第一章 母親と少年


    ♥


 シングルマザーの朝は早い。

 眠い目をこすって早起きして、高校に通う娘のために、毎朝お弁当を作ってあげなければならない。

 はあ、中学までは給食があってよかったのになあ。


「……なんて愚痴ってもしょうがないか」


 一息つきつつ、私は四角いフライパンで卵を焼いていく。卵焼きは朝食のおかずにも子供のお弁当にも使えて、主婦の強い味方よね。

 並行作業していた味噌汁が沸騰しそうだったので、慌てて火を止める。

 ちょっと味見。うん、今日も上出来♪

 完成した朝食をテーブルに並べているタイミングで、


「わーっ! ヤバいヤバい! 完っ全に寝坊った!」


 ドタドタと騒々しい音を立てながら、娘の美羽が二階から降りてくる。

『寝坊った』という動詞が娘の造語なのか、それとも最近の若者言葉なのかは、アラサーの私にはわからない。

 階段を降りて洗面所へと向かい、ドタドタと準備を終えるとリビングへと入ってくる。

 美羽は、四月から通い始めた高校の制服に袖を通している。

 一応、県内有数の進学校。中学の成績は正直微妙だったけど、家庭教師が優秀だったおかげでどうにか入学することができた。県内の多くの中学生が憧れているだろう名門校の制服を、しかし娘は、だいぶ適当に着こなしていた。

 ああ、もうっ、雑に着るからシャツがシワだらけじゃない。

 せっかく昨日アイロンかけてあげたのに!


「なんで起こしてくれなかったの、ママ!?」

「何度も起こしました。あなたが起きなかったの。ほら、さっさと食べちゃいなさい。早くしないとタッくんが来るわよ」

「わかってるってば!」


 娘は卓につき、大慌てで朝食を食べ始める。

 歌枕美羽。

 血は繫がっていないけれど、私──歌枕綾子の、たった一人の娘。

 ああ──いや。

 厳密には、血が繫がってないわけでもないのかな。

 私のお姉ちゃんが、お腹を痛めて産んだ子なのだから。

 あの日から──

 葬儀場でこの子を引き取る決意をし、姉夫婦が残したこの家で暮らし始めてから、もう、十年も経ってしまった。

 なんだかちょっと信じられない。

 あっという間で、怒濤の十年間だった。

 いろいろあったけれど──一言では語り尽くせぬぐらいにいろいろあったけれど、どうにか今は母娘になれていると思う。

 この子が『ママ』と呼んでくれるだけで、私は毎日を頑張れる。


「あーあ。まったく……タク兄も、毎日迎えに来なくてもいいのに。どうせ駅で別れるんだからさ」

「そんなこと言わないの。せっかく迎えに来てくれるんだから。それに……あなただって本当は嬉しいんじゃないの?」

「どういう意味?」

「別にぃ。ただね、あんまりのんびりしてると、タッくんを他の女の子に取られちゃうわよ?」


 冗談めかして言うと、美羽は盛大に溜息を吐いた。


「あのね……いつも言ってるけど、私とタク兄はそういうんじゃないから。ただの幼馴染みで、ただの家庭教師のお兄さん。ほんとそれだけ」

「えー、そうなの?」

「そうなの。私はタク兄のことなんてなんとも思ってないし、向こうも私のことなんてなんとも思ってないよ」

「ふぅん。まあいいけど」


 呆れ口調で言う美羽に、私は軽く肩をすくめた。

 まったく、素直じゃないんだから。

 お似合いだと思うんだけどなあ、美羽とタッくん。

 向こうだって、なんとも思ってないってことはないでしょう。

 なんの下心もなく、毎朝毎朝迎えに来てくれる男が、どこにいるっていうのよ?

 と、そのとき。

 家のチャイムが鳴った。私は玄関へと向かう。


「おはようございます、綾子さん」


 ドアを開いた私に、丁寧に挨拶を述べる好青年。

 清潔感のあるシャツに、細身のジーパン。肩には、今時の若者っぽいトートバッグ。左手にはちょっと高級そうな腕時計。大学入学祝いにお父さんに買ってもらったものだと聞いている。


「おはよう、タッくん」


 タッくん──こと、左沢巧くん。

 この家の隣に住む大学生の男の子。

 美羽とは、幼馴染みという関係になるのだろう。

 私がこの家に住む前から──つまり、姉夫婦がまだ生きていた頃から、美羽とはお隣同士で付き合いがあったらしい。

 十年前──私が美羽を引き取り、家主がいなくなったこの家に住み始めてからも、お隣として付き合いが続いている。

 ちなみに、タッくんは美羽の家庭教師でもある。

 有名大学に通う優秀な彼の情熱的指導のおかげで、美羽はどうにかこうにか志望校に合格することができた。


「ごめんね、タッくん。美羽ったら寝坊して、まだご飯食べてる途中なの。少し待っててもらえる?」

「ごめん、タク兄! ちょっと待ってて!」


 リビングから声だけで言う美羽。タッくんは苦笑する。


「わかりました。てか……綾子さん、いい加減、『タッくん』って呼ぶのやめてくださいよ。俺、昨日でもう二十歳になったんですよ?」

「うふふ、ごめんね。なかなか昔のクセが抜けなくて。でも……そっか。タッくんももう、二十歳になったのよね」


 つい感慨深い気持ちになって、まじまじと相手を見つめてしまう。


「小さい頃はあんなにかわいかったのに、いつの間にかこんなに大きくなっちゃって」


 初めて会った頃──まだ十歳だった頃のタッくんは、華奢で背も小さくて、まるで女の子みたいだった。

 でも、中学で水泳を始めた辺りから、背がどんどん伸びて体格もよくなっていって、今じゃ立派な青年となっている。

 私はつい一歩踏み出して、頭に手を乗せてしまう。玄関の一段低いところに立っているのに、それでも私より頭が上にある。本当に大きくなっちゃって。

 すると、タッくんは照れたような顔で一歩離れた。


「や、やめてくださいよ。子供じゃないんですから」

「あら、ごめんなさい。タッくんってば本当に大きくなったなあ、ってしみじみ思っちゃって、つい」

「……呼び方も」

「あっ、ほんとだ。うーん……なんだかもう、完全に『タッくん』で慣れちゃってるから、急に変えるのも難しいわね。この十年『タッくん』って呼んできたわけだし」

「…………」

「代わりにタッくんも私のこと、昔みたいに『綾子ママ』って呼んでくれてもいいのよ?」

「なんの代わりなんですか……?」

「うふふ。いいじゃないの。私はタッくんのこと、息子同然にかわいく思ってるんだから」

「……息子じゃないですよ」


 ぽつり、と。

 真剣な声音で、タッくんは言った。


「俺は──綾子さんの息子じゃありません」

「タッくん……?」

「……あっ。す、すみません。なんか、当たり前のこと言っちゃって」

「え。う、ううん……いいのよ、別に」


 誤魔化すように笑うタッくんに、私も合わせて笑うけれど、鼓動が少し速くなっていた。

 びっくりしちゃった。

 だって──急に真面目な顔をするから。

 鋭い眼光と、男性特有の低い声。彼がもう、一人の男だということを意識させられて、不覚にもドキドキしてしまった。


「──ごめんごめん、遅くなっちゃったっ!」


 朝食を終えたらしい美羽が、駆け足で玄関に来て靴を履く。


「お待たせ、タク兄」

「おう。それじゃ綾子さん、行ってきます」

「行ってきまーす」

「ええ、行ってらっしゃい。あ。そうそう」


 私はふと思い出して、念のために言っておく。


「今日の夕方……五時ぐらいから始めるから、二人とも遅れないようにね」

「はい」

「わかってるって」


 言われるまでもない、とばかりに頷いて、二人は玄関から出て行った。

 私はホッと一息。

 毎朝娘を送り出すと、「一人になれた」という安堵感と、「一人になっちゃった」という寂しさが同時に来る。

 もしも、と考えてしまう。

 不意に、考えてしまった。

 もしも美羽がいつか、家を出て行くようになったら──誰かと結婚したりして、この家を出て行ったら。

 今度は私が、ひとりぼっちになってしまうのだろうか。

 美羽をひとりぼっちにさせたくなくて彼女を引き取ったのに、いつかは私の方がひとりぼっちに──


「……いやいや、まだ早すぎるから」


 まだ娘は十五歳。

 高校に入学したばかり。

 そんな未来を想像して不安がるのは、杞憂もいいところだ。


「でも……まあ、そうね。相手がタッくんなら……結婚して相手の両親と同居ってなっても、お隣さんだから寂しくはないわよね」


 結婚した娘が、徒歩一分のお隣に住んでる──うんうん、なんかいいわね!

 全然、寂しくなさそう!

 タッくんは真面目でいい子だし、いつの間にか背も伸びて格好良くなっちゃったし、それに有名大学に通ってて将来有望だもんね!

 娘の相手として申し分なし!

 となれば……やっぱりあの二人には、早くくっついてもらわないとね!

 ちゃっかり私の老後の面倒とかも見てもらっちゃおう!


「お似合いだと思うんだけどなあ──うん?」


 妄想を逞しくしながらキッチンに戻ったところで、ある物を発見した。

 かわいらしい包みに包まれたそれは、私が早起きして一生懸命作った、お弁当だった。


「あ~~っ、もうっ!」


 大急ぎで家から飛び出し、仲良く歩いている二人の背に声をかける。


「ちょ、ちょっと美羽! お弁当忘れてるわよ~っ!」


 娘を引き取ってから、早十年。

 こんな騒々しい毎朝が、私の日常だった。



 娘を送り出し、洗い物や洗濯を軽く済ませた後に、私は自分の仕事に取りかかる。

 母親モードから、社会人モードへと切り替える。

 テーブルの上にノートPCを広げ、飲み物も準備。

 ちなみに飲み物は、『ドルチェグスト』で用意した『ウェルネススムージー』。

 飲みやすくフルーティーな青汁で、一日分の緑黄色野菜が取れる素晴らしい飲み物である。私ももう三十を超えたわけだし、こういうところから気をつけていかないとね。


「──じゃあ、狼森さん。今打ち合わせた内容を、イラストレーターには私の方から伝えておきますね。ライターチームの方とも、来週までには内容を摺り合わせておきます」

『うん。よろしく頼むよ、歌枕くん』


 電話の向こうから聞こえるのは、いつもの狼森さんらしい鷹揚な返事だった。落ち着いた女性の声だが、口調は男性的。いついかなるときもどっしりと構えている人で、十年一緒に仕事しているけれど、私は彼女が慌てた様子を見たときがない。

 狼森さんは私の上司──というか、私が勤めている会社の代表取締役となる。私より十以上年上なのに、声も見た目も、そしては感性も、まだまだ若々しい。


『しかし今回のプロジェクトでは、歌枕くんには本当に助けられているよ。きみなしではこの仕事をうちが受けることもできなかっただろう』

「なに言ってるんですか。私なんて、ただのしがない編集ですよ」

『謙遜なさるな。「きみが担当ならば」という条件で、仕事を引き受けてくれたクリエイターも多いんだ。この十年、きみが積み上げてきた実績と信頼が実を結んだということだろう』

「十年、ですか……」

『そう、十年だ。ふむ……自分で言っておいてアレだけど、なんだか不思議な気分だよ。歌枕くんと一緒に働き出してから、もう十年も経ってしまったのか』


 懐かしむような声に、私の意識も過去に引っ張られる。

 狼森さん──狼森夢美。

 元々は超有名出版社で働くカリスマ編集者だったが、十年前に独立し、自分の会社『ライトシップ』を立ち上げた。

 私はその新会社に──十年前に入社した。

 業務内容は……人には大変説明しづらい。

 社長の『楽しければなんでもいい』という企業理念の元、様々なエンターテインメント事業に携わっている。

 私は肩書き的には『編集』となるが、編集者の枠を飛び越えて様々な事業に関わっている。最近は主に、クライアントとクリエイターの仲介業をやっている感じ。


「……狼森さんには、本当に感謝しています。新入社員が突然『今日から子持ちになりました』なんて言ったら……普通の会社だったら、すぐにクビになっていたと思いますから」


 十年前──私は『ライトシップ』に入社してすぐのタイミングで、美羽を引き取った。

 新入社員が、いきなり未婚のシングルマザー。

 人事からしてみれば、ふざけんな、という話だろう。最終面接での『結婚・出産の予定はありますか?』という質問に対して、『当分予定はありません』と答えておきながら、これなのだから。

 当然の如く、保育園の行事だとか熱を出して呼び出されたりとかで、入社直後から早退しまくり有給使いまくり。

 正直、クビになっても仕方がないと思っていた。

 しかし狼森さんは、子持ちとなってしまった私のために、様々な便宜を図ってくれた。突然の早退や欠勤でも他の人がフォローしてくれるような体制を整えてくれたし、在宅での仕事も認めてもらえた。


『礼を言われるほどのことじゃないよ。社員が最大限に働ける環境を作るのは、会社として当然のことだからね。そして……社長ではなく一人の女として、きみのことを応援したくなってしまったのさ。姉夫婦の子供を育てる決断をした、きみのことを』

「狼森さん……」

『しかし、その引き取った少女──美羽ちゃんも今は高校生だろう? 手もかからなくなってくる年頃だ。歌枕くんも、そろそろ自分の幸せについて考えるべきじゃないのかい?』

「私の幸せ?」

『彼氏の一人でも作ってみたらどうだい、という話だよ』


 酔っ払いが絡んでくるような声音で、そんなことを言ってくる狼森さん。突然の話題転換に、私は言葉に詰まってしまう。


「か、彼氏って……」

『美羽ちゃんを気遣って、これまで誰とも付き合わずに来たのだろう? 十年も我慢してたんだ。そろそろ恋愛を解禁してもいいと思うけどね』

「別に、我慢してたつもりは……」

『恋はいいよ、歌枕くん。恋をすると、仕事に張りが出てくる』

「……三回も離婚した人に言われても」

『あはは。私は恋多き女だからね』


 毒づいてみても、まるで気にする素振りもない。

 三回の離婚、その全てが自分の浮気が理由──狼森夢美は、そういう奔放で豪快な女性だ。死ぬほど稼いでるけど、貯金は慰謝料で全部消えてる。基本、常に三人ぐらい彼氏がいる。社会人としては尊敬しているけれど、一人の女性としては……正直、全く尊敬していない。

 私は一つ息を吐く。


「狼森さん。私は……まだまだ恋愛をするつもりはありませんよ。今の私にとって、一番大事なのは娘の美羽ですから」


 十年前、美羽を引き取ったときに覚悟は決めた。

 姉夫婦の子供を、私がきちんと育てようと、決意した。

 一度も結婚も出産も経験してない私だけど──今の私は母であり、独り身とは違う立場になっている。

 無責任に恋愛していい立場じゃない。

 今の私が誰かと付き合い、結婚という話になれば──その相手はイコール、美羽の義父となってしまう。

 ただでさえ──私と美羽は、本当の母娘ではない。そこにまた『他人』が新たな家族として増えるなんて、美羽にとってどれだけの負担になることか。


「狼森さんはさっき、『そろそろ自分の幸せ』と言いましたけど……私、今、十分幸せですから」


 愛する娘がいて、一応尊敬できる上司の元でやりたい仕事ができている。

 これ以上望むのは、贅沢というものだろう。


『ふむ。きみほどの美人がもったいない話だね。女の盛りを迎えて、そろそろ人恋しくなってくる年頃じゃないのかい? 女は三十過ぎてからの性欲がすごいからね。きみもそのダイナミックな肉体を持て余して、夜な夜な一人で慰める日々を送っているんじゃ──』

「狼森さん。女上司相手でも、セクハラって成立しますよ?」

『おっと失礼』


 さすがにセクハラで訴えられるのは怖かったのか、会話を切り上げる狼森さん。私は溜息を吐く。


「そりゃまあ、男が欲しくないわけじゃないですけど、でも、今は考えられないですね。少なくとも、娘が成人するまで……いえ、大学を卒業して定職に就くまでは、母親に専念しようと思っています」

『大学卒業って……その頃きみは、アラフォーに足を踏み入れてるんじゃないのかい?』

「まあ、それはしょうがないですね」


 私は冗談めかして言う。


「もし結婚できなかったら、娘の旦那さんに養ってもらいますから」



 在宅での仕事を早めに切り上げてから、私は夜のために準備に取りかかった。料理を作ったり、予約していたケーキを取りに行ったり。高校から帰ってきた美羽も途中から準備を手伝ってくれた。

 今日の夜はうちでパーティーを開くことになっている。

 一日遅れの、タッくんのお誕生会──


「んんっ。えー、それでは、我ら歌枕家の愛すべき隣人、左沢巧くんの記念すべき二十歳の誕生日を祝しまして~、かんっぱーい!」


 私の挨拶に合わせて、三つのシャンパングラスが卓の中央で重なり、心地よい音が鳴る。

 ちなみに中身は、美羽に合わせたノンアルコールのシャンメリー。


「すみません、わざわざお祝いしてもらって」


 サラダやローストビーフ、ピザなどのパーティーメニューが並んだ卓の向かい側では、タッくんが照れくさそうに笑う。


「お祝いするに決まってるでしょう? タッくんはもう、うちにとって家族みたいなものなんだから。はい、どうぞ」


 料理を取り分けて手渡すと、小さく頭を下げる。


「ありがとうございます。すごく嬉しいです。こんなご馳走まで用意してもらって」

「大したことないわよ。買ってきたのも多いし。昨日の方が、おうちの人に盛大にお祝いしてもらったんじゃないの?」

「うちは外食しただけですから。正直……綾子さんの手料理食べられる方が嬉しいです」

「あら。褒めてもなんにも出ないわよ?」


 あーんもう、タッくんってば……素直でかわいいわぁ。

 ほんと、今すぐにでも婿に欲しいっ!


「タク兄も二十歳かあ、なんか信じられないなあ」


 自分で勝手にサラダをよそって食べていた美羽が、しみじみと呟いた。


「これでもう、犯罪起こしても匿名じゃなくて実名で報道されちゃうんだね。気をつけてよ、タク兄」

「なにを気をつけるんだよ。犯罪なんかしねえよ」

「どうかなあ。タク兄みたいな真面目そうな奴が実は、ってパターン多いから」

「……お前、そういう失礼なこと言ってると、宿題倍にするからな」

「ええ!? なにそれ、職権乱用じゃん! てかタク兄、なんでまだ家庭教師してくんの? 受験終わったんだから、もういいでしょ!」

「私からお願いしたのよ」


 不満げな美羽に告げる。


「美羽。あなたは、タッくんのおかげで奇跡的に滑り込みセーフで合格しただけなんだから。油断してるとすぐ授業についていけなくなるわよ?」

「えー、そんなぁ」

「不出来な娘だけど、これからもよろしくね、タッくん」

「了解しました。ビシバシ鍛えときます」

「……ぶー」


 笑い合う私達と、不満そうな美羽だった。


「あっ。そうそう思い出した」


 私は席を立ち、キッチンの奥からあるものを取り出してくる。


「じゃじゃーん! もらい物のワイン!」


 得意げに掲げつつ、ボトルをテーブルに置いた。


「うふふ。ちょっと前に、一緒に仕事した作家さんからいただいたのよね。ねえタッくん、二十歳になった記念に、よかったら一緒に飲まない?」

「え……いいんですか? こんな、高そうなの」

「いいのいいの。私、一人じゃあんまり飲まないから。ずっと放置しちゃってたのよね」


 お酒が嫌いなわけではないけれど、一人で晩酌するタイプじゃない。

 娘の前で一人で酔っ払うのもみっともないしね。


「タッくんが一緒に飲んでくれるなら、嬉しいんだけどなあ」

「……そういうことなら、是非」


 嬉しそうに頷くタッくん。よかったよかった。せっかくの高級品なんだから、みんなで分け合わないとね。

 私は栓抜きでコルクを抜いた後、用意したグラスにワインを注いでいく。赤い液体が空気と混ざり合い、フローラルな香りが一気に広がった。


「わー、いい香り。さすが高いワインね」

「むー……いいなあ、ママとタク兄ばっかり」


 美羽が拗ねたように頰を膨らませていた。


「ねえ、ママ。私にもちょうだい?」

「ダメよ。あなた、ピチピチの女子高生でしょ。香りだけにしときなさい」

「ケチ。ちょっとぐらいはいいでしょ」

「ダメったらダメ。最近はね……その辺の規制が本当に厳しいのよ。未成年の飲酒シーンはギャグだって許されないんだから。だから無理矢理キャラの年齢を上げたり、匂いだけで酔ったことにしたり、制作サイドもいろいろ工夫して……」

「いいからちょうだいってば!」


 つい出てしまった出版業界関係者っぽい愚痴を無視して、美羽は椅子から立ち上がって手を伸ばし、私が持ってるグラスを摑んだ。


「ちょっと、美羽……」

「一口だけ、一口だけでいいから」

「ダメよっ。離しなさい」

「……二人とも、あぶな──」

「「あっ」」


 美羽と取り合っていたグラスが、大きく傾いた。

 中の液体は、仲裁に入ろうとしたタッくんにかかってしまった。



 頭から盛大にかぶってしまったため、タッくんは洗面所で顔と頭を洗いに行った。美羽にはリビングの掃除を任せて、私はタオルを用意する。


「タッくん。これ使って」

「どうも」

「……ごめんね、私達のせいで」

「いえ。事故ですから気にしないでください」


 優しく笑ってくれるタッくん。本当にいい子ねー。


「気になるなら、シャワー浴びちゃってもいいわよ? 着替えも肌着も、前にタッくんが泊まりに来たときのがあるし」


 美羽の受験直前の話だ。あのときタッくんは『合宿』と称して、一週間ぐらいうちに泊まって最後の追い込みをかけてくれた。まあ家が隣なので、ちょいちょい帰ったりもしてたけど。


「なんなら……」


 ふと悪戯心が湧いて、私はつい言ってしまう。


「私と一緒に入っちゃう?」

「えっ!?」


 案の定、タッくんは顔を真っ赤にしていいリアクションをしてくれた。


「ワインをかけちゃったお詫びに、背中、流してあげるわよ」

「な、なに言ってるんですか……」

「うふふ。そんなに照れなくてもいいじゃない。昔、一緒にお風呂入ったことだってあるんだから」

「それは……十年前の話でしょ」


 困り果てた様子のタッくんに、私はクスクスと笑う。


「うふふ。ごめんごめん。冗談だから真に受けないで」

「……からかわないでくださいよ」

「じゃ、着替え取ってくるから待っててね」


 私は洗面所を後にして、廊下にあるクローゼットを開く。えーと、確かこの辺に……あったあった。


「タッくん、着替えはこれで──きゃっ!」


 脱衣所の扉を開けた私は、小さな悲鳴を上げてしまう。

 目の前では──ちょうどタッくんが、汚れたシャツを脱いだところだった。上半身は裸。細身ながらも鍛えられた男の肉体が、目に飛び込んでくる。


「あ……す、すみません」

「う、ううん。私こそ、急に開けてごめんなさい。えと……き、着替えはここに置いておくからっ」


 横の棚に着替えを置いて、私は逃げるように脱衣所の扉を閉めた。


「……はあ」


 扉を背に一つ溜息。

 羞恥心が去った後には軽い自己嫌悪が湧いた。

 男の上半身を見たぐらいで照れちゃうなんて……乙女なの、私は? もういい年なのに女子中学生みたいな反応をしてしまったことが、本当に恥ずかしい。「きゃっ」てなによ「きゃっ」て。下半身が見えちゃったならともかくさ。

 ああ──でも。

 なんていうか……ちゃんとした、男の裸だったなあ。いや変な意味じゃなくて、筋肉質で骨張ってて、立派な青年の体つきだったと思う。

 当然ながら、もう一緒にお風呂に入れるような年じゃない。

 かわいくてかわいくて仕方がなかったお隣の少年は、もうお酒も飲める成人男性となっていたのだ。



 タッくんの着替えが済んでから、パーティーを再開。

 三人で料理を楽しみ、最後には私の手作りケーキを出したりもしちゃって、あっという間に三時間ぐらいが経過した。


「ずいぶんと遅くなっちゃったわね」


 ワイングラスを傾けながら、私は壁の時計を眺めた。時刻はすでに十時を回っている。テーブルの料理は大体片付いていて、お摘まみ用のチーズとクラッカーだけがあった。

 美羽はもう部屋で寝ている。パーティー中に「なんか眠い」と言って途中退場。お酒は一滴も飲んでないけれど、匂いにやられてしまったのかもしれない。

 リビングには、私とタッくんの二人だけ──


「そろそろ帰らなくても大丈夫?」

「ええ。うち、門限とかないですし。もしかしたら泊まってくるかもしれない、って言ってありますから」

「あらそう。じゃあ、もう少しだけおばさんに付き合ってね」


 そう言って私は、タッくんのグラスにワインを注いだ。


「いただきます」

「あ。でも、飲み過ぎには注意してね。無理に勧めるつもりはないから」

「大丈夫ですよ。俺、結構強い方ですから」

「へえ、そうなんだ。ってことは……二十歳になる前から、結構飲んでたのね?」

「あー……いや、えっと。今の発言は、なしで」

「ふふっ。わかった、聞かなかったことにする」


 二人で笑い合う。

 ああ、なんだかすごくいい気持ち。久しぶりに酔っ払った、って感じがする。高いワインだけあって、酔いの回り方も上品な気がするぅ。


「はぁー……なんだか、信じられないなあ。タッくんとこうして、一緒にお酒が飲めるようになるなんて」


 グラスの中のワインをくるくる回して眺めていると、零れ落ちるみたいに言葉が出ていった。


「年を取ると、時が経つのって本当に早いわよね。気づかないうちにどんどんおばさんになってっちゃう」

「……綾子さんは全然おばさんじゃないですよ」

「いいのよ、無理してお世辞言わなくて」

「お世辞じゃないです! 綾子さんは、すごく綺麗で、優しくて大人の魅力があって、だから……えっと」


 言葉の途中で照れてしまったのか、顔を赤くしてしまうタッくん。私は嬉しいような恥ずかしいような、むず痒い気持ちになってしまう。


「ふふ。ありがとう。タッくんだけよ、私にそんな嬉しいこと言ってくれるのは。美羽なんか最近、私のこと、おばさん扱いばっかりしてきて、嫌になっちゃうわ」


 愚痴るように言ってから、ワインを一口飲む。フルーティーな香りが口の中いっぱいに広がり、気分が高揚していくのが自分でもわかった。


「ねえねえタッくん」


 私はつい、身を乗り出して訊いてしまう。


「タッくんって……彼女はいないの?」

「……っ。な、なんですか、いきなり」

「いいじゃない。恋バナしましょう、恋バナ」


 うーん。なんか、本当に酔っ払ったおばちゃんって感じになっちゃってるわね、私……。ちょっと自己嫌悪だけど、でもせっかくだし踏み込んだ話をしちゃおっかなー。


「どうなの、タッくん? 本当のとこ、おばさんに教えてよ」

「い、いないですよ」


 じっと見つめながら問うと、タッくんは恥ずかしそうに答えた。それから照れ隠しみたいに、ぐいっとワインを飲み干す。


「……つーか、正直に言えば、今までいたことないです」

「えー? そ、そうなの?」


 意外だったので少し驚いてしまう。

 するとタッくんは、傷ついたような顔になった。


「そんな引かないでくださいよ……」

「あ……ご、ごめんね。別にバカにしたわけじゃなくて、ちょっと驚いただけだから……。だってタッくん、モテそうなのに」

「モテないですよ、俺なんて」

「噓ぉ……だって優しいし勉強もできるし、見た目だって格好いいし。高校のときだって、水泳で大活躍だったでしょ」

「大活躍って言っても県大会レベルですから。まあ……県大会で優勝したときは……何人かの女子に、告白みたいなことされましたけど」

「ほら、やっぱりモテてる。その子達と付き合おうっては思わなかったの?」

「まあ……なんか、違うかな、って」

「ふぅん。そうなんだ。じゃあタッくん──好きな子は?」

「え……?」

「今、好きな子はいないの? 彼女はいなくても、気になってる子ぐらいはいるんじゃないの?」

「そ、それ、は……」


 タッくんは露骨に言葉に詰まった。すごく緊張した感じ。

 おやおや、この反応は……。


「あー、いるんだ。彼女はいないけど、好きな子はいるんだ」

「……っ」

「うふふ。そうよねー、健康な男の子なら、好きな子ぐらいいるわよねー。ねえねえ、誰なの? おばさんにだけ教えてよ」

「え、えっと……」

「もしかして──タッくんは長い間、その子に片思いしてたりするの?」

「──っ!?」


 カマをかけてみると、かえってきたのはわかりやすい反応。

 やっぱり!

 これ、絶対美羽のことでしょ!

 やっぱりタッくんは……うちの娘のことが好きだったのね!

 きゃーっ、すごいすごい! なんかもう、すごくテンション上がっちゃう!


「今まで誰とも付き合わなかったのも、その子のことが好きだったからなの?」

「えっと……そ、そう、ですね」


 恥ずかしそうに、でもしっかりと頷くタッくん。


「俺……ずっと、その人のことが好きで……その人以外と、付き合うとか全然考えられなくて」


 すごいっ。

 めっちゃ純愛だわ。

 ああ、どうしよ。聞いてるだけで胸がキュンキュンしてくる!


「こ、告白しようとか、思わなかったの?」

「……め、迷惑になったら、やだな、って思って。あと、今の関係性が壊れることも怖かったし──それに」

「それに?」

「年齢差とかが、ちょっと気になって……いや、俺の方は全然気にしてないんですけど、もしかしたらその人の方が気にしちゃうのかな、って」


 年齢差……ああ、なるほど。

 美羽とタッくんって、五歳違うからね。学生同士の恋愛で、五歳差というのは意外と大きいのかもしれない。


「大丈夫よ、タッくん」


 私は言う。


「愛があれば、年の差なんて関係ないわ」

「綾子さん……」

「告白する前から諦めるなんて、つまらないわよ? 相手に想いを伝えなきゃ、なんにも始まらない。それに、モタモタしてたら他の男に取られちゃうかもしれないでしょ? それでもいいの?」

「それは……い、嫌です」

「だったら答えは一つよ、タッくん」


 酔っ払ったせいなのか、かなり知った風なことを言ってしまう。タッくんはまだ表情に迷いや葛藤を滲ませていて──だから、私は言う。

 彼の恋を──全力で応援する。


「自分に自信を持って。大丈夫よ。タッくんなら、きっと大丈夫。あなたが格好よくて優しくて素敵な男の子だってこと、私はちゃーんとわかってるから。だから……勇気を出して一歩踏み出してみたら?」

「勇気を……──っ!」


 直後。

 タッくんが、勢いよく立ち上がった。

 情熱を秘めた目で──迷いも葛藤も全て振り払ったような眼差しで、まっすぐ私を見つめてくる。


「あ、綾子さん……!」


 緊張からなのか声はやや上ずっていたが、それでも真剣さは痛いぐらいに伝わってきた。


「俺……ずっと、ずっと綾子さんに、言いたいことがあったんです」

「わ、私に?」


 私にって、どういうことだろう?

 あっ。そうか。

 つまり──娘さんを僕にください、的なやつね!

 ははーん。娘に告白する前に、まずは母親である私に話を通しておこうってわけね。なるほどなるほど。律儀なタッくんらしいわ。

 いいわよいいわよ。返事は即決でオッケーだから。むしろこちらから頭下げてお願いしますって感じ。


「……本当はもう少し経ってから……就職して、きちんと自分で金を稼げるようになってから、言うつもりでした。でも、やっぱり今言います。もう、我慢できないし……それにモタモタしてるせいで他の男に取られるのだけは、絶対に嫌だから……!」


 そして。

 タッくんは言う。

 不安に揺れる瞳で、でも覚悟を決めた男らしい顔をして、言う。

 私達の関係を、決定的に変えてしまう言葉を──


「綾子さん。俺、ずっと、あなたのことが好きでした」


「………………」


 ………………。

 …………。

 ……。

 え?

 あれ……? 聞き間違いかしら?


「タ、タッくん……? や、やだもう、酔っ払っちゃってるの? ま、間違ってるわよ。大事なところを、思い切り間違えちゃってる」

「え……。ま、間違ってる?」

「だって、あなた今……わ、私のことを、好きって……」

「……? なにも、間違ってないですけど」


 真顔で言うタッくん。

 うん? え……あれ? ええ?

 ちょ、ちょっと待って。ちょっと待って……え? え? え?

 軽いパニックになってしまう私を無視して、タッくんは真剣な眼差しのまま言葉を続けた。


「俺が好きなのは……綾子さんですよ。ずっと……十年前から、ずっと、あなたのことだけが、大好きです」

「…………」


 酔いが──一気に冷めた気がした。

 それなのになぜか体中が熱くなる。男の人から面と向かって『大好き』なんて言われたの、初めてかもしれない。心臓は早鐘を打ち、思考回路はオーバーヒートを起こしたみたいに働かなくなる。

 なにこれ。どういう状況? 意味がわからない。

 混乱の極致となった私は──心の中でこう叫んだ。


 娘じゃなくて私が好きなの!?

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