ビスコの前で、ようやっとアクタガワの大鋏から転げ落ちたミロは、泥や浮き藻ですっかり汚れた顔を拭い、ごほごほと咳き込んだ。
「この、バカ! 何がどうなったら、あんな……」
ビスコはミロに怒鳴りつけ……ようとして、それはもう見るからにすっかりしょげかえって俯く、生傷まみれのミロの顔を見て、そのあまりの不憫さに何も言えなくなってしまった。
「び、ビスコ、ごめん、僕……!」
「いい! 謝るな。……今日はもうお前が持たねえ。先に進もう」
「だ、大丈夫! 時間がないよ、はやく、乗れるようにならないと……」
「その、産まれたての鹿みてえな足でかよ。訓練はまた明日だ。怪我だけ、治してこい」
「……うん、わかった」
言いながらビスコは、少し眉間に皴を寄せて、次の手に考えを巡らせていた。
ミロの才能云々よりも、本音を言えば、キノコ守りでもない素人にすぐに蟹に乗れなんて、そもそも無茶な話なのだ。
キノコ守りにしてもそのすべてが自在に蟹を操るわけではないし、中には、薬物による催眠状態を利用して、半強制的に蟹を操るキノコ守りも存在する。
(急ぐ旅とはいえ、アクタガワに、薬は使いたくねえが……)
ビスコが思いを巡らせながらミロを眺めていると、ミロは自分の少ない荷物を抱えて、てくてくと……どうやら、アクタガワの方へ歩いてゆく。
「アクタガワ。無理させちゃって、ごめん。薬、塗るから、じっとしててね!」
ミロが懐から紫色に輝く薬管を取り出し、アクタガワへ歩み寄ると、さすがにアクタガワも不気味がったのか、ぐわり! と大鋏を掲げて威嚇する。アクタガワの威嚇の迫力といったらすさまじく、他の動物はおろか、兄弟分のビスコをしてたじろがせるほどである。
それへ、
「強がってもだめ! ほっといたら、筋肉が弱くなるよ! はい、きをつけっ!」
少しの怯みもみせずに、ミロが声を張った。驚いたのはビスコで、それまで大鋏を掲げていたアクタガワが徐々に警戒を解き、ゆっくりと、威嚇を解いたのである。
「そう! いい子だね。はい、おすわり!」
アクタガワの白い腹を撫でて、笑顔のミロがささやけば、とうとうアクタガワも全身の緊張を解いて、足を折ってそこへ座り込む。ミロが、手にした薬液をアクタガワの関節に吸い込ませてゆくと、ほのかに香草のような香りが辺りにただよった。
呆気にとられて自分を見つめるビスコに、アクタガワを撫でながら、ミロが声をかける。
「ごめん、あんな無茶な乗り方されたから、ずいぶん筋肉に傷をつけちゃった。でも、ツキヨモギの再生薬を使ったから、アクタガワなら、歩きながらでも治るよ!」
(……俺は、自分の傷を治せって、言ったんだがなあ)
ビスコは隣まで歩いていき、不思議そうな顔で、落ち着いたアクタガワとミロを見つめる。
「おまえ、これができるのに、なんで、背中に乗れないんだ?」
「……? これがって、どれが?」
「……。く、ひ、ひひひ……。まあ、いいよ」
ビスコはそこで愉快そうに笑って鞍へ飛びのり、ミロの手を引いて、右の鞍へ上げてやった。手綱に反応して走り出すアクタガワの上で、ビスコがつぶやくように言う。
「予定変更だ、蟹の訓練はやめる。おまえ、蟹に関しちゃ、才能がある」
「ええっ!? あんな、有様だったのに……?」
「でも、アクタガワと話した。俺も初めて見たよ、蟹に乗るまえに、蟹と話せる奴なんて」
巨大な八本足で走るアクタガワの気性は、ふしぎと穏やかで、右肩に乗っている異物感も、先の一幕でずいぶんと柔らいだようであった。