ゆきくん、きみの家はあれで合っているかね?」
「はい、あの青い壁の」
 数十メートルほど先の一軒家を指さす教授に、ゆきくんはこくりとうなずく。
 ふと、脳裏に先ほどの言葉が浮かんだ。
 ──父母は離婚していて、僕はひとり暮らしです。
 けっして豪邸というわけではないが、かわいらしいデザインのたたずまい。
 そこにあかりらしきものは存在せず、遠目にも人の気配は皆無だった。
 ひとり暮らしだとは聞いたけど、こんな一軒家に住んでるんだ……。
 そんなことを思ったところで、我に返ったわたしは教授に温めていた質問をぶつける。
「聞かせてください。どうして犯人は付属校の教員だと推定できるんですか?」
「ふむ」
 教授は名残惜しそうに最後の1本だというヒートスティックをくわえる。
 そして指を3本立て、薬指を折る。
「ひとつ。ストーカーが浮上し、活動する時間帯が普遍的な社会人のライフサイクルと合致している。活動時間はポストやメッセージの送信時刻とゆきくんの盗撮写真から算出した」
「……普通に働いている大人が……ですか?」
 ゆきくんの疑問に、教授は「そうだ」と答えた。
「そもそも、インターネットと現実をリンクさせてなにかをたくらむ人間はそれなりのリテラシーを持ち合わせているものだよ。たとえば、SNSやネットニュースのコメント欄で個人攻撃をしたり、炎上に参加して事態を大きくする人間は比較的しっかりと社会的な立場を持っている──というデータが出ている。日中は真面目に働き、家に帰れば配偶者と子どもがいて、収入と生活基盤は安定している。そうして一定の地位を得た自己肯定感の高い人間が、他人の行動に影響を与えるためにネット上で正義を行使しようとする結果、炎上騒ぎが起こるわけだ」
「あー……調査の結果明らかになった、って以前話題になっていましたよね」
 そこはわたしも知っている。少し前にニュース記事で見かけたからだ。
「そしてそれは逆も然り。悪意をもってなにかをたくらむ人間にも該当する」
「社会に溶け込んだ人物が、こうしてストーカーになることも大いにあると?」
「考えてみればわかることだ。そもそもインターネット上の情報をり、そこに感情をぶつけるためには一定の技術を持つことが絶対条件となる。一見バカがうごめいているようにみえて、その実、真のバカには扱えないツール。それがインターネットというわけだ」
「……わたし、さっき『SNSにはバカが多い』って要約しちゃったんですけど」
「それは仮想的有能感および機能的非識字に対しての見解だろう。『文字を読めること』と『文章から意味を読み取ること』には天地ほどの差がある。これらは矛盾しない」
 続いて教授は中指を折る。
「ふたつ。そもそもなぜストーカーは真雪くんに目をつけた?」
「あっ……たしかに、そう……ですね」
 納得するような声を漏らしたのはゆきくんだった。わたしは「かわいいからでは?」と単純すぎる感覚で聞いていたのだけれど、なにか別の含みがあるのだろうか。
「本来なら、いつもの僕の姿に興味が湧くとは思えないし……」
「そうだろう?」
「あの、すみません、なんの話ですか?」
 ストーカーに目をつけられる理由なんてさまざまだと思うんだけれど……。
「つまり犯人は、ふだんのゆきくんに関心を持っているわけだ」
「そうか……そうですね……どこの誰につきまとわれているのかわからなくて怖かったんですけど、なかむらゆきをストーキングされていると考えれば……たしかに……」
「わたしの疑問、迷宮入り!」
「あまり騒ぐな、ひまり」
「すみません……」
 こちらをよそに進行していた会話は、教授とゆきくんの共通理解によって終結したらしい。
 ……なんだか置いてけぼりになった気分。
 そして教授は、残った人差し指を折りながら。
「みっつ。犯人はポスティングの際、ゆきくんの住所をどこで仕入れた?」
 教授はゆきくんに顔を近づける。
「ひとしきりネットを確認したが、きみの住所が流出した気配はない。安心しなさい」
 ゆきくんはホッとするのもつかの間、伏し目がちに小さく声を漏らす。
「そう……ですか……となると、やっぱり……」
「学校には在校生名簿があるだろう? もっとも手っ取り早い手段が」
「たしかに、今思えば教員室って個人情報のそうくつですよね」
 そこまで聞いて、わたしも教授の言葉に納得させられた。
 そして教授は、吸い終わった最後の1本を車内の灰皿に落としながら。
「ちなみにゆきくん、念のため確認しておきたいことがある」
「…………はい」
「ストーカーの被害に遭いはじめたのは4月の初旬だと聞いた。その時期、学校でなにか変わったことはあったか?」
「……………………」
 しばし沈黙していたゆきくんだったが、やがてかすれるような声を響かせた。
「学年が変わって、クラスも変わって……仲の良かった同級生がひとり、退学になりました」
「ふむ」
 悲しそうな表情でそれ以上を語らないゆきくんに、わたしも踏み込まないようにした。
「ストーカーの発生時期と符合するなにかを探しているだけだ。他意はないとも──さて、私の見立てが正しければ即日行動してくるはずだが、果たしてどうかな?」
「教授がそう言うのなら、不思議とそうなる気がします」
 確信はなくとも、強固な信頼がある。だからわたしはそう口にした。
 ──尊敬する教授の推察は、きっと正しいはず。
 わたしはすぐ横で不安そうな顔を見せるゆきくんに語りかけた。
「大丈夫、安心して。お姉ちゃんたちが助けてあげるから」
 空調の効いた車内で、現れるかどうかわからないストーカーを待つ。
 粘りの時間が幕を開けた。