無限の蒼穹に浮かぶ巨大な石と鉄の城。
それがこの世界の全てだ。
職人クラスの酔狂な一団がひと月がかりで測量したところ、基部フロアの直径はおよそ十キロメートル、世田谷区がすっぽり入ってしまうほどもあったという。その上に無慮百に及ぶ階層が積み重なっているというのだから、茫漠とした広大さは想像を絶する。総データ量などとても推し量ることができない。
内部にはいくつかの都市と多くの小規模な街や村、森と草原、湖までが存在する。上下のフロアを繫ぐ階段は各層にひとつのみ、その全てが怪物のうろつく危険な迷宮区画に存在するため発見も踏破も困難だが、一度誰かが突破して上層の都市に辿り着けばそこと下層の各都市の《転移門》が連結されるため誰もが自由に移動できるようになる。
そのようにしてこの巨城は、二年の長きにわたってゆっくりと攻略されてきた。現在の最前線は第七十四層。
城の名は《アインクラッド》。約六千もの人間を吞み込んで浮かびつづける剣と戦闘の世界。またの名を──
《ソードアート・オンライン》。
鈍色に光る剣尖が、俺の肩を浅く抉った。
視界左上に固定表示されている細い横線が、わずかにその幅を縮める。同時に、胸の奥をひやりと冷たい手が撫でる。
横線──HPバーの名で呼ばれる青いそれは、俺の生命の残量を可視化したものだ。まだ最大値の八割以上が残っているが、その見方は適切ではない。俺は今、二割がた死の淵に近づいている。
敵の剣が再度の攻撃モーションに入るより早く、俺は大きくバックダッシュし、距離を取った。
「はっ…………」
無理やり大きく空気を吐き、気息を整える。この世界の《体》は酸素を必要としないが、向こう、つまり現実世界に横たわる俺の生身は今激しく呼吸を繰り返しているはずだ。投げ出された手にはじっとり冷や汗をかき、心拍も天井知らずに加速しているだろう。
当然だ。
たとえ、俺が見ている全てが仮想の3Dオブジェクトであり、減少しているのが数値化されたヒットポイントであろうとも、俺はいま確かに己の命を賭けて戦っているのだから。
その意味では、この戦闘は不公平極まるものだ。なぜなら、眼前の《敵》──深緑色にぬめぬめと光る鱗状の皮膚と長い腕、トカゲの頭と尻尾を持った半人半獣の怪物は、見た目どおり人間でないだけでなく本物の命も持っていない。何度殺されようと、システムによって無限に再生成されるデジタルデータの塊。
──いや。
いま、あのトカゲ人間を動かすAIプログラムは、俺の戦い方を観察し、学習して、対応力を刻一刻向上させている。しかしその学習データは、いまの一個体が消滅した途端にリセットされ、次にこのエリアに湧出する同種の個体にはフィードバックされない。
だから、ある意味では、あのトカゲ男も生きている。世界に唯一無二の存在として。
「……だよな」
俺の呟きを理解したわけもなかろうが、トカゲ男──レベル82モンスター《リザードマンロード》は、細長い顎に並んだ鋭い牙を剝き出し、ふるる、と笑ってみせた。
現実だ。この世界の全ては現実。仮想の偽物などひとつもない。
俺は、右手に握った片手用の両刃直剣をぴたりと体の正中線に構えた。
リザードマンも、左手の円盾を掲げ、右手の片刃曲刀を引いた。
薄暗い迷宮の通路に、どこからか冷たい風が吹き寄せてきて、壁のたいまつを揺らす。瞬いた炎たちが、湿った石畳にちらちらと反射する。
「ぐるあっ!!」
凄まじい咆哮とともに、リザードマンロードが地を蹴った。遠間から、シミターが鋭い円弧を描いて俺の懐に飛び込んでくる。空中に鮮やかなオレンジ色の軌跡が眩く輝く。曲刀カテゴリに属する上位ソードスキル、単発重攻撃技《フェル・クレセント》。射程四メートルを〇・四秒で詰めてくる優秀な突進剣技だ。
しかし、俺はその攻撃を先読みしていた。
そうなるように、わざと間合いを広く取り続け、敵のAI学習を誘導したのだ。鼻先数センチの距離をシミターの切っ先が駆け抜け、焦げ臭さを残すのを意識しながら、低い姿勢でトカゲ男の懐に密着する。
「……せあっ」
掛け声とともに、右手の剣を真横に切り払う。水色のライトエフェクトをまとった刃が鱗の薄い腹を抉り、血液の代わりに鮮紅色の光芒が飛び散る。ギャッ、という鈍い悲鳴。
しかし俺の剣はそこで止まらない。起こしたモーションに従って、システムが自動的に俺の動きをアシストし、通常では有り得ないほどの速度で次の一撃へと繫げる。
これが、この世界における戦闘を決定づける最大の要素、《剣技》──《ソードスキル》だ。
左から右へと跳ね戻った剣が、再度トカゲ男の胸を切り裂く。俺はそのままぐるっと体を一回転させ、三撃目がいっそう深く敵の体を捉える。
「ウグルルアッ!!」
リザードマンは、大技を空振った後の硬直が解けるや否や、怒りかあるいは恐怖の雄叫びとともに右手のシミターを高々と振りかぶった。
しかし、俺の連続技はまだ終わっていない。右に振り切られた剣が、バネに弾かれるような勢いで左上へと跳ね上がり、敵の心臓──クリティカルポイントを直撃した。
計四回の連続攻撃によって、俺の周囲に正方形に描かれた水色の光のラインが、ぱっと眩く拡散する。水平四連撃ソードスキル、《ホリゾンタル・スクエア》。
鮮やかなライトエフェクトが、迷宮の壁を強く照らし、薄れた。同時に、リザードマンの頭上に表示されるHPバーもまた一ドット余さず消え去った。
長い断末魔を振り撒きながら真後ろに仰け反っていく緑色の巨軀が、不自然な角度でぴたりと静止し──。
ガラス塊を割り砕くような大音響とともに、微細なポリゴンの欠片となって爆散した。
これがこの世界における《死》だ。瞬時、そして簡潔。一切の痕跡を残さない完全なる消滅。
視界中央に紫色のフォントで浮き上がる加算経験値とドロップアイテムリストを一瞥し、俺は剣を左右に切り払って背中の鞘に収めた。そのまま数歩後ずさり、迷宮の壁に背中をぶつけると、ずるずる崩れ落ちるように座り込む。
詰めていた息を大きく吐き出し、両眼をぎゅっと瞑ると、長時間の単独戦闘による疲労のせいかこめかみの奥が鈍く痛んだ。何度か大きく頭を振り、痛みを追い出してから、再び瞼を開ける。
視界右下に小さく光る時刻表示は、すでに午後三時を回っていた。そろそろ迷宮を出ないと、暗くなる前に街まで戻れない。
「…………帰るか」
誰が聞いているわけでもないがぽつりと呟き、俺はゆっくり立ち上がった。
一日分の《攻略》の終わり。今日もどうにか死神の腕をすり抜けて生き残った。しかしねぐらに戻り、短い休息を取れば、すぐにまた明日の戦いが訪れる。いかに安全マージンを取っていると言っても、勝利率が百パーセントではない戦闘を無限回続ければ、いつかは運命の女神に裏切られる時が来るはずだ。
問題は、俺がスペードのエースを引き当てる前に、この世界が《クリア》されるか否か──ということだ。
生還を最優先と考えるのなら、安全圏である街から一歩も出ず、ひたすら誰かがクリアしてくれる日を待つほうがずっと利口だ。しかしそうせず、毎日最前線に単独で潜り続け、死の危険と引き換えにステータスの強化を続ける俺は、VRMMOに骨の髄まで取り付かれた中毒者なのか、あるいは──
不遜にも、己の剣で世界を解放しようなどと考えている大馬鹿野郎か。
かすかな自嘲の笑みを口の端に刻み、迷宮区の出口を目指して歩き始めながら、俺はふとあの日のことを思い出していた。
二年前。
全てが終わり、そして始まった、あの瞬間を。