刹那、ストーカーは絶叫をあげてわたしに摑みかかってきた。
激昂し、後先を考えず突発的にわたしの口を封じようとする。
実に好都合。
「ふっ!」
わたしは短い掛け声とともに身を引き、相手の腹下に潜り込む。
やはり素人の動き。正中線がガラ空きだ。
もっとも、そこを狙うと過剰防衛になりかねない。
わたしは膝の屈伸運動を利用して。
全体重を乗せて、急所を外した一点。
「────破ッ!」
脇腹に掌底を叩き込む。
じん、と手のひらから手応え。
確実に相手の動きを封じる一撃。
「……う……ごおっ……ッ!」
相手は、わたしに摑みかかろうとする姿勢のまま、鈍い叫声をあげて地面に崩れ落ちる。
「ふぅ」
ぱん、ぱん、と手を払っていると、事態の収束を待っていた教授と真雪くんがわたしのもとにやってきた。うずくまる犯人を見た教授は、開口一番にこんなことを言った。
「ひまり、こいつ死んでないだろうな? お前が塀の中に入ったら誰が私にコーヒーを淹れるんだ。研究室の掃除だってしなきゃならないのに」
「わたしの価値とは!?」
急所を外したことと、一部始終を録音したことを伝えると、教授は「ふむ」と頷く。
その様子を一歩引いたところで見ていた真雪くんが、おずおずと問いかけてくる。
「……ひまりさんって、いったい何者なんですか?」
「何者、かぁ……」
どう返したものかな、と少しばかり悩んでから。
「ただの女子大生だよ?」
玉虫色の返事でとぼけておいた。
そこに教授が追随する。
「真雪くん、この男に見覚えは?」
そして、恐る恐るストーカーの顔を覗き込んだ真雪くんが驚きに目を瞠る。
「……僕の担任教師です」
わたしはショックで声が出なかった。
教授の読みを聞いたとき、本心では信じたくないと思っていたのだ。
本来、人としての道を説くべき教師が、あろうことか生徒にストーカーするなんて。
拳をふたたびぎゅっと握りしめるわたしをよそに、教授は淡々と話し始める。
「ふむ。最悪のケースが的中してしまったわけか。当たったところで嬉しくはないが」
そのとき。
「…………ちくしょう……これだから女は……」
視界の端で丸い背中が蠢く、ストーカーがうめき声をあげた。
「クソが……あいつが……あの邪魔な女がいなくなって……中村の頼りになれる存在が俺になるはずだったのに……いつも、いつも女は……俺の邪魔ばかりしやがる……」
あいつ? 邪魔な女?
なんのことかは知らないが、要領を得ないストーカーの唸り声をこれ以上聞きたくはない。
「少なくともわたしは、あなたみたいな人間が他人に迷惑をかけたところで『これだから男は』だなんて思わない。余計なことを言うのなら、もう一度──」
なおもうずくまるその背中に、わたしは反射的に蹴りを入れようとする。正確には、右脚が勝手に動いた。本能が制裁を求めるように。
「落ち着け。私人逮捕の要件はもう満たした。これ以上やると過剰防衛だ」
「ひまりさん、僕はもう大丈夫ですから……」
──ひまりん、気にしないで。
──あたしはもういいから。
──もう、なにもかも疲れたの。
ふと、脳裏に声が蘇ってくる。忘れられない声音とともに。
そんなわたしの感傷を上書きするかのように、教授が遠くを見つめて呟く。
「早々にお出ましか。現行犯となれば話は別というわけだね」
目を向けると、教授が呼びつけたパトカーが赤いランプを灯しながら住宅街へと入ってきた。
『一番魅力的なのは、てめえの力で、てめえの大切なもんを守れるやつだって思わねぇか?』
自分の大切なもの。
それはいったいなんだろう。
あるいは恋人。
あるいは家族。
あるいは友人。
しかし、それ以前に──万人は、きっと『自分自身』と答えるだろう。
その上で他人に手を差し伸べられる人間こそが、魅力的な人間なのだと思う。
わたしが持っている力は使いどころが非常に限られていて、使いどころのない力は得てして脆弱だ。けれど、それで誰かを守れるなら、きっと魅力的な人間に近づける。そう信じたい。
かつて、大切なものを守れなかった──あんな気持ちをもう二度と味わいたくないから。