#01 夕陽とやすみは隠しきれない?
第?回 ~夕陽とやすみはかくしきれない?~
「……あー、あんたとラジオやるの、ぜんぜん慣れないわ」
「……そうね。わたしもそう思うわ。ぜんぜん慣れない」
「だいたいさぁ、根暗な渡辺と夕暮夕陽でキャラが違いすぎるんだって。『そんなことないよぅ』なんてよく言えるね。ふわふわーっとしたしゃべりを聞くたびに、ぞわっとするんだけど」
「それはお互い様でしょうに。どうして佐藤みたいな頭の悪そうなギャルから、歌種やすみの元気でかわいい声が出るのよ。ちょっとしたホラーなんだけど」
「は? それを言ったら……、ん? はぁー、へぇー? ふーん?」
「……なによ、気持ちの悪い声を出して」
「あたしみたいなギャルから、歌種やすみの元気でかわいい声が出るのがホラーだって?」
「そう言ってるんだけど?」
「あたしの声は、元気でかわいい?」
「──。言ってないわ。そんなこと。断じて。あぁ、かわい子ぶってるって言ったんだけど、聞こえなかったかしら。都合よく解釈したいなら、お好きにどうぞ」
「こいつ……。最初の挨拶で噛んでリテイク入れたくせに、随分はしゃぐじゃない」
「っ。あなたそれ本当にいい加減にしなさいよ。人がミスしたあとに『その挨拶も慣れてきたね』って、よくもそんな性悪な嫌味を入れられるわね。普段はあなたの方がミスだらけなのに」
「今あたしの話関係ないから。渡辺の話だから。あと普段もそんなにミスしてないんで。人に押し付ける前にちゃんと反省したら?」
「出たわ。あなたのそういうところ、本当に嫌い。自分のことは棚に上げるくせに人のミスばかりグチグチと。あぁもう、なんであなたみたいな野蛮人とラジオをやってるのかしら」
「それはこっちのセリフだっつーの。根暗丸出しの女といっしょにラジオだなんて、あたしだけ難易度高すぎなんだけど。だいたいさぁ……!」
「……ふたりとも、盛り上がってるところ悪いけど。もう再開するって。えー、三、二、一」
「はぁい! というわけで~、今回は新コーナーがあります~。やっちゃん、説明をどうぞ!」
「はーい! 任せて! ええとですね、今回やすみたちが挑むのは! なんと……!」
人間、どうしたって合わない相手はいるものだ。
そりが合わない。気に喰わない。相容れない。見ているだけで腹が立つ。
プライベートなら近付かなければいいけれど、仕事となるとそうはいかない。
ましてやそれが、ラジオのパーソナリティ同士なら。
合わない相手であっても、それをリスナーに気付かれてはいけない。
そんな相性の悪い相手と、ラジオ番組をやっていくとして。
果たして、どこまで耐えられるものでしょうか──。
◆
佐藤由美子はギャルである。
「んー……、よし」
メイクを確認したあと、ぱちんとコンパクトミラーを閉じた。
今日もばっちり、と頷く。
アイロンをかけた髪はゆるく巻かれ、長さは背中に届く程度。顔には化粧をしっかり乗せて、つけまつ毛は長さ重視のストレートタイプ。耳たぶには銀色の飾りが光っていた。
ブラウスのボタンをふたつ開けて、ハートのネックレスを覗かせる。
キャラメル色のカーディガンを着込み、スカートの長さは限界まで短く。
これが由美子の、学校で過ごすときの格好だ。楽しい学校生活を送る高校二年生。
教室ではいつもだれかと話し、明るく笑っている。
「ねー、由美子。今週の土日、どこか行かない?」
「うん? 若菜、バイトないの?」
「そなのー。暇なのー。ね、どう? 服とか見てさー、遊ぼうよぉ」
今だってそう。クラスメイトの川岸若菜に、前の席から話しかけられている。若菜はにへへ、と気の抜けた笑みを浮かべ、つられて由美子も頬を緩める。
遊びの誘いは大歓迎だ。しかし。
「……あー、ごめん。店の手伝い入るかも」
「あ、そうだったね。お母さんとこのスナック、今も人足りないの?」
「そうそう。当日、急に手伝って、って言われることもあるからさ」
「大変だねえ。んー、じゃあ、土曜日に空いてたら行こっか」
若菜はにっこり笑い、穏やかに言う。良心がじくりと痛んだ。
さっきの言葉は半分本当で半分噓だ。
急に行けなくなるかもしれない。それは本当だが、店の手伝いではない。
親友である若菜にも秘密の仕事を、由美子はしている。
それは、前日だろうが当日だろうが、するりとスケジュールが埋まる仕事だった。
「えー、なになに。どっか行くの?」
「土日? 遊びに行くなら連れてってよー」
周りにクラスメイトが集まってくる。
彼女たちの声に紛れ込ませるように、そっと息を吐いた。
「ん? 由美子、もう帰るの?」
「あぁうん、ちょっと用事があるから。また明日ね」
若菜に別れを告げて、由美子は学校をあとにする。
鼻歌交じりで駅に向かい、そのまま電車に飛び乗った。
今日は仕事があるのだ。
だからこうして張り切っていたのだが……。
「……早く着きすぎちゃったな、こりゃ」
時計を見て、思う。新人は余裕を持って現場に到着しなさい、なんて口酸っぱく言われるが、さすがに早すぎだ。予定の時間まで二時間以上ある。仕方なく、ファミレスで時間をつぶす。
テーブル席に座ってドリンクバーを注文し、ミルクティーで一息。
「……よし」
メイク直しを終わらせてから、スマホを取り出す。
差しっぱなしだったイヤホンを耳に着け、手早く操作した。少し前に、新しい動画が投稿されたのを見つける。既に再生数とコメント数がすごいことになっていた。
「おー……、さすが」
感嘆の声を上げて、再生ボタンをタップする。
『桜並木乙女のまるでお花見するように』
人気女性声優のラジオ動画番組だ。
桜並木乙女。二十一歳。声優事務所トリニティ所属。華のある容姿と魅力的な声帯、それに確かな演技力を持つ女性声優だ。
番組ではコメントが絶え間なく流れ、盛り上がっているのが見て取れた。
普段は乙女がひとりでトークを展開している。しかし、この回は違う。
彼女は手をいっぱいに広げ、明るくこう言った。
『それでは、今日のゲストをご紹介します! 歌種やすみちゃんです、どうぞ!』
『あ、どうも、こんばんは! う、歌種やすみです!』
乙女の隣にやってきたのは、いかにも新人の女性声優だ。
大きくて澄んだ瞳は落ち着きなく動き、やわらかそうなほっぺたは強張っている。背中に届くさらりとした髪は、さっきから忙しなく撫でられていた。
「……んふ」
ついにやけてしまい、慌てて口元を手で隠す。歌種やすみが登場すると、『かわいい』『かわいい子きた』『めっちゃ緊張してるのかわいい』といったコメントが流れ始めたのだ。
しかし、次に流れてきた多くの『だれ?』というコメントに肩を落とす。
「む……、いや、まぁ。そうだよね……」
仕方ない、と無理矢理に納得するものの、ため息が漏れてしまう。
遅れて、『プラガのマリーゴールド』『マリーゴールドちゃん』『プラガの子かぁ』とやすみを特定するコメントも流れた。
そうそう。プラスチックガールズのマリーゴールド役、歌種やすみだぞ、と心の中で呟く。……それ以外のキャラ名が出ないのは、悲しくはあるけれど。
「ううー……。知名度が欲しい……」
机に突っ伏し、小声で呻く。ハートのネックレスが、テーブルに当たってかつんと音を立てた。のろのろと外して小物入れに仕舞う。
代わりに鞄からカバー付きの本を取り出した。
『にゃんこ部!』
深夜に流れるショートアニメの台本だ。ぺらりと開くと、出演者の欄には『にゃむにゃむ役:歌種やすみ』と書かれていた。
歌種やすみのセリフには、すべてマーカーが引かれている。
そう、佐藤由美子は声優である。
芸名、歌種やすみ。芸能事務所チョコブラウニー所属。デビュー作は『プラスチックガールズ』のマリーゴールド。芸歴は三年目に入った──まだ、新人声優だ。
今日は、『にゃんこ部!』のアフレコの仕事がある。
久しぶりのアニメだから、と気合を入れたが、少なめのセリフはすぐ頭に入ってしまった。電車の中でも台本を読んだし、家でも散々練習した。今更復習するところもない。
かといって、別作品の仕事があるわけでもない。
「オーディション、受かればなぁ……」
色んなオーディションに行っては落ちてを繰り返している。『にゃんこ部!』はようやくもぎとった仕事だけれど、出番はこれきりで次はなかった。
「……結局、がんばるしかないんだろうけどさ」
呻いたところで仕事は増えない。唇を尖らせ、スマホに視線を戻す。
動画では差し入れのお菓子が投入されるところだった。
『わぁー! おいしいですねぇ、このクッキー! 幸せ~……』
画面の中のやすみがお菓子を食べて、顔をほころばせていた。
ぱたぱたと手を動かし、明るく笑い、感情を力いっぱい表現するやすみに対し『かわいい』のコメントが次々に流れていく。
……やった、嬉しい。
そう思う反面、騙していて申し訳ない、という気持ちにもなる。
歌種やすみは、佐藤由美子のアイドル声優としての顔だ。普段なら、「幸せ~……」なんて絶対に言わない。可愛らしい仕草だってしない。仕事のためにかわいい女の子を演じている。
歌種やすみと佐藤由美子は真逆の人物だ。
騙している自覚はある。罪悪感もある。けれど、仕方がなかった。ギャルの新人声優では人気は出ない。今の自分に求められているのは、きっと初々しさや清純さだからだ。
しかし、自分を偽ってキャラを作っても、歌種やすみの知名度はそれほどない。
このラジオに呼んでもらえたのも、乙女と仲が良い後輩声優だからだ。
番組が終わりに近付くと、『俺この子応援するわ』『やすみちゃんのファンになります』『ツイッターフォローしよ』なんてコメントが流れるのが見えた。乙女には頭が上がらない。
「姉さーん。ありがとー」
画面内の彼女に両手を合わせる。そうしてから、よし、と立ち上がった。
収録がんばるぞ。
スタジオから出て空を見上げると、すっかり夜になっていた。
春の夜風は少し肌寒く、無意識に腕を擦る。
「よっと」
小物入れを取り出し、外していたネックレスを付け直した。
収録中は、音が鳴るものは身に付けない。マイクにノイズが乗れば録り直しになるからだ。音を立てずに台本のページを捲るのも、今では慣れたものだった。
遅い時間になったが、収録にはそれほど時間は掛かっていない。
音響監督からの説明。
一回通しでのテスト収録。
微調整をしてからの、本番の収録。
ミスした箇所や、演出意図の異なる部分の細かいリテイク。
それだけやっても、雑談の時間の方が長かったくらいだ。もっと演りたかったな。
「けどまぁ……、こんなものなのかな……、ん?」
駅の方からやってくる、ひとりの女の子に目が留まった。
由美子と同じ高校の制服だ。
オフィス街の中で、制服姿は自分と彼女だけ。
すれ違いざま、そちらに視線が吸い寄せられる。
けれど、彼女の目は由美子を捉えることなく、そのまま歩いて行った。由美子が来た道をなぞるように進んでいく。
由美子はつい足を止めて、振り返った。
「あの子、こんなところで何やってんだろ」
学生服でひとり、夜のオフィス街を歩く理由がわからない。いやまぁ。それは自分にも当てはまるのだけど。
……まぁいっか。由美子は再び、駅に向かって歩き始める。
──そう。この時点では、全く気が付いていなかった。
彼女がある意味で、運命の相手であることを。
朝の通学路。由美子はカーディガンのポケットに手を突っ込み、のんびり歩いていた。
信号が赤になったのを確認してから、スマホを取り出す。
「メールは……、来てないよねぇ……」
仕事の連絡はなく、自然とため息が漏れた。
オーディションに合格すれば事務所から連絡が来るため、何度もスマホの確認をしてしまう。けれどここ最近、さっぱり受からない。
「やー……、この前のは自信があったんだけどなぁ」
虚しく呟き、青信号になったので歩き出す。その瞬間である。
「ひゃうっ!?」
後ろから突然抱き着かれ、変な声が飛び出した。
「おっはよぉーん」という緩い声が聞こえ、身体から力が抜けていく。
「……おはよ。若菜、あんた朝から元気ね」
挨拶を返すと、若菜はにへへと笑った。
川岸若菜。彼女とは高校からの友人だが、妙に馬が合う。
彼女のスカートは由美子と同じくらい短く、メイクもしっかり乗っている。手入れが行き届いた長い髪は、今日も綺麗だ。
手にはスタバのカップ。それをこくり、と飲んでから、こちらを覗き込んでくる。
「どしたん、由美子。今日、なんか元気ないね」
どきりとする。顔には出ていないと思ったが、若菜にはお見通しだったらしい。
聞いてもらいたい。相談に乗ってもらいたい。きっと話せば楽になる。
「うん、まぁちょっとね」
そうは思いつつもごまかした。
若菜はふうん? と言うだけで深くは聞いてこない。
かわりに表情をパッと明るくさせ、腕を組んできた。口元にずい、とカップが差し出される。
「まぁまぁ。じゃあこれを飲みなさいな」
蓋を開けると、キャラメルソースのかかったクリームが見えた。下はホットのカフェラテ。
遠慮なく口に含む。ふわっとした甘みが口の中で溶けて、幸せな気持ちになった。
「ん。おいしい。ありがと、若菜」
「いやいや。こういうときは甘いものが一番ですからな」
若菜はおどけて笑う。そんな彼女に笑みを返しつつ、内心で謝った。
自分が声優であることは、家族と学校以外には話していない。マネージャーから「絶対に口外しないこと」と言われている。芸能活動の許可を得るために学校には話す必要があったが、念を押して口止めした。周りにバレるわけにはいかない。
ただ。
「ん? どしたん」
由美子の視線に気付くと、若菜が首を傾げた。
こちらの事情をすべて話したとしても、きっと彼女なら秘密を守ってくれる。
けれど、それで楽になるのは自分だけだ。
彼女には余計な負担を強いてしまう。それは望むことではなかった。
由美子は手をひらひらさせると、ゆっくりと答える。
「いや。若菜は今日もかわいいなって思っただけ」
「え、ほんと? いやぁ、わたしも同じこと思ってた」
からから笑う若菜を見て、由美子もつられて笑みをこぼした。
教室に入り、自分の席に着く。前の席の若菜は、椅子をくるりと回転させた。
由美子の机に肘を乗せ、真剣な声色で言う。
「次の服装チェック……わたしは今の格好のまま行こうと思うんだけど、由美子はどう思う?」
「絶対止められるし、結構ガチめに怒られると思う。中やん先生チェック厳しいし」
「……スカートも折っちゃダメ?」
「膝下でしょ。顔はドすっぴんね」
「やだぁ、眉毛! 眉毛だけは許して!」
賑やかに話を続け、ほかの生徒が通り掛かれば挨拶を交わす。二年に進級したばかりではあるが、クラスにはすっかり馴染んでいた。
そこに、ひとりの男子生徒が通りかかる。
彼は挨拶を口にせず、若菜の隣の席に腰を下ろした。
「うん? ねぇ、木村。その子だれ? かわいいね」
視線を隣に向けた若菜が、さらりとそんなことを言う。
若菜は彼の下敷きを指差していた。
突然話しかけられた男子──木村は、びくっとして目を白黒させる。
「え、あ、う……、か、かわいいって……、あ、こ、この下敷きの子……?」
木村は若菜と目も合わせず、あたふたとしている。
「そうそう。だれなのかなーって」
「え、ええと……、な、なんて言えばいいかな……」
「んー。あ、アイドル?」
若菜が無邪気に言うと、さっきまでしどろもどろだった木村がぴたりと動きを止めた。
「アイドル?」
ふぅー、と鼻から息を吐く。
やれやれ、と言わんばかりに演技がかった手振りをし、熱っぽく答えた。
「アイドル……、そうだね、そういう側面も大いに含んでいる。けれど、彼女はそれに留まらないんだ。アイドルでありながら声優! そうアイドル声優と呼ばれている存在だ! 彼女の何が素晴らしいかと言うと今や世界に誇る日本のアニメ文化を支える文化人として活躍していておっと話が逸れちゃうなまぁでもここは間違えてほしくはないんだけど彼女たちは……」
へたくそか?
異様な早口で捲し立てる木村を見て、心の中でおいおい、と突っ込む。女子から「この子かわいいけどだれ?」と訊かれて、その答え方はまるきりダメなお手本だ。そういうとこやぞ。
「え、あ、ん、んん?」
案の定、若菜は戸惑いの表情を浮かべた。一方、由美子はさして驚かない。
木村がオタクなのは前から気付いていたからだ。
ちらりと木村の鞄に目を向けると、アニメキャラのラバーストラップが見える。
あれは『プラスチックガールズ』の『アジアンタム』だ。
プラスチックガールズ。通称プラガ。
二年前に放送された深夜アニメで、たくさんの新人女性声優が投入されている。この作品への出演から、由美子のアイドル声優としての人生が始まった。
イベントや特番が多く、ライブだってやったことがある。とても思い出深い作品だ。
……それだけに、木村のラバストが自分の演じたマリーゴールドではなく、アジアンタムなのは悔しいけれど。
「いやいや言いたいことはわかるよ作品に声を吹き込む声優という職業に対してアイドル扱いをするのはどうかってことなんだけどでもまぁ待ってほしいんだそもそもコンテンツに縛られること自体がこの時代にはナンセンスだしあらゆる視点からもっと彼女たちをだね……」
「めっちゃ語るじゃん」
なおも語り続ける木村に対し、若菜はけらけら笑っている。若菜が楽しそうで何より。
木村はアニメグッズをよく持ち込んでいるが、中には女性声優のグッズもあった。今回は下敷きで、それがたまたま若菜の目に留まったのだろう。
その結果、こんなことになっているけど。このままでは埓が明かないので、一言投げ込む。
「あー。とりあえず、その子は声優なんでしょ?」
まさか由美子に突っ込まれるとは思っていなかったようで、木村に急ブレーキが掛かった。
「ま、まぁそうだね……、うん、はい」
「へぇー、声優! わたしジブリなら結構観るよ。あとは金曜ロードショーでやってるやつとか。その声優さんは何に出てるの?」
フランクに問いかける若菜に、木村は再び固まった。うん。これは答えづらい。
「え、えぇとあの……、い、『異世界から戻った妹が最強の勇者になっていた』とか……」
なんでそんなあからさまなタイトルを言うかな!
「え? いも……、なんて? なんだか長いタイトルだねぇ。ごめん、もっかい言って?」
若菜は困ったように笑い、木村の顔には汗が流れるのが見えた。いたたまれない。
若菜に悪気はないし、木村にだって悪意はない。ただ単に、質問の内容が悪いだけだ。
……いや、木村の回答も悪いかも。ほかにもっとあっただろ。
「……えーと、若菜。多分、深夜アニメとかに出てる声優だから、若菜は知らないんじゃない?」
思わず助け舟を出す。
相手がアイドル声優なら、若菜の言うアニメとは方向性が違う。
木村は何も言わない。代わりに、『へぇ。意外とわかってんじゃんこいつ』みたいな目を向けてきたので無視した。そういう目が一番嫌われることを自覚してほしい。
若菜は意外そうに目を見張る。
「え、由美子ってアニメ好きだっけ? 声優さんとか詳しいの?」
「ん……、いや、まぁ、うん。ほら、スナックのお客さんで好きな人がいてさ……」
「あぁ、お客さん繋がりかぁ。じゃあ由美子ならわかるかな? ねぇ木村。その声優さんってなんて名前なの?」
再び若菜が問いかけると、彼はふふん、と自慢げに鼻を鳴らす。
下敷きをこちらに見せながら、まるで自らの功績を語るように口を開いた。
「この人は夕暮夕陽。通称、『夕姫』。まだ二年目だけど、今人気上昇中の声優だよ。僕はメジャーどころより、こういうちょっとマイナーな人の方が好きなんだよね」
──なんと。由美子は慌てて、その下敷きを凝視する。
確かに下敷きには、見たことのある少女が写っていた。
彼女の顔立ちはとても可愛らしく、明るい印象を与える。
目はぱっちり開き、唇には気持ちのいい笑み。アイドルっぽい衣装に身を包んでいて、綺麗な脚が目を惹いた。代わりに胸の膨らみは薄いが、この美脚の前には些細なことだろう。
彼女の名前は、夕暮夕陽。もちろん知っている。
由美子と同じ高校二年生のアイドル声優だ。
「むぅ……」
下敷きをまじまじと見つめてしまう。これには見覚えがあった。声優雑誌の付録だ。
確かライブに出たときの衣装だったか……、あぁ、くそ。かわいいなぁ。いいなぁ。そりゃ人気も出るよなぁ……。
「どしたん、由美子。そんな睨んじゃって」
若菜の声にはっとする。熱い視線を送りすぎたらしい。
「ん。や、綺麗な顔だな、って思っただけ」
軽く手を振ってごまかす。
夕暮夕陽は出演作を着実に増やす、勢いのある新人だ。
鈴のような綺麗な声色を持ち、演技はもちろん歌も上手い。
歳は変わらないが、由美子とはかなりの差がついている。だから意識してしまう。比べてしまう。羨ましい、と思ってしまう。
当然ながら、そんな羨望に若菜は気付かない。
「ねー、美人さんだよね。木村、ちょっと下敷き貸して? もっとよく見たい」
「え? あ、あぁ、はい……、ど、どうぞ」
若菜が下敷きを受け取ろうとすると、木村の手に若菜の指が軽く触れた。
「あ、あふっ! ご、ごめんっ!」
木村が妙な声を上げ、勢い良く手を引っ込める。そのせいで下敷きが手からこぼれ落ちた。
「あ、ごめん。落としちゃった」
「あ、あぁ、ご、ごめんごめんごめん……。さ、触……、いや、ちょっと焦って……」
「いや、そんな謝らんでも」
木村の焦りっぷりに苦笑しつつ、若菜は下敷きを拾い上げようとした。椅子に座ったまま身体を乗り出し、床に手を伸ばす。
「でもさー、この子ってこれだけかわいいのにマイナーなんでしょ? どして? あんまり演技は上手くないとか?」
若菜の口から、そんな言葉がつるりと滑り落ちる。
「いやいや若菜、違う違う。木村が言うマイナーって、超人気声優に比べるとってだけで、知名度も人気も普通にあるよ。演技が上手くてかわいいから、下敷きになるほど人気なの」
「──へ?」
「……あ」
由美子の突然の擁護に、若菜はきょとんとした目を向けてきた。はっとして口を押さえる。
慌てて言い訳しようとしたところで──、どん、と音が鳴った。
「わっとと、ごめん!」
若菜が身を乗り出したせいで、ちょうど通りかかった人とぶつかってしまった。
「──とっとと、あぶな……っ、あっ!」
若菜は体勢を戻そうとして、身体を机にぶつけてしまう。
その拍子に机の上から、カフェラテ入りのカップが床に落ちていった。
床にカフェラテがぶちまけられる。
下敷きはもちろん、ぶつかった相手の上靴までかかり、若菜は慌てて立ち上がった。
「あ、あぁ、ご、ごめんね! 上靴汚しちゃった……! す、すぐ拭くから!」
「あぁもう、若菜。ティッシュあるから、ハンカチじゃなくてこれ使いな」
あたふたする若菜、おろおろするだけの木村を尻目に、由美子も床の掃除に加わる。
そこで気付く。若菜にぶつかられ、カフェラテを掛けられたその人は、一言も発していない。立ち止まったまま、何も言わないのだ。
不審に思い、由美子は彼女の姿をしっかりと見た。
「……ん。あのときの」
由美子は小声で呟く。
このあいだ、収録帰りに見掛けたクラスメイトだ。
暗い印象を与える少女だった。下を向いているから、余計そう思う。
頭の丸みが綺麗で、ショートボブがよく似合っている。けれど、前髪の長さが魅力を相殺していた。前髪で目が見えづらい。小柄で身体は細く、胸も薄い。ブレザーの下に白いカーディガンを着込んでいて、スカートは長めだ。
暗くて地味で、とにかく印象が薄い。クラスメイトなのに名前も思い出せなかった。
由美子は、一度話した相手の顔と名前はそうは忘れない。彼女とは一度も話したことがなかった。それどころか、彼女が人と話しているところを見たことがない。
「汚れ、残っちゃうかな……、本当ごめんね。ええと……、なにさんだっけ……?」
若菜は気が動転しているせいか、何気に失礼なことを口にしていた。
彼女は若菜にじろりと目を向け、そこで初めて口を開く。
「……渡辺。渡辺千佳」
見た目に反比例するような、綺麗で透き通った声だった。
「あ、あぁ、渡辺さん。ごめんね、今拭くから……」
かがみこむ若菜に、千佳は何も言わない。なぜか、彼女の目は違うものを見ていた。
カフェラテまみれになった夕暮夕陽の下敷きを、じっと見つめている。
「あ、そうだ木村! 木村もごめん! これ、大事なものなんだよね? その……、アイドル声優、だっけ。すぐ綺麗にするから。ほんとごめんね」
「え、あ、あぁ……、い、いや、大丈夫……、ただの下敷きだし、き、気にしなくても」
若菜と木村がそんなやり取りをしている間も、千佳は床の夕暮夕陽を見下ろしていた。
そこで信じられないことが起きる。
「────ちっ」
千佳が舌打ちをしたのだ。強い音が鳴り響き、空気がぐっと重くなる。
湧いて出た悪意に、頭の奥が痺れそうになった。
固まってしまった若菜を置いて、千佳はそのまま歩いて行こうとする。
「──ちょっと待ちなよ」
反射的に由美子は立ち上がっていた。千佳の背中に声を掛ける。
「今のはさぁ、確かに若菜が悪いよ。でもさ、謝ってる人にその態度はないんじゃないの?」
「い、いいって由美子。これはわたしが悪いよ」
「いや、これは若菜がどうっていうより、あたしがむかついてるだけ」
止めようとする若菜を抑え、千佳を睨む。
さっきのはさすがにカチンときた。何様のつもりだ。
千佳はこちらにゆっくりと向き直り、由美子を見る。真っ向から睨み返してくる彼女の眼を見て、由美子は初めて気が付いた。
なんと鋭く、凶悪な眼だろうか。髪に隠れて見えづらいが、まるで猛禽類のような眼だ。
彼女は不愉快そうに口を開く。
「──品のない連中が騒いでいるだけでも鬱陶しいのに、人様に迷惑まで掛けて。そのうえ突っかかってくるなんて、随分と人間の文化をお忘れのようで。ご出身は森の奥かしら?」
滑舌がよく、聞き取りやすい声で謳うのはたっぷりの嫌味。
地味な見た目に反して攻撃的だ。
いや、あの眼を見たあとでは、こちらの方がしっくりくる。
「文化を知らないのはそっちでしょうが。あんたの国では、『ごめんなさい』には舌打ちを返せって習うわけ? さぞかし素敵な幼少期を過ごしたんでしょうね。根暗なのはそれが理由?」
言葉を返すと、千佳の頬がぴくりと引き攣る。
眼光がより強いものに変わる。
「……そういうあなたは随分とすくすく自由に育ったんでしょうね。そうでなきゃ、そんな頭の足りない格好をして平気なわけがないわ。裸の方がまだマシだもの」
「あ? 人の格好をバカにするのはいいけど、自分の身なり整えてから言いなさいよ根暗女が。久しぶりに口を開いたからってはしゃぎすぎなんじゃないの? いくら上靴を汚されたからって、そこまでキレなくてもいいでしょうよ」
「上靴……、あぁ」
由美子の言葉に、千佳の眉がぴくりと動く。自分の上靴を見下ろして、鼻を鳴らした。
「どうでもいいわ」と首を振り、指差したのは床に落ちた下敷きだった。
彼女は心底軽蔑したような顔で、吐き捨てるように言う。
「鬱陶しいの。声優だか何だか知らないけれど、そんな物で騒いでバカみたい。何が良いのか全くわからないわ。どうせあなたたちもバカにしていたんでしょう? そのグッズも、持ち主も、声優自身も」
話が見えずに困惑する。
彼女が苛立っているのは、この下敷きのせい?
「それに、声優っていう割には見た目を売りにしてるんでしょう。歌ったり、踊ったり、アイドルの真似事をして何が良いのかしら。何にせよ、見ていて不快。それだけ」
滑るように言葉が出てくる。
木村は肩身が狭そうに俯くばかりで、何も言い返さない。
千佳が怒っている理由が若菜に無関係なら、これ以上突っかかる必要はない。
ないのだけれど。
「──よく知りもしないで、勝手なこと言うなよ。夕暮夕陽はかわいいよ。だから見た目も売りになるけど、それの何が悪いの。言っておくけど、見た目だけじゃないから。演技だって歌だって一級品で、そのうえ容姿もいいからこういう売り出し方されているだけ。わかる?」
由美子の口からは、そんなストレートな反論が飛び出していた。
若菜が貶められたと思ったときとはまた違う、別の怒りが湧いてくる。
バカにするんじゃない。そう言いたくなる。
「……な、何よそれ。あなたこそ、よく知りもしないで適当なこと言わないで頂戴。どうせにわか知識でしょう? あなたみたいな蛮族に、何がわかるっていうの」
千佳は虚を突かれたような顔をしたが、眉を顰めて言葉を返してきた。
「おーおー、蛮族だろうが何だろうが好きに言えばいいよ。でも、そのにわかでもわかるくらい、夕暮夕陽はいい声優だっつってんの。アイドルの真似事だって? それで人の心を震わせるなら、熱を与えられるなら、それは本物でしょうが。大体、人が夢中になっているものに対して、その言い草は失礼じゃないの?」
考える前に言葉を吐き出していた。自分の思いを一気に捲し立て、彼女の出方を待つ。
さぁ、どう来る。由美子が身構えていると、急に千佳の勢いが萎んだ。
「む、ぐ……。……け、けほっ」
何か言いたげに唇をむにむにと動かし、眉間に皺を寄せて顔を赤くしている。
挙句、顔を逸らして咳き込み始めた。
「……アホらしい。口では何とでも言えるわ。付き合いきれない」
こちらを一睨みすると、千佳は踵を返す。まるで捨て台詞だ。
思わず、その背中に言い返そうとする。が、腕をぐっと引き寄せられた。
「や、やめなよ、由美子。わたしは本当に大丈夫だから……」
若菜に心配そうにそう言われ、急速にクールダウンする。
……確かにこれ以上続けても、不毛な争いになるだけだ。
大人しく由美子が矛を収めると、若菜は腕を組んだまま、ほっと安堵の息を吐く。そうしてから、感心したような声を出した。
「にしても……由美子って、この声優さんそんな好きなんだね。意外。アニメとか観るっけ?」
「え? あ、ん、んんー。い、いやぁ? そ、そういうわけじゃないんだけど……。あ、ほら。お客さんの受け売りだから。ね。うん。ていうか木村、あんたの好きな声優がバカにされたんだから、あんたが言い返しなよ」
若菜の言及を無理やりごまかし、話の矛先を変える。
「え、あ、言おうとはしたよ……た、タイミングがさ……」
木村は戸惑いながら下敷きと由美子を見比べ、ごにょごにょと言っている。
由美子はため息を吐くと、立ち去る千佳の背中を一瞥した。
こいつとはもう関わりたくない。心の底からそう思った。
放課後。
由美子はひとり収録スタジオに向かっていた。
『はぁい、どうもー、こんばん……は? こんばんはであってます? あってます~。琉球みりも役の夕暮夕陽ですー。やぁー、今日は傘を忘れちゃいまして、走ってきたんですよぉ』
イヤホンから聴こえてくるのは、穏やかな声。
ゆっくりとしたテンポで聴きやすく、ほわっとした空気を感じられた。
テレビアニメ『超絶伸縮まりもちゃん』のラジオ番組、『超絶ラジオまりもちゃん』。それに夕暮夕陽が出ていると知り、こうして聴いている。
声が良いうえに人の好さがよくわかる。そりゃ人気も出るってものだろう。
この子相手に、釣り合うのかな。
……釣り合わないだろうなぁ、と由美子は頭を掻く。
『いやぁ、詳しくないですないです。わたしなんて、にわか仕込みのにわか知識ですよぅ』
「……ん?」
引っ掛かりを覚える。なぜかあのむかつく女の顔が頭をよぎった。
似ても似つかないはずなのに、なぜ急に思い出したのだろう。
「……あぁ。あいつもにわか知識がどうのって言ってたっけ」
納得しつつも、あの腹の立つ口上を思い出して勝手にむかむかする。
そうしているうちに、何度か使ったことのある馴染みのスタジオに着いた。
「おはようございまーす」
挨拶をしながら、指定された会議室の扉を開く。まずは打ち合わせだ。
真ん中には長テーブルが置いてあり、その前に四十代半ばの男性が座っていた。
アフロと見紛うほどにくせ毛の男性だ。大きめのチノパンにTシャツというラフな格好で、ノートパソコンをイジっていた。彼はこちらを向くと、ぎょっとした顔で固まる。
「あぁおは……よう?」
だれ? という文字が顔面に張り付いている。まぁこの反応にも慣れっこだ。
「チョコブラウニーの歌種やすみです。すみません、普段はこんなカッコなんですよ」
「あ、あぁ、歌種さんね。あ、ディレクターの大出です。よろしく。いや、聞いてはいたんだけど、実際に見るとびっくりしちゃって。君、本当に普段はそういう格好なんだねぇ」
「初対面だと結構びっくりされますね。おかげで覚えてもらいやすいですけど」
「そりゃあねえ。まぁオンオフに差がある子はいっぱいいるけど……、あ、座って座って」
言われて席に着く。すると、机の上にある資料に目がいった。
番組の企画書と出演者のプロフィールだ。事前にもらっていたので目は通してある。
企画書にはこう書かれていた。
番組名:夕陽とやすみのコーコーセーラジオ!
メインコンセプト:現役の女子高生声優ふたりによるラジオ番組
コーナーコンセプト:学校に関連付けたコーナーを予定(※検討中・放送作家から当日提出)
出演:夕暮夕陽(ブルークラウン)/歌種やすみ(チョコブラウニー)
この春から始まる、週一収録、週一放送の新番組である。
なんとあの夕暮夕陽の相方として由美子──歌種やすみが抜擢されたのだ。
「……なんで夕暮さんの相手が、あたしなんでしょう」
つい、そんなことを呟いてしまう。
夕暮夕陽の相方に選ばれたのは嬉しい。大抜擢だと思う。
けれど、その理由がわからない。
女子高生だから、という理由ならば、もっと人気のある女子高生声優はいくらでもいる。
少なくとも、自分がディレクターだったら、夕暮夕陽の相方に歌種やすみは選ばない。
大出は、悪戯が成功した子供のように笑った。企画書を指でとんとんと叩く。
「歌種さんは、夕暮さんとは会ったことないんだよね?」
「へ? あ、あぁ、はい。そうですね。現場でもいっしょになったことはないです」
「だよね」
大出は満足そうに笑い、由美子は首を傾げる。
彼は「あぁごめん」と手を振った。
「このラジオには実は秘密があってね。君たちには大きな共通点があるんだ。それがわかれば、歌種さんを選んだ理由がわかるよ」
「大きな共通点……? 女子高生声優以外で、ですか?」
「うん。もう少し踏み込んでみよう」
踏み込む? どういうことだ?
プロフィールを並べても、答えは全くわからない。
「この共通項に気付いたときの驚きったらなかったけどね。それを知ったとき、既に頭の中にはこの企画書が浮かんでいたよ。……わからない? んー、どうしよっかな。仕方ない! 教えてあげよう! 実はね、君たちふたりは──」
「おはようございます。夕暮夕陽です、よろしくお願いします」
静かな声とともに、扉が開いた。
夕暮夕陽だ。
あの人気上昇中でありながら、ラジオの相方になる夕暮夕陽が、この部屋に入ってきた。
ドキドキしながら視線を上げる。
「……ん?」
目の前の少女と、記憶にある夕暮夕陽の姿に大きな差異があった。
髪型のせいか、印象がぜんぜん違う。
明るく可愛らしい夕暮夕陽の姿はなく、暗くて地味な少女がそこにいた。
彼女と、目が合う。
「……え?」
目つきが、違う。前髪の奥に見える瞳は、鋭い光を放っていた。
──いや、待て。この眼には、この姿には見覚えがある。こいつは──。
「な、なんであんたがここにいんのッ!?」
そこには、佐藤由美子のクラスメイト、渡辺千佳が立っていた。
なぜ。なぜこの場所にこの女が。
混乱した頭は全く働かず、ただただ彼女を見つめることしかできない。
そして、千佳も由美子と同様に、困惑の表情を浮かべていた。
「そ、それはこっちのセリフよ。なんで、なんであなたみたいな人がここにいるの」
「質問してるのはこっち! ど、どういうこと? ゆうぐ……、え? いや、だってあんた、今朝は下敷きのことで……、え?」
「そ、それは……、そ、それよりあなたこそなんで……、ここは佐藤みたいな人種が来るような場所じゃ……、待って、確かあなた今朝……、妙なことを……」
互いに指差し、ぽかんとした顔を浮かべる。
何が何だかわからない。
唯一、事態を把握している大出が、身体を揺らしながら楽しそうに言った。
「あぁやっぱり、ふたりとも素の方は知り合いだったみたいだね。同じ高校だもんな。では、答えを明かそう。そう、歌種やすみと夕暮夕陽は同じ学校だったんだよ! マネージャーと話していたときに偶然知ったんだけど、すごく痺れたよ──現役女子高生同士っていうだけじゃなく、同じ学校の生徒ふたりの声優ラジオ! これはいけるよ!」
大出はぱんと手を鳴らし、そんなとんでもないことを言い出した。
ようやく、状況がわかってくる。
そうだ、さっき彼女は言ったではないか。
自分のことを、「夕暮夕陽です」と。
彼女を指差す手が震える。
つまり、つまりそれは。
「あ、あんたが夕暮夕陽で、ラジオでのあたしの相方……?」
「……あなたが歌種やすみで、わたしといっしょにラジオをやっていく人……?」
その意味を理解して、ふたりの口が大きく開く。
「はぁぁぁぁぁぁ────ッ!?」
そんな大絶叫が響き渡った。
「いやぁ、実は始まる予定だった番組が突然飛んじゃってねえ。急遽この企画を立ち上げたんだけど、突貫とは思えないほどに良い企画だよねえ。やっぱ人間、追いつめられたときに真価が発揮されるっていうかさぁ」
大出はさっきからこの調子だ。
夕暮夕陽──渡辺千佳は不本意そうに由美子の隣に座っており、仏頂面を隠そうともしない。
由美子も同じように、ぶすっと黙り込んでいる。
空気が悪い。
そんなふたりに気付かず、大出は機嫌よく自分の話を続けていた。
……ていうか、あたしたちはほかの番組の補欠かよ。どうりでスケジュールがタイトだと思った。それわざわざキャストに伝えなくてもよくない?
千佳ではないが、舌打ちのひとつでもしたくなる。
けれど由美子が何かを口にする前に、大出に電話が掛かってきた。
「あぁ、ごめん。ちょっと出るね。多分、作家がすぐに来ると思うからさ」
そう言い残すと、さっさと出ていってしまった。
沈黙が降り、部屋に重苦しい空気が流れた。隣をそっと見やる。
彼女もまた、こちらを窺っていた。その表情は、まるで胡散臭いものを見るようだ。
きっと自分も、似たような表情をしているのだろう。
「あんた……、本当に、あの夕暮夕陽? イメージと実物が違いすぎるんだけど……」
自然と疑うような口調になる。
由美子の知る夕暮夕陽は、もっとぽやぁっとした育ちが良さそうな女の子で、顔つきだって明るい。千佳とは全くの正反対だ。
……そりゃもちろん、メディアに載るキャラと本人は別物だ。大抵の声優は大なり小なり、みんなキャラが違う。制作陣も、それにいちいち突っ込んだりしない。
見た目に関してもいくらでもごまかしが効く。
化粧が上手ければ別人になれることは、何より由美子自身がわかっている。
それにしても、これは違いすぎではないか。
この根暗女が人気上昇中の女性声優、夕暮夕陽だって?
ただ、そう思うと、今朝彼女がキレていたのも納得がいく。
ギャルふたりが自分の下敷きをなぜか手にしていて、しかも片方は「この人あんまり演技上手くないの?」なんて口にする始末。
さらに床に落とされ、カフェラテをぶっかけられる。
そりゃ舌打ちもしたくなるだろう。
「……あなただって完全に別人じゃない。佐藤が歌種やすみだなんて、とても信じられない」
無遠慮に観察する由美子に対し、千佳は不愉快そうに言う。
「あぁ……、マリーゴールド……、プラガで一番好きだったのに。中身がこんな品のない人だったなんて……」
嘆くように言う。
夕暮夕陽が自分の演じたキャラを知っている……、それ自体は嬉しい。
が、どうも目の前の少女と夕暮夕陽は一致せず、今のもただの悪口としか受け取れない。
「あーあ。あたしだって、『指先を見つめて』とか好きだったんだけどなー。こんな性悪な奴があんな清純ヒロインやるなんて、色んなことに幻滅しそう」
「その理屈なら、あなたこそ清純ヒロインなんて絶対できないわね。知性のないお猿さんだけ演じてれば? 普段から役作りしてるじゃない」
「そういう渡辺は、教室の隅で黙り込む根暗女を演じるわけ? セリフなくて楽でいいね。オーディションいらずなんじゃない? ていうか、あんた後輩でしょ。あたし芸歴三年目、あんた二年目。先輩に対する口の利き方を教えてあげようか?」
「声優としては二年目だけど、わたしは劇団に入っていたから役者の芸歴は四年目なの。その言葉、そっくりそのままお返しするわ、後輩」
「は? 声優としての芸歴を語りなさいよ。劇団の役者なんて前職みたいなもんでしょ」
「あなた、劇団出身のベテランに同じこと言える? もう少し頭を使って話しなさいな」
互いに睨み合い、口早に煽り合う。
あわや教室でのリベンジマッチか──というところで、がちゃりとドアが開いた。
「どもども、おはようございます。遅れてごめんね、ふたりとも」
扉を開けたのは、二十代中ごろの女性。
小柄な身体にグレーのスウェットという格好で、ノートパソコンと紙の束を胸に抱えている。
髪の長さは肩に届かない程度。寝癖のままでぼさぼさだ。前髪はゴムで留めて、上にぴょこんと跳ねている。
丸見えのおでこには、冷えピタがぺたんと貼り付けてあった。
「放送作家の朝加美玲です。よろしくお願いします」
かなりの童顔なうえにノーメイクなせいで、放送作家どころか学生にしか見えない。ただ、目の下には濃いクマが刻まれており、顔は疲れ切っていた。
しかし、これが彼女の平常運転。
女子力という言葉を鼻で笑うような、その容姿には見覚えがある。
「朝加ちゃん! なんだ、作家さんって朝加ちゃんだったの」
由美子は立ち上がり、彼女の元に駆け寄る。
朝加は疲れた顔のまま、力のない笑みを浮かべた。
「うん、そう。番組やるのは久しぶりだね。やすみちゃん、またご飯作りにきてよ」
「いいけどさぁ。朝加ちゃんち、汚いじゃん? 人を呼べるようになってから呼んでよ」
「それじゃあ、いつまで経っても呼べないじゃない」
久しぶりに会ったせいで、ついきゃいきゃいと盛り上がってしまう。
すると、千佳が恐る恐る近付いてきた。朝加を上から下まで眺め、
「初めまして……、よろしくお願いします」とこわごわ挨拶する。
「はい、よろしくお願いします。悪いね、こんな格好でね」
「いえ……」
言いつつ、千佳は引いている。気持ちはわかる。由美子も初めて会ったときは、「やべー奴が来た」と感じたものだ。
しかし、彼女は千佳のそんな視線を気にせず、マイペースに窓へ指を向けた。
「わたしの家、すぐ近くなんだよ。だから、こそこそやってきてこそこそって帰るの。いやぁもう服選ぶのも面倒くさいっていうか……、しんどいっていうか……」
朝加は虚ろな目でふふふ、と暗い笑みを浮かべる。
放送作家は随分と激務らしく、昼も夜も家も会社もない状態で走り続けている。
そんな生活は、彼女から色々なものを奪い取っていた。
「朝加ちゃん、相変わらず女子力が枯渇してるね」
「あんなもの、過労の前にはあっという間に蒸発するもんさ」
「うちのマネージャー、めっちゃ忙しいけどいつもバッチリ決めてるよ」
「だからわたし、あの人苦手なんだよ。パワフルすぎるでしょ。マネージャーだって激務だろうに……、というか、わたしの話はいいからさ。打ち合わせしよっか。どうせ大出さん、しばらく戻ってこないだろうし。さ、ふたりともどうぞご着席」
千佳とともに座り直しながら、由美子は尋ねた。
「作家が朝加ちゃんってことは、このヘンテコなキャスティングしたのも朝加ちゃん?」
自分を指差し、そのあとに千佳へ指を向けた。むっとした千佳がこちらに手を伸ばしてくる。
「指を差さないで頂戴」
そう言って指を握ってきた。ちょっとびっくりする。
声の刺々しさとは裏腹に、握る手の力は優しい。そっと指を包み込む赤ん坊の姿を想像させた。恨みがましく上目遣いで、こちらを睨む姿は残念なことに可愛らしい。
それに少しだけ、動揺してしまう。
「ちょっと。なんで急にかわいいアピールしてくんの。意味不明すぎるからやめてくんない?」
「……?」
思わずキレのない文句を吐き出すが、当人は眉を顰めるばかりでわかっていない。どうやら天然らしい。それはそれで、こちらが恥ずかしくなるのだが……。
何も言えずにいると、朝加が小首を傾げる。
「ん。なにふたりとも。もしかして、結構なかよしだったり?」
「あり得ません。文化圏が違うので」
「右に同じ。ここ鎖国してるから」
「あぁそう……。えっと、やすみちゃんの質問に答えると、キャスティングしたのはわたしじゃないよ。大出さん。キャスティングをするだけして、あとはこっちに企画ごと丸投げ。嫌になるよ、もう。だから、この台本もさっきできたばっか」
どっこいしょ、と椅子に座り、彼女は台本をひらひら揺らした。
ということは、番組の構成はすべて朝加が担ったのか。
放送作家、または構成作家と呼ばれる彼らは、番組の企画、構成を行う。
番組が面白くなるかどうかはキャストの腕に掛かっているが、キャストの良さを引き出すのが放送作家の仕事だ。収録時はともにブースに入り、細かい指示や進行をする。ラジオ番組でキャスト以外の笑い声が聞こえたら、放送作家のものと思っていい。
「はい、これ台本ね。第一回だから、内容は大分変則になるけど」
台本はコピー用紙をホッチキスで留めただけだが、ラジオならこれが普通だ。
千佳と並んでぱらぱらと捲る。
タイトルコールやオープニングトークなどの指示、由美子たちが収録時に話す内容が台本形式で並んでいる。しかし、すべてが指定されているわけではなく、「ここからフリーで」
「関連する話題があれば」
「よきところで」と書かれた箇所もあった。
朝加は台本を開くと、オープニングトークの部分を指で叩く。
「わかっていると思うけど、このラジオはふたりが同じ学校であることを推すから。なるべく、意識して話してほしい。節々に『あぁやっぱりこのふたりは同じ学校なんだ』ってリスナーが思えるトークを混ぜて欲しいの。あ、事務所のOKは取ってるからね」
「ふうん……、まぁ同じ学年、同じ学校の声優なんて、そうそういないもんね」
「そう。確かにレアなんだよね。その点を強調できれば、ほかのラジオと差別化できるから。大出さんの見立ては実際そう悪くないよ」
なるほど。納得はできるが……、問題もある。
その問題の人物が仏頂面で口を開いた。
「わたしはこの人と仲良くはないですし、仲良くしたいとも思ってないですが大丈夫ですか?」
「は? そんなの、あたしも同じ思いなんですけど?」
「あら奇遇ね。なら、今のわたしの気持ちもわかるかしら。喧しいな、と思ってるんだけど。ちょっと静かにできる?」
「黙り込むのはあんたの領分でしょ。教室で静かにするのが仕事みたいな奴が。根暗女の子守りなんて頼まれてもやらないからね」
「こも……、出たわ。あなたのそういうところ、本当に嫌い。騒ぐだけしか能がない連中って、なんでこうも上から目線なの? 見た目が派手であれば偉いの? 鳥か獣みたいよね」
「こいつ……。つーか、場に馴染めない自覚があるから、そうやって否定しようとするんじゃないの? 人とお話するのが苦手なあんたこそ、鳥か獣じゃない」
「キーキーうるさいお猿さんね」
「猿よりコミュ力ない奴がなに言ってんの?」
「は?」
「あ?」
「……ええと。ふたりとも、そんな空気絶対に収録で出さないでね。別に収録外で仲良くする必要はないし、プライベートを切り売りしろ、とも言わないけど、普通にはして? 学校での話が時々あれば、あとはほかのラジオと同じでいいから。ときに訊くけど、君たち同じクラス?」
ボールペンを向けられ、由美子はこくりと頷く。
「おー、それは僥倖。いいね、そこも強調しよっか。あぁちなみに、少しでも学校が特定されそうな情報は放送に載せられないから。気を付けてね。で、番組の流れなんだけど、それほど突出した構成ではなくてね……」
再び台本に意識を戻す。
彼女の言う通り、変わった内容はなさそうだ。
「基本はオープニングトーク、メール、コーナー、エンディングっていうオーソドックスな流れになります。コーナーはまだ考えてないけど、何かしら学校に関係したものにするから。今回はまぁ、メールもないし番組の紹介と自己紹介のコーナーに時間使うね」
朝加がページをぱらりと捲る。由美子と千佳も同じように、次のページを開く。
コーナー企画、『お互いのことをよく知ろう! 一問二答!』という文字が書かれていた。
やすみ「これからいっしょに番組をやっていくために、お互いのことをよく知って、仲良くなっちゃおうというコーナーです」
夕陽「わたしたちが交互にくじを引きます。そこに質問が書かれているので、わたしたちふたりがそれに答えていきます」
それほど珍しい企画ではないが、第一回ならちょうどいいだろう。
「収録のときはくじ引きの箱を用意するから。どんな感じか見たいから、軽くでいいからやってみてくれる?」
「軽くやるって、どーすんの?」
「わたしが適当に質問振るから、声優の自分として答えて」
ちょっとしたリハーサルだ。
収録時にどう答えるかを朝加は見たがっている。ならば、と声の調子を整えた。
こほんと咳払い。
すると、全く同じタイミングで千佳も同じことをした。視線が重なる。
「なによ」
「なんだよ」
「はい、すぐ喧嘩しない……。さ、今わたしがくじを引いてみました。質問は、『好きな食べ物は?』。はい、やすみちゃん」
朝加がこちらに右手を向ける。すぅ、と息を吸ってから、ゆっくりと答えた。
「やっぱり一番は、ママの作ったカレーかな?」
語尾にハートマークがつくくらい、丁寧に可愛らしい声を出した。
ちなみにママはカレー得意じゃないし、何なら由美子の方が上手く作れる。
だがまぁ、若い子がこういうことを言うと大概は刺さるのだ。
「出たわ……、わざわざ母親を引っ張ってきて、食べ物ひとつで好感度を上げようとするインスタント商法」
「は? 上げられるところで好感度を上げて何が……」
「はーい、次は夕陽ちゃんいこっか」
朝加が指示を出すと、千佳は瞬時に顔をぱっと明るくさせた。
手を胸の前でぎゅっと握り、「えっと~」と口を開く。
「わたしはねぇ、パンケーキかなぁ。お休みの日とかにね、よくお店に食べに行くんだぁ」
「はいダウト」
「は? なに。おかしなことは言ってないわよ」
「いやいや。あんたみたいな根暗女に、店にいっしょに並ぶ友達がいるとは思えないし、ひとりで並ぶ度胸もないでしょ。せいぜいファミレス? パンケーキの話なら、あたし専門店の話をバンバン振るけど大丈夫? ファミレスのでパンケーキを語れる?」
「ぐ、ぬ……」
千佳は何も言えずに口ごもり、悔しそうに由美子を睨んだ。
めちゃくちゃ図星っぽい。
しかし、助け舟を出すように朝加が「次ね」と話を進めてしまった。
「次は、そうだなぁ。好きなアニメってある?」
「あ、それならあたし、普通にあるわ。魔法使いプリティア。あれに出るのが夢なくらい好き」
つい素で答えてしまう。
魔法使いプリティアシリーズ。日曜朝に放送している女児向けアニメで、何年も続く人気シリーズだ。この作品に憧れる女性声優はたくさんいるが、由美子の思い入れは人一倍強い。
この業界に入るきっかけになったからだ。
そんな由美子をじろじろ眺め、千佳は鼻を鳴らす。
「佐藤がプリティア? そうなったら世も末ね」
「喧しい。その世を救うためにプリティアになるんでしょうが」
「あなたはどちらかと言えば敵側でしょうに。敵幹部ヤバンバーンみたいな」
「こいつ……。そういう渡辺は、さぞかし立派なアニメが好きなんでしょうね」
由美子の問いに、千佳はすぐには答えない。
眉根を寄せて、言いにくそうに身体を動かす。
しばらくしてから、ぼそりと言った。
「……メカとロボ。神代アニメなら大体好き。『鉄のゴルド・ラ』とか」
「うーわ。意外過ぎて好感度上がるやつだこれ。なんか腹立つな……」
「だからあまり言いたくないのよ、これ……。意外だのキャラ作りだの言われるから」
「ツイッターで面倒くさいガチ勢に絡まれればいいのに」
「よくもそんな恐ろしいことを言えるわね。人の心がないの? 嫌すぎる呪いをかけないで」
「ていうか、本当にそっち系が好きなわけ? パンケーキみたいなブラフじゃなく?」
「人の好みをブラフって言うのやめなさいよ」
「じゃあ訊くけど。例えば、『鉄のゴルド・ラ』ならどこが好きなのよ」
「まぁ何が一番いいかっていうのはなかなか難しいから言えないところだけど、例えば、そうね、『鉄のゴルド・ラ』の魅力のひとつにメカデザインの緻密さが挙がるわよね。第四話まで主人公が乗る機体、『トワイライト』の鮮麗さ、あれは見るたびにため息が漏れるわ。まずエンジンの形からして素晴らしい。第一話でエンジンに点火しピストン運動が始まるシーン──あぁこれは後の出撃バンクにも使われているんだけどこのシーンは本作の作画的には最高峰と言っていいわここは作監の田宮さんが描いてるんだけどいや本当に田宮さんが描くと躍動感が」
「面倒くさいガチ勢はあんただった、っていうオチじゃん!」
「は? 作品の魅力を訊いたのは佐藤でしょう。それを言うに事欠いて面倒くさい? 上等じゃない、あなたの足りない頭でも理解できるように、まずは作品の成り立ちから……」
「それ絶対時間かかるやつでしょ! あたしはロボットにはあんまり興味ないんだから、話されても困るっつーの!」
「ちょっと待ちなさい、『鉄のゴルド・ラ』にロボットは登場しないわ。厳密に言うとあれはロボットじゃなくて、古代遺跡から発掘された……」
「やめろやめろやめろ! 設定の話をするな! ろくなことにならないんだから!」
いつの間にか、打ち合わせなどそっちのけだ。
話が合わない。相容れない。口を開けばすぐに喧嘩だ。
本当にこんな奴とラジオなんてやっていけるんだろうか……。
止めてくれるはずの朝加に至っては、いつの間にか船を漕いでいた。
もはやこの場は無法地帯だ。
「おー、いいねえ。賑やかな声が外まで聞こえているよ。やっぱり女の子が揃うと、盛り上がるねぇ。仲良いねぇ。ラジオもこの調子で頼むよ!」
戻って来た大出が、そんな見当違いなことをにこにこ顔で言う。
呆気に取られ、由美子も千佳も「はぁ……」と気の抜けた返事しかできなかった。
「ただいま……」
自宅に帰った由美子は、力なくそう口にした。家の中は真っ暗で、ただいまへの返事はない。鍵をしっかり掛け、軋む廊下をとてとて歩く。
由美子はこの古い一軒家に、母親と二人で暮らしている。ここは母の実家だ。
物心がついたときは祖母、母、由美子の三人で暮らしていた。
自室に向かう途中で仏間の襖を開き、仏壇に「ばーちゃん、ただいま」と声を掛ける。部屋着に着替えてからキッチンへ。
「今日はカレーでいっかな」
カレーの話をしたら食べたくなった。ストックももうないので、作り置きしておこう。
打ち合わせのあとに第一回の収録を行い、スタジオを出たらすっかり夜になっていた。
どっと疲れた。あれを毎週繰り返すかと思うと、今からげんなりする。
本当にあの番組は上手くいくんだろうか……。
せっかくもらった仕事だから、もちろんちゃんとやるけれど。
『これがわたしの能力……、すべての能力を、〝ひとつ前の段階に戻す〟能力ッ!』
「これが渡辺の声ねぇ……」
スマホで今季放送のアニメ『黒剣の宣言者』を流していると、夕暮夕陽の声が聴こえてきた。凛々しい声だ。主人公の敵対勢力で、物語に重要なキャラクター。これを千佳が演じている。
「うーん……」
首を捻る。何とも想像しづらい。あの口の悪い少女と、このキャラの声が直結しない。
アニメに集中できないなぁ……、と思いながら、切った野菜を炒める。鍋に移したところで、にんにくチューブって残ってたっけ? と冷蔵庫を開いた。
「あ、やば。もう牛乳ないじゃん。ママに買ってきてもらお」
あとでスマホにメッセージを飛ばしておこう、と頷く。
由美子の母は近所のスナックで働いている。一応、雇われママだ。小さいながらも繁盛していて、評判もいい。以前はよく、遊びに行きついでに店を手伝ったものだった。
『こんな……、こんな、ところで……。わ、わたしには、野望が……、ゆ、め、が……』
「え、うそ。渡辺死んでるじゃん」
トマト缶を探すのに夢中になっていたら、その間に千佳の演じるキャラが死んでいた。ううん。あとでちゃんと観直そう……、と再生を止める。
そうしているうちに、カレーライスとサラダができた。
母の分はサラダだけ冷蔵庫に入れておけば、あとは温めて食べるだろう。
料理をテーブルに運ぶ。ひとりきりの晩御飯もすっかり慣れた。
母は仕事で夜いなくとも以前は祖母がいっしょにいてくれた。しかし、二年前に天国へ旅立ってからというもの、こうしてひとりで食べている。
カレーは我ながら見栄えがいいし、味も保証できる。スマホで写真を撮っておいた。
「……いい出来、なんだけどな」
スマホには、由美子が作った料理の写真がたくさん入っている。プロフィールの特技欄に料理と書きたいくらいには、上手く作れていると思う。
声優・歌種やすみとしてツイッターに写真を上げれば、好感度が上がるかもしれない。
そう思うものの、これらの写真をSNSに上げるのは勇気が必要だった。
『高校生の自分がひとりで晩御飯を作り、ひとりで食べている』という状況。これがどう取られるかが読めない。
「同情されたら目も当てられないしなぁ……。あたしが耐えられない」
昔から、条件反射で「可哀想にねぇ」と由美子に同情する大人はたくさんいた。
由美子が物心つくまえに、父親が事故で他界しているせいだ。
同情される謂れはないのに。祖母がいないのは今でも寂しいけれど、辛いのはその一点だけだ。毎日充実しているし、楽しくやっている。
楽しく過ごすことに関して、ギャルの右に出る者はいないのだ。
結局、由美子は写真を上げなかった。
代わりに若菜へ写真を送ってみると、すぐに返信がくる。
『おいしそう! 食べたぁい。今度作ってよぉ』
無邪気に笑う若菜の顔を思い浮かべ、頬を緩める。
カレーを口に運んだ。程よい辛さとさっぱりした風味が、上手く混ざって舌に広がる。にんにくが良い。トマト缶をぶち込んだのでくどくなく、さくさく食べられた。
「んまい」
満足の出来に、ひとり頷く。祖母のカレーの味だった。
ギャルの朝は早い。化粧を念入りに行い、完璧な状態で家を出る。寝坊など論外だ。早起きしなければギャルにあらず。
あくびをしながら居間に行くと、母がご飯を食べていた。部屋にカレーの匂いが漂っている。
「おはよう、ママ。お仕事お疲れ様……、ってママ?」
声を掛けたが返事がない。
彼女の両耳にイヤホンがついていることに気付き、後ろから覗き込んだ。
卓上のスマホに由美子の姿が映っている。
いや、由美子というよりは歌種やすみだ。
つい先日出演した、『桜並木乙女のまるでお花見するように』を観ている。
「う、うげぇ……。ちょっと、ママぁ」
「あら? おはよう、由美子」
後ろから肩を揺する。母はイヤホンを外し、何事もなかったかのように挨拶してきた。
由美子は顔が熱いのを感じながら、スマホを指差す。
「娘の恥ずかしい姿を観るのやめてよ。そのキャラ家族に見られるの、相当きついんだけど」
「んー? あぁごめんねぇ。でも、どうしても気になっちゃうから」
母はスマホを操作して動画を止める。……あとで続きを観るつもりだ。
どれだけ恥ずかしくとも、芸名を知られている時点で観るのを止めるなんてできやしない。
それに声優になるために、母には随分と協力してもらった。文句も強くは言えない。
母は由美子が声優になることに、全く反対しなかった。
好きなように生きなさい、と言ってくれている。
おそらく、父の死が影響している。人なんてあっさり死ぬことを、母はよく知っている。
「声優で失敗したら、うちの店に来ればいいから。ね?」
冗談めかしてそう言うのだ。
ぼさぼさの髪を撫でつけながら、由美子は朝食の準備を始める。
サラダをもそもそ食べている母に、声を掛けた。
「最近、お店の方はどうなの? 繁盛してる?」
「してるしてるぅ。昨日も忙しくてね。もうお客さんに自分でお酒入れてもらってた。山口さん覚えてる? あの人、ほかのお客さんのお酒も作ってくれて、助かっちゃったなぁ」
「山口さんって、確かどっかのお偉いさんでしょ……。偉い人をこき使うのやめなよ、ほんと……。言ってくれたら、あたしも手伝いに行くからさぁ」
「いいってばぁ。由美子は声優業に集中しなさい。ね? あ、でもお客さんもスタッフも由美子に会いたがってるから、また顔出してあげて?」
へい、と返事しつつ、パンを焼く。
昨日のサラダの残りを冷蔵庫から出して、いっしょに卵も取り出した。
目玉焼きかスクランブルエッグか。どっちにしようかな、と卵片手にしばし考える。
「やすみちゃん」
「芸名で呼ぶのやめて?」
「昨日は新しいラジオの仕事って言ってたけど、上手くいった?」
フライパンを温めながら、うーん、と首を傾げる。
上手くいった……、か?
収録自体は滞りなく終わったが、それ以外の部分で相当揉めている。この先も正直不安だ。
自分たちはあの番組を成功させることができるだろうか……?
由美子の沈黙を否と受け取ったらしく、母は慌てたように声を上げた。
「えぇ、上手くいきそうにないの? ママもちゃんと聴くよー? ……ふつおただって送るよ?」
「それだけは本当にやめて」
実母からのふつおたって嫌すぎるでしょ、と由美子は顔を顰めた。