黒鉄宮の、もとは《蘇生者の間》であったところには、ベータテストの時には存在しなかった金属製の巨大な碑が設置され、その表面には一万人のプレイヤー全ての名前が刻印されていた。なんとも有難い配慮で、死亡した者の名の上には解りやすく横線が刻まれ、横に詳細な死亡時刻と死亡原因が記されるというシステムだ。
最初に打ち消し線を戴く栄誉を手にする者が現れたのは、ゲーム開始からわずか三時間後のことだった。
死因はモンスターとの戦闘ではなかった。自殺である。
ナーヴギアの構造上、ゲームシステムから切り離された者は自動的に意識を回復するはずだ、という持論を展開したその男は、はじまりの街の南端、つまりアインクラッドそのものの最外周を構成する展望テラスの高い柵を乗り越えて身を躍らせた。
浮遊城アインクラッドの下には、どんなに目を凝らしても陸地等を見つけることはできず、ただどこまでも続く空と幾重にも連なる白い雲が存在するだけだ。たくさんのギャラリーがテラスから身を乗り出して見守る中、絶叫の尾を引きながら男の姿はみるみる小さくなり、やがて雲間に消えていった。
男の名前の上に簡潔かつ無慈悲な横線が刻み込まれたのは、それから二分後のことだった。死亡原因は《高所落下》。二分のあいだに彼が何を体験したのかは想像もしたくない。実際に男が現実世界に復帰できたのか、それとも茅場の言葉どおり脳を焼かれるという結果を招いたのかはゲーム内部からでは知る術がないのだ。
ただ、そのように手軽な手段でここから脱出できるのなら、すぐに全員が外部から回線切断・救出されていてよいはずだ、というのがほとんどのプレイヤーの共通する見解だった。
それでも、男がゲーム世界から消えたあとも、この単純な決着の誘惑に身を任せる者は散発的に出現した。俺を含めたほとんど全てのプレイヤーは、SAO内での《死》に実感を持つことがどうしてもできなかった。
それは現在でも変わらないだろう。HPがゼロになり、体を構成するポリゴンが消滅するその現象は、あまりにも俺たちが慣れ親しんだ、いわゆる《ゲームオーバー》に近似しすぎていた。多分、SAOにおける死の意味を本当に悟るには、実際に体験する以外の方法はないのだ。その希薄感が、プレイヤーの減少に拍車をかける一因となったのは間違いない。
さて、《軍》やそれ以外の集団に属したプレイヤー、特に待機組に属した者たちが遅まきながらゲームの攻略を開始するにつれて、やはりモンスターとの戦闘で命を落とす者も現れはじめた。
SAOでの戦闘には、多少の勘と慣れが必要となる。自分で無理に動こうとせずシステムのサポートに《乗っかる》のがコツと言えるだろうか。
例えば、単純な片手剣上段斬りでも、《片手直剣スキル》を習得して剣技リストに《上段斬り》を備えた者が、その技をイメージしながら初期モーションを起こせば後はシステムがほぼオートでプレイヤーの体を動かしてくれるのに対し、スキルのない者が無理やり動きを真似ようとしても、振りは遅いわ攻撃力は低いわでおおよそ実戦で使えるシロモノにはならない。つまりある意味では格闘ゲームでコマンドを出すのに似ていると言える。
が、それに馴染めない者たちは握った剣をやたらと振り回すばかりで、初期状態で習得できる基本の単発技を出していれば勝てるはずのイノシシやオオカミに遅れをとる結果となった。それでも、HPがある程度減った時点で戦闘に見切りをつけて離脱・逃亡していれば、死という結果を招くことはなかったはずなのだが──。
スクリーンモニタを通して2Dグラフィックの敵を攻撃するのとは違い、SAOでの戦闘はその圧倒的なリアリティゆえに原始的な恐怖を呼び起こす。どう見ても本物としか思えないモンスターが、凶悪な牙を剝き出して自分を殺そうと襲ってくるのだ。
ベータの時ですら戦闘でパニックを起こす者がいたというのに、現実の死が待っているとなればなおさらだ。恐慌に陥ったプレイヤーは、技を出すことも逃げることすらも忘れ、HPをあっけなく散らしてこの世界から永遠に退場することとなった。
自殺。モンスター戦における敗北。凄まじい速さで増えていく、無慈悲なラインを刻まれた名前たち。
その数がゲーム開始一ヶ月で二千人という恐るべき数にのぼった時、残った全プレイヤーを暗い絶望感が包み込んだ。このペースで死亡者が増えつづけるなら、半年経たないうちに一万人が全滅してしまう。百層突破など夢のまた夢だ。
だが──人間というのは慣れるものだ。
一ヶ月と少し経った頃にようやく第一層の迷宮区が攻略され、そのわずか十日後に第二層も突破された頃から、死者の数は目に見えて減りはじめた。生き残るための様々な情報が行き渡り、きちんと経験値を蓄積してレベルを上げていけばモンスターはそれほど恐ろしい存在ではないという認識が生まれた。
このゲームを攻略し、現実世界に戻れるかもしれない。そう考えるプレイヤーの数は、少しずつ、だが着実に増えていった。
最上層は遥かに遠かったが、かすかな希望を原動力にプレイヤーたちは動きはじめ──世界は音を立てて回りだした。
それから二年。残るフロアの数は二十六、生存者六千人。
それがアインクラッドの現状だ。