第三章



     1


 何かある。

 絶対この先には良からぬ何かがある。

 それくらいは頭の片隅にあった。具体的に対策を練るっていうよりは心の予防線に近かったけど、そんな状態でも一応びくびくと警戒はしていたんだ。

 

 たった一歩だった。

 階段を降りて地下へ一歩。それだけで失敗したと悟ってしまった。


 分かりやすい光や音があった訳じゃない。下半身が透けている幽霊だの血まみれの落ち武者だのが待っていた訳でもない。

 靴底がコンクリートの床に触れた瞬間だった。

「うっ!?」

 何か得体の知れない、粘り気の強い汚濁のようなものを踏んだ。そんな感触だった。慌ててスマホのバックライトを足元に向けるけど……何もない。こうしている今も、満杯になったタン壺に足首までどっぷり突っ込んだようなぞわぞわ感が足の指から伝わってきているのに。足を持ち上げた時に何も糸を引いていないのが逆に不気味なくらいだった。

 本当に……佐川アケミはこんな奥に逃げ込んで、安心を得たがっているってのか?

『邪霊』は『こんなの』を広げて仲間を優しく抱擁するつもりなのか。

 本当の本当に?

 何か……食い違いというか、嫌な予感しかしない。

「あゆ、み? 今の何だか分かる、か???」

「あたしは成果物だから、作り手の事情については何とも。ボコールどもの教科書に何が書いてあるかなんて知らないよ。ただ、単純に薬効成分でこっちの認識を歪めるだけじゃ個人差のブレを避けられないはず。並行して小麦粉か何か撒いて、肉や粘膜の代用品でも撒き散らしているのかな」

 ……おバカな妹の口からもう理解できない単語がいくつも雪崩れ込んできていたけど、話の核はそこじゃない。アユミもアユミで異変そのものには気づいているようだ。

「……、」

 この供饗市には災害シェルターと称した地下空間が各家庭にある、とされていた。実際には開かずの扉の向こうは光十字が秘密裏にアークエネミーをさらうために用意した大規模なトンネル網だったんだけど、その出入り口となる銀行の大金庫みたいな丸い大扉は無理矢理こじ開けられていた。

 ……でも、どうやって?

 ぐにゃぐにゃに曲がった中央のハンドルに、折れたデッドボルトがいくつか。災害対策って事は、ティラノサウルスが突撃したって耐え抜くはずなんだぞ……???

 うっすらと開いたその隙間からは、得体の知れない何かがこっちに噴き出してくるようだった。

 それが何なのか見極めようと目を細めるほどに輪郭は揺らいで色彩は乱舞する。

 やがては濡れた長い髪の束のようにも思えてきた。

「お兄ちゃん、気をしっかり保って。イインチョを助けるんでしょ?」

 隣に立つアユミからの言葉でようやっと陽炎のように揺れる何かがわずかに引っ込んだ。まだ視界の端でうっすらと自己主張を続けているけど、あれはきっと現実にあるモノじゃない。虚と実が混ざり合っているかもしれない。肉片か小麦かは知らないが、でも足元を這うのは微々たる何かだ。本当に強力な異物が蠢いていたら、僕はもう殺されている。

 僕はスマホの画面を横に倒して風景に重ね、

「マクスウェル、シミュラクラ現象を誘発しそうなオブジェクトを画像から検索。関連して人の顔、手、輪郭に見えるものなんかは壁の染みであれ昆虫の背中であれ、全部チェックして単色で塗り潰してしまってくれ」

『シュア。マスキング処理を実行します』

 ……幽霊の正体見たり枯れ尾花であったとしても、一〇〇・〇%確実に誤作動するような精神状態に陥っていたら立派な脅威だ。ただでさえどこに誰が潜んでいるか分からない危険なトンネル網の中で、自家生産の幻覚の相手なんかしてられるか。

「人体は五つの項に分かれている」

 アユミがポツリと呟いていた。

「多分これ、記憶や人格に関わるティ・ボンナンジュとかいうのに干渉してきているんだと思う。追撃者を撒くためか、術者の精神を底上げするつもりかは知らないけど」

「……、」

「壁や足元を這っているのは、小麦の塊にグロ・ボンナンジュ……いや、単純にナームを注いで筋肉質に振る舞わせているだけかもね。穢れを撒いているのか食べて奇麗にしているのかは分からないけどさ」

 息を吸って吐く。

 足元のベタベタも大分収まった。僕の目線を嫌うように、スリッパ大の小麦の塊が岩場に張り付くフナムシみたいな動きで逃げていく。改めてアユミと二人で巨大な三日月のような隙間を潜り抜け、奥へと進んでいく。


 こんな場所だったか、ここ?


 別に馴染みの深い場所じゃない。この暗い地下で起きていた事を考えれば、関わらない方が幸せに決まっている。

 全体の雰囲気は地下鉄のトンネルに近いのかもしれない。ドーム状の天井に、壁には等間隔で使われなくなった蛍光灯の列。どういう法則性なのかあちこちの柱には数字やアルファベットが大きくペイントされ、床には線路まであった。

 確かに怖い場所だった。

 でも、二度目のお化け屋敷っていうか、RPGの周回プレイっていうか。とにかく地の利みたいなものはこっちの方が有利だって思っていたんだ。この場所は僕達に味方してくれるって。

 それが、こんなに?

 まるで初めて来た場所。いいや、見た事もない即死難易度モードに突き落とされたようなこの感じ……。

『地面に血痕あり。奥に向かって続いています。重ねた画面の中でマーク完了』

「これまでの血を踏んだ靴跡じゃないな」

『シュア。血液成分を分析する機材はありませんが、出処が違う可能性もあります。逃走者はこの段階で靴跡に気づいて履物を脱いだもののなお垂れたか、あるいは自身も傷を負っていたのかもしれません』

 ……これは追い詰めているのか? あるいは誘い込まれているのか?

 鏡の中の自分に向かって同じ質問を何時間も何時間も繰り返すようだった。だんだん頭の中で言葉が壊れていく。

「行ってみよう、お兄ちゃん。ティ・ボンナンジュだろうがナームだろうが、秘密兵器が顔を出しているって事は向こうも通常運転じゃないはずだよ。あとちょっと」

「あ、ああ」

 ぎこちなく頷いていた。いつの間にかアユミやマクスウェルとの中での主導権も入れ替わっている。何をやるにしても調子が狂う場所だな。

 ごくりと喉を鳴らし、点々と残る床の血の跡を辿るように捨てられた地下を歩く。この量が相手にとってどれくらい深刻なのかはちょっとイメージできなかった。決して浅い傷ではないようだけど。

 バックライトを頼りに緩やかにカーブしたトンネルを進む。

 隣を歩くアユミは特に明かりを手にしていない。ゾンビの生態は分からない事も多いけど、やっぱり夜目が利くのかな。

 途中でいくつか別のトンネルとも合流したけど、迷う事はなかった。分かりやすいほど分かりやすく、コンクリートの上に血痕が続いていたからだ。

 その内に、暗がりの奥から奇妙な音が聞こえてきた。

 ひうひう、ヒュウヒュウ、と。

 どこか隙間風を彷彿とさせるような、空気の抜けていく音だ。

 ……いや待てよ。

 風の吹く音? 広大とはいってもこんな密閉された地下空間で???

「まずい、どこか他の出入り口が開いてる! 佐川アケミが逃げる!!」

「っ、待ってお兄ちゃん!」

 やはり僕より夜目が利くからか、アユミが慌てたように何か言った。

 一歩。

 たった一歩だけ遅かった。


 どちゃっ、り……と。


 足が。

 、何か……泥沼の底にある

 汚泥のようなモノを、踏ん……?

「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」

 しばらく動けなかった。

 自分が何を踏みつけているのかを確かめる事さえ。ただ、分かる。これはさっきまでの得体の知れない錯覚じゃない。小麦の塊のような用途不明の下っ端でもない。紛れもなく、誤魔化しようのないリアル。禁忌の一線を超えた。たった今、僕は比喩表現なく本当にタブーを踏んづけてしまったんだ。

 鉄錆のような匂いが鼻についた。そのものじゃない。ような。まるで直接口に出してはならない忌み言葉のように、僕の頭は答えを出す事を嫌ってわざわざ遠回りしているようだった。

 自分の意志があった訳じゃない。

 頬から顎へ大粒の嫌な汗が伝って、思わずぶるりと身震いしていた。その拍子に、つい見てしまったのだ。ゼロ距離、重なり合う座標、つまり自分の足元を。


 血……で、良いのか?

 バケツ一杯分くらいの赤黒い、それでいて完全な液体とも言い難い、球状のゼリーのような何かが……。


「うっ、ぶ? うわあ!!」

 その気持ち悪さに、思わず腰が引けた。バランスを保っていられずにそのまま後ろへ尻餅をついてしまう。

 でもまだ終わりじゃない。

 あの隙間風の音は? アユミは暗闇の奥で何を見つけて僕を引き止めようとした。これ以上一体何が待っているっていうんだ!?

 ひうひう。

 ヒュウヒュウ。

 不規則に響く音色は、意外なほど近い。極限のパニックの中で、僕の頭はかえって一部分だけ冷静さを取り戻していた。高速回転する車のホイールが、ある一線を境に逆回転しているように見えてくるのにも似た、奇妙な空転現象。

 そう、そうだ。

「……近い? でも出入り口なんかどこにも……」

 風の音にしては僕達の髪の毛一本動かない。近くに大仰な丸い扉もない。なら、この音は違う。風の音なんかじゃなかったんだ。

 そうこうしている内に、脆弱な人間の僕も目が暗闇に慣れてきた。

 闇の奥で何かが輪郭を作っている。

 あれは何だ?

 ちょうど縦横にトンネルが交差する四つ辻のような場所の真ん中に、何か細長い影が屹立している。

 誰か。

 そう、何かじゃない。誰か。

「ひっ!?」

 でも、音源はそいつじゃない。

 その足元。

 口元からこぽこぽと柔らかい塊のようなものを吐き出しながらも、必死になって細身の影の足にすがりつこうとしている女子高生の、喉奥から、あの奇妙な、おと、が……?

「お、まえ、そこで、なにを、何をしてるん、だ!」

 ようやっとスマホのバックライトを突きつけた。

 光の中に浮かぶ。


 まるで絵画から出てきたような黒い礼服にネクタイ、細いメガネを掛けた病的に青白い青年と。

 その足元で、今まさに毒殺されている真っ最中ですといった顔色の佐川アケミが。


     2


「お、」

 そいつが何を言おうとしたのか、どれだけ注意深く口元を観察してもダメだった。

「ぁ。え?」

 くるん、と。佐川アケミの眼球が真上に裏返る。あれでも今の今までは女としてのプライドが残っていたのか。ついに耐えられずといった感じで佐川の顔より巨大な塊を噴き出したかと思ったら、自分で吐き出した赤黒い汚物の上へ顔から崩れ落ちていく。

 助けを求める佐川アケミを回収して逃げ切るため、ブラックマーケットのメンバーが待ち合わせの場所にやってきた……じゃない。『邪霊』に繋がる線を消すため、仲間を装って口封じに来たのか。

 今さらながら、思い出した。

 動物ドキュメントで毒蛇の毒の強さを試す実験があった。バケツの中に豚の血を入れてそこに毒を垂らすと、かき混ぜた棒が取れなくなるくらい粘り気ができるんだ。

 でも、こいつはそんなものじゃない。こんな禁忌が自然界に存在するはずない!

「……いっ、一体何をどうやったら、こんな、ここまで……?」

「何をって、まあ、ライムの果汁を一絞りだが」

 Jを逆さにしたような杖……金属でできた小さな頭蓋骨を飴細工のように曲げたヘッド部分を掌で包み、その杖の先でコツンと地面を打ち、死神が口を開いた。

 それだけでもう僕の心臓は飛び上がっていた。こちらの声に相手が応じる。当たり前の話なのに、その当たり前が信じられない。

 こいつは、何だ?

 アユミや姉さんと同じアークエネミーなのか? 本当に!?

「知らんのかね。ブードゥーの中では基本中の基本となる『呪い』だよ。木に生ったライムの果実を切り、半分を枝に残して持ち帰る。その果実に所定の儀式を行えば、木に残した半分にはどんな方法でも検出できない最強の毒素が出来上がる。解毒法はただ一つ、祭壇に納めたもう半分の実を服毒者に与える事だけだ」

「……マクスウェル」

『具体的方法までは記述がありませんが、確かにネット百科事典にはライムの毒という項目があります。説明している内容と概ね一致します』

 こいつ自身が編集していたなんて間抜けな自作自演じゃない限り、当たりか。

『邪霊』。

 ブードゥー由来のブラックマーケットの最奥に潜む、本式のボコール……!?

『そいつ』は感情の読めない、木の洞みたいな瞳をしたまま音もなく首を傾げると、ざらりと黒い前髪を揺らし、僕ではなくゾンビのアユミに着目したようだった。

「しかし参ったな。君達はどういうつもりかね。『邪霊』に与するボコールではなさそうだが」

「いっ……!」

「どうでも良いでしょ。少なくとも味方には見えないと思うけど」

 正義の怒りってよりパンク寸前の頭が出し入れの区別もなく委員長の魂を返せと叫ぼうとした時、傍らに立つアユミが冷たく遮った。

 ……こいつらはブラックマーケットの人間だ。

 何にでも値札をつけて売り買いする連中に、ヤツの手元にあるブードゥー人形に特別な価値があると思われるのはまずいか。人質にされてしまう……。

 対して、死神はくまのひどい瞳で無機質にアユミを上から下までスキャンするようにしつつ、頭蓋骨を飴細工のように曲げたヘッド部分を持つ杖の先で、神経質に床を叩く。

「……、ほう? なかなかの保存法だ。ゾンビの本質とはロボットと同じ代替労働力の確保にあるが、使い手の頭脳労働を補う個体は珍しい。しかしそうなるとますます不思議だな。ブードゥーの業を知らぬ者がどうしてここまでの品を手にしているのか」

「……言っておくけど、あたしにオウンガンの使役法は通じないよ」

「だろうな。君の脳は顎で指図するには少々新鮮すぎる。なるほど、ティ・ボンナンジュを切り離さず、人体を四つの項で束ねているのか。主体性に任せる構成だな。本来ならもう少し土の中で寝かし、判断能力を壊しておくべきなのだが」

 僕の知らないアユミがいた。

 まずい、このままだと知識が周回遅れどころじゃ済まなくなる。九九でつまずいて不登校に陥るように、雪だるま式に借金が膨らむ多重債務者みたいに、首が回らなくなるぞ。

「とはいえ戦力は戦力だ。少年よ、好きなように使い、好きなようにかかってきたまえ。これは君のモノなのだろう?」

 その言い回しに、頭の奥で何かが着火した。ようやっと物事の焦点が合う。

『邪霊』。

 ブードゥーのオウンガンだかボコールだか、細かい区分は知らないけど。

 人間を含めた全て、いいやあらゆる神話や宗教を自分達のモノとして扱い、取り込み、使い倒す。目的に応じて笑ったり泣いたりする人間を歩く屍に作り変えていく。

 どうしてブラックマーケットなんてものに化けていったのかが見えてきた。そして迎合するつもりもさらさらない。

「お前……っ!!」

『警告』

 思わず前へ踏み出そうとした直前で水が入った。

 コン、と礼服の男が金属のドクロを飴細工のように曲げてJの字に整えたヘッド部分を撫で、その杖全体で床を叩く。

 そして言葉が溢れた。


「ただし恨みっこはナシだ。そちらが咎人を使う以上、こちらが同じ咎人を起き上がらせても文句はあるまい」


 何かが蠢いた。

 くまの深い瞳をメガネで隠すようにした陰気な礼服男の、その足元。赤黒いゼリーみたいな塊に顔を突っ込んだまま動かない女子高生、佐川アケミだった。滑らかに起き上がるよりは、首や手足が各々勝手に暴れ回る蛇みたいに不自然にうねっているといった方がイメージは近い。

 アユミが目を剥いて叫ぶ。

「ゾンビパウダー劇症型!? こんな大都市のすぐ真下で!!」

「ライムの話はアレの活性化を促すイグニッションの一つに過ぎない。そもそもあらゆる毒と薬は表裏一体だ、殺しの毒を殺しのためにしか使えないようでは生体の全てを掌握する祭司としては半人前だよ」

 礼服の死神に、気にする素振りもなかった。

「そして人体からティ・ボンナンジュを取り外し、三つの項を束ね直すには伝統よりもコントロール下に置いた突然変異に限る。今さら驚く事かね? 邪な精霊に贄を捧げたボコールは、世界で一番大切な人以外の全てを手中に収めるのだぞ」

 タガの外れた黒髪の祭司は対照的だった。壊れたままピクリともブレない。世界で一番大切な人を捧げられる。捧げてしまう。自分より大切なものを見つけられなかった人間は、こんなになってしまうのか。

「火急につき、土に埋めて脳を熟成させる時間はない。ティ・ボンナンジュの分離が追いつかないので少々動きがぎこちないだろうが、あらかじめ無作法を詫びておくよ」


     3


 映画やゲームの中に出てくる、西洋人が作っていったイメージとは違う。本式のボコールが取り扱うブードゥーの秘儀祭祀Zombie。

 消火器、防災斧、レール切り換え用の金属レバーでも何でも良い。とにかく足がすくまないよう僕の目線は自然と手頃な武器になるものを追い求めていた。妹のアユミと操り人形と化した佐川アケミとが建設重機みたいな怪力で取っ組み合いになった時に、何かできると思えるだけでも随分違う。

 そんな風に思っていた。

 なのに。


 ぶうっ!! と。

 いきなり佐川アケミの制服が内側から目一杯押し広げられ、その全身がまん丸の風船のように膨らんでいったんだ。


「な、あ……?」

 ゾンビという字面、アユミという具体例。なまじ身近にいるアークエネミーだからこそ、その異様な姿はあまりにイメージが乖離していて、頭の処理が追いつかなくなる。

「お兄ちゃん隠れて!!」

 真横から凄まじい衝撃があり、小さなバイクで吹っ飛ばされるような勢いでアユミに突き飛ばされた。二人まとめてコンクリートの柱の裏に回った途端、

「っ!?」

「ッ!!」

 ……それはもう、なんて言ったら良いんだろう。

 発信源は口じゃない、むしろ最後の最後まで堪えるような理性があった。必死に口を引き結んだ結果、行き場を失って裂けたのは喉からへそ上にかけての縦一直線。柱の裏に突き飛ばされたので、見えたのはそこまでだった。随分と水っぽい炸裂音があった。おそらくはすっかり変質した血と肉と脂と骨。まるでドロドロに溶かした人体をポンプに詰めて消防車のホースから噴き出すような、そんな禍々しい音がひたすら耳に残る。身を寄せる柱の外、左右両側から中華料理みたいな蒸発音が炸裂する。助かったって気分にもなれない。今も耳に残る破裂音や、残滓として密閉空間に漂う白いモヤさえ禍々しい。

 盾にした柱のせいで、ちょうど正面が見えない。だが血肉を放つ皮袋の砲台の隣に立っていたはずの青年は、抑揚のない声で確かにこう言ったんだ。

「ゾンビの基本にして真髄は罪人を労働力に変換し、祭司の治めるコミュニティを不足を補うところにある。何も需要は怪力自慢の肉体労働だけとは限らんよ」

 あいつは巻き込まれていない?

 シミュレータの中のゾンビ達は近づく者ならアユミにだって噛みつこうとしていたのに。標的から除外されるか、ある程度コントロールする方法でも完成させているっていうのか。

 ほとんど抱き合うような格好で、アユミは囁くように補足してきた。

「……ゾンビPCと同じだね。自分でやるにはリスクの高い儀礼を、哀れな犠牲者を通す事でフィルターを設けている。副作用が自分まで届かないように」

「恐神はいずれもじゃじゃ馬だからな。それだけ願掛けの即効性も高いんだが、しくじった時の呪いがとにかく酷いのだよ。保険をかけておいて損はない」

 切羽詰まった僕より早く、ボコールの涼しげな声があった。

 ……向こうはこっちのやり取りが聞こえているのか。あるいはそれっぽい事を言って僕達が勝手に当てはめていくのを待っているのか。

 考えるほど自縄自縛だ。

 僕は腕の中のアユミに向けて、

「それより委員長の小麦人形はどうなったんだ? 佐川が持っていたのか、ボコールとかいうのに取り上げられたのか……」

「マジでイインチョバカ」

「何を今さら? 何ならブログのプロフィールに足してやろうか」

 ヤツはブラックマーケットの人間だ。どんなものであれ、『商材』は無駄にはしないだろうけど。

 僕はポケットティッシュを一枚袋から引き抜くと小さく丸めて、柱の陰、その外へと投げ放つ。

 ……白いモヤだのデロデロだのが怖かったけど、いきなり変色したり溶けたり燃えたりって事はなさそうだ。あの音源の正体を直接頭から被らなければ大丈夫、か。

 代わりに、僕達の動きに刺激されたのか、べだっ、べだっ、という粘ついた音が柱の裏から聞こえてきた。

「使い捨てのナマモノ砲台って訳じゃなさそうだ……!」

「どれだけ儀式に失敗してもリスクはフィルター役に押し付けられるからボコールは困らないんだ。つまり何度でも発射と装填を交互にやらかすエコ兵器って事でしょ。のしのし歩いてはわざと儀式に失敗、でもって臓物で障害物を薙ぎ倒しての繰り返し。めんどくさい事この上ないよ」

 当然、柱のこっち側に回り込まれたらおしまいだ。アレをもろに浴びたらどうなるかは分からないけど、もはやあんまり想像もしたくない。

「……お兄ちゃん、あたしの合図で出るよ」

「アユミっ」

「回り込まれたらおしまい。すぐそこに別のトンネルあるでしょ、ジリ貧になる前にこっちから動くの。ほらっ!」

 呼吸が詰まった。

 常人の一〇倍の筋力。押し出されるとか引っ張られるとかじゃなくて、ほとんど投げ飛ばされるような格好で柱の陰から飛び出す。

 それでもぶくぶくに太った塊と目が合った瞬間だけは、時間が止まった。

 ヤツの正中線が不規則に蠢く。

 グジュブァッッッ!! と、耳に残すだけで苦痛な発射音と共に、再びトンネルが粘ついた人間の材料で埋め尽くされる。

 間一髪だった。

 十字路一歩手前、小文字のyに似た別の分岐に転がって、撒き散らされる水っぽい爆風をすんでのところでかわしていく。

 こっ、これじゃまともにやり合っても届かない。禍々しい砲台の佐川アケミはもちろん、さらに奥に控えるボコールになんか近づけるものか!

 攻撃の切れ目を狙ってやってきたアユミがさらに言う。

「時間がない。お兄ちゃんはマクスウェルに頼って回り道を探して。地下浸水時の誘導放水路とか予備電源室とかドアも通路も色々あるでしょ。アレは動きだけなら単調みたいだし、ゾンビはゾンビ同士、あたしが真正面から引きつけて時間を稼ぐから、その間に迂回してボコールの後頭部をぶっ叩くの」

「無茶だアユミ、お前は体が頑丈ってだけで、姉さんみたいに再生する訳じゃない! あんな風にデロデロを詰め直せば済むって話じゃないだろ!」

「それでも生身のお兄ちゃんが引きつけるよりかはマシ。……どうせイインチョ助けるまで逃げるつもりはないんでしょ?」

「……、」

「そゆこと。今さらできもしない事なんか頼まないよ。お兄ちゃんは、絶対に、逃げない。だったらその前提の上に最善の方法を積み上げましょ」

 アユミ、と叫んで呼び止める暇もなかった。見慣れたツインバターロールの妹がまだ強酸じみた煙の漂うトンネルへ出戻りしてしまう。

 ジュヴゥアッッッ!! と、えらく水っぽい発射音が応じる。

「くそっ!」

 動き始めてしまった以上は立ち止まれない。アユミの怪我を抑えたいなら一刻も早くケリをつけるしかないんだ。

「マクスウェル、ルート検索!」

『ノー。簡単に言ってくれますが旧光十字の秘匿施設跡に関する図面なんてどこにあるって言うんですかすっとこどっこい』

 あっ、アユミのヤツう、初っ端から破綻してるじゃないか……!!

 とはいえ今さら退くに退けないのは説明した通り。何度も反響して惑わされやすい音源を迂回する格好で、ほとんど手探りで分かれ道だらけのトンネルを進んでいく。

 そう、こうしている今も『発射と装填』は続いているんだ。

「冗談じゃないぞ……」

 ボコールだかゾンビだか知らないけど、元は僕と同じ人間なんだろ。それが『教え』一つでこうまで変わるのか? だとしたら人間本来のポテンシャルに逆に驚きだよ!!

『音源から反響部分をノイズキャンセルし、方向を画面に表示します。完全確実とまでは保証いたしかねますが、目安の一つとして参考にしてください』

「こっち、か?」

 音を頼りにしている割に、いきなりコンクリの壁についている錆びた鉄扉に案内された。物体を突き抜ける音も参考にしているのか。ゆっくり開けてバックライトを向けると、いくつか錆びた縦長のロッカーが並んだり倒れたり。保守点検のための作業員達の部屋だったのかもしれない。

 基本的に光十字に関する機材や設備は残っていないけど、ここにはいくつか工具が転がっていた。大きめのスパナを拝借しておく。

 ドアは他にもいくつかあったが、マクスウェルに案内されたのは床の四角い格子パネルだった。アユミの言っていた放水路か? 例のデロデロが流れ込んでなければ良いけど。

 でも。

 地下の地下(?)に潜り込みながらふと考える。

 仮に佐川アケミを回避してボコールの後ろまで体良く回り込めたとして、そこからどうしよう。鈍器でどつけば相手は黙るのか? 気づかれる事もなく、一撃で? 力加減なんて考えている場合じゃない。殺すつもりでやらないといけない……って話になるのか???

 あ、あ、アユミの馬鹿野郎、細かい事考えないで勝手に始めやがって。手を引かれるままに進んでいったらすっかり泥舟状態になっちゃいないか、これ。

 そんな事を考えながら、僕は腰を曲げて太さ一メートルくらいの鋼管の中を進む。

 水っぽい発射音が大きくなる。近い。もうすぐ、また非現実を極めた戦場に逆戻り。おそらく迂回には成功したはず。きっと上に出れば、ガスか何かでぶくぶく膨らんだ傀儡の佐川アケミをやり過ごし、無防備な背中を見せるボコールとかいうのが待っているはず。

 音を聞いているだけで気が滅入る。一刻も早く終わらせたい。片手でずしりと重たいスパナを握り直し、もう片方でスマホを手にしてそっちへ近づいていく。

 マクスウェルのガイドに従い、マンホールの蓋を持ち上げるように頭上の四角い格子パネルを取り外す。

 随分音も大きくなってきた。すぐ近くだ。湾曲したトンネルの先、死角となったその奥。

「……マクスウェル、これ以上は気づかれる。バックライトを消すぞ」

『ほぼ真っ暗闇です、手探りになりますよ』

「今時のスマホのカメラなら肉眼より高感度だろ。画面に映す必要はないから、お前に任せる。殴れる距離まで近づいたらバックライト点灯。それを合図に飛びかかるから、リーチを考えてくれよ」

『先にボコールに気づかれた場合は?』

「その時はありったけストロボを連射だ」

 もう少し。

 ……あと一歩。

 きっともうすぐ……。

 そしてジャッジが下った。

 バシィ!! という落雷のような凄まじいストロボと共に、湾曲したトンネルの死角にあったものが網膜にこびりつく。

 …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。

 呼吸が、止まる。

 バックライトが点灯して視界がクリアに確保される。マクスウェルからの警告メッセージが連投される。だけど気を配る余裕もない。

 間違っていた。僕は何にも分かっていなかった。

 今までは、あくまでも耳にしていたのは音だけだ、発信源『そのもの』じゃない。同じ現場にいるからって、理解した気になるんじゃなかった。もっと衝撃に身構えるべきだったんだ。しっかりと覚悟を決めてから挑みかからなくちゃあならなかったんだ。

 赤と黒。

 一面の極彩色。

 何度も何度も壁にペンキを叩きつけるように壁や床に広がっていくロールシャッハテスト。その中に混じる白やピンクの柔らかい塊は、元々体のどこに収まっていたのか。

 ーーーそんなレベルじゃなかったんだ。

 あるいは円の中の歪な三角。

 あるいは星占いのような記号。

 あるいは潰れたアルファベットの羅列。

 ただの偶然でこんなになるもんか。心理テストみたいにこっちが勝手にありもしない意味や記号を思い浮かべている訳でもない。……最初から、こういうデザインだったんだ。ブードゥーの人でなしは最初の最初から『これ』を一面に広げるために、わざわざ何度も何度も何度も佐川アケミの中身をぶちまけていたんだっ!?

 そう、佐川アケミの発射と装填は、儀式の失敗による副作用を利用したものだったはず。彼女は哀れな防波堤だった。なら副作用以前の問題としてコントローラを握るボコールはボコールで、恐神がどうとかに願掛けして何か目的ある行動……つまり『儀式』をやっていないとおかしい。

 魔法陣。

 視界の中に飛び込んできた途端、頭の後ろにスタンガンでも浴びせられたようだった。

「がッ!?」

「おっと」

 閃光や無用な叫びのせいで礼服の男がこっちに振り返ったけど、どうにもならない。首筋から背骨全部が支えを失って、ぐにゃぐにゃと真下へ沈み込んでしまう。

 目の前がチカチカする。

 視界に飛び込んできただけで、これか。赤と青の点滅光なんて次元じゃない……!

「なるほど、そういう仕掛けか。化生の怪力よりも人間の知恵の方が恐ろしい、と」

 スパナは……? 僕のスマホはどこに行った? 倒れたまま手足に力を入れて起き上がるどころじゃない。気をしっかり保たないと、すぐにでも意識が落ちる……。

「対アークエネミーを想定しての視覚刷り込みだったからな。グロ・ボンナンジュへ直接干渉する、大変大人気のないオーバーキルの非礼は詫びるが、これは実戦だ。お互い恨みっこはナシで頼む」

「……くそ」

 両手は動かない。両足も以下略。金属の分厚いレールが頬に食い込んで痛いっていうのに横倒しになったまま起き上がれないし、今のままじゃ口だってまともに開きそうにない。

 でも、それじゃダメなんだ。

 委員長の魂を詰めた小麦人形は必ず取り戻す。どうなったか分からないアユミにもこれ以上手傷は負わせない。何より『邪霊』なんていうくそったれのブラックマーケットなんぞこのまま野放しにしておけるもんか。

「マクスウェル、どこだ、返事をしろ、命令を出す……運行システム、回復するん、だ」

「? それが君の神かね。ますます不思議でならない、では盾役の傀儡はどういう関係なのか。ティ・ボンナンジュを取り出してコントローラにしているとも思えんし」

 何度も何度も水っぽい発射音が炸裂する中、横倒しになった視界が不規則に明滅して、狭まる。ダメだ、今はまだ落ちちゃならない。そう分かっても、不規則に痙攣する指先には染み付いたスマホの感触はない。マクスウェルがいなくちゃ僕はただの高校生だ、ガチのオカルトなんか立ち向かえないっていうのに……。

「最後に確認しておきたい。少年、君の立ち位置はどこにある?」

「……?」

「上で暴れている女はヴァルキリー、つまり優神の側に属する刺客だろう。だが君は? かの存在を我々にかち合わせるのに必要な案内人か、より大きな悲鳴を上げる事で彼らを呼び寄せる警報装置か、はたまた超常を眺めて語る神秘の目撃者か。正直、この舞台に君が必要だったとは思えなくてな」

「……なにを、いっている?」

 生身の人間でありながらアークエネミー以上に超常を振りかざす、ブードゥーのボコール。ヤツの見ている世界が何色に輝いているのかなんて想像もつかないけど、それでも頭の中は疑問でいっぱいだった。

 そう、

「立ち位置、舞台? つまり、何だ? アンタ達は最初から青いヴァルキリーが攻め込んでくるのを知っていたのか!?」

「いいや? 戦乙女の介入は寝耳に水だったよ。ただし我々『邪霊』とはすなわち世界で一番大切なモノを捧げる代わりに、二番手以下の全てを自由に売買するブラックマーケットだぞ。落とし前はつけてもらう。女神の一柱二柱程度、売り方なんていくらでもある」

 ……冗談じゃないっ、あのレベルの怪物さえ商品にしか見えていないっていうのか?

「神の物理的実存を疑う声も少なくなかったが、まあ、あれだけ大々的に『コロシアム』の全国放送で顔を出してしまってはな。良い機会だ。そこにあるなら手に取ってみたい、という声もあったのだし」

 長年の夢でも、死を賭した願いでもない。

 別にカレンの肩を持つつもりなんか全くないけど、こいつら、それにしたって……!

「今にして思えば……てっきりサインというか、メッセンジャーというか、とにかく女神来訪の前兆はエキドナにあったと思っていたんだが」

「エキ……?」

 アブソリュートノア内部に潜り込み、方舟の全てを破壊したアークエネミー。行方不明になっている彼女の名前がどうしてここで……?

「だからここにきて、余計に見えない。君の配役は何だ? 我々『邪霊』がヴァルキリーを手に入れるにあたって、一体どんな機能を搭載している?」

 神への挑戦。

 決して敵う事のない存在に地上から一矢を報いるために結集した集団、組織。

「……おまえ。エキドナと、同じ……?」

「どうだって良いんだが、さて困ったな」

 メガネの奥には木の洞でも覗き込むような、黒々とした瞳があった。礼服の男は確かにこう言ったんだ。

「例の傀儡と抱き合わせとはいえ……トラブルメーカーでも生贄の天才でも構わん、とにかく役割が分からないと、正しい値札をつける事もままならんではないか」

 っ。

 その一言で頭が沸騰を思い出す。そう、こいつらはコンビニで弁当を温めるくらいの感覚で人の一生を棒に振るブラックマーケット。しかもまな板に載っているのは僕の命だけじゃない。妹のアユミに、そして……!!

「……ん、ちょ、は」

「?」

「委員長のブードゥー人形は、どこにある?」

 ヤツはむしろキョトンとした顔だった。本気で心当たりがない。もはや『邪霊』にとって、人一人の命なんていちいち気を揉んで罪悪感に縛られるほどでもないのか。

「どこの誰だかは知らんが、我々『邪霊』が取り扱う商品を損ねるとでも?」

「ああそうかい……」

 それを聞いて安心した。

 最低最悪のクソ野郎だけど、ビジネスに対する執着だけは信用できそうだし。

 そして忘れたのか。

 確かに僕はマクスウェルのサポートがなければ何もできない、一山いくらの高校生だ。だけど手元にスマホがなくたって、僕の声さえ届けば問題ない。画面を見れないから反応は伺えないけど、指示だけなら送れるんだ。

 極め付けに、僕が寝そべっている場所にある硬い感触。頬にぶつかるのはコンクリートの床じゃない。


「マクスウェル、電源は復旧したな。コマンド通りに列車を突っ込ませろ!!」


 ガタンゴトン、という響きが耳に届いた時にはもう遅い。暗闇の奥から押し出された空気の壁に叩かれてからじゃ間に合わない。

「っ」

 みっともなくても良い。僕はろくに手足も動かない中で躍起になって胴体をひねり、死にかけのイモムシみたいに這いずり、転がって、何とかして金属レールの上から離れる。

 おそらくは元々光十字の兵隊を街の各所に送り込んできた死の列車は、分かりやすいライトなんか点灯していなかった。

 ノーブレーキだよ馬鹿野郎。

「あ」

 ブードゥーの陰気なボコールが口の中で何を呟こうとしていたのかは分からなかった。

 とにかく直後に鋼の鉄槌が空間を埋め尽くしていった。


 ゴッッッ!!!!!! と。


 凄まじい音の壁が全身を叩く。正直に言って、衝突の瞬間なんて見えなかった。映画のコマが抜け落ちたように男の体が消える。そのままトンネルを突き抜けた列車がすんでのところでアユミを巻き込みそうになり、みちみちと限界まで膨らんでいた佐川アケミへ噛み付いて暗闇の奥へと吹っ飛ばす。

 すっかり黒の向こうへ消えてから、ようやっと急ブレーキみたいな軋む音が響く。

「……アユ、だいじょうぶか……?」

「ふぐ、今のお兄ちゃん?」

 ほとんど這いずるように、声のする方へ体を向ける。

 正当だとか過剰だとか、躊躇っている暇なんかなかった。明日からどういう扱いを受けるか知らないけど、今はとにかく生き残った事に感謝したい。

 ……そうだ。

 結局スマホはどこへ転がったんだろう。やっぱり列車の車輪に巻き込まれてしまったんだろうか。

「お兄ちゃん、なんかピカピカ光ってるよ……」

 まだ無事だったか。

 頭の奥の痺れみたいなのも少しずつ取れてきた。深呼吸し、ゆっくりと身を起こして、アユミに言われた通り四角い光を手で掴む。

「マクスウェル、委員長の魂の詰まったブードゥー人形を見つけたい。ボコールも佐川アケミももうぐちゃぐちゃだろうけど……」

『警告』

 流れを無視して、画面にはその一語。

『システムはブレーキを掛けていません。列車が停まったのは別の要因によるものです』

 直後。


 ぎしっ。

 ……ミシ、みし……と。


 耳の奥に、何か、得体の知れない粘液を注ぎ込まれたようだった。背筋が凍る。異音があっても、そちらへ振り返るという当たり前の反応を取れない。

 全身が錆びついたようだった。

 一つ一つの関節に折れかねないくらいの力を込めて、アユミと二人でゆっくりと、本当にゆっくりと首を回していく。

 嘘だろう?

 だって嘘だろう、こんなの!?

「……、」

 闇の向こうで、ゴゴン!! という大震動があった。何か巨大なシルエットが、倒れた。まるでマンホールの蓋を真下から跳ね上げるような動きだった。

 列車、なあ列車だぞ。あれ全部で、何十、いや何百トンあるんだ? そりゃ殺してしまったよりも生きていた方がホッとするはずだけど、ちっとも安心感なんかない。

 ボコール本人か、変わり果てた佐川アケミか。

 どっちにしたってブードゥー本式ってのは、こんなここまで壮絶なのか!?

「アユミ、お前はとにかく逃げろ……」

「お兄ちゃん!?」

「マクスウェル、足元の第三軌条に通電。直接触れなくても、リミッター切って飛び火で感電させろ。送電用レールが熱で破断しても構わない、ヤツをローストするんだ!!」

 こんなのが何の役に立つかは分からない。そもそも『物理的な手段』全般ってだけでもうダメなんじゃないか。そんな益体もない考えさえ脳裏をよぎる。

 だけどヤツは放っておけない。

 アユミへ飛びかかる事も、委員長の人形を掴んだまま地上へ逃がす事も認めない。

 吸血鬼でもゾンビでも、僕は相手が何だって受け入れる。それでも、そうした心を持つ人達を商品化して売り捌くような連中までは見逃せない。あれを、あんな力を振りかざすヤツを外へ出したら、誰にとっても悲劇にしかならない!

「こいよ『邪霊』! お前をそうしたヤツはここにいるぞ!!」

 何か巨大な圧が、暗闇の奥から明確に鎌首をもたげた。

 ……あれを正面から見たら、それだけで魂が砕けるかもしれない……。

 そんな風に思い、心臓が暴れ回る。

 その時だった。


 ぅ、ん。


 という、小さな音があった。

 真夏の夜に耳元で鳴る煩わしい音みたいな、いやでも、これは?


 ぶん。

 ぅぅぅん。

 ぶぅうぅぅうん。


「ハエ……?」

 顔のすぐ横を流れていく大きな銀色の蝿を見て、思わず呟く。

 一匹二匹じゃない。

 五〇、一〇〇、二〇〇、いやもっと!? それこそ銀の砂嵐みたいな勢いで、一面を埋め尽くす羽虫の群れが後ろから前へ、そう闇の奥で蠢くブードゥーの怪物へ突き進む!?

「だめお兄ちゃん、そいつらに触らないで!」

 何かに気づいたアユミが金切り声を上げた。

「ただのハエじゃない、クドラクか、ストリゴイイか。とにかく死病の運び屋だよ。お姉ちゃんとおんなじ吸血鬼!」

「っ?」

 驚きよりも、混乱や戸惑いの方が大きかった。おんなじって言われたってちっともエリカ姉さんと重なる部分なんかなかったからだ。

 膨大な銀色の蝿達は、特に噛み付いたり引っ掻いたりしている訳じゃない。ただただ銀の大河で飲み込んでいくように闇の奥の怪物へ群がっていくだけだ。

 だけど効果はてきめんだった。

 ぐじゅっという、腐りきった果物が枝から落ちて地面にぶつかるような音があった。

 それだけだった。

 たったそれだけで、列車の直撃にも耐えたブードゥーの怪物が、形を失っていく。溶けて、落ち、断末魔の抵抗も許されず振り回した手足の先からすっぽ抜けていく。

 ……そうか。

「わざと不衛生にする事で、ゾンビの腐敗を加速させている……?」

 アユミはアークエネミー・ゾンビだけど、肌は水を弾くようだし体からは女の子の匂いがする。でもそれは放っておいても大丈夫なものじゃない。気温や湿度に気を配ったり、防腐剤を定期的に注入したり、全身の縫い痕を見れば分かる通り実はかなり手間をかけていたはずだ。

 銀色の蝿の大河は、その真逆。

 息をするのも苦しいくらいの蒸気で満たされたサウナへ死体を放り込むようなもの。大量の腐敗菌を持ち寄り、ミツバチが密集して体温でスズメバチを殺すような温室を作り、粘つく檻に閉じ込めて確実にトドメを刺す。

「……、」

 見る影もなかった。

 それはもう液体だ。追い炊きした風呂の中で孤独死した老人がシチューのような状態で発見された、そんな都市伝説を彷彿とさせるような。

 液状化したブードゥーのボコールを改めて羽虫の群れがすすっていた。この辺りが吸血鬼、という事なのか?

 新鮮な生き血じゃない。自らの好みに合わせて、適度に腐らせてから美味しくいただく。まるで食通が発酵したワインやチーズにでも手を伸ばすように。

 やがて。

 本当にやがて、だ。

 こんな蛮行を前にして当たり前に引き止める事も金切り声を上げる事もできなかった僕の前で、細身の影が湧き立つ。いいや、それは大量に集まった銀色の蝿だ。そして汚れた薄羽の塊が一面に散らばると、奥には黒い軍服を纏う銀のショートヘアに宝石のような瞳を持つ小柄な少女が立っていた。ぶかぶかの黒い軍服の上着をワンピースみたいに着こなし、細い脚を厚手の合成繊維で包んだ、不思議な統一感を持つ誰か。

 その時になって、ようやく気づいた。

 少女の足元に影が伸びている。違う、それは五体満足の佐川アケミとブードゥーのボコールだ。

「ある種のウジに腐敗した患部を分解させて消毒するのと同じです。わたくしは腐敗と悪食の導火線、その気になれば汚染箇所だけを選んで貪る事もやぶさかではございません」

 ……そういえば、だ。伝説に出てくる吸血鬼は色々悪さをするけど、その中に流行り病をばら撒くってのがあったっけ?

「本来、やるかやられるかの死闘で手心を加えるのは好みではありませんが、今ここでいたずらに弟君の心証を悪くする事もないでしょう」

 歌うように告げながら、平べったい帽子を被る軍服の少女は何かを気軽に放り投げてきた。おっかなびっくり受け取ると、それは小麦でできた人形だ。焼く前のパン生地みたいな物体には、しっかりオデコとメガネが再現されている。

「弟君。そちらはクイーン級にお預け願います。彼女であれば、取り扱いを誤る事もないはずです」

「おと……?」

「失礼、名乗りがまだでございましたね。わたくしはフライ=ヴィリアス」

 片手で帽子を取ってゆっくりと腰を折ると、逆に不思議なくらい滑らかな発音でこう言った。

「お初にお目にかかります、弟君、そして妹君よ。本来であれば作法に則りご挨拶に参らねばならぬところではございますが、火急の用につき略式となった事、どうかご容赦くださいませ」

「えっ、あ?」

「詳しい話は、またのちほど」

 優雅に頭を垂れたまま。

 しかしどこか挑発的にも見える瞳でこちらを見上げ、そいつは確かに言ったんだ。

「クイーン級にはこうお伝えくださいませ。……我ら東欧一三氏族は久方ぶりに鉄錆臭い茶飲み話に飢えている、と」