<七>
それからひと晩明けて、今日は土曜日。
人のまばらになったキャンパス内を歩いて、いつもどおり誰もいない研究室へと辿り着いたわたしは、散らかった書類の整理を進めながら、昨晩の教授とのやりとりを思い返していた。
学部生がキャンパス内で働ける時間には限りがあるにもかかわらずわたしがこうして休日も無賃労働に励んでいるのは、わたしが勤勉というわけでもなくて、ただ単にここを放っておいたら教授が足の踏み場もない密林を形成してしまうからだ。タスクを次週に回さないスタイル。
午後から入っている別のアルバイトまで時間が余っていたのもあるけどね。
そのバイト先は研究室の目と鼻の先だし、もののついでということで。
『ええー、またポージングするんですかぁ……? なんか復帰早々みんなグイグイくるんですけど! ひさしぶりの配信だから、来てくれたみんなにサービスしちゃいます!』
研究室内に流れるハイトーンボイスを鼓膜で受け止めながら、ひたすらに手を動かす。
何度片付けても、夜が明ければこの有様。
さすがにヘコむけれど、もう諦めたよね……。
教授は午前中、雑誌の取材が入っているらしい。
というか教授、昨晩からここに籠もって作業していたってことだよね。
ほんと、いつ寝てるんだろう……?
寿命を削りすぎなのでは……?
あの一件の後、警察署で逮捕事由などを諸々伝えて、ひととおり手続を終わらせた後、真雪くんのストーカーについて詳細を教えてもらったところ、さまざまなことがわかった。
ちなみにこれ、本来は外に出せない情報を、教授のコネで内々に……という流れ。
起こるかどうかもわからない事案のために警察機構を動かすことは難しいが、現行犯を逮捕した後となれば話は別らしかった。
白鷺玲華という人物のネームバリューの強さをこういう場面で実感する。
ストーカーの犯人は真雪くんが言っていたとおり、彼の担任教諭。
正確には、山吹大学付属高等学校の美術教師だった。
学生時代、女子にいじめられた経験から女性不信におちいり、やがて性嗜好が歪んで、女顔の少年でしか興奮できなくなったのだと犯人は語っている。それ自体は気の毒なことだと思うけれど、だからといって今回のような行為が許されるわけはない。
RootSpeak上のダイレクトメッセージ機能で真雪くんに連絡を試みるも反応がなく、それを無視されたものだと勘違いし、勝手に逆上して盗撮やポスト投函などをおこなったという。
SNSの普及による、世代間コミュニケーションの差異が生んだ軋轢。
くしくも、それは教授の分析と符合していた。
しかし、どんな理由があろうと、教師が生徒に恐怖を与えた事実は消えない。
涙を浮かべる真雪くんを思い返すたび、ストーカーへの憤りが蘇ってくる。
「よい、しょっと……」
シュレッダーに溜まった紙くずを処理し、床に転がる綿埃を掃き終えて息をつく。
『好みの女性のタイプですかぁ……? 魅力的な人、かなあ』
わたしは少しでも気分を高めようと、研究室の無線スピーカーに耳をかたむける。
例によって、大音量で流しているのは神村まゆちゃんのフリートーク。
そっかー、好みのタイプは『魅力的な人』なんだー。
まゆちゃんよりも魅力的な人。そんなやつめったに存在しない。詰みじゃん……。
なんて思いつつ、さてひと段落、コーヒーでも淹れようか……というタイミングで、立て付けの悪い研究室の扉がガタガタと開いた。
「ただいま戻ったよ……おお。ずいぶん綺麗になったじゃないか」
「綺麗になったんじゃなくて教授が汚していただけです。綺麗なまま使ってください」
「誰しも、向き不向きはあるものさ」
「それ、汚す側の人に言って欲しくなかったなぁ……」
教授はわたしの言葉をいなしつつ、着ていたスーツを脱ぎ始める。
「おや、てっきり真雪くんが来ているのかと思っていたが……ひまりだけか」
「へ? 初めからわたしひとりですけど……どうして真雪くん?」
「昨晩、別れ際に『これからいつでも遊びに来なさい』と誘っておいた。彼も安堵した様子で、警察への説明が諸々終わりしだい、その足でお礼に伺うと言っていた。土曜日でも研究室を開けていると伝えたら、明日行きますと言われたわけだよ」
「今年一番のファインプレーが出た!?」
わたしは握っていた箒を放り投げ、天高くガッツポーズを掲げる。
これからも真雪くんに会えるかもしれないと思うと、喜びがそのまま表に出てしまった。
「そろそろ来るころじゃないか?」
「火急の用件!?」
ということは早めに掃除を終えなければならないわけだ。
放り投げた箒を握り直す。
「それに、声が聞こえたからね。そうか、スピーカーだったのか」
「あっ、すみません勝手に使っちゃって」
わたしが接続を切ろうとすると、教授は「問題ない」と言う。
そのまま側にやってきて、わたしのスマホを覗き込んだ。
画面の中では『かわいすぎる女装配信者』が笑っている。