玄関のドアを開けると、甲高い泣き声が空間を支配していた。
――また母が泣いている。
私はそうっと玄関で靴を脱いだ。
母はリビングの床に突っ伏していた。
嗚咽に合わせて細かく上下するその背中に向かって慎重に声を掛ける。
「お母さん?」
反応はない。
私は母の脇を通って流しに向かった。
湿った声が大きく小さく、小さく大きく、不安定に揺らぎながら追いかけてくる。その音が液体のように耳から胸へと冷たく染み落ちていくのを感じながら私はグラスに水を注ぎ、母の傍に置いた。
「水……」
手の届くところに水がある、ということが伝わればよかった。持ってきたよ、とか、飲んだほうがいいよ、とか、そういうことを言える雰囲気ではなかった。
そのまま私は一歩、二歩、と後退し、できるだけ静かに洗面所で手洗いうがいを済ませた。炊飯器に米をセットし、自分の部屋に向かう。
それから何をする気も起きず、ランドセルを下ろし、ただ膝を抱いて窓を眺めた。
冬の冷たい夕焼けが窓ガラスを刺し貫いて部屋の中を赤く染めている。空が赤味を失っていくにつれ、母の泣き声も徐々に止んでいった。
声が完全に止むのを待って、私は腰を上げた。明日の時間割を見ながらランドセルの教科書を入れ替えていく。
途中、ふと気配を感じて振り返ると、いつの間にか、入口に母が立っていた。
母は何を言うでもなく腕組みをして壁に寄り掛かり、私を凝視していた。そして目が合った瞬間、じわっとその憎悪の色を濃くした。
私は手を止め、その充血した目を見つめ返した。
視線が行き交う。
母は微動だにしない。
じっとりと時が流れる。
私は視線を逸らした。
母はなおも私を睨み続けていたけれど、やがて部屋を見渡し、床に置かれた教科書に目を止め、壁から背を離した。
そして私が動く間もなく、
「――部屋が汚い」
一言放ち、ランドセルをひっくり返した。
教科書やノート、筆箱がバラバラと落ちて床に広がった。筆箱から飛び出した鉛筆が勢いよく転がり、壁で跳ね返って止まる。
母は空っぽのランドセルを無造作に放ると、
「片付けなさい」
と、つまらなそうに言った。
私は動かなかった。
「ほら、片せよ。……オイ」
低い声で言われ、それでも動かずにいると、雷が落ちた。
「さっさとしろ!」
鼓膜がびりびりする。
たぶんこれ以上抵抗するとぶたれる。
私が動き出すと、
「クソガキ」
母は吐き捨てるように言い、バン! と思い切り戸を引いて出て行った。
後にはシン、と静まり返った空間が残った。首のあたりがちりちりする。
私は無意識に詰めていた息を小さく吐いた。
奥歯をぎゅっと噛みしめながら床に散らばった物を一つ一つ、ゆっくりと拾い集めていく。
最後の一冊に手を伸ばしかけ、手が止まった。
新品の緑色のノート。
それはその日、学校でもらったものばかりのだった。
何故自分がそうしたのかはわからない。
私はほとんど何も考えず、仕舞ったばかりの筆箱からペンを一本取り出し、ノートの表紙を捲った。
*
「千草せんぱーい」
卒業式の後、料理部の送別会が終わり、校舎の廊下を唯ちゃんと歩いていると、後ろからぱたぱたと慌ただしい足音が追いかけてきた。
振り返ると、駆け寄って来た後輩が紙袋を掲げた。
「忘れ物です」
「……あ。ありがとう」
紙袋を受け取る。
ずし、と重い。
「ごめんね。どこにあった?」
「千草さんが座ってたところです。フツーに椅子の足元に置いてありましたよ」
「うっかりしちゃった。えっちゃん、ありがとう」
後輩がにこにこしながら首を振る。
――にこにこ笑っている、と思いきや、彼女は不意に唇を噛み、何かを堪えるようにぐっと眉間に皺を寄せた。
「えっちゃん?」
呼びかけると、彼女は、じ、と私を見つめ、いきなり抱きついてきた。
「――どうしたの?」
「チャージです」
思いもよらず涙声が返ってくる。
「今までみたいに会えなくなっちゃうんで」
「そっか。うん、そうだよね」
反射的に彼女の頭を撫でながら、チラッと唯ちゃんを見ると、唯ちゃんは何故かニヤニヤしている。
えっちゃんは私から離れると、躊躇いがちに視線を彷徨わせ、意を決したように言った。
「先輩は、……あの、大学、行かないんですよね?」
「うん」
「どうするんですか? これから」
「?」
「千草さん何も言わないから。なんていうか、そういうのは、寂しいです」
遠慮がちに、でも懸命に言葉を紡ぐ後輩を見て、私は口を開いた。
けれど、上手く言葉が出てこない。今は何故か、一番やりたいことを、本心を、胸の奥底から引っ張り出してくるのがとてつもなく困難なことに思えた。
すると、唯ちゃんが明るく言った。
「千草には夢があるんだよ」
「え?」
えっちゃんがぽかん、と私たちを見比べた。
「そのためにひとまず今年は学費を稼ぎながら修行するんだってさ。
何だと思う? 千草の夢」
「――全然想像つかないです。何ですか?」
唯ちゃんに目で水を向けられ、
「宿屋さん」
私がぎこちなく言うと、後輩はぱぁっと顔を輝かせた。
「あああ! そうだったんですか! 宿屋さん! すっごくわかります! 千草さんなら、めっちゃいい女将さんになりますよ!」
「そうかな」
「そうですよ! 癒し系ですもん!」
えっちゃんは熱っぽく言った。
「修行って何するんですか?」
「……宿に住み込みで働きながら、接客とか、料理とか、色々覚えるんだよ」
えっちゃんは色々聞いてくれた。
私が何か答える度、彼女はきらきらした目で、すごい、応援します、と背中を押してくれた。
……なんでだろう。
ずっと胸の中で温めていたものを仲の良い後輩に図らずも肯定してもらって、すごくうれしいはずなのに、全然うれしくない。話せば話すほど、現実と私の内側がどんどん乖離していくような気がした。
後輩と別れた後、
「あの子、千草のこと大好きだからね」
肩越しに校舎をちらっと振り返って唯ちゃんが言った。
「あのね、自分のために泣いてくれる人は貴重だよ。大事にしな?」
「うん」
「文化祭の時とか、遊びに行こうね」
「そうだね」
唯ちゃんと歩く最後の下校路。
なんだか会話も景色も頭に入ってこない。
一歩進むごとに高校が遠ざかる。
唯ちゃんはいつもと同じで、でもどこか違くて、いつもの分かれ道でいつものように別れた。
……〝癒し系〟
通い慣れた道を一人で歩いていると、後輩の言葉が頭に浮かんだ。
人間には表と裏がある。
表と裏のはっきりとした定義はわからないけれど、もしも意図的に隠している部分を〝裏〟と呼ぶならば、私は裏の顔を持っているつもりはない。持っているつもりはないのだけれど、
千草っていい子だよね、癒し系だよね。
友人や先生、周りの大人たちからそういうことを言われる度に、いつも違和感があった。
なんでだろう、と思う。
人から好かれやすい、という自覚はある。
私はある程度、誰とでもうまくやれる。これまで出会った人たち、学校やバイト先の人たちとは概ね和やかな関係を築けていた。
でも、和やかな空気の中でふとした折に、醒めた視線を向けてくる人たちがいた。たぶん、人間の本質に敏い人たちなのではないかと思う。
そういう人に言われることがある。
「千草は何を考えているのか、わからない」
わかるわけがない、と思う。
だって、私にもわからない。
いつの間にか家に着いていた。
賑やかな卒業式、校舎や友達、部活の送別会、後輩たちとの別れの余韻――そういうものは、歩いている間に消えた。
私は制服を脱いだ。
脱いだ制服を丁寧に畳んでゴミ袋に入れ、卒業式でもらった紙袋の整理を始める。
アルバムや不要な書類は明日の朝に出す予定の資源ゴミ用の紙袋に移す。
大きくなったらこの家を出よう。
小さい頃から、そう決めていた。
そして、〝大きくなった私〟は明日、この家を出て行く。
青森の祖父の家からこの家に越してきた時期ははっきりしない。おそらく小学校に上がる前だったから、少なくとも十二、三年はこの家で生活してきたことになる。
長かったな、と思う。
それ以外は特に何も感じない。
ただ、何だか妙に胸の辺りがふわふわ、さわさわする。
〝用事〟はその場所に居るために必要な理由、というか、糸のようなものだと思う。ここ数日、ひとつ用事を済ませる度に私をこの家に繋ぎとめている糸がぷつぷつと断たれていく音が聞こえてくるようだった。
卒業式の翌日に家を出る旨の母への報告、最後のバイト、部屋の整理。
そして、今日の高校の卒業式。
無数の糸を断ち切って縛りのなくなった心が何もない空間にふわりと浮き上がり、なんだか幽霊にでもなったような心地がする。
荷物の整理を終え、明日の支度を整え、明かりを落とし、布団に入って目を瞑る。
この部屋で眠るのも、今日が最後。
静かな空間。
隣の部屋からテレビの音が漏れ聞こえてくる。
しばらくして、ピロリン、と足元で機械音が響いた。
少し遅れて母にドン、と壁を殴られる。
私は数日前に買ったばかりの携帯を消音モードに切り替えた。
唯ちゃんからメールが来ている。
『千草、大丈夫?』
見慣れた部屋が携帯の青白い光でうっすらと浮かび上がる。
『大丈夫だよ。なんで? 唯ちゃんどうかしたの?』
返信。すぐに返事がきた。
『今日の千草、ちょっと変だな、って思って。気になったの』
液晶の光がチクチクと目に染みた。
何か言いたいような気がした。でも同時に、今は唯ちゃんと連絡を取り合ってはいけない、と強く感じた。
薄闇の中で指が言葉を探して携帯の上をさ迷う。
結局、
『いつもと同じだよ。でもありがとう。明日早いから今日はもう寝るね。また連絡します』
それだけ送って携帯の電源を落とし、布団を被った。
薄い壁の向こうでギイ、と床の軋む音がした。
私は寝返りを打った。
横向きに丸まって眠気が訪れるのを待つ。
刻々と時間が過ぎていく。
時間が経つほどに頭がしんと冴えていく。
――眠れない。
私はなるべく音を立てないようにそうっと起きだした。たぶん、こういう時は思い切って一度、起きてしまったほうがいい。
部屋の電気を点ける。
大きめの旅行鞄、小物入れ、布団とゴミ。
部屋にあるのはそれだけだった。
私はふと思い立ち、旅行鞄からノートとボールペンを取り出した。
昔――小学生から中学生にかけて――眠れない夜によくやっていたように布団にうつ伏せになり、ノートの新しいページにペン先を当てる。
ペン先から微かにインクが滲み出る。
飽和した感情が黒いインクになって、指先からペン先へと伝い落ち、白いページの上で文字になる。
そんなイメージで。
私は感情をインクに文字を綴ろうとした。
処理しきれない感情は、何らかの方法で外に逃がしたほうがいい。今のところ、私には文字に落とすという行為が一番しっくりきていた。
ただ、全くペンが動かない。
私の頭は空っぽで、やたらと静かで、落とすべきものは何もないようだった。
そうなるともう、眠れない原因がわからない。
所在なくぱらぱらとノートを捲る。
昔、ノートに落とした、文字、文字、文字。
何の脈絡も具体性もない言葉の羅列。
ページを捲る。
どのページを捲ってもなんだか他人事みたいに見える。
あっという間に一番最初のページにたどり着いた。
【生まれてきたくなかった。消えたい】
随分と幼い筆跡。
何がきっかけで書き始めたんだっけ。
記憶を探る。
ぼんやりと蘇ってくるのは、この家で過ごした、大して変わり映えのしない日々。似たような記憶ばかりで、肝心なきっかけは思い出せない。
意識が過去に埋没しそうになり、はっとしてノートを閉じた。
――だめだ、やめよう。
明日からのことを考えよう。
今はしゃんとして、できるだけ明るくいよう。
私はノートと資源ゴミ用の紙袋を見比べ、ノートを鞄に仕舞い直した。
それから、少し気分を変えよう、と思った。
部屋を出て、洗面所で顔を洗う。
鏡に映った自分を見て、
そうだ、大人っぽくしよう。
そう思い立ち、前髪を流してみる。
その時、戸が開いて鏡越しに母と目が合った。
「色気づいてんじゃねえよ」
舌打ちと共に、吐き捨てられる。
私は黙って母の脇を通り過ぎようとした。
彼女が私の存在を疎んでいることは知っている。こういう時は聞き流せばいいということも。けれど今日くらいはそんなに突っかかって来なくてもいいのにな、と思う。そんなに苛々しなくても、どうせ明日には私はいなくなるのに。
私は思わず、ふっと笑ってしまった。
すると、母のヒステリーに火が付いた。
「笑ってんじゃねぇよ、馬鹿にしてんのか!?」
これで見納めかもしれないと思い、私は喚き始めた母を眺めた。
憎しみに身を委ねると、人の顔の造形はひどく乱れる。血走った目、歪んだ口、無駄な皺、口汚い言葉、言葉、言葉。
母が感情を剥き出しにして泣いたり激したりすることは、昔から珍しいことではなかった。
私が何か失敗をしてしまったり、母の中で何か上手くいかないことがあったり、ただ何となく虫の居所が悪かったり、事あるごとに、事がなくても母の感情は簡単に炸裂した。
本当にちょっと笑ってしまう。
この人は未だに、ヒステリックに怒鳴れば、私が怖がったり、言うことを聞いたりすると思っている。
ごめんね、お母さん。私はもうそこまで子どもじゃない。
ただ、汚い顔だな、と思うくらいで。
まだ喚いてる。
昔のまんま。ちっとも変わらない。
私はもう知っている。
まともな大人は、滅多なことがない限り怒鳴ったりはしない、ってこと。
ねぇ、お母さん。
残念だよ、本当に。
あなたは普通にしていれば、綺麗な顔をしているのに。
眠りが浅かったのかもしれない。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
私は夜明け前に家を出ることにした。
荷物を持ってそっと玄関を開ける。
家の外には、夜明け前の蒼くて深い清浄な空気が漲っていた。
息を吸うと、咳が出そうになった。咄嗟に堪えて静かにドアを閉める。
閉めてすぐ一回、二回と立て続けに咳が出た。あと一回出そうになって、気管のどこかで閊(つか)えてしまったのか、中途半端に止まり、変な息苦しさが胸にわだかまった。
玄関の鍵を閉め、そのまま氷のように冷たい玄関ポストに鍵を入れる。ポストの向こう側でカチャ、と冴えた金属音がした。
それで、すっと肩の荷が下りたような、ひと仕事終えたような気持ちになった。
紙袋をゴミステーションに置く。
紙袋の中身は小中高の卒業アルバム、文集、年賀状、手紙――荷物の整理をしている時、それらはみんなとても大事なものであるような気がして、最初は引越し先に持って行こうと思っていた。でも次第に捨てて行かなければならない物のように思えてきた。
たぶん捨てても後悔はしない。
一度に運べる荷物には限界があって、そして遠くに行くためには、荷物はできるだけ軽く、少ないほうがいい。
唯ちゃんに運ぶのを手伝ってもらうことも考えたけれど、それはやめた。
私は強くなろうと決めていた。
これは待ちに待った本当の自立の第一歩で、だからたぶんこの引越しは、自分ひとりの力で為さなければならない類のものなのだ。
青白い星明りにうっすらと照らされた道を、旅行鞄を引いて歩く。
海の底みたいに寝静まった街に、キャスターが路面を転がるコロコロという音が響いた。
駅まで歩いている間に夜明けが近づき、少しずつ景色が白んでいった。
電車に乗り、がらがらの座席に着いたらほっとして力が抜けた。
しばらくの間は、何もしなくてもいい。
何もしなくとも、座っているだけで目的地が近づいてくる。
少し楽にしていよう。
そう思った時、斜向かいに座る女の人が、ちらり、ちらり、と不自然に私を見た。
最初は気のせいかと思った。けれど、彼女はもう一度、ちらっと私を見た。
何かついてるのだろうか。
顔を触る。
手が濡れた。
一瞬、わけがわからなくなる。
でも、どうやら私は泣いているようだった。
現実に理性が追いついて、私は欠伸する振りをして目元を拭った。ただ、拭っても、拭っても、新しいものが勝手に溢れ出てくる。
あんまり目元を拭いていると泣いている人みたいだから――実際、泣いているのだけれど――仕方なく立ち上がり、窓の外を眺める振りをして乗客から顔を隠した。車窓を流れる見慣れた景色をできるだけ見ないように遠くの山を眺める。
そうしながら、馬鹿みたいだ、と思う。
泣いたってなんの意味もないのに。
でも困った。困ってしまった。
何の感慨もないのに、私は冷静なのに、ただ勝手に、出したくないものが湧き出てくる。
仕方なく次の駅で降りて、人が来ないように祈りながら二つしかないトイレの一室に立てこもった。
一人になったら余計に止まらなくなった。
これは違う、と思う。
私は泣きたいわけじゃない。泣きたくない。
でも、どうしようもなく袖がぐしょぐしょに濡れていく。
漏れ出そうになる声を、奥歯を強く噛みしめて殺す。
――本当は、うっすら気づいている。
強くなるということと、感じたくないことを感じない、ということは表面上は同じように見えて、全然違うのだということ。
後者はきっと脆い。悔しいけれど、きっと私はまだ後者なのだろう。そのくらいは気付いている。
こんな風に涙腺をうまく制御できないのは、張りぼての強さの下で私の何かが、見つけてくれよ、と暴れているからなのだと思う。
でも今はダメだと思う。
待ちに待った一人立ちの時なのだから。
これから新しい生活を始めるのだから。
泣いている場合じゃない。
だから私は踏みつける。
暴れている私の何かを、上からしっかり踏みつける。さらに強く踏みつけて、踏み続けて、そうしている間に、なんとか泣き止んだ。
落ち着くのを待って個室を出る。
冷たい水で顔を洗い、鏡を見る。
ほんの少し赤味が残っているけれど、もうほとんどいつも通りの顔に見えた。
それから私はまた、電車に乗った。
*
ちら、ちら、と大粒の雪が降っている。
電車が目的の駅に着いた時、向かい側のホームで発車音が鳴り響き始めた。
その音に急かされるように二、三人が慌ただしく階段を駆け降りてきて、閉まりかけのドアに滑り込んでいく。
私は唯ちゃんと一緒に電車から降り、がやがやとした雑踏に足を踏み出した。
高校を卒業して七年経った今でも唯ちゃんとは時々連絡を取り合っている。ここ数年は年に一回、こうやって休みを合わせて二人で旅行をするのが恒例になっていた。
今回の旅先は、宇都宮。
この駅で降りるのは二人とも初めてだった。
電車から降りた人々がエスカレーターや階段の前にぞろぞろと長い列を作っていく。寒さのためか皆心なし身を竦めるようにしている。
人の流れに沿って歩きながら、私は何気なく電車が発車したばかりの空っぽのホームに目を向け、そして、まるでそこだけ時間が止まっているかのようにぽつんとベンチに佇む男の人に目が留まった。
寒そうだな、というのが第一印象だった。
彼は真冬だというのにスーツに薄手のコートという軽装で、じっとベンチに座り込んでいた。
彼の傍を通る。
その時、その足元に何かぐしゃぐしゃの黄色いものが落ちていることに気が付いた。
一度、通り過ぎかけた。でも、それが妙に気に掛かり、私は人波から外れた。
彼の前に立ち、黄色いそれ――紙だった――をそっと拾う。軽く伸ばすと、くしゃくしゃの皺の間に埋もれるように『啓太へ』とあった。
手紙?
この人の、かな。
チラッと横顔を見ると、彼はどうやら眠っている。閉じた瞼の下には青い隈ができ、それに、よく見ると彼のスーツは喪服だった。
私は躊躇いつつ、そっと紙を開いた。
――それは、のたくるような文字でびっしりと隙間なく埋め尽くされた手紙だった。
「あれ? 千草?」
数歩先を歩いていた唯ちゃんが私の不在に気付き、きょろきょろと辺りを見渡す。
私は咄嗟に手紙をコートのポケットに深く仕舞い込んだ。
そして、彼の腕に手を伸ばした。
伸ばしながら、私は何をしているのだろう、と思った。自分でも自分がよくわからなかった。
それはたぶん彼のためであって、彼のためではなかった、と思う。
私は指先でトントン、と腕をたたいた。
どのくらいそこに座り込んでいたのだろう。喪服の袖は冷たかった。
彼が目を開けた。
どこか頑なそうな、押し均されたような眼。
その眼で、彼は不思議なものでも見るように私を見た。
一瞬、逃げ出したいような気がした。
こんな風に、自分から知らない人に声を掛けるのは初めてだった。
私は自分を奮い立たせ、声を出した。
「お兄さん、地元の人ですか?」