1話 夏の日の空になりたい
プロローグ
やあ、僕は
ADEMって組織で総司令の秘書官をしてる。上司や
……ほんとだってば。ま、こうでも思わないと中間管理職なんてやってられないともいうけどね。
さて、寂しくなる話はこのくらいにして、今日は
僕が最初にNCTを訪れたのは今から五年前。入局して四ヶ月目のことだった。
まだ研修を終えたばかりの僕が、国家最高機密であるNCTに行ったのは、ズバぬけて優秀で将来を有望視されたエリートだったから……と言いたいところだけど、予想の通り違う。恥ずかしながら人手不足。いつものウチらしい理由だね。
大きい遺産犯罪事件が解決されたら、かなりの量の遺産が発見された。さらに重ねて大きい事件が二つ起こって、ADEMの職員もNCTの所員もおおわらわ。
それで仕方なく新人の僕が、さして重要でないと思われる遺産
あの日の僕は遺産のコンテナとともに、ヘリコプターでNCT研究所に降り立った。
そこで僕は峰島由宇に会った。NCTの地下1200メートルのあの部屋で。
彼女はまだ十二歳だった。今みたいに拘束具でがんじがらめの姿じゃなく、もっと自由があったかな。孤独であることに変わりはなかったと思うけど。
今よりもっと小さくて、真っ白な肌に
うん、外見だけなら、彼女は本当に物語の中の「
外見だけなら……ね。
さて肝心のコンテナの中だけど、ドーベルマンっていうか、ケルベロスみたいな、一匹の黒い犬。ゲノム・リモデル実験の
僕の仕事は、その遺産の犬を担当者に引き渡して、仮の遺産ナンバーをもらって帰ってくること。本来なら、一時間もあればすむ、ほんとに簡単な新入局員のお使い程度のはずだったんだけどね。
でも、事件は起こった。忘れもしない、五年前の七月十三日。
梅雨が明けて本格的に暑くなり始めた、ある初夏の一日だった。
1
「ええと、こまったな。第十七区画ってどう行けばいいんだ?」
「あの、すみません……あ、イタタっ」
故意ではないのだろうが、肩を突き飛ばされた八代は情けない声をあげてしまう。職員は皆、殺気だった急ぎ足で、新入局員の八代の横を通り過ぎていく。
限定二級の権限をもらい、無機質なゲートの中で大脳新皮質番号をチェックするため、赤い格子状のスキャニングの光が通り過ぎる数秒の間こそ「おお、それっぽい」とミーハーに喜んでいた八代も、だんだんと不安げな表情が勝ってくる。
キョロキョロと観光客のようにものめずらしげに周囲を見渡していたのもつかのま、すぐに彼の口から
「もう少し親切な案内表示とかあってもいいと思うんだけどな。いくら国家最高機密っていったって、僕みたいに慣れない人間もいるんだし……。これじゃ、非常事態が起こったとき、逃げ遅れて死んじゃう人もいるんじゃない……?」
声はどんどん小さくなってくる。
就職する前から怪しい組織だと
その組織内でもNCT研究所と呼ばれるところは、極めつけの
入局して四ヶ月。新人研修を終え、一ヶ月前に配属が決まったばかりの八代は、まさかこんなに早く、NCT研究所にこられるとは思っていなかった。知らせを聞いたときは、
──気分はエリア51の探検気分ですね。
と上司に軽口を
「ああ、ダメだ、ダメだ。僕は何を弱気になってる。スマートに終わらせてさっと帰ろうじゃないか」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた
「とりあえず右に行こう」
と適当に台車を押しながら進み始めた。
しかしすぐにまた、
「うーん。やっぱり間違えたのかなあ。右行って左行って左、二本目の角を右だろ……」
先日の大きい遺産犯罪のためだろう。行きかう所員
その中で、八代の目が一人の人間にとまった。
白衣でなくストライプのシャツを着てIDカードを首からぶら下げた、いかにも技術者然とした男だ。右側の通路から一人で歩いてくる。
八代は慌てて呼び止めた。
「あ、すみません、あのっ」
「なんだ?」
「あの、ちょっと道をお聞きしたいんですが、第十七区画へはどうやって……」
「ふうん? おまえ新人か?
「は、はあ、すみません」
「俺は
「はあ……」
「なんだ、しまりのない返事だな。ん?」
木梨と名乗る男が
「なんだこの黒くて汚い犬っころは?」
「ゲノム・リモデルで改良された遺産だそうです」
「ふうん、普通のドーベルマンみたいじゃないか。ゲノム・リモデルのわりにはたいしたことない」
木梨はちっちっちっと言いながら、ガラス越しに手を出す。
「危険ですよ」
「どうせ強化ガラスで
床の下を見つめ、
「あの親子だ。まあ、LAFIを発明した功績は認めてやるがな」
高笑いしながら去っていく木梨と、それを見送る八代。
「あ、で、木梨さん、でしたっけ? 第十七区画へは……」
そこにもう木梨の姿はない。
2
体が揺れる振動で、
周囲の状況は先ほどから変わりない。茶髪の若い男が、自分
体に力が入らない。ろくに食事を摂取していないからだ。彼等はぐったりと床にはいつくばり、体力の消耗を抑えた。
「どうしたもんかな」
彼等を運ぶ若い男が、先ほどと同じ言葉を
「今回、回収された遺産技術は全部で十九もあるんじゃ、まあ僕のこれなんかどうでもいいのも
「どうしました?」
声をかけてきたのは、メガネをかけた
「は、はい。ああ、助かったあ。あの、第十七区画へ、これを運ばなくちゃいけないんですが、今日初めてで迷ってしまって……、あ、あれ? もしかして、ここの所長の
「おお、これは
茶髪の男が丁寧にお
「ほう、珍しいですね」
岸田と呼ばれた男性は彼等が収まっている
「ゲノム・リモデル技術で、ここまで
岸田博士は彼等に興味深そうな
「八代君、といったかね? 資料はこれだけなのか?」
「はい。なんでも遺産の違法使用の証拠を隠滅しようとして、資料のたぐいはほとんど
「
「普通?」
「ゲノム・リモデル技術が処置された生き物は、たいていどこかに
岸田博士は檻を軽く
「はい。どのようなものか解らないので、一度も」
「それは結構。とりあえず奥へ運んでいただこうかな。私もこれから行くところだ。
「助かります。ありがとうございます。正直、ここで遭難するんじゃないかと本気で心配してたところです」
「ははは。いつもなら、初めての人には案内の者がつくんですがね。見てのとおりこちらもバタバタしていて申し訳ない」
「いえ、そんな。恐れ入ります」
「ゲノム・リモデル技術にしては珍しい実験動物だが、今日はそれ以上に怪しい物も数多く入ってるのでね」
その間、彼等は伏して待つ。時を待っている。今はまだ動くときではないと、本能で
3
「なっ!」
それがいかなるものか、八代は面白半分に様々な予想を立てていたが、すべて裏切られた。まさかありえないよなと、B級SF映画のようなことまで考えていたが、それすらかすりもしない。
エレベーターから降りた先の部屋は床がガラス張りだった。その下にはいくつかの仕切りが設けられた奇妙な空間が広がっている。家の屋根をはずして、かわりにガラスの
その中にぽつんと、一人の少女がいた。こちらをじっと見つめている。
「お人形……じゃないですよね?」
まだ十代前半に見える少女は、息を
「人間ですよ。彼女の名前は……峰島
その意味を理解するのに、八代は数秒の間を要した。
「え? みねしま? 峰島ってことは、まさか、峰島勇次郎の娘? 最高傑作って、Sランクの遺産ってあの子のことですか? 本当に?」
「驚くのも無理はありませんがね。彼女は正真正銘、峰島勇次郎の娘です。父親から受け継いだ知識のみならず、素晴らしい知性も持ち合わせている。
しかし岸田博士の言葉が頭に入らない。
「でも、だからって、どうしてこんな扱いを?」
「危険だからです。遺産の知識を受け継いだ由宇君の存在が明らかになれば、世界は
少女は天井がガラス張りの部屋にいる。部屋を仕切る壁こそあるものの、どこにいても天井からは丸見えだ。プライバシーゼロ。バスルームや寝室と思われる場所にさえ、
「彼女の事情はおいおい話すとして……」
『それで、私にこのようなものを見せて、何をしろというのだ?』
少女──
由宇の幼い声に似合わない大人びた口調に八代は
岸田博士は
「五体のキメラらしい。合成した遺伝子の数も多いが、外見が犬と変わらないのも気になっていてね。本格的な調査に入る前に、一度由宇君に見せておこうと思った」
『それで私にどのような感想を期待する? 似たような立場と言って悲壮ぶり同情と共感の視線でも送ればいいのか? それともただ見るだけで、その五体の遺伝子を当てろとでも言うつもりか? どちらもお断りだ。ついでに言うとその
「え、なんで?」
突然、鋭い
しかし由宇は何も答えようとはせず寝室に戻っていった。そのままベッドに横たわると、シーツを頭からかぶる。
「由宇君? 由宇君?」
岸田博士の呼びかけにも由宇は身じろぎ一つしなかった。岸田は大きく息を
「ああなっては、てこでも動かないし口も開かないのですよ。すみませんな。気むずかしい子で」
過去の経験からか岸田博士はあっさりと引き下がる。
「はぁ……えっと、僕はこれから、どうしたらいいでしょうか?」
一目で気に入らないと言われたことを尾に引きながら、八代はなさけない声で岸田博士にお
「うーむ。由宇君の態度も気にかかるし、この犬はもう少し様子を見たほうがいいかもしれない。この後、君はまだここに?」
「はい、この遺産の受け渡し完了のサインがもらえるまでは帰れません」
「うむ、そうだったね。では、少し世間話でも、どうかね?」
まだショックから立ち直っていない八代を思いやってか、岸田博士が優しく肩を
「しかし
ただ、独り言は聞こえないように言って欲しいと八代は思った。
4
「だから私は思うのだよ。
忘れるも何も、さっきから
「ははは、そうですよね。ちょっと
八代の表情が
「だから私は由宇君の生活環境の向上を願って、毎回嘆願書を……」
岸田博士がこぶしを振り上げると同時に、部屋の明かりが消えた。
「おや?」
八代と岸田博士は同時に
「停電ですか?」
「おかしいですな」
岸田博士は首を
部屋に備え付けられた端末の通信機が鳴った。岸田博士が出ると、かん高い神経質な声が聞こえてきた。
『所長、第二十七から二十九区画の主電源が落ちました。現在は予備電源で
「
『電源の落ちた区画の状況を考えると、その辺りの電源がショートしたんだと思います。いま環境ログをチェックしてるんですが、おかしいんですよ。どうやら高電圧の負荷が原因のようです』
端末のモニターにマップが表示され、その一部が明滅する。
「ここから近いですね」
横から
「おかしいですな。この区画一帯は、先週総点検したばかりだというのに」
「ネズミが電源ケーブルかじったんじゃないですか?」
「ネズミに切断されてしまうようなケーブルは使用していないし、そもそもこの施設にネズミはいないよ」
さすが
「侵入者……なんてのは、ないですよね?」
『はん、無理だね。侵入するどころか、この研究所の場所にたどり着くことさえ不可能だよ。なんだ、おまえ、さっきの新人か? このNCTに対してネズミだの侵入者だのと、まったくとんちんかんなことを』
「
岸田博士はたしなめるものの、木梨の意見を肯定する。
「しかし彼の言ったことは正しい。この施設は第三者が侵入するどころか、発見すら不可能だよ」
「そうですね。ブレインプロテクトは
「うむ。そうだな、推測ならいろいろ立てられるが。……いやあ、八代君、それにしても君は冷静で落ち着いているね。
岸田博士の高評価に八代が内心満足していると、スピーカーから所員の慌てた声が聞こえてきた。
『所長、大変です!』
「何が起こったのかね?」
『八代という新人が持ってきた、あの実験動物が消えました!』
「ええ! あの犬が? いきなり僕の初仕事にケチつくんですか! そんなあぁぁっ!」
岸田博士が冷静だと評価した八代の態度が、
5
ガラス張りの
「ああっ、ほんとに消えてるっ!」
何かの間違いであって欲しいという願いは、現実を目の前にして
さっきまでは考え込む
しかし今は違う。小さいとはいえ、初めて自分にまかされた遺産の仕事を、つつがなく終えるというささやかな目標は、
「いつ消えたのかね?」
岸田博士の指示で、
「あれ?」
頭をかかえていた八代が顔をあげる。八代は犬を見てなんとなくおかしいと感じた。何か違うような気がした。
「どうしました?」
「それが……、いえ、続けてください」
結局、八代は感じた違和感をうまく説明することができず、言葉を
そして監視カメラにも停電が訪れる。その
「……消えた」
檻の中から犬の姿は消えていた。
「ううむ」
うなる岸田博士に通信が入る。
『所長、大変です。またしても停電が発生しました! 今度は第十一、二十三、二十四区画の三箇所です』
「いったい何が起こってるんだ?」
「はあ……」
檻の前にしゃがんでいる八代のもとに、岸田博士が近づいた。
「八代君、まあ、そう気をおとすな。
「E─109?」
「今日運ばれてきた遺産の何かがこの事態を巻き起こしている。私はそう考えるのだよ」
「はあ、それでE─109って? あ、そうか、僕も今は見られるんだっけ」
「なんか長くて回りくどい文章だなあ。こういうのってわざと
「そうだ」
「それでS─00001ってのは……あっ」
八代は足下の
6
八代と
『断ると言ったはずだ』
マイクの電源を入れると間髪入れず、少女の硬い声が飛び込んでくる。
「由宇君、君の力が必要なんだ。
「最初の停電発生から四時間。
岸田博士の言葉を八代が引き継ぐ。
「僕からもお願いするよ、お
と言葉を区切り、
「んですよね?」
と岸田博士に
「うむ、そうなのだ、由宇君。だから……」
「それに、僕の
『この施設がどうなろうと、私の知ったところではない』
「僕の将来は?」
『若いうちから
「そんな! ただでさえ少ない初任給がいきなり
「よし、停電のことはいい。しかし遺産技術であるゲノム・リモデルの実験動物の
ぶらついている足が止まった。本の陰から由宇の顔が半分だけ
「あの、その言い方はどうなんでしょう。この子のせいじゃないのに……、父親が作ったものをいくら頭がいいからってこんな小さい子に責任をとらせるみたいな言い方は、その……」
「ああ、その、そうだな。……すまない、由宇君」
本の陰から二人のやりとりを見ていた由宇が、不機嫌そうに本をバタンと閉じ、ベッドから起き上がった。
『そこの茶髪の八代とか言う男。気遣いは無用だ』
「え、あの……それって?」
『ゲノム・リモデル技術を作ったのは私だ。五歳のときだ』
だから私が責任をとる、とその小さな少女の
7
八代
『ふぁあああぁ、んー』
大きなあくびだった。
「お
たしなめる岸田博士もどこかずれている。
『昼寝の最中に
「君はこの状況を予測していたの?」
「その映像を見て気づいたことはないかな?」
『犬が消えた』
「それは見れば
『停電』
「それも見れば解る」
『それから、犬が小さくなった』
「だからそれも見れば解る……って、え?」
半眼の
「いまなんて言ったの?」
『それから』
「そのあと!」
『犬が小さくなった』
「そ、それだ!」
先ほど八代がおかしいと感じつつ、説明がつけられなかった不安の正体を、少女はあっさりと口にしている。
「そうだ。小さくなっているんだ」
『気づくのが遅い。停電の十二分十七秒前、体積がおよそ0・3パーセント小さくなっている。どうして
「
小さくなって謝る
『八代と言ったか? おまえもADEMの職員なら、それくらい気づけ』
「え? モニター越しの目視で0・3パーセントに気づけだなんてそんな
八代は謝りながらも感心した。
「じゃあ、君はもう、犬が小さくなった理由を解ってるんだよね?」
『まあな。とりあえず、停電の状況を説明してもらおうか』
由宇の言葉に岸田博士の表情が明るくなった。
「由宇君、そちらも協力してくれるのか!」
苦虫を
『したくはないが、結果としてそうなる。現場を見せてもらえないか』
対し、岸田博士は苦渋の表情で答えた。
「すまない。それはできない」
『解った。ならば十二時間後に30パーセント、二十四時間以内には95パーセントの電源系統に異常をきたすだろう』
「待ってくれ、
『だろうな。君
冷たく突き放すと由宇は再びベッドに横になった。そのままシーツにくるまって本格的に寝る姿勢になった。
「原因の性質? なんだいそれは?」
『さてね。知ったところで、君達に対処できるとは思えない。ふぁああ』
「冷たいなあ。教えてくれてもいいじゃないか、ねえ」
「三区画で電源系統に異常が起きました。予測を上回る速度で進行中です」
岸田博士の迷いは消えた。
「条件付で許そう。すまんが、由宇君、協力してくれないかね?」
『ん?』
寝ぼけた顔で由宇は
「うわ、ほんとに寝てた!?」
八代は少女の度胸と落ち着きに、ただ感心するしかなかった。
8
小さな体を目の前にして、八代は改めて目の前の少女がまだ十二歳なのだと実感した。背の高さはまだ自分の胸元くらいで、手足も細く
「なんだ?」
不機嫌な
「私も厳しすぎるとは思うんだが」
八代の心情を読んでか、はたまた己の心情か、岸田博士は苦渋の声をこぼす。
「彼女って、もしかしてすごい遺産技術の能力を持ってたりするんですか?」
「いや、頭脳以外はごく普通の女の子だ。たまに運動している姿も見かけるが、運動能力は同年代の子供の平均値より下回る。あんなところに五年も閉じこめられていれば、無理もない話なんだが」
「
「ですな。まあ、彼だけのせいではないのですが。国家としての指示、と言い換えてもいいでしょう。しかしなにもここまで警戒する必要もないのに」
確かにと
「でもまあ、いまこの研究所内では
八代のフォローにも
「E─109では、最低でもD型かそれに相当する装備をした熟練の兵士四名に、見張らせるべしと書いてあるだろう。何を後ろめたく思う必要がある」
少女の淡々とした口調が、かえって八代の罪悪感を強くする。
「のんびり話をしている時間はあるのか?」
両手の自由を奪われているためか歩きにくそうに、
「行くぞ」
由宇は岸田博士や八代を無視して先に進む。二人は慌てて由宇の前を歩き出した。後ろではなく前を守る。そんな
9
「由宇君、疲れていないかね?」
後ろを振り返って、岸田博士が問う。
「まだ100メートルも歩いていない」
「そ、そうだったかな。
「一時間三十二分前に食事を取ったばかりだ」
「
八代は興味本位で岸田博士に聞く。
「栄養のバランスを重視したものですよ。味にも気は遣っていますが。ああ、それと食事のカロリーと成分も本人の要望で見せてます」
「へえ、そういうところを気にするのはやっぱり女の子なんだね。でも少し
由宇は何も答えない。
「私もそう思うのだが、由宇君はこれでいいと言うのでね。少し瘦せているが、これで丁度いいと言い張るのだよ」
「ははあ。でもあまりダイエットを気にしすぎると、大きくなれないぞ」
「ダイエットなどというものではない。第一、比べる対象もないのに、体重の重さだの背の高さを気にしてどうする?」
「あ、ああ、そうだったね。うん、ごめん。失言だった。あっと、ここかな」
事件の起こった場所の一つにたどり着いた。配電盤のある狭い通路は、発電機のついたライトで明るく照らされていた。
通路は高電圧のためか黒こげになり、配電盤も例に
「いまはもうこの一帯の電力をカットしてあるから、危険はない。安心して調べてくれ」
由宇はそのまま何をするでもなく周囲を見渡している。
しばらくして配電盤のそばを
由宇はおもむろに白い粒を拾い上げると、それをしげしげと眺める。八代は横からそれを
「なんだい、それは?」
「米だ」
「こめ? こめってご飯のお米のこと?」
由宇は姿勢を低くして、床を注視する。
「ああ、無視? 小さいときからそんな態度だと、ろくな大人になれないよ。年上の人間を無条件で敬えとは言わないけど、もっとほら、こう」
「ろくな大人とはどういうものだ? 私をここに幽閉している人間達はろくな大人なのか? それと少しおしゃべりが過ぎる。捜査の
「はい、ごめんなさい」
十二歳の少女にたしなめられた二十二歳の若者は、おとなしく小さくなる。それでも由宇の行動に興味を持ち、八代は捜査する姿をじっと観察していた。
じっと床を眺めていた由宇はさらに通路を進むと、何かを拾い上げる。
「今度は何を拾ったの?」
由宇がつまんでいるのは細く軟らかい毛だ。
「毛? 人の毛じゃないよね。動物の毛かな? ってことは僕が持ってきた……」
「たぶんネズミだ」
逃げた犬と言おうとした
「え、ネズミの毛って、じゃあネズミはここにいるんじゃないか。あっ、そうか。ネズミが電力コードをかじった……ってわけじゃないよね?」
「半分正解」
一度は
「由宇君!」
岸田博士は由宇に詰め寄ると、その手から毛を奪った。
「雑菌がついたらどうすんだ!」
──うわっ。
その過保護ぶりに八代は心の中で嘆息する。
「
しかし由宇は
「雑菌がありえないってどういうこと? 半分正解って?」
「このネズミのある性質が、結果的に殺菌するからだ。ここから一番近い食料庫に行く」
「もうちょっと具体的に疑問に答えてもらえると、
「なんでもすぐに人に聞くな。少しは自分で考えろ。思考
「はい、すみません……」
すでに由宇は歩き始め、八代は
「うーん」
腕を組んで
「今度はなんですか?」
「人が倒れたらしい。原因は不明だそうだ」
次々と起こる異常事態に、岸田博士の表情は
10
「はん……えっと、現場はここですか?」
八代は思わず、現場の前に犯行とつけそうになるのを、慌てて言い直す。しかし現場が「KEEP OUT」の文字が印刷されたテープで仕切られていると、どうしても犯行現場と言いたくなってしまう。
中では男性が倒れ、
「いったい何が起こった?」
慌ててかけてきたのは
由宇はその間を、表情一つ変えず進む。
「
「はい、ただ気を失っているだけです」
倒れている男の意識はないが呼吸は落ち着いていた。大事に至っていないことに、岸田博士はほっと一息をつく。
「原因は
「いま、調査中です。おそらくこれが原因だと思うんですが」
医者が男のズボンをめくると、
「単なる火傷に見えるが」
岸田博士は傷跡を見て首を
「違う。
後ろから見ていた由宇は即座に否定した。
「電撃症……感電かね?」
八代がぽんと手を打った。
「ああ、そうか。これは停電を起こした犯人の
「違う」
「う……解ってるよ。ちょっと言ってみたかったんだ。でもいいセンいってると思うけど」
「名探偵ごっこがやりたいなら、こんな組織ではなく警視庁にでも入ったらどうだ?」
由宇はどこまでも冷ややかだった。
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明かりが消えた。
「なんだ?」
すでに十箇所で電源に異常が起きている。どこか
すでに停電が始まり四時間が経過していた。いまだにはっきりとした原因はつかめていない。ただショートした電源箇所は例外なく高圧電力による
『第十一区画の電源がダウンしました』
『第七区画、食料庫もダウンしました』
しかし停電でもLAFIのシステムは生きている。LAFIの電源はもっとも厳重に保護されている。だが次々と届く報告は、恐怖に
「なあ、おい」
部下に呼びかけようとして、
電子音だけが低く鳴り
「なんだよ、誰もいないのかよ」
誰もいない部屋の中で、声を大にする。あとに訪れる静寂が寒々しい。
「くそっ!」
乱暴に立ち上がると
不安そうに辺りを見る。見慣れたはずのLAFI制御室は、赤く
辺りを見渡しながら、倒れた椅子を起こす。カラカラと音が鳴ったのはそのときだった。起こした姿勢のまま、木梨の姿勢は凍りつく。背後からカラカラカラカラと音が迫る。何かが足に触れた。
「ひゃっ!」
床を転がり木梨はしりもちをついたままあとずさりする。
「え、あ?」
しかし足に触れたものの正体を目にして、気の抜けた声を出した。椅子だった。カラカラという音はキャスターの転がる音だった。
「なんだ
このときばかりは周囲に人がいないのにほっとしながら立ち上がる。再び倒れた椅子を起こそうとして、ふと疑問が
誰もいない部屋で、なぜ椅子が動いたのか。
さらに疑問が重なる。あえて考えないようにしていた現象を、なぜいま強く思い描いてしまったのか。
視界の隅で非常灯の淡い明かりが影を映す。
しかし
影に続いて物陰から体の一部が現れた。現れたのは犬の脚だ。しかしそれは犬の脚であるはずはなかった。犬の脚は人の背丈ほどもない。もしあの脚の上に犬の体と首と頭が続いているのなら、その高さは
そのような生き物がNCT研究所内をうろついているはずがない。たとえいたとしても、扉をくぐれるはずもない。誰にも気づかれず、NCT研究所内でも屈指の重要区画に侵入できるはずもない。
しかしあらゆる否定材料を無視して、見上げんばかりの巨大な
「ひっ!」
獣が
12
「ゆ、由宇君、どうして食料庫なんだ?」
「ネズミの毛があって、食料がある。となれば食料庫は当然の帰結だと思うが」
「しかしこのNCT研究所にネズミはいない。
「その過信は
由宇の言葉は五分後、目の前に現れる。居住区のそばにある食料庫の一つに入った岸田博士は我が目を疑い言葉を失った。
「なんだって……」
米やパン、保存食品が食い荒らされ床に散らかっていた。
「やあ、見事にやられたもんですね」
「もったいないなあ。でもこれだけ食い荒らされてるってことは、一匹や二匹じゃないですよね」
カリカリと何かを砕く音が聞こえたのはそのときだ。倉庫の隅で一匹のネズミが、食料らしいものをかじっていた。
「ああ、決定ですね。ネズミですよネズミ」
「おかしい。そんなことはない。それにもしネズミがいるなら、いままで監視カメラに映ってないはずがない」
「でも現にいるじゃないですか。監視カメラを
近づこうとする八代を小さな手が
「監視カメラを避けるのに知性は必要ない」
「どういうことかね?」
「すぐに
「では」
警備兵は肩に
「あっ、くそ」
なかなか捕まえることができない警備兵は、
「へえ、銃に狙われているって解るのか。かしこいなあ」
感心する八代に、
「では、君が銃で狙ってみろ」
由宇の指示が飛ぶ。八代は
「やはりこうなったか」
「どういうことなんだね由宇君?」
八代は感心し何度もうなずいた。
「なるほど、これが監視カメラに収まらない理由か」
「察しがいいな。ただのうるさいだけの男ではなかった」
「これでもだてにADEMに入ったんじゃないからね」
「すまなかったね、だてにNCT研究所にいて」
五十歳を直前にした小太りな中年男は、顔を真っ赤にしていじけている。
「あ、いや、ほら、たまたまです、たまたま」
「監視カメラが暗いところでも、そう、ルクス0でも映像が映せるのはなんでだと思う?」
見かねた
「赤外線を照射して、それを映してるんだ。いくら私でもそれくらいは
五十代直前男は、まだいじけていた。しかし、すぐに何かに気づいたのか、八代の持っている
「レーザーサイト! そうかネズミは銃に
「そう、ネズミ
「赤外線を
「食料庫を
「ぐっ」
八代の言葉をもっともだと思ったのか、岸田博士は言葉をつまらせてしまう。二人が会話している間も、由宇は散らかっている食料を手にとっては、ネズミと見比べている。
「失われた食料から推察できるネズミの数を割り出してくれないか。二百匹以内ならよし」
「に、二百! この研究所内にネズミがそんなにいるというのかね?」
岸田博士は
「とりあえずそこのネズミを捕まえてくれ」
13
「木梨君も
医務室から出てきた岸田博士は深刻な顔をする。
「しかしまずいな。彼がいなくなったらLAFIを使いこなせる人間はいない。このような非常時に、不安要素が増える。しかも監視カメラに映っていた木梨君を襲ったらしい影の正体が解らない」
「影しか映ってなかったのは残念でしたね」
「あんな大きな生き物がこの研究所内にいたら、
「今はラボのほうに行きました。さっき捕獲したネズミを調べたいって言って」
「なんだって!」
どたどたと走る岸田博士の後ろから、
「それとこうも言ってました。世界を滅ぼしたくなければ、NCT研究所を
岸田博士の足が止まる。
「世界が滅ぶ? あの子がそう言ったのか?」
「ええ。ゲノム・リモデル技術の集大成だそうです」
「なんてことだ。今日運ばれてきたばかりの同技術の犬も行方不明だというのに。どうしてこうも立て続けに問題が起こるんだ」
「同じらしいですよ」
「何がだ?」
「犬のネズミ」
「はっ?」
「ああ、それと停電
14
由宇は1200メートルの地下に戻り、自室のラボにいた。そこでガラスケースをじっと観察していた。しかし中にあるのは
鬼気迫る後ろ姿に岸田博士と八代は声をかけるのをためらっていたが、耐えきれなくなってついに岸田博士が話しかけてしまう。
「由宇君、何を見ているんだね?」
「ネズミだが」
ガラスケースから目を
「いや、どこにもネズミはいないんだけど。透明人間、じゃなくて透明ネズミ? それとも妖精さんでも見てる?」
「馬鹿には見えないという可能性は考えないのか?」
「いやーはっはっ、一本取られたなあ。それで本当はなに見てたのかな?」
由宇はゴム手袋をはめると、無造作にガラスケースの中に手を入れる。小さな手がつかんだのは、中にたった一つ入っていた石だ。
「ここにいる」
「何が?」
「ネズミ」
「ははあ。冗談にしてはいまいちかなあ。うわっと!」
「え、これって? うわっ、うわっ!」
石を右手と左手でキャッチボールする。まるで熱いものを持っているかのようだ。
「八代君、この非常事態に何をしているのだね」
きつい口調でたしなめる
「はい、パス」
と石を投げつける。
「危ないではないか。 うわっ、うわっ!」
石を受け取った岸田博士は、八代と同じように右手と左手でキャッチボールする。
「ゆ、由宇君、これはいったいどういうことなんだね? なぜこの石はこんなにも
「やっぱり
二人の様子を静かに見ていた
由宇の手から垂れたヒモの下に石がぶら下がっている。
「5ボルトから10ボルトの電流を発しているから、痺れるのは当然だ」
「当然って、石が電流だすのは当然じゃないと僕は思うんだけど」
「石ではない」
由宇が指で
「あっ!」
「なんだってっ!」
二人同時に
「保護色か、なるほど、カメレオンだね」
「色の変異パターンから察するにタコ、ヒョウモンダコだろう。タコの保護色能力は、カメレオンとは比べものにならない」
「監視カメラの赤外線をさけて、なおかつ保護色で周囲と同化する。これでは見つからないはずだ」
キキキッと泣きながらもがいているネズミは、しばらくするとまた体の色を変えて体を丸めてしまった。
「うわあ、
「そのネズミが発生する電気はせいぜい数ボルトだ。デンキウナギを初めとする発電魚と呼ばれる種類は、体内に発電板と呼ばれる細胞を何千枚も持っているため、数百ボルトの発電を可能としているが、このネズミの体の大きさではせいぜい10ボルトが限界だろう」
「10ボルトでは、とうてい停電を起こすのは不可能ですな」
岸田博士が首を振る。
「その秘密はこれだ。しっぽを見てみろ」
「傷があるね。なんで?」
「思考を
「そんなこと言われても、わかんないよ。凡人のワトソンは、おとなしく名探偵ホームズに聞くほうが早い」
「じゃあ、問題だ。あのネズミはいったいどこから来たのか」
「
「そんなことはありえない。ブレインプロテクトがあるからスパイ行為は不可能、それに何かを持ち込もうとしても、正面ゲートのチェックで気づかれるはずだ」
「でも現に普通とは言えないネズミがいますよ」
議論する二人を横目に
「何を悩む? 簡単な足し算と引き算だ。ここにいないはずのネズミがいる。ということは、いなくなったものを考えればいい」
「「いなくなったもの?」」
「いや待ってくれ由宇君。確かに犬が一匹いなくなったが、もしかしてそれがそのネズミだというつもりかね?」
「いくらなんでも大きさ、違いすぎるんじゃないかなあ」
「だから思考を
「もう一つって、犬じゃないの?」
「不正解」
「え? じゃあ僕が連れてきた犬はなに? あ、思考は放棄してないよ。僕の灰色の脳細胞が、目の前にいる女の子に聞くのが一番早いって回答を導き出しただけ」
由宇は聞こえよがしにため息をついてから、言う。
「DNAを調べてみないと詳しくは
「え、珊瑚って植物じゃないの?」
由宇は一度八代に目を向けただけで、すぐに話に戻ろうとする。
「ちょっと待って。いまの反応、冷たくない? 冗談だよ、冗談。珊瑚が珊瑚虫って小さい生き物の集合体だって解ってるから。えっと、じゃあ、犬はネズミの群生ってこと?」
「ある程度察しが良くて助かる。おそらく二百から三百のネズミが集合し、体の色を変え、犬のように見せかけてきた。さて問題は食料庫の被害状況からのネズミの数の予測だが」
「ああ、それなら先ほど受け取ってきたよ。由宇君の話と少し異なるんだが」
岸田博士からもらった紙に目を通し、由宇は難しい顔をする。
「半日で十倍にまで繁殖したか。このまま放っておくと爆発的に繁殖して、NCT研究所だけでなく、外のありとあらゆるものを食い尽くすぞ」
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「全ゲートを閉じろ。一匹でもネズミを外に出すわけにはいかない」
「ライフルからレーザーサイトは外しておけ。赤外線パルスレーザーで
「十区画に異常。現段階でNCT研究所の60パーセントの電源系統がダウンしています。停電の起こる時間は徐々に短くなっています」
NCT研究所内があわただしくなった。
その中で由宇は一人、自室の研究所で捕まえた唯一のネズミを前に、機能の
「何してるんだい?」
後ろから
由宇は何かの機械をいじり、ガラスケースの中ではネズミが落ち着きなく動き回っていた。
「
「そうか、そうだね」
「ならばそれを利用しておびき出す」
由宇の言葉と同時にネズミの動きが急に落ち着きのないものになった。
「この周波数か。いや、もう少し調べよう」
由宇が集中しているのを見て、八代は
部屋を出れば由宇が生活するガラス張りの空間で、一番広い部屋に出る。ちょっとした体育館並だ。部屋の端にはスポーツジムのように様々な運動器具や計測器が立ち並んでいる。
「まあ、体なまりそうだもんな」
八代はそのうちの一つ、握力計を何気なく手に取る。1グラム単位で計測できる立派なものだった。
「へえ、アスリート用かな?」
八代は握力計で自分の握力を計測し、しかめっ
「うわ、落ちてるなあ。大学時代の
由宇の握力に興味を抱き、八代は握力計の履歴を表示する。
「じつはとんでもない怪力の持ち主だったりして。なんてね、そんなことあるわけないか。18・114キロか。ほら、
大人びた由宇が子供らしい握力しか出せていないことが
「18・115、18・116、18・117、18・118……」
しかし、数値を読みあげる八代の表情は徐々に
「18・119、18・120。ちょっと待ってよ。なんで計測結果がきっちり1グラムずつ、増えてるんだ?」
不安にかられ部屋を見渡しながら、
「ウォーキングマシン?」
走る空間は充分にあるのに、狭いスペースで走るための機械がある。なぜ先ほど違和感を抱かなかったのか。
ウォーキングマシンのそばにいくと、先ほどと同じように、計測結果の
「これもだ。一定のパターンがある」
さらにいくつかの履歴を参照できる計測器具を次々と八代は見ていった。
「どうなってる? あの子の体はどうなってるんだ?」
すべての器具の計測値は一定のパターンを記録していた。そのパターンは精密にして正確に。どれ一つとして、決して崩れることはない。
八代は恐る恐る研究室で機械の調整を続けている
つい先ほどまでは美しい十二歳の女の子にしか見えなかった少女が、
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「どうだい、
『モグラになった気分だ』
由宇の返事は早かった。
「はは、さしずめ君はモグラのお姫様だね。あれ、気に入らなかった?
『それを誉め言葉として贈る君の常識を疑う。よし、場所としてはここが申し分ない。いま戻る。通信を切る』
八代がいるのは広い部屋だ。部屋の中央には由宇が調整した機械がある。
「あの娘の
「おかしいとはいいませんが、その、まあ、男っぽいっていうか」
「昔はそうじゃなかったんだ。少し変わっていたが、女の子らしい話し方をしていた。男っぽい、突き放した話し方をする娘ではなかった」
「じゃあ、いつから?」
「いつからだろうね。……ある日を境に
「私には何もできん。あの娘が安心して過ごせる外の世界を与えてやることはできない」
「ここが一番安全じゃないんですか?」
「……どうだろうな。何を基準に安全と言えばいい? 太陽を見ることもなく、世界から存在を
「難しい問題ですね」
適当な答えを返すことははばかられ、かといって
「
「なんだね? 私に解ることなら」
「あの部屋にあった運動器具についてなんですが」
「ああ、あれか。由宇君が運動不足になると言ったので用意したのだ。毎日、使っているようだ。あのような場所では運動不足になりがちだからね。いいことだ」
岸田博士の様子からパターン化された測定値のことは知らないように思われた。
──つまりあの娘は、
しかし八代の思考は中断される。由宇が戻ってきたのだ。
「何を話していた?」
「いやなんでも」
「そうか。準備ができた。作戦開始だ」
部屋の中央にある装置を見て、由宇はコクンとうなずいた。
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しかし換気孔は永遠に続くわけではない。唐突に開けた場所に出ると、うねりは一気に広がった。うねりの正体は何百という数のネズミだ。
ネズミは部屋の中央にある奇妙な機械のまわりを落ち着きなく旋回する。やがて数が集まると、
逃げ場を失ったネズミ
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「何匹いるんだろ?」
窓の外から部屋の中を見て、
広い部屋の床を埋め尽くすのは、灰色のうねりだ。無数に重なるキイキイという泣き声は、もはや
「これがミンクなら
「この状況で、そのような軽口がたたけるとは、肝が据わっている。それとも単に
「いや、ははは。前者だと
「私の推察では前者の可能性は8パーセントにもみたない」
八代の軽口に、
「そんなあ」
「いや、すまない。可能性ではなく割合と言うべきだった。肝が据わっていると表現できる部分も7パーセントはあるということだ。安心しろ」
「いや、だからそういうことでなく」
「なんだ、何が不満だ、男のくせに細かいところにこだわるな、君も」
「男とか細かいとかって関係ないと思うけど」
「待て。君と
催眠ガスが部屋を満たし、やがて無数のネズミ達は静かになった。
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「よし、一匹残らず回収してくれ」
作業員もいなくなり、残ったのは由宇と岸田博士と八代の三人だけになる。
「ようやく終わった。由宇君、お手柄だよ。この分だと
「……」
「いや、待遇向上なんて二の次だ。本当にありがとう、
由宇は
「だから由宇君、いま少しあの地下で
「ええ、おやすいご用ですよ」
八代が由宇の肩に手をやりうながすと、思いのほか素直についてきた。
部屋を出ようとしたとき、由宇は振り返った。
「
「ん、なんだね?」
「私は、あの……あ……」
「どうしたんだい?」
「危ない!」
由宇が叫ぶより早く壁のうねりは崩れ、岸田博士に降りかかった。
「うわああっ!」
壁に
「くそっ!」
八代の判断は速い。ライフルを構えるとスコープの赤外線パルスレーザーで岸田博士を覆っているネズミを
八代は赤外線スコープでネズミを狙いながら道を作り、岸田博士をかつぐとなんとか部屋の出口まで走る。
ドアの開閉スイッチを押すと電気ショートを起こしながら開いた。岸田博士を引きずったまま、八代と由宇はすぐさま外に出ると、ドアを閉めるためにボタンを押す。しかし何も起きなかった。
「くそっ、肝心なときに
NCT研究所内で電気ショートはもう何度も起こっている。ドアの開閉装置が壊れるのも無理からぬことだが、あまりにタイミングが悪すぎた。
ドアから流れ出ようとするネズミを食い止めているのは、
「ここは私が食い止める。早く行け」
「僕の
「二回も
「けど、そうでしょ、男の見せ場は常にピンチと背中合わせって」
軽口を
対し由宇の表情にかわりはない。
「戦闘力に優れるという基準なら、私が食い止めるべきだ」
由宇はうねりをまっすぐに見つめ、耳を疑うことを言う。
「お
八代を取り巻く世界が一回転した。自分が一回転したのだと気づいたのは、背中をしたたかに床に打ち付けられたときだ。見下ろしている幼い少女は、八代の手を奇妙にねじっている。由宇が自分を投げたと理解するのに、数秒を要した。八代とて、常人とは次元の異なる
「正確に分析しようか。君の戦闘力を1とした場合、私の戦闘力は4・27。つまり八代、君は四人がかりでようやく対等。五人で辛勝。それでも君の戦闘能力を一般兵士より
由宇は八代の手を
「この程度の拘束では、私の自由を奪ったことにはならない」
たたんと軽く床を
「……なっ」
だからこそ手足の拘束と最低四人の兵士という条件下で由宇は自由を許されていた。そのはずだった。
「ここは私がなんとかする。八代、君は岸田博士を連れて逃げろ」
八代は
なのにいま、それをフイにしている。岸田博士と八代を助けるために、あえて投げ出そうとしている。その胸中を八代は想像するしかできない。
ただ確かなのは、部屋の中央に立つ少女の気高い美しさだ。その姿は八代の胸を強く打った。
「君は……」
「早く行け」
同情も尊敬も拒絶し、少女は己の戦いに没頭する。
灰色のうねりは中央から盛り上がり、由宇へ突進しながら形を形成しはじめた。それは
先ほどと同じように
するとネズミ
「直列つなぎか。何万ボルト出すつもりだ?」
由宇は表情を
由宇は天井に張り付いたまま、腰の後ろから銃を引き抜く。
「え、いつのまに?」
八代が
だが
由宇が
次の
同時に大量の水が、放電を続けるネズミ
水に
20
由宇は銃を構えた姿勢のままでいた。トリガーにかかる指はいまだ引かれてはいなかった。
「よけいなマネだったかな?」
由宇が声の方向に顔を向けると、いまだ銃口から煙が立ちのぼる銃を持った
「なぜ
「君がためらっているように見えたからね。気のせい?」
由宇は肯定も否定もしない。床に降りると、
「……
「かもね。でも僕達にそんなのんびりした選択は許されてなかった。確実に
八代は笑う。
「その笑顔、信用できそうにない」
「あれ、そう? ははは、まいったなあ。女の子には
「口も信用できない」
「ねえ、一つ聞いていいかな」
「だめだ」
「君は体を思うままに操れる。日々の気の遠くなるような訓練の果てに手に入れた能力だ。君はずっと、その特殊な身体能力を隠してきたんだろう?」
「人の話を聞け」
「質問に答えてくれる?」
「コミュニケーションが成立していない」
「うん、気のせいってことにしておこう。でも、ありがとう。本当にありがとう」
「……何がだ?」
「……君の五年間の努力をふいにして、君の自由とひきかえにして、僕と
「べ、別に君
「たよりない男でごめんよ。もう少し僕が強ければね」
「話を聞け」
「そうだね、本当にありがとう」
「だから話を聞けといってる」
21
由宇の部屋で、由宇と
「どことなく、憎めないネズミだったなあ。直列
「見た目の
その言葉を聞いて、八代は切なくなった。目の前の少女が遺産兵器を語る言葉は彼女自身のことのようだ。八代は無理に明るい口調で
「あ、ありがとう。
「いや、
「……はかないね」
「人為的に作られた存在だ。兵器として作られている以上、あたりまえのことだろう。相手を滅ぼした後、自分達まで滅ぼされたら本末転倒だからな」
淡々とした口調は冷静さを
「じゃあ、このネズミは預かっていくよ。ADEM本部のほうに持ってこいって命令だから」
だが、ガラスの
「持っていっていいかい?」
返事はしばらくなかった。しばらくして気のせいかと思うくらいわずかに、
22
最後の一匹となったネズミは、遠ざかる少女を見つめながら、一度だけ鳴いた。
ここに来たときと同じように運ばれていく。来るときはたくさんの仲間と大きな
運んでいる人間の顔には見覚えがあった。茶色い髪をした若い男で、ここに運んできたときは、文字通り右往左往しながら台車を押していた。だが今はもうここに来たときの、あの
周囲の様子が目まぐるしく変わる。廊下を歩きエレベーターに乗りまた廊下を進む。ときどきケースを
しかし景色の変化を眺めるのにも飽きてきた。好奇心を満たすものはなくなった。それとも気力がなくなったのか。だるさに近い眠気が体を
──なぜあんなにも悲しそうな顔をしていたのだろう?
自分をじっと見つめていた少女の表情を思い出したのを最後に、意識は途切れ、ネズミは深い深い眠りに旅立った。
エピローグ
それでどうしたって?
もちろん、僕は報告書に書いたよ。見たままの
でも結局、一部始終、監視カメラに映ってたんだし、虚偽の報告をしたところですぐにバレるだけじゃない? しかたないよ。しかたないって、嫌な言葉だけど、しかたない。
すまじきものは宮仕え、だね。ほんとに。女の子を助けてあげたくっても、どうすることもできやしない。組織の中での個人の力なんて微々たるものさ。
でも、だから、せめて僕は、ほんとにささやかだけれど、彼女の計画の片棒を
報告書に一つだけ
何かって?
それを言ってあげれば、待遇向上……になんか、なるわけないしね。
肉体労働を頭脳労働に置き換えるってことも隠しておきたかったと思うけど、彼女が一番隠しておくべきだと思ったのは、その優しさだと思ったから。
彼女自身、もしかして自分の優しさに気づいていなかったのかもしれない。でもそれなら、なおのこと、秘密にしておくべきだろう?
峰島由宇の心は機械みたいで冷たくって感情なんかないって思わせておくに越したことないじゃないか。彼女に優しい感情があることが知れたら、そこにつけこんで利用するやつ、たくさんいるだろうしね。大人はずるいからさ。──僕も含めて。
だから、僕は、僕が感じた峰島由宇について、一切報告書に書かなかった。
それが何も出来ない僕自身への言い訳だとしても。
事件のあと、彼女の研究室に残った最後の一匹を、上に報告するからと言って、僕が彼女の部屋から持ち出したのは、彼女の言うとおりすぐに死んでしまうなら、それを彼女に見せるのが忍びなかったから。そしてやっぱり彼女の言葉どおり、最後のネズミは、帰りのエレベーターで、僕の手の中で死んでしまった。
僕はそのネズミを、こっそりNCTの裏に埋めて、小さなお墓を作った。
小さなお墓に手を合わせてから空を見上げると、木々の間から初夏の日差しがとてもまぶしかったのを覚えてる。
今日もあのネズミは、NCTの裏の静かな森の中で、暖かい日差しを浴びているだろう。
いつか峰島由宇が同じように、暖かい日の光を浴びることができるのを、僕はあれからずっと祈っているんだ。