「【神降ろし】。力の一部を対象に貸与する霊術だ」
天颶が村を訪れる直前、饗宴の卓からくすねてきた蕎麦を土蔵の裏手で啜っていたとき、神津彩紀が唐突にわけのわからぬことを云い出した。広場のほうから宵闇を切り裂くような明るい祭囃子が聞こえてくる。天颶祭の予行演習といったところだろうか。
「はみほろひ? はにいっへんの」
「行儀が悪い。飲み込んでからしゃべれ」
ごくん、
「……いきなり何を云ってるのよ。その霊術がどうかしたの」
「今のまま天颶と戦ってもあっという間に殺されてしまうだろう。だから俺の力を分け与える術を使うのだ。これをお前にかけることによって天颶と対等以上に渡り合えるようにする」
かがりは目を丸くした。本当にそんなことが可能なのだろうか。可能ならば願ってもいないことだが――しかし、
「それ、卑怯じゃない?」
「卑怯?」
「だって、自分で努力して手に入れた力じゃないのよ。ちょっと気が引けるわ」
彩紀は呆れたように笑った。呆れられるようなことを云った覚えはないのに。
「お前は真面目すぎるんだ。こんなとち狂った世界では卑怯も何もない」
「理屈はわかるけど……」
「ならば解釈を変えよう。思い出せ、俺は最初にお前に問うた――〈力が欲しいか〉と。そしてお前はそれに応えた。この時点で神津彩紀は熾天寺かがりの力の一部なのだ。お忘れのようだが俺は奴隷なんだぜ。《力を貸せ》と命じるだけでいいんだ」
彩紀の云うことには一理あった。というよりも真理に他ならない。これは生死をかけた戦いであるからして、無駄な気の迷いは捨てるべきなのだった。――だが、それとは別の問題として、そもそも本当に天颶を退治できるだけの力を得られるのか、という疑問もあった。
天颶は強い。確かに彩紀も強いけれど、天颶の首魁に勝てる保証はどこにもない。
「……本当に、天颶を倒せるのかな」
「お前は最善を尽くさんと努力するだけでいい。まずくなったら俺がなんとかする」
自信に満ち溢れた声色だった。彼の立ち居振る舞いに云いようもない頼もしさを感じてしまった。こいつと一緒なら本当に事を成し遂げられるかもしれない――そう思った。ゆえにかがりは、箸と碗を持ったまま立ち上がると、彼の瞳をまっすぐ見据えてこう命じるのだった。
「……わかったわ、《力を貸して》。死ぬ気で頑張るから」
「承知した。思うがままに振る舞うといい」
彩紀が手をかざした。〝五彩の導〟の辺りから霊氣が流れ込んでくる。そうしてかがりは全身に莫大な力が広がっていくのを感じた。力だけではない、あらゆる艱難に耐えうるだけの勇気も湧いてくるから不思議だった。
これなら行けるかもしれない――かがりは希望を抱きながら蕎麦を食った。
【神降ろし】の効力は絶大だった。
身体が綿のように軽い。背後で瞠目している小娘の表情がわかるほどに視界が広い。精神が研ぎ澄まされ、迫りくる寇魔どもの恐ろしい形相を見ても心にさざ波が立つことはない。
「この野郎! 死ね!」
包丁を片手に突貫してきた天颶に向かって刀を振りぬいた。肉を切る不快な感触、しわがれた絶叫が闇にこだました。包丁が舞台の上に落ち、舞った血飛沫が人間どもの服や顔にこびりつくのを見るや、昂奮した天颶どもが激情に身を任せてかがりのほうへと殺到する。
恐怖は消えていた。敵の動きが手に取るようにわかる。
不意打ちのごとく背後から放たれた槍の刺突を跳躍で回避すると、酒だの料理だのが盛られた卓の上に土足で着地、周囲の人間どもが蜘蛛の子を散らすように逃げていくのを尻目に妖術【小火】を発動させた。かがりの掌から射出された、小火と云うにはあまりに勢い盛んな火炎の奔流が、追いすがる天颶の二、三匹を包み込んで祭の会場を明るく照らす。
「ぎゃあああああ! 儂の一張羅があああああ!」
「火消しじゃ、火消しを呼べい!」
「――ええい何をやっとるんだ! さっさとその狐を殺せッ!」
昏武京八が業を煮やして叫んだ。さすがに焦りを覚えたのであろう、天颶どもが血相を変えて襲い掛かってくる。しかしかがりは少しも動じなかった。遅い、あまりにも遅い、炎帝神農の力を降ろした今の自分にとってはやつらの陳腐な攻撃など脅威たりえない。
刀を一閃。天颶の首が吹っ飛んだ。
「ふざけるなぁっ! 化け狐ごときが――」
さらに一閃。天颶の胴体が真っ二つになった。
(――勝てる!)
血の海に積み上げられた屍の数は徐々に増えていった。一匹、二匹、三匹――かがりが剣を振るうごとに断末魔の悲鳴が反響し、気づけば十二匹のうち半数以上が死んでいた。仲間の死と敵の気迫に恐懼した生き残りどもの動きが亀のように鈍り、それを好機と捉えた熾天の一刀が容赦なく彼らの首を刈り取っていく。人間どもは降って湧いた殺戮劇に開いた口も塞がらずにいたが、かがりが八面六臂の活躍を見せるにつれ感情を取り戻していった。誰かが熾天寺かがりの名を呼ぶとそれが波紋のように拡大し、人々は興奮と戦慄に満ちた歓声を轟かせる。
「行け熾天寺かがり!」「右から来ているぞ!」「頑張れ、負けるな!」「天颶など殺してしまえ!」「残るは昏武だけだ!」――かがりの聴覚は彼らの声援を一字一句余さず聞き取っていた。天颶に立ち向かう勇者を鼓舞するつもりなのか、太鼓や笛の音まで聞こえてくる。まるで夢のような気分。人からこれほど肯定的な声をかけられるなんて。
かがりは全身に力を込めて大地を蹴った。
狙うは神楽の舞台の上で苦々しい表情を浮かべている男――昏武京八。子分を失った天颶の首魁は普段の悠然とした態度をかなぐり捨てて抜刀していた。
「この曲者がッ! よくも俺の浄土を汚してくれたなぁッ!」
かがりは勢いのままに刀を振り抜いた。刃と刃がぶつかり合って鮮烈な金属音が響く。眼前にそびえる天颶の凶相を睨みつけながら声を振り絞り、
「――何が浄土だッ! ここはお前らの遊び場じゃないんだぞ!」
「莫迦を云え、榮凛島は天颶の遊び場だ! 貴様らは等しく天颶の玩具! 黙って俺たちに使い潰されていればよかったものを!」
「よくないに決まってるだろうがぁ――――――――――――――っ!」
身体の奥底からあふれ出た霊氣が火の粉となって飛び散った。力任せに刃を押し込んでやると昏武京八の身体がぐらりと揺らぎ、その隙を突いて繰り出した袈裟斬りが敵の左腕をきれいに切断して弾き飛ばした。醜い絶叫。天颶の右腕に妖氣が集中し、間もなく幾筋もの風の刃が滅茶苦茶な速度でばら撒かれる。舞台は抉られ、遠くの家屋に亀裂が走り、背後で見ていた何人かの首がいとも容易く刎ね飛ばされた。
しかしかがりは怯まなかった。
「炎熱熾天流・
刀身に熾天の炎が宿る。天颶は驚き刮眼して動きを止めた。この一撃を解き放てば榮凛島を覆っていた暗雲はまさしく晴れるだろう――逸る気持ちで腕に力を込めたとき、
がくん、
全身から力が抜けた。軸心がぶれて思わずその場にしゃがみこむ。眩暈がする。耳鳴りがひどい。直観的にかがりは理解する、急激な霊氣の使用に身体が追いついていないのだ。
「く、ふふ、ぐわはははは! 天は俺に味方をしたようだ! 死ね化け狐ぇ――――ッ!」
天颶の刀が一直線に落ちてくる。
かがりは額に汗を浮かべながら天颶を睨み上げた。こんなところで力尽きるわけにはいかない。でも身体が動かない。どうしよう、どうしよう――途方もない焦燥感で身を焼かれそうになったとき、不意に誰かが目の前に立つ気配があった。
「え――」
天颶の刀が左手ごと吹っ飛んでいった。
絶叫がこだまする。
かがりは瞠目して彼の後ろ姿を眺めた。鋭利な神州刀を構えた道服の仙人がそこにいた。助けてくれたんだ――かがりは嬉しさと安堵で胸が熱くなるのを感じた。
「昏武京八。お前の所業は目に余る」
「余るわけなかろうがァ――――――――――ッ!」
天颶の身体から暴風が吹き荒れた。あまりの風圧にかがりは目を細めてその場にうずくまってしまう。神楽に使う道具が縦横無尽に飛び回る中、しかし彩紀は少しも動揺することなく敵を見据えている。
「その程度の煉術では俺を殺すことはできない。諦めて更生したらどうだ」
「更生などする必要はない! 榮凛島では昏武京八こそが正義なのだッ!」
「いや、それは違うと思う」
神州刀が軽く振られた。
それだけで荒れ狂う風は一瞬にして凪いでしまった。煉氣の質量に隔たりが大きければ、少し力を籠めるだけで相手の煉術を打ち消すことができるという。神津彩紀と昏武京八との間には、まさに天と地ほどの隔たりがあるのだった。
雄叫びが轟いた。もはや正常な判断力など残っていない、昏武京八は余力をふりしぼって無策の突貫を試みる。拳のなくなった腕が振り下ろされた。彩紀が少し横薙ぎを放ってやると天颶の腕は肩の辺りから切断されて舞台の向こうへと吹っ飛んでいき、返す刀で真一文字の斬撃を繰り出した瞬間、天颶はもんどり打ってその場にひっくり返ってしまった。
「莫迦な……こんなことが……」
「怖がる必要はない」彩紀は天颶の顔を覗き込んで云った。「聖仙の力をもってすれば傷を治してやることもできる。――どうだ、反省する気になったか」
「反省などするか……俺は……世界の支配者だぞ……!」
「そうか。天論とは惨いものだな」
彩紀は何故か悲しそうに笑った。そうしてかがりのほうを振り返る。
「かがり。動けないなら俺が始末しよう」
「大丈夫」
刀を杖がわりに立ち上がる。それと時を同じくして昏武京八が盛大に吐血した。もはや虫の息、しかし天颶の首魁は未だに憎悪を湛えながらぶつぶつと呪詛の言葉を紡いでいた。
「よくも、よくも俺の西方浄土を……絶対に許さない……」
それはこっちの台詞だと思った。かがりはゆっくりと天颶のもとへと歩み寄る。
「こんなことをして……ただで済むと思うなよ……! お前らには必ず天罰が下る……〝七凶神〟のやつらが黙っちゃいねえからな……!」
「あっそ。生憎と、天だの神だのは信じちゃいないのよ」
慈悲などかけてやる必要はなかった。
おもむろに刀を持ち上げると、かがりは深く息を吸ってから振り下ろした。
