わたし、二番目の彼女でいいから。1
プロローグ
放課後、二人でいるところをみられないよう、遠回りをして帰っている。
ひとけのない線路沿い、フェンスとブロック塀が左右につづく、細い一本道でのことだ。
「暑いね」
となりを歩く早坂さんがいう。
さわやかな夏の制服、きれいに切りそろえられた髪、はにかむ表情はどこか幼い。
「のどかわいちゃった」
早坂さんはついさっき自動販売機で買ったサイダーをひとくち飲んでからいう。
「桐島くんも飲む?」
「いいのか?」
「うん」
あっさり手渡されるペットボトル。俺のカバンのなかにはお茶の入った水筒があるが、たしかにこの青い空の下では、よく冷えた炭酸を飲みたい気分だった。
しかし本当にいいのだろうか?
サイダーを飲んだばかりの、早坂さんのみずみずしいくちびるに思わず目がいく。
このまま飲んだら、完全にあれだ、間接キスだ。
でも、早坂さんはそんなこと一ミリも考えてない顔で、いかにも清純な女の子って感じのほほ笑みを浮かべている。
ここでためらってたら、それこそ意識してるみたいだ。
俺はなにくわぬ顔で口をつけ、サイダーを飲む。
「間接キスだね」
いわれて、むせ返った。
「……さては早坂さん、俺をからかっているな」
「えへへ」
ピースサインをする早坂さん。でも表情は控えめで、頰も赤くなっている。
「自分でやって自分で照れるなよ」
「て、照れてないもん」
そういいながらも早坂さんはあきらかに照れた様子で、そんなことより、と話をそらすようにいう。
「昼休み、友だちと熱心に話し込んでたよね」
「あいつ、片想いしてるらしくてさ」
「え!? 桐島くんが友だちから恋愛のこと相談されるの!?」
「似合わないよな。俺、地味だし、メガネかけてるし」
「でも私、桐島くんのルックス好きだよ。いかにも勉強だけできますって感じで、キャラクター完成してるもん」
「フォローになってないんだよなあ」
「それでそれで? その友だちにはどんなアドバイスしてあげたの?」
「単純接触効果について説明した」
俺がいうと、目を輝かせていた早坂さんは、「あ、うん」と、急に微妙な顔になる。
「なんていうんだろ。なんか、あれだね。すごく桐島くんっぽい」
「それ、絶対褒めてないよな」
単純接触効果とは「よく目にするもの耳にするものには好感をもちやすい」という心理的な効果のことだ。CMでみたことあるから買ってしまうという行動や、遠くにいる人よりも近くにいる人を好きになってしまう心理もこれで説明される。
「人は知っているものを好きになる。だから彼にはとにかく好きな女の子と毎日顔を合わせろとアドバイスした。あいさつ、物の貸し借り、なんでもいい」
「ふうん、単純接触効果か」
なるほどなるほど、とうなずきながら、早坂さんはいたずらっぽい表情になる。
「……じゃあ私たちもやってみようよ、それ」
手の甲をちょいちょいと、俺の手にあててくる。
「手、つなごうよ」
「いや、ここでいう接触というのは、みるとかきくとかそういう知覚的な話であってだな……」
「でも直接さわったらもっと効果あるかもしれないよ? ていうか絶対そうだよ」
肩にかけていたカバンが、いつのまにか俺のいるほうとは反対側の肩に移動している。
距離が近く、俺は思わず緊張してしまう。
──直接さわったらもっと効果あるかもしれないよ?
早坂さんは絶対テキトーにいっただけだが、たしかにそうかもしれない。
意識してない女の子が相手でもそれとなく肩をさわられたらドキッとするし、もしお化け屋敷なんかで抱きつかれたりしたら、その女の子のことを好きになってしまう自信がある。
多分、これは頭ではコントロールできない、心のメカニズムなのだ。
さわるという行為には特別な力がある。
もしここで早坂さんと手をつないだらどうなるだろう?
俺は頭で考えているよりも早坂さんのことを好きになってしまうかもしれないし、早坂さんも想定してないほどに俺のことを好きになってくれるかもしれない。
「ねえ桐島くん」
早坂さんがまたちょいちょいと手の甲をあててくる。
どんどん近づいてきて、俺の腕に早坂さんの胸があたりそうになっている。
早坂さんはあどけない顔をしているが、体はかなり大人っぽい。
俺はなんだか急に恥ずかしくなって、顔をそらす。
「手をつなぐのは論理の飛躍だ。心理的効果の検証には不適切というか──」
「そうやって理屈こねて逃げようとするの、わるいクセだよ桐島くん」
早坂さんが俺の手を握ろうとする。
俺はズボンのポケットに手を隠す。
「ふうん、だったら勝手に腕組んじゃおっかな」
早坂さんが腕に抱きつくそぶりをみせるから、俺はあわてて道の端っこに逃げた。
そうやって少し離れて歩きながらも、腕を組むといわれたせいで、自然と早坂さんの白いブラウス、その胸元に目がいってしまう。
「えへへ、桐島くんが恥ずかしがる理由、なんとなくわかっちゃった」
「どうかな」
「いろいろさわったら、私たち、もっともっと仲良くなれるかもしれないよ?」
早坂さんはいたずらっぽい顔になり、がぜんやる気になってくっついてこようとする。
狭い路地裏での追いかけっこ。
早坂さん、表情ややってることは子供みたいだけど、制服から伸びる手足はやっぱり高校生で、肌もきれいで、息があがって赤くなった頰が妙に色っぽい。
俺はまだ早坂さんの肌にふれる心の準備ができてないから、とにかく逃げまわる。早坂さんは運動神経がいいほうじゃないから、自分の足につまずいて転びそうになる。
「いいもん、だったらこうするもん」
早坂さんは道の先で、通せんぼするように体を広げた。
俺はそしらぬ顔でその脇を足早に通り抜けようとする。
「往生際がわるいよ、桐島くん!」
早坂さんが体ごとぶつかってきて、俺は肩で押し返し、ぎゅうぎゅうとせめぎ合う。
「やめるんだ、俺たちにはまだ早い!」
「私たち、そろそろもっと先にすすもうよ」
「ちょっと待て、話がすり変わっている。俺たち単純接触効果の話をしてたはずだ」
「それ、なんだっけ?」
いっそすがすがしいな! しかし──。
「早坂さんだって男とふれ合ったことなんてないだろ。本当は恥ずかしいはずだ。なれてる女のふりをするのはよせ!」
完全に図星だったようで、早坂さんの目が泳ぎはじめる。
「な、な、な、なんのことかな桐島くん!?」
「シャイなくせにそんなことして──」
「き、桐島くんのせいだよ!」
観念したのか、早坂さんはすねた顔になっていう。
「だって、ずっとずっと手もつないでくれないんだもん!」
最近あたりが強いと思っていたら、そんなことを考えていたのか。
めちゃくちゃかわいいなこの生き物、と思うものの、俺は勢いそのままにまたくっついてこようとする早坂さんを肩で押し返す。
「だからって無理をするな! 顔だってすごく赤いぞ!」
「無理なんかしてないもん、これは朝から熱があるだけだもん!」
「たとえそうだとしても!」
俺はまだ恥ずかしいのだった。
◇
翌朝の教室、俺は早坂さんを目で追っていた。
早坂さんは登校してすぐ、教科書を広げ授業の予習を始めた。ノートになにか書き込みながらも、おはようと声をかけられるたび、「おはよー」とあいさつを返している。
もともと愛想のいいほうだが、今日はやけに元気がいい。
無理をしているな、と思う。
「早坂、おはよう!」
となりのクラスの、ちょっと遊んでる感じの男子が教室に入ってきていう。
「今夜、スタジオ借りてバンドの練習するんだけどさ、聴きにこない?」
「ごめん……夜は無理だよ。門限もあるし……」
「そっか。また声かけるよ」
やっぱダメかあ、といいながら、すごすごと帰っていく。
それをみていたクラスの男子たちが会話を始める。
「早坂さん、相変わらずガード堅いな」
「わかってねえなあ。そこがいいんだろ。真面目で清純、いかにも大事に育てられた女の子って感じがよ」
「僕の独自調査によると、スマホの連絡先に登録されてる男はお父さんだけという噂だ」
俺の席の真後ろでそんな会話がおこなわれているのだが、俺は参加しないし、早坂さんについてのコメントを求められることもない。
「あれだけシャイだと、たとえ付き合えたとしても大変だろうな」
「わかってねえなあ。早坂さんがあの感じで、『手をつなぐなんて恥ずかしいよぉ』っていうのがいいんじゃねえか。ほんと、全然わかってねえ」
「僕の独自調査によると、早坂さんは多数の告白を受けているが誰とも付き合ったことがない。つまりウブなリアクションになることはまちがいない」
彼らの声が大きくて、早坂さんは教科書をみながら恥ずかしそうにうつむく。
「ちょっと男子、あかねちゃんで変な妄想しないでよ」
近くにいた女子がいう。あかねとは早坂さんの下の名前だ。
「そういうのに耐性ないんだから!」
やがてチャイムが鳴り、みんなが自分の席に戻っていく。男子は早坂さんを名残惜しそうにみているし、女子は早坂さんを守ろうと彼らを威嚇している。
そんな騒がしさのなか、ふと早坂さんと目が合った。早坂さんはとっさに教科書を上げて顔を隠す。しかし、じりじりと教科書を下げて、様子をうかがうようにこちらをみてきた。
『あんまりみてると、みんなにバレちゃうよ』
そんな顔をしていた。
頰がほんのりと赤い。
声をかけたい気もするけど、俺は視線を黒板に向けて授業の準備をする。
俺と早坂さんの関係はみんなには秘密だ。
昼休みになっても、この状況は変わらない。
俺はひとりで弁当を食べ、早坂さんはとなりの席に座る男子に話しかけられている。
さっき先生に説明された、進路希望調査についてだ。
「早坂さんは文系? 理系?」
「えっと……」
「文学部とか似合いそうじゃん。キャンパスのベンチで小説を読む文学少女!」
その会話に、他のクラスメートたちも入ってくる。
「英文科もいいんじゃない? ペラペラになって、通訳とかCAは?」
「ここは家政学部でしょ!」
周りが盛りあがるなか、早坂さんが遠慮がちにいう。
「……理系なんだ」
一瞬、みんな「え?」という顔になる。それは早坂さんのイメージじゃない。
「ああ、なるほど!」
空気を読むのが上手いやつがいう。
「看護師さん! 白衣の天使かあ、早坂さんにぴったり、お世話されたい!」
それでその場はおさまった。
早坂さんはこっそり俺のほうをみて、弱々しく笑う。
まるで記号だな、と思う。
真面目さ、清純さ、かわいらしさだけを求められるファッションアイコン。
たしかに早坂さんはイメージどおりの女の子だ。
授業中は一生懸命ノートをとるし、テスト範囲をきき忘れたクラスメートにはメモを書いて渡してあげるし、日直でなくても先生の資料を運ぶ手伝いをする。体育の時間、運動は少し苦手だけれど、何度も足をぶつけながらがんばってハードルを跳ぶ。
進路についても、早坂さんはふわふわの動物をずっとさわってたいという理由で獣医学部への進学を希望しているから、そのイメージからさほど外れてはいない。
みんな、そんな早坂さんのことが大好きだ。
でも、ときどきその好きが、かわいいお人形さんにたいする好きと同じにみえる。
記号としてしか、早坂さんのことをみていない。
だから、今日の早坂さんの様子が、いつもとちがうことにみんな気づいていない。
俺はそれが心配で、みていられなくて、立ち上がって早坂さんの席に向かっていく。
「え、え?」
教室で話しかけたことなんてないから、早坂さんが戸惑いの声をあげる。
でも俺は、さも偶然通りかかったふりをしていう。
「早坂さん、顔赤くない?」
そこでみんなも早坂さんが今日ずっと体調がわるそうだったことに気づく。
早坂さんも無理しすぎだ。昨日、自分でいってたじゃないか。
「熱、あるんじゃないのか?」
◇
五時間目が始まる直前、俺は教室を抜けだした。
窓から早退して帰っていく早坂さんがみえたのだ。
校門をでて、しばらくいったところで、ふらふらと歩く早坂さんに追いつく。
「桐島くん、なんで!?」
「家まで送る。カバン持つよ」
「……ごめんね、迷惑かけちゃって」
「早坂さんはがんばりすぎだ」
「……うん。でもね、みんなの前だとね、ついつい、いい子にふるまっちゃうんだ」
でもホントはそんなことないんだよ、と早坂さんはいう。
「みんなが思ってるより、ずっとずっとわるい子なんだよ」
早坂さんは今にも倒れそうで、俺は思わず彼女の手を握っていた。
「桐島くん?」
つないだ手をみて、早坂さんが目を丸くする。
「……これはその、あれだ。単純接触効果を試してみようと思ったというか、なんというか」
「うん。それで、効果ある?」
「わからない。体が熱くなってきた。なんだか俺まで熱があるみたいだ……」
「私、これけっこう好きかも」
早坂さんは手を握ったまま、俺に体をあずけてくる。
「効果、あるかも」
もたれかかってくる重さと、伝わってくる熱さ。
体の側面で、早坂さんの存在を感じる。イメージや、アイコンなんかじゃない。
「みんな、私がこんなことしてるって知ったらビックリするんだろうね……」
「スキャンダルだろうな」
早坂さんは今、教室では絶対にみせない、甘えきった表情をしている。
「私ね、前から桐島くんにさわりたいって思ってたんだ」
そういいながら、火照った顔のまま嬉しそうにくっついてくる。俺の感触を楽しむように手を強く握ったり、弱く握ったりする。
「ずっと熱だしてよっかな」
「なんで?」
「桐島くんが優しくしてくれるから」
早坂さんは必要以上に、顔や体をぴったりと俺にくっつけてくる。
「わざとやってるだろ」
「元気になったら、もっともっと、いけないことしようね」
「あのなあ」
「だって私、いい子じゃないもん」
夏風邪を引いた早坂さんを抱きかかえるようにして家まで送った。彼女は体調がすこぶるわるそうだったけど、「えへへ」と満足そうに笑っていた。
はたからみたら、かわいい女の子と、なにかのまちがいで付き合うことになった冴えない彼氏にみえるだろう。たしかに俺と早坂さんは恋人だからそのとおりにちがいない。
でも、俺たちには誰にもいえない秘密がある。
俺には他に好きな人がいて、早坂さんは二番目だ。
早坂さんにも他に好きな人がいて、俺は二番目だ。つまり──。
俺たちは互いに一番好きな人がいるにもかかわらず、二番目同士で付き合っている。