こわれたせかいの むこうがわ ~少女たちのディストピア生存術~

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『カップ麺より遥かに不味いトリュフがもてはやされるのには理由があるの』
〈社会代謝機構〉のマユミ先生が言っていた。要するに手に入りにくいものは高く売れるということだ。
 フウは次の日、水を買い出しに行く道中から少し脇道に逸れ、第三管轄区付近の山岳地帯に足を運んだ。周辺は足場が悪く、整地された道路以外は険しい岩肌が行く手を阻む。フウはその岩場を、比較的傾斜の緩い所を選んで登っていた。その中のとりわけ険峻な岩の足元まで苦労して辿り着く。その岩場の頂上付近には、枝やハンガーを集めて作られた鳥の巣があった。〈サバクオオブンチョウ〉という鳥の巣で、卵は非常に美味で高く売れる。フウはその岩に手をかけ、急な傾斜を登っていく。素手で掴むと、鋭利な岩肌に皮膚が裂け、岩の表面を血が伝った。それでもあきらめず足がかかる場所を見つけて、なんとか岩肌を這い上がっていく。
 三〇分ほどかけて巣に辿り着くと、目いっぱい手を伸ばし、卵の一つを摑み取る。ギリギリ手に収まらないくらいの大きさで、殻は硬い。それを慎重にポーチに入れる。それだけでポーチはパンパンに膨れ上がった。
 持てるのはたった一つか、とフウは心で文句を言い、今度は岩を降りていく。これがまた難儀だった。上る時は目で足場を確認できるが、下る時はそうもいかない。靴の先で足場の感触を確かめながら降りていくことになる。もし落下して後頭部に岩がぶち当たれば命はない。
 ……たとえ生きていたとしても、後遺症を抱えて生きていけるほど第五管轄区の生活は甘くない。傷を放っておくと呪い……いや、「感染症」にかかって死ぬかも知れないのだ。
 フウは地上まで一メートルの所まで来た。よし、ここまでくれば――
 フウの足をかけた岩が崩れ去り、フウの身体は重力に抱かれて落ちていく。フウは背中を地面に打ち付けた。尻が痛い。だけど、尻が痛いだけで済んだ。これがもし、あと一メートル高い所から転落していたら……。フウの顔から血の気が引いていった。
 なにはともあれ、目当ての卵は手に入れた。
 さぁ帰ろうかという矢先だった。少し離れた所に何か大きな獣の気配を感じた。小さな岩がいくつも斜面を転がっていく。一際大きな岩の陰からぬっと現れたのは、尖った口と、芋虫のような蠕動する身体。頭を覆う蓬髪のような触手。
 ――オカアゲハだ
 オカアゲハはチアゲハが陸上での生活に適応した個体と言われている。見たところ身体はチアゲハより一回り小さく、個体数も少なく自ら人里には降りてこない。ここはそんなオカアゲハの縄張りだったらしい。
「ウゥ――」
 重苦しい鳴き声を上げ、口の周りの触手を目まぐるしくうごめかせる。
 フウが距離を取ろうとする度に、触手が音に反応する。フウが逃げようとすればするほど、オカアゲハはフウの居場所を詳細に特定していくようだった。チアゲハと違ってオカアゲハは能動的に自ら餌を探す動物と聞く。黙って突っ立っていてもいずれは捕食される。
 フウは一か八かの賭けに出た。急斜面を下ったところに、第三管轄区がある。フウはそこ目がけて岩場を飛ぶように走った。オカアゲハも反応し、岩の間を蛇のように這い進んでくる。フウは何度も転びそうになりながらも、大きな岩の上を飛び跳ね、駆け下りる。
 背後を振り返るとオカアゲハの嘴がフウの目の前で開かれた。フウは地面を強く蹴り、岩から跳び降りて一髪の差で口撃を躱す。そんな命の瀬戸際を感じる駆け引きが何度もあった。五分にも及ぶ死のレースだった。
 オカアゲハの巨体は長時間活動することに不向きらしい。それが幸いした。フウが転がるように山道に辿り着くと、オカアゲハは追走を諦め、自ら山の方へと帰っていった。
 フウは袖で汗を拭い、大きく息を吐き出した。
 助かった。
 もう一度やれと言われても二度と出来ない。いつぞやは頭で窮地を切り抜けたが、今回は運と体力で乗り切った。
 フウの掌は血まみれで、岩に幾度とぶつかった太ももや脛も青い斑点が大量にできていた。足首も酷く痛む。そうまでして手に入れた卵は無事だろうかと、ポーチのファスナーに手をかける。
 びく。と、ポーチが動く。
「ピピッ」
 何かの鳴き声がした。嫌な予感がする。恐る恐るポーチのファスナーを開けると、円らな瞳がフウを見上げていた。
「ピー」
 瞳の持ち主はフウを見るなり高く鳴いた。もぞもぞと身体を動かし、卵の殻を体に張りつけたまま自力でポーチから顔を出す。サバクオオブンチョウの雛である。毛は茶色でまだ湿っていて、身体は健康そうだ。
 命がけで手に入れた卵が、肉の無い鳥に……
 それでも唐揚げ用に買ってくれるかも知れない。フウは鳥の身体をつまんで雛を殻の外に出す。雛は「ピー」と一鳴きしてフウの手に甘え、次に嘴で頬をつついてきた。サバクオオブンチョウはかなり賢い動物と聞くが、その雛も既に社会性の萌芽が見て取れる。雛は甘え上手で、フウの外套に顔を突っ込むと身体を押し入れ、フウの胸の中ですやすやと眠ってしまった。
 フウは自分に語り掛けた。私、心を鬼にするんだ! フウは目を瞑って天を仰いだ。
 間の悪いことに母親の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
 ――あなたが生まれた時、私も父さんもとても喜んだのよ。新しい家族ができたんだって。
 くぅ、と葛藤の吐息が食いしばった歯の間から漏れた。
 フウは大きなため息をついて肩を落とす。懐で眠る鳥の頭を薬指でそっと撫でた。
 金銭欲が、ささやかな生命讃歌に屈した瞬間だった。
 結局手に入れたお金はゼロ。成程、本来人が手を出さないものを手に入れるには相応のリスクがある。その授業料は身体に作った無数の傷と小鳥一匹の餌代だった。