Prologue "On the Wall"

 それまで存在しなかったものが突然あらわれて、自分の信じていた景色が、まったく変わってしまうことがある。


 たとえば、街の壁に描かれた絵。

 あるいは、不意に投げかけられた言葉。

 もしくは、誰かとの出会い。

 俺の場合、それは、霧の中の幽霊ゴーストだった。


「ここ、どこだろう……」


 一言で言えば、俺は迷子だった。

 大学生にもなって迷子とはまったく情けない話だ。とはいえ、むをない事情もある。

 なにせここは、異国の地なのだ。


 イギリスのロンドンから西に二時間行ったところにある川沿いの港街、ブリストル。ここにあるブリストル大学に留学してきたのは、つい先日のことだ。

 上下して交差する、石畳の坂道。複雑に入り組んだ、れんの家が並ぶ通り。慣れてしまえばどうということもないその道も、日本の景色しか知らない俺にとっては、ほとんど迷路も同然だった。


 ちょっとした手続きを済ませに、大学の関連施設に行ったところまではよかった。問題は帰りに、スマートフォンの電源が切れてしまったことだ。そのときの俺は、イギリスにはなんでも売っているコンビニエンスストアという概念がないことを、まだ知らなかった。


 さらに悪いことに、あたりには霧が立ち込めていた。このあたりでは霧はまれだと聞いていたのに、来て早々そのまれな日にぶつかってしまうとは、まったく不運なものだ。

 この状況では迷ってしまっても仕方がない。

 問題は、どれだけ自分に言い訳しても、帰り道がわからないことだ。


「どの道も、一緒に見えるもんな……」


 多分こっちのほうだったろう、という方向に進めば進むほど、見覚えのない景色ばかりが目の前に現れる。もちろん、見覚えのある場所なんてほとんどない。当然といえば当然なのだが、とにかく心細いことこの上なかった。

 俺は気持ちを落ち着けるべく、眼鏡を拭いて、掛け直す。しかし当然、それで帰り道が見えるようになるわけでもない。


 ぐるぐると歩き回って、いよいよ自分がどこにいるのかもわからなくなり、やがて細い道に入り込んでしまったことに気づく。

 れんの壁を伝っていって、道を進んだ、その先の行き止まり。

 霧の奥から、現れたのは。


 口から血を滴らせる、一匹のライオンだった。

 本能的に身構える。

 鼓動が速くなる。


 しかしそれが、れんの壁に書かれたいろせた絵であることは、すぐにわかった。


「なんだ……絵か」


 俺は胸をろす。

 よく見れば、それほどリアルに書かれた絵ではない。それでも驚いてしまったのは、そこからなにか得体の知れない、エネルギーのようなものが伝わってきたからだ。


 情熱。

 執念。

 あるいは、魂。


 引き寄せられるように近づくと、霧の中から、もうひとつのシルエットが浮かび上がる。

 壁の前に、なにかが立っている。

 それはライオンの絵を見上げている、人のようだった。


 背中まで伸びる長い金色の髪。

 白いスカートの裾は、透き通るようだ。

 妖精か、天使か、あるいは、幽霊?


 今すぐにでも、ここから消えてしまいそうな雰囲気。

 見ているだけで、なぜか心臓をつかまれたように、苦しい。

 俺が動けずにいると、その人影は、おもむろに左手を上げた。


 手には、なにかが握られている。

 ……スプレー缶?


 それを見て、俺はあんした。

 目の前の姿が、この世ならざる者ではなく、生きた人間であることがわかったからだ。


「あの、すみません」


 ようやく俺の体は、声を発する。

 とにかく、道を聞きたかった。

 しかし、わずかに人影が振り向いた、次の瞬間。

 俺の目の前に、なにかが飛んでくる。


「うわっ」


 とっさに身をかばう。なにかが腕に当たって、石畳に落ちる。ガラガラと転がる音が、あたりにこだまする。

 それはさっきまでその人影の手にあった、スプレー缶だった。


 俺が顔を上げると、その人影は、どこにも見当たらなかった。

 あとかたもなく、消えてしまった。


 そんなはずはない。

 ここは、行き止まりのはずなのに、どうして。

 ……まさか、本当に、幽霊?


 俺はかがんで、足元に転がったスプレー缶を拾う。

 銀色のその缶には、94、と書かれていた。

刊行シリーズ

オーバーライト3 ――ロンドン・インベイジョンの書影
オーバーライト2 ――クリスマス・ウォーズの炎の書影
オーバーライト ――ブリストルのゴーストの書影