序章・二/神代の世界
「天命に抗え、神津隊長」
それが、最後の部下の最期の言葉だった。たとえ世界が滅亡してもこいつだけは余裕綽々と笑って煙草を吹かしているのだろう――そう信じて疑わなかったのに、彼はたったいま、殺風景な瓦礫の上で静かに息を引き取った。避けられぬ運命だった。槍で貫かれた傷を治療してやれるだけの煉氣はもう残っていないのだから。
青年は物云わぬ躯となり果てた部下の傍らに座り込む。葬りなどしてやる暇もない。しかし力尽きるまで奮闘してくれた仲間の死を無下にすることはできなかった。
「……ありがとう。お前は立派だったよ」
青年の胸中にわだかまるのは途方もない遣る瀬なさである。いまさら身を粉にしても無意味に決まっている、どうせ反撃の機会は二度と巡ってこない、日本はこのまま寇魔の手に落ち太古の世界へ回帰を遂げるのだ――そんなふうに諦観をにじませながら頭上を仰ぐ。
血液をぶちまけたように赤い空だった。報告によれば現在東京ではかつて江戸を焼いた明暦の大火が再顕されているらしい。――否、大火どころの騒ぎではない。日本のそこかしこで地震だの颱風だの、歴史上で人々の命を無残に散らしてきた悪名高き災厄が続々と再顕されているのだ。〝七凶神〟の莫迦どもがOLI因子を好き放題に励起させた結果である。
遠くから断続的に爆音が聞こえてきた。航空隊の爆撃機が市街地を攻撃しているらしい。この期に及んでまだそんなものが通用すると思っているのだからお笑いだ。
このご時世、ただの銃弾では兎の一羽も殺せやしない。
天に揺蕩う集合文化意識はあらゆる常識を改変した。物理法則を基礎づける論理体系のパッケージは強制的に数世紀前のそれへと置換され、自然科学の発展するべき道は永久に閉ざされてしまった。つまり世界は変わったのだ。そしてその新たなる世界で水を得た魚のように暴れ回っているのが寇魔の集団である。人を殺し、街を壊し、倫理道徳を蹂躙し、国家体制をも覆そうと企むならずもの。日本政府はやつらの暴挙を食い止める手段を持たなかった。インフラはほぼ壊滅、政府の機能も麻痺寸前、内乱が始まってからの死者はおよそ一千万人とされるがこれは三年前のデータである。今では国民の半分が死んでいるのではないか。
「――見つけたわ。彭寿星」
耳を舐め上げられるような声。壊れた自動販売機の陰から女がぬるりと現れる。
青年は舌打ちをして招かれざる客を睨み据えた。
「お前の相手をしている暇はない。それ以上近づくと殺すぞ」
「あら怖い。その様子だと祝融のほうは死んだみたいねえ。――安心しなさい、あんたもすぐにお友達のもとへ送ってあげるから」
女の背中からめりめりと六本の腕が生えてきた。胴から伸びている白魚のような二本とは異なり、黒っぽくて筋骨隆々とした禍々しい腕だった。それぞれが斧だの槍だの物騒な武器を握りしめている。あれこそが寇魔を寇魔たらしめる異能だ。
「ふん、《土蜘蛛の再顕者》か? 生憎と頼光の武器は持っていないが」
「莫迦おっしゃい。これは
そこで女は媚びるような流し目を向けてくる。
「ねえ彭寿星。あんたはどうして未だに戦っているの?」
「何が云いたい」
「勝敗の帰趨は明らかよ。これからは寇魔が支配する渾沌の時代になる――だのにあんたには諦める気配がない。自衛隊どころか政府すら壊滅寸前だってのに」
「政府も自衛隊も関係ない」
青年は死ぬ思いで立ち上がった。つい先ほど寇魔に抉られた右脚から焼けるような痛みが這い上がってくる。しばらくは歩行も困難だろう。
「俺は自らの良心に従って行動している。お前らが気に食わないから死力を尽くすのだ」
「そう――本当に残念だわ。あんたほどの力があれば寇魔の軍勢でも埋もれないはずよ。なんなら私が取り立ててやってもいいけれど?」
「その手は二度も通用しない」
「あっそ。――なら死ね」
女は微笑を浮かべると力強く地面を蹴った。たくましい六本の腕を怒らせながら目を見張るような速度で近づいてくる。そこらの寺院に祭られている弁財天とは似ても似つかぬ凶悪な容姿。OLI因子が人体にもたらした悲劇的な奇跡の産物だ。
女の身体がさらに加速した。
彼我の距離は十メートルもない――しかし青年は動かない。いや動けない。これまでの激戦で傷ついた身体の節々が悲鳴をあげている。立っているのもやっとだった。
獲物の衰弱を見て取った女の片頬が不気味に吊り上がる。漆黒の筋肉をうならせ大跳躍、恐ろしいほどの滑らかさで上段から無数の斬撃を振り下ろした。あわや絶体絶命かと思われたその瞬間――青年は迫る刃を無感動に見つめながら、気負う素振りも見せずに引き金を引く。
安っぽい銃声が廃墟の街並みにこだました。
女の腕から武器がこぼれ落ち、ひび割れたアスファルトに激突して甲高い音を立てる。
「え?」――余裕の表情が一瞬にして崩れ、空中でバランスを崩された肢体は回転しながら青年のすぐ隣に墜落した。ぐしゃりと骨の曲がるようないやな音がした。
「な、なんで……?」
仰臥する女の頭部からは血だの脳漿だのが滾々と溢れている。彼女は驚愕に目を丸くして己が敵の姿を見上げた。彼の手にはずいぶん古式な回転式拳銃が握られていた。
「某S社の初期モデル。これが使えるギリギリってところだな」
「あ、ああっ、き、貴様、よくもッ……!」
再び銃声が轟いた。脳天を貫かれた女の身体が魚のように跳ねる。いくら寇魔といえど銃弾をまともに食らって無事でいられるわけがないのだ――少なくとも現時点においては。
女はしばらく全身を痙攣させていたが、やがてぴくりとも動かなくなってしまう。血生臭い戦場にぽつんと取り残された青年は、その場に座り込んでひとり大きな溜息を吐く。
そのとき、握りしめていたはずの回転式拳銃がぽろぽろと形を失っていった。銃口から順々に光の粒子と化していく。粒子はそのまま天に昇って永遠に帰ってこない。近代的な物質はこのようにして〝修正〟されていくのだ。
(もう限界か……)
打つ手は残っていない。全身ぼろぼろ、気力も尽き、援軍は期待できず、武器もない。最後の戦友も死んでしまった。寇魔どもが押し寄せればあっという間に殺されてしまうだろう。
そろそろ潮時なのだろうか。
(いや、違う)
彼は云ったじゃないか。「天命に抗え」と。
青年は歯を食いしばって己の内側に残っている煉氣をかき集める。
煉氣――それはOLI因子から供給される非科学的な世界改変エネルギーである。このエネルギーこそが国家滅亡の原因に他ならないのだが、背に腹は代えられなかった。
集まった煉氣は雀の涙に等しかった。術を一度行使できるかどうかという程度。
(認めよう。俺たちに勝ち筋はない。今の段階で寇魔を滅ぼすのは不可能だ)
青年の指先から淡い光が漏れる。仙術が発動する兆しだった。
(しかし、だからといって殺されてやるわけにはいかない。俺は諦めない)
そのとき、にわかに背後から邪悪な気配がわらわらと出現した。追手である。どいつもこいつも人間らしからぬ特徴をその身に顕す化け物の集団だ。
「彭寿星だ! 殺せ!」
寇魔どもが雪崩を打って襲いかかる。しかし何もかもが遅かった。
一世一代の仙術は、既に完成していた。
「――まだ見ぬ時代へ」
視界を焼き尽くすような眩い光がほとばしった。寇魔どもはなす術もなく吹き飛ばされいていく。乾いた大地が割れ、紅色の天が引き裂かれ、かつて日出づる国と謳われた大地はその長い歴史を逆方向に再生していく。
青年・神津彩紀は、敗北の決定した現世を放棄し、はるか未来に希望を託す。
