第〇章



「おっ?」

 家に帰ると妹のアユミが昼寝していた。

 小さな背丈に華奢な体つき。長い黒髪はツインテールにして先っちょだけくるくる巻いているバターロール仕様。格好は私服のジョギングウェアだった。ちょっとそこらを走っての一休みなのかも。肌のあちこちにぬいぐるみみたいな縫い痕が走っていて、つまりアークエネミーのゾンビでもあるんだけど、そんな天津アユミがリビングのソファにごろんである。

 まあこの女子中学生は一見豪快ででも繊細なようでいてやっぱりよくよく見ればあちこち豪快なもんだから、水着と区別がつかないような格好で体を投げ出していても今さら驚かない。いや控え目な胸元とかおへそとか気になるトコはイロイロあるけどさ!

 ただちょっと気になったのは、無防備に寝転がるアユミの頭にカチューシャみたいな機材がくっついていた事だ。言わずもがな、VR用のダイブデバイスである。

 試しにスマホを取り出してみた。

「マクスウェル」

『シュア』

 画面のふきだしを使って災害環境シミュレータのホストが応えてくれる。

「アユミ何してんの? ゲームか何か?」

『ノー、単純に昼寝のようです』

「また非効率な……。バーチャル起動したままだと頭は動かしっ放しだから疲れは取れないだろうに」

『この程度ならプライバシー保護に抵触しないと判断して開示しますが、今現在は架空の天津サトリ、つまりユーザー様を横に置いて添い寝しております』

 おやなんと。

 それを耳にしてちょいとイタズラ心がむくむく持ち上ってきた。ソファは、うん、元からアユミは小いちゃいからスペースは十分だな、よし。

 試しにアユミのすぐ隣で横になってみる。

「おっと危ない」

 二人分の体重のせいかもしれないけど、意外と沈むなこのソファ。ぐらっと体が揺れたせいで横倒しのアユミと思った以上に唇が近づく。

 ……ぶっちゃけるとお安い合成革とスポンジだから、あんまり寝心地はよろしくないんだよな。横倒しでほっぺたを押し付けると自分の汗のじっとりした感じを存分に味わう羽目になる。何でこいつこんなトコをお昼寝スポットにしてるんだ。

「マクスウェル、アユミがログアウトする時は知らせてくれ」

『てかもう起きそうですが』

「早いな展開が!」

 合成革に吸収される事なく行き場を失っていたアユミの女の子らしい甘い匂いが鼻につく。可愛らしい唇の隙間から規則的に漏れていた寝息がぴたりと止まり、そして妹のまつ毛が繊細に震えた。サナギから脱皮を終えた蝶が初めて大空へ挑むように、うっすらとまぶたが開いていく。

「くーすー」

 そしてお兄ちゃんは全力全開のタヌキ寝入りであった。

 薄目で観察すると、アユミはアユミで至近五センチまで迫った伝説の忍者を寝ぼけ眼でふらふら捉えて、

「……ふぁ、あ。あれ? お兄ちゃ、あれえ!? ちょ、な、えっ、マクスウェル、あたしちゃんとログアウトしたよね!?」

 ふははっ! 忍法マトリョーシカの術に引っかかったようだなアユミ。どうだ、バーチャルから目覚めてすぐに全く同じ光景が目の前いっぱいに広がると足元がふわふわするだろう!!

 一方、ぐるぐるぐるぐる……と思考中のように見えて完全に目を回しちゃっているアユミはと言えば、

「何かの手順でミスったのかな……? でもそうか、ここはまだバーチャルの中か」

 ……おや?

 これはどうした事か、何やらアユミの独り言がしっとりしてきたぞ? ほんとにリアルで肉食の妹のくせにナマイキな。

「ど、どうせまだバーチャルの中なら、さっき一つやり忘れたのを……」

 おおっとう!?

 何だこりゃ、アユミのヤツが甘酸っぱくなっていますよ。なんかのタイミングでネタばらししないと加速度的にえらい事になりそうだけど、でもなんかそのきっかけがないよ! ヤバいずるずるいっちゃう、もうちょっとあと一回のこの感じ、そうだ一回一五分の狩りのゲームのアレみたいな気分……!?

 そしてヤツは熱っぽく囁いた。


「どうせバーチャルなんだし、一口くらいガブッといっても……」


 どっ……。

「どうせじゃないわどっせぇーい!!」

「わっ」

 このゾンビ野郎ッ! 慌ててソファから飛び起きて距離を取ろうとするも、何だかアユミの目の色がおかしい。妹のくせに全体的にとろんとしてる、だと!?

「うおお流石リアルなシミュレータ。逃げ方までお兄ちゃんっぽい」

「バーチャルじゃねえわマジなんだわ!!」

「うんうん、きちんと歯応えありそう。マクスウェルすごいよね!」

『お褒めに預かり光栄です』

 やべえっ、軽い冗談のつもりが本格的にどっぷりハマってる!? あかんこのままじゃゲーム感覚でガブリとやられる!!

『全部ユーザー様の自業自得なのでたっぷり味わえばよろしいのでは?』

「ちっとも役に立たねえ事言ってる暇があったらリスク回避シミュレーション! ハッ!? そっそうだそもそもダイブデバイスがまだアユミの頭に引っかかったままならもう一回バーチャルへ意識を落としてしまえば……!!」

『……、(もうゴチャゴチャ言ってないで早よ痛い目見ろよ)』

「何で突然反抗期入ってんのカッコでくくっても文字は丸見えなんだよ!? ちょっと思考が柔軟過ぎやしないかマクスウェル!」

「うふふ、お兄ちゃんはどんな味がするのかな。やっぱり刺激的なレモン味かしら」

 そんな今時少女漫画にだって出てこないような味にはならないわ普通に鉄錆と脂、血と肉のテイストですよ!!

 頼みの綱のマクスウェルが実装した覚えもないナゾのぷんすかぷんモード(?)になってしまった以上、僕としては取れる手段は大変限られてくる。腐っても相手はゾンビ(うまくは……ないか)なのでその辺のクッションでぶったりぶたれたりした程度じゃどうにもならない。そもそも人間の腕力でどうこうできる相手でもないのだ。妹のくせにナマイキな。でもそうなると、だ。

 アークエネミーにはアークエネミーを。

 魔王リリスな義母さんは(ご近所のママ友と鉢合わせないよう)隣街のスーパーでパートのレジ打ちをしているとして、残る最後の希望は……!!

「ねっ、ねっ、姉さーん!! この夕暮れ時ならまだねぼすけ吸血鬼は棺桶の中だって僕は信じてるうー!!」

 ていうか我が家で一番の常識人が女王蜂みたいなクイーン級の吸血鬼っていうのも狂っていると思います! でも今はとにかくワラにもすがる感じなのだっ!! ちょっとこの笑えない方向におバカが尖った妹を何とかしてえー!!

 が、まさにその時であった。


「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………サトリくん、さっきから何アユミちゃんの寝込みを襲ってイチャイチャしているんですか???」


 うっ……。

「うげえ!? リビングのドアから顔半分だけ出した姉さんが今まさに不審者を見るような目でこっちをロックオン、だと!!」

『やれやれ。一体どこの誰に向けて説明しているんですか』

「完全に危機感を放棄したお前にだバカ!! ラプラスでもゴーストキャットでも良いからとにかく全機並列接続、この脅威の回避方法を最優先で検索開始ーっっっ!!!!!!」



 という経緯があったのだった。

 僕は悪くない。

 マクスウェル、ラプラス、ゴーストキャットの三基が導き出した最適解に従って血に飢えたケダモノどもことエリカ姉さんと妹のアユミをやり過ごしただけなんだ。

 具体的に何をしたかって?

「……なあマクスウェル、どうしてあの局面で姉さんのゴスロリドレスのスカートを真正面から思い切りめくる必要があった訳?」

『まさにこの慧眼が見つけ出した、針の穴を通すような選択でした。現にこうして無事生存しているのですから文句を言いなさんなと返してやりたい』

「まあ確かに突然の奇行で姉さん達が凍りついている間にリビング飛び出したんだけどさ、これから晩ご飯とか超怖いよ。……あと姉さんったら今日もまたとんでもねえパンツ穿いてやがったな。あれ何だ? もう名前が分かんないよご馳走様」

『やれやれ。今日もまたって事は割と頻繁に目撃してるなこのやろーです』

 げふん。

 そんな風に言いながらもひとまず二階へ退避。ちなみに階下からはバルカン砲でも乱射してんじゃねえのってくらいの大震動が不規則に続いております。……姉さんが顔真っ赤にしてのたうち回り、突発的なボス戦イベントと勘違いしたアユミが飛びかかってんのかも。とはいえこのまま何にもない廊下に留まっていると即確保されそうだし、やっぱり自室に閉じこもるしかないのかしら。

 そんな風に考えながら、ドアノブ回して勝手知ったるホームグラウンドへ踏み込んだ直後であった。

『警告』

「?」


「うふふ。食事にします? お風呂にします? そ・れ・と・も。新妻モードのヴァルキリー・カレンちゃんにしまーす!?」


 いきなり満面の笑みでとんでもねえのが出てきやがった。

 腰まであるストレートの青い髪に、透き通るような白い肌。姉さんほど超絶グラマラスではないものの、均整の取れたギリシア彫刻のような完成形の美女。しかも恐るべき事に今回はバニーじゃねえ、装甲とミニスカートを組み合わせたような青系神様甲冑フル装備と来ましたよ。

 何だよもー。

 何なんだよこいつはよおー!?

「……もうツッコミは入れないよ気になる人はヴァルキリー・カレンで検索しなよ。とにかく何でも良いけどそう簡単に新妻モードになるなよな! 割と繊細な問題でしょそこんとこ!!」

「えっ? ……いつまでも過去を引きずるダークな未亡人モードの方が燃えるタチですか……? その場合、ええと、喪服はどこだったかな。あっ、着物じゃない方の西洋喪服ですけど属性的には大丈夫ですよね???」

「そんな背徳的なシチュを楽しむほど通じゃありませんよ! てか今日は何しに来たのかハッキリ言って!!」

「いやナニって……」

「定番の誤変換は良いからはやーく!!」

 うーむ、と一人で勝手に唸っている程良くナイスバディなカレンは人様のベッドに腰掛け、長い脚を組んで、両腕まで組んじゃってまあ……胸の辺りは装甲あるのが残念だ。位置的にはせっかく下から押し上げてるのに。

「別に今日が初めてって訳でもないでしょうに。いい加減に覚悟は決まりましたかーって確認なんですけど」

「……これは何度も言ってんだけどさ、いきなりそんな話を振られたって無条件で信じられるほど純粋じゃないよ僕は。まあアンタが生きていてホッとしているのは事実だし、そうやって無防備に腰を下ろしたベッドが女の子の温もりに包まれた事によりレア度が跳ね上がって思春期男子のタカラモノに変わりつつあるのは否定できないんだけどさっ!!」

「あれえ? 毎度のバケモノ姉妹とかは遠慮してんですかこういうの」

 ……全くやらないとは言わない。そして元のレア度がゼロだなんて誰も言ってない。

「ともあれ、勝手に殺した側が言うのも虫のいい話かもしれないけど、それでも完璧には信じられないよ。あの『コロシアム』を企画立案したバニーガールからいきなり共闘なんて話を持ち出されてもさ」

「まあ何でも良いんですけど、ぶっちゃけ困っているのって私じゃなくてあなたの方なんじゃないですかね? これって脅迫だの強要だのじゃなくて一応善意の提案、女神サマが救いの手を差し伸べるのじゃ的アクションのつもりなんですけど」

「……、」

「ほら、あれ」

 極めてテキトーな調子でカレンが親指で示したのは、窓の外だった。

 厳密に言えばお隣さんのデコメガネ委員長の部屋だ。ここから見るだけで分かる、ベッドの上には微動だにしない影が一つ、横たえられているのが。


「目には見えない、得体の知れない『呪い』に知り合いが蝕まれて意識不明の大ピンチなんでしょ? だったら意地張ってないで、ここは素直に神頼みするべきだと思いますけどー?」


 ……くそ。

 一体どうしてこうなっちまったんだ!?