少女願うに、この世界は壊すべき ~桃源郷崩落~

 熾天寺かがりは十五年前、榮凛島を束ねる炎の一族・熾天寺家の嫡女として生まれた。ただし狐の耳と尻尾のおまけつきだ。本当なら生まれた直後に間引かれるはずだったが、かがりの母親――熾天寺家の巫女にして榮凛島の最高権力者――が頑なに拒否したのだという。かくしてかがりは母親の愛を十分に受けて育った。しかし、悲劇は今から三年ほど前に起きる。三年前の嵐の夜、かがりの母は忽然と姿を消してしまったのだ。村人たちは「天颶の仕業だ」と大いに騒ぎ、神社の巫女には手を出さぬという掟を破った寇魔への怒りを募りに募らせた。そして怒りの矛先はすぐに変わった。それまでは母の庇護下にあったから良かったものの、あの嵐の夜以降は村人たちの憎悪が堰を切ったようにかがりに集中し、しまいには「巫女が死んだのは狐が災厄を招いたからだ」という濡れ衣まで着せられて神社を追い出されてしまった。
 かがりは榮凛島の人々にとって疫病神そのものなのである。
 とはいえ誰も彼もが「化け狐憎し」というわけでもない。かがりの生家、命融神社の神職たちの中には、かがりの現状を憐れみ生活の支援を申し出る人間もいた。
「よくぞいらっしゃいました、かがり様」
 石段をのぼり、くすんだ朱色の鳥居をくぐると、白髪の目立つ男に迎えられた。命融神社に住み込みで働く左禰宜であり、名を飯垣という。かがりは背負っていた籠を下ろすと、その中身を指で示しながら云った。
「今朝採ったやつよ。これでいいんでしょ?」
「ふむ。確かに拝領致しました」
 飯垣は大きく頷いて微笑んだ。毎週の星期日に命融神社へ薬草を届け、その見返りとして食料や衣類などの生活必需品をもらう。この三年間は、そうやって生きてきた。
「これで島の人間の傷も癒えましょう。かがり様のおかげです」
「……あいつらの傷を治したって、ちっとも嬉しくない」
 命融神社の祭神は現人神の〝熾天之巫女〟である。そのご利益は家内安全と傷痍平癒。巫女が定期的に儀式をすることで霊氣が島に行き渡り、ちょっとした風邪や掠り傷を治してしまうのだ。しかし近頃は巫女が病気で儀式が行えないため、かがりが届けた薬草を格安で売ることでもってご利益のかわりとしていた。
「荷物はいつも通り、家の近くに届けておいて」
「承知致しました。――いえ、お待ちください、かがり様」
 踵を返しかけたところを引きとめられた。飯垣が深刻な表情でこちらを見ている。
「かなめ様に、お会いください」
 かがりは今度こそ拝殿に背を向けた。
「帰るわ」
「もう長くはありません」
 一歩踏み出した状態で固まってしまう。飯垣は深々と頭を下げて続けた。
「あの方は、かがり様と会える日を待ち望んでおられます。どうか、お顔だけでも」

 命融神社の巫女、熾天寺かなめ。
 かがりの双子の妹でありながら、人々の崇拝を一身に受ける熾天の子だ。かがりには理解しがたいことだが、榮凛島の人間たちにとって彼女の存在は心の支えになっているらしい。
 ――かなめ様がいるから我々は暮らしていけるのじゃ。
 ――かなめ様がいなかったら天颶どもはますます図に乗っていただろう。
 しかし、久方ぶりに拝んだ妹の顔色は、見ているのが気の毒になるほど青白かった。
「ああ! かがり。よく来てくれましたね」
 顔のつくりはかがりと似ている。背丈も大差はない。違うところを挙げるとすれば、かがりが金色の髪と尻尾を持つのに対し、かなめは持たない。凍てつくような銀髪だけは人間離れしているが、その神々しい容姿はむしろ人々の信仰が集まるのに拍車をかけていた。
「こんな恰好でごめんなさい。今日も調子が悪くて……」
 寝衣姿のかなめは布団の上に胡坐をかいて苦しそうにしていた。強がりで張りつけた笑みは痛々しく、ときおり顔を顰めたかと思えば、ごほんごほんと身体に悪そうな咳をする。
 もう三年も前からこんな調子だ。先ほど飯垣に聞いた話によると、あと一年も生きられれば御の字だという。かがりは込み上げる感情を抑えつけて口を開く。
「無理しないで寝てなさいよ。死んだらどうするの」
「心配してくれてありがとうございます。私に優しくしてくれるのは、かがりだけですね」
「島の連中は挙ってあんたを崇め奉ってるじゃない」
「あれは優しさではありません。信仰です。彼らは自分のために私を祭っているんです」
「……ふうん。あんたを拝んでも天颶がいなくなるわけじゃないのにね」
 かなめは悲しそうに目を伏せた。
「飯垣から聞きました。今日も、天颶が来たそうですね」
「来たわよ。人が殺された。――ねえ、あいつらをなんとかする方法はないの? あいつらがいるから、人間たちに鬱憤が溜まって、それで私を」
 そこでふと気づき、かがりは何も云えなくなってしまった。死の淵に臨んでいるかなめの絶望と比べたら、自分の悩みはあまりにもちっぽけだ。
「わかっています。熾天の巫女として寇魔を放置するわけにはいきません。ですが私は非力なのです。最近は神社の儀式も満足に行えず、みんなの病気を治すこともできないし」
 かなめが口元を押さえて咳をした。慌てて背中をさすろうとするかがりを手で制し、
「大丈夫。お薬を飲みましたから」
「でも」
「かがりが届けてくれた薬草のおかげで、進行は抑えられています」
「でも! そんなのは気休めでしょ。あんたの病気には特効薬がない。ううん、あったはずなんだけど、失われてしまった」
 壁の書棚に目をやる。そこには『天地綱目』と書かれた古い医学書が積んであった。かなめの病気を治す方法が記されていたらしいのだが、何しろ千年前に編纂されたものだ。時代を経るにつれ散逸し、今では原典の六割しか残っていない。その散逸部分さえ見つかれば。
「……ねえ、かがり」かなめは遠い目をして口を開いた。「今年が、千年目ですね」
「いきなり何を云ってるのよ」
「彭寿星様が封印されてから、今年で千年です」
 かがりは遣る瀬無い思いになった。彭寿星。その名は榮凛島の人々にとっては呪いにも等しかった。誰もが果てしない期待を込めて聖仙の復活を待ち望んでいる。――だが、その期待が外れたとき、榮凛島は真の意味で絶望のどん底に突き落とされてしまうのではなかろうか。
「彭寿星様は天下に九人しか存在しない〝五彩の覇者〟と呼ばれる実力者の一人です。きっと榮凛島に平和な時間をもたらしてくれるでしょう」
「そんなのを……そんなやつを、かなめは本気で信じているの……?」
「これは事実ですから。――かがり、あなたにはつらい思いをさせてしまいましたね。獣の耳や尻尾があるだけで虐められるのは不当です。島の人たちにもかがりを蔑ろにしないよう云い含めているのですが、誰も聞いてくれなくって……これでは妹失格ですね」
「妹に失格も合格もあるか。私が虐められているのは、べつに誰のせいでもない。強いて云うなら天の神様が悪いのよ。人間から狐が生まれてくるなんて、そんな莫迦げたことをどうして見逃しちゃったのかしら……だから、ええと、」
「大丈夫。辛い日々は終わりを告げます。もうすぐ彭寿星様が救ってくださいますから」
「そんな宗教じみた話は聞きたくないっ! しゃべってないで寝てろっ!」
「かがりも信じてください。人の祈りは現実を変えるのです」
 頭がくらくらした。
 かなめの病気は、かなめの頭まで蝕んでいるのかもしれない――そう思った。
「もういいわ。云いたいことはよくわかった。つまりあんたは、最強の神様が突然現れて島を救ってくれるって本気で信じているのね。そんな都合の良いことを」
「違います。いえ、まあそうなんでけど、確証がないわけじゃなくて……」
「もう休んだほうがいい。私も帰るから。――いつになるかわからないけれど、きっとまた来るわ。あったかくして寝なさいよ」
「聞いてください、かがり」
 かなめの視線を振り切って部屋を出る。胸の内でぐるぐる回っている奇妙な感情を押し潰すような勢いでぴしゃりと障子戸を閉めた。
 自分だけじゃない、かなめも参っているらしい。
 これからどうすればいいんだろう。

 どうしようもなくなってしまった。
 桜泉里の外れ、人気のない鬱蒼とした林の奥にひっそりとたたずむ茅屋。
 鬱々とした気持ちで帰宅したかがりを迎えたのは、天を衝かんばかりの勢いで燃え上がる炎だった。もうもうと立ち昇る黒煙、辺りに充満する肌を焼くほどの熱――かがりの家は、真っ赤な火の渦に飲み込まれてもとの形もわからないほどになっていた。
「なんで……?」
 かがりは呆然と炎を見つめることしかできない。
 あの家には大切なものがいっぱいあった。服や食べ物、なけなしのお金はもちろん、お母さんに作ってもらった冬用の襟巻とか、お母さんに買ってもらった緑檀の櫛とか。
(こんなことって、ないよ)
 絶望のあまり膝から崩れ落ちてしまった。それを目敏く見つける者たちがいた。
「いたぞ! 化け狐だ!」
「やっぱりこいつの住みかだったんだ!」
 かがりはびくりと震えて辺りを見渡す。草の茂みから人間たちが現れた。そうしてすべてを悟る――こいつらだ。こいつらがやったんだ。でも何故? 決まっている、かがりのことが気に食わないからだ。八つ当たりとか鬱憤晴らしとか、そういう次元はとうに超えていた。
「よう化け狐、気分はどうだ?」
 男が近づいてきた。村長の長男坊、名前は確か弥助とかいったはずだ。
「俺たちは清々しい気分だよ。……にしても、よく燃えてるなあ」――ぎゃははは。人々が爆笑した。何が可笑しいのか微塵も理解できない。この人たちは心の病気なのかもしれない。
「こんなことして、何が楽しいの」かがりは拳を握って弥助を睨み据えた。
「お前がこの世に存在しているとよくないことが起きる。天颶が出るのも、かなめ様がご病気を患ったのも、全部お前のせいだ。だから退治しに来たんだよ、俺たちは」
「冗談じゃないわ! 私が何かしたっていう証拠があるの!?」
「鏡を見ろや! その耳と尾が動かぬ証拠だろうが!」
「違う! これは生まれつきなの……」
「云い訳するんじゃあないッ!」
 視界に火花が散った。がつんと頭を揺さぶられ、気づいたときには地面にうつ伏せになっていた。脳みそが動いていない。鈍い痛みが這い上がってくるにつれ、ようやく自分が殴られたのだと理解した。信じられなかった。こんなことをするやつがいるのか。
「ふん、この程度で終わると思うなよ。俺たちは我慢しないと決めたんだ。――おい」
 弥助が顎で何事かを指示した。村人のひとりが縄を両手に近づいてくる。
 命の危機を察知したかがりは必死で足に力を込めて立ち上がろうとした。しかしいきなり背後から腕をつかまれて踏鞴を踏んでしまう。
「いたっ……放してよ!」
「お前は天颶祭の供物にするんだ。村には食料がないからなぁ、やつらには狐の肉で我慢してもらおうじゃないか。化け狐退治と天颶のご機嫌取り、同時にできて一石二鳥だろう?」
 鳥肌が立つのを感じた。かがりは顔面蒼白になって暴れた。しかし背後から羽交い絞めにされてしまい逃げることができなかった。縄を構えた男がゆっくりと近づいてくる。
「やめてよ! あんたたち、頭おかしいんじゃないの!?」
「おかしくねえよ。――ほら、さっさと縛れ! 寇魔に触りすぎると腫れ物ができる」
「ふ、ざ、けんなあああっ!」
「おい、じっとしてろ――――ぶッ!?」
 弥助の顔面に頭突きを食らわせてやると、かがりは死に物狂いでその場から走り去った。
「逃げたぞ!」「追え!」「殺せ!」――背後から無数の怒声が浴びせかけられる。飛んできた石が背中に当たって転びそうになる。それでもかがりは走る。死力を尽くして走る。走らなければ殺されてしまう。目からは大粒の涙がこぼれ落ちてくる。
 この島には、かがりの居場所はないのだ。……いや、この島だけじゃない。世界中のどこを探しても、こんな薄汚い狐を受け入れてくれる場所なんてないのだろう。
 熾天寺かがりは、いるだけで人の迷惑になる。
 それが、心の底からわかってしまった。

 どこをどう走ったのか判然としないが、辛くも村人たちの魔手から逃げおおせたらしい。
 桜泉里の外、整備されていない獣道が延々と続くような、人気のない寂しい場所だ。
 かがりは大きく息を吐くと、藪に引き裂かれて傷だらけになった肌をいたわりつつ近くの倒木に腰をおろす。そうしてはっとする。道の向こうに地平線が見えるのだ。墨をぶちまけたように黒い大地と、夕焼けの紅色に染まった大空が、一本の線でくっきりと両断されている。蜩の声を聞きながら、かがりはしばし万感の思いでその光景を見つめていた。
「……どうしよう」
 ぽつりと漏れ出たのは、掠れきった声だった。
 家は燃えた。持ち物もない。残された道は野垂れ死にくらいか。無様に死ぬのも悪くない、そんなふうに自嘲的な笑みを浮かべたとき、ふと妖氣を感じてかがりは身を強張らせた。地平線の向こう、ゆったりと流れる紅色の雲の中に、悠々と空を飛ぶ人影が見える。
(天颶……!)
 かがりは慌てて近くの岩陰に身を隠す。黄昏時になると、やつらは榮凛島の哨戒をする。人間が天颶に隠れて〝悪さ〟をしていないか見張っているのだ。なんたる不運。人間に追い回された挙句、天颶と遭遇してしまうなんて。いや、隠れていれば難を逃れることも――
 だめだ、こっちに来ている。
 化け物どもは風のような速度で近づいてくる。
 なぜ、どうして。――かがりは気づけなかった。狐耳が岩から飛び出していたことに。
「ぐわははは! なんだこやつは! 桜泉里で忌み嫌われている狐ではないか!」
 哄笑とともに天颶が大地に降り立った。気配は二つ。もはや隠れていても意味はないと悟ったかがりは脇目も振らずに走り出した。しかし木の根に躓いて転んでしまう。しかも足首を捻った。立てない。なんて間抜けなんだろう、かがりは泣きそうになってしまった。
「どうする? 天颶法によれば日没後に出歩いている者は殺してよいことになっているが」
「珍しい狐の尻尾だ、昏武様に献上するのがよかろう!」
「だな! 殺してから剥ぎ取ろうではないか」
 背後で恐ろしい会話が交わされている。かがりは木に手をついてなんとか立ち上がった。逃げなければ殺されてしまう――その一心でひたすら足を動かす。
「どこへ行くのだ狐め!」
 にわかにすさまじい風が吹いた。
 次の瞬間、天颶の放った鎌鼬の妖術が、近くの木を真っ二つに両断した。巻き起こった突風に耐えきれず、かがりはその場に倒れ込んでしまう。
「逃げろ逃げろ、たまには狩りに興じるのも悪くない!」
「狐狩りじゃ! ほぅれ、儂らを楽しませてみろい!」
 ふざけてやがる――かがりは沸々と怒りが湧いてくるのを感じた。助かる道は残されていない。ならば無様に逃げ回っても意味はない。――そうだ、ここで世界を壊すための第一歩を踏み出そう。この島に悲劇をもたらした化け物どもに、一矢報いてやろう。
 かがりは足の痛みを堪えて這い上がる。木の枝を力任せに折って剣のかわりにする。
 切っ先を向けられた天颶どもが面白そうに頬を歪めた。
「なんだ? 抵抗する気かえ? 狐の分際で!」
「……そうよ。これからお前らをぶっ殺してやるわ」
「やれるものならやってみろッ!」
 一匹の天颶が大地を蹴った。恐ろしい形相で近づいてくる化け物の気迫に尻込みしそうになったが意志の力で身体の震えをねじ伏せる。かがりとて日々を無為に過ごしていたわけではない。命融神社に伝わる剣技――〝炎熱えんねつ熾天してん流〟。幼い頃に母親から教えを受けて以来、鍛錬を欠かした日はなかった。神社を追い出されて以降は独学になってしまったが、日頃から戦いの感覚は研ぎ澄ませているつもりだ。炎熱熾天流はすべてを焼き払う炎の流派、これまで学んできたことを発揮すれば天颶が相手でもすぐさま殺されるようなことは――、
「うぐっ、!?」
 気づけば天颶の掌打がお腹に突き刺さっていた。ぽろりと枝が手首から落ち、かがりはもんどり打って土の上に伏した。内臓をかき乱されるような感覚、次いですさまじい痛みと吐き気を覚えてのたうち回る。――全然見えなかった。熾天流が通用しない。私じゃ勝てない、
「ぐわははは! 口ほどにもないな、狐!」
「こ、このっ……、……、!!」
 声が出ない。立ち上がることもできない。敵はずんずんと近づいてくる。とにかく武器だけは確保しよう――そう思って伸ばした右手を突然下駄で踏みつけられ、涙がこぼれた。
「脆いな! 貴様も寇魔の端くれならもう少し根性を見せたらどうだ!」
「ふん、期待するだけ無駄だぞ! こやつは人から石を投げられてもろくに抵抗しない屑だそうだ! 何のために生きているかわからんな!」
 唐突に放たれた蹴りが下腹部に直撃した。口から血をまき散らしながら地面をごろごろと転がり、草の上に積み上げられていた石に背中をぶつけてようやく停止した。全身が焼けるように痛む。いくつか骨が破壊されたのかもしれない。
 今日は踏んだり蹴ったりだ。――いや、今日ばかりじゃない。熾天寺かがりの人生は、生まれてから今日にいたるまで、どうしようもないほど不幸で満ちていた。
「ぐわははは! 見ろ、毬のように吹っ飛んだぞ!」
「蹴鞠じゃ! 蹴鞠大会じゃ!」
「よゥし、どちらが遠くまで飛ばせるか勝負じゃ! 負けたら坊主な!」
 気がふれそうだった。何故自分がこれほどの目に遭わなければならないのか――わかっている。天の神様がそうなるよう仕向けたからだ。
 この世の悪意を一身に受けてきた、とまでは云わない。
 神様は莫迦らしいくらいに残酷だ。熾天寺かがりに匹敵する不幸な境遇の持ち主など浮塊の下を見れば星の数ほど存在するはずである。巫女の占いでも出るのは〝凶〟ばかり、天下は目を覆いたくなるような悲劇に満ち溢れていた。むしろ自分なんて、この三年間、迫害されながらも辛うじて生活できていたぶんだけマシな部類なのだろう。
 だが、こういう不幸が当然のように存在していること自体がおかしい。間違っている。
 こんな世界は壊れてしまえばいい。人の運命を弄ぶ神など滅んでしまえばいい。
 天颶どもが近づいてくる。怖かった。恐ろしかった。卑劣な寇魔に怯えることしかできない自分が情けなかった。なんとか逃げ出そうとして全身に力を込める。しかし半身を起こすことすらできず、再び崩れ落ちて仰向けに倒れ込んでしまう。
 そうしてふと気がついた。見覚えのある祠がそこに鎮座していたのだ。
 先ほど自分が背中をぶつけたのは、かがりが毎朝拝んでいる石の祠だったらしい。
(……彭寿星様)
 このウスノロ守り神は何をやっているのだろう。今年が復活する年なのだろうに。
 こちとら毎日わざわざ参拝してやっているんだぞ、島民がこんなにも悲しい思いをしているんだぞ。少しはご利益を寄越したらどうなんだ、この阿呆仙人が。
(助けてよ。榮凛島の守り神なら、私を救ってよ……彭寿星様……)
 かがりは祠に手を伸ばす。意味のある行動ではなかった。
 祈りが届かぬことは百も承知。そもそも彭寿星なんて存在しないのだ。島の連中は口を揃えて「彭寿星様、彭寿星様」と唱えるが、そんなものは自らの心を落ち着けるためのお題目にすぎない。彭寿星が本当にいると思っている人間など十人に一人もいないだろう。
 結局、熾天寺かがりの命はここで尽きる運命なのだ――
 そんなふうに諦めかけていたとき、
〈力が欲しいか〉
 頭に声が響いた。男の声である。
〈力が欲しいかと聞いている〉
 かがりは乾いた笑いを漏らした。死に際になって幻聴が聞こえてきたらしい。
 力が欲しいかだって?――欲しいに決まっているではないか。天颶どもを蹴散らし、この世界を真っ平らにしてやれるだけの絶大な力が欲しい。
〈俺は神津彩紀。またの名を彭寿星という〉
 莫迦げている。やはり幻聴だ。
〈おい、聞こえているのか。まさか死んだわけじゃないだろうな〉
「……わた、しは、」
 げほげほと咳が漏れた。かがりは必死になって声を絞る。
〈生きているな。もう一度聞こう――力が欲しいか〉
「私は……、」わけがわからない。しかしかがりは藁にも縋る思いで叫んだ。「……私は、寇魔を倒したい……! だから力が欲しい……! 彭寿星だかなんだか知らないけど、そこまで云うんだったら……世界をぶっ壊せるだけの、力を寄越せッ!!」
〈了解した。これより封印を解除する〉
 次の瞬間――がくん! と、煉氣を根こそぎ抜かれるような衝撃に全身を揺さぶられた。
 祠の奥から膨大な閃光がばら撒かれて思わず目を瞑ってしまう。
 天颶どもが「おわあ眩しぃぞぉ!」と汚い悲鳴をあげている。いったい何が起こったのだろう、これが何かの罠だったら一巻の終わりだ――かがりは焦りを覚えながら、とりあえず頭だけは守ろうとその場で丸まる。
「……なん……なの……?」
 光はだんだんと弱まっていった。かがりは恐る恐る瞼を上げる。
 そこに広がっていたのは紅色の木洩れ日に彩られた林の光景。天颶どもは予期せぬ事態に驚き尻餅をついている。ざまあみろ――そう思った瞬間、かがりは信じられないものを見た。
 全裸の男だ。
 全裸の男が腕を組んで立っているのだ。
 天颶とかがりを結ぶ直線状のど真ん中。まるで「初めからそこにいました」とでも云わんばかりの何食わぬ顔でこちらを見下ろしている。背丈はかがりよりも頭二つぶんほど高く、年齢も一回りは上。引き締まった肉体を惜しげもなくさらけ出したその姿からは自然的な美の波動を感じられるがそんなことは果てしなくどうでもいい。夢でも見ているのだろうか。
「――怪我をしている。大丈夫か?」
 咄嗟に返答することができなかった。生まれて初めて見た異性の局部に狼狽えていたわけではない。いやそれもあるけど、いちばんの問題は男の正体がまったく掴めないということだ。
 気づいたら目の前に立っている全裸の男。天颶とは別の方向性で怖かった。
「言葉が話せないのか。それとも怯えているのか――まあいい」
 男は泰然とした動作でしゃがんだ。次いで遠慮会釈もなしに手を伸ばし、泥のついたかがりの金髪に指を絡める。びくりと震えて後ずさろうとした瞬間、彼の掌から温かな霊氣が流れ込んでくるのを感じて動きを止めた。身体を苛んでいた疼痛が、すぅっと消えていった。
「霊氣はそれ自体が治癒の効能を持っている。ひとまずの応急手当だ」
 かがりは何も云えない。これほど優しい霊氣を感じたのは久しぶりだった。そう、本当に久しぶりだ。まるでかがりの母親のそれのように包容力のある、慈悲深い橙色の霊氣――
「――貴様ぁ! いったい何者だ!」
 男が立ち上がった。彼は意図の読みにくい無表情を天颶に向ける。
「俺は神津彩紀。そう云うお前らは何者だ」
「見てわからんのか! この榮凛島の支配者、天颶様に決まっておるだろう!」
「では天颶様、この少女を傷つけたのはお前たちか」
「だったらどうした! 変態に文句を云われる筋合いはないぞ!」
「俺も鬼ではない。お前らが誠心を尽くして謝罪をし、且つこの少女が『許す』と云うならば何もしない。だがそうでないのならばお前らを殺す必要がある」
 かがりはぎょっとした。「殺す」という言葉に冗談の色が見えなかったからだ。
 天颶どもは「ぐわははは!」と愉快そうに笑った。
「冗談は服を着てからにしろ!――おい、やつを散々バラバラ死体にしようではないか!」
「名案だな! 死ねい野人ッ!」
 天颶が飛翔した。荒れ狂う暴風をまといながら音の速度で迫りくる。しかし全裸の奇人は微動だにしなかった。かわりに何かの煉術が発動する気配、どこからともなく湧いて出た白い霞が男の裸体を包み込んだ。いくらもしないうちに霞は晴れてしまったが、顕わになった彼の風体を見てかがりは目を丸くした。いつの間にか白い道服を身につけていたのだ。
「ぐわはははは! 服を着たから何だというのだ!」
 天颶どもは勝利を確信したように口端を歪めて腰の脇差を抜いた。きらりと光った剣筋が男の首を両側から狙い――金属と金属をぶつけるような、甲高い音が響いた。
 天颶どもが驚愕に目を見開く。かがりも言葉を失った。
 男は敵の攻撃を素手で防いでいた。人差し指と中指で、刃を挟み込むようにして。
「う、動かねえ! 貴様、どんな術を使いやがった!?」
「術など使っていない。お前の攻撃がお粗末なだけだ」
「そ――そんな莫迦な話があるかあああっ!」
 ぱきり、と二つの刃が折れた。
 天颶どもはこめかみから冷や汗を垂らして高速で後退する。その相貌には戸惑いや恐怖といった感情がありありと浮かんでいた。それは榮凛島の人間がしばしば浮かべる表情によく似ていた。――すなわち、強者に相対したときの、虐げられる側の弱者の表情。
「き、貴様! 天颶に逆らって……命があると思うなよっ!」
「そうじゃそうじゃ! 昏武様が黙ってはおらんぞ!」
「構わんさ」
 男がさらに煉術を発動させた。やがて煉氣をまき散らしながら彼の掌中に納まったのは抜き身の刀である。刃長は二尺と少し、美しい反りが目を引く神州刀。それを天颶どもに向けながら、彼は淡々と呟く。
「神代に回帰せよ」
 ひゅん、と、軽い動作で刀身が振られた。
 切っ先が描いた軌跡から炎がほとばしったように見えた。
 直後、天颶がいたはずの場所ですさまじい煉氣爆発が巻き起こる。天地が逆転したかと思うほどの衝撃。かがりは爆風に吹き飛ばされまいと祠にしがみつき、きゅっと目を瞑った。
 あの男は何者なのだろう。
 どうして赤子の手を捻るが如く天颶を圧倒できるのだろう。
 頭の中を埋め尽くすのは無量無数の疑問符だった。
 夢見心地で爆風をやり過ごしていると、やがて周囲に静寂が戻ってくる。
 かがりはゆっくりと目を開けた。視界に映ったのは焼け野原と化した林の光景である。草木は黒々と焦げ上がり、もはやそこに何があったのかもわからぬ有様だった。天颶の姿は忽然と消えている。爆発によって跡形もなく消し飛んでしまったのだろうか。
「――間一髪だったな」
 その焼け野原の中央に屹立していた男が、こちらを振り返って笑みを浮かべた。かがりはよろよろと立ち上がる。不思議なことに痛みはすっかり消えていた。
「天颶のことは後で詳しく聞こう――いやそれにしても、よくぞ俺の気配に気づいてくれた。あまりにも長時間放置されているもんだから、このまま仙界で朽ち果てるものとばかり思っていたが、世の中まだまだ捨てたものではないな。きみのような佳人に起こしてもらえるなんて――ん? ところで先ほどから黙っているがどうしたんだ? まだ身体が痛むのか?」
 そうではない。目の前の相手が何をしゃべっているのか全然理解できなかったのだ。
 かがりは、頭の中に浮かんだ疑問を、素直に口に出していた。
「あんた……何なの?」
「自己紹介が遅れてすまない。俺は文化省CCC開発局特殊災害対策課・第一隊隊長、神津彩紀。保有するOLI因子は《仙人の深層因子・儀範‐炎帝神農》、《天子の特殊因子》――」
 そこで彼は困ったように頬を掻いた。かがりの顔に理解の色が見えなかったからだろう。
「……ええと、今は何年だ?」
 かがりは眉をひそめる。
「三年よ。四十一代の三年。それがどうかした?」
「すまん、西暦で教えてくれないか」
 思わず首を傾げてしまう。西暦とは神代の世界で使われていた古い紀年法のことだ。人妖大戦が二〇〇〇とかそのくらいだったはずだから、今はたぶん――
「三〇〇〇ちょっと、かな」
「…………そうか」
 一瞬、男の顔が引きつった気がした。しかしそれは本当に一瞬のことであり、彼はすぐに微笑を浮かべると、傲岸不遜な態度でこうのたまうのだった。
「自己紹介を訂正しよう。我が名は神津彩紀。世の有象無象は彭寿星とも呼ぶ。薬を司る古代の神であり、俗世から逸脱した天壌無窮の仙人であり、はるか昔に自らを封印した五彩の覇者でもある。よろしく頼もう」
 差し伸べられた手を、かがりは見下ろすことしかできない。こんな奇天烈な男に易々と気を許せるはずもなかった。――だが、なぜだろう。この男からは妙に懐かしいにおいがする。それは、心をかき乱すような、本能を刺激するような、どうしようもなく郷愁的なにおい。
 天をく炎のにおいだ。