吸血鬼の姉とゾンビの妹が東京観光に来たようです。
……外はすごい事になってるけど
第五章

   第五章

「う」
 勇気ある決断なんて言ってる場合じゃなかった。
 それより嫌悪感の方が強かったと思う。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
 埋め尽くすようなブーメラン状の生き物。カエルみたいな枯草色の肌の上を、ミステリーサークルに似た不気味な模様が蠢く。
 それは、壁一面をびっちりと埋め尽くすゴキブリの群れにも似た衝撃を叩き込んできた。思わず手を離してしまった。
 一人が落ちてしまえば一連托生なのか。
 あるいはアユミや姉さんが合わせてくれたのか。
 落ちるというより浮遊感の方が不気味だった。ぶわりと膨らんだ風の塊に全身を叩かれたと思ったら、視界が回る。一〇メートルほどか。覚悟を決める暇もなくヘドロ臭い泥水にぶつかり、濁流へ呑み込まれていく。
「がふっ、くそ!?」
 上下も分からないまま必死になって手足を振り回す。ぐいっと、腰の辺りで強い抵抗感があった。そうか、エリカ姉さんやアユミと繋いでいた命綱……。落ちてしまった今となっては無用の長物だ。
「ぶは!!」
 何とかして波打つ水面に顔を出す。
 真上は例の折れた鉄塔だ。あいつらは、カエルみたいな肌のぐにょぐにょ達はどうなった。未だにびっしりだったらいつ降り注いでくるか分からないし、そもそも鉄塔だけとは限らない。濁流の中にどれだけ混じっているんだ!? 噛むのか、刺すのか、溶かすのか、半透明の卵でも植え付けてくるのか。一体何をどうしてくるのかさえはっきりしてないけど、でも、だからこそ予防のしようがないぞ!!
 と、そんな風に思っていた。
 だけど事態は僕なんかの想像を軽く越えていく。

 ゴァア!! と。
 炎が酸素を飲み込む不気味な大音響と共に、真上の鉄骨が、燃え広がり……!?

 息を飲んでいる暇もなかった。
 というか迂闊に呼吸なんかしてたら気管も肺も焼けただれていた。助かったのは、猛烈に強い力で水の中へ引っ張り込まれたからだ。
 直後だった。
 この泥水の中でもはっきりと分かった。やけにぬめったオレンジ色の光が、水面いっぱいを天井みたいに埋め尽くしていく。
 驚いて開きかけた口を、やはりしなやかな掌で無理矢理塞がれる。ひらりと黒い革が視界の端で踊っていた。
 ねえさんっ、それにアユミも……!?
 たっぷり一〇秒以上炎の天井が頭の上を覆っていた。怖い。実際に人間の息がどれくらい保つかは知らない。だけどこの一〇秒を待っても、次の一〇秒は息を吸わせてくれるなんて誰も言っていない。一分、一〇分、一時間経ってもこのままだったら? ダメだったらこっちは命がなくなるんだ!!
 我慢しているせいで頭に血が上っているのか、頭部全体がじわじわと膨らんでいくような、気持ちの悪い熱と圧を錯覚する。
 ふっ、と。
 一面が夜の暗さを思い出したタイミングで、忍耐が決壊した。火事場の馬鹿力、なのか? 単なる人間のはずの僕が、半ば姉さん達を振りほどくようにしてがむしゃらに水面を目指す。やらかしてしまう。
「ぶはっ!! はあ、はあ、あぶ!?」
 久しぶりに酸素を吸い込む。
 真上。
 雑居ビルを半ば押し潰すように倒れかかった電波塔では、この嵐の中でも未だにあちこちぬめった炎がこびりついていた。さっきの爆発は、アレか? 水面を舐めていったのは、余波や流れ弾みたいなものだったんだ。本命は即席の橋。入り組んだ鉄骨にびっしりまとわりついていた枯草色のデロデロを、『別の何か』が……焼き尽くしていった……?
「ふぐう! お兄ちゃん早く戻って!!」
「アユミ……?」
 言われた事の意味が分からず、命綱で繋がったままちょっと流されつつあるアユミの顔を見返した時だった。
 ガカァ!! と。
 まるで雷に打たれたようだった。
 そんな錯覚を覚えてしまうくらいの、圧倒的な閃光。白の光が、頭の上から落ちてきたんだ。
「……なっ……?」
 痛い。左右のこめかみから見えない千枚通しでも押し込まれるようだった。思わず片手でひさしを作っても、鈍痛から逃げられない。
 だけど。
 この明らかな異変は、一体何なんだ!?
 遠くから投げかけられるサーチライトじゃない。頭のてっぺん。あんな角度から光を投げかけられるはずがない。
 何かある。
 空中に。
 地球外未確認知的生命体。
 爆弾か、熱線か。とにかく何かしらの殺人兵器を垂直に落とし、一斉にヤツらを焼き尽くした何か。この猛烈な嵐の中、人様の頭の上でビタリと動きを止めた、手裏剣みたいな形の、軽自動車より大きな飛行物体。
 思わず。
 思わず、だ。
 濁流に飲まれながら、こんな馬鹿げた言葉が洩れていた。

「……ゆー、ふぉー……???」

 もうそろそろ、こっちは頭の処理能力が限界に達しつつあった。だって、どこまでなら受け入れられた? 国内最大の電波塔は大嵐で折れた。首都東京から人がいなくなった。枯草色にミステリーサークルみたいな模様を走らせるぐにょぐにょは宇宙人だった。それを今度は別口のUFOが共食いした??? どこか、じゃない。ああ、ああ! 一番最初、エレベーターに閉じ込められて宙吊りにされた時点でもう『ありえない』だろ!? 夢なら何で覚めない、バーチャルならログアウトさせてくれ!!
 しかし、その時だった。
 得体の知れないテクノロジーが、いきなり人の言葉で叫んできた。
『済まない!!』
 ……さっきの、拡声器と。
 同じ……?
「どっ、ドローン? 自衛隊の無人兵器なのか!?」
 ぐるりとスポットライトのような光源がよそを向いた。飛行機やヘリコプターの動きではない。闇夜をキャンバスにして落書きでもするように、一本の光が曲線を描いてうねった。少し離れた場所、濁流の下流側で、凄まじい爆発が連続して巻き起こる。
 電車ごっこみたいな腰の命綱を手繰り寄せ、近づいてきたアユミやエリカ姉さんと水の中で肩を寄せ合う。そんな僕達に頭上から声が投げかけられた。
 改めて、遠目に見てみれば、『UFO』から垂直に地上へ放たれたモノの正体が分かってきた。
「みさ、イル……?」
「陸自の空対地ミサイルだと、おそらくトカラハブでしょう」
 確かに。
 宇宙人が宇宙人を攻撃したって言われるよりは、まだしも整合性がある、のか?
 いいや冗談じゃない、常識の部分で妥協するな。宇宙人が攻め込んできたのと自衛隊が殺人兵器を振り回しているの。一体どっちがまともな状況だっていうんだ!!
「元々はティルトローター機導入を見越して先行開発された装備でしたが、機体調達の遅れに引きずられて実戦配備が遅れていたミサイルです。大雑把に平原を焼き尽くす野戦用ではなく、大都市圏に紛れた標的をピンポイントで叩く精密誘導自己推進狙撃弾。光十字の要求書に理系学研究所が具体的な形を与えた、対アークエネミー打撃焼夷兵装。……過ぎ去った時代の、負の遺産となります」
「何でそんなもの……ここは豆粒みたいな鉛弾だって持ってちゃいけない国じゃなかったのか!?」
「災害対策名目なんですよ。爆風消火って聞いた事ありませんか。どうしようもない山火事やコンビナート火災を瞬時に鎮火させるため、高威力の爆弾を落とすやり方です。日本は元々木造建築の国で、延焼を防ぐため周りの家屋から壊していく文化がありましたからね」
『水中障害物は排除した。流れに沿って進めば停止線から離れられる。赤い看板まで流されたら、すぐに最寄りのビルに取りつくんだ。それ以上進むと地下への放水口に飲み込まれるぞ。すまない、これくらいしかっ協力できん!!』
「ふぐ……」
 濁流の水面から出たり沈んだりしながら、アユミがこんな風に言ってきた。
「ひとまず従うしかなさそうだよ。水の中じゃ闇雲に進んでもあの大型ドローンは振り切れない」
「……、」
 頭上からの声は一見力強くて、頼もしく聞こえるかもしれない。
 でも違う。
 ほだされるな。そうじゃない。
 ようは檻の中から獣を出したくないから出入り口を全部塞ぐって言っているんだ。自分で手に負えないって分かっている『何か』と何日でも一緒にいろって。大局的には正しいかもしれない。だけどあいつらは、僕達の命を守ってくれない。
 自分達のプランが崩されようものなら、さっきのアレが僕達の頭の上に降り注ぐ。
「……アユミ、今何時か分かるか?」
「ふぐ? そりゃあ、最初のエレベーターから結構経ってると思うけど」
「さっきスマホで見た。もうすぐ日付が変わる」
 短く答えたその意味が分からないなんて言わせない。
 自衛隊の連中はじっくり腰を据えて二ヶ月でも三ヶ月でもかけて助けられる命を助け、かつ二次被害を広げないよう用心に用心を重ねるつもりかもしれない。
 だけど、こっちはそれじゃダメなんだ。
 朝の六時前には陽が昇るはずだ。つまり、日光に弱い吸血鬼の姉さんのタイムリミットは決して無限じゃない。この嵐と洪水で地上から突き出た建物はどこもボロボロだ。全く光の差し込まない隠れ家を確保できる保証はないし、地下街や地下鉄なんかは軒並み水没してる。よしんば都合の良い隠れ家を見つけたとしても、そこにあのデロデロ宇宙人が攻め込んできたら? 昼の間は、姉さんはどこにも動かせなくなる。おそらくそこで逃げ場を失っておしまいだ。
 それに、危ないのはアユミだってそうだ。普段様々な防腐剤を注入して体の管理をしているゾンビの妹は、こんなヘドロ臭い泥水に長時間漬け込んでおいて良いアークエネミーじゃない。本来だったら今すぐ病院に連れて行って精密検査を受けさせたいくらいだった。
 ……事態が終息するのはいつになる?
 ゾンビ映画なんかじゃ指示を無視して隔離エリアから逃げ出そうとする生存者は無用な感染リスクを増やすとして、人類全体の敵扱いされる。僕だってリビングでポテチを食べながら観ていた時は馬鹿げたストーリーだと思っていた。でも違う。黙って指示に従っても死ぬだけです、みんなのためになりましたお疲れ様です。これでまだ家族を焼却炉行きのベルトコンベアから降ろさないとしたら、そいつは相当の野郎だ。
 脅威の正体も説明されず、自分の体が健康なのか何かしら汚染されているのかも分からない。なのに危険性があるからとりあえず永遠に保留なんて納得なんかできるか。
「何とかしよう……」
 停止線の内側は恐ろしい嵐と水没エリア、そして謎の地球外未確認知的生命体。外側はドローンと狙撃銃に代表される自衛隊。
「何とかしなくちゃダメだ」
 どうにかして夜明けまでに停止線を乗り越えて脱出しなくちゃ、おそらく姉さんとアユミの体は保たない。

 ひとまず濁流に流されて見た目の停止線から離れていく。しばらく真上に例のUFOドローンがついて回ったけど、僕達が指示通り近くのビルの壁に取り付くのを確認すると、不意にスポットライトの矛先がよそへ逸れた。
「……警戒エリアを離れたって訳か」
 僕達には何もできないってタカをくくってやがる。
 言うまでもなく、こっちの目的は吸血鬼の姉さんとゾンビのアユミを夜明けまでに隔離エリアの外へ逃がす事だ。
 元々はガラスの自動ドアか何かだったのか。完全に壊れて銀色の枠組みしかない出入り口を潜る。真っ暗な屋内も水浸しだった。腰まで泥水。吸血鬼は家主の許可がないと家屋に入れないって話があるようだけど、ここはもう廃墟扱いなのか?
 だけど、真っ先に意識を埋めたのは暗闇でも、鋭いガラスが残っているリスクでも、不快な泥水でもなかった。
「うっ……! 何だ、この匂い」
 黒い上着の二の腕で鼻を覆う。
 何かが腐っている、とは違う。真夏の運動部の部室だってもう少しまともだろうっていう、鼻に突き刺さるような強烈な刺激臭だった。
 そして改めてスマホのライトで辺りを照らしてみれば、見えてくるものもある。受け付けらしきカウンター、あちこちに沈んだ大型のケージ、ふやけたまま壁に残る犬や猫のポスター……。
「ペットショップだったのか、ここ」
「ふぐ!? 檻が沈んじゃってるよお兄ちゃん!!」
 こんな事をしている場合じゃないのは分かっている。そもそも手遅れだろう。だけど、どうしても僕はアユミに注意する事ができなかった。
 しかし、だ。
「しっ。ちょっと待ってくださいアユミちゃん、いくつかのケージは壊れているようです」
「そんなの! この濁流であっちこっちにぶつかったからじゃない? でも考えようによってはそっちの方が良かったのかな、お兄ちゃん。ひょっとしたら頑張って犬かきで生き残るチャンスがあった訳だし……」
「……、」
 待てよ。
 ケージが壊れて、逃げ出す……?
「くそっ、離れろアユミ!! 表を泳いでいたワニだの肉食魚だのの出所はここだ!!」
「ふぐっ?」
『壊れかけた檻』が他にもあるかもしれない。腰から下が見えない泥水の危険度がぐっと増す。
 なのに、だ。
「き、危険な子とそうじゃない子は分けられないのかな。やだよ。お兄ちゃん助けてよ……」
 ええいっ。
「……ビニールシートだ」
「えっえっ、どゆこと?」
「浮き輪になるものなら何でも良い。人の手でこんなの持ち上げられるか!」
 本当はこんな事している場合じゃないんだけど。
 ひとまず二階に上がる狭い階段を上り、廊下に畳んでまとめてあった青いビニールシートを引っ張り出す。こんなのでも縛り方に気をつけて耐水性のダクトテープで目張りすれば袋になるはずだ。
「マクスウェル、適当なサイトを覗いて風呂敷の縛り方を調べてくれ」
『シュア』
 袋は萎んだままで良い。ペットショップって事は、あるな、熱帯魚用のエアコンプレッサー。停電したら何万円もしたお魚が全滅しますじゃ困るから、非常用のバッテリーもあるはずだ。エアコンプレッサーとゴムホースを繋いで電源にバッテリーを接続すると、一階に戻る。
 まず萎んだままの袋を沈めてダクトテープでケージと固定。それから機械の力で空気を送り込めば一丁上がり。ぶわりと重たい檻が水に浮かび上がる。
「ほらアユミ一緒に押せ! 持ち上げる事は考えなくて良い!!」
「んっ、分かった!」
 ……結論からすれば、やっぱり散々だった。自力で檻を壊して抜け出すような危険生物はとっくにいなくなっている。無害な犬や猫は檻ごと沈められて助からない。ほとんど事後処理みたいな作業で、生き残っている小動物はほんのわずかだった。
 でも、
「生きてる……」
 いくつもの檻を階段の上に上げ、すっかり徒労に終わったアユミはそんな風に呟いていた。
「こっちのウサギまだ生きてる! 犬も何匹か!! あはは、良かった。ほんとに良かった……!!」
 ……敵わないな、こりゃあ。
 とはいえまさかここにいる動物をみんな連れていく訳にはいかない。僕達にできるのはずぶ濡れのケージからペットを出してやり、体を拭いて、清潔な別の檻に入れてやるくらいだった。後は、そうだな。
「お兄ちゃん、そのペットボトルなに?」
「ちょっとした時限装置。放っておいたら飢え死にするし、エサとか水とかまとめて置いていってもペースなんて考えずに食い散らかすだろ」
「ふぐ……」
「檻から逃がすのもダメだぞアユミ。この暴風雨の中じゃ足滑らせて溺れるだけ。よしんば生き残っても野生化して危なくなる」
 だから、だ。
 妥協点としては、
「時間に合わせて一定量のエサと水が落ちてくるような仕掛けを作る」
 これでも先延ばしが限界だ。チャンスを増やす程度のもので、絶対助かる保証はできない。流石に首都東京が何年も封鎖されるとは思いたくないけど……。
「助けを待てる環境を作ってやろう。できるのはそれくらいだ」
「分かったよ、お兄ちゃん」
「勝手に萎れるなよ。僕達が場所を教えてやらなきゃ誰も助けに来ないんだ。そのためにも早く外へ出る必要がある」
「ふぐ! そうだよねお兄ちゃん!!」
『厳密にはシステム経由でネットを使えば情報のやり取りはできますが』
 スマホの画面はアユミに見せなかった。野暮だから黙ってろマクスウェル。
 それで、だ。
 改めて情報を整理しよう。
 吸血鬼のエリカ姉さんは日光に弱い。大嵐や洪水でボロボロになった街じゃ完全に遮光できる隠れ家を確保できるチャンスは少ないし、よしんば見つけても例のくの字のブーメランみたいなデロデロ宇宙人(?)がいる。昼の間に見つかって襲われたら外へ逃げられない。
 濁流についてはゾンビのアユミも危ない。普段は分かりにくいけど、不衛生な環境に長時間さらしてはおけない。
 となると、一刻も早く停止線の外へ脱出する必要がある。ひとまずの目安は夜明けまでに。
 そのためにまず必要なのは、自衛隊? あの連中がどうやって停止線に近づく人間やデロデロを探知しているか、だな。
 停止線の外から大雑把に双眼鏡で監視しているだけ、なんて甘い話じゃないだろう。これだけ入り組んだ大都市で一人の撃ち漏らしも許さないとなれば、肉眼だけじゃ追いつかない。街は水没しているけど、意外と防犯カメラ網は生きているのか? あるいは偵察用のもっと小さなドローンが飛び交っていたり、衛星から監視されている線は? ……色々仮説は頭に浮かぶけど、根拠らしい根拠なんか何もない。そもそも自衛隊って名前は字面だけならそう珍しいものでもないけど、『本当の本当に』どんな活動をしているのかは、実は結構謎な組織だと思う。有事の際に対応する力があるのか、ないのか。こんな基本的な質問だって、人によって答えはまちまちになるんじゃないだろうか。
 ……一つ一つ潰していくしかないか。
「マクスウェル」
『シュア』
「自衛隊の手足の長さを測りたい。ネットの利用状況は? このスマホが通じていて、ヤツらのドローンが飛び回っている以上、何かしらの生きた回線があるはずだ。官民問わない、分かる範囲でリストアップ」
『これはスカイツールでの報告と重複するところもありますが』
 いちいち前置きしてくれる辺り、無駄に高性能なアルゴリズムに育ってしまったものだ。
『まず第一に、システムは警察消防などの優先信号コードに相乗りしています。平たく言えば、民間敷設の光ファイバーや無線LANです。一般ユーザーは締め出されているため分かりにくいですが、東京のネット環境は有線無線共に生きています』
「……つまり、防犯カメラや警備会社のセンサーの類も?」
『シュア。ただしこれらのカメラは一般に夜間であっても十分な光源があるのを前提にしています。ここまで真っ暗な東京の街で記録を残す事は想定されておりません。壁や屋根に大穴が空いて自由に行き来できる事態もです。監視エリアはかなり低減しているのでは』
 ……それでも、元から閉店後は真っ暗になる銀行やデパートなんかの屋内に取り付けられた防犯カメラはお構いなしのはずだ。次からは見かけたら死角からカメラを潰す努力をした方が良いかもしれない。
「自衛隊のドローンは? 電波がなければオモチャに指示出しできないけど、まさか民間回線に相乗りって訳じゃないだろう」
『基本的には地上敷設の大型アンテナを使った、無線式の広域データリンクを使用している線が濃厚です。流石に暗号解析は難しいため、予測でしかありませんが。ちなみにシステム側での捕捉が遅れたのは、携帯電話や無線インターネット、テレビ放送など一般の情報通信電波からあまりにかけ離れた帯域が使われていたためでした。超長波です』
「説明頼む」
『シュア。波長が最大で二〇メートルにもなる大きな振幅を使った電波になります。非常に減衰率が低いのが特徴で、GPS普及前にはたった八基の地上局で全世界をカバーした位置情報システムで採用されていました。現在はサービス終了しています』
 開発者には申し訳ないけど、なんかミリタリーな遺物っぽい香りがしてきたな。GPSはアメリカ、つまり友好国ではあっても外国依存のサービスなんだし、自分の国だけで形にできないものかと自衛隊の中でガラパゴス的に進化を続けているのかも。
「衛星回線は?」
『いくつか飛び交っていますが、通信の頻度は低めです。大量のドローンを常時飛ばすために使っている可能性は低いでしょう。上との報告のためではないでしょうか』
 ……つまり、停止線の向こうに取り付けられた大型アンテナさえ何とかなれば……?
「他に気になる電波は? 民間のブロードバンドと自衛隊のデータリンクの他に利用帯域やユーザーはいるのか」
『辺りを飛び交う電波だけならそれこそ電波時計の基準周波数から電波塔に依存しない衛星放送まで多岐にわたります。東京を除く関東六県を中心に、スカイツール依存で行われてきたテレTの放送が途切れている中それでもBSラムダは深夜アニメがまだ映るとして、掲示板では覇権が変わったとお祭り騒ぎになっていますが』
 ……相変わらずあの界隈は元気が無駄に有り余ってるなあ。深夜に作業する事の多い僕も他人事じゃないけど。
「一方的に送りつけるだけの片道サービスはひとまず除外。双方向では?」
『地デジ放送もdボタンなどで視聴者参加可能ですが』
「除外」
『シュア。放送電波以外ですと、いくつかアマチュア無線の電波が飛び交っています』
 っ。
「それは、僕達の他にも隔離エリア内に生存者が取り残されてるって話か!?」
『ノー、発信源は停止線の外からです。おそらく呼びかけに応じる者がいないか、ソナー感覚で不定期に信号を放っているだけでしょう。それからこちらの安否を真剣に考えているかも未知数です。生存報告が上がり次第、SNSにでも記事を投稿して注目を集めたいだけかもしれません。今はもう火事の現場に居合わせたらイイナ! を稼げるラッキーと考える時代ですからね』
「となると」
『ひとまず自衛隊のデータリンクを注視すべきでは』
 超長波だったか。
 地上、あるいはこれだけ水没してたら船か? とにかく馬鹿デカいアンテナ自体をへし折るか、あるいは電波障害とか割り込みで信号を遮断するなり侵入するなりすれば、あの宇宙船みたいなドローンから頭の上にミサイル落とされて粉々にされる心配はなくなる。
 もちろん街の防犯カメラや衛星画像も怖いけど、この大嵐の夜だ。分厚い雷雲が頭上を覆う中ではまともな映像はもちろん、土砂降りの冷たい雨のせいでサーモグラフィーだって機能しないだろう。
 チャンスは、ゼロじゃない。
 水面より下を進むのか、ゴミなど大型の漂着物に紛れるのか、酸素ボンベでも手に入れて水没した地下鉄でも利用するか……。リアルタイムで不規則に巡回するドローンさえ何とかなれば、夜明け前に包囲の外へ出るって目標は叶えられるかもしれない。
 考えろ。
 プロの技術者集団が作った本物の兵器だからって、向き不向きが全くないって訳じゃない。
 どんな分野だって同じだけど、一つで万事を解決するマシンなんか存在しないし、作ろうともしない。組織っていうのは将棋やチェスみたいに色んな駒を揃えてあらゆる方向から敵の動きを封殺する。はずだ。
 そういう意味じゃ、ドローンしか投入できない今の状況は自衛隊にとっても歪なんだ。
 たった一種類の駒を一〇個も二〇個も並べて将棋をするようなもの。しかもドローン自体はあれば便利だけど戦場の主役にはなれない。桂馬とか香車とかの立ち位置なんだ。
 どこだ?
 そりゃあ簡単に見つかるトコにはないだろうけど、絶対あるぞ。歪みが集約したような、でっかい穴が。
 問題は、その穴の存在に自衛隊側が自覚あるのか、ないのかなんだけど……。
「そもそも脱出するって言っても、東西南北どっちに向かうの?」
 拾ったタオルでわしわし髪を拭いているアユミが根本的な事を尋ねてきた。……前にタオル投げた時もそうだったけど、こいつやっぱり薄手のジョギングウェアには気が回ってないな? まったく困った妹め、両手頭にやってるから思いっきり透けてる部分を強調してるようにしか見えん!! 胸元に名札のガードもないからダイレクトだよ!?
「やっぱりさっき見つかったトコはまずい、よね? となると正反対かなあ」
「いいや、自衛隊同士は無線で連絡を取り合っているんだ。僕達の目撃情報はとっくに拡散してる。今じゃどこでも似たように警戒してるだろ」
 もちろんじっくり解決に臨むなら、針の穴みたいな警戒網の綻びを見つけてかい潜るのが一番だ。
 だけど、僕達にその選択肢はない。
「そもそも、自衛隊が設定した停止線? が厳密にどこをどう這い回っているか調べるだけの時間がない。まして隙を見つけるだなんて! 一体何日かけて連中の巡回コースを覚えなくちゃならないんだ」
「ふぐ」
「こっちは夜明けまで、あと五時間そこらで脱出しないといけない。どこでも危険度が同じなら最短コースで行くべきだ。分かっている停止線はあそこだけ。だからあの一線を突破する。それしかない」
 ヴン!! と虫の羽音や電気シェーバーを大きくしたような音と共に、例のスポットライトがすぐそこ、窓の外を通過した。天から一直線の強烈な光がぬるぬるした動きで移動していく。
 例のドローンだ。
 こまめにエリアを巡回しているのか、単純に数が多いかは分からない。
 姉さんはそっと物音を隠しながら、
「でもサトリ君。言うまでもなくそれは一番危ない選択肢でもありますよね? 危険度がみんな一緒というだけで、値が下がっている訳ではない」
 ……そうなんだよな。
 そこしかありませんハイ突撃なんて展開になったら、あのドローンが頭の上にやってくる。その気になれば秒で粉砕だ。
「姉さん。サーチライトを浴びせられていた時、逆光の向こうにいた兵隊が見えていたようだったけど」
「この場合は自衛隊ですね」
「セミオートがどうとか…… 他には何かあった?」
「いえ、基本的には普通科クラスで固めていたようでした。水回りの災害環境ってやりにくいんですよ。船でも車でもホバーでも入り込めないから。それに、専用の狙撃銃はニッチなアイテムですから、包囲網全域へ均等に支給するのは無理があると思います。大半は五・五六ミリのアサルトライフルでしょう」
「アサルトライフルは飛距離だけなら七〇〇以上飛ぶけど、実際逃げる相手を狙ってまともに当てられるのは二〇〇から三〇〇メートルくらいかなあ。電波塔へし折るほどの、この嵐だし。兵器って見栄の世界でもあるから、スペック一覧だと大袈裟に書いてあるんだけどね」
 ……二人が妙に詳しいのは、光十字時代の話もあるんだろうなあ。
『状況にもよりますが、開けた「上」を進まない限り、これだけ入り組んだビル群の中で直線の射線を確保するのは至難だと思われます。ひとまず無視して構いません』
 むしろ停止線を越えて、至近まで肉薄してからが怖そうだけど、そうだな。脱出する前から怯えるような話でもない。
「マクスウェル、あのドローンの挙動についてお前の意見を聞きたい。あれはマニュアルとオート、どっちを重視している?」
『トラフィック量を観察する限りマニュアル操縦でしょう。つまりRCヘリと同じです。元々、ドローンやティルトローターは横風に対する安定性に難のある構造をしています。これだけの暴風雨の中プログラムに丸投げするのは危険です』
「……、」
『とはいえ、自衛隊のデータリンクを利用していますので、そう簡単にサイバー攻撃で侵入できるものではありません。ジャミングについても、そもそも超長波なんてニッチな帯域の電波を放てる機材を調達するだけで苦労させられるでしょう』
 いや、待てよ。
 マニュアルメインって事は、ドローン本体以外にも……。
「マクスウェル、この通信電波は自衛隊に傍受されていると思うか?」
『ノー。だとすればもっと早い段階でドローンからコンタクトがあったはずです。システムの通信は他の信号に紛れて潜伏状態を持続できているかと』
「データリンクの他に、アマチュア無線の電波が飛び交っているって話があったな。停止線の外から飛んできているっていう」
『高確率で面白半分のソナーです。反応を返して助けを求めてもSNSや掲示板でゲラゲラ笑われるだけですよ。生存者キター』
「……当然、そっちは自衛隊に傍受されてる?」
『シュア。何の暗号処理もしていませんし、他のフォーマットに偽装している訳でもありませんからね』
「……、」
 少し考える。
 パズルのピースは揃ってきた、か?
「マクスウェル、自衛隊のデータリンクは良い。レベルを一段落として、警察や消防の無線を聞けないか? エイリアンや宇宙人って言葉が出てくるヤツ」
『シュア。可能ですが、膨大ですよ。何を調べれば?』
「……現場の声を知りたい。実際のところ、どれくらい混乱しているか。プロアマ問わず、誰だって寝耳に水だったはずだ。冷静でいられるはずはないと思う」
 あのUFOじみたドローンはマニュアル操縦なんだ。
 ドローン本体やデータリンクは攻撃できなくても、そいつを止める方法は他にもあるかもしれない。
「それから可能な限り停止線の向こう側、ドローンの発着基地についての画像も頼む。間取りや見取り図を知りたい。防衛ナントカだと民間衛星地図は使えないかもな、それでもそういうの好きな人いるだろ。この土砂降りの中、超望遠のバズーカみたいなカメラ構えた物好きがネットに画像上げていないかチェック」
『大量のフェイク画像が出てきそうではありますが……』
「気象データと照らし合わせるんだ。大嵐って言っても刻一刻と風向きや雨足は変わっているからな。撮影日時と一緒に確認すれば良い。お前本業は災害環境シミュレータなんだからできないとは言わせないぞ」
『シュア。ようやっとデコメガネ委員長の水着ダンス以外に価値を見出していただいて光栄です』
 少しだけ。
 本当にほんの少しだけ、流れが変わってきた。
「お兄ちゃん、つまり何がどうなったの?」
「やれるかも。そういう話だ」

 結局鉄砲構えてドンパチなんて僕達にできるはずもないのだ。
 第一線の軍用データリンクにアドリブで侵入するのだって無理。僕達はアクション映画や海外ドラマに出てくるヒーローじゃないんだから。
 現実的な線を追い駆けていくと、自然と叩くべき箇所も見えてくる。
 そう。
『この分野』は明確な脅威になりつつあるけど、プロの軍隊や組織だって未だに明確な対処法が構築できていないはずなんだ。
『アマチュア無線の電波を拾いました。いつでも行けます』
「分かった」
 ……さて。
 僕達はUFOみたいなドローンが飛び交う水没都市を抜けて、自衛隊が張った停止線の向こうまで抜け出さないといけない。それも夜明けまでに。ざっと見て五時間弱、実質的にチャンスはこの一度きり。失敗したらおそらく立て直しは効かない。
 アユミは最後の見回りと称して、ペットショップの生き残りにエサをやっているようだ。まあ、下手に逃がしても寿命を縮めるだけだってくらいは理解してくれているはず。あの餌やり機は故障さえしなければ二週間くらい保つ。飲み水だってショップ内にあった消毒タブレットを入れているから大丈夫のはず。トイレとか衛生面は不安が残るけど、飢え死にさせるよりはマシと考えるしかない。二週間。それまでに事態が終息してくれる可能性に賭けるしかないな。
「サトリ君……」
「姉さん」
 準備と言っても実際に作業するのはほとんどマクスウェルだ。手順の確認がてら一人でスマホを弄んでいると、エリカ姉さんが話しかけてきた。
「順調にいきそうですか?」
「確率的にはこれ以上はなさそうだよ」
「そうではなく」
 姉さんはわずかに逡巡したのち、
「私とアユミちゃんはアークエネミー、不死者です」
「?」
「覚悟さえあれば、かなりの割合肉体を破壊されても一命を取り留めるという訳です。従って、私達に気を配って夜明けをリミットにする必要はありません。焦ってサトリ君が倒れてしまっては元も子もないんですから」
「ちょっと、何言ってんの姉さん! 今ヤバいのは確実な夜明けが待っている姉さんと、濁流にさらしておけないアユミだろ!? 僕だったら……」
「私達は、最悪細切れになって水を漂う選択肢もあるんです。吸血鬼は心臓、ゾンビは脳さえやられなければ」
 ゾッとするほど。
 恐ろしく芯の通った声だった。
「『本当の本当に』手段さえ選ばなければ、私達はかなり選択肢の幅が広がります。私が、そしてアユミちゃんもそうしないのは、人間のサトリ君を一人だけここに残すのが耐えられないからです。だからお願いします、本当にお願い、サトリ君。私達のために不安定な確率や可能性に自分の命を預けたりしないでください。どうか、お願い……」
 ……ろくに明かりがないから気づかなかったけど、さっきよりもさらに顔色が悪くなっている。白いというより青みがかっている。無理もないか、スカイツールのエレベーターでは千切れたワイヤーに腕を落とされて、今も流れのある水に弱いって弱点を刺激されたままだ。不死者と言っても万能じゃない。
 くそ。
 僕がしっかりしないとな。
「分かったよ、姉さん」
 具体的に何が変わる訳でもないかもしれない。
 だけど、これ以上の言葉はない。姉さんに心労を押し付けるのだけは、絶対にダメなんだ。
「確率論はやめだ。絶対に全員で生きてここを出る。それで良い?」
 エリカ姉さんは大きな胸を上下させ、見て分かるほど安堵の息を洩らしていた。
「……ダメですね、私。こんな風に弱い部分を見せて弟に言う事を聞かせるだなんて。頼れるお姉ちゃん失格です」
「今さら何言ってんの。姉さん、言うほど強くもないでしょ」
「まあ」
「……何その呆れ顔。夜明け前によその部屋が妙にドタバタしてると思ったら、ゴキブリ一匹に錯乱してネグリジェ一丁で抱き着いてきたのはどこの誰?」
「あれは不可抗力というか、ノーカウントでしょう!? だっ、大体顔色一つ変えずに新聞紙を丸めて棍棒作るサトリ君の方が勇気ありすぎなんです! ……まあ、その、おかげでいつも助けられていますけど……」
 子供みたいに唇を尖らせ、大きな胸の前で両手の人差し指をちょんちょんくっつける姉さん。もちろん首引っ込めての上目遣いであった。カワイイ。……んだが、害虫まわりならそれこそ古巣の東欧一三氏族にも蝿の権化みたいなヤツがいたような? 微妙に裏の対人関係が気になるコメントだな。
「姉さん」
「はい」
「いったん始めちゃったらもう引き返せない。自衛隊はきっと、容赦をしない。どっちが正しいか正しくないかじゃない。というか、その論だときっと自衛隊の方が正しい。僕だってリビングでテレビを観てたら思うよ、余計な事してないで隔離エリアの中でじっとしてろって。僕達は、脅かす側だ。だから、守るための軍隊は絶対に容赦なんかしない。僕たちは、世の中のルールを曲げてでもみんなで生き残るって言っているんだ。悪者になる準備はオーケー?」
「もちろん」
 即答。
 こういうところは、やっぱり姉さんであった。
「ここで家族を見捨ててしまったら、何のために光十字の暗闇から這い出てきたか分かりませんもの。私は、天津の家の者です。七〇億人を敵に回しても、ここだけは曲げられません」
 それならよし。
「マクスウェルも悪かったな。災害環境シミュレータにとっては、今の状況って存在意義を直接否定してしまってるだろ。重ね重ね申し訳ない」
『ノー。システムはユーザー様の不足を補う事を第一に定義しております。よってユーザー様にとって意義のない演算を行うつもりはありません』
 ……本当に、僕は恵まれている。
 こんな所に一人ぼっちだったら、実際にできるできないを論じる前に抵抗の意思が折れていたかもしれない。
 そして、周りに与えてもらったのに、そいつをみすみすドブに捨てる道理なんかない。絶対に活かす。恩を仇でなんか返すものか。
「マクスウェル」
『シュア』
「それじゃあ始めるぞ。迷彩服のプロ集団相手に最先端の戦争を仕掛けてやろうじゃないか」
『了解しました。陸上自衛隊を脅威対象として定義、最強モードで徹底抗戦に入ります』

 実際のところ、答えを言ってしまえば何だそんなものかと思うかもしれない。
 一番の脅威はミサイルをしこたま抱えたUFOみたいなドローン。だけど分厚い装甲の塊である殺人兵器を撃ち落とすのは現実的じゃないし、操縦電波に割り込んで制御を乗っ取るのも以下略。相手は自衛隊最新のデータリンクだ。暗号難度やファイアウォールはケタ外れで、とてもじゃないけど一朝一夕で破れるとは思えない。
 ならどこを狙うか。
 ドローンはマニュアル操縦なんだ。残りはもう限られている。
「人だ」
 僕は結論を言った。
「ドローンを操っているのは人。停止線の向こう、安全地帯にある発着基地を混乱の渦に叩き込めばドローン編隊は無力化できる!」
 これが完全なプログラム自律飛行ならお手上げだったけど、ひたすら入り組んだ市街地に暴風雨だ。ヘリ、ティルトローター機、そしてマルチローター式ドローンみたいな『プロペラで垂直離着陸する』機体は基本的に横風に弱い。こればっかりは構造的な問題だから改善のしようはないって訳。
『アマチュア無線の電波をキャッチしました。いつでも交信可能です』
「声の波形を変えてくれ。見た目は嵐のせいでノイズがひどいくらいのさじ加減で」
『シュア』
 真剣にこちらを心配して呼びかけてくれるなら罪悪感も湧くけど、こいつらはSNSだの掲示板だのにネタを投下したいだけらしいからな。それならこっちもせいぜい利用させてもらおう。
 一度深呼吸して、それから頭のてっぺんから突き抜けるような金切り声をイメージ。ここは思い切りが大切だ。
「たすけって、くれえ!! ひい、ひい。何が自衛隊だ。このままじゃ殺されちまう。うげえ、うっ、いやだ。このまま死にたくなぁい!!」
 実際のところ、顔も見えない無線相手が食いつくかどうかはあまり関係ない。ぶっちゃけここで興味をなくしてスイッチを切られても。
 欲しかったのはきっかけだ。
 そして聞かせる相手は物好きな素人じゃない。自衛隊はプロだ。どんな些細なものであれ、活動エリア内を飛び交う電波は察知次第片っ端から傍受するはず。
 ウィルスやDDoS攻撃だけが情報戦じゃない。むしろこの現代社会でもっと深刻なサイバー攻撃は他にある。
「水も食料がない。このままじゃ飢え死にだよう……」
 こっちはアマチュア無線の相手へ必死に訴えている『体裁』さえ保てれば良い。最低限、聞き耳を立てている自衛隊が怪しまない形であれば。

「それにどこまで逃げればゴールって事になるんだ。あのブーメランみたいなデロデロ、自衛隊のドローンにも張り付いてたぞ。今頃発着場は汚染されてるっ。もう停止線の外もダメだあ!!」

 すなわち、フェイクニュース。
 SNSのアカウント一つあれば国家さえも揺るがす、最低最悪のインターネット兵器。
 もちろんいきなりブーメランとかデロデロとか言われても、アマチュア無線の連中はついてこられないだろう。だけど傍受している自衛隊は違う。連中だって生存者からのナマの情報には飢えているはず。今頃、大至急確認を取っているはずだ。
「もうダメだあ……」
 ことさら、この世の終わりみたいな声を作ってみた。演技なんてチープなものだけど、波形を変えて噛ませてノイズまみれにすれば違和感なんて潰してしまえる。
「だってあの調子じゃ一〇や二〇じゃきかないもの。あいつらは目で見てもカメラで撮っても素通りだ! はは、あいつらもうダメだあ!! ならどこまで歩けば良いんだよう!?」
 タネは、蒔いた。
 あと一押しするならっ、
「おいっ、これ聞いてるお前達。ヤバいと思ったら使い終わったフィルターだ、コーヒーの粉っ。とにかくそいつをお守り代わりに持ってろ!! 理屈分からんけどひょっとしたらヤツらから見逃してもらえるかもしれないっ!!」
 何でも良い、争奪戦の材料を作っておけ。
 船が沈んで、みんなまとめて海に突き落とされても争いは起きない。板切れや救命ボート、もしかしたら頭を使って立ち回れば自分だけは助かるんじゃないか……っていう抜け道があるから人は醜く掴み合いになるんだ。
「……サトリ君。ドローンの動きにブレが出てきましたよ」
「向こうで争奪戦が始まっているんだ。使い終わったコーヒーの粉なんて何の価値もない生ゴミのために命まで張って」
「ふぐう。じゃあ今なら」
「ドローンの操縦桿は誰も握っちゃいない!!」
 自衛隊はアサルトライフルやスナイパーライフルで身を固めていたんだっけ。流石に味方に向けるような事までは願ったりしないけど……。
 何にしても、自衛隊にとって未知の現象ってのが大きかった。単にカエルみたいな肌の宇宙人だけじゃない。社会問題になっているフェイクニュースだって抜本的な対策は打ち出せずじまいで足踏みしている状態なんだから。泣きっ面に蜂、ダブルパンチは縦割りの体育会系社会にとってさぞかし堪えた事だろう。たとえ部隊の中の少数が何か変だと勘付いても、上が混乱してしまえば下は異を唱える事もできないんだから。
 枯草色にミステリーサークルのデロデロはいったん風景に溶け込んでしまえば目で追い駆けられなくなる、っていうのも大きい。何回確認作業をしたって疑心暗鬼を潰せない。
 今ならいける。
 というか正確な情報が集まって自衛隊が冷静さを取り戻したら、唯一無二の綻びが完全に閉じてしまう。そうなったらチャンスはもうない。
 連中はマニュアル遵守の世界だ。
 そこに記述が並んでいれば命知らずの突撃命令にだって従えるし、手榴弾の上に覆い被さって味方の損害を減らせるんだろう。躊躇なく。だけど、マニュアルに書いていない未知の現象は処理できない。完成された隊員じゃなくて、当たり前の人間の部分が顔を出してしまう。
 そもそも、恐怖がなければ賛同なんかしない。
 わざわざドローンに専念して歩兵の侵入を禁じたのは何故? そこに合理性以外の単純な恐怖がないと言えるのか。連中だって本気でここで封殺しないとまずいと思っているからこそ、首都東京を切り捨てたんだ。中に守るべき生存者がいると分かっていても。
 トラウマ。
 そいつが、たった一つのデマで爆発し、無秩序に広がっていく。
「……いける」
 念のため、間近で滞空し、強烈なスポットライトを垂直に落とすUFOドローンへ小石を投げつけてみた。反応がないのを確認してから、
「もぬけの殻だ。今ならドローンからミサイルをぶち込まれる事もない!」
 ドローンは便利だけど戦場の主役にはなれない。将棋で言えば桂馬や香車。そんなニッチな駒だけびっしり並べて盤を埋めたら、どこかに歪みが浮かび上がる。
 それが。
 ここだ!!
「行くぞ。今しかない。姉さん、アユミも!」
「了解しました」
「ふぐ」
 ドローンの他に停止線の辺りにはアサルトライフル構えた迷彩服の連中がいるようだけど、あっちはよっぽど開けた空中ルートでもない限り、入り組んだ市街地じゃ真っ直ぐな射線を確保できないらしい。『停止線の中には入れない』のが災いしているんだろう。
 アユミは一度だけペットショップの入った雑居ビルの奥を振り返って、
「……いったんバイバイ。必ず助けを呼んでくるからね」
「マクスウェル」
『シュア。座標情報は記録済みです。問題さえ終息すればすぐにでも救援要請を出せます」
 ……そういう意味でも、早く何とかしないとな。くの字のブーメランに似たデロデロだか平和を守る自衛隊だか知らないが、いつまでも東京をこんな状態にはしておけない。
 みんなで水没した一階に降りる。
 再びあの不快な泥水に腰まで浸かる羽目になった。姉さんとアユミにはビニールプールを押してもらって、僕は一人先行して水を掻き分け、雑居ビルの出入り口を目指す。今はまだ屋内。水については支流も支流、吹き溜まり。だけど、早くもぐぐっと強い力で黒い上着ごと背中を押されるようだった。外に出て本格的な流れに呑まれたらもう脱出できない。僕達なんて湯船に落ちた羽虫も同然、しかも今は排水口の栓を抜いてある。大量の雨水を飲み込む共同溝まで一直線だ。
「……、」
 倒れた電波塔を利用した空中ルートを使えない以上、それでもこっちは濁流と格闘するしかない。僕達はペットショップの入っているビルからゴムボートの代わりを確保していた。おそらく魚の展示販売用だろう、子供向けのビニールプールがあったんだ。洗面器やタライと一緒で、こんなものでも水に浮かべれば船の代わりになる。
「いいかアユミ、オールで漕いでもダメだ! 地下に水を逃がすための水門、でっかい排水口に飲み込まれる!!」
「分かってる!」
「まずロープを投げてピンと張る。十分な手すりを確保してから、そのロープをにベルトを引っ掛ける事で橋渡しするぞ。この方法なら濁流も怖くない!」
 ドローンは誰も操縦してない。
 下を進む限り、普通のライフルは射線を確保できない。
 分かっていた。
 僕が自分で提案した作戦だった。
「……、」
 だけど実際に身を乗り出してみれば、まるで重たい吊り天井が頭の上にぶら下がっているようだった。結局は予測、僕は発着場の混乱をじかに見ている訳じゃない。もしも、思った以上に自衛隊が冷静だったら? あのドローンが何かの気紛れで再び動き出せば、ミサイルを落とされて僕達は粉々だ。
 命がかかっているんだ。
 それも自分一人じゃない、姉さんと妹の分まで。
「始めるぞっ」
 道具は何もかも手作りだった。猫トイレの砂を均すための熊手にロープをくくりつけ、忍者グッズの鉤縄みたいにしたものを振り回す。狙いは濁流を挟んで向かい側、別のビルの壁から突き出た蒸気パイプだ。
 やるべき事は分かっていても、ぶっつけ本番で成功するとは限らない。重心なんかの勝手が分からず、暴風雨に翻弄されて、二回三回と失敗を繰り返す。
 それでも何とかして狙いの突起に熊手を噛ませる。ぐいぐい引っ張って強度を確かめながら、
「よしっ」
「こっちの端も引っ掛けるだけ? 結んでおかないの?」
「あっちこっちロープを張ったままじゃ足取りを追ってくださいって言ってるようなもんだろ。ドローン発着場の混乱がいつまで保つは分からない。濁流を渡ったらその都度ロープは回収。それくらい慎重に行こう」
 両方引っ掛けるだけだと若干強度が心配だけど、こればかりは仕方がない。
 頼りの綱は子供用ビニールプールなんだけど……よし、浮力は十分。まず水に弱い姉さんを乗せて、アユミが乗り込み、最後に僕が。
 アユミと姉さんには軍手を渡してあった。アークエネミーとしての筋力は桁違いだけど、それでも素手でロープと格闘させる訳にはいかない。U字に曲げたベルトを引っ掛けるつもりだけど、何のタイミングで手を挟むかは分からないし。
 ついに。
 出た。表に。上はミサイル満載のドローン、下は地獄の底まで続く濁流。しかもどこに宇宙人とやらが潜んでいるか分からない。これ以上ないくらい死が蔓延した屋外に。
 管理の外に出る。
 それはつまり、自由と引き換えに安全も見失うって事だ。
「わわっ。 何もしなくても勝手に進むよ?」
「濁流に対して直角じゃなくて、斜めにロープを張れば流れの力を味方につけられるからな。それよりベルトは離さないでくれよ。リカバリーは多分無理だ」
 ペットショップを抜けて、濁流を横断し、そのまま別のビルへ。
 距離にして一〇メートルあったか。
 だけど僕達は今、全ての状況を作っている自衛隊の予測を外れた場所まで突き進んでいた。
 死んでいない。
 僕達は違反をしてもまだ気づかれていない。生きているんだ!
「やれる……」
 端まで辿り着くと、屋内へ。いったんビニールプールから降りてロープを上下に揺するように引っ張り、向かい側の熊手を突起から取り外す。
「ルーチンはできた。後は同じ事の繰り返しだ。このまま進めていけば、停止線を越えられる!」
 最短最速の停止線はさっき警告を受けた辺り。多少流されたここからだと、距離にして二、三〇〇メートルといったところか。おそらく共同溝のある隅田川辺りをなぞる形で設定されている。
 こっちとしてはできるだけヤツらの予測の裏をかきたい。つまり、そんな所絶対通れないとタカをくくっている場所。そこが一番警戒が緩いはずだ。
「……できるだけ川沿いの水門、でっかい排水口に近づいていこう。普通に考えれば自殺行為。でも今の僕達なら通り抜けられる!」
 地味でも何でも良い。
 とにかく同じ事を繰り返し、ロープとビニールプールを駆使して少しずつ小刻みに濁流を制覇していく。
「近づいてきた……」
 ピンと張ったロープを掴んだまま、アユミは真上を見上げていた。両手が塞がっているから白いタンクトップの薄い胸元が無防備すぎる。
 ドローンとは違う、真正面から突き刺すような固定のサーチライトの光があった。だけど位置が高い。三階か四階くらいある。何かしらの屋上を陣取っているのか、鉄パイプでも組んで急拵えの見張り台でも作っているのか。
「連中、やっぱり屋根伝いのルートを一番警戒してるみたいだな」
 僕達も最初はそれでやられた。
「まともに泳いでも水門に飲み込まれるだけだけ、濁流に力業で抗うだけの力を持ったエンジン付きのボートみたいに大きな的ならドローンで上から見つけられる。やっぱりタカをくくっていたんだ。僕達は死角に潜り込めた……っ」
 ヴァン!! と歪んだプロペラの唸りが耳に刺さったのはその時だった。
 真上から突き刺さるような光が降り注ぐ。
「ドローン……っ」
「でも挙動がおかしい、サトリ君伏せてっ、横風に煽られています!!」
 やっぱり遠隔地で誰かが操縦桿を握っている訳じゃないんだ。
 壁に激突して潰れたドローンは、それこそ子供の癇癪で投げつけられたプラスチックのオモチャのようだった。
 そして呑気に見上げている場合じゃない。
 バスケットゴールに入ったボールと一緒だ。壁に当たった、軽自動車よりも大きな機械の塊が、そのまま落ちてくるっ!?
「……っっっ!!」
 ズボンのベルトをUの字に曲げて真上を走るロープを挟み込んで両手で掴むと、後はもう、奥歯を噛んでみんな一緒にビニールプールの底で丸まるくらいしかできなかった。映画みたいに飛び込む選択肢はない。落ちれば濁流に飲まれて巨大な排水口まで一直線だ。
 少し離れた場所に大きなスクラップが落ち、派手な水柱が上がる。不意打ちの大波にビニールプールが下から突き上げられ、アユミが慌ててピンと張ったロープ引っ掛けたU字のベルトを掴み直す。
「あぶなっ」
「まだ気を抜くなアユミ! あいつは爆発物の塊だぞ!!」
 くそっ。
 もう少し、あと少しで停止線に差し掛かる。あそこさえ越えてしまえば、僕達はしれっとした顔で『どこにでもいる一般人』に紛れ込める。宇宙人に自衛隊? そんな連中だって追ってこれなくなるだろうに。
 姉さんが僕とアユミの頭を掴んで無理矢理伏せさせた。
 直後に閃光と肌に突き刺さるような熱。
 もう音なんて聞こえなかった。
「……ちくしょう」
 それでも、みんなしてロープに引っ掛けたベルトを掴んだ。流れを利用して、最後の岸を目指す。
「穴が空いてる……破片が刺さったんだ。お兄ちゃん、このビニールプール!?」
「もうすぐそこだ、気張れアユミ!!」
 今さら引き返す選択肢はない。
 どうにかこうにか、最後の五メートルを渡り切る。
「はあ、はあ……!!」
「着き、ました。サトリ君、停止線です、越えたんですよ私達……」
 相変わらず腰まで水に浸かったままだったけど、ゴールテープなんてなかったけど。思わず気を失ってしまいそうなほどの安堵と疲れが襲いかかってきた。濡れてぐちゃぐちゃなのが気になるのか、姉さん達は軍手を外していた。
 ここは……。
 皮肉な事に、無人の交番らしい。
 警察関係なら色々専門的な道具もありそうだけど、かえって怖くて手が出なかった。拳銃なんか拾っても使い方が分からない、下手すると家族の背中に当たりかねない。……それに多分、あの連中相手に本気の撃ち合いなんて状況作っちゃダメだ。そのやり方だと生き残れない。
 そう。
 そういう話だったんだ。

 ドカカッ!! と。
 窓の外から凄まじい人工の光をぶつけられてしまった。

「くっ……!?」
 じえい、たい!!
 サーチライトだ。慌てて両手で顔を庇い、窓から離れようとしたけど、それで何になる? こっちは小さな箱の中。アサルトライフルやスナイパーライフルを向けてくる自衛官が一体どれだけ外を囲んでいるか、もう数えたくもない……!!
「ふぐ、どうしてここが……停止線の発着基地だって、ドローンの操縦桿を放り出すほどの大混乱のはずなのに」
「……そうか、その落ちたドローンだっ。ロストの報告があったから辺り一帯の警戒度が上がったんだ、ちくしょうっ」
 停止線の中には自衛隊は入ってこない。
 だけど停止線の外なら違う。
 普通に足を使った見回りもあり得る。僕達は馬鹿が勝手に鳴らした警報が響き渡る中、フェンスを乗り越えようとしているようなものだったんだ!
 警告なし。
 さっきのドローンみたいに声を掛けてくる事もない。連中やる気だ。こんな薄い壁が何の役に立つっていうんだ。小石一つ落としただけで狭い小屋みたいな交番ごと蜂の巣にされるっ!!
「マクスウェル、周辺地図を呼び出してくれ。どこかに抜け穴は?」
 返事はなかった。
 自分の心臓の音だけがいやに響く。
「マクスウェル!!」
 ジャミングかっ。
 閃光で目を潰し、お次は電波まで封じてきた。これ以上はない。下拵えが終わった以上、自衛隊は躊躇なく引き金に指を掛けてくる……!!
 まさしく絶体絶命。だけど僕はハリウッドスターじゃない。伝説の特殊部隊にも所属していない。ただの高校生。その目線で、今現実にできる事を考えろ。
 できる事は?
 やれる事は何だ!?
「アユミ、姉さんも。ビニールプールはまだあるな」
「ふぐ。でも破れちゃってるよ、もう使い物にならない」
「良いんだ」
 交番の机にあった耐水性の布ガムテープで破片の刺さった辺りを適当に塞ぐ。
 むしろパンパンに膨らませて十分な浮力を与えてしまったらダメだ。沈めておけなくなる。
 つまり、
「……こいつが最後の生命線だ。酸素ボンベの代わりになる。合図と共に泥水の中に潜れ。腰から下は誰にも見えない。ギラギラしたサーチライトのせいで水の表面は温度も上がってる、サーモだって正常に機能しない。ようは、連中の足に直接ぶつからなければ良いんだ。そっと進めば自衛隊の間をすり抜けられる!」
「ギャンブルになりますよ……」
 分かってる。
 あの泥水の中じゃこっちだって視界を確保できない。どこに何人いるか分からない。こっちは三人で固まって一つのビニールプールを共有する。結構な団子状だから、自衛隊の連中の密度が高かった場合は間をすり抜けられない。
 目隠しをして電車の中を歩くのをイメージすれば分かりやすいかもしれない。空いていれば誰にも当たらないし、混んでいたら三人お団子ではとても無理だ。そして、混雑状況はこっちで決められない。
「でもこれくらいしかない。アークエネミーだって万能じゃないんだから」
「……、」
「ゾンビは人間の一〇倍、吸血鬼なら二〇倍の筋力。でも逆に言えば、一度に二〇人虐殺できる火力を持ち出されたら危ないんだ」
 そう、アークエネミーは単体よりも伝染力で仲間を増やしてこそ華だ。倒しても倒しきれない状況を作るから街を国を文明を滅ぼせる。当然そんな真似は強要できない。
 なおも食い下がる姉さんは、ほとんど泣きそうだった。
「確率や可能性では考えないと、そう約束してくれましたよね?」
「全員生きてここを出るとも言った。姉さん、ちょっと頑丈だからって変な自己犠牲を出すのはこの辺にしておこう。現実の話だ、今は手の中にある方法で自衛隊の連中を出し抜くしかないんだ!」
 僕だって、怖い。
 自衛隊って何だよって思う。
 こんな国でアサルトライフルなんて反則じゃないか。
 だけどここで助けてくれってすがりついたら、きっと姉さんやアユミは真正面からアサルトライフルの群れに突っ込んでしまう。というか、多分、姉さんはその一言を待ってる。アークエネミーとしての限度なんて考えもせずに。許すものか。そんなの絶対にダメだ。
 ざばざばと水を掻き分ける音があった。流石にプロアマ関係なく、水の音は完全に消せないものらしい。
 覚悟を決めている時間もなかった。
「ふぐっ、来たよ!」
「行くぞちくしょうっ。停止線を越えて帰るんだ」
 ビニールプールの空気吸入口を開けて、泥水の中に沈めた。ヤツらが交番へ入ってくるより早く、僕達は頷き合うと泥水の中へ頭を突っ込んでいく。
 一秒で姉さんの懸念の意味が分かった。
 単に自衛官の足がどこにあるかなんて次元じゃない。大雑把な方角さえ掴めない。下手すりゃ交番の外に出られるかどうかも怪しくなってきたぞ!
 姉さんは、アユミも……。
 とにかくビニールプールの吸入口に口をつけて空気を確保し、同じ場所をぐるぐる回っている訳じゃないのを信じながらゆっくりと水の中を進んだ。息が保つのは一分? 二分? くそっ、マクスウェルに検索してもらわないとこんな事も分からないのか僕は。途中何度も空気を補給して、ふと気づく。
 さっきから僕ばかりだ。
 アユミや姉さんはどうした? 彼女達だって酸素は必要なはずなのに!!
 視界を塞がれた中、得体の知れない恐怖があっという間に喉元までせり上がる。衝動的に自ら水面に顔を上げて確かめようとさえした僕だったけど、そこで滑らかな掌の感触が僕の手をそっと包んだ。
 エリカ姉さんだ。
 それにアユミもいる。
 渾身の力を込めないと、本当に泣き出しそうだった。疑心暗鬼に囚われるな。とにかく停止線の外に向けて、ゆっくりでも良いから前へ。それだけ考えて足を動かす。上はどうなっているだろう。交番に踏み込んだ連中は、もぬけの殻になっているのには気づいているはずだ。水の中まで思考が追い着くか。ああ、机の上のガムテープとハサミ。隠しておけば良かったと今さら後悔する。
 ぬっと。
 この濁流の中でもはっきり分かるくらいすぐ近くを、迷彩服の足が横切っていった。
「……、」
 いける。
 心臓が縮む想いだったけど、向こうはこっちに気づいていない。方法自体は間違っていない。今なら包囲の外へ抜けて、停止線を越えられる!
 そう思っていた矢先だった。
 僕の手を掴む姉さんの掌に、わずかに力が込められたようだった。
 そして気づく。
 明るい。頭上が眩しい。どんどん白い光が強くなっていくけど、これは、自衛隊のサーチライトじゃない? なら一体何なんだ!?
 気が緩んだのか。
 変に力が入ったのか。
 足元の感覚が消えた。水の中で体が浮かんだんだ。慌てて足を振るけどどうにもならない。まずいっ、顔が水面に出る!!
 ざばりという音があった。
 でも。
 僕はどこにいる???
「……は?」
 強烈な白い光のせいで、最初分からなかった。だけど自分の体重さえ感じられない僕が漂っているのは、水の中じゃない。
 くう、ちゅう?
 僕だけじゃない。萎んだビニールプールにしがみつくアユミや姉さんも、辺りを包囲していた迷彩服の連中も、それどころか暴風雨の雨粒や地面を埋める濁流さえも宝石みたいに奇麗な球体になって、上へ上へと浮かび上がっていた。
 こんな時まで律儀に銃を向けようとする輩もいるけど、半数以上は手元から離れた場所に武器を浮かばせてしまっていた。よしんばグリップを掴んだままの自衛隊も、空中でくるくる回る中では僕達に狙いをつけられないようだ。
 重力を無視。
 ありえない現象。
「いったい、なにが!?」
 体が浮いているんだから、今さら手足を振り回したって何もできない。縄や手錠よりも明確な、これ以上ない拘束だった。思わず頭上に目をやり、白い光を投げかけるモノの正体を見極めようとする。
「……、」
 僕は。
 この時まで、何かのたとえだと思っていたんだ。
 枯草色のブーメランみたいな宇宙人にUFOに似た形のドローン。自衛隊だの何だのが未知のアークエネミーに偏見だらけのコードネームをつけて対応しているだけだって。
 だけど。
 夜空いっぱいに広がり、白い閃光を真っ直ぐ落とし、重力を無視した手段で地球の生き物をさらっていく、その巨大な構造物の正体は……。
「う」
 これ以外に、一体どんな言葉でまとめられるっていうんだ。

「宇宙人の、UFO……?」

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