1話 夏の日の空になりたい

    プロローグ


 やあ、僕はしろはじめ

 ADEMって組織で総司令の秘書官をしてる。上司やどうりようや部下からのしんらいも厚い、二十七歳、前途洋洋の若者さ。

 つらの皮が厚いとか、何を言っても馬耳東風とか、きんちようかんのネジがまとめてゆるんでるとか、いろいろうわさされてるけど、これも人気者ゆえ、愛されてる証拠。

 ……ほんとだってば。ま、こうでも思わないと中間管理職なんてやってられないともいうけどね。

 さて、寂しくなる話はこのくらいにして、今日はみねしまのことについて話そうと思う。

 僕が最初にNCTを訪れたのは今から五年前。入局して四ヶ月目のことだった。

 まだ研修を終えたばかりの僕が、国家最高機密であるNCTに行ったのは、ズバぬけて優秀で将来を有望視されたエリートだったから……と言いたいところだけど、予想の通り違う。恥ずかしながら人手不足。いつものウチらしい理由だね。

 大きい遺産犯罪事件が解決されたら、かなりの量の遺産が発見された。さらに重ねて大きい事件が二つ起こって、ADEMの職員もNCTの所員もおおわらわ。さんの海外出張も重なってたっけ。

 それで仕方なく新人の僕が、さして重要でないと思われる遺産はんにゆうの担当指名を受けた。遺産を持って、東京からNCT研究所まで、二十四時間限定二級のパスで日帰り出張ってわけさ。

 あの日の僕は遺産のコンテナとともに、ヘリコプターでNCT研究所に降り立った。

 そこで僕は峰島由宇に会った。NCTの地下1200メートルのあの部屋で。

 彼女はまだ十二歳だった。今みたいに拘束具でがんじがらめの姿じゃなく、もっと自由があったかな。孤独であることに変わりはなかったと思うけど。

 今よりもっと小さくて、真っ白な肌にしつこくの髪に、くろしんじゆみたいなひとみをしてた。彼女は本当にお人形みたいだったよ。中国の陶磁器の人形か、精巧な日本人形みたいだった。絶世の美少女って言葉は峰島由宇のためにあるんだと思った。

 うん、外見だけなら、彼女は本当に物語の中の「とらわれのお姫様」そのものだった。

 外見だけなら……ね。

 さて肝心のコンテナの中だけど、ドーベルマンっていうか、ケルベロスみたいな、一匹の黒い犬。ゲノム・リモデル実験のあわれなせい。厳重な強化ガラスのおりに入れられて、僕といつしよにNCTに運ばれた。

 僕の仕事は、その遺産の犬を担当者に引き渡して、仮の遺産ナンバーをもらって帰ってくること。本来なら、一時間もあればすむ、ほんとに簡単な新入局員のお使い程度のはずだったんだけどね。

 でも、事件は起こった。忘れもしない、五年前の七月十三日。

 梅雨が明けて本格的に暑くなり始めた、ある初夏の一日だった。


    1


「ええと、こまったな。第十七区画ってどう行けばいいんだ?」


 しろはじめみつまたに分かれた通路で、一人、途方にくれた。


「あの、すみません……あ、イタタっ」


 故意ではないのだろうが、肩を突き飛ばされた八代は情けない声をあげてしまう。職員は皆、殺気だった急ぎ足で、新入局員の八代の横を通り過ぎていく。

 限定二級の権限をもらい、無機質なゲートの中で大脳新皮質番号をチェックするため、赤い格子状のスキャニングの光が通り過ぎる数秒の間こそ「おお、それっぽい」とミーハーに喜んでいた八代も、だんだんと不安げな表情が勝ってくる。

 キョロキョロと観光客のようにものめずらしげに周囲を見渡していたのもつかのま、すぐに彼の口からともとれる独り言がこぼれた。


「もう少し親切な案内表示とかあってもいいと思うんだけどな。いくら国家最高機密っていったって、僕みたいに慣れない人間もいるんだし……。これじゃ、非常事態が起こったとき、逃げ遅れて死んじゃう人もいるんじゃない……?」


 声はどんどん小さくなってくる。

 就職する前から怪しい組織だとわかっていた。国家予算の0・2パーセントも使用しているにもかかわらず不透明な部分が多い。The Administrative Division of the Estate of Mineshima、通称ADEM。マッドサイエンティスト、みねしまゆうろうが残した、遺産と呼ばれる数々のオーバーテクノロジーを保管、管理し、遺産犯罪には時に武力行使で対処する、峰島の遺産管理局。日本の一組織であるにもかかわらず、国連の後ろ盾を持ち、時に超法規的な活動をも可能にする。ADEMとはそういう組織であった。

 その組織内でもNCT研究所と呼ばれるところは、極めつけのいんぺいだ。

 入局して四ヶ月。新人研修を終え、一ヶ月前に配属が決まったばかりの八代は、まさかこんなに早く、NCT研究所にこられるとは思っていなかった。知らせを聞いたときは、

 ──気分はエリア51の探検気分ですね。ついらくしたUFOからしたグレイ型宇宙人がいても、僕はおどろきませんよ。

 と上司に軽口をたたいたが、実際に見る堅実で地味な建物は、映画のようなどこかセットじみた感じがなく、妙な現実味があり、このまま自分の存在そのものがまつしようされ、この建物の中に永遠に閉じ込められてしまうような恐怖感を抱かせた。


「ああ、ダメだ、ダメだ。僕は何を弱気になってる。スマートに終わらせてさっと帰ろうじゃないか」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいたしろは、


「とりあえず右に行こう」


 と適当に台車を押しながら進み始めた。

 しかしすぐにまた、さんが現れ、八代を悩ませる。



「うーん。やっぱり間違えたのかなあ。右行って左行って左、二本目の角を右だろ……」


 先日の大きい遺産犯罪のためだろう。行きかう所員たちは皆、複数で連れ立って話し合いながらか、一人でも書類に没頭しながら歩いている。

 その中で、八代の目が一人の人間にとまった。

 白衣でなくストライプのシャツを着てIDカードを首からぶら下げた、いかにも技術者然とした男だ。右側の通路から一人で歩いてくる。

 八代は慌てて呼び止めた。


「あ、すみません、あのっ」

「なんだ?」

「あの、ちょっと道をお聞きしたいんですが、第十七区画へはどうやって……」

「ふうん? おまえ新人か? おれの顔と名前くらい、覚えてもらわないと困るな」


 せた険のある顔立ちがしろを見下すように言う。


「は、はあ、すみません」

「俺はなしたかし。この研究所を支えるLAFIを管理できる唯一の人間だ。覚えたか?」

「はあ……」

「なんだ、しまりのない返事だな。ん?」


 木梨と名乗る男がおりのぞき込んだ。


「なんだこの黒くて汚い犬っころは?」

「ゲノム・リモデルで改良された遺産だそうです」

「ふうん、普通のドーベルマンみたいじゃないか。ゲノム・リモデルのわりにはたいしたことない」


 木梨はちっちっちっと言いながら、ガラス越しに手を出す。


「危険ですよ」

「どうせ強化ガラスでさえぎられてるんだ。危険なもんかよ。それに危険なのはこんなチンケな犬っころじゃなく、こんなのを作った人間と……」


 床の下を見つめ、いまいましげに言う。


「あの親子だ。まあ、LAFIを発明した功績は認めてやるがな」


 高笑いしながら去っていく木梨と、それを見送る八代。


「あ、で、木梨さん、でしたっけ? 第十七区画へは……」


 そこにもう木梨の姿はない。さんの中央で再び八代はうーん、と頭をいた。


    2


 体が揺れる振動で、かれは目を覚ました。目を開けても辺りはくらやみで光はほとんどなかったが、もうまくにあるタペタムと呼ばれる層が光を反射し視界を確保する。

 周囲の状況は先ほどから変わりない。茶髪の若い男が、自分たちの乗ったガラスの檻を台車に載せて、右へ左へとたよりなくふらふらしながら歩いている。

 体に力が入らない。ろくに食事を摂取していないからだ。彼等はぐったりと床にはいつくばり、体力の消耗を抑えた。


「どうしたもんかな」


 彼等を運ぶ若い男が、先ほどと同じ言葉をり返す。


「今回、回収された遺産技術は全部で十九もあるんじゃ、まあ僕のこれなんかどうでもいいのもわかるけど」


 かれはじっとしたまま、その様子をうかがっていた。警戒し物音一つ立てず、茶髪の若い男の独り言を聞いているとそこに、聞きなれない声が混じった。


「どうしました?」


 声をかけてきたのは、メガネをかけたかつぷくのいい中年の男性だった。


「は、はい。ああ、助かったあ。あの、第十七区画へ、これを運ばなくちゃいけないんですが、今日初めてで迷ってしまって……、あ、あれ? もしかして、ここの所長のきし博士ですか? はじめまして、僕は今年入局して、先日第二総務部に配属されたしろはじめといいます。お会いできて光栄です」

「おお、これはていねいにどうも」


 茶髪の男が丁寧におをすると、岸田と呼ばれた男も同じように礼を返し、身をかがめ台車をのぞき込んだ。


「ほう、珍しいですね」


 岸田と呼ばれた男性は彼等が収まっているおりの周りをまわり、しげしげと観察した。


「ゲノム・リモデル技術で、ここまでれいに原形を保っているとは」


 岸田博士は彼等に興味深そうなまなしを送り、八代から差し出された資料を読んだ。


「八代君、といったかね? 資料はこれだけなのか?」

「はい。なんでも遺産の違法使用の証拠を隠滅しようとして、資料のたぐいはほとんどされてしまったとか」

わかるのは五つの遺伝子を組み合わせたキメラ、ということだけか。いやしかし、とてもそうは見えない。普通の犬ですな」

「普通?」

「ゲノム・リモデル技術が処置された生き物は、たいていどこかにいびつさが出てるものなんですよ。けれどこれは、綺麗に犬の原形を保っている。普通というのは、そういう意味ですよ。普通だからこそ普通でない。ふむ、これはなかなか興味深い。P4レベル実験室に空きがあったかな。いや、その前にあの娘に見せて意見を聞くか。檻は一度も開けていませんね?」


 岸田博士は檻を軽くたたく。彼等は一度だけ顔を持ち上げて、岸田博士のにゆうな顔を見た。


「はい。どのようなものか解らないので、一度も」

「それは結構。とりあえず奥へ運んでいただこうかな。私もこれから行くところだ。いつしよに行きましょう」

「助かります。ありがとうございます。正直、ここで遭難するんじゃないかと本気で心配してたところです」

「ははは。いつもなら、初めての人には案内の者がつくんですがね。見てのとおりこちらもバタバタしていて申し訳ない」

「いえ、そんな。恐れ入ります」

「ゲノム・リモデル技術にしては珍しい実験動物だが、今日はそれ以上に怪しい物も数多く入ってるのでね」


 かれおりはまたどこかへと運ばれていく。

 その間、彼等は伏して待つ。時を待っている。今はまだ動くときではないと、本能でわかっていた。


    3


「なっ!」


 しろおどろきのあまり眼下の光景をぎようしてしまう。きし博士はみねしまゆうろうの最高傑作があると言って八代を案内してきた。

 それがいかなるものか、八代は面白半分に様々な予想を立てていたが、すべて裏切られた。まさかありえないよなと、B級SF映画のようなことまで考えていたが、それすらかすりもしない。

 エレベーターから降りた先の部屋は床がガラス張りだった。その下にはいくつかの仕切りが設けられた奇妙な空間が広がっている。家の屋根をはずして、かわりにガラスのてんじようをはめ込んだような感じだ。

 その中にぽつんと、一人の少女がいた。こちらをじっと見つめている。


「お人形……じゃないですよね?」


 まだ十代前半に見える少女は、息をむほどに美しく、このさつばつとしたNCT研究所内ではさらに現実からかいしていた。


「人間ですよ。彼女の名前は……峰島


 その意味を理解するのに、八代は数秒の間を要した。


「え? みねしま? 峰島ってことは、まさか、峰島勇次郎の娘? 最高傑作って、Sランクの遺産ってあの子のことですか? 本当に?」

「驚くのも無理はありませんがね。彼女は正真正銘、峰島勇次郎の娘です。父親から受け継いだ知識のみならず、素晴らしい知性も持ち合わせている。司令からは、あなたには一度見せておいて欲しいと言われてましてね。どうやら期待されているようですな」


 しかし岸田博士の言葉が頭に入らない。


「でも、だからって、どうしてこんな扱いを?」

「危険だからです。遺産の知識を受け継いだ由宇君の存在が明らかになれば、世界はきようそうの渦に巻き込まれるでしょう」


 少女は天井がガラス張りの部屋にいる。部屋を仕切る壁こそあるものの、どこにいても天井からは丸見えだ。プライバシーゼロ。バスルームや寝室と思われる場所にさえ、くもりガラスはなかった。


「彼女の事情はおいおい話すとして……」


 しろきし博士が話しているのを、表情の乏しい冷たいぼうが見つめていた。


『それで、私にこのようなものを見せて、何をしろというのだ?』


 少女──みねしまてんじようから見下ろしている岸田博士に目をやる。由宇が目でさしたのは、ガラスで仕切られたとなりの部屋に運ばれてきた犬だ。犬は来たときと同じように伏せたままじっとし、あまり動きはしない。見ようによってはおびえているように見える。

 由宇の幼い声に似合わない大人びた口調に八代はおどろく。同時に外見通りのんだ声にも。

 岸田博士はにゆうほほんで、話しかける。


「五体のキメラらしい。合成した遺伝子の数も多いが、外見が犬と変わらないのも気になっていてね。本格的な調査に入る前に、一度由宇君に見せておこうと思った」

『それで私にどのような感想を期待する? 似たような立場と言って悲壮ぶり同情と共感の視線でも送ればいいのか? それともただ見るだけで、その五体の遺伝子を当てろとでも言うつもりか? どちらもお断りだ。ついでに言うとそのけいはくそうな若い男は気に入らない』

「え、なんで?」


 突然、鋭いまなしを向けられて八代はたじろいでしまう。

 しかし由宇は何も答えようとはせず寝室に戻っていった。そのままベッドに横たわると、シーツを頭からかぶる。


「由宇君? 由宇君?」


 岸田博士の呼びかけにも由宇は身じろぎ一つしなかった。岸田は大きく息をくと肩を落とした。


「ああなっては、てこでも動かないし口も開かないのですよ。すみませんな。気むずかしい子で」


 過去の経験からか岸田博士はあっさりと引き下がる。


「はぁ……えっと、僕はこれから、どうしたらいいでしょうか?」


 一目で気に入らないと言われたことを尾に引きながら、八代はなさけない声で岸田博士におうかがいをたてた。


「うーむ。由宇君の態度も気にかかるし、この犬はもう少し様子を見たほうがいいかもしれない。この後、君はまだここに?」

「はい、この遺産の受け渡し完了のサインがもらえるまでは帰れません」

「うむ、そうだったね。では、少し世間話でも、どうかね?」


 まだショックから立ち直っていない八代を思いやってか、岸田博士が優しく肩をたたく。


「しかし君は、このたよりなさそうな若者のどこが気に入られたのだろうな」


 ただ、独り言は聞こえないように言って欲しいと八代は思った。


    4


「だから私は思うのだよ。君の待遇は厳しすぎるとね。まだ十二歳の女の子だと忘れてるんじゃないかね、あの冷血漢は! いや失敬。いまのは言葉のあやだから忘れていただけるとありがたいですな」


 忘れるも何も、さっきからが冷血漢だと二十回くらい聞かされている気がする。きし博士の熱弁は二時間近く続いていた。すでに何回も同じ言葉をり返していたが、絶えることも飽きることもなく岸田博士のは続く。


「ははは、そうですよね。ちょっとひどいですよね」


 しろは適当にあいづちを打っていた。さっきとまったく同じ内容の相槌を打っても、岸田博士は気にした様子もない。相槌を録音してリピート再生していても気づかないのではないか。もしかして自分がここに派遣され、岸田博士がわざわざあの程度の遺産で自分を地下まで連れて行ったのは、愚痴聞き係に任命されたからではないかという説を本気で検討し始める。

 八代の表情があいわらいで凍り付いて二時間あまり経過したころ、異変は起こった。


「だから私は由宇君の生活環境の向上を願って、毎回嘆願書を……」


 岸田博士がこぶしを振り上げると同時に、部屋の明かりが消えた。


「おや?」


 八代と岸田博士は同時にてんじようを見る。蛍光灯の明かりは消えていて、かわりに非常灯の赤いランプがうっすらと部屋を照らしていた。


「停電ですか?」

「おかしいですな」


 岸田博士は首をかしげながら部屋の外をのぞく。部屋から外に出ると停電は自分たちの部屋だけでないのがわかった。廊下もうすぐらく、赤い非常灯がうっすらとどこまでも続いている。ざわめいたふんが、新人の八代にも異常な事態だと悟らせる。

 部屋に備え付けられた端末の通信機が鳴った。岸田博士が出ると、かん高い神経質な声が聞こえてきた。


『所長、第二十七から二十九区画の主電源が落ちました。現在は予備電源でどうしていますが……』

なし君か。原因は解るかね?」

『電源の落ちた区画の状況を考えると、その辺りの電源がショートしたんだと思います。いま環境ログをチェックしてるんですが、おかしいんですよ。どうやら高電圧の負荷が原因のようです』


 端末のモニターにマップが表示され、その一部が明滅する。


「ここから近いですね」


 横からしろのぞき込む。来て早々、異常事態とは間が悪すぎる。


「おかしいですな。この区画一帯は、先週総点検したばかりだというのに」

「ネズミが電源ケーブルかじったんじゃないですか?」

「ネズミに切断されてしまうようなケーブルは使用していないし、そもそもこの施設にネズミはいないよ」


 さすがみねしまゆうろうの遺産を管理する施設だなと、八代は奇妙なところで感心をする。人が生活する環境である以上、ネズミやゴキブリはつき物だが、ここにはそれがいないらしい。しかしだとしたら、原因はなんだろう。


「侵入者……なんてのは、ないですよね?」

『はん、無理だね。侵入するどころか、この研究所の場所にたどり着くことさえ不可能だよ。なんだ、おまえ、さっきの新人か? このNCTに対してネズミだの侵入者だのと、まったくとんちんかんなことを』


 ごうまんな口調で疑問に答えたのはきしではなく、通信機だ。


なし君、口を慎みたまえ」


 岸田博士はたしなめるものの、木梨の意見を肯定する。


「しかし彼の言ったことは正しい。この施設は第三者が侵入するどころか、発見すら不可能だよ」

「そうですね。ブレインプロテクトはかんぺきな技術と聞いています。差し出がましいことを口にしました。申し訳ありません。しかし、だとすると原因はなんでしょうか?」

「うむ。そうだな、推測ならいろいろ立てられるが。……いやあ、八代君、それにしても君は冷静で落ち着いているね。さんが見込んだのもうなずけるよ」


 岸田博士の高評価に八代が内心満足していると、スピーカーから所員の慌てた声が聞こえてきた。


『所長、大変です!』

「何が起こったのかね?」

『八代という新人が持ってきた、あの実験動物が消えました!』

「ええ! あの犬が? いきなり僕の初仕事にケチつくんですか! そんなあぁぁっ!」


 岸田博士が冷静だと評価した八代の態度が、れいに180度方向転換した。


    5


 ガラス張りのおりにほとんどすきはなかった。あるのはわずか数センチの幅しかないかんこうの穴のみ。大型犬が通れる大きさではない。


「ああっ、ほんとに消えてるっ!」


 何かの間違いであって欲しいという願いは、現実を目の前にしてに砕かれる。いましろにできることと言えば、頭を抱えてしゃがみ込むことくらいだ。

 さっきまでは考え込むきし博士を、大変だなと八代はどこかごとといったぜいで見ていた。冷静に質問してはいたものの、今日ここに来たばかりの自分に口を挟む余地はない。その冷静さは権限もないかわりに責任もない気楽な立場ゆえともいえた。

 しかし今は違う。小さいとはいえ、初めて自分にまかされた遺産の仕事を、つつがなく終えるというささやかな目標は、ぼうちようする宇宙なみの速度で八代から遠ざかっていく。


「いつ消えたのかね?」


 岸田博士の指示で、おりを映している監視カメラの映像が再生された。運ばれてきたときと打って変わって、犬は檻の中をせわしなくうろついている。かんこうが気になるのか、ときどきにおいをかいだり体を押し付けたりしているが、それ以外に目立った行動はなかった。


「あれ?」


 頭をかかえていた八代が顔をあげる。八代は犬を見てなんとなくおかしいと感じた。何か違うような気がした。


「どうしました?」

「それが……、いえ、続けてください」


 結局、八代は感じた違和感をうまく説明することができず、言葉をにごす。

 そして監視カメラにも停電が訪れる。そのしゆんかんだけ、映像が切れた。しかしすぐに予備電源に切り替わり、映像が再開する。空白の時間は一分にも満たない。再開した映像の中で、強化ガラスの檻はヒビ一つないまま保たれている。だというのにあるべきはずの黒い姿がない。


「……消えた」


 檻の中から犬の姿は消えていた。


「ううむ」


 うなる岸田博士に通信が入る。


『所長、大変です。またしても停電が発生しました! 今度は第十一、二十三、二十四区画の三箇所です』

「いったい何が起こってるんだ?」


 おどろく岸田博士のとなりで八代はいまだ恨めしそうに檻を見ている。しかしどんなに見つめても、犬が見つかるはずもない。


「はあ……」


 檻の前にしゃがんでいる八代のもとに、岸田博士が近づいた。


「八代君、まあ、そう気をおとすな。司令に連絡を取り、E─109の許可を取るように手配したから」

「E─109?」

「今日運ばれてきた遺産の何かがこの事態を巻き起こしている。私はそう考えるのだよ」

「はあ、それでE─109って? あ、そうか、僕も今は見られるんだっけ」


 しろはPDAを出すとパスワードを入力し、E─109の項目を参照する。今日えつらんが許可されたばかりの項目で、まだ一度も目を通してはいなかった。


「なんか長くて回りくどい文章だなあ。こういうのってわざとわかりにくくしてあるとしか思えないですよね。ようはS─00001に協力させて事件を解決するってことですか?」

「そうだ」

「それでS─00001ってのは……あっ」


 八代は足下のはるか下にいる少女のことを思い出した。


    6


 八代ときし博士が二人並んで現れたとき、の表情はすでに不機嫌の三文字をり付けていた。


『断ると言ったはずだ』


 マイクの電源を入れると間髪入れず、少女の硬い声が飛び込んでくる。


「由宇君、君の力が必要なんだ。たのむから助けてくれないか? 君の知恵が必要だ」


 いつしゆんたじろいだ岸田博士だが、すぐに気を取り直すと言った。


「最初の停電発生から四時間。なぞの停電はすでに六箇所で発生している。その混乱に乗じて、今日運ばれてきたばかりの実験動物が逃走。その手段も解らないという状況なんだ。侵入者の可能性も考えたが、警備を強化したあとも停電の発生は続いている。だれかのかい工作ということも考えにくい。正直、お手上げの状態なのだよ」


 岸田博士の言葉を八代が引き継ぐ。


「僕からもお願いするよ、おじようちゃん。停電がこのまま拡大すると十二時間後にはNCT研究所の20パーセントの施設が停電を起こし、復旧もままならなくなる。これ以上、研究所の機能をさせるわけにはいかない」


 と言葉を区切り、


「んですよね?」


 と岸田博士にあいづちを求める。


「うむ、そうなのだ、由宇君。だから……」

「それに、僕のかがやかしい出世街道もかかってるんだよ、お願いするよ」

『この施設がどうなろうと、私の知ったところではない』

「僕の将来は?」

『若いうちからせつを知っておくのもいいだろう』

「そんな! ただでさえ少ない初任給がいきなりげんぽうだなんて、あんまりだよ!」


 しろの叫びにも、きし博士のこんがんにも我関せずといった態度で、はベッドに転がって本を読む。タイトルすら読めない言語で書かれた洋書を、足をぶらつかせながら読む姿は、とりつく島もなしと自己主張している。


「よし、停電のことはいい。しかし遺産技術であるゲノム・リモデルの実験動物のしつそうは、由宇君も決して無関心ではいられないのではないか?」


 ぶらついている足が止まった。本の陰から由宇の顔が半分だけのぞく。気分を害しているのは明らかだった。慌てて八代がフォローする。


「あの、その言い方はどうなんでしょう。この子のせいじゃないのに……、父親が作ったものをいくら頭がいいからってこんな小さい子に責任をとらせるみたいな言い方は、その……」

「ああ、その、そうだな。……すまない、由宇君」


 本の陰から二人のやりとりを見ていた由宇が、不機嫌そうに本をバタンと閉じ、ベッドから起き上がった。


『そこの茶髪の八代とか言う男。気遣いは無用だ』

「え、あの……それって?」

『ゲノム・リモデル技術を作ったのは私だ。五歳のときだ』


 だから私が責任をとる、とその小さな少女のひとみは語っていた。


    7


 八代たちが見た実験動物の失踪映像を、由宇はつまらなさそうに見ていた。いったん停電が起こり、電力が復旧したときにはもう犬の姿はどこにもない。まったく不可解な映像を見た由宇の第一の感想は、


『ふぁあああぁ、んー』


 大きなあくびだった。


「おぎようが悪いよ、由宇君」


 たしなめる岸田博士もどこかずれている。


『昼寝の最中にたたき起こされた。空気をとりこんで、頭をすっきりさせただけだ。さあ、早く解決しよう』

「君はこの状況を予測していたの?」


 おどろきのうすい由宇の反応を見て、八代はそう判断した。この少女なら、その程度のことを予測していても不思議ではない、ような気がする。問いに由宇は、ただ首をすくめるのみ。肯定でも否定でもない。


「その映像を見て気づいたことはないかな?」


 しろは根気強く質問を続けた。げんぽうだけはごめんだ。


『犬が消えた』

「それは見ればわかるよ」

『停電』

「それも見れば解る」

『それから、犬が小さくなった』

「だからそれも見れば解る……って、え?」


 半眼のまなしは鹿にされているような気がするが、あえて無視した。


「いまなんて言ったの?」

『それから』

「そのあと!」

『犬が小さくなった』

「そ、それだ!」


 先ほど八代がおかしいと感じつつ、説明がつけられなかった不安の正体を、少女はあっさりと口にしている。


「そうだ。小さくなっているんだ」

『気づくのが遅い。停電の十二分十七秒前、体積がおよそ0・3パーセント小さくなっている。どうしてだれも気づかない』

めんぼくない」


 小さくなって謝るきし博士。


『八代と言ったか? おまえもADEMの職員なら、それくらい気づけ』

「え? モニター越しの目視で0・3パーセントに気づけだなんてそんなちやな、いえ、はい、ごめんなさい……」


 八代は謝りながらも感心した。


「じゃあ、君はもう、犬が小さくなった理由を解ってるんだよね?」

『まあな。とりあえず、停電の状況を説明してもらおうか』


 由宇の言葉に岸田博士の表情が明るくなった。


「由宇君、そちらも協力してくれるのか!」


 苦虫をつぶしたような表情で、由宇はしぶしぶ答える。


『したくはないが、結果としてそうなる。現場を見せてもらえないか』


 対し、岸田博士は苦渋の表情で答えた。


「すまない。それはできない」

『解った。ならば十二時間後に30パーセント、二十四時間以内には95パーセントの電源系統に異常をきたすだろう』

「待ってくれ、君。今、二十四時間以内に95パーセントと言ったか? それは我々がたてた予測とはあまりにもかけはなれている」

『だろうな。君たちはまだこの原因となっているものの性質を知らない。まあ、それもいいだろう』


 冷たく突き放すと由宇は再びベッドに横になった。そのままシーツにくるまって本格的に寝る姿勢になった。


「原因の性質? なんだいそれは?」

『さてね。知ったところで、君達に対処できるとは思えない。ふぁああ』

「冷たいなあ。教えてくれてもいいじゃないか、ねえ」


 こんがんするしろの横で、きし博士に一人の職員が耳打ちをする。


「三区画で電源系統に異常が起きました。予測を上回る速度で進行中です」


 岸田博士の迷いは消えた。


「条件付で許そう。すまんが、由宇君、協力してくれないかね?」

『ん?』


 寝ぼけた顔で由宇はてんじようを見上げる。


「うわ、ほんとに寝てた!?」


 八代は少女の度胸と落ち着きに、ただ感心するしかなかった。


    8


 小さな体を目の前にして、八代は改めて目の前の少女がまだ十二歳なのだと実感した。背の高さはまだ自分の胸元くらいで、手足も細くきやしやだ。


「なんだ?」


 不機嫌なまなしで由宇はにらんでくる。細い手首にはかせがはめられ、痛々しい。背後にいる四人の銃を持った警備兵は、由宇の警護と言うよりも逃走を防ぐための見張りだ。


「私も厳しすぎるとは思うんだが」


 八代の心情を読んでか、はたまた己の心情か、岸田博士は苦渋の声をこぼす。


「彼女って、もしかしてすごい遺産技術の能力を持ってたりするんですか?」

「いや、頭脳以外はごく普通の女の子だ。たまに運動している姿も見かけるが、運動能力は同年代の子供の平均値より下回る。あんなところに五年も閉じこめられていれば、無理もない話なんだが」

司令の指示ですか?」

「ですな。まあ、彼だけのせいではないのですが。国家としての指示、と言い換えてもいいでしょう。しかしなにもここまで警戒する必要もないのに」


 確かにとしろは思う。どんなに頭脳がすぐれていてもたかだか十二歳。この子供がこの厳重な施設から抜け出せる道理はない。


「でもまあ、いまこの研究所内ではおんなことが起きてますし、彼女の警護は必要だと思いますよ」


 八代のフォローにもきし博士の表情は変わらない。そのようなべんでは、気持ちは晴れないのだろう。


「E─109では、最低でもD型かそれに相当する装備をした熟練の兵士四名に、見張らせるべしと書いてあるだろう。何を後ろめたく思う必要がある」


 少女の淡々とした口調が、かえって八代の罪悪感を強くする。


「のんびり話をしている時間はあるのか?」


 両手の自由を奪われているためか歩きにくそうに、は近づいてくる。その後ろをつかずはなれずにいる警備兵の姿があった。警護なら四方を固めるものだろうが、かれがついているのは背後のみだ。


「行くぞ」


 由宇は岸田博士や八代を無視して先に進む。二人は慌てて由宇の前を歩き出した。後ろではなく前を守る。そんなあんもくの了解が、八代と岸田博士の間にいつのまにか生まれていた。


    9


「由宇君、疲れていないかね?」


 後ろを振り返って、岸田博士が問う。


「まだ100メートルも歩いていない」

「そ、そうだったかな。のどは渇いていないか? おなかはすいてたりしないか?」

「一時間三十二分前に食事を取ったばかりだ」


 あきれながら由宇はそれでもりちに答える。


だん、どんな食事をしてるんですか?」


 八代は興味本位で岸田博士に聞く。


「栄養のバランスを重視したものですよ。味にも気は遣っていますが。ああ、それと食事のカロリーと成分も本人の要望で見せてます」

「へえ、そういうところを気にするのはやっぱり女の子なんだね。でも少しせすぎじゃないかな?」


 由宇は何も答えない。


「私もそう思うのだが、由宇君はこれでいいと言うのでね。少し瘦せているが、これで丁度いいと言い張るのだよ」

「ははあ。でもあまりダイエットを気にしすぎると、大きくなれないぞ」

「ダイエットなどというものではない。第一、比べる対象もないのに、体重の重さだの背の高さを気にしてどうする?」


 の思いがけない返答に、しろは言葉にきゆうする。


「あ、ああ、そうだったね。うん、ごめん。失言だった。あっと、ここかな」


 事件の起こった場所の一つにたどり着いた。配電盤のある狭い通路は、発電機のついたライトで明るく照らされていた。

 通路は高電圧のためか黒こげになり、配電盤も例にれなかった。


「いまはもうこの一帯の電力をカットしてあるから、危険はない。安心して調べてくれ」


 由宇はそのまま何をするでもなく周囲を見渡している。

 しばらくして配電盤のそばをはなれると、通路の奥へ何メートルも進んでしまう。警備兵が慌てて後ろからついてくる。しかしすぐに由宇は引き返して、警備兵のわきを通り抜ける。慌ててきびすを返した警備兵たちは、また由宇の後ろ姿を追う。一人の少女に振り回される大の大人はこつけいだった。

 由宇はおもむろに白い粒を拾い上げると、それをしげしげと眺める。八代は横からそれをのぞき込む。


「なんだい、それは?」

「米だ」

「こめ? こめってご飯のお米のこと?」


 由宇は姿勢を低くして、床を注視する。


「ああ、無視? 小さいときからそんな態度だと、ろくな大人になれないよ。年上の人間を無条件で敬えとは言わないけど、もっとほら、こう」

「ろくな大人とはどういうものだ? 私をここに幽閉している人間達はろくな大人なのか? それと少しおしゃべりが過ぎる。捜査のじやだ。だまってろ」

「はい、ごめんなさい」


 十二歳の少女にたしなめられた二十二歳の若者は、おとなしく小さくなる。それでも由宇の行動に興味を持ち、八代は捜査する姿をじっと観察していた。

 となりでは八代が黙ったら何か話しかけようと待ち構えていたきし博士が、結局何も言えないまま、しょんぼりうなだれていた。

 じっと床を眺めていた由宇はさらに通路を進むと、何かを拾い上げる。


「今度は何を拾ったの?」


 由宇がつまんでいるのは細く軟らかい毛だ。


「毛? 人の毛じゃないよね。動物の毛かな? ってことは僕が持ってきた……」

「たぶんネズミだ」


 逃げた犬と言おうとしたしろは、口を開けたまま言葉の行き場を失う。


「え、ネズミの毛って、じゃあネズミはここにいるんじゃないか。あっ、そうか。ネズミが電力コードをかじった……ってわけじゃないよね?」

「半分正解」


 一度はきし博士に否定された仮説を、は半分だけだが、こともなげに肯定する。


「由宇君!」


 岸田博士は由宇に詰め寄ると、その手から毛を奪った。


「雑菌がついたらどうすんだ!」


 ──うわっ。

 その過保護ぶりに八代は心の中で嘆息する。


だいじようだ。このネズミに雑菌などありえない」


 しかし由宇はあきれるでもなく、感情を表に出さず不思議な言葉を残す。


「雑菌がありえないってどういうこと? 半分正解って?」

「このネズミのある性質が、結果的に殺菌するからだ。ここから一番近い食料庫に行く」

「もうちょっと具体的に疑問に答えてもらえると、うれしいなっていうか、報告書が書きやすいな、なんて」

「なんでもすぐに人に聞くな。少しは自分で考えろ。思考ほうは許されない罪悪の一つだぞ」

「はい、すみません……」


 すでに由宇は歩き始め、八代はむなしい気持ちのままあとをついていった。ネズミと米から食料庫に行くというのはもっともに思える。しかしいま彼女が調査しているのは遺産技術が使われているしつそうした犬の調査だ。なぜネズミを探すのか。


「うーん」


 腕を組んでうなっているところに、岸田博士へきんきゆう通信が入る。また停電の報告かと思ったが、その予想は裏切られた。


「今度はなんですか?」

「人が倒れたらしい。原因は不明だそうだ」


 次々と起こる異常事態に、岸田博士の表情はくもるばかりだ。岸田博士の頭頂部の髪の毛のうすさを、八代はいまさらながら納得した。あのバーコードはあと数年で消えるだろう。


    10


「はん……えっと、現場はここですか?」


 八代は思わず、現場の前に犯行とつけそうになるのを、慌てて言い直す。しかし現場が「KEEP OUT」の文字が印刷されたテープで仕切られていると、どうしても犯行現場と言いたくなってしまう。

 中では男性が倒れ、となりで白衣を着た人間が症状を診察していた。


「いったい何が起こった?」


 慌ててかけてきたのはきし博士としろ、あとにかせをはめられく走れない、そして警備兵と続く。由宇の姿を目にとめると、うまに集まった人々はおどろき、いっせいに道を開けて顔をそむける。あからさまにかかわりたくないと言っている。

 由宇はその間を、表情一つ変えず進む。

 いつしよにいる岸田博士が手当てをしている医師に問いかけた。


だいじようなのかね?」

「はい、ただ気を失っているだけです」


 倒れている男の意識はないが呼吸は落ち着いていた。大事に至っていないことに、岸田博士はほっと一息をつく。


「原因はわかるかね?」

「いま、調査中です。おそらくこれが原因だと思うんですが」


 医者が男のズボンをめくると、火傷やけどの跡があった。しかし範囲はごく狭く、それだけで気を失うとは思えなかった。


「単なる火傷に見えるが」


 岸田博士は傷跡を見て首をかしげる。


「違う。でんげきしようだ」


 後ろから見ていた由宇は即座に否定した。


「電撃症……感電かね?」


 八代がぽんと手を打った。


「ああ、そうか。これは停電を起こした犯人のわざだ! 犯行現場を見られた犯人は、停電に使った高電圧出力機を口封じに使った。どう? いいセンいってない?」

「違う」

「う……解ってるよ。ちょっと言ってみたかったんだ。でもいいセンいってると思うけど」

「名探偵ごっこがやりたいなら、こんな組織ではなく警視庁にでも入ったらどうだ?」


 由宇はどこまでも冷ややかだった。


    11


 明かりが消えた。


「なんだ?」



 なしてんじようを見上げ、辺りを見渡す。非常灯のたよりない明かりでは、かえって不安を増長させた。

 すでに十箇所で電源に異常が起きている。どこかごとのように感じていた木梨だが、十一箇所目はわが身に降りかかった。

 すでに停電が始まり四時間が経過していた。いまだにはっきりとした原因はつかめていない。ただショートした電源箇所は例外なく高圧電力によるげた跡が残っていた。


『第十一区画の電源がダウンしました』

『第七区画、食料庫もダウンしました』


 しかし停電でもLAFIのシステムは生きている。LAFIの電源はもっとも厳重に保護されている。だが次々と届く報告は、恐怖におびえる木梨の耳に届いていなかった。


「なあ、おい」


 部下に呼びかけようとして、だれもいないことに気づいた。誰もが原因不明の停電さわぎに、各区に出払っていた。

 電子音だけが低く鳴りひびく。


「なんだよ、誰もいないのかよ」


 誰もいない部屋の中で、声を大にする。あとに訪れる静寂が寒々しい。


「くそっ!」


 乱暴に立ち上がるとが倒れる。床を転がる音に思わず肩をすくめた。

 不安そうに辺りを見る。見慣れたはずのLAFI制御室は、赤くいろどられただけで、見知らぬ部屋のようだ。

 辺りを見渡しながら、倒れた椅子を起こす。カラカラと音が鳴ったのはそのときだった。起こした姿勢のまま、木梨の姿勢は凍りつく。背後からカラカラカラカラと音が迫る。何かが足に触れた。


「ひゃっ!」


 床を転がり木梨はしりもちをついたままあとずさりする。


「え、あ?」


 しかし足に触れたものの正体を目にして、気の抜けた声を出した。椅子だった。カラカラという音はキャスターの転がる音だった。


「なんだおどかすなよ」


 このときばかりは周囲に人がいないのにほっとしながら立ち上がる。再び倒れた椅子を起こそうとして、ふと疑問がいた。当然湧き上がるはずの疑問だったのだが、あえて意識の外に追いやられていた。

 誰もいない部屋で、なぜ椅子が動いたのか。

 さらに疑問が重なる。あえて考えないようにしていた現象を、なぜいま強く思い描いてしまったのか。

 視界の隅で非常灯の淡い明かりが影を映す。

 しかしなしだれかが戻ってきたとは考えない。人はあれほど大きな影を持っていない。人はあれほどゆがんだ四肢を持っていない。人はあのようなうなり声をあげない。

 影に続いて物陰から体の一部が現れた。現れたのは犬の脚だ。しかしそれは犬の脚であるはずはなかった。犬の脚は人の背丈ほどもない。もしあの脚の上に犬の体と首と頭が続いているのなら、その高さはてんじようのそれに匹敵する。

 そのような生き物がNCT研究所内をうろついているはずがない。たとえいたとしても、扉をくぐれるはずもない。誰にも気づかれず、NCT研究所内でも屈指の重要区画に侵入できるはずもない。

 しかしあらゆる否定材料を無視して、見上げんばかりの巨大なけものが、目の前に立ちふさがった。青白い光が、獣の体をぼんやりと赤いやみから切り取る。


「ひっ!」


 獣がえたのを境に、木梨の意識は闇に閉ざされた。


    12


 かせをはめられてもなお、すたすた歩くをはさんできし博士としろはひたすらついていくしかない。前を守る決意は、自分たちの力不足の前にもろくも崩れ去る。由宇の横を半歩下がって歩く岸田博士と八代。その三人の微妙な三角形の形は、まるで廊下をさつそうと歩く女社長に御意見をうかがう重役達のようだ。


「ゆ、由宇君、どうして食料庫なんだ?」

「ネズミの毛があって、食料がある。となれば食料庫は当然の帰結だと思うが」

「しかしこのNCT研究所にネズミはいない。がいじゆう対策はかんぺきなはずだ。いまのいままで、そんな被害は聞いたことはなかった」

「その過信はあだになるぞ」


 由宇の言葉は五分後、目の前に現れる。居住区のそばにある食料庫の一つに入った岸田博士は我が目を疑い言葉を失った。


「なんだって……」


 米やパン、保存食品が食い荒らされ床に散らかっていた。


「やあ、見事にやられたもんですね」


 しろは頭をきながら、食料が散らばる床をみしめて、奥へ進む。


「もったいないなあ。でもこれだけ食い荒らされてるってことは、一匹や二匹じゃないですよね」


 カリカリと何かを砕く音が聞こえたのはそのときだ。倉庫の隅で一匹のネズミが、食料らしいものをかじっていた。


「ああ、決定ですね。ネズミですよネズミ」

「おかしい。そんなことはない。それにもしネズミがいるなら、いままで監視カメラに映ってないはずがない」

「でも現にいるじゃないですか。監視カメラをける知性なんてネズミにはないだろうし」


 近づこうとする八代を小さな手がさえぎって止めた。


「監視カメラを避けるのに知性は必要ない」

「どういうことかね?」

「すぐにわかる。あのネズミを銃でねらって欲しい。狙うだけでいい。つな」


 から奇妙な要求をされた警備兵は戸惑いの表情できし博士を見るが、そこには指示に従うようにとうなずく顔があった。


「では」


 警備兵は肩にかついでいたライフルを構える。どこか鹿鹿しいという表情をしていた。レーザーサイトまでついた護衛には充分すぎるしろものだ。しかしネズミに狙いを定めることはできなかった。狙う前にネズミが移動してしまう。


「あっ、くそ」


 なかなか捕まえることができない警備兵は、いらちに声を荒らげる。


「へえ、銃に狙われているって解るのか。かしこいなあ」


 感心する八代に、


「では、君が銃で狙ってみろ」


 由宇の指示が飛ぶ。八代はふところから拳銃ベレツタを出すと、狙いをつけた。逃げることを想定して、意気込んで狙いを定めてはみたものの、ネズミは警備兵に狙われたときと違い、のんに食料をかじっている。


「やはりこうなったか」

「どういうことなんだね由宇君?」


 八代は感心し何度もうなずいた。


「なるほど、これが監視カメラに収まらない理由か」

「察しがいいな。ただのうるさいだけの男ではなかった」

「これでもだてにADEMに入ったんじゃないからね」

「すまなかったね、だてにNCT研究所にいて」


 五十歳を直前にした小太りな中年男は、顔を真っ赤にしていじけている。


「あ、いや、ほら、たまたまです、たまたま」


 しろが必死にフォローしても効果がない。


「監視カメラが暗いところでも、そう、ルクス0でも映像が映せるのはなんでだと思う?」


 見かねたは盛大にため息をつくと、ヒントを出す。


「赤外線を照射して、それを映してるんだ。いくら私でもそれくらいはわかるよ」


 五十代直前男は、まだいじけていた。しかし、すぐに何かに気づいたのか、八代の持っているけんじゆうと警備兵の持っているライフルを見比べる。


「レーザーサイト! そうかネズミは銃にねらわれたからではなくて、レーザーサイトの赤外線を嫌ったのか!」

「そう、ネズミたちは赤外線の光のないところでしか活動はしない。つまり監視カメラの赤外線には近づかないから映りようがない」


 きし博士の赤かった顔が一気に青白くなった。


「赤外線をける、そんな習性のネズミはいまだ聞いたことがない。これはあきらかに人為的に付加されたものだ。大変なことになったぞ!」

「食料庫をひようろうめですか。ずいぶんと地味な作戦ですね。それにこの研究所には、ネズミ一匹侵入できないんじゃないんですか?」

「ぐっ」


 八代の言葉をもっともだと思ったのか、岸田博士は言葉をつまらせてしまう。二人が会話している間も、由宇は散らかっている食料を手にとっては、ネズミと見比べている。


「失われた食料から推察できるネズミの数を割り出してくれないか。二百匹以内ならよし」

「に、二百! この研究所内にネズミがそんなにいるというのかね?」


 岸田博士はおどろくが由宇は浮かない表情を見せるばかりだ。


「とりあえずそこのネズミを捕まえてくれ」


 なしたかしおそわれたという事件が届いたのは、その直後だった。


    13


「木梨君もでんげきしようが全身に見受けられた。しかも最初のせいしやより重傷だ」


 医務室から出てきた岸田博士は深刻な顔をする。


「しかしまずいな。彼がいなくなったらLAFIを使いこなせる人間はいない。このような非常時に、不安要素が増える。しかも監視カメラに映っていた木梨君を襲ったらしい影の正体が解らない」

「影しか映ってなかったのは残念でしたね」

「あんな大きな生き物がこの研究所内にいたら、いやおうなく気づく。そもそもせんにゆうできるはずがない。わからないことだらけだよ。と、君はどこにいった?」


 きし博士は、少女がいないことに気づくと大慌てで周囲を見渡す。


「今はラボのほうに行きました。さっき捕獲したネズミを調べたいって言って」

「なんだって!」


 どたどたと走る岸田博士の後ろから、しろは軽快な駆け足でついてくる。


「それとこうも言ってました。世界を滅ぼしたくなければ、NCT研究所をぜんふうしろって」


 岸田博士の足が止まる。


「世界が滅ぶ? あの子がそう言ったのか?」

「ええ。ゲノム・リモデル技術の集大成だそうです」

「なんてことだ。今日運ばれてきたばかりの同技術の犬も行方不明だというのに。どうしてこうも立て続けに問題が起こるんだ」

「同じらしいですよ」

「何がだ?」

「犬のネズミ」

「はっ?」

「ああ、それと停電さわぎも同じだって。こうも言ってました。これほどまでに鹿らしくて、これほどまでに成功した遺産兵器は、数えるほどしかないだろうと。だからゲノム・リモデル技術の傑作らしいです」


    14


 由宇は1200メートルの地下に戻り、自室のラボにいた。そこでガラスケースをじっと観察していた。しかし中にあるのはこぶしより小さな石だけで、ほかには何もない。

 鬼気迫る後ろ姿に岸田博士と八代は声をかけるのをためらっていたが、耐えきれなくなってついに岸田博士が話しかけてしまう。


「由宇君、何を見ているんだね?」

「ネズミだが」


 ガラスケースから目をはなさず、由宇は簡潔に返事をする。



「いや、どこにもネズミはいないんだけど。透明人間、じゃなくて透明ネズミ? それとも妖精さんでも見てる?」

「馬鹿には見えないという可能性は考えないのか?」

「いやーはっはっ、一本取られたなあ。それで本当はなに見てたのかな?」


 由宇はゴム手袋をはめると、無造作にガラスケースの中に手を入れる。小さな手がつかんだのは、中にたった一つ入っていた石だ。


「ここにいる」

「何が?」

「ネズミ」

「ははあ。冗談にしてはいまいちかなあ。うわっと!」


 が無造作になげた石をしろは慌てて受け止めた。予想されていた硬い感触を裏切るしようげきが手のひらに残る。


「え、これって? うわっ、うわっ!」


 石を右手と左手でキャッチボールする。まるで熱いものを持っているかのようだ。


「八代君、この非常事態に何をしているのだね」


 きつい口調でたしなめるきし博士に八代は、


「はい、パス」


 と石を投げつける。


「危ないではないか。 うわっ、うわっ!」


 石を受け取った岸田博士は、八代と同じように右手と左手でキャッチボールする。


「ゆ、由宇君、これはいったいどういうことなんだね? なぜこの石はこんなにもしびれて……ひっ、わっ、あつっ」

「やっぱりしびれるでしょ。ほら僕と同じことをした」


 二人の様子を静かに見ていただが、きし博士から手袋をした手で石をつまみ上げる。二人は石の様子がおかしいことに気づいた。

 由宇の手から垂れたヒモの下に石がぶら下がっている。


「5ボルトから10ボルトの電流を発しているから、痺れるのは当然だ」

「当然って、石が電流だすのは当然じゃないと僕は思うんだけど」

「石ではない」


 由宇が指ではじくと、石がもぞもぞと動き始めた。やがて色が変わり、形が変わった。


「あっ!」

「なんだってっ!」


 二人同時におどろいた声を出す。石に見えたのは丸まったネズミの体であり、ぶら下げているヒモに見えたのは、しっぽであることに気づく。


「保護色か、なるほど、カメレオンだね」

「色の変異パターンから察するにタコ、ヒョウモンダコだろう。タコの保護色能力は、カメレオンとは比べものにならない」

「監視カメラの赤外線をさけて、なおかつ保護色で周囲と同化する。これでは見つからないはずだ」


 キキキッと泣きながらもがいているネズミは、しばらくするとまた体の色を変えて体を丸めてしまった。


「うわあ、まりみたいだねえ。停電の原因って、これ?」

「そのネズミが発生する電気はせいぜい数ボルトだ。デンキウナギを初めとする発電魚と呼ばれる種類は、体内に発電板と呼ばれる細胞を何千枚も持っているため、数百ボルトの発電を可能としているが、このネズミの体の大きさではせいぜい10ボルトが限界だろう」

「10ボルトでは、とうてい停電を起こすのは不可能ですな」


 岸田博士が首を振る。


「その秘密はこれだ。しっぽを見てみろ」

「傷があるね。なんで?」

「思考をほうするなと言ったはずだが」

「そんなこと言われても、わかんないよ。凡人のワトソンは、おとなしく名探偵ホームズに聞くほうが早い」

「じゃあ、問題だ。あのネズミはいったいどこから来たのか」

だれかがだまって運んできた? スパイがいる?」

「そんなことはありえない。ブレインプロテクトがあるからスパイ行為は不可能、それに何かを持ち込もうとしても、正面ゲートのチェックで気づかれるはずだ」

「でも現に普通とは言えないネズミがいますよ」


 議論する二人を横目にはネズミをケースの中に戻す。


「何を悩む? 簡単な足し算と引き算だ。ここにいないはずのネズミがいる。ということは、いなくなったものを考えればいい」

「「いなくなったもの?」」


 きし博士としろは異口同音に問う。


「いや待ってくれ由宇君。確かに犬が一匹いなくなったが、もしかしてそれがそのネズミだというつもりかね?」

「いくらなんでも大きさ、違いすぎるんじゃないかなあ」

「だから思考をほうするなと言っている。このネズミはゲノム・リモデル技術で五種類の生物の特徴を掛け合わされたキメラだ。いまわかっているだけで、まずベースとなるネズミ、タコの保護色、発電魚の発電能力、あのはんしよく能力はショウジョウバエか。それにもう一つ付け加えれば、いろいろなことに説明がつく」

「もう一つって、犬じゃないの?」

「不正解」

「え? じゃあ僕が連れてきた犬はなに? あ、思考は放棄してないよ。僕の灰色の脳細胞が、目の前にいる女の子に聞くのが一番早いって回答を導き出しただけ」


 由宇は聞こえよがしにため息をついてから、言う。


「DNAを調べてみないと詳しくはわからないが、犬ではない。最後のピースはおそらくさんだ。珊瑚の群生の能力だろう」

「え、珊瑚って植物じゃないの?」


 由宇は一度八代に目を向けただけで、すぐに話に戻ろうとする。


「ちょっと待って。いまの反応、冷たくない? 冗談だよ、冗談。珊瑚が珊瑚虫って小さい生き物の集合体だって解ってるから。えっと、じゃあ、犬はネズミの群生ってこと?」

「ある程度察しが良くて助かる。おそらく二百から三百のネズミが集合し、体の色を変え、犬のように見せかけてきた。さて問題は食料庫の被害状況からのネズミの数の予測だが」

「ああ、それなら先ほど受け取ってきたよ。由宇君の話と少し異なるんだが」


 岸田博士からもらった紙に目を通し、由宇は難しい顔をする。


「半日で十倍にまで繁殖したか。このまま放っておくと爆発的に繁殖して、NCT研究所だけでなく、外のありとあらゆるものを食い尽くすぞ」


    15


「全ゲートを閉じろ。一匹でもネズミを外に出すわけにはいかない」

「ライフルからレーザーサイトは外しておけ。赤外線パルスレーザーでねらいなんかつけてた日には、ネズミは逃げ回って一生当たらないぞ」

「十区画に異常。現段階でNCT研究所の60パーセントの電源系統がダウンしています。停電の起こる時間は徐々に短くなっています」


 NCT研究所内があわただしくなった。きし博士はのそばをはなれ、各地に指示を出している。

 その中で由宇は一人、自室の研究所で捕まえた唯一のネズミを前に、機能のわからない機械を調整している。


「何してるんだい?」


 後ろからのぞき込んで由宇のやっていることを見ているのはしろだ。本来の仕事場ではない八代は、いまは手持ちぶさたにしている。

 由宇は何かの機械をいじり、ガラスケースの中ではネズミが落ち着きなく動き回っていた。


はんしよくりよくがあると言うことは、発情期のサイクルが短いことを意味する」

「そうか、そうだね」

「ならばそれを利用しておびき出す」


 由宇の言葉と同時にネズミの動きが急に落ち着きのないものになった。


「この周波数か。いや、もう少し調べよう」


 由宇が集中しているのを見て、八代はじやにならないようにその場をそっと離れた。

 部屋を出れば由宇が生活するガラス張りの空間で、一番広い部屋に出る。ちょっとした体育館並だ。部屋の端にはスポーツジムのように様々な運動器具や計測器が立ち並んでいる。


「まあ、体なまりそうだもんな」


 八代はそのうちの一つ、握力計を何気なく手に取る。1グラム単位で計測できる立派なものだった。


「へえ、アスリート用かな?」


 八代は握力計で自分の握力を計測し、しかめっつらをする。


「うわ、落ちてるなあ。大学時代のせつせいがたたったかな。おっ、れきも表示できるのか」


 由宇の握力に興味を抱き、八代は握力計の履歴を表示する。


「じつはとんでもない怪力の持ち主だったりして。なんてね、そんなことあるわけないか。18・114キロか。ほら、わいらしい握力だ」


 大人びた由宇が子供らしい握力しか出せていないことがほほましく、八代は次々と履歴を表示していった。


「18・115、18・116、18・117、18・118……」


 しかし、数値を読みあげる八代の表情は徐々にこわっていく。


「18・119、18・120。ちょっと待ってよ。なんで計測結果がきっちり1グラムずつ、増えてるんだ?」


 不安にかられ部屋を見渡しながら、しろはふとあるものの前で立ち止まった。


「ウォーキングマシン?」


 走る空間は充分にあるのに、狭いスペースで走るための機械がある。なぜ先ほど違和感を抱かなかったのか。

 ウォーキングマシンのそばにいくと、先ほどと同じように、計測結果のれきに目を通した。


「これもだ。一定のパターンがある」


 さらにいくつかの履歴を参照できる計測器具を次々と八代は見ていった。


「どうなってる? あの子の体はどうなってるんだ?」


 すべての器具の計測値は一定のパターンを記録していた。そのパターンは精密にして正確に。どれ一つとして、決して崩れることはない。

 八代は恐る恐る研究室で機械の調整を続けているを見、握っていた計測器が小刻みにふるえていることに気づいた。

 つい先ほどまでは美しい十二歳の女の子にしか見えなかった少女が、たいのしれない何かに思えてきた。


    16


 ころいを見計らって八代は通信機に話しかけた。


「どうだい、かんこうの中は?」

『モグラになった気分だ』


 由宇の返事は早かった。


「はは、さしずめ君はモグラのお姫様だね。あれ、気に入らなかった? めたのに」

『それを誉め言葉として贈る君の常識を疑う。よし、場所としてはここが申し分ない。いま戻る。通信を切る』


 八代がいるのは広い部屋だ。部屋の中央には由宇が調整した機械がある。はんしよくのネズミを刺激し一箇所におびき寄せるというのが、由宇の発案した作戦だった。


「あの娘のしやべり方、おかしいと思わないかね?」


 となりで心配そうにしているきし博士は、由宇が換気孔から戻ってくる間を見計らってか、話題を切り出してきた。


「おかしいとはいいませんが、その、まあ、男っぽいっていうか」

「昔はそうじゃなかったんだ。少し変わっていたが、女の子らしい話し方をしていた。男っぽい、突き放した話し方をする娘ではなかった」

「じゃあ、いつから?」

「いつからだろうね。……ある日を境に君は、あのような話し方をするようになった。きっとこの世界に味方はいないと悟ったのだろう。世界から拒絶される前に、世界を拒絶したんだ」


 しろは何か言おうとして、そのまま口をつぐむ。安易ななぐさめの言葉が無意味なことだけはわかった。


「私には何もできん。あの娘が安心して過ごせる外の世界を与えてやることはできない」

「ここが一番安全じゃないんですか?」

「……どうだろうな。何を基準に安全と言えばいい? 太陽を見ることもなく、世界から存在をまつしようされ、だれも信用できず……。そのような場所で生きていることを安全といっていいのかどうか」

「難しい問題ですね」


 適当な答えを返すことははばかられ、かといってい言葉も思いつかず、ちんもくが怖くなり八代は別の話題を切り出した。


きし博士、聞きたいことがあるんですけど」

「なんだね? 私に解ることなら」

「あの部屋にあった運動器具についてなんですが」

「ああ、あれか。由宇君が運動不足になると言ったので用意したのだ。毎日、使っているようだ。あのような場所では運動不足になりがちだからね。いいことだ」


 岸田博士の様子からパターン化された測定値のことは知らないように思われた。

 ──つまりあの娘は、みねしま由宇は体の身体能力をかんぺきに操ることができるってことなのか?

 しかし八代の思考は中断される。由宇が戻ってきたのだ。


「何を話していた?」

「いやなんでも」

「そうか。準備ができた。作戦開始だ」


 部屋の中央にある装置を見て、由宇はコクンとうなずいた。


    17


 かんこうの底をうごめくものがある。高いところから低いところへ流れる水のごとく、うねりが流れていく。換気孔が合流し、うねりはさらに太く激しくなる。やがてうねりは激流となり換気孔を埋め尽くす。

 しかし換気孔は永遠に続くわけではない。唐突に開けた場所に出ると、うねりは一気に広がった。うねりの正体は何百という数のネズミだ。

 ネズミは部屋の中央にある奇妙な機械のまわりを落ち着きなく旋回する。やがて数が集まると、かんこうあなという孔がふさがった。

 逃げ場を失ったネズミたちは、ただいたずらに部屋の中を走り回るしかなった。


    18


「何匹いるんだろ?」


 窓の外から部屋の中を見て、しろは空恐ろしくなった。

 広い部屋の床を埋め尽くすのは、灰色のうねりだ。無数に重なるキイキイという泣き声は、もはやそうおんのレベルに達している。


「これがミンクならひともうけなんだけどな」

「この状況で、そのような軽口がたたけるとは、肝が据わっている。それとも単にきんちようかんのネジがゆるんでいるだけか」

「いや、ははは。前者だとうれしいね」

「私の推察では前者の可能性は8パーセントにもみたない」


 八代の軽口に、りちに答える。


「そんなあ」

「いや、すまない。可能性ではなく割合と言うべきだった。肝が据わっていると表現できる部分も7パーセントはあるということだ。安心しろ」

「いや、だからそういうことでなく」

「なんだ、何が不満だ、男のくせに細かいところにこだわるな、君も」

「男とか細かいとかって関係ないと思うけど」

「待て。君とぐちをきいている間に終わったようだ」


 催眠ガスが部屋を満たし、やがて無数のネズミ達は静かになった。


    19


「よし、一匹残らず回収してくれ」


 きし博士の指示のもと、職員達が気を失ったネズミを回収する。その作業は一時間あまりで終了し、床はもとどおりの無機質な灰色を取り戻した。

 作業員もいなくなり、残ったのは由宇と岸田博士と八代の三人だけになる。


「ようやく終わった。由宇君、お手柄だよ。この分だとさんも、君の待遇向上を無視することはできないだろう」

「……」

「いや、待遇向上なんて二の次だ。本当にありがとう、君。君のおかげでみんな助かった」


 由宇はだまって下を向く。その様子をいぶかしげに見ていたしろは、由宇がはにかんでいるのだと気づいた。思わずほおゆるんでしまう。どんなに普通とかけはなれた天才少女でも、心は十二歳の子供と変わらないのだ。


「だから由宇君、いま少しあの地下でまんしてくれないか。……八代君、彼女を部屋に連れて行ってくれたまえ」

「ええ、おやすいご用ですよ」


 八代が由宇の肩に手をやりうながすと、思いのほか素直についてきた。

 部屋を出ようとしたとき、由宇は振り返った。


きし博士」

「ん、なんだね?」

「私は、あの……あ……」

「どうしたんだい?」


 にゆうな顔を浮かべる岸田博士。由宇はまるではにかんだような、こまったような顔をして、何かを言いかけていた。しかし由宇が口をひらきかけたしゆんかん、由宇の表情は見る間にこわった。岸田博士の背後の壁の色が変わり、波のようにうねっている。


「危ない!」


 由宇が叫ぶより早く壁のうねりは崩れ、岸田博士に降りかかった。


「うわああっ!」


 壁にたいしていたネズミの群れは、あっというまに岸田博士をおおい尽くし、千匹以上のネズミは床一杯に広がっていく。


「くそっ!」


 八代の判断は速い。ライフルを構えるとスコープの赤外線パルスレーザーで岸田博士を覆っているネズミをねらう。ネズミの群れはすぐさまはがれて、その下から気絶した岸田博士の体が現れた。

 八代は赤外線スコープでネズミを狙いながら道を作り、岸田博士をかつぐとなんとか部屋の出口まで走る。

 ドアの開閉スイッチを押すと電気ショートを起こしながら開いた。岸田博士を引きずったまま、八代と由宇はすぐさま外に出ると、ドアを閉めるためにボタンを押す。しかし何も起きなかった。


「くそっ、肝心なときにこわれたか」


 NCT研究所内で電気ショートはもう何度も起こっている。ドアの開閉装置が壊れるのも無理からぬことだが、あまりにタイミングが悪すぎた。

 ドアから流れ出ようとするネズミを食い止めているのは、しろの持っている赤外線スコープだけだ。しかしそれも長くは持ちそうになかった。電池残量が残り少ないことを液晶ディスプレイが伝える。

 は決意を固めた表情で、ネズミの群れを見る。


「ここは私が食い止める。早く行け」

「僕の台詞せりふを取らないでくれるかな。ここは一番、せんとうりよくすぐれた僕が食い止めるってのが、残念ながらじようとう手段だと思うんだよね。残念ながら」

「二回もり返さなくていい」

「けど、そうでしょ、男の見せ場は常にピンチと背中合わせって」


 軽口をたたきながらも黒いうねりを前にして、八代は冷や汗を流す。食い止めるにしても、どうやってそれを行うかしゆんに名案など浮かばない。いや、一つだけ見当はついているのだが、二人を逃がすためにオトリになっても果たして食い止めきれるか、勝算は低かった。

 対し由宇の表情にかわりはない。


「戦闘力に優れるという基準なら、私が食い止めるべきだ」


 由宇はうねりをまっすぐに見つめ、耳を疑うことを言う。


「おじようちゃん、ここでの戦闘力ってのは、頭の良さは含まれないから。あれ?」


 八代を取り巻く世界が一回転した。自分が一回転したのだと気づいたのは、背中をしたたかに床に打ち付けられたときだ。見下ろしている幼い少女は、八代の手を奇妙にねじっている。由宇が自分を投げたと理解するのに、数秒を要した。八代とて、常人とは次元の異なるきたえられかたをしている。その八代が投げられたということすら、意識できなかった。気づいたのは背中の冷たい床の感触があったからだ。


「正確に分析しようか。君の戦闘力を1とした場合、私の戦闘力は4・27。つまり八代、君は四人がかりでようやく対等。五人で辛勝。それでも君の戦闘能力を一般兵士よりはるかに高く評価してのことだ。さっき私の後ろにいた兵士なら百人がかりでも永遠に私には勝てない」


 由宇は八代の手をはなすと面倒くさそうに手を振る。壁にぶつかって落ちたのは、由宇を拘束していたかせだ。


「この程度の拘束では、私の自由を奪ったことにはならない」


 たたんと軽く床をった。少女の小柄な体は美しい放物線を描き、長い髪がそのあとを追う。放物線の先は壁だ。由宇の体は壁に激突する前にひねられ、足の裏が壁を大地としてむ。さらにもう一度ちようやくが、今度は真上に行われた。頭上に伸ばされた手が、てんじようのパイプをつかみ、パイプをつかんだ手を軸とし揺れた体は、放物線の最頂点で再び空中に投げ出される。ネズミがうごめく床に落下する前に、由宇の手は倉庫中央のフェロモン発生装置の頂上部をつかむ。そこから片手で逆上がり、装置の真上に両足で着地した。


「……なっ」


 しろはただぼうぜんと、が行った一連の動作を見る。いったい何が起こったのか凡人では理解できなかっただろう。

 きし博士は由宇の運動能力を、同年代の子供より劣っていると言わなかったか。地下に五年間幽閉され、体力はおとろえていたのではなかったか。頭脳以外は十二歳の子供に過ぎないのではなかったか。

 だからこそ手足の拘束と最低四人の兵士という条件下で由宇は自由を許されていた。そのはずだった。


「ここは私がなんとかする。八代、君は岸田博士を連れて逃げろ」


 八代はしゆんに理解する。この幼い天才は、五年間伏して待っていた。逃げる機会をうかがい、だれにも悟られないよう身体能力をこっそりとみがき、はかない希望を胸に抱き続けていたのだ。

 なのにいま、それをフイにしている。岸田博士と八代を助けるために、あえて投げ出そうとしている。その胸中を八代は想像するしかできない。

 ただ確かなのは、部屋の中央に立つ少女の気高い美しさだ。その姿は八代の胸を強く打った。


「君は……」

「早く行け」


 同情も尊敬も拒絶し、少女は己の戦いに没頭する。

 灰色のうねりは中央から盛り上がり、由宇へ突進しながら形を形成しはじめた。それはけものの頭部だ。人をまるみにするほどに大きなあぎとが、由宇へ迫る。閉じられた顎は、鉄製の装置をいともたやすく両断した。

 先ほどと同じようにてんじようのパイプを軸に、由宇はましらのように別の場所へ移った。さらにうねりの別の箇所が細く盛り上がると、一本のつめと化し、着地したばかりの由宇の背に迫る。しかし、それをバク転の要領でかわし、なおかつ爪の背に着地すると、さらにその背をり、天井のパイプに再びぶら下がる。

 するとネズミたちは奇妙な行動を始めた。いっせいに近くの仲間のしっぽを口にくわえたのである。


「直列つなぎか。何万ボルト出すつもりだ?」


 由宇は表情をこわらせると、ぶら下がっている足をパイプにからませて、天井に張り付く。ほぼ同時に床一面が、紫電のじゆうたんと化した。おたがいのしっぽを加えたネズミ達は、電池の直列つなぎと同じ状態だ。いま由宇が床に落ちれば、一秒を待たずにくろげになるほどの電力が放出されている。

 由宇は天井に張り付いたまま、腰の後ろから銃を引き抜く。


「え、いつのまに?」


 八代がおどろくのも無理はない。由宇が手にしているのは警備兵の持っていたものだ。しかし数千というネズミを相手にけんじゆう一つでどうしようというのか。

 だがの表情には明らかな勝算がみてとれる。

 由宇がねらったのは、床ではなかった。腕をほぼ水平に構える。すなわちてんじようの一部を狙っていた。しかし引き金はなかなか引かれない。狙っているのでもタイミングを計っているのでもなかった。

 次のしゆんかん、一発の銃声がひびいた。

 同時に大量の水が、放電を続けるネズミたちに降り注いだかと思うと、くさにおいが床に漂った。

 水にれ、伝導率が高まったネズミ達は、己の電流で自滅してしまった。


    20


 由宇は銃を構えた姿勢のままでいた。トリガーにかかる指はいまだ引かれてはいなかった。


「よけいなマネだったかな?」


 由宇が声の方向に顔を向けると、いまだ銃口から煙が立ちのぼる銃を持ったしろがいる。


「なぜった?」

「君がためらっているように見えたからね。気のせい?」


 由宇は肯定も否定もしない。床に降りると、しかばねと化したネズミ達を見つめる。幼い横顔は感情を押し殺していた。同じく感情も殺した声でぽつりとつぶやく。


「……ほかに方法があったかもしれない」

「かもね。でも僕達にそんなのんびりした選択は許されてなかった。確実にかんぺきちくするしかなかった。違うかい?」


 八代は笑う。けいはくな、感情を悟らせない笑みは、由宇の無表情と同質であった。


「その笑顔、信用できそうにない」

「あれ、そう? ははは、まいったなあ。女の子にはてきな笑顔だって評判なんだけど」

「口も信用できない」

「ねえ、一つ聞いていいかな」

「だめだ」

「君は体を思うままに操れる。日々の気の遠くなるような訓練の果てに手に入れた能力だ。君はずっと、その特殊な身体能力を隠してきたんだろう?」

「人の話を聞け」

「質問に答えてくれる?」

「コミュニケーションが成立していない」

「うん、気のせいってことにしておこう。でも、ありがとう。本当にありがとう」

「……何がだ?」

「……君の五年間の努力をふいにして、君の自由とひきかえにして、僕ときし博士を助けてくれた。君は長い年月をかけて自在に操れる体を作っていた。いつか逃げる日のために。それなのに」

「べ、別に君たちを助けたわけではない。あのネズミを放置するわけにいかない。私が作り出したものに責任をとったまでだ。誤解するな」

「たよりない男でごめんよ。もう少し僕が強ければね」

「話を聞け」

「そうだね、本当にありがとう」

「だから話を聞けといってる」


 はいつしかあきらめた口調になっていた。


    21


 由宇の部屋で、由宇としろはガラスケースの中、一匹だけ生き残ったネズミを見ていた。


「どことなく、憎めないネズミだったなあ。直列つなぎでチュウ」

「見た目のわいらしさとユーモラスな能力に惑わされるな。これほど建物や都市の制圧支援に向いたデザインの遺産兵器は前例がない。たいや群生で様々な大きさの動物にカモフラージュするから発見しにくい。赤外線をける習性から監視カメラにも映らない。そして放電能力により、建物や都市の電気系統をさせる。なおかつ百匹も送り込めばネズミとショウジョウバエのはんしよくりよくで、またたく間に増殖する。コスト面でも優秀だ」


 その言葉を聞いて、八代は切なくなった。目の前の少女が遺産兵器を語る言葉は彼女自身のことのようだ。八代は無理に明るい口調でこたえる。


「あ、ありがとう。ていねいに説明してくれて。報告書にちゃんと書いておくよ。次からは僕みたいなしたに持たせるなってね。じゃあ、これも今、確実に……えっと、ああ、したほうがいい?」

「いや、かれの細胞ほうかいは早い。世代を重ねるごとに衰弱し、やがて滅ぶ。これはあと一日ともつまい。アポトーシス──計画された細胞死が世代を超えて受け継がれるため、何世代で絶滅するかまで定められている。予期しない被害の拡大はない」

「……はかないね」

「人為的に作られた存在だ。兵器として作られている以上、あたりまえのことだろう。相手を滅ぼした後、自分達まで滅ぼされたら本末転倒だからな」


 淡々とした口調は冷静さをよそおってはいるが、由宇が遺産兵器に自分を重ねているのは確かだった。


「じゃあ、このネズミは預かっていくよ。ADEM本部のほうに持ってこいって命令だから」


 しろはとっさにうそをつく。まだネズミに対する命令は出ていなかった。

 だが、ガラスのろうごくに閉じこめられた少女に、ガラスケースの中のネズミのさいを看取らせるのは、あまりにざんこくに思えた。


「持っていっていいかい?」


 返事はしばらくなかった。しばらくして気のせいかと思うくらいわずかに、は首を縦に振った。


    22


 最後の一匹となったネズミは、遠ざかる少女を見つめながら、一度だけ鳴いた。

 ここに来たときと同じように運ばれていく。来るときはたくさんの仲間と大きなおりに入れられていた。今は小さいガラスケースだ。

 運んでいる人間の顔には見覚えがあった。茶色い髪をした若い男で、ここに運んできたときは、文字通り右往左往しながら台車を押していた。だが今はもうここに来たときの、あのたよりない印象はどこにもなかった。

 周囲の様子が目まぐるしく変わる。廊下を歩きエレベーターに乗りまた廊下を進む。ときどきケースをのぞく人間の顔が見える。

 しかし景色の変化を眺めるのにも飽きてきた。好奇心を満たすものはなくなった。それとも気力がなくなったのか。だるさに近い眠気が体をおそい、ネズミはそのまま体を丸めた。

 ──なぜあんなにも悲しそうな顔をしていたのだろう?

 自分をじっと見つめていた少女の表情を思い出したのを最後に、意識は途切れ、ネズミは深い深い眠りに旅立った。


    エピローグ


 それでどうしたって?

 もちろん、僕は報告書に書いたよ。見たままのみねしま由宇の能力を。

 ひどい? それがもとで彼女はより厳重に拘束されることになった? うん、まあそういう見方もあるかな。

 でも結局、一部始終、監視カメラに映ってたんだし、虚偽の報告をしたところですぐにバレるだけじゃない? しかたないよ。しかたないって、嫌な言葉だけど、しかたない。

 すまじきものは宮仕え、だね。ほんとに。女の子を助けてあげたくっても、どうすることもできやしない。組織の中での個人の力なんて微々たるものさ。

 でも、だから、せめて僕は、ほんとにささやかだけれど、彼女の計画の片棒をかつぐことにした。

 報告書に一つだけうそを書いた。いや、わかってて書かなかったことって言えばいいのかな。

 何かって? みねしまは本当は心優しい女の子だってことさ。

 それを言ってあげれば、待遇向上……になんか、なるわけないしね。

 肉体労働を頭脳労働に置き換えるってことも隠しておきたかったと思うけど、彼女が一番隠しておくべきだと思ったのは、その優しさだと思ったから。

 彼女自身、もしかして自分の優しさに気づいていなかったのかもしれない。でもそれなら、なおのこと、秘密にしておくべきだろう?

 峰島由宇の心は機械みたいで冷たくって感情なんかないって思わせておくに越したことないじゃないか。彼女に優しい感情があることが知れたら、そこにつけこんで利用するやつ、たくさんいるだろうしね。大人はずるいからさ。──僕も含めて。

 だから、僕は、僕が感じた峰島由宇について、一切報告書に書かなかった。

 それが何も出来ない僕自身への言い訳だとしても。

 事件のあと、彼女の研究室に残った最後の一匹を、上に報告するからと言って、僕が彼女の部屋から持ち出したのは、彼女の言うとおりすぐに死んでしまうなら、それを彼女に見せるのが忍びなかったから。そしてやっぱり彼女の言葉どおり、最後のネズミは、帰りのエレベーターで、僕の手の中で死んでしまった。

 僕はそのネズミを、こっそりNCTの裏に埋めて、小さなお墓を作った。がふりそそぐ、なるべく柔らかい場所を選んで、一輪だけ、花を添えて。

 小さなお墓に手を合わせてから空を見上げると、木々の間から初夏の日差しがとてもまぶしかったのを覚えてる。

 今日もあのネズミは、NCTの裏の静かな森の中で、暖かい日差しを浴びているだろう。

 いつか峰島由宇が同じように、暖かい日の光を浴びることができるのを、僕はあれからずっと祈っているんだ。

 とらわれのお姫様を救いだす、王子様はきっとあらわれるってね。

刊行シリーズ

9S<ナインエス> XIII true sideの書影
9S<ナインエス> XII true sideの書影
9S<ナインエス> XI true sideの書影
9S<ナインエス> X true sideの書影
9S<ナインエス> IXの書影