天才となんとやらは紙一重と言うけれど、この人には壊滅的に生活能力がない。今日だってわたしが研究室に入った時点でデスクの上には使用済みのヒートスティックが散乱し、床には賽の河原のようにたくさんの専門書が積み上げられていた。
これでもまだマシなほうで、先ほどまでは床にコピー用紙や書籍、こぼしたコーヒーの水滴などが散乱していた。「現代アートか!」と心の中でツッコミを入れたくらいである。
教授は集中しているときに注意力が散漫になるので積み上げた書物に腰や足をガンガンぶつけるのだけれど、それを意にも介さないので必然的に本の密林が生まれてしまう。助手としての実質的な仕事は、ほぼ研究室の美化やお茶汲みだったりする。
まだこんなに片付けるのか……とため息をついたところで、教授が「あっ」と声をあげた。
「お菓子がない」
カップの取っ手に指をかけながら、まるで家の鍵でも失くしたかのような表情を浮かべる。
「あー……そういえば切らしてたかも。今日は大学混んでるから、あとで買ってきますね」
「お菓子がないとコーヒーが飲めない」
「ですから、オープンキャンパスで混んでるので、片付けが終わって時間が経ったら──」
「ガトーショコラが食べたい。今食べたい」
「──はいはい。行ってきます」
そうしていつもどおり、結局わたしが折れて出かける。
天才と呼んで然るべき実績を残しているにもかかわらず、破滅的に物を片付けられないところとか、甘いお菓子がなければコーヒーを飲めないところとか。意外と子どもっぽいところがある。子どもっぽいというか、頑なというか。
わたしは立て付けの悪い研究室の引き戸をガタガタ鳴らし、研究室の外へ出ようとした。
そこで──どんっ! と、身体に思いがけない衝撃。
「あうっ!」
勢いよく飛び出したせいで、ちょうど扉を挟んで向こう側にいた誰かと正面衝突した。
そのまま密着。相手は目深なキャップで目元を隠していた。
わずかにうかがえる鼻筋と、小ぶりな顎から察するに相当な美人だ。
ひとくくりのポニーテール、香水だろうか、ほのかにバニラの匂いが香る。
「……ひゅ、ひゅみまひぇんっ」
わたしと鉢合わせたその人物は、事態を把握したのか、勢いよく飛びのいて。
ぽとりとキャップが落ちる。
その下から現れたのは、化粧っ気のない、それでいて輪郭のはっきりした中性的な顔。
上気して真っ赤になった顔、ぱっちりとした二重まぶたの目。
身体のラインを大きく見せるビッグサイズのパーカーに、細い脚を目立たせるタイトな黒のスキニーパンツと、いかにもシンプルなコーディネート。
童顔の女子大生に見えなくもなかったけれど、纏っている雰囲気に違和感がある。
女子高生……だろうか?
「……あ……あの……社会学部の『白鷺ゼミ』って、ここで合っていますか?」
おずおずとした様子で聞いてくる。か細い……しかし、思っていたよりも低い声。
「うん。白鷺ゼミはここだけど……えっと、見学? それとも教授にご用なのかな」
身構え、慎重に語りかけると、その子は安堵したような表情を見せる。
そしてすがるような口調で言葉を紡いだ。
「僕を助けていただけませんか?」
目の端には、透明な雫が浮かんでいた。
そんなの、答えは決まっている。
「とりあえず中に入ろう。話、聞くから」
突然の訪問者を招き入れながら、わたしはわずかに残る疑問をぶつけた。
「でも、その前にひとつだけ確認いいかな?」
どうしても気になることがある。
中性的な面立ち、ユニセックスな服装。わたしの胸から離れた瞬間の、真っ赤な顔。
なにより、声が低いのだ。
「もしかしてきみ、男の子?」