血颪千重塔の足元、芝山の中腹あたりに寂びれた寺がある。
榮凛島の人間も知らぬ無気味な寺だ。大昔はそれなりに参拝者を集めた名刹だったのかもしれないが、今では見る影もなく、草の伸び切った境内、丹の剥げた門に掲げられる扁額は文字すら掠れて読めず、いかにも魔が吹き溜まる場所、といった趣である。
いま、山門の前に一匹の天颶が降り立った。
顔色は真っ青、全身は汗にまみれ、見るからに疲弊していた。幾度も転びそうになりつつ境内を駆け抜けると、賽銭箱を蹴散らしながら本堂の扉に縋りつく。
「寿老人様! 寿老人様! 一大事でございます!」
――この天颶、先ほど桜泉里で繰り広げられた騒動の死に損ないである。熾天寺かがりが昏武京八を相手に奮闘していた頃、たまたま用を足すべく草葉の陰に退いていたので難を逃れたのだ。で、祭の会場に戻ってきた彼が目撃したものは、血の海に沈む仲間たちの屍だった。
「寿老人様、同胞が殺されてしまいました! 下手人は榮凛島で忌み嫌われていた化け狐です! どうか仇を討ってくだされ!」
この古刹には七凶神の一柱、寿老人が住んでいる。
七凶神とはすなわち寇魔の元締めだ。彼らが望むは世界の混沌、ゆえに天颶が榮凛島で好き勝手に振る舞うことを大いに推奨し、天颶の行動に支障をきたすような事態が発生すると、自ら出向いて快刀乱麻を断つが如く解決してくれるのである。
特に寿老人は天颶の守り神と云っても過言ではない。これまで昏武京八が心に何の蟠りもなく榮凛島に君臨できていたのは、ひとえに寿老人の後ろ盾があったからに他ならない。
「寿老人様、寿老人様……」
しかし天颶の守り神は反応を見せなかった。寝ているのかと思って鰐口を死に物狂いで叩いてみるが、本堂からは物音の一つもしない。天颶はさらに青ざめた――まさかあの神仙は我々のことを見捨てたのではなかろうか、と。
「寿老人なら留守だよ」
不意に耳の奥を痺れさせるような甘ったるい声が聞こえた。
枯れた手水鉢の傍らに年若い小娘が立っていた。天人の如く縹色の衣に身を包み、桃色の髪を夜風になびかせる、あまりにも周囲の風景にそぐわない小娘。
「なんじゃ貴様は! 儂は寿老人様に会いに来たのだ!」
「だからさ、あいつは留守だって云ってるじゃん。そんなに莫迦みたいに鐘を鳴らしたって全然意味ないよ、五月蠅いだけ」
天颶は不思議な気分になった。
この小娘はいったい何者なのか――矯めつ眇めつ観察してみると、その異様さに圧倒されそうになる。おぞましいほどの妖氣だった。相対しているだけで精神が削られていくほどの。
「ねえ、お前はここに何しに来たの?」
娘が言葉を紡いだ。天颶は一拍遅れて返答する。
「寿老人様に会いに来たのだ! 聞いて驚け、昏武様が化け狐に殺されてしまったのだ! はやくやつを殺してもらわねば、天颶の天下が終わってしまう……!」
「天颶はお前以外みんな死んだんでしょ? 天下も何もないよね」
「あるわ! これからは儂が榮凛島の支配者だ! だからこそ、あの化け狐は始末せねばならぬのだ。始末せねば……心置きなく人間どもに貢がせることもできんではないか!」
「ふーん……一人ぼっちの暴君か。それって寂しいよね」
「子分なら後からいくらでも作れる! 下界で寇魔どもに声をかければ――」
そこで天颶はにわかに頬を歪めた。目の前の小娘はあまりにも美しかった。しかも常人離れした妖氣を縦にしてもいる。これほどの逸材がこの世に二人と存在するとは思えなかった。
この者こそ、次の支配者の側近に相応しい。
「小娘。貴様、人間ではないな?」
「まあそうかな」
「気に入ったぞ! 貴様、儂の子分……いや、伴侶となり、共に榮凛島の支配者として君臨しろ! なァに不安がることはないぞ、儂についてくれば至上の悦楽を約束してやろうではないか。――さあ、そうと決まればさっそく祈れ! 寿老人様に祈るのだ! 儂らの安寧ために化け狐を殺してくださいとな! ほうら何をやっておる、本堂の前にひざまず――、、、」
小娘の身体に伸ばしかけた腕が、
あっという間に切断されて宵闇のかなたに飛んでいった。
「――ぇ?」
気づく。いつの間にか小娘が抜刀している。
彼女の瞳に湛えられた冷酷な光にぞっとするものを感じた直後、すさまじい激痛に襲われ天颶はその場に両膝をついた。
「あ、あぁああぁあッ! 何をする、小娘ェ――――――――――ッ!」
「殺すんだよ。これからお前をね」
「冗談ではない! 儂は何もしとらんだろうがッ……!」
「それこそ冗談ではないな。お前は私の嫌いな三つの要素を満たしている。醜いこと。邪なこと。そして――弱いもの虐めでしか己を満たせない卑屈な精神」
さらに刀が振られた。桃色の剣筋が綺麗な弧を描き、瞬く間に天颶の胴体を真っ二つに切断した。すさまじい量の血が飛散する。天颶はそれでもなんとか助かろうと草の上で藻掻いていたが、己の頭上でまったく温もりのない表情を浮かべている小娘を見て己の運命を悟った。
「きさ、ま……、何者だ……?」
「下劣な天颶に名乗る名前はない――と云いたいところだが、これから地獄に召される者への贐として特別に教えてやろう」
小娘はくるりと背を向けて云った。
「七凶神が一柱、宇ヶ原惟依。
わけがわからない。
七凶神ならば天颶の味方ではないのか。なぜ自分は血に塗れて地に伏しているのか――何一つとして腑に落ちることはなかった。自らを切り刻んだ小娘の背中に六本の黒々とした腕が生えているのを幻視しながら、天颶は眠るように絶命した。
こうして昏武京八率いる天颶一門は、榮凛島から完全に駆逐された。
「伴侶。伴侶かぁ……」
宇ヶ原惟依は夜空に輝く月を見上げながら嬉しそうに口ずさむ。
足元には天颶の薄汚い死体。断じてこんなモノが惟依の伴侶であるわけがない。
「くふふ。惟依の相手は決まっている。生まれる前から――千年前から運命づけられている」
刃に付着した血を振り払ってから納刀する。
今日は気分がいい。何故なら彩皇の力の一端を拝むことができたから。
「――待っててね彭寿星。ご先祖様の恨みをぶつけてあげる」
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