吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第四章

   第四章

 考えている時間なんかなかった。
 枯草色にミステリーサークル、カエルみたいな質感のデロデロの宇宙人がどうとか怖がっている余裕さえ。
 頭の中は恐怖で満ち満ちていた。真上を見上げても、この暗闇と大嵐じゃ電波塔のてっぺんなんかもう見えない。
「……くそ、どっちだ? どの方向に倒れるっ!?」
 無闇に外に出るより、建物の中にいる方が安全です。
 理屈は分かる。多分それが正解で、非の打ち所なんかないんだろう。
 だけど、そいつは想定の範囲内での理屈だ。
 全長六五〇メートル。あんなガラスと鉄骨の大質量が巨人の棍棒でも振り下ろすように倒れかかってきたら、受け止められる建物なんかあるか? ダメだ、ネジや体に突き刺さる世界だぞ。そこらのビルに逃げ込んでも、鉄筋コンクリートの塊ごと叩き潰されるのがオチだ!!
 屋内だろうが屋外だろうが関係ない。一ヶ所でじっとしていたら死ぬ。全滅する。そうなるともう、僕達にできる選択は非常に限られてくる。
「にげろ……アユミ、姉さんも! とにかくっ逃げるしかない!!」
 そのまんま倒れても六五〇メートル。空中分解して細かい破片の雨が暴風に乗ればさらに広範囲まで。単純な一直線で、スカイツールを中心とした円から抜け出そうとダッシュしても、多分間に合わない。
 考えるべきは、
「風に逆らうんだ!」
 ジャージの上着をばたばた膨らませながらアユミは目を剥いていた。
「ふぐっ、その嵐にひっくり返されそうになってるお兄ちゃんが何言ってんの!? それじゃ距離を稼げない!!」
「大量の破片も風に乗るのを忘れたのかアユミ! 見た目の距離を稼いでも意味はない。それより風上に向かって走れば、直線距離は短くても破片が頭の上へ降ってくる可能性は低下する。そうだろマクスウェル!」
『シュア、ただし現実の地形は真っ平らではないため東西南北真っ直ぐ突っ走るのは難しい事、頭上のビル風は複雑に絡み合っているため一口に風上と言っても把握が困難な事なども問題点として挙げられますが』
 画面の文字を読んでる間に強い力で右と左の肩をそれぞれぐっと掴まれた。言うまでもなく妹のアユミとエリカ姉さんだ。向かい風の方向に突っ走る、これは自分の口で言った。となると、
「うわああ!? 崖っ縁じゃねえか!!」
「スカイツールの基部は五階分ほどモールになってるから東西南北どこだってそうだよお兄ちゃん」
 いやでもっ……、
「そんな訳で生き残りましょうサトリ君。ゴーですゴーゴー☆」
「待って待ってよ五階建てって学校の校舎より高いじゃんかよお!!」
 いくらジタバタしても両サイドからアークエネミーの腕力で固められたらどうにもならないのだ。
 いきなり重力の感覚が頭からすっぽ抜けた。
 手すりを飛び越えた……のは分かる。
 だけど、その、何だ?
 真下も真っ暗闇でっ、高さが分からない!? ほんの一〇センチなのか何十メートルもあるのか、見えないからっ身構える事もできない!!
「ららっばぶあ!?」
 ほんとはもっと尾を引くような絶叫が続くつもりだったけど、意外とすぐに着地できた。改めて、スマホのライトを足元に向けてきちんと地面があるのを確認する。とにかく安心したいっ、順番が逆なのは分かってるけど、こぶっ、こうでもしないと心臓が壊れそうだっ。
 ち、地上までは五階分くらいの高さがあるようだけど、そりゃそうだ、途中にも家とかビルとかニョキニョキ生えているはず。どうやらその屋根の上に乗っかったようだった。
 バクバク鳴ってる心臓を落ち着けてる暇もない。チュンッ!! と、空気を焼くような音と共に前髪が数本散った。すぐ足元で、分厚い木の板を叩き割るような凶悪極まりない音も。理解が遅れる。気づく。天高くから降ってきたボルトか何かだ!!
 思わず真上を見上げようとして、強い力で手を引っ張られた。
 破けた袖から伸びた手で。
「行きますよ!」
「ちょ待っ姉さん!?」
 どうしていつでも優雅なエリカ姉さんの口振りに焦りがあるのか。夜目が利く吸血鬼が何を見ていたか、もっと頭を働かせるべきだったんだ。
 この土砂降りの大嵐の中、わざわざ暴風に逆らうように姉さんやアユミが屋根から飛んだ直後だった。

 爆撃があった。

 凄まじい轟音と共に、ついさっきまで立っていた建物の屋根が沈む。消える。いいや、真上から降ってきた列車のレールよりも太い鉄骨が何本も直撃して、建物ごと押し潰されたっ!?
 驚愕に心臓が縮むけど、こっちもすでに空中に躍り出ている。今さら進めてしまったコマは戻せない。
 ガンッ! ゴンッ!! と。
 立て続けの衝突音と共にあちこちでビルや家屋の倒壊が連鎖していくようだった。この場合、濃密な闇で何も見えないのは、かえって救いだったのか。今いる高さや周りの被害を目の当たりにしていたら、絶対に腰が抜けていた。
「くそっ、風に逆らって逃げてもこんなに落ちてくるのか!?」
 ぎぎぎギギぎぎぎぎギギギギギ、と。
 今まさに崩れ落ちようとしているスカイツールから、断末魔の叫びが放たれていた。ガラスだろうが鉄骨だろうが、落下物はすべからく暴風の影響を受ける。一番数が少ないであろう向かい風方向でもこんななら、あっちの追い風側はどれだけ地獄が広がっているっていうんだ!?
『警告』
 そんな風に考えていた時だった。
 人がせっかく存在しない誰かに自分以上の不幸を押し付けて罪悪感なく心の安定を保とうとしていたのに、スマホの画面からなんかきた。
『上空で暴風の流れに変化あり。上下でS字のねじれが発生しているようです』
「はっ?」
『平たく言えば、東京スカイツール上部はこちらに向けて折れてくる可能性が増大しました。超警告』
「じょぶっ、ば、待ァァァっ!?」
 もうアユミや姉さんに持ち上げられてそこらを飛んでもどうにもならなかった。何かしらの背の低いビルの屋上に着地したはずの感触が、いきなり沈む。消える。バラ、バラ、バラ、バラ、と。真上から次々降り注ぐ鉄骨だの何だのが平面な足場をまとめてぶち抜き、割って、砕いて、僕達全員をそのまんまアリジゴクみたいに屋内へ引きずり込んだんだ。いやに柔らかい音が混じってるのは、例のブーメランなデロデロか?
 アリジゴク、飛び出た鉄筋や鋭く尖ったコンクリの断面に血肉を引き千切られなかっただけでもマシだったかもしれない。
「ぐっ」
姉さんが呻いたけど、ケガした訳じゃなさそうだ。吸血鬼は家主の許可がないと家屋に入れないんだっけ。崩れて廃墟となりつつあるけどある程度効力が残っていたのか。
 だけど、落ちてそこで終わりじゃない。
 こうしている今も高所からは次々と鋼やガラスは降ってくる。コンクリの屋根の下に逃げ込んでも関係ない。僕達と落下物の座標がぴったり重なったら最後、建物ごと串刺しにされる。
移動だ、動き続けないと死ぬ。
「ひい、ひい、ひい」
 もうさっきからまともな言葉になってない。スマホのライトを闇雲に振り回すと、アパートやマンションってよりも何かしらの雑居ビルの通路みたいだ。元々消防法は大丈夫だったのか、あっちこっちに段ボールやビールケースが山積みされた狭い直線が、爆撃でも受けたようにコンクリの瓦礫の雪崩で埋もれかけ、土砂降りのせいで小さな滝みたいに大量の雨水を流入させている。
 正しい判断とか気にしている暇もなかった。
 ゾンビのアユミに手を引かれ、ほとんど壊れかけた屋内を走る。白い短パンが張りついた小さなお尻が大変な事になっているけど、注意している余裕もない。感覚的には頑丈な建物の中へ逃げ込んでいる様子は皆無だった。なんていうか、そう、今まさに落盤していく洞窟って感じ。ゴン! ドン!! とすぐ近くで重たい音が炸裂するたびに、天井も壁も容易く崩れてこちらへ迫り来る。当然、生き物みたいに蠢く瓦礫の山に手首足首を噛み付かれたらそこでおしまいだ。
「どうすんだっこんなの!?」
「窓まで走って! 飛びます!!」
 姉さんは発破をかけたつもりだったようだけど、こっちは逆にそれで足がすくみかける。飛ぶ? ここ何階? 背の低い雑居ビルって言っても一応は屋上の真下、つまり最上階だぞ!?
 が、いきなりすぐ真後ろの天井を突き破ってやたらと太い鉄骨が退路を奪った。さらにたたらを踏む。踏み切りの直前になってますますバランスが崩れる。ダメだもう進むも戻るもできないっ。
「わああっ!!」
 せいいっぱいがんばったよ。
 でも何故だろう、視界は真下に落ちていくんだ。
 やっぱりだめっだ飛ぶ前にさっきの鉄骨で床割れやがったァ!?
 姉さんはこっちの変化に気づいたようだけどすでに窓から良い感じに飛んじゃった後だ。どうにかこうにかアユミがリカバリーに来てくれる。てか踏み止まって僕と一緒に落ちただけだ!!
「どぶっ、ば、アユミ……」
「頭の上からドバドバ滝みたいに雨水入って来てるから口開くと溺れるよお兄ちゃん。ほらこっち」
 参ったな、今ここ何階だ。
 前後左右は瓦礫で塞がり、上下はぶち抜いて大穴だらけ。これが真っ暗闇で継続中だ。もはやちょっとした迷路みたいだし、何よりこんな調子じゃ建物自体が潰れかねない。
「水の流れひどすぎて上には上がれないみたい。面倒だけど下まで下りて地べたを進むしかなさそうだね」
「そんなにか? ゾンビの腕力でも?」
「リアルの滝登りがどれだけ大変かマクスウェルに計算させてみたら? 普通の坂道だって無理だろうね」
 そもそも無理に上へ上がってどうするんだって話もある。わざわざ高所に行ってから命懸けのジャンプに挑戦するくらいなら、素直に近場にある地べたを目指した方が安全に手早く移動できるんじゃないのか。
 こうしている今だって、目に見えないだけで大量のネジ釘ガラスに鉄骨得体の知れない枯草色のデロデロまで降り注いできている。いつまでも一ヶ所に留まっていたら直撃そして建物倒壊に巻き込まれるリスクは膨らむ一方だ。どっちみち、力業で屋根をぶち抜かれた時点で僕達の方針は決まっている。常に流動的に動き回って直撃を避けるしかない。
「分かったアユミ、とにかく地面を目指そう」
「ほんとに分かってるう? 下も下でアブない事は変わらないんだけど」
「?」
 不思議に思ったけど、今は濡れて白いタンクトップを胸元に張りつけた義理の妹相手になぞなぞやってる場合じゃない。とにかくアユミに手を引っ張られる格好で暗く潰れかけた通路を走り、あちこちスマホのライトで照らしながら階段は床の抜けた大穴を探していく。もはや当然といった感じで階上からは激しい打撃音が響いていた。言うまでもなく種々様々な落下物だ。
 都合三階ほど降りると、ようやっと一階に到着。……したかと思ったら、いきなりどぷんと生温かい水の感触が腰の下まできた。不意打ち一発。なんかお漏らししたみたいな居心地の悪い感じが下半身を支配する。
「なんだっ水没してんのか!?」
「そりゃこれだけざあざあ降ったらね。お兄ちゃん、外に出たら泥水の中にある地雷に気をつけて。ネジに釘にガラスはもちろん、濁流の勢いによってはまんま鉄骨がぶつかってくるよ。ほら大河ドラマとかの、大勢で一本の丸太抱えて城門ぶち破るみたいにさ」
「じっ冗談じゃない、注意したって見えないだろそんなの! 僕は透視能力が使える訳じゃない!!」
「今から潰れた屋上まで上がる時間があると思う? 絶対手は離さないでね、行くよ!」
 腰の下まで水没している以上、ドアなんて押しても引いても開かない。ゾンビのアユミが蹴って割ると、一気に押し寄せる水の勢いが増してきた。
 マジかよもう、ほんとの濁流じゃんか!? これもう傍から見れば川で溺れて流されているのと大して変わらなくない!? なんかこう、あれだな。バカのアユミのやる事はキホンどっか抜けてて力業になるな!!
「うぐぐ、なんか横に滑る……」
「お兄ちゃん楽して泳ごうとしちゃダメ! いったん両足が浮いたら二度とまっすぐ立てなくなるよ!!」
 そんな風に言い合っていると、あちこち毛糸の網目みたいに絡み合った濁流の上流側から、何か大きな黒い革の塊みたいなのが流れてきた。
 大の字で浮かんでいるエリカ姉さんだった。
「うわあー!!」
「ああ、吸血鬼は流れのある水がダメだったんだっけ?」
 呑気に言ってる場合かっ! 慌てて姉さんの細い手首を掴んで手元に引き寄せる。水に浮いている分には軽い人だ。
 でも、待った、あれ?
「まずいんじゃないか、そいつは。東京スカイツールって隅田川のすぐ近くだったろ。今じゃ増水してもうどこに走ってんだかさっぱり見えないけど、一方向ズバッと通行止めの壁みたいな扱いになるのか!?」
『ノー。東京スカイツールは隅田川とその支流の根元、つまりYの字の根っこに位置します。川や海など流れのある水がアウトだと一方向除いて全滅ですね』
「ち、ちなみにその一方向とやらは……」
『スカイツール挟んで完璧に正反対です。しかもそちらにはもっと大きな荒川が待っていますね』
 割とっ本気で詰んだ!?
 しかし濁流に身をさらすゾンビで色々透け透けなアユミは場違いに可愛らしく小首を傾げて、
「でもお姉ちゃん、来る時はあたし達と一緒にバスだったよね。普通に橋渡っていたはずなんだけど」
「……?」
『世界一有名なトランシルバニアの伯爵の場合、船で川を下る間はひたすら自前の棺桶の中に閉じこもって眠り続けていましたね』
 言われてみれば、バスの中でも姉さんスイッチが切れたように眠りこけている場面が何回かあったかな。姉さんに合わせて始発前に到着する夜行バスを選んだせいかとも思ったけど、本来吸血鬼は昼夜が逆転しているはずだ。あれは川に架かる橋の対策だったのか。
 姉さんにとって遠出は怖いものだったのかもしれない。ゴスロリドレスに革のズボン。ライダースーツみたいな耐衝撃重装備は、普段着回しているのとはちょっと違うし。
 つまり、
「目を回してる今がチャンスだよ。お兄ちゃん、このままお姉ちゃん引っ張って川を渡っちゃおう」
「バカの力業が止まらなくなってきたぞ……」
 スマホのライト以外はほとんど真っ暗闇。腰下まで泥水で何が流れているか分かんないし、マンホールの蓋が持ち上がっていたりすぐ近くを側溝が通っているかもしれない。問題の川だって一体どこにあるのやら。冷たい水への恐怖が止まらない。
 だっていうのにいきなりちょっとその辺くらいの場所で爆発が巻き起こった。オレンジ色の炎の華が咲き乱れ、ストーブに近づき過ぎた時みたいに肌にチクチクと熱さが刺さる。
「うぶぅあ!? なっ、何だあ!」
「プロパンガスか何かのボンベが流れてきてるっ。立ち止まっていても良い事はなさそうだよお兄ちゃん!」
 水に備えていたのにまさかの火属性。どこかのご家庭の裏から一本二本が外れたって訳じゃなさそうだ。例のボンベはマンションなんかである程度まとまった数を束ねていたのか、あるいは運搬用のトラックでもあったのか。立て続けの爆発が巻き起こり、危険域がじわりとにじり寄ってくる。
「やばいっ、ヤバいヤバいヤバい!!」
 別にこれまであった危険性がなくなった訳じゃない。こうしている今も頭の上から無数のガラスだの鉄骨だのは降り注いでくるし、腰下まで迫る濁流の中は危険物だらけだし、そもそも電波塔にびっちり張り付いてた枯草色だのミステリーサークルだののデロデロは一体何なんだ。だけど人間ってのはテキトーにできているものらしい。
 危機感が上書きされた。
 一発で全部吹っ飛んだ。
 とにかく水辺で立て続けに起こる爆発の花に巻き込まれたら終わりだ。水に浮かぶ姉さんの細い肩を掴んだまま、僕とアユミは濁流に逆らわずボンベの軍団から遠ざかるように動き出す。エレベーターでは姉さんの体重に相当苦戦したけど、全身の力が抜けて水の上に浮いている今なら片手でケアできる。
「おくないだっ。どこでも良い、やっぱりとにかく建物の中に入らないと!」
「頭の上の鉄骨はどうすんのお兄ちゃん?」
 ごぽりと行く先で何か大きな泡が弾けた。マンホールの蓋でも押し上げられたかと思って警戒したけどそうじゃない。
 目が合った。
 ……目? 何の???
 一体。一体どこのご家庭から逃げ出したんだあいつ!?
「ヤバいアユミっワニだ白いワニっぽいのがいる!」
「なぁにい?」
「何で噛み付きモンスターの対抗意識出してんだっ、とにかくどこか建物だ!」
「だからいちいち屋上伝いの段取り踏んでる暇ないってば、一ヶ所に留まってたら鉄骨に雨にやられちゃうよ! しかも今はぐったりお姉ちゃん抱えて移動する事になるんだよ!?」
「狙いは屋上じゃない!!」
 元から壊れていた民家の窓辺に飛びつくけど、中に入るつもりはない。どうせ海底洞窟みたいに暗くて水浸しだろう。水の流れはさらに複雑で、包丁とかノコギリとか危ない家庭用品が泥水の中を動いていたら最悪だ。
 欲しいのは、
「乗れアユミ! この雨戸をイカダ代わりにしよう!!」
「ふぐっ?」
「浮力が足りない場合はバケツでもポリタンクでもくくりつけて後から盛る。今は素のままで三人乗っても沈まないかどうか確かめたい!」
 何だこりゃ、アルミ、それともステンレスか? ともあれサーフボードみたいに泥水の上に外れた雨戸を浮かべるだけでも大変だ。流されてしまわないよう両手で押さえつつ、まずはアユミが姉さんの体を乗せて、続いて僕と妹も乗り上げていく。
「ういっ……た?」
 ほとんど四つん這いのアユミはおっかなびっくりだ。
 よし。アユミの動きに合わせてこっちも対角線を意識していたから、いきなりひっくり返るような事もないな。もうちょい安定したら白いショートパンツからぴっちり形の浮き出たお尻について怒ってやろう。
「流れに乗るだけなら泳ぐより早いし、濁流の中に沈んだ鉄筋だのガラスだのも怖くない。アユミほらっ」
 僕は辺りを流れていたアルミの物干し竿に手を伸ばし、妹に手渡す。
「舵はないから地面を棒で押して方向を決めるしかない。いいか、あくまで方向転換だ、全体の流れには逆らえないぞ」
「ゾンビの筋力でも?」
「お前が持ってるの、水に浮かんでいたんだぞ。物干し竿は薄いパイプだ、無理に力をかけても折れちゃうよ」
 こうしている今も勝手にイカダは進んでいるからモタモタできないんだけど、後は、そうだな。
「少しでもヤバいと思ったらすぐイカダを捨てて飛び込むぞ。どこにスカイツールの鉄骨が降り注ぐか分からないんだ。便利だからって躊躇ったらおしまいだ」
「わっ」
 アユミが何やら物干し竿と格闘していた。反対側の端に噛みついてるのは……何だっ、南国っぽい色した、魚? 名前も分からん、少なくともピラニアよりはデカそうだけどっ!?
「これでも飛び込む気ある? お兄ちゃん」
「……狂ってんのか東京のペットマニア。い、いざとなったら天秤を意識しよう。頭の上に隕石みたいな鉄骨が降ってくるのとどっちがマシか」
 もうなんていうか、痛みもなく一瞬であの世行きか細々と貪り食われる自分の体を眺めるかの話にもなってきた。単純にダメージの大きさだけでも測れないような。いいやダメだ弱気になるな、嫌な死に方ランキングなんて並べても不毛過ぎる。生き残る前提で考えないと。
 そんな風に尻込みしていた時だった。
 スマホのふきだしで一言きた。
『警告』
 良い予感なんぞする訳がなかった。

 ぎぎぎギギギギぎぎギぎぎぎぎぎぎぎギギギぎぎギギぎぎぎギギギぎギギぎぎぎギギギギギぎぎぎギギぎぎぎギぎぎぎぎギギギギ。

 聞き慣れた音だった。しかも今度はっ、大きい!! 東京スカイツールの悲鳴に思わず僕とアユミが真上を見上げると、そこでおかしな現象とでくわした。
 ふっ、と。
 束の間、バケツをひっくり返したような暴風雨が止まったように見えたんだ。
「ふぐっ!? スカイツールが覆い被さってくる!!」
 実際には横殴りの雨だから、全部が全部を『屋根』が防いでいた訳じゃあないんだろうけど。それにしたって。こんなスケール、もはや海を割って山を造る神様辺りの所業だぞ!!
 くる。
 パラパラと鉄骨が、じゃない。今度の今度こそ、全長六五〇メートルの塊、東京スカイツールそのものが倒れ込んでくる!?
イカダに残るか。
 飛び込むか。
「アユミっ壁際へ寄せろォ!!」
 この時、正解なんかどこにもなかったのかもしれない。
 とにかく妹が物干し竿を使って流れるイカダを雑居ビルのコンクリート壁に擦り付ける勢いで近づけた途端、真上で爆音が炸裂した。
 鉄塔が……塊のまま、ビルの屋上にぶち当たった!?
 あれだけの重さ、そして高さ。
 鉄筋コンクリートなんてスポンジ同然だった。それでもわずかな時間は稼げる。雑居ビルは自ら沈み込むようにして超重量の塊を押さえ込む。考えなしにフォークで切り分けようとして上から潰してしまったミルフィーユみたいに様々な残骸が飛び出してくるけど、スカイツールの展望台を丸ごと喰らうよりはマシだ。
 トンネル状の空間をイカダが抜けていく。
 僕としては、無防備に寝かされている姉さんに覆い被さるようにしながら叫ぶしかなかった。
「保たないぞ……。アユミ、ビルが完全に潰れる前に早くここ抜けてくれ!!」
「分かってるけど、ええい、意外とヤワだな! 物干し竿ぐにゃぐにゃするっ!!」
 まるで真夏の車の中にバターの塊でも置いておいたように、鉄筋コンクリートのビルがひしゃげていく。
 抜けるか。
 ……ダメかっ……。
「アユミもう良いっ、姉さん抱えて飛び込
「ふぐう! まだっだよ!!」
 アユミが歪んだ物干し竿じゃなくて、太股の付け根辺りまで露出した縫い痕だらけの細い足を動かし、その靴底で直接ビルの壁を蹴った。
 アークエネミー・ゾンビ。筋力はおよそ人間の一〇倍。
 ぐんっ、とイカダの速度が上がった。
 鉄骨と瓦礫のトンネルを、抜ける。
 ごんっ! と強い衝撃に体を揺さぶられたのはその時だった。電波塔全体じゃなくて、表面のガワがある程度砕けたらしい。
「ふぐっ!?」
「ああくそ、あっちもこっちも……」
 大きな塊はやり過ごしたけど、辺り一面、さっきとは比べ物にならないくらいたくさんの鉄骨が降り注いだようだ。勢い余ってアスファルトに突き立った鉄骨とイカダがぶつかって、身動きが取れなくなっている。
「ここだけ抜けてもダメだな……。もう水の流れに乗るのは諦めた方が良い」
「諦めるって言われてもどうすん……」
 言いかけたアユミの口が止まった。
 今ので東京スカイツールは完全に倒れたみたいだ。つまり落下物問題はほぼ片付いた。これ以上ガラスや鉄骨が雨のように降ってくる事もない。
 そうなると怖いのが濁流の中に隠れている危険なペットや、地雷やマキビシみたいな突起物。なるべく水には落ちない方が良さそうだ。
 そうなると、
「スカイツールが……」
「流石のスケールだな。横たわっているだけで、ほとんど鉄橋みたいだぞ」
 辺りの家屋や雑居ビルを薙ぎ倒すようにして、倒れて斜めに傾いた巨大な鉄骨の塊。でも完全に地べたに沈んでいる訳じゃない。あそこを伝って移動するのが、水辺から遠ざかる一番の手かな。
『例の未確認クリーチャーが張り付いていないと良いのですが』
「そっちがあったか……。結局アレ何だったんだろうな」
 そもそも異常気象って言ったってそこらの暴風雨くらいで国内最大の電波塔が倒れるとは思えない。あのカエルみたいな質感でその辺這い回るブーメラン野郎が電波塔の片面にびっしり張り付いて重量バランスを崩していたからこそ起きた大惨事だ。
「ふぐ、結局どうすんの?」
「姉さん頼めるか、アユミ。何にしても、あれだけの衝撃があったんだ。アレがアークエネミーなのかも分かんないけど、あの連中がいつまでも電波塔にしがみついてるとは思えないよ。絶対振り落とされてる」
 危険な生き物はアレだけじゃないんだ。この濁流にどっぷり浸かって進む方がリスクは大きいだろう。
 ……さて。
 潰れかけているとはいえ、この暴風雨の中を外壁よじ登って倒れた鉄塔まで向かおうとは思わない。やっぱり階段が使えるなら、途中まででも使った方が良い。アユミから物干し竿を受け取って、濁流の底を適当に引っ掻き回す。鋭いガラスや鉄筋は、なさそうだ。危険なペットが噛み付いてくる事も、ない。よし、怖いけど、今しかない!
「行くぞアユミ!」
「ふぐ!」
 思い切って泥水の中へ身を投じる。この大災害の中じゃ、絶対確実なんて言葉はない。何にしたって判断基準は『比較的』で『マシな方』、天秤の左右にはどっちも致死の可能性が乗っかっているのは変わらない。
 即席ボートのすぐ近くで、倒れた鉄塔と直接接触していて、適度に潰れて中の階段が使えそうで、水圧の関係でドアの開閉は絶望的だろうから元から玄関が壊れている家屋が望ましい。条件に合う場所なんて一つでも見つかれば御の字だ。ざぶざぶと腰の辺りで泥水をかき分けて屋内へと入っていく。
「暗いな、また……。スマホのバッテリー大丈夫か?」
『省電力を目指す場合、まず不要なコマンドを控えるべきかと』
 三階構造の一戸建てだった。やっぱり東京は土地が狭いのか。でもって一階部分はすっかり水没してるし天井は弓なりにぐわんと歪んできている。このまま暮らすのは無理そうだ。
 しかしまあ……。
 さっきも雑居ビルに入ったけど、やっぱり人、いないんだな。ガチの生活空間だと違和感がすごい。
「とにかく階段だ、上がれる所まで上がろう。アユミついてこい」
 階段の方もびしょ濡れだった。鉄塔をまともに受け止めて、外から見た限り半分くらい潰れていた。滝のような雨が屋根の大穴から流れ込んできているんだ。
 この家にとっては災難だけど、安全に鉄塔へ上がりたい僕達にとっては貴重な中継ポイントだ。スマホのライトを頼りにべこべこ音が鳴る木の階段を慎重に上る。
 二階に上がると、ひとまず腰まであった濁流からは逃れた。危険なペットの襲撃は……まあゼロじゃないか。水を泳ぐのは肉食魚だけじゃない。毒ヘビやワニだって普通に泳ぐ。
「……逆に言えば、いざとなったら食べ物には困らないって訳か」
「ふぐう、なんかすごい事考えてる? あたしゾンビだけどさ、一番思い切りがあって悪食なのって人間のお兄ちゃんだよね。大体家族みんなで旅行に出かけると真っ先にゲテモノ料理に手を出してるし」
 むしろ肉専門のアユミとか血液製剤や代用血漿を抱え込んでる姉さんとかの方が、食については先細りな気がする。人間は何でも食べる雑食性の生き物なのだ。
 とはいえ、食べ物だけの話じゃないか。
「アユミ、ほらタオル見つけたぞ。とりあえず身体拭いておけよ?」
「何で? すぐまた土砂降りの表に出るのに。どっちみちシャワー状態なんだから泥水とか関係なくない?」
 不思議そうな顔をしたまま、ツインテールの先っぽをくるくる丸めた妹は頭の上にタオルを載っけていた。
 ……天津アユミ、どうやらお兄ちゃんの念は通じなかったようだな。お前ただでさえ薄手のジョギングウェアだから水に濡れるとあっちこっちがタイヘンな事になるんだよっ! 水気を拭え、でもって隠せ!! いつもと違って名札のガードもないんだから!! 何で気絶して無防備に背負われている(黒革を多用して厚手な)姉さんの方がレディっぽさを保っているんだ!?
 そして、だ。
 結論を言えば、この場に留まって救助を待つっていうのは現実的じゃなかった。確かにスカイツールが倒れた今、直接的な脅威は暴風雨や濁流だ。頑丈な建物に入って高い所で身を潜めれば済むようにも見える。
 ただし、まずその頑丈な建物なんて理想の環境を確保できない。この崩れかけた家屋だっていつ潰れてしまうか分からないんだから。
 さらに言えば、だ。
 うちの家族特有の問題も絡んでくる。つまり、アークエネミーとしての。吸血鬼の姉さんは日光に弱いし、ゾンビのアユミは不衛生な場所に長時間置いたら腐敗が始まってしまう。そこらじゅう穴だらけで雨風の入ってくる廃墟の中じゃダメだ。乗り越えられない。
 つまり何にしても、夜が明ける前に『安全な場所』まで逃げ出さなくちゃならないって事。具体的にどこなんだって話だけど、とりあえずスカイツール周辺を脱したい。ここは首都東京だ。誰もいないって事は、どこか別の場所にかなり大掛かりで専門的な避難所が用意されているはずなんだから。何だかもう、蓬莱だのエルドラドだのに思えてきたけど。
 そんな風に考えを巡らせながら、三階まで向かう。
 天井なんかなかった。
 バキバキに折れた木の板が散乱し、階の高さは半分くらいまで押し潰されている。なんていうか、圧迫感で胸が詰まる。安っぽい内壁やフローリングの床に半ばめり込むような格好で、複雑に組んだ鉄骨の群れが横たわっていた。東京スカイツール。あまりに縮尺が違い過ぎて一瞬何が何だか形が分からなくなるほどだった。
 ……感覚としては、三階のベランダから橋を架けている感じ、かな?
 白く塗装された鉄骨は、太さだけならコンクリ製の電信柱くらいか。断面は四角じゃなくてまん丸。ただでさえやりにくい。これが雨で濡れたらどうなる事やら。
 恐る恐る冷たい鉄骨に触れ、メチャクチャになったフロアを歩いて、崩れた外壁の端を目指す。
 下を覗く余裕もなかった。
 塊みたいな暴風に顔を叩かれ、後ろへひっくり返りそうになる。
「うわあ!?」
 こんなにっ、強かったか、風!? 今まで当たり前みたいな顔して外をほっつき歩いていた自分自身が信じられない。ちょっとでも屋内に入って正常な感覚を取り戻したらもうこれだ。
 鉄塔だって下から見上げた時は頑丈な橋みたいだって思ったけど、一本一本の鉄骨自体はさっきも言った通り電信柱くらいの太さしかない。手すりはない、雨で濡れててつるつる滑る、おまけに予測不能で大暴れなこの暴風。ちょっと気を緩めたら一発で真っ逆さまだ。
 ……これが、比較的まともなルートっていうんだから恐れ入る。ここで駄々をこねても、水没した地上の濁流ルートの難易度が変わる訳じゃない。言うまでもなく、無数の鋭い障害物、危険なペット、挙げ句にガスボンベ溢れ返った向こうはもっと悲惨だ。
「ふぐう、どうするのお兄ちゃん?」
「ここを行くしかなさそうだけど……」
 そうか、姉さんをおんぶしているアユミは両手が塞がっている。いくらジャングルジムみたいに複雑に鉄骨が交差する鉄塔だからって、手で何も掴まず足だけで綱渡りしていくのは流石に無理だ。
 となると、とにかくアユミの両手を自由にするのが先決か。ビニールロープで良いかな。ダメならダクトテープを何周も巻いても。ゾンビは人間の一〇倍の筋力があるらしい。一〇人もいれば普通に胴上げができるはず。赤ちゃんのおんぶ器具みたいに姉さんをアユミの背中側で縛り上げて固定したって問題なく動き回れると思う。
「……う……」
 と、そこで妹に支えられていたエリカ姉さんの妖艶な唇が、久しぶりに声を洩らした。
「アユミ、ちゃん? サトリ君も……」
「悪い姉さん、状況は一個も好転してない。相変わらず水没エリアのど真ん中だ。マクスウェル、ベビー用品のサイトをチェック。体重分散させるロープの巻き方を調べて、シミュレーション頼む」
 自分の気を鎮めるためゆっくり何度か深呼吸した金髪縦ロールの姉さんが、やがてのろのろとアユミの小さな背中から降りていった。苦しそうなのは家主の許可を取らずに中へ運び込まれたのもあるかもしれない。
「何とか……大丈夫、戦う訳ではないなら、手をついてゆっくり歩くくらいでしたら……」
「お姉ちゃん、吸血鬼はそういう性質なんだから無茶しちゃダメだよ!」
「大体やるべき事はぼんやり耳にしていたんです。そこから、渡るんでしょう? アユミちゃんにとっても楽な道ではありませんよ」
「ふぐ」
「でも一番危ないのは姉さんだ。仕方ない、電車ごっこに変更しよう」
 実を言うとアユミの背中に縛り付けてしまった方が安全なんだけど、こういう災害現場で仲違いしたら最悪だ。できる限りは相手の意思を尊重したい。
「こいつ、このビニールロープをみんなの腰に巻くんだ。命綱だよ。誰か一人が足を滑らせても、残る二人が踏ん張って引っ張り上げる。分かった?」
 ……これだってタイミングが悪いと一人をきっかけに全員道連れのリスクもあるけども、それは口にしない方が良いか。ゾンビも吸血鬼も筋力はケタ外れだけど体重それ自体は可憐な女の子なんだから、いきなり二人同時に落ちたりしない限りは大丈夫とは思いたいけど……。
 やっぱり絶対確実はない。
 判断基準は、比較的で、マシな方だ。
「姉さん、両手上げて。腰に巻くよ。ちなみに姉さん体重はどれくらい?」
「よ、よんじゅうなな……」
「ふぐう!? 何寝ぼけた事言ってんのあたしより軽くなってんじゃん! お姉ちゃん絶対それ以上あるでしょ。あたし実際にここまで背負ってきたんだよ、あのずっしり感が水吸ったドレスの分だけだなんてとても思えない!」
「ここ大事な場面だからサバ読んでる場合じゃないんだ肉感的姉さん。ああもうマクスウェル、過去のシミュレーションデータで使ったVRプレイヤーデータから推測。食事と運動量はひとまず概算で構わない、あの時点から姉さんどれだけ増えてる!?」
「……ふたりとも、あとでちょっとしんけんにはなしあいましょうか?」
 僕、姉さん、アユミの順に列を作る。やっぱり一番ふらふらしていて危なっかしいのは吸血鬼の弱点の一つ、流れのある水にやられているエリカ姉さんだ。リカバリーのしやすい位置にいてもらいたい。
 正直、吸血鬼がどれくらい弱点に抗えるかは当の姉さんにしか分からない。水関係だと前に不意打ちをお見舞いした時は東欧一三氏族の連中がバタバタ倒れていたけど……結局はブードゥーのボコールが作った幻覚での話だ。どこまでリアルかは担保がない。ああいう事態でもじっくり覚悟を決めて挑みかかれば乗り越えられるのか、やっぱりダメで気を失うのか。姉さんの動向には気を配らないとな。
 スマホのライトを正面に向けても暗闇に吸い込まれるばかりで、倒れた電波塔がどこまで横たわっているかは見えなかった。
「マクスウェル、スマホはポケットに入れとくぞ。こりゃ片手じゃ無理そうだ」
『シュア。ありきたりですが、お気をつけて』
「それじゃ行くぞ……二人とも」
「……了解です……」
「ふぐ」
 改めて、恐る恐る、慎重に。
 顔くらいの高さを走っている別の鉄骨を両手で掴み、じりじりとゴムの靴底を少しずつ前へ滑らせるような格好で、最初の一歩を。とにかく、始めてしまったらもう戻れない。立ち往生もできない。幸い、倒れた鉄塔を渡るって言ってもまんま六五〇メートルノンストップで綱渡りするんじゃないんだ。絶対に倒れた衝撃でいくつかのパーツに分かれているし、僕達は橋げた代わりの家屋なり雑居ビルなりの屋根に到着するたびに、小刻みに休憩を取れる。
 大局に惑わされるな。
 そのスケール感に圧倒されるな。
 少しずつで良い。次のマンホールまで小石を蹴る感覚で、その積み重ねで学校まで向かうように。一つ一つを間違えなければ記録は達成するんだ。これは、決してできない事じゃない。
 まずは、多めに見積もっても二〇メートルくらい。すぐそこの雑居ビルの屋上を目指そう。
 そこへ、透明な塊みたいな暴風が真横からやってきた。
 妹のジャージの上が大きく膨らむ。
「ふぐう!?」
「大丈夫だアユミ、足を止めて耐えろ! 人間の僕の力でできるんだ、一〇倍のアユミが力負けするはずない!」
 手すり代わりに使っている別の鉄骨は、足場と平行に走っている訳じゃない。緩やかだけど、下に向けて傾斜している。スカイツールの特殊な組み方だっけか。この小さな誤差も、のちのち響いてこないと良いけど。
 暴風は方向がバラバラで、強弱もヒステリックに変化する。不安定な足場で鉄骨を掴んで歯を食いしばると、自然と視線は下を向いた。黒々とした濁流。三階、って高さは致死量と考えるべきかもしれない。腰までの高さくらいまでの水じゃあ、きっと衝撃を殺しきれないだろうし。
 しかし、だ。
「……何だ? 水の流れ、おかしくないか」
 上から見て分かった違和感、なのか。
 あるいはスマホのライトがないから確かな情報を得られず、自前の錯覚にやられているのか。
 両手の自由を確保するためポケットに突っ込んでおいたスマホがぶーぶー振動したけど……ダメだな。このままじゃマクスウェルからのメッセージは読めそうにない。
「風、弱まりましたよ、サトリ君」
「よし、一歩ずつだ。まずはあの雑居ビルまで、残り半分……一〇メートル」
 行けるか……?
 行ける。
 これくらいならっ、
「とう、ちゃくっと! よし!!」
「きゃああ!?」
「ねえさっ、ッッッ!!」
 僕が潰れかけた雑居ビルの屋上、そのへりに足を乗せた途端だった。振り返る余裕もない。エリカ姉さんの鋭い悲鳴と共に、いきなり視界がブレる。そんな訳ないんだけど、不意打ちで黒い上着ごと胴体抱え込まれてバックドロップでも決められたかと思った。
 そうかっ、腰のビニールロープ!
 真後ろに体を引っ張られたと気づき、慌てて両手を振り回した。がつっ、という硬い感触と共に、どうにかこうにか倒れた電波塔の鉄骨を掴み直す。
 腹の中身が搾られるように痛むけど、ようやっと僕は後ろを振り返った。
 一段低い場所に姉さんの顔があった。
 当然、そんな段はない。腰に巻いたビニールロープで宙吊りにされているだけだ。
「ねえさん、だいじょうぶっ?」
「はあ、はあ、すみません、サトリ君……」
「アユミも無事か!?」
「お兄ちゃんそれで支えてるつもり? あたしが踏ん張ってなかったら前の二人、仲良く転落してるよ」
 どうやらアユミ一人の力でも足を滑らせた姉さんは引き上げられそうだ。ただそれだとお腹まわりが痛そうなので、片手で鉄骨を掴んだまま姉さんにもう片方の手を伸ばす。重量分散だ。一点にかかる荷重が少なくなれば、食い込みも和らぐはず。
 ゆっくりで良い。時間をかけて、確実にエリカ姉さんを引っ張り上げる。
「す、すみません、本当にすみません、二人とも。サトリ君が屋上に着いたのを見た時に、思わずホッとしてしまいまして……。自分はまだ鉄骨の上だったのに」
「ふぐ。そいつは仕方がないと思う」
「それから何回も謝るなよな。逆の立場なら姉さんだって助けてくれたろ。何もこんなの特別な話じゃない」
 言いながら、ひょっとするとこれは『姉さん』だからかもしれないな、なんて事を思った。この人は助ける事には慣れていても、助けられる事には慣れていないのかもしれない。
 ともあれ、だ。
 最初のチェックポイント、崩れかけた雑居ビルの屋上まで辿り着いた。横倒しの電波塔は、渡れる。自分で実証して、前例を作ったんだ。後はこの繰り返しで……行けるか?
 あちこちびちょびちょで白いタンクトップも短パンも肌に布が張り付いてるアユミは、難しそうな顔で遠くに目をやりながら、
「ふぐ。でもさお兄ちゃん、最終的にどこまで行けばゴールになるの?」
「どこってそりゃ、これだけの人を避難させてる場所があるんだろ。そうでなかったとしても、最低でも地上が水没してないトコくらいは行きたいじゃないか」
「だからそれは、具体的にどこ?」
 うぐ、痛いところを突いてきたな……。何にしても僕達には情報が足りない。ゴールはどこだ? 快適さを求めて人工物だらけになった首都だって坂道や高低差くらいあるはずだ。東京二三区全滅とか関東平野全部水没なんて話にまではなっていないと信じたいけど。
 と、そこで震えどころか耳で聞いて分かるくらいド派手にぶーぶースマホが振動してきた。
「おっとそうだった、マクスウェル」
『この暴風雨の中では火は熾せないでしょうし、服を脱いで肌で暖め合う格好のチャンスですね。びしょ濡れすけすけの美人姉妹ともうちょい密にコミュニケーションを取りたいのでしたら小一時間ほどネットの隅っこで暇を潰してきますが』
「不貞腐れてんのかお前。ほんとにそれくらいしか言う事ないなら今すぐスマホを水の中に投げ込むぞ」
『本題はその濁流についてです』
 画面の中でマクスウェルは次々とふきだしを連投しながら、
『先ほどユーザー様が違和感を覚えました通り、東京スカイツール跡地周辺の水の流れに変化が見られるようですね』
「ふぐ? 何でまた、ゴミの山が通り道を塞いじゃったとか???」
『ノー。むしろ逆です、風通しが良くなったのでしょう。マップデータと照らし合わせると、電波塔を囲むようy字に流れる隅田川とその支流を境にラインでも引いてコントロールするような形で、明らかに全体水位が下がっています。川を境に地上一帯の濁流は呑まれているのです』
 お上品に腰を下ろしていた姉さんが、川という文字を見ただけでくらりと頭を揺らしていた。やっぱり相当無茶をしているんだろう。僕とアユミで細い肩を支えてやりながら、
「でもマクスウェル、そもそもその隅田川? が氾濫してそこらじゅう水浸しになっているんじゃなかったのか?」
『ノー。冠水の原因はマンホールからの逆流や逃げ場を失った豪雨が低地に溜まるなど複合的です。かつ、電波塔倒壊前はこのような水の流れは観測されませんでした』
「だとすると……そうか」
「ふぐ?」
『シュア。多摩川や荒川と同じく、隅田川もその地下には災害対応レベルの大規模な共同溝を備えています。地上で増え過ぎた雨水を地下から逃がす設備ですね。川に沿って等間隔で設けられた水門を開放し、濁流の誘導を始めたのではないかと』
「つまりお風呂の底にある、ゴムの栓を抜いたんだよ。アユミ」
「何それ、今になって? 街がこんなになるまで放置して!? そんなのあるなら最初からやってれば良かったじゃん!」
「できない理由は色々あるんだけど……マクスウェル、やっぱりトリガーはスカイツールが倒れたからか?」
『気象庁や水道局のサーバーまで潜った訳ではないので断言はできませんが、高確率で。東京スカイツールは水没した墨田区一帯における、最後の価値ある砦だったのでしょう』
「つまりどゆことなの?」
「いいかアユミ、お風呂の栓を抜けば簡単に水はなくなる。だけど水面に小さな虫が浮かんでいたらどうなる? 命を持った生き物がだ」
「あ」
「街全体が水没したからこそ、簡単には水門を開けられなかったんだ。もしも濁流の中に生存者がいたら危ないから。その『街が生きている』象徴が、どこから見ても分かる文明の証、スカイツールだったのさ。あれが折れた事で、みんなの心も折れた。生存者ゼロ、そういう事にしてしまえ。ゴーサインの経緯はそんなトコかな」
「そんな乱暴な!」
「だと思う。でも、この状況じゃ生存者の正確な数や位置なんて誰にも分からない。結局、概算で話を進めるしかなかったんだろう」
 ……そうなると、濁流を抜けて倒れたスカイツール経由で危険な水没エリアから離れようとして正解だった訳だ。いつまでも濁流の中を漂っていたら、等間隔に空いたブラックホールに吸い込まれていた。いったん大口が開いたらもう逃げられない。
 つまり、だ。
「こうなるとあそこには戻れないぞ……。足を滑らせても確実にアウトだ」
『ポジティブに捉えるしかありません。地上の全体水位は隅田川を境に激減しています。東京スカイツールを伝って、そのまま川を渡ってください。その先は比較的無事なはずです。上りの傾斜を越えれば水は引いています』
 こっちとしては、ひとまず地上の水没さえ何とかなれば川や海なんかの流れのある水に弱い吸血鬼の姉さんが復活するんだ。夜明けまでに安全な暗がりに避難する、っていう根本的な目的の達成にはならないけど、かなり移動の効率は上がるはず。
「さて、と。それじゃそろそろ再開しようか、二人とも」
「まだ一〇分と経ってないよ、お姉ちゃんだって顔青いまんまじゃん!」
「……良いんですよアユミちゃん。ここはサトリ君が正解です」
 長々と説明しなくても分かってくれるのがエリカ姉さんだ。おかげで開きかけた僕の口から言葉が行き場を失ってしまう。
 この暴風雨だ、あまり長い間休むと雨で体が冷え切って筋肉は強張り、あちこちから叩きつけるような風に翻弄されるとせっかく体で覚えた綱渡りのバランス感覚を手放しかねない。……何より、今は興奮して神経が昂ぶっているくらいでちょうど良い。死の綱渡りなんて尋常じゃないんだ、ゆっくり休んで頭が冷静さを取り戻したら、もう挑戦なんかできないに決まってる。
 潰れかけた雑居ビルから、さらに先へ。
 今度は……次の休憩地点まで、さっきよりも長いな。三〇メートルくらいはありそうだ。途中には家屋やビルもあるんだけど、倒れた鉄塔と重ならない。
「……、」
 真下からごうごうという低い音が響いていた。ちょうど、大きな川に差し掛かる辺り……なのか? 元から水没しているから分かりにくいけど、おそらくでっかい排水口みたいに水の流れが変わっている。
「ここが件の隅田川、で良いのかな?」
「……う……」
「姉さんっ」
 貧血でも起こしたように体をふらつかせたエリカ姉さんの細い肩を慌てて両手で掴んで支えてやる。
「大丈夫、です。ここを渡れば水没エリアから脱出できるんですよね……。『外』にさえ抜け出せれば。早く、参りましょう?」
 極端に血に弱い人と同じか。流れのある水の苦手な吸血鬼の姉さんには、あんまり川を連想させるような言葉を聞かせない方が良さそうだ。
 それに、そうだ。
 マクスウェルや姉さんの言葉が正しければ、現場一帯では水害対策にも使われる共同溝が開放されている。この川さえ渡ってしまえば、地上の水は引き、安全になる公算が高い。流れのある水にやられた吸血鬼の姉さんを回復させてやれる。
 行くぞ。
 行かなきゃダメだ。
 僕が先頭になって、電車ごっこみたいに全員の腰をビニールロープで結んだまま、じりじりと横倒しの鉄骨に足を乗せ、滑らせるようにして暗闇の先に挑む。心配ない、すでに一度渡ったんだ。もう経験は積んでいる。多少距離は長くても根本的な部分で同じ事の繰り返しなら、何もそんなに難しい話じゃな

「う
       わあ
   ッ!?」

 ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ぁ、うあ? 「大丈夫ですよ、サトリ君。アユミちゃん、ちょっとの間踏ん張っててください。私がサトリ君を釣り上げますので」 「ふぐ、任せておいて」
 ものの三歩も進まない内に体が重力を忘れていた。腰に回したビニールロープが食い込んで痛い。どうやら足を滑らせて落ちたらしい、という当たり前の事に気づくまで、かなり長い時間呆けていた気がする。弱っているはずの姉さんの手で引っ張り上げてもらっている間も、ずーっと頭の後ろの辺りを空白が支配していた。濡れて重くなったはずの上着の感触すら消えている。
 慣れがどうとか、関係ない。
 それより油断、甘え、弛緩の方がはるかに怖い。
 心臓の鼓動が痛い。川に沿って等間隔に並ぶ巨大な排水口が開いた今の水没エリアに落ちたらブラックホールに呑まれてもう終わりなんだ、たった一回のミスで全滅するかもしれないんだ。ようやっと、じわじわと、死の指先が喉元をなぞってくる実感が湧いてくる。
「あ、あ、ああ……」
「大丈夫、大丈夫ですよ、サトリ君。ゆっくりと息を吐いて、死の感触を遠ざけましょう? 何かあっても、お姉ちゃん達が受け止めてあげますからね」
 左手で手すり代わりに別の鉄骨を掴んだまま、袖の破れた右手の方を僕の肩に回して、姉さんがこの不安定な足場でも僕の頭を胸元へ抱き寄せてくれた。
 こんな細い鉄骨の上で一秒足踏みするのは、どれだけ大変な事だろう。今にもパニックを起こして暴れそうな人間とビニールロープで繋がったままなのは、どれほど恐ろしいだろう。
 だけど、エリカ姉さんも妹のアユミも、待ってくれた。
 お互いずぶ濡れだったけど、確かなぬくもりが問答無用でパニック寸前の心に染み入ってくる。散々雪山を遭難して歩き回った末、山小屋を見つけて熱々のホットミルクを振る舞ってもらったように。スマートだ効率だって言葉が幅を利かせる時代だけど、こういう時はじかの触れ合いの方がてきめんらしい。
 現実を思い出す。
 意識が再起動する。
 頭の裏側いっぱいに張り付いていた空白が、姉さんの鼓動やぬくもりでよそへ追いやられるのが良く分かる。
「……大丈夫」
 やがて、そう呟いた。
 姉さんの胸元から、自分から顔を離していく。
「もう大丈夫。この夜を終わらせよう。この鉄骨を渡って、安全な『外』まで逃げ切るんだ……」
 とにかく慎重に、だ。
 慣れたって経験を積んだって、手順は短縮できない。一歩一歩確実に。ミスさえしなければ、いつかゴールに辿り着けるんだ。濡れて滑る鉄骨の感触を靴底で確かめ、別の鉄骨を両手で掴んで、先を見据える。
 三〇メートル。
 途方もない距離じゃない。いつも学校に行く事を考えろ。毎日当たり前に行き来している通学路の方がよっぽど遠いくらいだ。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 ごうごうと足元で黒い水が飲み込まれていく音が鳴り響く中、僕達三人はじりじりと倒れた鉄塔を渡っていく。
 ……いける。
 いけるはずだ。
 手は冷たい。だんだん感覚がなくなっていくようだ。肘まで袖のある黒い上着が邪魔だ。手の指が掴んでいるのは、硬い鉄骨? 雨で濡れているせいか、まるで印象が違う。今は……もうすぐ半分くらいかな。だけどこの節目ってヤツに気をつけろ。さっきも姉さんは橋げた代わりの雑居ビルに到着する寸前で集中が途切れた。僕の場合は、慣れてきた二回目の初っ端でやられた。結論はこうだ。節目はヤバい。過去の失敗が語っている。どうしてもホッとしてしまうこの区切りのタイミングが、一番危ない。
「姉さん、アユミも。注意して」
「ふぐ。分かってるよ、言っておくけどレコード傷ナシなのはあたしだけなんだからね」
「アユミちゃん、その感覚が危ないんですよ」
 一歩一歩。
 不規則に顔へぶつかってくる塊みたいな暴風や、濡れて滑る足場に気をつけて。間違ってはいなかったと思う。少なくとも油断や弛緩はなかったはずだ。半分、中間地点、折り返し。ここで途切れる事なく、集中は保っていられた。
 だから。
 これだけははっきり言える。ここから先で起きた事は、僕達三人の失態じゃない。

 ドカカッ!! と。
 行く手を阻むように、暴力的なまでの人工の光がこちらの視界を潰してくる。

「うっ……!?」
 最初、何が起きたか分からなかった。爆発、とは違うのか。顔を白い壁でたたきつけられたようだ。眩しいというより、もはや左右のこめかみが痛い。状況を忘れて反射的に片手で目を守ろうとした僕の体が、ぐらりと揺れる。喉が干上がるけど、後ろからエリカ姉さんが支えてくれた。
 ……なんっ、だ……!?
「ふぐ……!!」
「ダメだアユミ、下手に動くな!!」
 ギリギリと見えない千枚通しを左右のこめかみにねじ込まれたような痛みの中、顔の前にかざした掌の指と指の間から状況を確かめようとするけど、やっぱり正体は見えない。逆光。明と暗のコントラストがあまりにひどすぎて、暗闇の向こうから強烈な光を投げかけてくるモノの素顔が見えないんだ。
 たかが光。
 阻んでいるのは鉄やコンクリートの壁じゃない。
 でもこっちは倒れた鉄塔を伝い、暴風雨にさらされている真っ最中。ほんの一〇センチ足を踏み外せば濁流に真っ逆さまだ。
 暴れ回る心臓を必死に抑え込もうとする。
 その場でじっと待ち、状況を確かめる。
 ギリギリと、無理矢理こじ開けるようにして視界を確保していく。
 ただ、光源自体は意外と遠いみたいだ。
 しかも複数ある。
 距離にして一〇〇メートルくらいはありそうだ。僕達がひとまず定めた次のゴールより、さらに先。複数の雑居ビルや家屋の屋根の上から、人工物と思しき光がいくつも横一列に並べられているみたいだ。
 そう。
 ここは三〇メートルの鉄塔橋の、ちょうど中間地点。光源は隅田川を挟んだ対岸を守るように並べられている、のか。
「サーチ、ライト……?」
 人工物。
 誰かいる。
 暗闇に突き落とされたような首都東京だったけど、やっぱり誰かいたんだ。……そのはずなのに、このちっとも安心できない感じは何だ? 廃校とか廃病院とか探検している間に、中で名前も知らない誰かと鉢合わせるような、薄気味悪さすら伝わってくる。
 ……ここは、まだ『無人の空間』のままなんだ。真っ暗闇の、コンクリートの樹海。誰か人が歩いている方が不自然に見えてしまうような……。
 常識は、通じるのか?
 通じるよな?
 ビルとビルの間を渡す倒れた鉄塔、その鉄骨部分にしがみついたまま耐え忍ぶ僕達の耳に、拡声器か何かで増幅した声が飛んできた。
 ひび割れた声は男性のもののようだった。
『そこまでだ! そこで止まれ、君達は墨田停止線を越えている!!』
「てい……何だって……?」
 思わず呟いたけど、こっちの言葉なんて届くはずもない。軽く見積もっても光源までは一〇〇メートルくらいありそうだ。公園なんかにある災害用のスピーカーみたいに、何度も音が重なり合って聞き取り辛いくらいだった。
 だけど、流せない。
 これは聞き逃したら死ぬ類の何かだ。
 ビリビリと、背筋の辺りの震えでそれが分かる。今日だけで何度も感じてきたアレだ。
『ゆっくりと、少しずつで良い。後ろへ下がるんだ! 元の、位置へ、戻れ。今ならまだ防衛行動へ入らずに済む!!』
 それでも。
 それでも、だ。
 最初、鼓膜に入ってきた音を声として理解できなかった。同じ心を持つ人のものではないと。だって、戻れ? ここから、こんな中途半端な所から??? 広い道で回れ右するんじゃないんだ、たった一歩、一〇センチ踏み外したら濁流に飲み込まれる不安定な鉄骨の上だぞ。いったん進んだら渡り切るしかないんだ! それが分からないのか!?
 が、そこで同じロープを腰の辺りで結んでいる姉さんが、青い顔しながら耳打ちしてきた。川や海など流れのある水は渡れない。タブーを踏んで僕より苦しんでいるはずなのに。
「……サトリ君、合図と共に下に飛び降りますよ」
「えっ、ああ? だって下って……」
 あの濁流、だろ?
 水の流れだけで十分凶器。さらに割れたガラスや鉄くずが牙を剥いてくるし、肉食魚とかワニとか危険なペットだって息を潜めてる。ガスボンベだって。とてもじゃないけどまともな選択肢とは呼べない。大体偉そうに命令飛ばしてくるけど、あのサーチライトの連中は一体どこの誰なんだ?
 真っ当な意見だったと思う。
 だけどどうやら、今は壊れた意見が多数派をもぎ取っているらしい。
「逆光の向こうにいるの、どうも自衛隊のようですね。これ以上まごまごしていると七・六二ミリのセミオートで蜂の巣にされます」
「……、」
 意味が
 。それにしたって、
 ちょっと待て!?
「ふざけ……!!」
「サトリ君、私が言っている問題はそちらではありません」
 冗談じゃなかった。これ以上まだ何かあるっていうのか。自衛隊? ようはお巡りさんの親戚みたいな連中だろう。そんなのから本物の銃口向けられているとしたら、それよりひどいスキャンダルなんかあるものか!
「わざわざサーチライトを点灯してから、拡声器で事前警告。上の決定はともかくとして、現場はよっぽど良心の呵責があるんでしょうね」
 なのに。
 なのに、だ。
 何でそんな、憐れむような慈しむような声が出てくるんだ……?
「……サトリ君。彼らは光十字やコロシアムの兵隊とは違います。一体、何をそんなに脅えていると思います?」
「……?」
 おびえ、る???
 そういえば、季節外れの爆弾低気圧のせいで電波塔が折れたり大洪水になったりして大変だったけど、もう一個気になる話があったような。
 スカイツール展望台のレストラン、その事務室でアユミが遭遇したのは。いいや、清掃用のゴンドラを使って地上を目指していた間、鉄塔の表面をびっしり覆い尽くしていたのは……。
 マクスウェルは、なんて言っていたか。
「ちきゅう、がい。みかくにん」
 いや。
 でも、だって。
「ちてきせいめいたい?」
 確かにそんな名前を見た。それっぽいのも目撃した。でも、待ってよ。それはそういう、コードネーム的なものなんだろ。警察や消防の無線にエイリアンって呼び名が出てくるだけで、そういう独特の言い回しに過ぎないんだろう?
なのに。
 なのに、なのに、なのに!
 エリカ姉さんは、それ以上語らなかった。ただ目線を振って、何かを指し示した。ゆっくりと、そう非常にゆっくりと、僕も引きずられていく。確かめてしまう。
 折れた鉄塔。
 横倒しで複数の雑居ビルを押し潰すように倒れ臥すそれらは、あたかも不恰好な鉄橋のようにも見えていた。
 出来損ないのジャングルジムにも似た、手や足の置き場所。
 緊張や寒さのせいか指先から伝わる感触のおかしくなったモノ。
 その全てが。
 複数のサーチライトと、束の間、黒々とした分厚い雨雲の切れ目から覗いた月明かりとを浴びて。

 ぐじゅり、と。
 枯草色にミステリーサークルのような模様。ブーメラン型の塊。カエルみたいな質感の何かに埋め尽くされつつあるのが、見え……?

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