チャットルーム(休日・夕刻)
《だからね、今池袋は『ダラーズ』ってチームが凄いんだって!》
[私は見た事ないんですよね、『ダラーズ』って、噂は凄い聞くんだけど]
《地下に潜ってるっぽいですからねー! でも、ネットとかでも凄い噂になってますよ?》
【そうなんですかー、甘楽さん、池袋に詳しいんですね】
《それほどでもないですよう!》
《あ、じゃあじゃあじゃあ、黒いバイクの話って知ってます?》
【黒いバイク?】
[あー]
《最近新宿とか池袋で話題の奴。昨日ニュースにも出てたよー》
♂♀
★東京都・文京区某所(平日・深夜)
「こ……の……化物めぇぇぇぇぁぁぁッ!」
歪んだ怒声と共に、男は鉄パイプを振り上げ────一目散に逃げ出した。
深夜の立体駐車場を、青年が走る。その右手に、人肌にまで温まった鉄の感触を握り締めながら。だが、次第にその感触すらも冷や汗に濡れて不確かなものとなっていく。
周囲には人影も無く、持ち主を待ち続ける乗用車がまばらに停まっているだけだ。
青年の周りからは音が綺麗に消え去っており、彼の耳には己の足音と荒い息遣い、そして徐徐に高鳴っていく心音だけが渦巻き続ける。
武骨なコンクリートの柱の間を駆け抜けながら、チンピラ風の青年は叫ぶように呟いた。
「……く……くくッくッ糞ッ! 糞ッ! 糞ッ! やや、や、やってられっかよ畜生!」
青年の目に浮かぶ光は怒りの色を放ち、それでも彼の口からは怯えの吐息が振り絞られる。
その瞬間までは、対峙する者に畏怖を与える為に刻み込んでいた首筋の刺青。それが今や、チンピラ自身の恐怖によって歪んでしまっている。そして、元々大した信念も無く入れたその青紫の紋様に────漆黒のブーツが叩き込まれた。
♂♀
《昔から都市伝説みたいな感じだったらしいけど、携帯にカメラ付くようになったでしょう、あれで写した人とかが多くて、それで一気に有名になった感じなんですー》
[あー、知ってる知ってる。っていうかあれは都市伝説でもなんでもないですよ。普通の暴走族っていうか、あ、でも別に群れて珍走してるわけじゃないんだけど]
《二輪なのにライトつけないで走ってるなら充分アホだって》
《人間だったらだけど》
【話が見えないんですが】
《ああ、えっとね……ぶっちゃけ、化物みたいなもんです!》
♂♀
ミチリ、という嫌な音がして、チンピラの身体が歪な弧を描いて半回転した。
そのまま横向きに身体を打ち付け、チンピラは歪む意識の中で必死に両手足をばたつかせる。冷え込んだ空気が周囲を包んでいたが、彼の全身を覆う痺れがコンクリートの冷たさを遮断しているようだ。男はまるで悪夢の中を逃げ惑うような感覚で、背後に迫る恐怖の根源を振り返った。
そこに立っているのは、一つの人影。──言葉通り、それはまさしく『影』だった。
全身が黒いライダースーツに覆われており、余計な模様やエンブレムは何一つ無く、ただでさえ黒い装束を、さらに濃いインクの中にぶち込んだような印象だ。駐車場の蛍光灯を跳ね返している部分だけが、ようやくそこに何かが存在しているという事を思い出させる。
更に異様なのは首から上の部分だ。そこには奇妙なデザインのヘルメットが据えつけられている。漆黒に染め上げられた首から下の部分に対し、その形と模様はどこかアーティスティックな雰囲気をかもし出していた。それでいて、漆黒の身体とは特に強い違和感を感じさせない。
フェイスカバーはまるで高級車のミラーガラスのように黒く、そこには蛍光灯の歪な点滅が反射するのみで、ヘルメットの中の様子はまったく窺い知れなかった。
「……」
影はただ沈黙を吐き出し、まるで生命というものを感じさせない。男はその様子を見て、恐怖と憎しみが混じり合わせたように顔を歪める。
「た、たたたた、ターミネーターに追われる覚えは無ぇぞ俺ぁよ!」
普通ならば冗談となりえるその言葉だったが、男の感情には欠片の余裕も感じられない。
「な、な、何とか言えよ! なんなんだよ! 一体なんなんだよ手前は!」
男から見れば、その存在はまったくわけがわからないものだった。いつものようにこの地下駐車場に集まって、軽い『仕事』をやって帰る。『商品』を納入先に届け、新たな『商品』を仕入れる。それだけだ。普段と何一つ変わらない。いったい自分達になんのミスがあったというのか? 一体何が原因でこのような化物を呼び寄せてしまったのか──
男とその『仕事仲間』達は、今夜もまた、いつも通りの作業をこなす筈だった。
だが──その日常は、何の前触れもなく崩れ去る。
立体駐車場の入り口で、男達が遅れてくる一人を待っていた時──その存在は、あまりにも唐突に現れた。入口の前を音も無く通り過ぎ、十数メートル先で停まる一台のバイク。
その様子を見ていた男と仲間達は、それを取り巻く数々の異常に気が付いた。
まず──文字通りバイクが音も無く通り過ぎたこと。タイヤが擦れるわずかな音はあったかもしれないが、肝心のエンジン音がまったく聞こえなかったのだ。エンジンを切って慣性に任せて横切ったという可能性も考えたが、それならば直前まではエンジン音が聞こえていなければならない筈であり、男達は誰一人としてそんな音は確認していなかった。
更にそのバイクはドライバーを含めたすべてが漆黒に包まれており、エンジンやシャフトはおろか、タイヤのホイールすらも漆黒に染め上げられていた。ヘッドライトは無く、本来ナンバープレートがつくはずの部分には、ただ黒い鉄板が掲げられている。街灯と月明かりを反射する部分から、ようやくその物体が二輪車らしいとわかる程度だった。
だが──そんなことよりも遙かに異様だったのは、運転手の漆黒の右手に何か大きな塊がぶら下がっていたという事だ。それは運転手に匹敵するほどの大きさを持ち、細い先端部分から不透明な液体をアスファルトの上に垂らし続けている。
「コジ……?」
男の仲間が、そのぼろ雑巾のような物の正体に気付く。それと同時にバイクに跨ったライダースーツが手を離し、アスファルトの上にそれ──いや、『彼』が仰向けに投げ出された。
それは──その場に遅れて来る筈だった、男達の『仕事仲間』の一人だった。顔面は何かに殴打されたように腫れ上がり、鼻と口からだらだらと血を垂れ流し続けている。
「マジかオイ」
「何だ手前」
異常な不気味さは感じたものの、この時点では誰も恐怖は感じていない。同時に、コジと呼ばれる仲間がやられた事に対する怒りもなかった。その集団はあくまで仕事上での繫がりしかなく、それ以外の仲間意識を持つ者など誰一人として存在しなかった。
「何すか何すか? 何だってんすーかー」
集団で一番頭の軽そうなパーカー姿の男が、バイクの方に一歩近づいた。相手は一人、こちらは五人。数での優位性が青年の生意気な態度を一回りも二回りも成長させる。だが──完全にバイクに近づいた時点で既に一対一に等しい距離関係となっている。そして、それに気が付いているのはバイクに跨った黒い人影だけだった。
「……」
ジュチャリ
嫌な音。とてもとても嫌な音がした。それは単なる不快感というものを通り越して、何らかの『危険』を本能に訴えかける、そんな音だった。
それと同時に、パーカー男はその場にドサリと膝をつく。そして、そのまま顔面からアスファルトに倒れ伏した。
「なっ……」
男達は流石に全身に緊張を走らせ、仕事の最中のように周囲へと緊張を走らせる。その結果として現在確認できる事としては、敵は確かに目の前のバイクのみで、周囲にその他の人影は見当たらない。そして──バイクに跨った『影』は、厚手のブーツを装着した足をゆっくりと地面に下ろした。
下ろす動作は確かに見えた。だが──下ろす動作をしているという事は、直前まで足は高く上げられていたという事だ。そして、視力のいい何人かは更に別の事にも気が付いた。
地面に下ろされるブーツの裏側に、パーカー男のかけていた眼鏡が絡まっている事に。
それらの情報から彼らは即座に事態を吞み込んだ。
──バイクに跨ったまま繰り出された蹴りが、パーカー男を一撃で始末した。
もしもパーカー男の顔面を見ていたら、彼の鼻が捻り折られている事に気が付いただろう。つまりバイクに乗った『影』は、男を蹴り飛ばさないギリギリの距離で蹴りを出し、靴の裏の凹凸に鼻を引っ掛けて捻り折ったのだ。
だが、はたから見ていた男達にはそれが分かろう筈もなく、どうして蹴られたのに前のめりに倒れるのかを疑問に思っている人間が半分、そして、何も考えずに腰から警棒やスタンガンを取り出す者が半分だった。
「今の……どういう体勢? え、あれ? だって……どうやった……?」
混乱する男の脇をすり抜け、仕事仲間の二人が怒声をあげながらバイクの方に向かって行く。
「あ、おい」
声をかけようとする男の目の前で、『影』は音も無くバイクから降りる。足の下に眼鏡の割れる音を響かせながら、何の表情も声も無いままこちらに軽やかに歩み寄ってくる。その動きは実に優雅で、本当に何かの『影』が人型に膨らんでいるかのような印象を与える。
そこからはまるでスローモーションのように、はっきりとチンピラ青年の記憶に刻まれる事となる。あまりにも異常な光景だった為か、あるいは己の身に危険を感じて集中力が飛躍的に増してしまったのかもしれない。
仲間の一人がスタンガンを『影』に押し付ける。
──あれ、革ジャンって電気通すんだっけ通さないんだっけ。
男がそんな事を考えている間に、『影』の全身がビクリと震える。どうやら電気は通ったようだ。これで御終いだ。
安心して更にスタンガンを押し付けるが、次の瞬間、その余裕はあっさりと崩される。
影は全身を激しく震わせたまま、スタンガン男の隣にいた警棒男の腕をガシリと摑む。
「アビャ」
ガクガクと痺れ続ける『影』とは反対に、警棒男は一度だけ激しく身体を震わせ、弾かれるように地面に倒れた。
「てめっ……」
スタンガン男は『影』の手が自分にも迫っているのを確認して、慌てて手の中のスタンガンのスイッチを切る。だが、結局事態は好転せぬまま、『影』の手首によって首を強く摑まれる。
慌てて手足をバタつかせるが、『影』は一向にその力を緩めない。足が『影』の脛や股間に叩き込まれるが、ヘルメットの奥からは沈黙と闇しか吐き出されない。
「か……くぁ……」
そのまま白目を剝くまで喉を絞められ、スタンガン男は警棒男と同じように崩れ落ちる。
────やばい、なんかようけ解らんけど、とにかくヤバイ。自分が何もしない内に、コジも含めて六人中四人もやられてしまった。情けない云々を語るよりも、目の前の存在の得体の知れなさがチンピラの中に少しずつ恐怖をあわだたせ始める。
「格闘技か何かか?」
チンピラとは対照的に、右側にいる男が冷静な口調で呟いた。
「ガっさん」
その呟きを聞いて、チンピラは縋るようにその名を呼んだ。『仕事仲間』のリーダー格であるガっさんと名乗るその男は、『影』の動向を微動だにせぬままで窺っている。その瞳には強い怯えも無いが、その代わりに余裕も見受けられない。
ガっさんは懐から大型のナイフを取り出すと、そのままブラリと『影』の方に近づいた。そして、警戒しながら『影』に向かって言葉を投げかける。
「なに齧ってるのかぁ知らんが……まあ、刺せば死ぬだろ」
手の中のナイフがグルリと回る。果物ナイフや小刀というレベルではなく、かといって漫画に出てくるような大型の物でもない。柄が丁度掌に治まる程度で、刃渡りもそれと同程度の長さで鋭く輝いている。
「大体、ちょっと何か習ってるからって、素手でどれだけ……あぁあ?」
挑発混じりのその言葉は、『影』の行動によって唐突に遮られた。
『影』は軽く前屈みになり、眼前に転がる二つの物を拾い上げた。それは──先刻までチンピラの仕事仲間が持っていた、特殊警棒とスタンガンだ。
「……」
「……」
右手にはスタンガン。左手には特殊警棒。それは、あまりにも歪な二刀流だった。
ただでさえ異様な静けさを見せていた駐車場の周囲が、一瞬だけ完全な沈黙に包まれる。
その静寂を破ったのは、リーダー格の問いかけるような呟きだった。
「え……噓、アレ? おかしくね? 格闘技で来るんじゃねえの?」
言葉の内容こそおどけた感じだったものの、口から漏れる声質は明らかに不安の色が濃くなっている。とっとと四人がかりで袋叩きにしておけば良かった。そう思いながらも、今更後に引くのもはばかられる。
後ろで見ていたチンピラも、その場から一歩も動かないままだった。これがどこかのギャングだったり警察官だったりするならば、何の躊躇いもなく加勢していた事だろう。いや、そもそも最初の時点で四人で取り囲んでいた筈だ。
だが──今目の前にいるそれは、あまりにも異質過ぎた。その為、いつも通りの反応ができなかった。目の前にいるのは只のライダースーツを纏った人間の筈だ。しかし放たれる雰囲気はあまりにも異様であり、チンピラはまるで周囲一帯が異世界に迷い込んでしまったかのような違和感を感じ続けていた。
チンピラの不安を知ってか知らずか、リーダー格の男は歯を軋ませながら舌を蠢かせる。
「汚ぇだろそりゃよ! お前こっちはナイフ一本なんだぞ! 恥かしくねえのかよ手前!」
理不尽な問いかけにも終始無言のままで、『影』は静かにリーダー格の方に向きなおる。
そして──それは、次の瞬間に明確な形となってチンピラの視界に現れた。
♂♀
《黒バイクに乗ってるのは人間じゃないの》
【じゃあなんなんですか】
[ただのバカだって]
《ドタチンなんかは死神だって言ってる》
【ドタチン?】
《実はね、私も見た事があるの。あの黒バイクが人を追っかけてるところ》
【ドタチンって誰】
[警察とかには言った?]
《なんていうかね、あんなのを持ってる時点で普通じゃないんだけど》
【……スルー? ドタチンって誰!?】
《最初はよく解らなかったんだけど、あいつの身体からね》
【……】
【?】
【甘楽さん? どうしました?】
[落ちたっぽいね]
【ええ!? そんな、どっちの話も中途半端なのに! 身体から何が出てくるの!?】
【そしてドタチンって誰───!】
♂♀
「……?」
チンピラとその上司の前で、『影』は奇妙な動きを見せた。
せっかく手にしたそのスタンガンを、『影』はわざわざバイクのシートの上に置いてしまう。
──やはり二つ同時には武器も使い辛いのだろうか。
チンピラはそう判断したが、次の瞬間には『影』は特殊警棒を両手で握り────
そのままぐにゃりと捻じ曲げてしまった。
「なッ……!」
これには流石に二人とも驚愕の表情を浮かべ、互いの顔を見合わせる。特殊警棒を曲げるなど、一体どんな手品を使ったのかと。『影』の体格は寧ろ細身の部類に入り、とても怪力を発揮できるようには思えなかった。
なんにせよ、こうして『影』はせっかくの得物を自ら手放してしまったのだが──チンピラ達の間には更なる違和感が走り、彼らの思考からますます現実感を奪い去る。
再び素手に戻った『影』に対し、チンピラはフェンス脇に立てかけてあった鉄パイプに手を伸ばす。それを横目で確認しながら、リーダー格も再びナイフを構え始めた。
頰に冷や汗が伝う。その不快な感触だけが、彼らの意識を目の前の現実に繫ぎとめている。
「何だそりゃ……脅しのつもりか?」
リーダー格は、捻られた警棒を見ながら、なおも軽口を叩くが──汗の一滴が口内に伝い、そのままゴクリと吞み込んでしまう。チンピラの方はそれを確認する余裕も無く、鉄パイプを握って無言のまま息を荒くする。呼吸の乱れは次第に大きくなり、やがてチンピラは自らの足が、背が、顎がガクガクと震えている事に気付く。どうやら、今の仰々しいパフォーマンスは『脅し』として充分に機能していたようだ。
その様子を近くで確認するかのように、『影』はこちらに向かって静かに歩を進め始める。
「結局素手か、その度胸だけは褒めてやろう」
怯えるチンピラと逆に、リーダー格は今ので覚悟を決めたようだ。目を鋭く光らせ、手にしたナイフを持って『影』へと身体を近づけていく。
距離にして3メートル。あと二歩でナイフが届く距離になる。
──ガっさんは刺す時は刺せる人だ。
それを知っているチンピラは、リーダーを援護しようと鉄パイプを持って後に続く。
ナイフ使いが一歩踏み出し、彼の敵意がはっきりと殺意に変わる。最大限の殺意を持って相手を一刺し。彼はそれができる男だという事を知っているから、チンピラは安心してサポートに回る事ができる。殺人に関する禁忌感など今更湧かないし、そもそも目の前の非現実的な『影』に対し、人を殺すという意識が働いていなかったのかもしれない。
仲間の放つ殺意に勝算を見出したチンピラは、自らもまた鉄パイプを握る手に力を籠める。
だが──次の瞬間には、チンピラ達の勝算は殺意ごと吹き飛ばされる。
『影』が背中に手を回したかと思うと、次の瞬間にはその黒い身体の一部が膨れ上がった。
それはまるで、『影』から噴出した墨色の煙が、意思を持って蠢いているような印象だった。黒い『影』の黒い手袋の中で、やはり黒い塊が蛇のようにのたうち回っている。
墨汁をつけた筆を突っ込んだバケツの水のように、空気中に黒い流れが不気味な鮮やかさを演出する。やがてその動きが収束し──意味のある漆黒を造り上げようとする。
その様子に目を見開いた二人は、街灯と立体駐車場の灯りの中で、いよいよ相手が人間ではないという証拠に気付いた。気が付いてしまった。
『影』の身体から黒い塊が分離する瞬間に、その身体から黒い水蒸気のような物が立ち込めている事に。まるで黒革のライダースーツが空気中に溶け出しているようで、そのためヘルメット以外の部分が灯りの中で滲むようにぼやけて見えた。
いよいよ彼らの知る現実から隔離されたこの状況で、チンピラ達の脳味噌はますます混乱する。もはや逃げる事も出来ないまま、身体は直前までの指令を忠実にこなそうとするのみだ。ナイフを持ったリーダーは悪夢の中にいるような表情のままで、眼前の『影』に対してナイフを引いた。一瞬の溜めを挟んで、そのまま『影』の腹部めがけてバネの様にナイフを突き出したのだが────
その刃は『影』の身体には届かず、ナイフを握る腕に鈍い衝撃が走った。取り落としはしなかったものの、体勢がゆらいで決定的な隙を作ってしまった。
「!?」
ナイフの刃にぶつかった黒く鋭い塊が、闇の中におぼろげな姿を現した。
それはただひたすらに黒く。どこまでも何よりも深い闇。周囲の光を全て吸い取って、まるで生き物のように蠢いている。その黒いうねりが造りあげたものは、この日本の近代的な街の中で、恐ろしいほどに歪な存在であった。
だが、ライダースーツの『影』が持った途端に、それは奇妙な違和感と共に周囲の風景に馴染んでいく。
『影』の手の中に現れた物は、夜の中になおも暗く沈みこみ、見る者全てに圧倒的な『死』を連想させる。
──それは、『影』自身の身長と匹敵する程の──巨大な諸刃の鎌だった。
♂♀
──甘楽さんが入室されました──
《落ちてたよー。っていうか何か今日接続悪いからそろそろ寝ますー》
[おやすー]
【話の続きは? ドタチンって……】
《今度話しますよー。ふふう、最後に一つだけ》
♂♀
そして──チンピラはいよいよ追い詰められていた。
立体駐車場の中で、既に逃げ場は無い。
あの後リーダーがどうなったのかは解らない。あの現実離れした光景を見た後で、そんな事を気にかけられるほど豪胆な男ではなかった。だが、先刻見せたあの巨大な鎌の姿が見当たらない。やはりあの光景は幻だったのではないかという思いがよぎるが、その結果がどちらであろうとも今の状況に全く無価値である事に気付き、すぐに頭の中から打ち消した。
首筋に叩き込まれた強烈な蹴り。何かが千切れたような音がしたが、どうやら骨に異常はないようだ。だが──まるで極度の肩こりを一箇所に集中させたかのような痛みが、首の付け根の辺りからジンジンと響き続けている。
だが、今のチンピラにとってそんな事は些事に過ぎない。
「あの、あの、ちょっと待ってくださいちょっ……ちょっと……ちょっとととと、ま、ま待ってくださいよ」
自分の口から吐き出されたのは、負け犬の用いるような敬語であった。
今、自分の身に起きている事態は理解できた。正直言ってまだ夢を見ているような不安的な感覚はあるが、本能的な恐怖が彼の意思をすんでのところで覚醒させ続ける。
だが──理由が解らない。この『影』が何者であり、どうして自分がこんな目に遭わなければならないというのか。
一番可能性が高いのは『仕事』に関してだ。確かに自分の行っている仕事は危険が伴うし、敵を作る可能性も大いにありえる。だが、その『敵』は警察や暴力団、あるいは仕事のターゲットである、不法入国者や家出して来たガキどもだ。
その覚悟はしてきた筈だし、そうならないように充分注意を払って仕事をして来た筈だ。だが、目の前にいるライダースーツの『影』については全くの想定外であり、一体どう対応していいのか全く解らなかった。最良の手段と思われた逃亡という手段もあっさりと封じられて、チンピラはいよいよ四方を塞がれる状態に陥った。
もはやチンピラには玉砕か降伏の道しか思いつかないのだが、相手の意図が解らぬ以上はどちらの道も選びようがない。如何なる取っ掛かりでも構わないとばかりに、チンピラは思いつく限りの卑屈な態度で声を絞り出す。あるいは、声でも出さねば恐怖に支配されるとでも考えたのかもしれない。
「ちょッ……人違いです、俺は何もしてません許してくださいごめんなさいごめんなさい」
まるで突然ヤクザに銃を突きつけられたかのように、ただ全身に鳥肌をたてながらペコペコと謝り続ける。
外見にそぐわぬ対応を見せるチンピラに対し、『影』は無言のままで立ち続ける。何かを探しているような素振りを見せたかと思うと──急にチンピラに背を向けて、駐車場の中にある一台のワゴンに向けて歩き始めた。
それは夜の間は池袋の駅前をよく走っているタイプの車で、後部座席の窓には黒硝子がはめ込まれ、外側から内部の様子が窺い知れないようになっている。
『影』は、まるでその黒い鏡面の奥を見透かすかのように、何かの確信を持った足取りでワゴン車へと近づいていく。
──あ? ────えぁ!? やばい!
それは、まさしくチンピラが『仕事』に使う車だった。相手の意図は解らないが、確かにこの『影』は自分達を狙って来たという事になる。しかも、他に数台の車があるのにも関わらず、何の迷いもなく自分達の車へと向かっているではないか。
──おい、ちょっと待て、それはヤバイ、それはヤバイ!
先の読めない『影』の行動に、チンピラは一瞬で頭を冷やされる。それまでは常に眼前の『影』に対する恐怖に満ち溢れていたが、さらにその下から、全く別のものに対する恐怖が湧きあがって来たのだ。
──あああ、ああ、あああ、ちょっと待てちょっと待てまてまてマテマテ! あの……あのワゴンの中身を見られたら俺達はオシマイだ。おいヤバイぞマジでどうするどうするヤバイぞヤバイぞヤバイヤバイヤバイヤバイ────なんなんだよ、本当にこいつなんなんだよ!
チンピラの頭の中で、二つの恐怖がせめぎ合う。
眼前の現実離れした恐怖と、もう一方は酷く現実的な恐怖。
──あのワゴンの中が見られたら、警察はまだしも、ヘタすりゃ始末されちまう!
富士の樹海に他殺死体となって埋められている自分の姿を想像し、チンピラは足を一層ガクガクと震わせた。
──何か、何かねえか、あの仮面ライダー気取りをぶっ殺す何か──
『影』に対する恐怖を歪んだ形で克服したチンピラは、必死になって状況を打開する策を探し始める。
そして彼の目に映ったものは──この立体駐車場に集まる為に乗って来た、自らの所有する一台のオープンカーだった。
目的であるワゴン車まであと10メートルというところで、『影』は静かに立ち止まった。
背後から微かに聞こえて来た、車のドアを開閉する音。それに気付いて振り返るのと同時に、激しいエンジン音が立体駐車場に響き渡る。
「……」
完全に振り返った『影』は、真っ赤なオープンカーが自分に向かって迫って来るのを確認した。車は想像以上の加速を見せ、『影』が柱の影に隠れるような時間を与えない。
『影』は一瞬躊躇った後、自分の向かっていたワゴン車とは反対の方向に駆ける事にした。
直前までひきつけてから横に飛ぶつもりだったのだが、恐怖に駆られたチンピラの集中力はその瞬間を見逃さない。『影』の足が僅かに屈められた瞬間、チンピラも一気にハンドルを切った。
衝突音。
そして、『影』が歪に宙を舞う。
ドサリという音と共に、『影』はコンクリートの上に無様に転がった。
「おおぉぉおおおお! ザマぁぁぁぁッ! ざまぁーみろ! ざまみろざまみろこん畜生!」
チンピラは車全体に走った衝撃に心地よい快感を覚えながら、急速に車の速度を落とす。完全に停車するのを待たずに運転席から飛び出すと、とどめを刺さんと鉄パイプを持って駆け出したのだが────
「!?」
地面に横たわる『影』よりも遙か手前に、黒い塊が転がっているのが見える。
特徴的なデザインのそれは間違えよう筈もなく、つい先刻まで『影』が被っていたフルフェイスのヘルメットだ。
しかしチンピラが驚いたのはそんな事ではなく──そのヘルメットが乗せられていたはずの『影』の身体を見た時だ。
「くッ……首……」
その身体には、本来首がある筈の場所に何もついていなかったのだ。
──撥ねた衝撃で!? 馬鹿な 噓だ 殺人 俺が 正当防衛
でも いや なんで ちょっと待てよ ちょっと ちょっと待てよ
次々と襲いくる異常な状況。チンピラの脳は混乱の極みに達しようとしていた。
その為、彼は気が付く事はなかった。
首が取れた筈のその身体から、血の一滴たりとも流れてはいないという事に。
♂♀
《黒バイクに乗ってる男にはね────首から上が無いの》
♂♀
チンピラが恐る恐る首の無い身体に近づいて行くと──
なんの前触れも無く、頭部を失った『影』が跳ね起きた。
♂♀
《首がね、綺麗になくなってるのに動いてるんだって》
《じゃ、おやすみなさーい》
──甘楽さんが退室されました──
♂♀
「うぉぁあッッッ!?」
突然舞い降りた最悪の光景に、チンピラは恐怖よりも先に純粋な驚愕を感じていた。
トリック? 着ぐるみ? ロボット?
仮装大賞? ホログラム?
夢? 幻? 妄想? 詐欺?
様々な単語が脳内に浮かぶが、深く考える前に泡の様に消えていく。
本当に驚愕すべきは、車に撥ねられたにも関わらずに何ら傷を負っている様子がない事なのだが、チンピラにはもはやそれに気付く余裕などあろう筈もなかった。
そして──『影』の背中から先刻と同じように黒い霧が染み出し始め、それはやがて巨大な鎌へと変貌を遂げていった。
驚愕が恐怖にシフトを始め、チンピラはいよいよ絶望に塗れた悲鳴をあげようとする。
最初の息が漏れ出すのと同時に、チンピラの喉に鋭い衝撃が走り────
チンピラの知覚しうる、全ての世界が暗転した。
♂♀
内緒モード【あの、セットンさん。ちょっと確認しておきたい事が】
内緒モード[はいはい]
内緒モード[何でしょ? 他人に見られちゃまずい話ですか]
内緒モード【甘楽さんて、結構アイタタタな人?】
内緒モード[結構どころじゃないんじゃないかと]
内緒モード【いやいやいやw でも、このチャットルームも甘楽さんに誘われて来たわけで】
内緒モード[私もですよ。調子いい人なんですけど、憎めない人ですしね]
内緒モード【それに、私達の知らない事を色々知ってますからね】
内緒モード[どこまで本当か解りませんけど。あ、でも私からも一つだけ]
内緒モード[黒バイクが町を彷徨ってるって話なんですけど]
内緒モード[あまり関わらない方がいいですよー]
内緒モード[じゃ、おやすー]
──セットンさんが退室されました──
内緒モード【え】
内緒モード【ありゃ、帰っちゃった。おやすみなさいませー】
内緒モード【まあいいや】
──田中太郎さんが退室されました──
♂♀
首無しライダーは静かにヘルメットを拾い上げると、暗い色が覗く頸部に押さえつける。襟の部分から僅かに影が滲んだかと思うと、まるでヘルメットの下部と融合するかのように染み込んでいく。
やがて何事も無かったかのように身を翻すと、首無しライダーはワゴン車の方に音も無く歩み寄って行った。
駐車場の入口──己の用事を済ませた首無しライダーは、静かにその場を後にする。路上では数人の男が横たわったままで、どうやら周囲に誰も通りかからなかったようだ。あるいは、見て見ぬふりをしたのかもしれない。
闇の中を佇む漆黒のオートバイが、まるで主人を出迎えるかのようにエンジンを震わせる。走行中ですら鳴らなかったエンジンの音が、キーも差していない状態で自ら鳴り響いた。
首無しライダーはその様子を見て、まるで愛馬を愛でるようにエンジンタンクをなでる。それに満足したかのようにエンジン音が静まり、首無しライダーは静かにシートに跨った。
そして、ヘッドライトの無い漆黒の塊が、首の無い主人を乗せて走り出す。
星の見えぬ空の下。
音も無く、まるで闇の中に溶け込むように────