聞いた事がない。そりゃあ魔女の伊東ヘレンだって自覚なきアークエネミーだったけど、そういうのとも違うんだ。今までだって片鱗みたいなものは全くなかった。自分が純粋な人間じゃないっていうのはどうしても信じられない。

 あるいは、母さんは離婚してから噛まれるなり何なりしてアークエネミーの仲間入りを果たしたんだろうか。だとしても、それはそれでひどく哀しく、受け入れがたい話だった。僕は吸血鬼の姉さんやゾンビの妹には理解はある方だと思うけど、彼女達に無秩序に被害を増やしてほしい訳じゃない。

「はあ、はあ!」

 起伏が激しく、足場の柔らかい腐葉土の森は校庭やアスファルトと違ってあっという間に体力を奪い、息を切らせていく。ネットに転がってる軍隊マニュアルとかだと足跡を残すなとか枝を折るなとか良く書かれているけど、真後ろから殺人三連チェーンソーやボウガンで追い立てられている状況でいちいち気にしている余裕なんか全くなかった。どう考えても追い着かれたらおしまいだ。あの凶悪なエンジンの唸りに、かつての親子の情なんて感じられない。会話の暇もなく一発で縦に何枚下ろされるか、あるいは眉間や心臓に金属製の矢を撃ち込まれてジ・エンド。そんな未来しかない。一度も振り返らなかった背中と、やけに無機質に響いたドアの閉まる音が今でも頭にこびりついている。

 が、恐ろしい現実を前に、妄想の中に逃避したのは良くなかったらしい。

「ぐっ!?」

 いきなり目の前の木の幹の裏から真横に、細い腕が伸びた。ラリアットでも喰らったように、首を支点に体がぐるりと回る。天地の確認なんてしている暇もなかった。反射的に咳き込もうとする僕に対し、誰かの柔らかい掌で口元を押さえられて、もう片方の手で襟首を掴まれて太い木の陰に引きずり込まれる。

 相手はヘアゴムを使ってゆるふわの長い赤毛を頭の後ろで束ねた妖艶な女性。黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにお尻の形が分かるくらいのぴっちりジーンズを穿いた、

「……やーほー、サトリ。元気してた?」

「っ、義母さ……」

「ふふん、サトリの中では未だにこっちの私が母さんなのね、アークエネミー・リリスだなんて特大の爆弾を投げ込んだのに。ふふっふ、愛い愛ーい」

 人が呼吸困難で動けないのを良い事に、なんか上体を抱えられて頬擦りされてしまった。下手すると大学生くらいにしか見えない紀元前生まれはこれだから大人気なくて困る。親の離婚問題に巻き込まれたせいで『普通の』ご家庭っていうのに恵まれている訳じゃないけど、でもきっとこれ『普通の』スキンシップじゃあないんじゃないかなー!?

「うえっ、けほっ。義母さん……これってどんな状況なの? 委員長とか姉さん達は……?」

「んー? バラバラに逃げ回ったから確約はできないけど、でもきっと大丈夫よ。まず禍津タオリにはお隣の委員長を率先して襲う理由はないし、エリカやアユミがやられていたら、最終的にはどうあれいきなり殺すんじゃなくていったん人質にするはず。向こうからすれば、光十字が化け物を殺す殺さないで納得できずに離婚争いまで発展したくせに、気がついたらその化け物の嫁と夫がくっついてるのが許せないんでしょ。だったら私がアークエネミー迫害に猛反対して家を飛び出したのは何だったんだってね」

「……、」

「困っちゃうわよねえ、元々は聞きかじりの素人なりにアークエネミー擁護派だったんでしょうに。同じく光十字の中で改革を叫んでいた専門家のお父さんを勘違いして攻撃しちゃうくらいの良識派だったんでしょうに。でも、厚い好意があればこそ、冷める時の憎悪も倍加するものなのかしら」

 いや、まさか?

 カラミティもアブソリュートノアも関係ない。

 ここまできて、そんなパーソナルな問題が顔を出してくるっていうのか!?

「禍津タオリがどんなタイミングで表に出てこようが、絶対に私を炙り出すために娘達を狙ってくる。それどころか、今のあいつならカラミティに耐える設計のアブソリュートノアさえ個人の力で破壊しかねない。……だから四六時中警戒しなくちゃならなくなる前に、こっちから打って出ちゃおうと思っていたんだけど、まさか力業で封印区画の壁を破るとは。ちょっと間に合わなかったみたいねえ」

 世界の危機とか。そこからの救済とか。

 ムチャクチャなスケールの話だったし、僕は今でもみんなを笑って見殺しにするアブソリュートノアになんか乗りたくない。

 でも、それにしたって母さん、禍津タオリのやり方も極論だ。憎い女が少しでも関わっているから、だから壊す。七〇億人の未来の行方なんかお構いなし。ある意味では徹底していると言っても良い。

 ドッドッドッドッ!! と、すぐ近くを回転刃を平行に並べた殺人三連チェーンソーのエンジン音が通り過ぎていく。この太い木を挟んですぐ向かいを、ゆっくりと。こっちには気づいていないのかもしれない。

 身を屈め、息を潜め、しかし天津ユリナは笑っていた。

「……でも、禍津タオリにはサトリを殺す理由はない。こればかりは絶対にね。顔を見るなり叫んで逃げちゃダメよーサトリ。おかげできっと、向こうも向こうで錯乱しているんじゃないかしら」

「何で……? だって母さんからすれば、僕なんてそれこそどうでも良かったはずだ。今でも覚えてる、一人ぼっちで取り残されたあの玄関を。母さんは一度も振り返らなくて、ドアは無機質なくらい簡単に開閉して、それっきりだった。どんなに待っても開かなかった。なのに今さら……」

「ねえサトリ」

 どうしようもなく駄々をこねる子供をあやすように、義母さんは僕の頭を自分の胸の辺りで抱えたまま、そっと髪を撫でてきた。

「あなたの言っている事は事実かもしれない。そんな選択がなければ、私はあなたのお母さんにはなれなかったのも含めて。……だけどサトリ、あなたは待つだけだったの? 自分から玄関の扉を開けて、家を飛び出して、禍津タオリの背中に抱き着いてあげなかったの?」

「あ」

「ドアの向こうでは、待っていたかもしれない。見捨てられたのはサトリだけじゃなくて、あの女の方も同じだったのかもしれない。家を捨ててでも私についてこいなんて、小学生には酷な注文よね。でもだからこそ、奇跡を願った。言葉で言えなかったから態度で示そうとして、でも誰もついてこなかったから、戻るに戻れなくなった。そんな話だったのかもしれなかったでしょう?」

 ……なんて、ことだ。

 もちろん義母さんの言い分が絶対に正しいなんて根拠はない。あくまで天津ユリナから見た主観の話にすぎない。でも、義母さんは現在進行形で三連チェーンソーを向けられている当人だ。敵対者として、裁定はとことん厳しくなっているはずだ。その義母さんから見ても、そんな意見が出てくるような状況だったのか? あの頃の僕は、いいや今日の今日まで僕は自分が一方的に捨てられた被害者で、新しくやってきた義母さんや姉妹にどれだけ救われてきたか、それだけしか考えてこなかったっていうのに。

 あれが、ポーズだったのか?

 なのに、僕が動かなかったから、玄関から動かなかったから、家の中から一歩も出なかったから、だから……。引くに引けなくなってしまった、だって???

 そうだ。

 そうだよ。

 決定的な離婚になる前だって。大人達の話だからで夫婦ゲンカを止めに入る事もなく、致命的な衝突が起きるたびに一人で安全なお隣の委員長の家に逃げ込んでいたのは正しい行いだったのか。

 終わってしまった後でああすれば良いこうすれば良いって言うのは簡単だ。だけどあの時あの場に吹き荒れていたのは紛れもなく小さな戦争だった。ひょっとしたら、違った選択をしていたら非力な子供はもっとひどい事になっていたかもしれない。それでも、僕は今ここにいる僕に胸を張れるのか。

「サトリ。勘違いしないでほしいけど、これは誰が、何が、悪いという話ではないわ。だから一つの結末に対し、あなたが罪悪感を覚えなくてはならない強制力はどこにもない。幸せは人の数だけあるもの。あるいは禍津タオリは天津タオリのまま親子三人で笑っていた人生があったかもしれない。あるいはアークエネミー・リリスが二人の娘を連れてきて天津ユリナになる人生だって。あなたはどちらかを選択して、そして今この人生を歩んでいる。だから勘違いはしないで。今回の問題に、全員仲良く大集合はありえない。どちらかを選ぶという事はどちらかを切り捨てる事。禍津タオリにとっては悪夢となる答え合わせだけど、でも私はこの選択で良かったと思う。エリカとアユミ、二人と一緒に笑い合っているあなたの幸せは、他の何にも変えられないお母さんの宝物なんだから。それこそ、世界七〇億人に背を向けてでもアブソリュートノアへ乗せてしまいたいくらいにね」

「……、」

 僕は……。

「そしてどんなに正しい理由を持っていようが、それを殺人三連チェーンソーなんかでズタズタに壊そうとする今の禍津タオリの存在を、お母さんは許す訳にはいかないの。これは、選択の結果分かたれた未来と未来の激突よ。どちらにも正しさがあって、どちらにも幸せがあった。だから、そういう部分で戦おうなんて考えないわ。お母さんはね、ただ今ある選択を守りたいだけなのよ」

 高校生の僕には難しすぎた。

 一体いくつの恋を経験すればこんな難問の答えに辿り着くのか、道筋さえ見えていなかった。

 いつまでもいつまでも声を出せない僕に、義母さんはゆっくりと目を細める。それで良いんだと。確かにこれは家族の問題だけど、でも子供が抱えて押し潰されるような問題じゃないと、そう目で語ってくれた。

 でも、それは。

 同じなんじゃないのか。あの頃から何も変わっていないんじゃあ。閉じた家の中で何かが壊れる音がするたびに、誰も連れ出さずに一人でお隣に逃げ込んでいた、あの頃と。

 確かに僕は子供だ。

 だけどいつまでも子供のままで良いのか。

 本当に、それで。

「さて、と」

 義母さんは、天津ユリナは、優しく僕の上体を木の幹に立てかけた。自由になった掌をそっと叩き、腐葉土を軽く落として、ゆっくりと立ち上がる。

「そろそろお母さんも行かなくちゃ」

「何を……」

「廃病院の地下、あなたも見たでしょ。出入り口を全部強化コンクリートで埋めて外から何重にも結界を重ねて、水も食べ物も酸素もない環境で三年以上閉じ込められて……なお、あれだけの力を維持したまま」

 改めて条件を並べられて、背筋に冷たいものが走る。そんな環境じゃ吸血鬼やゾンビだって無事な訳ない。一体母さんの身に何があった。天津の家に入り込んだアークエネミー達をどこまで憎めば、自分の体をそこまでいじくり回せるっていうんだ……。

「ハンターとして完成され過ぎていて、今のエリカやアユミじゃ荷が勝ちすぎるわ。そりゃあ静養病院側が処分もできずに区画ごと封印していた訳ね。何しろ対アークエネミー戦の技術情報のオンパレードだった秘密施設でさえ、殺す方法が全く思いつかなかったっていうんだから。だとすると、ここはやっぱりみんなを代表して大魔王サマが一丁体を張ってあげないとね」

「義母さ……っ」

 呼び止める暇もなかった。

 僕を置いて、天津ユリナは安全なはずの木の裏から勢い良く表に飛び出して行ってしまう。

『へいへいへーい! どうしたしなびた前妻、あなたのお探しの品はこっちにいるんじゃなーい?』

『……、見つけた。私の敵……』

 また、見送るしかなかった。いなくなっていく母親の背中を、ただじっと目で追い駆けるくらいしか。

 恐るべき三連チェーンソーの唸りが、どこまでもどこまでも響き渡った。


3


 エンジンの咆哮と金属同士がぶつかるような甲高い音が連続する。

 そんな中を、僕は半分腐葉土に埋もれるような格好で這って進む。

 逃げるためじゃない。

 渦中へ。

 少しでも、原因の中心に向かって。

 何が正しいのかなんて僕にも分からない。もしもタイムマシンがあって、もう一度やり直しができたとして、何を、どっちを選ぶ? あれは愛に飢えたポーズだと気づいて去り行く母さんの背中に必死でしがみつくのが正しいのか。でもそうすると義母さんやエリカ姉さん、妹のアユミは目の前からいなくなる。だからと言って、もう一回同じように見捨てるのが本当に正しいのか。母さんの痛みを知った後さえ、ねじれてしまったすれ違いが分かった上で同じ選択を繰り返すのは、もはや罪悪ではないのか。……答えなんか出るはずがなかった。そもそも一つの答えが用意してあるようなものでもなかったはずだ。

『警告。これより先は危険です』

「……良いんだ」

『天津ユリナが用意した安全圏を放棄する格好になります。ユーザー様の行動は戦術上意味のない損失を拡大させるリスクしかありません』

「それでも良いんだっ」

 だけど、そういう選択の積み重ねの先に、今ある日々がある。ひょっとしたら選択の重さも理解せずに流してしまったものもあったかもしれない。でも、それさえ含めて今の笑顔がある。だったら踏みにじらせる訳にはいかない。少なくとも、母さんの殺人三連チェーンソーはタイムマシンじゃない。どれだけ振り回してどれほど壊して回っても、すでに決定された選択は覆らないんだから。

 やらなくちゃならない。

 二人の母親を止めなくちゃならない。

 もう声を掛けてくれるのを、目の前から立ち去ろうとする背中が振り返ってくれるのを待ち続けるだけじゃダメなんだ。二人からすれば相変わらず僕なんて手のかかる子供で、だからこそ『自分が』何とかしなくちゃならないって考えているのかもしれないけど、それじゃあダメなんだ。いつまでも甘えてなんかいられないんだ。

 大人になれ。

 家族を守れる誰かになれ。

「……、」

 這って這って這い進んで、ようやく音源に近づいた。ハンターとして完成された母さんは直接見れない。あれは邪悪な太陽に近い。圧倒的恐怖で記憶が飛ばないよう、物陰で仰向けに寝転がって手鏡か潜望鏡みたいにスマホの画面を真上に伸ばし、間接的に観察する。暗い暗い森の中で何が起きているのかを理解した。

 カオスだった。


 まず母さん、禍津タオリ。


 こうして見ると、やっぱり彼女は人間だった。思い出の中よりいくらか時間の経過を感じる。足首まである長いロングスカートのワンピースに、上から羽織ったカーディガンが落ち着いた印象を与える。髪は艶やかな黒で、肩甲骨の辺りまで伸びていた。栄養を行き届けて美しい部分を残すため、敢えてロングを捨てたんだろう。そして、楚々とした空気を纏う大人の女性だからこそ、草刈り機のように腰の辺りで提げた殺人カスタム三連チェーンソーがどこまでも異質で凶暴だった。

 母さんは、大型のエンジン式三連チェーンソーとボウガンを組み合わせたような武器を両手で掴み、体ごとぐるりと回って変幻自在、縦横無尽に操っていた。まるでパレードで大きな旗でも振るっているようだ。ブレードの高速回転中、ワンピースのスカートが大きく広がる時でもお構いなしに、遠近、二つの武器をクラッチで切り替えているらしい。人の手ではとても引けないような攻城兵器じみた大型ボウガンの強力な弦であっても、エンジンの力を借りて極めて短時間で引いてしまう。セットされるのはおそらく銀の矢。だけど一本じゃない。お湯に通す前の素麺の束みたいに何十本もの細長い矢が紙の帯でまとめられ、それらがセットされる。後は腰だめで大雑把に発射。扇状に広がる矢の雨は精密照準なんていらなかった。ほとんど面制圧の勢いで空間を埋めていく。

 原罪を負ったアダムやイヴと違い、その前に袂を分かったリリスには普通の人間は勝てない。だが母さんはそれさえ力業で押し切っていく。

 黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにぴっちりジーンズの義母さんはその都度太い木々の裏に身を隠してやり過ごすけど、禍津タオリにとっては本命じゃないらしい。いわゆる時間稼ぎ。矢の雨に叩かれて身動きの取れない義母さんへ急接近し、クラッチを操作。大型三連チェーンソーが唸りを上げて横薙ぎに振るわれた途端、義母さんが盾にしていた太い木の幹が根元からばっさりと切断されていく。


 対するは義理の母、天津ユリナ。


 決まった武器がない分、こっちはとことん変幻自在を極めている。そんな印象だった。身を翻したと思ったら僕の背丈の二倍はある高さの枝にいて、母さんが幹の根元を切り倒す頃には折って先を尖らせた枝を左右の手で掴んだまま倒れゆく幹を垂直に駆け下りて流星のような刺突を繰り出す。手にした武器が通じなければあっさり放り捨て、足元の石を蹴り上げ、木の幹に絡みついた蔦を鞭のように振るい、一体どこから捨てられたのか錆びた洗濯機や自転車さえ振り回して己の武器に変えていく。

 どっちが優勢、なんて話じゃなかった。

 魔王も人間も恐るべき力を振り回している。

 拮抗。

 海面ギリギリを通って超音速で迫り来る対艦ミサイルを撃ち落とす、CIWSのガトリング砲みたいな応酬。盾や鎧じゃない。砲をもって砲を落とす、正確さと回転数を矛盾なく同居させた悪夢のような攻撃の数々。

 今の今まで、僕達は二人の母さんから信じられないくらい手加減してもらっていたんだ。

 改めて見る、本物の殺し合い。

 肌がピリピリ痛みを覚えるほどの衝撃と、達人の演武を見るような、瞳を吸い寄せられる不思議な力。あるいは美しくも危うい名刀や魔剣に魅入られるっていうのは、こういう状態なんだろうか。

 両者の間でオレンジ色の火花が激しく飛び散る。あれは命だ。絶命、断末魔、まさしく命を散らす輝き。僕なんかじゃその一つさえ撃ち落とせずに頭がひしゃげる羽目になるのは、何となくだけど理解できた。やっぱり次元が違う。ひょっとしたら、この二人が手を組めば小細工抜きの正面突破で光十字を壊滅できたんじゃないか。そんな考えさえ脳裏をよぎる。絶対にそんな『選択』はありえないって、頭では分かっていても。

「……あなたさえ……」

 地面どころか木の幹や頭上の枝まで利用し、瞬きの一つさえ命取りになりそうな高速高密度の立体戦闘の中で、しかし何よりも寿命を抉るのは、そんな呪詛の声だった。

 母さん。

 禍津タオリの口から溢れる、無色の闇。

「あなたさえいなければ、私は……!」

「一度は別れても、もう一回合流できたかもしれないって?」

 縦に横にと振り回される三連チェーンソーは、いくらリリスでも防御はできない。軽やかにバク転してあらゆる鋼の軌跡を器用に避けながら、舞うようにして黒い下着がうっすら透けるほど薄いブラウスにお尻の形が分かるくらいのぴっちりジーンズを穿いた悪魔は笑う。

「甘ったれんな。引き止めてくれなかった子供が悪い? 止めてくれたら立ち去らなかった? ポーズの真意に気づいてくれなかった子供が悪いですって、ふざけるな! あなた達の金切り声で連日連夜ギリギリまで消耗させられていた小さな子供に、どこまで身勝手な期待を押し付けて責任を被せるつもりだ!! あなたの人生は悲惨だった。だけどこれ以上私の息子を雁字搦めに縛り付けるって言うなら、ここで断ち切らせてもらうわ。禍津タオリっていう名前の錆びた鎖をね!!」

 ガォン!! と平行に回転刃を並べた三連殺人チェーンソーがより凶暴に鳴く。

「私の子供だ!! 家も子供も私は心血を注いで守ってきた。一つ一つ積み上げて。お前達は! 男も女も揃って大きな木を土ごと掘り返して自分の庭に植えただけだろうが!!」

「だけど苦労を知りながら、それでも自分の本音も言わずにポーズや演技で誤魔化したのはどこの誰!? サトリは言っていたわ、いつまでもいつまでも玄関の扉を見ていたって。その扉はもう開かなかったって! そんな輩にサトリの未来を預ける訳にはいかないのよ、一人の母親としてはね!!」

「ッッッ!! 人外のバケモノ、アークエネミーが知ったような口を!」

「そのアークエネミーを躊躇なく殺し尽くすだけの力を手に入れた今のあなたは、じゃあ何だ!? 聖者の血でもすすったのか、あるいは手足や脇腹から存在しないはずの傷でも浮かばせた? 確かにご立派、大した奇跡よ。だけどあの子が甘えたかった、それを決して許してもらえなかった、母親の像はそんなものだったっていうのか!」

「っ」

「アークエネミーに対抗する人の強さは一つじゃない。私は、身近なアークエネミーのために一〇〇ヶ国以上に根を張る国際組織光十字にたった一人で戦いを挑んだサトリを本当に誇りに思っているわ! だけどその強さは、決して人間を捨てた戦闘力なんかじゃなかった!! 人間でもアークエネミーでも、目の前で泣く誰かを見捨てられない、そのためならアブソリュートノアの優先チケットさえ迷わず捨てる優しさにあった!! あの子の中心で輝くその強さは、私が教えたものじゃない。何しろ自分の中にないものなんかどうやったって子供に渡せないから。だから残念よ。元からあの子に備わっていた以上、それは他ならぬあなたが教えたものだと思っていたのに!!」

 言葉の応酬には、何の意味もなかったのかもしれない。だけど、何かが傾いていくような気がした。そんな風に見えた。どちらかがのしかかって、どちらかが折れる。そういう、見えない趨勢みたいなのが肌で感じられるようになってきた。

 義母さんは、天津ユリナはこう言っていた。

 全員仲良く大集合はありえない。

 どちらかを選べば、どちらかが切り捨てられるって。

 つまり、このままアークエネミー・リリスに任せておけば。一つの選択の正しさ、平穏な日々を取り戻す代わりに、もう片方は永遠に……。

 良いのか。

 もう一度、何度でも繰り返す。

 本当にそれで良いのか、天津サトリ。

 決着は近い。

 介入するならここしか、今この瞬間しかない。

 選べ。

 僕が本当にやりたいのは……!!