教授がとんでもないことを言う。ほら、傍らの真雪くんが真っ赤な顔してるじゃん!
「と言いますか、そんな場所に入れてません! きちんと胸ポケットに入れています!」
「ようは、SNS上のコミュニケーションには言葉が足りないわけだ」
「鬼のスルースキル!」
ここで教授は真雪くんの顔をうかがう。
理解が追いついているかどうか確かめているのだ。講義中にもよくやる手法である。
当の真雪くんは、若干わたしに気まずそうな顔を見せながらも、真剣な目をして教授の言葉を受け止めていた。わたしが変な声を出したからかな。申し訳ない気持ちになる。
合格点と判断したのか、教授は口角を上げて問題の本質を語りはじめる。
「ユーザー間の距離が近い。しかし言葉は足りない。顔が見えない、声も伝わらない状態での対人コミュニケーションではなによりも文脈の理解が肝要だ。しかし世の中には機能的非識字の人間が我々の想像以上に多く、SNS上のやりとりは語弊や誤解を生みやすい」
「きのうてき……?」
「機能的非識字。文字を読むことができても、その意味や内容を正確に理解できないことだ」
「え……でも、SNSで使われる言葉ってそこまで難しくないですよね……? それこそ、義務教育で習うような言葉がよく使われるイメージがありますけど……?」
「そう。ソーシャルメディアを使用する我々は、日頃から小学校や中学校の国語の授業で学ぶ『文章の読解問題』を無意識に解き続けているに等しいわけだ。そして当然、そうした読解問題を解けない層も存在するわけだよ。SNSに限らず、たとえば商品の説明書や不動産の契約書を読めない人間が一定数いるだろう」
「教授の説明は長いから端折るけど、ようするに『SNSにはバカが多い』ってことだよ」
極端な表現だけれど、おおむね合っているはずだ。相互不理解の状況で、かつ発信者と受け手で解釈の異なる世界。ソーシャルネットワークは、人々の生活に浸透する過程で『言葉を正確に読み取れない人』の存在を浮き彫りにしてしまったのである。
「加えて社会生活における人間は、ふだん、文字以外のエッセンスを汲み取ってコミュニケーションをおこなっている。直接話せば相手の表情をうかがえる。電話でも声の抑揚、トーン、視線を捉えられる。これらを総合した非言語コミュニケーションによって対人関係を築く。しかし、テキストのみを情報伝達手段とするSNSにおいてはこれが当てはまらない」
文章というものは、お互いの共通理解があってはじめて意味を成すものである。共通理解のない文章はただの記号でしかない──と、教授は講義においてもたびたび口にしている。
コミュニケーションの手段が文字に限定されているにもかかわらず、その意味や解釈が予期せぬ形で相手に伝わってしまう。その結果どうなるかというと──想像に難くない。
「SNSが爆発的に普及したことによって、それまで当たり前のように非言語コミュニケーションをおこなっていた世代も多数参入した。根本的に方法論が異なるわけだが、これに適合できた人間もいれば──そうではない人間もいる」
教授は、真雪くんの顔を覗き込んで問いかけた。
「さて、真雪くん。きみは写真につけられたメンションへ、どのように返信していた?」
「そう言われると……返信自体、していないことのほうが多かったです。それに、するとしてもシンプルな返事を心がけていました。あまり距離が近すぎるのもどうかなと思って……」
俯く真雪くんに、教授は声のトーンを和らげた。
「責めているわけではないから安心してほしい。フォロワーの大小に限らず、すべてのメンションに反応していると時間を食うからね。ただ面倒なのは、相手が無視されたと捉えた場合だ」
そこまで言って水性マーカーのキャップを閉じる教授。
それを指揮棒のように振りながら説明を続ける。教授のクセのひとつだ。
たとえば『既読スルー』や『お気に入りで会話終了』などは、SNSの普及とともに育った10代、20代の人間からすれば当たり前のコミュニケーションとして受け入れられている。
しかし人格形成が終わり、社会経験を積んでからSNSに触れることになった世代──つまり中年世代は、こうした独特の距離感が測れず、しかし年齢だけは重ねていることから態度が大きくなりやすい。よって暴走する危険性が高いのだ。
わたしのノートにも同じ内容が書かれていた。やたら痛いメンションを送るおじさんとか、どんな投稿に対しても自分語りしちゃう人とか、そういった人種は一定数存在するわけで。
「事例を出そう」
デスクから使い込んだファイルを引っ張り出して、ぱらぱらと手繰っていく。
やがて開かれたページには『ストーカー殺人』と、恐ろしい見出しのスクラップが見えた。
「つい3ヶ月ほど前のことだ。被害者は地下アイドルの女性。犯人は40代の無職男性。犯行動機は『自分の送るメッセージをずっと無視し続けていたから』というきわめて稚拙なものだった。報道番組やネットニュースでも取り上げられていた話題だが、聞いた覚えは?」
真雪くんがコクコクと首肯するのを確認して、教授はふたたびスクラップ帳をめくる。
「こちらの暴行事件の被害者は一般女性だ。SNSに近況や自撮り写真などを投稿していた、20代の会社員。ある日突然、面識のない男性から交際を申し込むダイレクトメッセージが届き、これを拒否したところ加害者は逆上、住所を特定している、職場を把握しているなどの嫌がらせのメッセージが続き、結果的に『つきまとい行為』が認められ逮捕に至った。加害者は40代の独身男性で、被害者の投稿に付随した位置情報から住居を割り出したとのことだ」
なにがそこまでストーカーを駆り立てるのだろう、と思わなくもないけれど、人間の感情は千差万別なので推し量ることはできない。理解したくもないけどね。
教授はスクラップ帳を閉じてデスクの隅に無造作に置く。あーあ、あとで戻しておかなきゃ……なんて考えながら眺めていると、事例の解説を終えた教授はまとめに入った。