<五>
教授は真雪くんから聞いた住所をもとに愛車のアストンマーティンに乗り込んでひと足先に目的地へと向かい、一方でわたしは真雪くんを連れて、タクシーでそれを追った。
目的地を考えれば真雪くんがナビをつとめるのが自然な流れではあるのだけれど、大蛇がのたくるかのような荒い運転の犠牲者を出すわけにもいかない。
そもそも、教授の愛車は2人乗りなのだ。
ややあって、わたしたちは指定された合流場所に到着した。住宅街の一角にある駐車場にアストンマーティンを停め、その運転席で待っていた教授は、リクライニングさせたシートにゆったりと腰を落ち着け、まるで貴族のような雰囲気を醸しながらコーヒーをすすっていた。手に持っているのは100円のコンビニコーヒーだけど。
運転席の窓が開くと、メンソールの香りを纏った教授が顔を出した。
「遅い。もう最後の1本だ。ひとまず入りたまえ」
「教授が速すぎるんですよ。何キロ出したんですか」
「なにを言っているんだひまり。公道における車両の速度は法令で決まっているだろう」
「無理やり論点をずらさないでください。立ちっぱなしもなんなので入りますよ?」
わたしは呆れつつ真雪くんを助手席に誘導し、その後に無理やり入る。本来は2人乗りの設計なのでぎゅうぎゅう詰めになってしまったが、彼が細身だったおかげでなんとか3人座ることができた。カーステレオからは控えめな音量でハードロックが響いている。しかしほぼ同時に大学を出たのに、いったいどれほどのスピードで辿り着いたのだろうか。
こうした感覚のズレもまた、白鷺玲華という人間の通常運転なのだった。
「すごい……これってスポーツカーですか? こんな立派な車、はじめて乗りました」
「ふむ。卒業間際になったら運転免許を取るのをお勧めするよ。車はいいぞ。自分の手足となって好きなところに連れて行ってくれる。浪漫を形にした人類の大発明だ」
真雪くんが口にした感嘆の言葉に対して、教授の弁に熱がこもる。わたしもその流れに乗ってなにげなく雑談を振ってみた。
「こんな立派な外車で恋人とドライブとか、憧れますよねー」
「ひとりで風を切るのもなかなか乙なものだぞ? ひまりにはそういう経験があるのか?」
「……だから憧れるんですよねぇ」
「なぜ自ら見えている地雷に飛び込む?」
「まさか実戦よりも重いカウンターパンチが返ってくるとは思わなくて……」
思わずうなだれてしまう。
「ところで、あの……」
真雪くんが申し訳なさそうに口を挟んでくる。
「先ほど聞きそびれてしまったんですけれど、私人逮捕ってなんですか?」
「一般人が犯罪者を捕まえることだ」
「教授、説明をすっ飛ばしすぎです」
わたしは言葉を補足するべく、頭に疑問符を浮かべる真雪くんにそっと語りかけた。
「ふつう逮捕っていうのはね。先に令状っていう紙を裁判所に用意してもらって、それを被疑者に見せて、罪状を確認して、ようやく手錠をかけて留置所に連れて行くものなんだよ。人の自由を奪うことになるわけだから取り決めが厳しいんだよね」
日本国憲法の三原則のひとつ、基本的人権の尊重。
当然ながら、犯罪者にも人権は存在する。
悪い人間にはなにをしてもかまわない──などという考えが蔓延すると、それこそ秩序が壊れかねない。『正義の味方』という言葉があるけれど、『正義を味方にした人間』はとても攻撃的なのだ。容疑者の身柄を拘束するためには、万全を期す必要がある。
けれど、その一方で例外もあって。
「現行犯。つまり、目の前で実際に犯罪が起こった場合、罪状が明らかで、かつ緊急性が高いとして、どんな人でも犯罪者を逮捕することができるんだよね」
たとえば、電車の中でサラリーマンが痴漢を捕まえた、とか。
高校生がひったくりを取り押さえ、感謝状が送られた、とか。
わたしの説明に真雪くんはふむふむと頷く(かわいい)。
「あの……それと、こうして僕の家までやってきた件は、どう関係するんですか?」
山吹大学からタクシーを使って1時間弱。市内と市外を区切る山道を越えた住宅地。
辿り着いたのは──他ならぬ、真雪くんの自宅。
「教授はね、これから真雪くんの家の周りに張り込んで、いたずらしようとしているストーカーを偶然通りかかった一般人として現行犯で捕まえようとしてるんだよ」
真雪くんは目を見開いて驚いた。
「あ……危なくないんですか?」
不安げな顔で慌てる。それも予想どおりだった。
わたしがはじめて教授に出会ってから、かれこれ2年が経とうとしている。
だからこそ理解できる。
たとえ導かれた結論が常軌を逸した発想であっても、かならず確かな意図があることを。
教授はさらっと返答した。
「危ないか危なくないかでいえば当然危ない。しかしだ。きみが置かれている状況はそれ以上に急を要する。取り返しのつかない間違いが起こる前に、悪の根源は断っておく必要があるだろう? 根本的な解決こそが収拾への近道だ。それに、もしもの際にはひまりがいる」
真雪くんがこちらを見やる。どういうことですか、と視線が訴えていた。
しかし、わたしは人差し指を口に当てた。いずれわかることだから。