集合文化意識はOLI因子の集積体である。そしてOLI因子とは特定の〝歴史的遺物〟を表象する世界構築因子のことだ。人間や物質と融合することで、その因子が持つ遺物の特徴や思想をそのまま世界に顕現させる能力を持つ。こうして寇魔だの仙人だのが生まれる。
さらに、OLI因子は自らの宿主に〝煉氣〟と呼ばれる世界改変エネルギーを与える。天下の人妖は、この煉氣を用いて非科学的な術を行使するのだ。
煉氣には以下の六種類がある。
『霊氣』――霊術のもと。一般的な人間が持つ精神の根源。
『妖氣』――妖術のもと。寇魔を寇魔たらしめる生命力そのもの。
『神氣』――神術のもと。信仰や崇拝によって増幅する世界変革の基礎。
『仙氣』――仙術のもと。天下の法則を無視する仙人の力。
『鏖氣』――鏖術のもと。何かを犠牲にすることで膨張する悪意の塊。
『彩氣』――彩術のもと。彩皇だけに与えられる特別な恩寵。
これらの煉氣を消費して行使される六種類の煉術に本質的な差異はあまりない。が、やはり得意分野というものは存在していて、たとえば霊術が結界や清祓といった呪いの分野を専門とするのに対し、妖術は自然の純粋な力で他者を攻撃することに長じる。
では、仙人が仙氣を用いて行使する仙術の特徴とは如何なるものなのか。
「……ほ、本当に見えてないの?」
おっかなびっくりかがりは問う。問われた彩紀は得意げに笑って答えた。
「無論。仙術の得意分野は〝世界の理から浮くこと〟だ。さすがに生死の道理から浮くのは骨が折れるが、〝明るい場所ではよく見える〟程度の法則で俺を縛ることはできない」
「そんな出鱈目な……」
まったくもって胃が潰れるような話である。
現在、かがりと彩紀は桜泉里のど真ん中に突っ立っていた。手をつなぎながら。
彩紀曰く、「とりえあず村の現況を視察しよう」とのこと。
天颶祭を控えた村人たちは往来を忙しなく行き交って準備に励んでいる。天颶を祭るための祭壇、天颶を讃えるための山車、天颶を楽しませるための余興が演じられる舞台――しかし村人たちの顔は一向に晴れない。当然である、何人殺されるのかもわからないのだから。
彩紀とかがりは蔵の横の石垣の上に座って村の風景を眺めていた。手をつなぎながら。
不意に目の前を村人が横切り、思わずびくりとしてしまう。しかし相手はこちらに目もくれなかった。人間たちは彩紀のへんてこな術によって、かがりのことを認識できないようにされているのだ。だから二人は堂々と村を出歩けるのである。手をつなぎながら。
まったくもって胃が潰れるような話である。
「ねえ。理から浮くって、他にどんなことができるの?」
つながれた手をちらちら見下ろしながらかがりは聞いた。彩紀の手は温かかった。年の近い異性――しかも明け透けに悪意を向けてこない自然体な男――と触れ合うのは初めてだったので緊張して仕方がなかった。まずい。手が汗で湿ってくる。
「基本的になんでもできるが、先ほども云ったように死を克服するのは難しい。せいぜい寿命を無くすのが関の山だ。それと術の対象を自分以外に設定するのも難しい。たとえば『物は下に落ちる』という理を否定したとしても、俺自身は宙に浮くことができるが、周囲にある小石や枝を浮かせることはできない。これはおそらく儒家による『道家は己の長生に固執するあまり経世済民の術を顧みない』という批判がOLI因子に反映されているからであり」
「ごめん全然わかんない。……けど、自分以外に使えないんだったら、どうして私は村の人たちに見えてないの?」
「俺と接触していれば術の対象にできる。だからこうして手をつないでいるのだ」
ぎゅっと強く握られた。きゅんっと胸が弾んだ。
……莫迦が。しっかりしろ熾天寺かがり。こいつも裏では「狐なんて煮て食ってやるぜ」みたいに思っているかもしれないんだぞ。心を許すな、気を確かにしろ……!
「ふ、ふーん。でも、それって万能すぎない?」
「そうでもない。かつて俺は『神津彩紀に恋人ができない理』をぶち壊そうとしたんだが、不覚にも失敗してしまった」
「なんで」
「仙術は自明の理にしか効かない。可能性が一厘でもある事柄には通用しないのだ。つまり俺には恋人ができる可能性がある」
「今までいたことあるの?」
「ない」
どうでもいい情報だった。……本当に。
「まあ煉術の効果範囲なんてもんは基本的に曖昧模糊としている。OLI因子が引き起こす事象だからな、人の精神力でいかようにも制限を取り払えるのだ」
まったく意味がわからない。かがりは眉をひそめて彩紀の顔を仰ぎ見る。
「その仙術を使って、天颶を倒すの?」
「そうなるな。だが、かがりにも戦ってもらう必要があるぜ。むしろ主役はお前だ」
「当たり前よ! 私は意気地なしどもとは違うのよ」
「頼もしいな。参考までに聞くがお前はどんなふうに戦うんだ?」
「ちょっとした妖術が使えるわ。小火を起こす術よ。あと剣術も練習してる。炎熱熾天流っていって、命融神社の巫女に受け継がれてるものなんだけど……」
そのとき、「ぐぅ」とお腹が鳴った。鳴ってしまった。彩紀が笑った。
「お腹が空いたら戦えないな」
「ッ……、し、仕方ないじゃない! 昨日から何も食べていないのよ!」
羞恥で顔に熱がのぼった。村のそこここでは飯炊きの煙が立ち上がっており、獣の敏感な嗅覚が穀物の煮える良いにおいを嗅ぎとっていた。羨ましいな、とかがりは思う。
「朝餉というには粗末だが、こんなものはどうだ?」
そう云って彩紀は【召喚】の煉術を発動させた。異界から物質を取り寄せる術である。
ほどなくして彼の手に収まったのは黒く小さな箱。彼はその箱のふたを開けてかがりのほうに差し出してくる。
「一応説明しておくが、俺は仙界の一部を倉庫として使うことができる。この空間はとある仕組みによって集合文化意識の修正を受けることがない。さらに時間の流れが存在しないから腐ったり劣化したりする心配もない。だから食べても問題はない。――ちなみにこれは千年前のバレンタインの日に自分で買ったチョコレートだ。消える前に食べてくれ」
箱の中はしきりで八つに区切られており、それぞれの小部屋には黒々とした物体が鎮座していた。明らかに食べ物ではない。木炭とかそういう類に思えてならない。見かねた彩紀が一つを摘まんで口の中に放り込んだ。毒ではないようである。びびっていると思われたくなかったので、意を決して〝ちょこれーと〟を口に運んだ。予想通りに固いそれを奥歯で砕き、舌の上で転がす。そうしてかがりは両目を見開いた。
「なにこれ、あまーい!」
「そうだろう。美味しいだろう」
「うん、おいしい……」そこでかがりはふと気づく。こんなやつの前で緩みきったツラをさらすのは本意ではない。腹筋に力を入れて元々のキリッとした表情を取り戻し、「――ま、まあ悪くはないわね! 千年前の食べ物もなかなかね!」
本人の意思とは関係なく金色の尻尾が揺れていることに、かがりは気づかない。
「それはよかった。――ところで、天颶はいつ頃来るのかね」
「さあ。夜じゃない? 寇魔は夜行性が多いって聞くから」
かがりは箱を膝の上に抱えながら二つ目のチョコレートを頬張る。榮凛島では
「なるほどな。時間に余裕はあるということか――お、ちょうどいいところに偉そうな人間どもがいるぞ。ちょっと話してこよう」
「え……?」彩紀が急に立ち上がった。ずっとつないでいた手がするりと離れる。かがりはドキリとして叫び声をあげた。「ま、待って!」
箱を石垣の上に置くと慌てて彼に追いすがり、飛び込むようにして彼の腕にしがみついた。なりふり構っていられない、彩紀から離れれば見つかってしまうのだから。実際、かがりの声に反応した老爺が不思議そうな顔をしてこちらを振り返っていた。
「動くなら動くって云ってよ! びっくりしたじゃない!」
「すまん。だがこれはチャンスだぜ。……見ろ、あれは命融神社の神職じゃないか?」
かがりは彩紀の背中から顔を出し、遠くの祭壇のほうに視線を向ける。宗教じみた服装をした男たちが数人、村の重役たちと会話をしながら村長宅へと入っていくのが見えた。
「……ふむ、榮凛島の権力構造がよくわからんな。村長と命融神社はどっちが上なんだ?」
「そりゃあ神社でしょ。榮凛島には四つの村があるから村長は四人いるけど、神社の巫女は一人しかいないもの。巫女のすぐ下に禰宜っていうのが二人いるけど、たぶんそいつらが村長と同格なんじゃないかな」
「あそこにいた神職は禰宜なのか?」
「そうよ。……私を神社から追い出した、右禰宜」
「……うなぎ?」
「右禰宜よ。禰宜は左右一人ずついるの。左禰宜は私にも色々と便宜を図ってくれる穏健派なんだけど、右禰宜は寇魔を絶対に許さない保守派の筆頭」
「そうか。ならば都合がいい」
「え……? まさか、あいつらと話すつもりなの!?」
「もちろん」彩紀はかがりの手を引きながら頷いた。「天颶の情報を知りたければ有識者に聞くのが手っ取り早い。それに、榮凛島を救うためとはいえ騒乱を起こすことになるのだ。色々と迷惑をかけるだろうし、挨拶はしておくべきだと思わないか?」
「やめてよ! 殺されるに決まってるわ!」
彩紀は「ふっ」と気取ったように笑った。ぶん殴りたくなった。
「かがりよ。榮凛島で尊崇されている者の名を云ってみよ」
「熾天の巫女でしょ。私の妹の……」
「彭寿星はどうした」
そういえばそうだった。かの聖仙を祀る祠は榮凛島にいくつも存在している。
「お前は信じていないようだが俺は彭寿星その人なのだ。己が信仰している神が目の前に現れたら人はどうすると思う? 十中八九平伏して崇め奉るだろうよ」
「だから、殺される心配はないってこと……?」
「ああ。【透過】の術は解除するが、何も心配はいらない。ここは一つ、榮凛島の守護神として人間たちに啓示を与えてやろうではないか」
「彭寿星だと? ふざけるな! この罰当たりな表六玉を即刻叩き出せ!」
村長宅に無断で侵入して「彭寿星です」と告げた瞬間に怒鳴り散らされた。かがりは彩紀の背中に隠れて縮こまる。――だから云ったのだ、絶対に殺されるって。
無駄に広い居間には榮凛島の有力者たちが居並んでいる。先ほど肩を怒らせ大声をあげたのは桜泉里の村長だ。その隣に
「おい待て。話も聞かずに追い返すのは狭量ではないか」
「無断で侵入してきた輩が何を云うか! しかも彭寿星の名を騙るなど――」
「まあまあ弥三郎殿。何か訳ありのようですよ」
宥めるように声をあげたのは袴姿の男である。命融神社の右禰宜、名を南条という。例によって柔和な笑みを作っているが、騙されてはいけない、こいつはかがりに巫女殺しの濡れ衣を着せて野に放逐した張本人なのである。
「彭寿星さんですか。見かけない顔ですけれど、もしや天颶に攫われて下界からやってきたのでしょうか?」
「もとから榮凛島にいたよ。あんたらが生まれる何百年も前からだ。――いや、俺たちはそんな話をしに来たんじゃないんだ」
「俺たち……?」南条は怪訝そうに首を伸ばした。そうして彩紀の背後に隠れている狐少女の姿を見て取るや、一瞬驚いたような顔を見せた後、すぐさまニヤリと無気味に口端を吊り上げて目を細めるのだった。「――これはこれは! 熾天寺かがり様ではありませぬか!」
場がどよめいた。かがりは彩紀の服をぎゅっとつまむ。
「ご無事そうで何よりです。家が火事になったと聞いたときは心配で心配で胸が張り裂けそうな思いでしたが、こうして五体満足でいらっしゃるのを見るに、間一髪逃げ出せたご様子ですね。いやあよかったよかった。熾天の子に何かあったら大変ですからねえ」
皮肉にしか聞こえなかった。かがりを〝熾天の子〟の地位から引きずり下ろしたのは他ならぬこの男であろうに。
部屋の人間どもが血相を変えて立ち上がった。当たり前のことだった。村に災厄をもたらす寇魔を目の前にして暢気に茶を啜っていられるほうがおかしい。
「熾天寺かがり、何故貴様がここにいる! 我々を嘲笑いに来たのか……!」
「ち、違う。私は……」
「こいつは天颶を退治しに来たのだよ」
ぽん、と肩に手を置かれて心臓が飛び出そうになった。全員の視線が一点に集中する。かがりも恐る恐る上を見る。道服の奇人はしたり顔で人間どもを見つめていた。
「熾天の子の役目は天下に光をもたらすことだ。これからこの狐娘が榮凛島を包んでいる暗雲を振り払ってくれるそうだぜ」
「ちょっと、あんた……!」
南条がふっと吐息を漏らした。それは明らかに嘲りを含んだ笑いだった。
「何を云うかと思えば。だいたい貴方は何者なのです? 熾天寺かがりがどんな人間か――いえ寇魔なのか、ご存知ないのですか? その娘は村に災いをもたらす化け狐なのですよ」
「莫迦じゃねえのか?」
南条が顔を引きつらせた。
「天颶が暴れるのは天颶自身が暴れたいからだ。かがりを迫害したって何も解決しない。天颶を倒さなければこの島に平和が訪れることなどありえん」
「……寇魔は寇魔を呼ぶと古文書にも書いてあります。その娘がいるから我々は甚だしい苦しみを背負うことになっている」
「そうだそうだ!」――村長どもが南条に追随した。かがりは身を固くしてじっと耐える。人から嫌われることには慣れている、こんなのはいつものことだ、だから無視してやればいいんだ――そう思って逃げ出そうとしたかがりの肩を、彩紀はぎゅっと掴んで止めた。
彼は無表情だった。しかしかがりにはわかった。微かに、怒りのにおいがするのだ。
「ところで神職よ。お前の名前はなんだ」
南条の眉がぴくりと動く。口元は綻んでいるが目は笑っていない。
「南条星継。命融神社の右禰宜にして巫女様の側近でございます。貴方は」
「神津彩紀。彭寿星と云ったほうがわかりやすいか?」
「……彭寿星は断じて貴方のような瘋癲ではない」
「史書に曰く彭寿星は今年復活するんだろう? ほぅら、復活しているぞ」
「ふざけたことを。榮凛島の守り神を侮辱するか」
南条の瞳が殺気を帯びた。彩紀は「すまんすまん」と悪びれた様子もなく云った。
「だがふざけているのはお前らのほうだ。――見ろ、この狐耳を。狐の尻尾を。こんなに愛らしい姿をした少女を化け物だの寇魔だの、感性が死んでいるとしか思えんぞ」
「あ、愛らしいって……莫迦じゃないの……本当に莫迦……」
思わず俯く。頬が熱くなる。こいつは何を云っているのだろう。
「まあ安心したまえ。お前らの腐った感性は俺が矯正してやる。すなわち熾天寺かがりの素晴らしさを思い知らせてやるのだ。――そのために、一つ取り引きをしようではないか」
「やかましいわ不審者めが! この場から出て行けッ!」
桜泉里村長が足音を響かせながら近づいてくる。しかし南条がその肩を掴んで引きとめた。
「南条殿……! 放してくだされ、そやつの鼻っ面をへし折らねば気が済みませぬ!」
「落ち着いてください弥三郎殿。――神津彩紀とか云いましたか」敵意のこもった視線が彩紀に向けられた。「彭寿星を騙ったうえに化け狐を村に連れてくるなど目に余る所業です。これは熾天の巫女の裁きを受けねばならぬほどの大罪ですよ。――そうまでして、貴方は我々に何を伝えたいのです?」
「熾天寺かがりの待遇改善を要求する」
滅茶苦茶だ。何もかも。人間たちの気持ちはよくわかる、いきなり奇妙な恰好をした不審者が、しかも忌み嫌われている化け狐を連れてきて「天颶を倒してやろう!」などと云ったところで彼らにとっては冗談どころか挑発、愚弄にしか聞こえないだろう。
だからもうやめてよ。十分だから――そんな感じで切に願っていたのに、この変態仙人はかがりの心を丸きり無視して爆弾発言を炸裂させるのであった。
「――そのかわり、この娘自身が天颶どもを一匹残らず退治しよう。そうすれば、もうこいつを〝村に災厄をもたらす化け狐〟呼ばわりはできないだろう?」
論理的には正しいと思う。しかし急すぎて心の準備ができていない。
「本気ですか」
「本気だ。――なあ、かがり」
かがりはしばし固まった。同意を求められても困る。困るのだが――周囲の人間の表情を見ているうちに反骨精神が鎌首をもたげた。どいつもこいつも悪意に満ちた表情、しかしその表情の奥には呆れのような感情も見え隠れしていた。「何を云ってるんだ」「天颶退治なんて無理に決まってる」「化け狐ごときが」――
そんなことだから。そんなふうに心を腐らせているから、天颶どもが増長するのだ。
もはや我慢はできなかった。気づけばかがりは拳を振り上げて宣言していた。
「――当たり前でしょ! 天颶なんて、この私がぎったんぎったんにしてやるわ!」
