猫の逃げ場
人生はままならない。
たとえば五歳の時、大陸に三人しかいない魔女に呪いをかけられたことや、その呪いの解呪を隣国に相談しに行って、おかしな女を連れ帰って来ることなど。
「――オスカー、ちょっといいですか?」
執務室に訪ねてきたティナーシャは一枚の書類を見せる。それは宮廷魔法士が購入して欲しい本を申請する時に出す書類だ。
「なんだ、お前も本を買って欲しいのか。何が欲しいんだ」
「自分で買いますって! けどこの書店、個人相手には本を売ってないんですって。だから城に二冊買ってもらって私がそこから一冊買い取りたいんです。許可をください」
「そういうことか」
ティナーシャは隣国の王族だ。その彼女がファルサスの城に出入りする書店から本を買うのは難しいだろう。ただだからと言って城が購入したものを勝手に買い取ることもできない。上の許可がいる。上はオスカーだ。
彼は書類を受け取ると、隅に一筆書く。ついでに猫の絵も描く。
「書いたぞ。これを提出しろ」
「ありがとうございます! あっ、落書きがある! なんで!?」
「変わったことを言い出すからだ」
「こんなの、本当に貴方の署名かどうか疑われるじゃないですか!」
騒ぐティナーシャはいつもながら面白い。隣国の女王になるのがもったいないくらいだ。
もっとも面白い人間が隣国の王位にいるのはあまりよくないかもしれない。そこそこ話が通じてそこそこ愚鈍くらいがいい。
その点ティナーシャは、何を考えているか分からず、何をやり出すか分からず、そのくせ強力だ。たちが悪い。
ただそれでも、彼女を突き放せないのは事実だ。
彼女はオスカーの呪いを解けるかもしれない貴重な人間だから、というだけでなく……危なっかしくて放っておけないので。
「お茶淹れていきます。せっかく来たので」
「ん、自分のも淹れろよ」
「はーい」
暗黒時代の女王であった彼女は、暗殺予防のためになんでも自分でやる習慣が身についている。それに便乗して飲めるお茶は美味しい。しばらくして用意されたお茶をありがたく飲んでいたオスカーは、けれど数分後に自分の判断を後悔した。
執務室の扉を開けて入って来たラザルが、釣り書きの山を持っていたからだ。
「陛下、申し訳ありませんが――げえっ!?」
長椅子に座ってお茶を飲むティナーシャに、ラザルは悲鳴を上げる。
悲鳴を上げるくらいなら先に気づけ、と思うのだが仕方がない。
仕方なくないのは、飛び上がったラザルが釣り書きを床にばらまいてしまったことだ。
「大丈夫ですか?」
「待て、放っておいていい」
ティナーシャはカップを空中に置くと、散らばった釣り書きを拾おうとする。
オスカーは咄嗟に制止したが間に合わない。彼女は、床に開いてしまったそれが何か気づいたらしく、大きな目を丸くした。
「……王妃候補ですか」
「こっちが募集したわけじゃない。定期的に送られてくるんだ」
「そ、そうなんです。勝手に。捨てるわけにもいかないので」
ラザルがあわてて釣り書きを拾い集める。もうそのまま釣り書きを抱えて帰って欲しいのだが、立場上それも言えない。ラザルは十通を越える釣り書きを、震える手で執務机の隅に重ねて置いた。
ティナーシャはぶすっとした顔でオスカーを見やる。お茶のカップは空中に置かれたままだ。いつ割れるか分からない。
オスカーはそれでも目の前の仕事に集中して彼女の視線を黙殺しようとしたが、圧が消えないので諦めて口を開いた。
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「別にー。何でもないですもん」
丸めた書類を彼女に投げつけたくなる。
――ティーシャが、自分に好意を持っていることは分かっている。
けれどそれは二人の立場にはそぐわないもので、なおかつ私的なことに関して彼女の精神面は幼いのだ。ほんの少女と変わらない。
結果として、立場上決して己の感情を口にしないのに、分かりやすく嫉妬の目を向けてくる女が誕生してしまう。嫉妬するくらいなら「解呪できなそうだから自分が子供を産む」と言ってくれればいい。そうすればオスカーも彼女を妻にできないかトゥルダールと交渉できる。
だが彼女はそれをしないのだ。魔法士としての矜持なのか、一度受けた彼の頼みを断ろうとしない。
ようやくカップを取り、ティナーシャはお茶に口をつける。
膨れ面を隠せていない彼女は、毛を逆立てた子猫のようだ。彼の目には可愛らしく映るが、そんなことは口にしない。自分たちはそれぞれ違う国のために生きなければいけないのだから。
ただこのままだと執務室内に妙な緊張感が漂ってしまう。オスカーは釣り書きを手に取るとざっと目を通し、こっそり帰ろうとしていたラザルに「見たから持ってけ」と命じた。
災いの種はラザルによってそそくさと撤去されたものの、執務室内の緊張感は消えない。これはもうどうしようもない。オスカーは話題を変える必要性を感じて、別の話を振った。
「お前、城の地下で四百年も寝てて怒られなかったのか?」
「え、別に……。寝てたので苦情があっても気づかないというか」
「それもそうか」
「あと、私を排除したくても普通にミラを突破できないと思います。やるとしたら精霊同士をぶつけないと駄目ですけど、想定される損害が大きすぎて、みんな踏みきらなかったんじゃないですかね」
「とんだ爆発玉だな」
そんな存在が地下に眠っている城を、トゥルダールの王は代々治めなければならなかったのだ。心中察するにあまりある。
ただ彼女は同時に、トゥルダールにとっては切り札だったはずだ。今のトゥルダール王が息子の妻にと望むくらいだ。オスカーの呪いに打ち勝てる母体だということからしても、彼女を妻にと望んだ人間はいるのではないだろうか。
それを考えると面白くはないが、オスカーは彼女と違って本心を隠すことに慣れている。だからお茶を飲みながら努めて静かに聞いた。
「お前には結婚の話は来てなかったのか?」
「来てましたよ。王族ですもん。子供の頃から婚約者もいましたし」
「……へえ。どうしてそいつと結婚しなかったんだ?」
カップを持つ指に力が入りそうになって、オスカーはそれを机に戻す。
ティナーシャは微笑んだ。その微笑は普段と違って大人びて美しい。
「意見の相違で殺し合いになったので。即位前の話ですけど」
「…………」
彼女が生きた四百年前は、暗黒時代の只中だ。
当時は力で王を選んでいたというトゥルダールには色々あったのだろう。気にはなるが、彼女と共に生きるわけでもない自分が踏みこんでいい領域でもない。
オスカーがそうのみこむ間に、彼女はいつものあっけらかんとした様子に戻る。
「あとは即位後に私の力を削りたい陣営からの求婚が色々と」
「ああ、精霊術士だからか」
純潔が条件の強力な魔法士であるなら、純潔を失わせてしまえばいいという発想。
王家というものが明確に存在しなかった当時のトゥルダールには、王の敵も色々いたのだろうが……なかなかに陰湿だ。
だがティナーシャが付け加えた話はもっと陰湿だった。
「うーん、それもあるんでしょうけど、精霊術士じゃなくなっても私の方が圧倒的に強いですからね。どちらかというと妊娠中の暗殺狙いだと思います」
「暗殺狙い? なんだそれは」
「女性の魔法士って胎児に魔力があると上手く魔法を使えなくなるんですよ。そこなら多分殺せるかなって」
「…………」
開いた口が塞がらない。先程絶句したのとは別の意味でだ。
オスカーは最初に浮かんだ言葉をのみこむと、ようやく感想を吐き出す。
「とんでもないんだが」
「そうですか? 意図がばればれで気にならないというか」
「気にしろ。とんでもないから」
「と言っても四百年前の話ですから、もう全員死んでますし」
「次からは求婚してきた時点で殺せ」
「え、いいんですか?」
「よくない」
「なんなんですか……」
のみこんだはずの言葉が結局出てきてしまったが、今は時代が違う。
ティナーシャはからかわれたと思ったのか唇を尖らせた。
「他人事だと思って無茶苦茶言わないでくださいよ。これでも余計な叛意を抱かせないように頑張ってたんですからね」
子供のように胸を張って彼女は言うが、それは事実だろう。暗黒時代の玉座にいることが楽だったはずがない。その時に自分が傍にいたなら、と思うが、不可能なことを言っても仕方がない。
そこまで考えてオスカーは、大事なことに思い至る。
「お前、それならこの時代でも子供を身籠ると危ないんじゃないか?」
「あ、そうですね。子供が必要になったら気をつけないと。雲隠れでもしようかな」
なかなかに嫌な話だ。
オスカーは心の中の苦味を全力で嚙み殺した。私情を差し引いても言わなければならないことを言う。
「俺の子を産むことになったなら、ちゃんとその間守るからな」
「え!」
長椅子に座ったままティナーシャは、ぴょんと飛び上がる。
「そ、それは、私と結婚してくれるという――」
「話じゃない。呪いが解けなかったらという話だ」
「ですよね……」
しゅんと着席し直すティナーシャは、本来ならこの時代においてもっと自由だったはずだ。
玉座から降りて残りの人生を好きに使う――そうならなかったのは今のトゥルダールの事情で、物言いたくはあるが、彼が口出しできることでもない。ティナーシャが自国を大事に思う気持ちもよく分かる。
だからせめて。
「お前が別の誰かと結婚したとしても。魔法が使えなくなったら俺のところに来ればいい。守ってやる」
全てを捨ててこの時代に来た彼女に、安全な居場所を贈る。
彼女が決して国より恋を選ばないのだとしても、今の時代にはここに彼女の逃げ場があるのだと、苦しい時にこそ思い出せるように。
彼の言葉に虚をつかれた顔をしていたティナーシャは、ふっと大人びて微笑む。
「覚えておきます。ありがとうございます」
「ああ」
女王になる彼女が将来するのは政略結婚だろう。それはトゥルダールを安定させるために結ぶ婚姻だ。だからきっと彼女は、どれほど一人で困ってもファルサスには来ない。
それでもこの約束が、この本心が、ささやかなよすがになればいい。
ままならない人生だからこそ、感情だけはそう願う。
「じゃあ私は戻りますね。ありがとうございました」
「また面白い話ができたら持ってこい」
「この署名通るかな……落書きつきで……」
ぶつぶつ言いながらティナーシャは執務室を出ていく。
愛らしい後ろ姿を見送って、オスカーは仕事に戻った。
三十分後「やっぱり駄目でした! 書き直してください!」と駆けこまれた。