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「嫁のもらい手がないですって? あーもう、なんでそんなこと言われなきゃいけないのよ、課長ってば無神経すぎっ!」
誰もいない休憩室。自販機でビタミン入りの炭酸ジュースを買った千紗は、思わず愚痴をこぼしてしまう。
外の景色でも眺めて気分転換しよう。そう思って窓辺に向かったものの、見えるのは無機的な高層ビルばかり。千紗の心を映し出したかのような、冴えない灰色で埋まっている。
「やだなぁ、逆に気が滅入ってきちゃった……」
ため息をつきつつもプルタブを起こし、缶ジュースに口をつける。疲れているのだろう。かなり甘いはずの味を薄く感じてしまう。パンチの効いた炭酸をゴクゴクと一気に飲み干してしまった。
「早く仕事に戻らなくちゃ……」
本当なら休憩している暇もないくらいに忙しいのだ。だけど――もう少し、あと少しだけ、誰の目もないところで一息つきたい。
だってあのオフィスは息苦しすぎる。あのままあそこにいたら、酸欠で倒れて病院に運ばれてたかも。その時間ロスを考慮すれば、あと数分の休憩くらいは許されるはずだ。そう結論づけて、窓ガラスに反射する己の姿を見つめる。
うわぁ、最悪……。髪型も服装もバッチリ決まってるのに、顔だけがどよーんと沈んで青白い。現世に未練タラタラな幽霊が、必死にオシャレして人間界に紛れ込んでるみたいだ。
やっぱりここに避難して正解だった。こんな情けない姿、後輩たちにはとても見せられない。
「ちゃんと笑えてたかなぁ……」
ガラスに映る自分に向かって笑顔を作ってみる。ダメだ、頬が引きつっちゃう。余裕の笑顔で『頼れる先輩・三春千紗』を演出しなきゃなのに……。
こんな強張った顔じゃみんなを不安にさせてしまう、と焦りを覚える。
ベテランの先輩勢が続々と退職してしまった輸出業務課では、まだ二六の千紗が一番の古株なのだ。頼れるはずの課長は、パソコンのドラッグ操作一つに大騒ぎしてしまう始末で、残念ながら少しも当てにはできない。
問題児な桃原はもちろん、他の後輩たちもまだ独り立ちできる状況にない今、多少無理をしてでも千紗が頑張らなければ、輸出業務課は回らなくなってしまう。
「まっ、まだ二六とはいっても誕生日近いし、すぐにもう一歳、自動加算されちゃうんだけど……」
本格的なアラサー世代に突入してしまうと思うと、ただでさえ重たい気分がさらに重くなってくる。わ、やばい、重すぎて床が抜けちゃいそう……! 地球の重力ってこんなに強かったっけ……?
そんなバカなことを考えながらも、「そうよ、しっかりしなくちゃ!」と己を奮い立たせる。
もうすぐ二七歳――もう女子とはいえない年齢だけど、凛としたレディではいたい。内面はまだまだ子どもだけど、せめて外側くらいは大人らしく振る舞わなくっちゃ!
「大変なことばかりで息が詰まりそうだけど、そんなの誰も気付いてないし、気付かせたりなんてしない。頼りにしてくれてる後輩ちゃんたちのためにも、レディらしく優雅に構えていかなきゃ!」
小さなガッツポーズとともに意気込んでみるも、
「あーでも、一人くらいは理解してくれてもいいのになぁ……。いつもよく頑張ってるねって、優しく甘やかしてほしい。たとえば、白馬に乗った王子様が現れて……」
なんて子どもっぽい本音がこぼれてしまう。
どこにいるのかなぁ、私の王子様……。言い知れぬ孤独を感じてしまった千紗は、
――親愛なる王子様! 私はここです、ここにいますっ……!
まだ見ぬ理想の王子に心の中で呼び掛けてみる……って何やってんのよ私っ!
もうね、わかってるの。『まだ見ぬ王子』は一生見えないんだってこと。『いつか王子様が……』なーんて夢物語を信じていい年じゃないんだから。
あ、でも、万一ってこともあるし、希望は捨てちゃいけないよね? 王子様、すんごい足元のおぼつかない老馬に乗って、ゆるゆるよろよろこっちに向かってる最中かもしれないし、ちゃんと待っててあげなきゃ可哀相……って、我ながらイタすぎだよね。幽霊顔のアラサー女が仕事サボって、存在もしない王子をしぶとく夢みてるなんて……。
「こんなの恵里子に知られたらまたバカにされちゃう……ってか今日も愚痴聞いてもらおっ!」
思い立ってポケットからスマホを取り出した千紗は、メッセージアプリを立ち上げ、〈今夜つきあって!〉と恵里子に送信する。メッセージを送った瞬間、すぐに既読になって〈よかろう〉とドヤ顔する殿様のスタンプが送られてきた。
「早っ! ちゃんと仕事してんのかなぁ、もぅ……」
呆れつつも、〈じゃ、いつものダイニングバーで〉と返信する。
恵里子というのは、大学時代からの親友で、千紗と同じ会社の国内向け営業部で事務をしている。
千紗と違って自由奔放かつ要領のいい彼女は、サバサバしているくせに甘え上手だ。いつだったかは、業務の視察に来た上層部の役員相手に、
『せっかく視察にいらっしゃったんですから、下々の者たちがやってる仕事体験していかないと損ですよ?』
と、手が足りずに困っていた電話取りやコピーを頼んでしまったくらいだ。
苦笑しつつも提案に応じた役員たちに、『さっすがー! やっぱり役員さんだけあって、器が大きいわー』というヨイショも忘れず、今では飲み仲間になっているらしい。
『立っている者は親でも使えって言うし、役員に頼んだってバチは当たらないでしょ。あんたもやってみれば?』
そう笑いながら報告してくれたが、千紗にはそんな芸当できっこないし、するつもりもない。
甘え上手な恵里子が羨ましいと思うことはある――が、自分は自分だ。課長の言うように、隙がなさすぎて可愛げがないのかもしれないけど、それでも己のやり方で前に進むしかないのだ。
足元に視線を落とし、レディになるための武装――ツヤツヤと輝くハイヒールパンプスを確認した千紗は、「よしっ!」と気合いを充填、空き缶をゴミ箱にシュートし、戦場へ戻るべく歩を進める。
三春千紗、いざ出陣――!
すっと背筋を伸ばして胸を張り、勢いよく休憩室を出たところで、
「きゃひゃぁぁっ……!」
おかしな悲鳴を上げてしまった。こんな変な声出すなんてレディ失格?
でもね、我ながらよく耐えた方だって思う。
だって、だってね、休憩室を出てすぐのところに立っていたのはなんと元組員……と噂される経理所属の超コワモテ男、北風さんだったんだから――!
なにかと黒い噂の絶えない彼が、刃物のように鋭い瞳をギラつかせて千紗を威嚇してくる。
うわぁぁん、怖いよ~~っ! いつも仕事で関わるときは、最低限の会話で済むよう事前に準備してるからどうにかなってたけど、こんな不意打ちじゃどう対処していいかわからないよ~~~~っ!
凶悪顔の北風を前に、優雅なレディの演技は早くも崩壊。何も言えぬまま、小刻みに震えながら立ちすくんでいると――
やだっ、どうしよう! 北風さん、すっごく怒ってるみたい! 「ゴゴゴゴゴ……」なんて、火山が噴火する前の地鳴りみたいな声上げ始めちゃった……!
抑えきれぬ怒りにブルブルとわなないている北風。まさに一触即発といった感じだ。
そういえば、動揺しすぎて挨拶すらまだできていなかった。北風さん、組上がりだし、ああいうところって確か、上下関係とか礼儀作法には結構うるさいんだっけ……? うわぁ、それなのに私ってば、変な悲鳴上げたまま震えてるなんて失礼極まりないし、そりゃあ怒って当然だよね、北風さん……。
わわわ、とりあえず何か話し掛けなくちゃ!
「どっ、どうもこんにちは~~!」
笑顔でごまかしつつ慌てて挨拶、深々と頭を下げてみる。
けれど、憤慨しすぎて言葉も出ないらしい彼は、沈黙のまま、うんともすんとも言わない。早いところ退散しないと、本格的にヤバいことになりそうだ。
ぶるっと小さく身震いした千紗は、「ではっ!」っと脱出宣言、小走りでオフィスフロアへと向かう。
どうやら見逃してもらえたようだ。組直伝の礼儀作法を仕込みに北風が追いかけてくる……なんて恐ろしすぎる事態は回避できた。
よかったぁ……。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、「だめだめ、戦いはまだ終わってないんだから」と、気合いを入れ直す。
予期せぬ流れ弾、北風にペースを乱されてしまったが、本当の戦い――怒涛の業務地獄はまだ始まったばかりなのだ。
席を外している間も、新たな輸出依頼がバンバン来ているはずだ。問題児桃原は、仕事を減らすどころか増やしちゃってる可能性大だし、大人モード全開でいかなきゃ討ち死にしちゃうっ……!
足元のハイヒールパンプスをチラ見してレディ力を取り戻した千紗は、ピッと姿勢を正し、凛々しい大人の顔でデスクへと急いだ。