「さて、なかむらゆきくん」
 教授の問いに反応し、ゆきくんがわたしの胸から顔を上げる。緊張の糸を解くように──もっとも本人にそういう意図はないのだろうけれど──教授は相変わらず早口で語りかける。
「警察にはどう連絡をとった? 電話をしたのか。それとも警察署に行ったか?」
「えっ……ぁ、えと、最寄りの警察署に行きました……」
「昨今では多様性を認めることを重視する動きがあるが、それでも人間は直感的に他者を評価する。きみが男性であり、また先ほども言ったとおり、男性としては特異な見た目をしていることが、訴えのしんぴよう性を落としてしまっているのかもしれない」
 改めてゆきくんの姿を見る。けんこうこつあたりまで伸びたきめ細やかな長い髪、白磁のように透き通るような肌、細い手足と小柄なたい、その仕草もあいまって、実際に会話をしないと性別はわからない。事実、わたしもはじめは女の子かな、と思った。
「それに、緊急性の高い状況ならば即座に動けるのだろうが、犯人も特定できない状況で人員を割くのは難しいのだろう。対応した人間によっては、被害者が男性ということで事態を甘く見られている可能性もあるが」
「それで……ストーカーがSNSで僕に接触してきたことと……しらさぎ教授から警察に口添えをいただけると、対応も変わるのかなと思いまして」
「ふむ」
 教授はまばたきもせず、おとがいに手を当てて、なにかを考えてから口を開いた。
「結論から言えば、私が警察との交渉に介入したところで事態は好転しないだろう」
 わたしは半ば反射的に口を挟む。
「ちょ、ちょっと教授。冷たくないですか?」
「事実をはぐらかしてもしかたがないだろう。警察だってひとつの組織であり、組織は人間が集まって作るものだ。その一角を少しばかり突いただけで簡単に動かせるものではない。他人に過度な期待をしても、結局損をするだけだ」
「そんな……こんなに怖がってるのに──」
「最後まで聞くんだ」
 ぴしゃりと断ち切られる。
 そして教授は、変わらない声調のままゆきくんを見つめた。
なかむらゆきくん。きみはまだ高校生だ。身体的、肉体的に大人へと近づいていて、なんなら同じくらいの年齢で社会に出ている人間もいるだろう。しかし世間から見れば、まだまだ若輩にすぎない。もっと直感的に望みを口にしてもいい。若者の特権だ。それに──」
 ぶっきらぼうに思える言い方だが、その内容は優しいものへと変化している。
「──私にはきみの希望に応える義務がある。なぜならば、きみがやまぶき大学付属高校の生徒だからだ。つまりきみは間接的に私の教え子ということになる。先ほど私は『他人に過度な期待をしても損をするだけだ』と言った。しかしこればかりは例外だ。なぜならば私は大学教授であり、教え子の期待に応えるのが教職に就く者のつとめだと信じているからだ」
「あっ…………」
 ゆきくんは吐息を漏らし、次いでこちらに視線を送る。
 わたしは無言でコクリとうなずいた。
 教授の姿は、はたから見ていても頼もしかった。
 救いを求める者すべてを許容する、器の大きさ。
 どんな問題でもたちどころに解決してしまうめいせきな頭脳と、聖人のような立ち居振る舞い。
 わたし自身、教授に受け入れてもらった経験があるので、痛いくらいに理解できる。
 ゆきくんは本能に突き動かされるかのように──。


「お願いします。僕を守っていただけませんか」


「任せて」
 そう言うだろうな、とあたりをつけていたわたしは真っ先に口を挟んだ。
「お姉ちゃんたちが助けてあげるから」
 消え入るような声。潤んだ瞳の上目遣い。心から助力を望む姿に心を動かされてしまった。
 それに──重なるのだ。


 ──ひまりん、気にしないで。あたしはもういいから。


 耳の奥──鼓膜さえも突き抜けて浸透した声が脳内にフラッシュバックする。
 教授はすべてを見透かしたような顔で、ソファから腰を上げてデスクへ向かった。
「この後の手順を一旦まとめよう」
 サイドワゴンからタブレットを取り出し、ワイヤレスキーボードでなにかを入力し始めた。
「まずはゆきくんに被害についてヒアリングする。ひまり、わかっていると思うが」
「なんでしょう?」
 没頭する教授は、論文を書くときと同じように、デバイスから目をらさずに告げる。
「しばらく話しかけないでくれ」
「はーい」
 ついでに買い出しも済ませてしまおう。
 どうせまたひと段落したら「お菓子がない」と駄々をね始めるだろうから。