ある人は、インターネットの普及で格段に犯罪率が高まった、なんて主張を述べる。
またある人は、これまで見えていなかった犯罪が浮き彫りになっただけ、とも言う。
どちらにせよ世の中は物騒なことばかりだ。
だったらせめて、画面の中では平和な世界だけを眺めていたいよねー……なんて思いつつ、わたしはふたたびスマホの再生ボタンをタップした。もちろん音量は抑えて。
「顔がとろけているようだが」
「おおう……失礼しました……」
いけない。パンパンと自ら頰を張って気を引き締める。
「表情筋が勝手に緩んできちゃうんですよね。リラクゼーション効果でしょうか」
「動画サイトを巡回するだけでそんな効能を得られるなら、世の中の人々はもうすこし心にゆとりを持っているだろう」
「至極まっとうな意見すぎてなにも言えないんですけど」
わたしの言葉に教授は、いつものように「ふむ」とこちらを観察して。
「また『まゆちゃんねる』か。ベンチマークの対象としては適しているが、同じ動画ばかり見ていてもしかたがないだろう」
その質問に対し、わたしは事情を説明した。
「このところ動画の更新がないんですよね。悪質な粘着に遭ったみたいで……動画のコメント欄にも、心配する声がたくさん書かれているんです」
「ふむ。結果として同じ動画を見ざるをえないと?」
「そういうことです」
「理解はできないが納得した」
わたしの心理が筒抜けだった。そんなにわかりやすかったかな。
「気の毒ですよね、この子、まだ高校生なんですよ?」
「インフルエンサーは性質上、羨望や憧憬、妬みや僻みを向けられる機会が多いからね」
「ネットで誹謗中傷する人の気持ちがわかりません……誰も得しないのに」
「叩くことで救われる人間もいるということだよ。誰かを蹴落とすことで自尊心を満たそうとする人間は、きみが思っているよりも世の中にたくさんいるんだ」
「わかってはいるものの、嫌な現実ですね……」
そう口にしたところで、わたしの脳にとある日の記憶が呼び起こされる。過去に思いを馳せていたわたしは、その様子を察したらしい教授の声によって現実に引き戻された。
「また昔のことを思い出したのかね」
「…………すみません。気にしてもしかたないって、わかってはいるんですけど」
「構わないさ。きみが納得する『答え』はすぐに見つかるものでもないだろう」
鬱屈した気持ちが少し和らぐ。教授はわたしを一瞥し、IQOSをホルダーから引き抜いて口に咥えた。なお、大学構内が原則禁煙であることに触れてはいけない。
「ただ、それとこれとは話が別だ。一日中、同じ動画を何十回も再生するなんて狂気じみているだろう。インフルエンザならいざ知らず、インフルエンサーに脳を溶かされてどうする?」
「表現が物騒すぎるんですけど……うう、でも否定できない……」
インフルエンサー。
ウェブサイトやSNSなどを通じて情報を発信し、その過程で影響力を持った人たち。
スマホの中で笑顔を見せる彼も、そのひとりだ。
ソーシャル・ネットワーキング・サービス──略してSNS。
インターネットを通じて全世界の人々とつながることができるシステム。
世の中は今や『一億総発信時代』なんて言われている。
誰もが世界中に「お腹減った」とか「バイトの先輩がウザい」とか「昨日彼氏と別れた」とか、そんなありふれた情報を無自覚なまま世界に発信している。
だからこそ、ときに爆発的に話題が広がる現象──『バズ』や『炎上』が発生する。
そんな新しいコミュニケーションについての問題や事例、さまざまなトラブルについて研究するのがこの場所、山吹大学社会学部の『白鷺ゼミ』だ。
「コーヒーここに置いておきますね……って、ちょっと教授。片付けたばかりなんですから吸い殻はちゃんとまとめてくださいよ」
「ふむ」
「聞いてますか?」
「ふむ」
わたしの呼びかけに、教授はわずかに声を漏らすだけだった。その指は絶え間なくキーボード上を滑る。今度の学会でまた新たな学術論文を発表するため、執筆作業中なのだ。
配膳トレーを片付けながら、パソコンとにらめっこする教授を眺める。
飾り気のないオフショルダーのトップスに、ファストファッションブランドの量販店で買ったスキニージーンズ。『研究室にこもって論文を書くだけなのにわざわざ時間をかけてめかし込む必要なんてないだろう?』なんて言うけれど、それでも瑞々しい肌に嫉妬してしまう。
ヘビースモーカーで、食生活なんてありえないくらい乱れまくっているのに、なんでそんなに綺麗なのだろう。この世は理不尽だ。
わたしも成人女性としては背が高いほうだけれど、教授はさらに高身長で、その上、わたしよりもスリムな体型を維持している。
継続的な運動習慣があるわたしよりも引き締まったボディを持っているのだから、こちらの立つ瀬がない。メンソールの香りがする煙を吐き出す姿すらも、まるで絵画のようにサマになっている。
これこそが、若くして山吹大学社会学部の教授に上り詰めた才媛──白鷺玲華。
山吹大学の社会学部はいろいろな専攻に分かれているのだけれど、なかでも教授はメディア社会における社会心理やコミュニティの形成についての分析などを専門分野としている。
そしてわたしは、ゼミに所属するかたわら教授の助手としてサポートを任されている。