「クリスはいる?」
オリヴィア・ドラタイトが部屋に入ってきた。クリストバルとは対照的に、オリヴィアはいますぐにでも拝命式に出席できるくらい身なりが完璧に整っていた。普段ならプラチナブロンドの長い髪を訓練の邪魔にならないようポニーテイルにしているのだが、きょうはゆるめに編み込んだ髪をサイドアップにしていて、見るからに華やかだ。
「もしかしてタイを探してる? 洗濯室に落ちていたそうよ」
「おまえ最後の日もノックしないのな。男の部屋になんの躊躇もなく入ってきやがって」
「ノックをしないのはあなたも同じだったじゃない」
「ったく……口の減らないお姫さんだな」
「お姫さんはやめて」
「お姫さんなのは事実だろ、ドラルの王女さまなんだから」
眉を吊り上げたオリヴィアはクリストバルの顔にタイを投げつけると、踵を返して部屋から出て行った。
「最後の日なのに……。懲りずにまあ、ふたりは喧嘩をよくするね?」
そう言いながらアルムは床に落ちたタイを拾い、クリストバルに投げて渡した。
「喧嘩を売りつけてんのは、いっつもオリヴィアだぞ」
「それを律儀に買い続けるんだもの。もう夫婦喧嘩の域だよ」
「あいつはなんでこの船に乗ってんのかな。大陸持ちのドラルの王族なのに。きっと金持ちの道楽だな」
「三年も一緒に訓練してきたのに。オリヴィアとちゃんと話したことないの?」
「あいつはおれに小言しか言わねえの。言葉づかいから行儀作法まで、ありとあらゆる小言をおれに言い続けんの。マリネリス島みたいな、ど田舎からきた貧乏人のおれを、あいつはずっと馬鹿にしてんのさ」
クリストバルはそうぶつぶつ言いながら、なんともけだるそうにタイを首に巻き付けた。
「マリネリス出身だから馬鹿にされてるわけじゃないだろ? 現におれはオリヴィアに小言を言われたことなんてないよ」
「そこなんだよ。不思議とアルムからはマリネリス臭がしないんだよなあ」
「なんだよマリネリス臭って」
「全然田舎臭くないってこと」
「あのさ、忘れてるようだけどいつだって焚きつけてたのはクリスだよ? なんでオリヴィアと顔を合わせるたびに、お姫さんお姫さんって言うの?」
「だって事実だし」
「統治府で働くことを目指してるおれたちに、身分なんか関係ないよ。オリヴィアは特別扱いされるのが嫌いだってこと、知ってるだろ?」
「特別扱いが嫌い? 実際されてるじゃんか、あいつは最初からずっと個室だ」
「オリヴィアはこの船の船医でもあるんだから個室は当然だよ」
「きっといろんなコネがあんだよ。おれたちが知らないだけで」
「コネがあっても使う必要なんてないよ、オリヴィアには」
「アルムはいつもオリヴィアの肩を持つ。おれたちのほうが付き合い長いのに」
「卑屈になってるおまえの肩は持ちにくいからね」
「なで肩だしな」クリストバルはふざけて言った。
「肩の筋肉が盛り上がりすぎだよ。トレーニング馬鹿なんだから」アルムも応酬する。
「仕方ないだろ。座学の成績は壊滅的なんだから。こちとら体力と筋力だけは売るほどありますよ、ってアピールしなきゃなんねえの。実技で教官のポイントを稼ぐしかねえんだよ」
「なら配属先は限られるね。どの島になるかな……」
「そっちは? 座学はトップクラスだし、もしかしたら最高統治府入りできるかもしれねえぞ」
「それこそコネがないから無理だよ」
「なんだよ夢がねえなあ。おまえなんで訓練船に乗ってんの?」
アルムは二の句が継げなかった。クリストバルはなんでも都合よく忘れてしまう。
「おれが決めたんだからおまえも行くんだ、ってクリスに言われたんだよ?」
「そうだったっけ?」
「アルムぼっちゃんが一緒なら安心です、ってお母さんにも強引に口説かれたのに」
「ああ、母ちゃん言ってたねえ。おれひとりで寄宿生活なんて心配だったんだろうなあ」
「違うな。悪さをしないか、ってことを心配してたんだ」
「それでもおれにとっちゃ、ぜーんぶ母ちゃんの愛なの。ああ、母ちゃん元気かなあ」
「付き合ってらんないよ……」
そう言いつつ、アルムは少し胸が痛む。おくびにも出さないが、決してクリストバルの誘いだけで訓練船に乗ったわけではないからだ。もっと世界を、広く知りたい。そうすれば見つかるかもしれない。そんな淡い期待が、あるにはある。
でもなにを探しているかは、自分だけが知っていればいい。