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吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第二章

   第二章

 考えろ。
 考えるんだ。
 まるで樹海のように濃密な闇。これが意味するところは何だ? あれが何なのか整理をつけられない事には、長い長い非常階段を使って地上に向かうのも躊躇われるぞ。
 一つ、スカイツールだけじゃなくて、よっぽど広範囲が大停電に見舞われている。
 二つ、地上の人々は自発的に電気を切った。この展望台にいたであろう人達と同じく、どこか安全な場所へ避難するため。
 三つ。
「……、」
 すでにここまででも不穏な匂いがビシバシ漂っているのに、まだこれ以上の可能性があるって考えるか。
 ああ。
 でも、脳裏によぎってしまった以上は、どんなに馬鹿げた仮定の話とはいえ並べておくしかないよなあ。

 三つ。
 すでに東京の街には生きている人など誰もいない。外では僕達の想像を超える『何か』が起きていた。


「……冗談じゃないぞ……」
 エレベーターの中に閉じ込められて一時間以上外の様子がまるで分からなかった僕達。これだけ真っ暗な……そう、信号機も病院も電波塔もくまなく電気が落ちているなんて、外は明らかに普通じゃない。これは、こんな、ここまで徹底するなんて、ただ大嵐で送電線が千切れたなんていう次元の話じゃ説明がつかないぞ!? だって、予備電源の話はもちろん、道路に車が走っていれば街の停電なんて関係なくヘッドライトやテールランプの列はできるはずなんだ。ちょっと強力な懐中電灯を振れば光点くらいは見えるだろう。なのにそれすらないなんて!!
 とりあえず一〇〇円玉を入れて使う、台座に固定された双眼鏡みたいなので地上の様子を確認しようとしたものの……、
「ダメか……っ」
 どうやら電気がなくてもお金をカウントしてくれる機材みたいなんだけど、元から強化ガラスに当たる横殴りの雨のせいで視界はぐちゃぐちゃだし、この濃密な闇。分かるものなんか何もなかった。
 ただ。
 やっぱり、おかしい。
 一体何なんだこのガラス一面を塗り潰したような暗闇は。電気が落ちたから真っ暗になったってよりも、誰かが意図的に電気か、それを使う人間を片っ端から排除しているとしか思えない。
 範囲の外へ逃がしたのか、中で殺したのか。
 消失マジックの本質がどこにあるかは、まだ見えてこないけど。
 ぶわり、と。
 強化ガラスの向こうで乱舞する大雨のカーテンが不自然に膨らんだのはその時だった。
「危ないっ!!」
 姉さんが叫んで僕とアユミを突き飛ばして覆い被さってきた途端、一面の強化ガラスが一斉に砕け、透明な刃物の嵐が真横に空間を薙いで襲いかかってきた。さらに凄まじい雨風が吹き込んでくる。ううう! 棒立ちなら今ので即死だった。というか、怖いのはガラスだけじゃない。姉さんが上からのしかかってこなかったら暴風に翻弄されて外へ引きずり出されていたかも……!!
「ひとまず離れますよ。屋内を暴れる風がどういう風に吹き抜けていくか予測がつきませんっ」
「アユミ、今ので結構濡れたけどゾンビの体は大丈夫か? 防腐剤の方とか……」
「これくらいで腐敗が進行するほどヤワじゃない。それよりお兄ちゃんこそ。変に床へ手をついて割れたガラスでざっくり、なんてのはやめてよね!」
 姉さんとアユミに引っ張られる形で、細かいガラスと雨粒がミックスされた床の上をじゃりじゃりと進む。僕も僕でできる事を探すしかない。
「とっ、とにかくマクスウェルだ。ネットを回復してあいつとコンタクトさえ取れれば、少なくとも外で何が起きているか『正解』くらいは分かるはず……」
 ずぶ濡れで白いタンクトップやショートパンツを肌に張りつかせたアユミはわたわたと両手を振って、
「ふ、ふぐう? ちゃんと説明してよお兄ちゃん!」
「そっ、それかどこかのテレビ。何チャンでもいい、とにかく何でも良いから民放のコマーシャル! 地震の時だって台風の時だってCMの間は絶対テロップ被せたりしないんだ、あれ打ち切ってぶっ通しで臨時放送垂れ流しているようならもうこの国は終わりだぞッ!!」
「せーつーめーいーっ!!」
 人が親切心で隠しておこうと思ったのにこいつときたら。
 全員ずぶ濡れのまま、ひとまず砕けた窓辺を離れて一息つく。案の定、あくまで憶測だけどっていう前フリも忘れてどんどんバカの顔が真っ青になっていくし!?
「あっ、あわ、あわわわわわわ!!」
「待てアユミ、だから言ったろ根拠なんか何もない! マクスウェルに連絡して、ただの杞憂です大馬鹿野郎って言ってもらえばそれで済む話なんだ!!」
 ……もう平和主義な僕だってそんな簡単な事態とは思ってないけど、ここでパニックが伝染して収拾がつかなくなるなんて展開は絶対に嫌だ。助かるものも助からなくなる。
 あからさまな怪物がいれば、まだ感情をぶつける先があったかもしれない。それによって逃げるなり戦うなり、目的意識を持って自我を保てたかもしれない。
 でも、これは違う。
 こんなに大きな、国の首都と言われる街から、漠然と人の痕跡が消える薄気味悪さ。明らかに何かが起きているはずなのに、その何かが分からなくて置いてきぼりを喰らう感じ。遅れれば遅れるほどキツいペナルティを山積みされるだろうっていう、具体的な輪郭の掴めない恐怖に延々とまとわりつかれていく粘つく不快な感覚は、そう、特大のストーカー被害をそのまま放置しておくのに近いかもしれない。
 欲しいのは何だ。
 確実、絶対、正確、間違いのない情報。適当な断片を妄想でツギハギしたような憶測じゃなくて、この暗闇を拭い去ってくれるシンプルな答えに決まってる。
 今、外で何が起きているか。
 スマートフォンに目をやる。だったら外にいる人から直接聞くのが早い。今は圏外だけど、何としても回線を復旧させてマクスウェルと繋がらないと……!
「でもサトリ君、具体的にどうするんです? ええと、私の方も携帯電話は圏外のままですし、これって街全体の電気が落とされているせいで地上の基地局が使い物にならなくなっているからでは?」
「ふ、ふぐう?」
「ややこしくなるから一個一個処理していこう」
 アユミがパニックへ雪崩れ込むのを止めない事には状況が安定しない。ここは妹と速度を合わせてみるか。
「まず携帯電話やスマホはこれだけで通信できる訳じゃない。地上の機器が電波を受け取って、光ファイバーなんかで大きな基地局を経由して、相手の近くにある地上機器から最終的に家の電話やモバイルへ繋げていく」
「ふぐ。ケータイが無線機じゃない事くらいは分かってるよ。だから本体のバッテリーとは別に、街が停電すると使えなくなるんでしょ」
「なら次。ここは東京スカイツールの一般展望台だ。高さはざっと地上四五〇メートル。東京ならどこにだってお弁当箱みたいな地上機器で溢れ返っているだろうけど、機材ごとのサポート範囲は半径一〇〇メートルもない。こんなに高い場所までそうした電波は届かないんだよ。……つまり、停電してようがしてまいが、この展望台は本来ケータイが使える状況じゃないんだ」
「え? 国内最大の電波塔なのにケータイのアンテナ立ってないの?」
 一部の機器のサポートはしているみたいだけど、まずは基本からだな。
「だからこの展望台にお弁当箱みたいな地上機器を直接置いてるんだと思う。光ファイバーで地べたから展望台まで縦一直線に繋いでさ。そうすれば高所に取り残されたこの死角でも快適にネットを使えるはずなんだよ」
 景観を楽しむ観光地なんかじゃこうした機器は人の目に触れないよう配慮されている事も多い。だけど、そうだな。
「ひとまずレストランに行ってみよう。席の予約、従業員のタイムカード管理、食材の仕入れ状況、収支計算、レジのクレジット決済、場合によってはウェイターが客からの注文を厨房に伝えるのだって。飲食関係は何かとネットに頼るはずだ」
 ガラスをやられたのは一面だけか。ただ、中心を貫く塔の周りを裏まで回っても暴風は収まらないし、わずかだけど頬に雨粒がぶつかる感触もある。一方から入った風がドーナツ状の展望台を走り回り、また元来た出入り口で風同士ぶつかり合っているんだ。
 スマホのライトを頼りにギギギと軋む真っ暗な展望台を歩いてみれば……やっぱり。いくら小洒落たレストランでも、レジ周りはカード読み取り機や液晶モニター、キーボードなんかが結構剥き出しのまま放り出されている。
 うん、無線ルーターもあるな。配線が鳥の巣状態にならないから便利なのは分かるけど、こういうクレジット関係の情報を電波でやり取りするのもどうかと思う。まあ今は助かった。
「ふぐ。でもやっぱりみんな死んでるね。ランプが点いてるのなんか一個もないよ、街全体が停電してるなら意味なくない?」
「さてどうかな」
 ……大事なのはここからだ。
「確かに展望台から地上の様子を見た限り明かりはなさそうだ。この電波塔も含めて真っ暗闇。……だけどこれは事故や災害じゃない、明らかに人の手が加わって徹底されているものだ」
「だから? わざとだろうが何だろうが、結局電気は落ちてるじゃない」
「その前提が間違っているとは思わないのか。人の手でやってるなら、『そう見える』ようにしているだけかもしれないじゃないか」
 そう。
 実際、技術的な話だけなら今の状況って作れるんだよな。
「大きな災害が起きた時は一般の電話やネットをわざと止めて、警察消防その他諸々の通信を優先させる仕組みがある。電力だって同じ。どうしても不足した場合は、普通の繁華街や住宅街はカットして病院なんかに回す事もできるはずだ。やろうと思えば、街の電気を全部切ってよその管区に電気を売る事もできるんだよ。技術だけならね」
 実際に地上で何が起きているかはまだ分からないけど、人の手が加わっているとしたらその目的はきっと自由を奪う事だ。電気を止め、ネットを断ち切って、毛皮も牙もない裸のサルに戻った人達を安全のため外へ逃がすか、あるいは襲う側として直接攻撃を加えていったか。
「……これが送電線や変電所の故障じゃなくて、スイッチのオンオフで切っているとしたら、どこかに抜け穴がある」
大停電を起こして有利な状況を作りたい何者かからすれば、自分だけ電気が使える、ネットを利用できる、そんな条件をキープしておきたいはずだ。
「それこそ災害時は警察消防の通信が優先されるのと同じ。データやパケットに専用のカギをつけて、使える者と使えない者を明確に線引きしておきたいはずなんだ」
 つまり、電気は流れていない訳じゃない。電波は飛んでいない訳じゃない。
 今も首都東京は電波と光ファイバーで覆い尽くされているけど、ロックがかかっていてみんな弾かれてしまう、って方が正しいんだ。
「なら僕達がマクスウェルと繋がるためには何が必要か。答えは簡単さ、『災害時の警察消防』と同じように、特別な抜け穴を見つければ良い。それは必ずどこかに空いているはずなんだ」
「けどサトリ君、それが具体的に何なのか分かっています? 今はマクスウェルのサポートは受けられないんですよ」
 まあ確かに。あの災害環境シミュレータがなければ僕は普通の高校生だ。自分一人でハッキングや金庫破りなんかができる訳でもない。
 ただし、そんな高校生でも分かる事がある。
「避難誘導にしても直接襲撃にしても、そいつはこの大嵐で辟易しているはずだ。何で今日なんだ、って」
「ああ、なるほど……」
「当初の予定にあったかは知らない。だけどこの大停電に乗じて何かしようとしてるヤツは、必ず嵐に関する情報をリアルタイムで追い駆けているはずだ。だって今ここで洪水なんかに巻き込まれたって、『普通の仕組み』は働いていないんだ。何かが起きても真っ当な警察や消防は助けてくれない。真っ暗闇の暴風雨の中、どこの川が氾濫してどんな道が冠水してるかも分からず街を行き来するなんて命懸けになる。だから気象関係は絶対に欲しいはずだ」
 僕は真上に人差し指を立てて、
「そこで思い出してほしいのは、この東京スカイツールでも気象データ収集をしているって事。気温湿度、降水量なんかでテレビ電波の通りが微妙にブレるのを逆手に取った方法だね」
「じゃあ『犯人』もスカイツールを利用しているって事なの?」
 まだ相手の顔も見てないのに、アユミは犯人と呼んでいた。
 気持ちは分かる。
 得体の知れない濃密な闇と、ただただ消失した東京の人々。そんな意味不明な状況に、分かりやすい結論を出してホッとしてしまいたいんだ。
 擬人化した恐怖は、倒せる。
 残念ながら、これについては一部の人間がアークエネミーを憎む事で安心を得たがる心の動きとそう変わらない。
「高確率で。スカイツールのすぐ近くには隅田川やその支流が流れていたはずだ。来た時に見ただろ。それに、ちょっと離れた所には荒川も流れている。水に挟まれているんだよ。ここで集めたデータを送るにせよ、川の水位に関するデータをもらうにせよ、スカイツールと気象庁辺りは太いパイプで繋がっているはずだ」
 ……そして、そのラインが生きているなら相乗りさせてもらえば良い。
 このスマホがネットに繋がりさえすれば、マクスウェルと連絡して何が起きているかを知る事ができるはずなんだ。
「お天気関連のコンピュータに繋げば良いのは分かりましたけど……でもどうしてレストランに?」
「ここはフォアグラだのキャビアだのよりもまず夜景が一番の売りなんだよ姉さん。その日が晴れか雨かで露骨に客足は変わる。食材の仕入れ量だってガラリと上下するんだから、電波塔全体でナマの気象データを集めているなら必ず融通してもらっているはずだ。高級食材を下手に余らせて冷凍庫の中で傷めてしまわないようにね」
 そんな訳で、よいしょ。
 とりあえずレジの方に回って機材に触れてみるけど……こっちは死んでるか。
「だとすると、裏手の事務所の方かな。そっちのコンピュータにスマホを繋げば外とアクセスできるようになるはずだ」
「ふぐ。でもほら、パソコンってあれでしょ、パスワードとかで動かないようにできてるんでしょ」
「その辺は色々考えてみる」
 当然ながら真っ暗闇の中、表からは見えない奥まった扉に向かう。いよいよスマホの光だけが頼りになってきた。バッテリーの方もケーブル経由で充電できると良いんだけど。
 変な段差があったり段ボールが置いてあったり、狭い通路を四苦八苦して、厨房とはまた違った場所へ出る。
「ここ、か……」
 全体的には安いソファとテーブルを足した休憩所と、型落ちしたパソコンのある事務机の組み合わせって感じ。デスクトップって言っても薄型モニタの裏側がパソコン本体になっているようで、ほとんどサイズだけ大きくしたタブレット端末と変わらない。こっちも客には見せないせいか、結構床にまで物が散らばっている。カードリーダーがついてるのは、タイムカードの管理もこいつ一つで兼任してるからかな。
 クセで小さなレンズのトコに拾い物の付箋を貼って塞いでいると、アユミは怪訝そうな顔で言ってきた。
「見つけたけど、あれ、フツーに死んでるっぽくない?」
「いや……」
 確かに液晶は真っ暗だし冷却ファンも動いていない。だけど、例のほとんどタブレット端末と似たり寄ったりな薄型画面の裏側に掌で触れてみると、ほんのり温かかった。スマホやタブレットが普及してからはファンをつけないモデルも増えてきたからな。電気が通っているどうか、外からパッと見ただけじゃ分かりにくくなったもんだ。
「やっぱり動いてる。電源自体はコンセントじゃなくて停電防止のバッテリーとかかもしれないから油断できないけど……」
 指先で画面に触れても反応なし。縁にある電源ボタンの方を押してみると、暗闇に慣れてきた目に強い光が突き刺さった。こんなのでも、さっきまでのスマホとは段違いだ。
「っつ……。ほら見ろ、ここ、画面の端に通信アイコンが光ってる。光ファイバーか何かで繋がってるんだ!」
 画面自体はパスワードの入力待ちで固まっているけど、常駐プログラムを並べたタスクトレイの中に、ネットと繋がっている事を示すアイコンがあった。
 間違いない。
 電波塔全体で、少しでも気象関係に触れているコンピュータは外と繋がっているんだ。やっぱりこれはただの停電じゃなかった。誰かが意図的に選んで、電気や通信から一般ユーザーを締め出していたんだ。
「後はケーブルでお兄ちゃんのスマホとコンピュータを繋ぐだけ? パスワードは?」
 スマホのバッテリーは半分くらい。これがなくなったら真っ暗闇の中で光源を失う。そろそろ残量が不安になってくる頃だから今すぐUSB経由で充電したいくらいだけど……でもな。ケーブルを挿し込むにしても、まずこのパスワードを何とかしたい。パソコンを使わずケーブル接続したスマホ側だけでネットワークに入れるかはかなり疑問だし、スマホは個人情報の塊だ。パソコン側の自動読み込み設定とかは切っておきたい。
 という訳でマクスウェルとコンタクトを取るにはパスワードを突破しなくちゃいけないけど、マクスウェルがいないとハッキングはできない。僕個人で何でもかんでもできる訳じゃないんだ。そうすると……、
「まずは適当にキーを連打して、と」
「お兄ちゃん、aaaa、じゃ絶対抜けられないと思うよ。あんまり何度も失敗するとロックされそうだし」
 重要なのはそこじゃない。単純に、この入力ボックスに何文字入るか知っておきたかっただけだ。なので決定ボタンはクリックしないで、全部バックスペースで消しておく。
「そうか二五文字の英数字か……」
「それがどうかしたんですか、サトリ君」
「多分これ、普通の人には覚えきれない」
 僕はモニタのおかげで大分明るくなった事務所を見回しながら、
「日本人が一度にパッと暗記できる文字列は人の名前の音の読みか市外局番を抜いた電話番号……つまり大体一ケタくらいが関の山って報告がある。みんなケータイスマホのアドレス帳任に頼りきりなった今ならもっと退化してるかもね。だらだら長いタイトルの映画やマンガを四文字くらいに短縮して呼び合うのもこのせい。語呂合わせもできないランダムな英数字なら確定だ。……どこかにメモでも貼ってあるんじゃないかな」
 まさに本末転倒で無用心極まりないけど、オフィス界隈じゃ意外と良くある失敗談だ。特に社員ごとに一台ずつコンピュータを支給されているんじゃなくて、複数人で同じコンピュータを使い回すケースだと。そもそも床にまで物を置いてるくらい散らかっているのは、裏手の事務所なら客の目にはつかないだろうって考えているからだ。だとすると、ここの従業員達が周りの目に対して気が緩んでいた可能性はあながち低くなさそうだと思う。
 僕は一番怪しい事務机の引き出しを開けながら、
「アユミ、姉さんも協力して。手帳でも付箋でも良い、とにかく二五文字の英数字がどこかにないか」
 それにしても、引き出しの方も汚いな……。ボールペンや消しゴムなんかの文房具からUSBメモリ、どこかの鍵、ポケットティッシュ、果ては丸めたレシートとか何かの割引券まである。休憩時間に入るたび、わざわざエレベーターで地上まで下りていたのか? しかし見たところ、それっぽい走り書きがされた紙切れなんか見当たらないけど……。
「わっ!?」
 と、別の所を調べていたアユミが素っ頓狂な声を上げていた。床の段ボールにでも足を引っ掛けたかなと思って振り返ってみたけど、あれ何やってるんだ? 薄暗い壁際で、妹がホワイトボードと睨めっこしている。
 姉さんも怪訝な顔で、
「アユミちゃん?」
「いま……なにかうごいた???」
 こちらに視線も返さず、アユミはホワイトボードを凝視したまま何か呟いている。動いた? 何が? ホワイトボードに貼り付けてあるカラフルなマグネットの話でもしてるのか?
「おいアユミ、ちゃんと真面目に……」
 言いかけ、ついさっきまでの癖でスマホのライトを光らせてそちらへ振っていた。
 その時だった。
 パソコンのモニタと僕のスマホ。二つの光源に照らされ、何かおかしなものが見えた。
 本当に。
 何で今まで、見えていなかったんだろう?

 ぐじゅり、と。
 カエルの肌みたいな質感のカタマリが、アユミが鼻先を近づけているホワイトボードいっぱいに広がり、蠢いて、いる……???

「うっ、な、なんだぁ!?」
 多分全体で一五〇センチくらいの、くの字に曲げたブーメランみたいな形の変な生き物だった。よくよく見ればアユミより大きい。ひとまず分かる範囲には目も口もない、だけど物体じゃなくて生き物と瞬時に判断したのはその『肌』だ。ぬめった表面は枯れ草みたいな茶色いまだら模様だが、時折おかしな模様が浮かび上がる。大きな円と直線を組み合わせた……星座とか、ミステリーサークルに似た……?
「ダメですサトリ君! 注視すると引き込まれる、アレは体が透明になるのではなく私達の認識を狂わせているようです!!」
 とにかく、だ。
 突如思い出したように浮かび上がった『ソレ』の薄気味悪さに、僕や姉さんが思わず叫んでしまったのは間違いだったかもしれない。
 いきなり妹の体が床へ薙ぎ倒された。
 アユミには叫ぶ暇もなかったらしい。あの顔も手足もないブーメランがホワイトボードを蹴って、飛びかかった、のか!?
「あいつ……ッ!!」
「待って、私がやります!」
 とっさにペン立てからボールペンや大きめのハサミなんかを束のまままとめて抜いた僕より早く、ゴスロリドレスに革ズボンの姉さんの体が薄闇を切り裂いた。正体不明、枯草色のカタマリに向けて細い脚を上げ、分厚いブーツのカカトを叩き込む。
 手応えは、あったのかなかったのか。
 あの姉さんが顔をしかめた途端、アユミに覆い被さっていたブーメランに似た何かが下敷きみたいにたわんで、手近な壁に跳んだ。さらにそこから天井へ。特に起き上がったり何かを掴んだりする様子もないし、くの字の先端が手足という訳ではないようだ。基本は平べったいまま這っての移動で、危険を察知したら全身を弓のようにしならせて跳躍、なのか? おそらく裏面をびっちり繊毛なり吸盤なりが埋め尽くしている。岩に張り付く一枚貝、浅瀬を移動するカブトガニ、ああダメだ。できるだけ考えまいと思っていたのに、やっぱり動きとしては『バッタより良く跳ねるゴキブリ』が近い。実際には音はほとんどなかったけど、敢えて事情を知らない人に説明するなら『わさささって動く』と言ってしまう気がする……。アユミより大きなサイズでそんな動きされたら、うわあ、それだけで鳥肌モノだ。
 だけど、え?
 カエルみたいな質感、枯草色の表面にミステリーサークルみたいな模様を浮かばせる生き物が……天井に張り付いたまま、消えた!?
「どっどこだ? あいつどこ行った!」
「……、」
 あちこちにスマホのライトを向けても、もう捕捉できない。影も形もない。今さらのように思いついてカメラアプリを起動し、画面越しに見るも……ダメか。単にここから立ち去ったのか、機械すら欺くのか、もう判断はつかない。
 姉さんもまた、周囲を警戒しながら口を開いた。
「……おそらく、既知と未知の間を使っているんだと思います。機械で撮影した場合の話はさておいて、私達の頭については」
 事務所から逃げていった、のか。
 あるいはすぐ近くにいる、のか。
 悠長に話をしている場合じゃない……とはいかない。逆だ、ひしひしと感じる。今聞いておかないと闇雲に動いた挙げ句命を落とす、と。
「人は初めて見るモノとすでに知っているモノを切り分けて考えます。例えば人の顔。逆三角形の頂点に点を配置するだけでこれは顔だと誤認する。引き出しを開けて、枠に当てはめて見る事で、頭の処理を簡略化しているからです。これが行き過ぎると、幽霊の正体見たり枯れ尾花、となる訳ですね」
「そういや、古代人の描いた壁画にエアコンを操作している人がいる、なんて馬鹿げたウワサもあったっけ……」
「はい。逆に言えば、当たり前に知っているようだけどよくよく考えると答えを出せない、といったイエスともノーとも言えないモノが出てくると、どちらの引き出しにも入れられなくなってしまう事があるんです。つまり、目の前にあっても認識からこぼれてしまう」
 小さい頃、ふと目についた板切れの木目が人の顔に見えて怖い想いをした、くらいなら誰でも記憶にあるはずだ。
 なら、その逆は?
 人の顔でも何でもない、何にも似ていないぐにゃぐにゃの木目を、大きくなっても覚えているか。どこで何を見てどんな感情が湧いて出たのかまで。……目で見ていても、頭の中からすっぽ抜けている方がむしろ正しい気がする。
 人の頭の処理には、偏りがあるんだ。
 そういう意味では、
「ミステリーサークル……」
 確かにおあつらえ向きだ。誰でも知っているちょっとレトロな響きだけど、実際には未だにきちんとした答えを出せない。目立ちたがりが畑を荒らしたって報告はあっても、本当に全部が全部そのパターンだけで説明できる訳でもない。
 ガンゴン!! という大きな金属音が響いたのはその時だった。肩をびくつかせてスマホのライトを向けてみると、事務所の扉が中途半端に開いていた。
 風のせい……じゃなさそうだ。
 そうか。そうだよな。
 たとえ目の前を横切っても気づけないようなヤツでも、壁や扉をすり抜けられる訳じゃない。アレが何なのかは分からないけど、律儀に扉を押し開けて出ていった、ようだ。
 だよな?
 やめろよ、まだ部屋の中にいるけど扉に向けて物を投げただけですとか、そういう狡猾なのは……。
「姉さん、アユミは無事? 確かめたら、そっちにあるコピー用紙の束、床に全部ばら撒いてくれる?」
「サトリ君?」
「落ち葉を踏むのと同じだ。目で捉えられなくても、紙を踏んだ音や跡は消せない」
 前後左右どこに警戒すれば良いのかも分からないまま、とにかく床一面にA4の紙束を撒き散らしておく。その上で、そろそろと扉に近づき、そっと閉めてみた。
「……、」
 反応なし。
 あの一五〇センチ大の巨大なヌメヌメが通った跡なのか、床に撒いたコピー用紙の内、いくつかがどろりとした粘液を吸って色を変えていた。これ、毒とかじゃ……ないよな?
 壁や天井に張り付いてる可能性は残っているので、モップを使って細かい間隔でつついてみるけど、カエルの肌のような不自然に柔らかい感触に阻まれる場所は特にない。
 ……だいじょうぶ、かな?
 思い返せば結構なサイズだった。何しろ妹よりデカい。全体的に平べったいと言っても、ソファの下とか壁と棚の隙間なんかに潜り込めるとは思えない。
「なん、だったんだ、今の。アレもああいうアークエネミー、で良いのか?」
 流石にパッと見たくらいじゃ何が何だか、だ。ようやく床から起き上がったべとべとのアユミも破けた袖から出ている手を使ってハンカチを貸している姉さんも、ピンときてない顔のままだし。くの字のデロデロ。まあ、そうだよな、何だそりゃが大多数だと思う。
 でも。
「アレのせい、なのか? 展望台に誰もいないのも、東京の街が真っ暗闇に包まれてるのも」
「うぐっ、げほげほ……。お兄ちゃん、それよりマクスウェルだよ。多分今のヤツも合わせて全部の話を知ってるんだろうし」
 なんか上着もへそ出しジョギングウェアもぬるぬるになった妹が呻いていた。
 本当に一本の道で繋がっていれば、そういう事になるか。
 いまいち不安が拭えないまま、改めて姉さん達と一緒に事務所を調べていく。ひとまずは使えるパソコンのパスワード、二五文字の英数字が書き込まれたメモがどこかにないか。
「……そういえばお菓子の空き箱が散らばってたな」
「ふぐ、箱の中には何もないよ」
「違う、平面コードだ。後から別の貼り換えてる」
 アナログなんだかデジタルなんだか。とにかくスマホをかざして英数字の形に分解していく。
「二三、二四、よし、二五文字だ。こいつで正解!」
 一つずつ、確実なところから埋めていこう。それにひょっとしたらさっきのあいつ、外の世界じゃ普通に知れ渡っていて弱点なんかも大公開されているかもしれない。何にしたってこのスマホとマクスウェルを繋げておいて損はない。
 再び事務机のパソコンに向かい、薄暗い中一文字一文字確認してキーを打っていく。最後に画面の中の入力ボタンをクリック、と。
「よし……通ったぞ」
 待機中からありふれたデスクトップ画面に移った。オーロラの壁紙に、画面左側にアイコンがいくつか。たったこれだけの事なのに、まるで長旅から自宅へ帰ったような懐かしさがあった。ネットに繋がった、ごくごく普通のパソコンがこんなに恋しくなるなんて。
 とりあえず簡単な設定をいじってスマホ側のデータを勝手に吸い出されないようにして、と。
 いったんパスワードを抜けてケーブルで繋げてしまえば、回線の相乗り自体はあっさりしたものだった。もうパソコン側にかじりつく必要もなく、スマホの画面を直接操作してネットと繋がれる。
 相変わらず圏外の表示なのに速度は維持できる、っていうのは結構見ていて足元がふわふわするけど。
「マクスウェル、聞こえていたらいつも通りの手順で返事してくれ」
『シュア。随分前から周辺機器の間を行ったり来たりしていたのですが、ユーザー様の方から窓口を見つけていただかない事には繋がりようがありませんでした』
 見慣れたSNSのふきだしを前にして、真冬の暗い夜道を散々歩いた挙げ句にコンビニやファミレスの明かりを見つけたような気分になった。ようやく、ようやっとだ。ほんの少しだけど、いつもの調子が戻ってきた。
「こっちは今スカイツールの一般展望台で置いてきぼりだ。直通のエレベーターに閉じ込められている間に何があった? ただ単純に大嵐で電波塔が折れるかもって次元じゃなさそうだけど……」
『シュア』
 ある程度は覚悟していたつもりだった。
 東京の街はありえない真っ暗闇で、この事務所でもカエル質感でくの字のブーメランみたいな変なデロデロを目撃した。普通じゃない事が起きている。そんな予感はひしひしと伝わってきている。
 だけど。
 やっぱり、余計な感情のない正確な文字列で見せつけられた時の衝撃は半端なものじゃなかった。

『複数の情報ソースを分析した結果、地球外未確認知的生命体の説が有力です。東京スカイツール含む二三区広域は封じ込めのため、自衛隊の手によって完全に隔離されております』

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