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「ああ無念だ。三春さんと話せるチャンスを無駄にしてしまった……」
海外事業部の島を見つめていることが同僚にバレていた龍生は、気まずさから逃れるために向かった休憩室の前で偶然、三春と鉢合わせになった。
何か声を掛けねば! 意気込んではみたものの、不測の事態に緊張して上手く言葉が出てこない。噛みまくってしまった結果、ごきげんようと言うつもりが、「ゴゴゴゴゴ……」と、宇宙戦艦の発進時のような音を出すのみに終わった。
ううぬ、己の口下手が恨めしい。悔しさに打ち震える龍生ではあったが、そんな不甲斐ない戦艦男にも、天使は優しかった。
冷え性と思しき彼女は、寒気の漂う廊下でぷるぷるとその身を震わせながらも、ニコッと可憐に挨拶して丁寧に一礼、「ではっ!」と慌てながらも優雅に駆けていった。
仕事に追われて急いでいたのだろう。が、そんな中でも礼節を重んじる彼女の律儀さに、さすがだ……! と惚れ直してしまう。
その反面私ときたら、緊張で挨拶すらまともにできなかった。己の情けなさに、休憩室の前で一人、肩を落としてしまう。
――が、期せずして天使の微笑みを見ることができた。それも、他の誰でもない、自分だけに向けられた笑顔だ。身に余る光栄に、心がパタパタと羽ばたく。
先ほどの笑みが、特に意味のない営業スマイルだということは重々承知だが、それでも有り余るほどの幸せを感じてしまう。
彼女の微笑み一つに、どうしようもなく救われてしまうのだ。
そうだ、あのときもそうだった――。
龍生はふっと、彼女との出会いを振り返る。
あれはもう、三年も前のことだ。当時、母を病気で亡くしたばかりだった龍生は、最大の理解者を失った絶望感に打ちひしがれていた。
鉛のように重い心で業務に励んでいた最中も、強面男への周囲の反応は冷たかった。励ましの言葉などもらえるはずもなく、いつものように一方的に避けられるばかりの日々を送っていた。
もう母のように私に微笑みかけてくれる存在などいないのだ。これからは何にも期待せず、粛々と機械のように仕事だけをこなして生きよう。唯一の楽しみは年の離れた妹、莉衣奈(りいな)の成長だけだが、その彼女もいつか――そう遠くない未来に就職、あるいは結婚をして、家を出て行くのだろう。
喜ばしいことではあるが寂しい。襲い掛かる孤独感に、龍生の世界は色を失っていった。そんなある日――――
「北風さん、今お話ししても大丈夫ですか?」
透き通るような声に顔を上げると、少女のように可憐な女性が立っていた。裾のふわりと広がる上品なワンピースをサラリと着こなした彼女の足には、艶のある華奢なパンプスが輝いていた。
「はじめまして、私、三春千紗です。今月から先輩の……山辺さんの業務を引き継ぐことになりまして、今後請求関連でお世話になると思いますが……」
少し恥ずかしそうに俯いた彼女は、すうと大きく息を吸い込むと、
「どうぞよろしくお願いいたします!」
ぱあっと、花咲くように笑ったのだ。
白昼夢でも見ているのかと思った。他の社員は龍生と仕事で関わる際、その凶悪な顔を直視しないよう、サングラスでガードしていたり、寝違えたかのように首を真横に向けていたりと、様々な対策を練ってきていた。
それなのに、会社の中でただ一人三春だけは、龍生の三白眼をまっすぐに見つめ、さらには笑顔まで見せてくれたのだ。
色を失っていた世界に、七色の光が差し込んだ瞬間だった。大地を照らす太陽のごとき微笑みに、抱えていた喪失感や虚無感が和らいでいくのを感じた。
救われてしまったのだ、一〇歳近くも年下の天使に――。
その後、仕事で本格的に関わるようになってからも、三春の笑顔は潰えることはなかった。彼女はどんなときでも万人に平等に、柔らかな笑みを授けてくれるのだ。
そんなエンジェル三春の優しさは、笑顔を振りまくだけにとどまらなかった。
母を亡くしたショックからだろう。当時の龍生は夜もなかなか寝付けず、慢性的な寝不足に陥っていた。フラフラ状態だった龍生はある日の帰り道、駅の階段を踏み外し、階下までの長距離を豪快に転げ落ちてしまった。
ろくにガードもできず、顔面をボコボコ打ち付けてしまった龍生は顔中傷だらけ――翌朝には、たんこぶや内出血までがあちこちに浮かび上がるという大惨事になっていた。
見るからに痛々しい。が、会社を休むほどの怪我ではないと、傷だらけの顔で普通に出社した龍生ではあったが、オフィスビルの玄関口に足を踏み入れたとたん、
「きゃぁっ! ちょっと見てあれ! 北風さんの顔面すごいことになってる!」
「わっ、ほんとだ……! 昨日ケンカでもしてきたのかな? まさか、どっかの組の抗争に巻き込まれたとか……?」
「や、巻き込まれたんじゃないよ、恨みのあった組に自ら討ち入り――お礼参りに行ったんじゃない? 目なんて超血走ってるし、まだ暴れ足りないんじゃ……」
「ほんとだ怖っ! 血に飢えてます感ハンパないし、今近付いたら絶対ヤバいよ。変な因縁付けられて殴り飛ばされちゃうかもっ……!」
出社早々、あらぬ疑いをかけられた龍生は、いつも以上に問答無用で避けられる羽目になった。
目が血走っているのは血に飢えているからじゃない、ただただ寝不足なだけだっ! 頼む、誰か少しは心配してくれっ……!
心の中で懇願してみる――が、この手の扱いにはもう慣れっこでもあった。
ハァっと嘆息しつつも不自然に開いた道を進み、混雑時にもかかわらず誰一人乗ろうとしないエレベーターに乗り込む。待ってみたところで、血に飢えた抗争男と相乗りしようなどという猛者は現れないだろう。
苦笑した龍生が、操作盤の『閉』を押したところで、
「すみませーん、乗りまーすっ!」
清らかな声が響いた。慌てて『開』を押すと、なにやら急いでいるらしい三春が、カツカツとハイヒールを鳴らしながら駆け込んできた。
「あれっ、このエレベーター、なんでこんなに空いてるの……?」
不思議そうに呟いた三春は辺りを見回し、ようやくただ一人の同乗者、龍生の存在に気付いた――と同時に、エレベーターのドアが閉まる。
「ひゃっ? へっ? いっ、いいいらっしゃったんですか、北風さん……!?」
いつもなら龍生の強面を前にしても優雅に微笑んでくれる三春だが、その日ばかりは随分と驚き、取り乱しているようだった。
無理もない。ただでさえ恐ろしい顔に、擦り傷や青あざといった、ロックな化粧まで施されているのだ。さすがの天使も怯えてしまったのだろう。
――ああ、三春さん、怖がらせてしまってすみませんっ!
心の中で謝罪しつつ、顔を背けた龍生だったが、
「えええ……えっと、そういうのって、冷やした方がいいんでしたっけ? 何か冷たい物……あるかなぁ……」
三春は手にしていたコンビニの袋をガサゴソと探り始めた。
「うーん、微妙なのしかないなぁー。冷たい飲み物とか買っとけばよかった……。ココアはホットだから逆効果だし、チョコの箱で冷やすのも無理よね? 箱なんて角張ったもの肌に当てるの、なんか痛そうだし……」
小声でぶつぶつと独りごちながら、袋の中の物色を続けていた三春だったが、
「あっ、これとか意外とイケるかも……? 一応、冷蔵コーナーで冷えてたものだし!」
ハッとひらめいて、顔を上げた三春は、
「これでクールダウンしましょう! 痛みも和らぐし、治りも早くなりますよっ!」
そう言って、ぐっと背伸びをすると、青アザの浮かぶ龍生の頬に、かじかんだ手でそっと押し当ててくれたのだ。
冷蔵コーナーで程よく冷えた、コンビニおにぎりを――――。
ピタリと密着する包装フィルム――そこから伝わる握り飯の弾力と、溢れんばかりの三春の優しさが、龍生の青たんをそっと癒やしていく。
――もっ、もしや今、私は心配されているのか……? 身内以外の人間――それも、天使のような彼女に…………?
三春の善意にすっかり心奪われてしまった龍生は、お礼さえも言えず、ただただ呆然としてしまう。
やがて、ポーンという到着音が鳴り、エレベーターの扉が開く。
「やった、やっと着いたっ……じゃない! あの、これ、引き続き冷やすのに使って下さい! それではお先に~~っ!」
緊急案件でも抱えているのだろうか。おにぎりを龍生に手渡した三春は、冬の寒さに身を震わせながらも、勢いよく飛び出していった。
「はっ……! これ、洗ってお返しします……!」
残されたおにぎりを手に、口下手なりにも勇気を出して叫んでみる。振り返った三春は、
「だっ、大丈夫です! それ、差し上げますから……っ!」
そんな、温情あふれる言葉とともに、とびきりのスマイルをくれた。相当寒いらしく、頬が少々引きつってはいたが、なんとも愛らしい表情だった。
顔中傷だらけだというのに、心配されるどころか避けられまくっていた強面男に、そっと鮭おにぎりを押し当ててくれた優しすぎる天使――あの日の彼女の姿を、生涯忘れはしないだろう。
温かな思い出に、龍生の胸がじーんと熱くなる。
もっとも、三春はこのときのことを、もう覚えてはいないだろう。龍生にとっては特別な出来事でも、彼女にとってはよくある親切のうちの一つでしかないのだ。
だが、その一件以来、龍生の心は前にも増して天使へと傾いていった。仕事中も、両目が自然と彼女に吸い寄せられてしまうのだ。瞳だけではない。両耳も、三春の声を自動で傍受してしまう。天使専用のパラボラアンテナ状態だ。
いつからだろう、気付いたときにはもう恋に落ちていた。
夢中だったのだ。膨大な量の仕事を抱えながらも嫌な顔一つせず、問題児な後輩や嫌味な上司のフォローにまで当たる、彼女のひたむきな姿から目が離せなかった。まだ若いのに、なんと素晴らしい人なのだと感嘆ばかりしていた。
――だが、同時に心配にもなった。彼女は大丈夫なのかと。
というのも、三春は少し、母に似ているのだ。
龍生の父は、龍生が中学生のころ――妹の莉衣奈がまだ母のお腹の中にいるとき、事故で亡くなった。支えを失い、なにかと苦労していたはずの母だが、彼女が龍生の前で涙を見せることは一度としてなかった。
どんなに大変なときでも、『大丈夫だからね』と、温かな笑顔で接してくれていたのだ。泣きたいときもあったのだろうが、子どもたちを不安にさせまいと、いつも気丈に振る舞っていた。末期の癌を患っていると知った後でさえ、笑顔を絶やさず、人の心配ばかりをしていたのだ。
もっと母に何かしてやればよかった――。
弱音を吐けるくらい頼れる男になって、母を支えてやればよかった。子どもの前だからと無理をせずに、時には涙を見せてほしかった。それなのに――
ろくな孝行もできぬまま、最後にはとんでもなく親不孝なことまでしてしまった。
母のために、もっと何かできたはずなのに……。
遅すぎる後悔に胸を痛めつつも、龍生は思う。
もしかすると三春も、どこかで無理をしているのではないかと――。
凛とした強さと、慈愛に満ちた柔らかさを兼ね備えた三春の微笑みは、母のそれに似ている。だから余計心配になってしまう。
毎日慌ただしい日々を送っている彼女は、実際のところ頑張りすぎなのではないか、誰か弱音を吐ける相手はいるのかと、遠くの島から眺めながらも、気にかかってしまうのだ。が――――
「余計なお世話か……」
クスリと自嘲して首を振る。
『嫁にしたい人選手権』が行われていると思われるほどに、彼女は引く手数多なのだ。優しく支えてくれる頼もしい友人――いや、恋人がいるに違いない。
休日にはきっと、頼れる彼の横で仕事の疲れを癒やし、春の女神のように無邪気に微笑んでいるのだろう。
職場用の営業スマイルではない、本物の笑顔で――。
いいなぁ……。私も彼女の支えとなれたら……いやいやいや、何をおこがましいことを考えているのだ。
変な欲を出して彼女を困らせてはいけない。織姫と彦星以上の頻度では会えているが、相思相愛には程遠いのだ。彼女との間に流れる心の天の川は、深すぎて到底越えられるものではない。
この恋は、ただ遠くから天使の活躍を見守るだけの、淡い淡い片思いなのだ。
私にできることといえば、あの忘れっぽい新人、桃原用にメモ帳でも用意して、三春の負担を軽減することくらいだろう。
そうだ! 冷え性な三春のために、カイロや湯たんぽも用意してあげよう。
あしながおじさんならぬ、強面おじさんからの寄付といこうじゃないか。そう思っていたのに――――。
バレンタイン前日の運命の夜、一つの奇跡が起こった。
なんと、あの三春千紗からチョコレートをもらってしまったのだ。それも義理ではなく、〈愛しています〉というメッセージ入りの本命チョコだ。
不毛な片思いだと諦めていた恋が、まさかの両思いだったとは――!
あああ、神だ! 三五年間、恋愛に関しては微笑むことを忘れていた神が、ついに本気を出してきた! 長年に渡るブランクを帳消しにするべく、超高速の連続技で、ニコニコニッコーと微笑みまくっているっ!
狂喜した龍生は興奮にその身を震わせつつも神に感謝する。
だがこの神様、実はかなりのクセモノだった。エンジェルから受け取ったチョコには、とんでもない秘密が隠されていたのだ。
奇跡の両思いを覆すその驚愕の事実を、このときの龍生はまだ、知らない――。