寇魔との大戦に敗北した日本は文明レベルを大きく後退させた。国家は瓦解、人の心から進取の気鋭が失われ、列島は化け物が跳梁跋扈する前近代社会へ逆戻り――というよりも、まったく別のファンタジーな世界観に変貌してしまったと云えよう。
たとえば先ほどの天颶との戦闘。彩紀は刀に煉氣を込めて軽く振っただけなのに、予期せぬ大爆発が巻き起こってしまった。これは千年前よりもOLI因子が活発になっている証拠であり、ようするに神津彩紀の力は意図せざるうちに強化されたということなのだが、だからといって喜んでいられるわけもなかった。
(……浮いてるな。この地面)
彩紀は自分よりもちょっと高い位置に浮かんでいる雲を眺めながら溜息を吐く。
OLI因子は世界を根底から覆してしまったらしい。浮遊する島が平然と存在する時代が来るとは思ってもみなかった。もはや千年前の日本を取り戻すのは不可能に思えてならない。
(いや、まだだ。諦めるにしても色々と情報を集めてからにするべきだ。そのためには協力者が必要なのだが……)
彩紀はちらと隣に目をやる。少女の金色の髪が夕日を受けてきらきら輝いていた。千年前には存在しなかった天然の美を垣間見たような気がして束の間心を奪われる。
逢魔が時、真っ赤に染まった農道の端っこ。彩紀と、彩紀を復活させた妖狐の少女は、平べったい岩に並んで腰かけていた。ただし二人の間には二メートルほどの距離がある。
「さて、改めて礼を云う。封印を解いて頂きどうもありがとう」
「……どういたしまして」
高く澄んだ声は強張っていた。警戒を解いてはくれないらしい。狐耳がぴくぴくと動いているのを見るに緊張しているのだろう。
OLI因子は大きく二つに分類される。一つが基礎因子。全体の九割以上を占める、もっとも一般的なものだ。たとえば《鬼の基礎因子》を授かった人間は、広く人口に膾炙する典型的な〝鬼〟の特徴を得る。そして二つ目が深層因子。これは基礎因子に何らかの特性が付与されたものであり、たとえば《鬼の深層・儀範‐酒呑童子》を宿した人間がいたとしたら、その人間は普通の鬼の特性に加えて伝承にある酒呑童子の特性をも備えた寇魔になる。――そういう分類法から考えてみると、隣で借りてきた猫のように座っているこの少女はこれといって特殊な点を持たないシンプルな狐娘なので、おそらく保有する因子は《妖狐の基礎因子》、前近代以前の狐に対する普遍的な畏怖や信仰が、この少女の心身に色濃く反映されているのだろう。
それにしても――と、彩紀は感嘆の念を抱いて彼女の容姿を観察した。
それは、まさにOLI因子がもたらした奇跡だった。さわさわと風になびく稲穂のような色の髪が美しい。その髪を分けるようにして生えている狐の耳が可愛い。もふもふした尻尾が左右に揺れているのも可愛い。とにかく可愛い。だが特筆すべきは彼女の胸部であろう。薄い生地の衣服だからよくわかる、あれこそまさに天帝が手ずから創り上げたといっても過言ではない至高のおっぱ
「……ねえ、どこ見てんの?」
彩紀は咳払いをして誤魔化した。好色は仙人の因子を持つ者の宿命であるが、行き過ぎると痛い目に遭う。実際、ハニートラップに引っかかって死にかけた経験が二度あった。
「どこも見ていないから安心しろ。俺は変態の類ではない」
「嘘くさい。変態の類はみんなそう云うのよ」
「一億歩譲って変態だったとしてもお前に危害を加えることはない。何故なら恩義を感じているからだ」
「恩義……?」
「封印は内部からでは解けない。外部の人間が祈りを捧げることによって解かれる。俺はお前のおかげで千年ぶりに娑婆の空気を吸うことができたんだ」
「だから何なのよ。この世には恩を仇で返すようなやつがごまんといるわ」
「少なくとも仇で返すつもりはないよ。先ほど傷の手当てをしたのが証拠にならないか?」
少女が言葉をつまらせた。彼女の顔色はすっかり良くなっている。あれだけの傷を小一時間で治しきるなど千年前なら到底不可能だっただろうが、現代はOLI因子が充満する精神力の世界なのだ。〝医薬の神たる炎帝神農が治療を施した〟、ただそれだけの事実で恢復が速まるのだろう――と、彩紀は仮説を立てている。
「……私を油断させてから襲うつもりなんでしょ」
「そう思うのなら逃げればいい。なぜ俺の隣に座っている?」
「それは……、一応、助けてもらったから……」
「俺もお前に助けられた身だ。封印を解いてくれた恩は返さなければならん――だから聞かせろ。あの天颶は何者だ。なぜお前が攻撃されていたんだ」
「知らない」
「何か悩みごとはないか? 俺にできることならば何でも協力しよう」
「必要ない」
「ところで目元が腫れているぞ。もしかして泣いていたのか?」
「――ッ、うるさいっ! 私の前から消えろっ! 《浮塊から落ちて死ねっ!》」
「そういうわけには――」いかない、と反論しようとしたところで異変が起きた。彼女のほうから霊氣が流れ込んできたかと思ったら、いつの間にか立ち上がってその場を去ろうとしている自分に気づく。身体が勝手に動いている。まったく制御がきかなかった。
「おい。まさかお前……」
「まだ何か用があるの? さっさとどっかに――って何してるのよ!?」
「いや、自分でも何が何だかわからん」
彩紀の足はひとりでに崖のほうへと向かっていた。まるで身体を何者かに操られているような具合。少女が慌てた様子で飛びついてきた。
「なに本気にしてるの!? 『死ね』は云いすぎだったわよ、ごめんね! でも死ねって云われて本当に死ぬやつがあるかっ!」
「ふむ、どうやら何かの煉術にかかっているらしいな。それもかなり強力だ」
「分析してる場合じゃないでしょ! このまま落ちたら私が殺したみたいじゃない!」
「別にそんなことは……あっ」少女の豊かな胸が背中に押しつけられた。なんだこれは。こんな物体がこの世に存在していいのか。ああ至福、このまま死んでも悔いはない――一瞬そう思ったが流石に莫迦すぎる気がしたので打開策を練る。そうして瞬時に閃いた。
「妖獣の娘よ。言葉に霊氣を乗せて《止まれ》と云ってみてくれ」
「はあ? そんなことして何の意味があるの!?」
「いいから」
「わかったわよ――《止まれっ!》」
ぴたり。彩紀の歩みが止まった。背後で少女がぷるぷると震えた。怒りの気配を感じた。
「……ねえ、私のこと莫迦にしてるの?」
「していない」彩紀は途方もない絶望を感じながら首を振った。「お前はただの狐ではないらしい。どうやら二つ目のOLI因子を持っている。対象を特定の条件下で服従させる能力、これはおそらく調伏の類だ。可能性としては陰陽師とか巫女の因子が考えられるが……」
少女の身体がびくりとした。何らかの心当たりがあるのかもしれない。
「この束縛力の高さから深層因子の可能性もあるな。まあ、とにかく俺とお前の間で契約が成立してしまった。お前がご主人様で、俺が式神。平たく云えば奴隷だ」
「奴隷って……そんなことが、ありえるの?」
「現にそうなっている。――ところでいつまで抱き着いている気だ? 俺は大歓迎だが」
少女は弾かれたように彩紀から距離を取った。背中の温もりが消える。
「話を戻そう。確認したければもう一度命令をすればいいのだ。言葉に霊氣を込めて、たとえば《全裸になれ》と云ってみたまえ。俺は何の躊躇もなく服を脱ぐはずだ」
「そんな命令してたまるか」
「同感だな」彩紀は神妙に頷いた。「この契約、解除できないのか?」
「知らないわよ……」
少女は途方に暮れたように俯いてしまった。彩紀としても内心溜息を禁じ得ない。そりゃあ封印を解いてくれた者にはそれなりに報いるつもりでいたが、奴隷になって奉仕までするつもりは毛頭なかった。調伏が発動するトリガーは何だったのだろう。力関係からして彼女よりも彩紀のほうが上位であるし、そう易々と術をかけることはできないはずなのに。
(……それはともかく)
不思議な気分だった。少女の瞳からは、千年前には失われてしまった純粋な優しさが溢れている。彼女になら従ってもいいような気がしてくるのはなぜだろう。仙人とは付和雷同を是とする存在、こういう不慮の事故を楽しむのも悪くはないのかもしれないが――
そのとき、少女がハッと何かに気づいたように顔をあげた。
煉氣である。彩紀から溢れるエネルギーが、主従の霊脈を通じて彼女に流れ込んだのだ。
「……因子云々はよくわからないけど、」少女は服の裾を握りしめながら呟いた。「でも、奴隷のことに関しては、嘘じゃないってわかったわ」
「なぜわかるんだ?」
「においが……」
「ニオイ?」
「ううん、なんでもない。なんとなく、よ」少女は戸惑いながら言葉を続けた。「……あんたって、本当に彭寿星様なの?」
「ああ。ところでお前はどちら様だ」
「熾天寺かがり」
「ではかがり。主従契約の問題は後で考えるとして、まずは先ほどから浮かない顔をしている理由を聞かせろ」
え? とかがりは顔を上げた。
「まるでこの世の終わりみたいな顔をしている。せっかくの美人が台無しだぞ」
「びッ、」かがりは途端に頬を赤くしてそっぽを向いてしまった。彩紀はそんな彼女の様子を見て思惟する。天颶に襲われていたことや、着の身着のまま飛び出してきたような恰好、見え透いた世辞にも動揺を隠せない未熟な精神性――かなりの訳ありと見た。
「その様子だと、他に解決の当てはないんだろう? 差し支えなければ話してくれないか。恩返しをする必要もあるし、ご主人様が辛気臭い顔をしていると、こっちの気分まで滅入ってくる。ほら、またあの岩に座って話そうじゃないか」
かがりはちらちらと彩紀のほうを見ていたが、一度だけ大きな溜息を吐くと、ふてくされたように歩き出すのだった。
かがりは訥々と事情を語った。
神社の娘として生まれたこと。その神社から追放され、島の人々から疎まれていること。家を焼かれ、死ぬ思いで逃げてきたこと。もう帰る場所もなく、行く場所もないこと。
最後のほうは嗚咽混じりでほとんど言葉になっていなかったが、大方は理解できた。
確かに悲惨な境遇である。かがりのような年端もいかぬ少女には過酷すぎる運命だ。事情もよく知らない他人が軽はずみに口を挿んでいい問題ではないのかもしれない。しかし――
「――わかった。俺が何とかしてやろう」
かがりはごしごしと涙をぬぐうと、眦を吊り上げて彩紀を睨んだ。
「簡単に云わないでよ! あんたみたいな意味わかんない変態に何とかできちゃうんなら、最初っから苦労なんてしてないわ!」
「俺は変態ではない」
「じゃあなんで裸だったの!」
「仙界では全裸で過ごしていたから……」
「やっぱり変態じゃない!」
彩紀はやれやれと肩を竦めた。
「聞けかがり。俺には状況を打開する方法がある」
「……一応聞くわ」
「二人で天颶どもを追い払えばいい」
かがりは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「話を聞くに、天颶さえいなくなれば榮凛島の人々は平和に暮らすことができるはずだ。お前に対する風当たりもいくぶん和らぐだろう」
「無理よ……天颶はすっごく強いのよ。特に首魁の昏武京八ってやつは段違いで……、」
「俺を誰だと思っている。聖仙・彭寿星だぞ」
彩紀は右手を広げてかがりの目の前にかざした。そこには五彩の覇者であることを示す紋様――〝
しかしかがりはピンと来ていない様子だった。
「これ、何なの?」
「
「ちょっと待って。何云ってるのか全然わからない……」
「ようするに、俺が天颶に後れを取ることはないってことだ。信じてくれるか?」
「た、確かに……さっき天颶を簡単にやっつけちゃったけど……」
かがりは疑わしげな目で〝五彩の導〟を眺めた。そして急に何かに気づいたように目を丸くする。おそらく五彩から溢れ出る彩氣の片影を感じ取ったのだろう。妖獣の因子を持つ者は煉氣の微妙な流れに敏感なのだ。彩紀を見上げるかがりの瞳に光がともった。まだ疑わしいけれど、もしかしたらこいつは本当にすごいのかもしれない――そういう期待の色が見える。
「……どうして、そこまで私に構ってくれるの?」
「云っただろう。恩返しをする必要があると。――それともう一つ、お前と親交を深めることによってこの時代・世界に関する情報を引き出そうという打算もある」
口には出さないが理由はもう一つあった。すなわち「熾天寺かがりが可愛いから」。
視線が交錯する。澄んだ橙色の瞳。
しばらく見つめ合っていると、かがりは突然首を振って変な声を出した。
「あーっ! もう! どうしちゃったんだろ、私……」
「厠か? あっち向いているから遠慮せずに」
「違うわよ!」拳が顔面にめり込んだ。威勢の良い小娘である。かがりは炎のような勢いでまくし立てた。「あんたみたいな不審者に期待している自分が嫌になってきたの! でも今は猫の手も借りたい状況だし、このままぼーっとしてても死ぬだけだし! だからあんたに賭けてみようかな、なんて血迷っている自分がいるのっ! それが腹立つのっ!」
「一時の怒りなど我慢しろ。天颶を倒せるんだぞ」
「ぐ、ぬぬ――わかったわよ!」ばーん! と岩の上に立ち上がり、「そこまで云うんだったらやってやろうじゃない。あんたと協力して天颶をぼこぼこにしてやるわ!」
彩紀はふと笑みをこぼした。この少女は彩紀が思っていた以上に気丈なようである。
「承知した。俺はこれでも公僕だったからな、不法行為を働く輩は黙って見過ごすわけにもいかんのだ。千年後の世界の視察も兼ねて、不肖神津彩紀、天颶退治に助力いたそう」
