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吸血鬼の姉とゾンビの妹が雪にやられて立ち往生しているようだけどどうしましょう……イミテーションだけど
第三章

   1

 音を立てないようにドライバーを動かしている内に、とんとんと軽い足音が階段の方から響いてきた。
「……あえ? お兄ちゃん何してんの、おあよー」
「嘘だろオイ……」
 吸血鬼の姉じゃなくてゾンビの妹のターンがやってきた。だとすると……。
 呻いて窓の方へ目をやると、くそ、カーテンの隙間から朝日がチラ見せしてやがる。
 脱衣所のドアの上。ブレーカーのカバーを外して格闘していたのに、もうこんな時間だ。両目を擦りながら近くのドアノブを掴もうとするぶかぶかTシャツ一枚のアユミに、念のため警告しておいた。
「トイレ動かないぞ」
「はいい!?」
「流すなら風呂場の溜め置きバケツに汲んで持っていくしかないな。……ちくしょう、やっぱり家の問題じゃないぞ、もっとデカいレベルの停電だ」
『だから言ったじゃないですか』
 うるさいな、このスマホの充電も何とかしないといけないんだぞ。
 マクスウェルの本体は港のコンテナヤードに置いてある。一般家庭とは別口の変電・送電経路を辿る業務用の電源は生きているんだから、電気メーターなり配電盤なり、てっきりこの家のどこかで導線が切れたんだと思ったんだけど……。
『発送電の分離、水道の自由化、ガスについては言うに及ばず。生活インフラも民営化の波で様々な形式に分かれましたからね、ものによっては一般送電網に相乗りした中規模施設もあるのです』
「非効率の塊だ……」
『せっかく民営化したのに、これまでと同じラインを使うだけでは個性を出せません。料金が一律であれば一日の長、大口に客を取られてジリ貧に陥ります。ソーラー電力を買い取ってエコ減税を獲得するとか、ガス管で送ってもらった都市ガスを燃やして現場で電気を作るとか、それはそれは不思議な値下げ策を並べようとするでしょう』
 だとすると大元の発電所じゃなくて、途中で枝分かれする送電線か変電所だな……。
 一般家庭は軒並み停電だけど、別口の業務用電源に支えられた工場や浄水場は生きている。だけど新興勢力の中には家庭用電源を使ったインフラ施設もあるから、そっちが先にダウンした、か。
「義母さんめ……。ケータイ会社から変なパンフもらっていると思ったら」
 状況を受け入れられないのか、ドアの前で石化している裸足にTシャツの妹は放っておいで、だ。
『街が丸ごと停電したというよりは、総電力の四割の消失を周りが補おうとした結果、全体の電力供給が不安定化しているのが近いです。いわゆる完全なブラックアウトではないのでご安心を。冷蔵庫の中身については扉の無駄な開け閉めさえしなければしばらく保つでしょう』
「一秒後に停電するかもしれない状況でデスクトップの電源ボタン押せるか? 変わんないよ、リスクは」
 ……手回し発電機のついた防災ラジオだかテレビだか、義母さんが何かの気紛れで買っていたような。けどあれ具体的にどこ行った?
「見つからなかったら自転車のライトのダイナモでも改造するか……。このスマホ五ボルトの何ミリアンペアだっけ?」
『空回りが過ぎますよ。やはりホットミルクでも飲んでベッドに飛び込むべきだったのです』
「……人間はそんな単純にできてないよ」
 大盛りのカップ麺をかっこんだ直後だってここまで寝にくい事はないだろう。なんていうか、胃袋が重たい。
 とにかく多過ぎだ、怪我人……。夜の間ずっと傷口を押さえたり手を洗ったりを繰り返していた気がする。
 駅前の繁華街に集まっていた連中はほとんど感電ばっかりだったけど、それでも二、三〇人は直撃だった。ビル壁に張り付いてそのまま固まっていた、マイクロプラスチックの塊でできた『ギロチン』に。
 あのビジュアルは思い出したくもない……。
 薄々騙されているのは分かっていて、『それでも誰かが言っていたんだから』を言い訳にして暴れようとしていた連中だ。むしろ、暴動が止まらなかったらヒュージカメラの店員さん達はどうなっていた事か。だから自業自得だって? 悪いけど、割り切れない。同じ街の人達なんだ。真っ赤になった肩や足を押さえて子供みたいに泣く人達を見てまだ冷笑を続けられるとしたらよっぽどの野郎だ。
 救急車を呼んでも確実に来るかは分からない状況だった。
 変な被害者意識で暴徒達が一致団結してくれて助かった。列車が止まっていたせいもあるんだろうけど、車で来た人が結構いたんだ。僕達は怪我人の傷口を洗ってボロ布で縛り、比較的大きなバンやSUVに詰め込むくらいしかできなかった。無事に病院に着いていると良いんだけど……というか、病院が正常に機能している事を祈るしかない……。
 正直に言うと、学校なんか行きたくなかった。
 気力がない。
「……電気はもちろん、ガスも水道もダメ。だとするとパンも焼けないぞ。冷蔵庫の中身も何とかしないと」
 それでも朝のサイクルを回そうとしているのは、委員長の件があるからだった。SNSで確認くらいじゃ足りない、きちんと顔色を見て、昨日の件をどれくらい引きずっているかを知っておきたい。必要ならケアについても。
 心の傷は、引きずる。
 僕はそれを知っている。最初の両親が離婚した前後には、散々委員長に救ってもらったんだ。だから絶対に、対応を誤る訳にはいかない。

   2

 また、季節外れの雪が積もっていた。
 沖で燃えている貨物船から舞い上げられた大量のマイクロプラスチック。羽毛や毛糸みたいに空気を溜め込むと、ちょっとした火種でも簡単に燃え上がる恐れがある。
 しかしご家庭の水道は不安定で、蛇口をひねっても水が出るとは限らない。ホースで定期的に水を撒いて予防……なんて保険もかけていられない。
「学校はまだ水が使えるのね……」
 デコメガネ委員長が校庭の水飲み場の方へ目をやりながらそんな風に呟いていた。ちょっと疲れたような、それでいてホッとするような。飲み水、シャワー、トイレ。彼女も朝の内に何かしらの洗礼を受けたんだろう。
「公園や学校はいざという時の広域避難所だからな。貯水タンクに貯めている分か、特殊な送水管で繋がっているのかは知らないけど」
「そう」
 委員長はそれだけ答えた。
 昨日の事もあって気がかりだったけど、意外と受け答えははっきりしていた。断水に停電。間近に迫った目に見える問題に追われて、ショックを受けている場合じゃないのかもしれない。卒業式の後すぐに一人暮らしの準備を始める感覚に近いのかな。
 昇降口には濡れたマットが置いてあった。ぐしぐし踏んで靴底のマイクロプラスチックを落としてから脱いで下駄箱に突っ込む。どっちみち上履きには履き替えるんだけどね。
 教室に入ると、長い金髪にいくつかの節をつけて一本にまとめた女の子、海鳥さんが声を掛けてきた。
「おはようございます、天津君」
「うん」
「何でも車のバッテリーがあちこちで盗まれているみたいですわね。あと、畑を潰して並べたソーラーパネルとか」
 ……気持ちは分かるけど、一体どこに設置するつもりなんだ。盗んだパネルだって陽当たりの良い、つまり誰の目にも留まる開けた場所に置かなきゃ発電できないっていうのに。
 教室の隅の方でわいわい人が集まっていた。そうか、学校は電気も通っているんだな。
 業務用の電源なのか、広域避難所の発電機なのかは知らないけど。
「天津君はスマホ大丈夫なんですか? べったりみたいですけれど」
 どうやら視聴覚室から長い電源タップを持ってきたヤツがいるらしい。タコ脚配線で、ケータイスマホかモバイルバッテリー辺りの充電コーナーと化しているようだ。
「……しっかし、ここに来るとドッと疲れるな」
「分かる」
 委員長に同意されてしまった。
 電気も水道もあるんだから逆だろう、と思う人もいるかもしれない。でもそうじゃないんだ。
「まともな生活できるのって、もうここだけ? 一歩外に出たら、電子レンジも使えずに給水車を待つレベルにまた逆戻りなのね……」
 ダイエットしている最中に、コンビニのチョコレートコーナーが目に入ってしまった感覚に近いだろうか。あるいは夏休み明けの憂鬱? 便利で快適な状態は、必ずしも安寧をもたらしてくれる訳じゃない。あらかじめ取り上げられると分かっていれば、宝石の輝きだって苦痛でしかないんだ。
 というか、給水車なんかほんとに走っているのか?
 家の中でじっとしているだけで、やっていけるのか?
 ため息をつく僕達を、海風スピーチアさんはじっと観察していた。
「……、」

   3

『学校を避難所にするべきだと思うのです』

 二時間目くらいだったかな。
 もう休んじゃえば良いのに律儀に仕事へやってきた数学教師が黒板に向かって板書している隙を突いて、そんなメッセージがスマホに飛んできた。
 ここで隣の席に視線を投げるようでは早弁が見つかって叱られるお間抜けさんと変わらない。事実、海風さんもしれっとした顔で黒板の内容をノートに書き写しているはずだ。
 ちなみに海風さんのSNS上の『繋がり』も分かってきたんだけど……。僕には転校の経験はないが、こうして見る限り海風さんは前の学校の友達とも普通に繋がっているみたいだ。直接の知り合い以外だと、スポーツはテニスまわり、それから意外と激しめのロックバンドを好んで追いかけているらしい。
『ぶっちゃけ、電気ガス水道が止まった家に帰っても途方に暮れるだけでしょう? どういう仕組みか分かりませんけれど、学校はまだ文明が残っているみたいです。今日は帰りたくないってみんな考えているんじゃありませんか』
 ……かもしれない。
 姉さんやアユミの事があるから手放しで家を空けられないけど、特に大きいのがエアコンだ。味わってしまうと止まらない。正直に言うとテレビやネットはスマホで事足りるし、学食や購買に期待はしないとして、備え付けの電気ポットや電子レンジが動くだけでも大分安心感が違うだろう。
 何より、水が使えるのが心強い。
 単純な飲み水や生活用水もそうだけど、水さえ事前に撒いておけば一面のマイクロプラスチックの雪が燃え上がる大火に襲われても、かろうじて学校の周囲だけは守れるかもしれないんだ。寝泊まりする場所を要塞化できるのは非常に強い。
 けどな……。
 僕は数学教師には見つからないよう机の下でスマホをいじくって、
『仕組みが分からない。学校って泊まって良いの?』
『文化祭の準備とかで普通に寝泊まりしません? 逆に書類で届け出が必要なんて話、聞いた事がありませんけれど』
 それはそうなんだけどさ。
 隣の金髪少女ではなく、マクスウェルの方に話を振ってみる。
『ノー。そもそも文化祭ルールは何となく続いている慣例でしかなく、明文化されてはおりません。根拠とするには弱いですね。居住か宿泊かで線引きは変わりますが、前者なら建築基準法の居住要件、後者なら旅館業法や民泊ルールとバッティングします』
『そんなものなのか?』
『屋根があればどこでも暮らせる訳ではないですよ。公民館や電話ボックスに居着くのはルール違反です』
 らしいよ、とコピペして送りつけてみても、金髪のスキュラさんはまだ納得できないようで、なんかぷりぷりしてる。
『学校は困った時の広域ナントカなのでしょう? 今こそ開放すべきではなくて』
『全くその通りなんだけどルールが分かんないんだってば。なに、開放って言ったって学校の持ち主は僕達生徒じゃないし、一体誰に泣きつけば良いの? 校長先生、それとも市長さん?』
『シュア。広域避難所の使用権限を持つのは地方自治体の長ですから、県知事のサインが必要ですね。しかしそもそも災害に指定された状況ではないので、ルールブックのフローチャートだけ指でなぞってお役所判断された場合、敢えなく却下の見込みが高いです』
『なんか抜け穴は?』
『今回のマイクロプラスチックの雪は分類上、海上火災から派生した煙害または化学被害とは思うのですが、「思う」では足りないのでしょう。法治国家とは、法律で明文化された内容の範囲内でしか対処のできないシステム構成をしています。よって、感情や常識でこうだろは通じません。例えばぺろんぺろんもこもこ災害が目の前で起きたとしても、すぐさま自衛隊を投入する事はできないのです。まず、ぺろんぺろんもこもこ災害とは何かが厳密に定義されない限りは。従って、関係各省庁の役人達が膨大な書類と睨み合い、不足分を追加の条項で埋めるまでは外からの支援は望み薄と見るべきではないでしょうか』
 うわふきだし連投!?
 内容がネガティブって分かってると読むのが辛いヤツだ。
『それ、フローチャートにないとダメなのか。なんか例外扱いとか……』
『ノー。広域避難所の備品を使ってバーベキューパーティをするのはNGなのと同じく、用途外の使用は禁止されておりますので。書いていない事はできない、がお役所の基本ですから地震カミナリ火事オヤジという昔ながらのカテゴリに収まらない、マイクロプラスチックの雪なんて新参者には書類の方が対応していないのでは』
『だってさ』
『これ誰の意見なの? 現実に困っているのに街の外にいる人がボツにするなんて納得いきません!』
「海風、海風スピーチア。ちょっと答えてみろ」
「っ」
 びくっと海風さんが肩を縮めた。
 ヒートアップするあまり数学教師から目をつけられてしまったようだ。ただでさえ金髪の転入生なんて目立つのに……。
 ああもう、
『マクスウェル』
『シュア。楽の勝です(`・ω・´)』
 仕方がないのでスキュラさんのスマホに黒板の問題の答えを送っておいた。こんな混乱下でモバイルなんか没収されたら、無事に返ってくる保証はどこにもないしね。

   4

 最初はそんな風に、水面下のさざ波みたいなやり取りだったはずだ。
 やっぱり一気に表面化して爆発したのはお昼休みだった。
 多くの生徒達が交流する時間っていうのもそうだし、甘い見積もりで学食や購買に向かった連中が何も買えずにフラストレーションを溜めまくったのも手伝ったんだと思う。
 まさしく火に油。
 あちこちで怒鳴り声にも似た不満の声が上がり始めた。
「生徒会は何やってんだよ!?」
「先生達は職員室で呑気に弁当食べてるのにさ、何で俺達だけ……」
「なあ、タンガンショってこれで良いのか? ネットに書き方のフォーマットってのあるんだけど!!」
 ……わあわあ騒ぎたいだけの人もかなりいそうだけど、はけ口にはされたくないな。
 デコメガネの委員長が近くに寄ってきて言った。
「サトリ君、外出る?」
 何で、と聞くほど野暮じゃない。お腹がすいてイライラしているなんて次元ですらなかった。きちんと自炊でお弁当作ってきた先生まで槍玉に上げられているんだ。購買に行けば無限に惣菜パンが出てくるなんて考えていた、先を読む力のない残念な食いっぱぐれ連中から変な逆恨みはされたくない。
「……海風さんの言っていた学校避難所説だけどさ」
「うん」
「言うほどパラダイスじゃないかもな。このピリピリした中で壁も仕切りもない雑魚寝だろ、ちょっと居眠りした途端に何盗まれるか分かったもんじゃないぞ」
 気の合う仲間だけなら楽しそうなんだけどね。生憎、全校生徒レベルだとそれだけで済むとは限らない。
 特になんて事のない、階段の踊り場でご飯を食べた。今日は電気も水道も使えなかったからか、委員長は買い置きらしき菓子パンを端から小さく噛んでいる。
 やがて、幼馴染みはおずおずと言ってきた。
「……けどさ、サトリ君」
「うん」
「給水車って来ると思う? 屋根の雪かきで道路に落としたマイクロプラスチックの回収も止まっちゃったのに」
『ノー。水の需要にもよりますが、馬鹿正直に巡回したら車が襲われそうですね』
 スマホの画面は見せられなかった。
 状況が四の五の言っていられなくなってきた。でもそこで妥協したら、ずるずる下降していく。ここで天秤を意識してしまうのは間違いなんだ。
 冷静に。
 いつもの自分を保て。
 ……それでいて大事なのは、周りも同じ速度で歩いているとは限らないって事。僕達よりも早く限界が来て、妙な奇行に走る連中は現れるかもしれない。成人式の馬鹿騒ぎを見れば分かる通り、人は、理由さえ与えられたと『思い込めば』平気でレールから外れる。実際には成人式なら暴れても良いなんて保証は誰もしていないのに、だ。学校なんて大多数は他人の集まり。そっと警戒しておくくらいあってもバチは当たらないはずだ。
「ここ学校よね」
「うん」
「……何だか火薬庫みたい。本物なんて見た事ないけどさ」

   5

 だから、だ。
 それを突然と言ってしまうのは、やや語弊があったのかもしれない。

 ががっキィィンッッッ!! と。

 午後イチの授業中だった。突然教室のスピーカーから炸裂したノイズに、思わずみんなで顔をしかめたんだ。
「何よっ、いきなり……」
 一番に不快感を露わにしたのは自分の発音を遮られた英語の女教師だった。彼女が細い顎を上げて見上げたのはやっぱり音源の方だった。
 ただの故障って感じじゃなくて、みんなで何かを待つような空気になったのは、スピーカーの方からガサゴソと布を擦るような音があったからだろうか。
 この現象には意図がある。
 誰かいて、何かしようとしている。
 僕だけが机の下でスマホを操っていた。
『マクスウェル』
『外からオンラインで放送機材を操作している形跡なし。極めて高確率で直接放送室の中からスイッチを入れています』
 ……だとすると、始まったか。
 ややあって、震えるようなか細い少年の声があった。機材設定を間違っているのか、耳をつんざくようなボリュームで。
『せっ、せいと、ぼく、あ、生徒会会計の山垣(やまがき)って言います! よろしくお願いしますっ!!』
「っ」
 内容どうこうよりも、まずその大音量に耳を塞いでしまう。
 つっかえつっかえの言葉は緊張でガチガチといった感じだった。
『おかしいとっ、思うんです! 学校は避難所で、決まってて、決まっているのに!! こんな緊急事態でも使わせてくれっ、ないだなんて! 困った時の、じゃないですか。ぼく、あの、やるべきだと思うんです。あの!』
 落雷みたいな金属音があった。ドアが勢い良く開け放たれたのか。男性教師らしき要領を得ない怒鳴り声と、揉み合うような音が続く。
『せんきょっ』
 だけど途切れない。
 おそらくは取り押さえられながら、言ってはいけない一言が出てしまう。
『みんなで決めましょう! ぼく達の学校だ、ぼくらで決める!! 避難所としてここを使うかどうか、みんなで……うあっ……!?』
 スイッチというよりケーブルを引っこ抜くような乱暴さで、放送は唐突に途切れた。
 しばし、誰も何も言えなかった。
 無言の時間があった。
 机の下、手の中でスマホだけが小刻みに振動していた。
『警告』
『分かってるっ』
『経緯に不明な点が多く、自発的行動とは思えません。自分の主張を通したいけど後ろ盾が何もないクラスのお調子者達におだてられた、などの思惑を感じます』
『重要なのはそこじゃない。もう始まってしまったんだよマクスウェル!』
 手の届く範囲だと隣の席の海風スピーチアさん。それに少し離れた場所にいる委員長は絶対外せない。抱え込むにしてもこの二人が限界かっ。
「……な、なによ」
 やや上ずった声を出し、自分で仕切り直すように女の英語教師が取り繕った笑みを浮かべた。
「非常時だからって常軌を逸した行動が許される訳ではないわよ、みんな。アメリカでは災害時、建物に閉じ込められた場合は斧で扉や壁を壊すんだけど、実はあらかじめ施工上安くて脆い場所を決めておくの。緊急時でもどこまでやって良いかを前もって決めておくのね。まったく、これだから有事は起こらない前提の日本人は……。ほらほら、授業に戻るわよ」
 でも。
 だけど、だ。

 無言が終わらない。
 英語教師の言葉は、真っ暗な洞窟の奥へ吸い込まれるように消えていく。

 凝視。
 そして少しずつだが確実に膨れ上がっていく、怒りの空気。
 午後イチなんだ。
 午前中とは事情が違う。もう何時間もしたら放課後になって、全校生徒が例外なく学校から締め出される。電気も水道も使えない、砂粒みたいなマイクロプラスチックだらけの街へ突き返されるんだ。そういう実感がじわじわ追い着いてくる頃合い。ゴールデンウィークや夏休みだって、同じ休みでも最初の一日と最後の一日は感じ方が違うはず。
「な、なに……?」
 三〇人なり四〇人なり詰め込まれた空間とは思えない、自由のない無。
 気圧されたのか、それを子供達に悟られたくないのか、やや強めに女教師は声を張り上げている。
「ほら授業! みんなテキストを開いて。出席番号で、ええと、とにかく読み上げてもらうわよ!!」
 でも、ダメなんだ。
 正しいか正しくないかじゃない。ちくしょうっ、さっきの放送。今こんな場面で、不満の塊になっている大多数の前で選挙とか多数決なんて相性最悪の言葉を持ち出しやがって……!!
 極め付けに、放送のラストは男の先生との揉み合いで遮られていた。まるでありもしない圧政の記号化だ。誰さんだったか早くも忘れそうになってるけどあのボソボソ声、場に火を放つやられ役としては一〇〇点満点過ぎるッ!
 スマホが震える。
 だけどこれは、マクスウェルからじゃない。
『つっても、あいつは昼メシも食ったんだろ。自分だけ……』
『先生は車じゃん。バッテリーあるから電気使えるし、エアコンだって』
『いつまでじっと言う事聞かないといけないの、あたし達。お行儀良く列を作ったまま飢えて死ねって?』
 早い。
 スクロールが追いつかない。
 そして水面下、クラスの連中のSNSから始まった不平不満は、あっという間に現実世界に顔を出してきた。
 枯れ草の上に投げた煙草の吸い殻。そこからわずかに時間を空けて炎の壁が立ち上るように。
「……けんな、おォ……」
 何部だったか忘れたが、口火を切ったのは体育会系のガタイの良い男子だった。
「こっちは何にもねえんだよ。昼も食ってねえし、それ言ったら朝も抜いてっし、夜だって何にもねえんだ! センセー一人だけ肌も髪もツヤツヤでどうなってんだオォ上から目線か!?」
 こいつの食糧事情なんて知った事じゃないし、マイクロプラスチックの雪を降らしたのは先生じゃない。だけど因果が繋がっているかどうかはもはやどうでも良くなってきている。
「落ち着きなさい、落ち着いて……」
「その余裕があるのは先生が食べてるからじゃん」
 多数決が、崩れる。
 逆転する。
 いきり立った一人を何とかすれば丸く収まると考えていたんだろう。英語教師の肩がびくりと震えた。状況が予測できる恐怖のレベルを超えたんだ。
 そう。
 自分のルールで異常な状況に立ち向かえる間は、怒りや恐怖はあってもパニックなんて起こらないんだ。常識を持っている側が大多数から孤立するほど恐ろしい光景はない。
 あの委員長や海風さんが呑まれているとは思わない。だけど彼女達だって迂闊に止められないって考えてしまうくらい、場がピリついてるのが分かる。
「俺は悪くないよ。先生が何とかしてくれないなら、俺だって何もしねえし」
「つか馬鹿にしてんでしょ」
「不安なんだよ! 気持ちが収まらねえんだ、これじゃ何も頭に入らねえっ!! なあ、なあなあなあ! 何かケアとかしてくんねえの!?」
 天井から、ドッ!! ズズン!! という激しい振動があった。頭の上まで持ち上げた机を思い切り床に叩きつけたってあんな揺れになるだろうか。
 もうここだけじゃない。
 学校全体がおかしくなってきた。
「先生」
 ほとんど泣きそうになっている英語教師が、僕からの呼びかけに希望の光でも見た顔になった。今となっては少なくなった、常識を知る者同士。連帯感。だけど期待には添えない。こっちが抱えられるのは委員長と、後は最短、せいぜい隣の席にいるスキュラの海風さんくらいが限界だ。
 だからもう。
 叫ぶしかなかった。

「逃げろ!!」

 僕?
 全員の視線がそっちに集中したタイミングで、隣の席にいた金髪少女の手を取った。それもかなり強く。
「きゃっ」
「委員長!」
 もうなりふり構わなかった。
 安全な場所なんてどこにもない。波に呑まれないよう、位置取りだけ気を配った。見知った幼馴染みへ走って近づくと、そのまま勢いを殺さずに体当たりする。
 何故?
 どこまで?

 答えは窓。
 そこが最短最速の脱出コースだ。

 ガラスを割って、三人まとめて宙に投げ出された。ここは三階。下がアスファルトなら相当危ない高さだけど、もちろんマクスウェルにシミュレーションもさせずに蛮行へ走るほど愚かじゃない。
 下は花壇。
 しかも建物の壁際は雪下ろしや道路整備で寄せたマイクロプラスチックが山のように積んである。それこそメートル超え、高跳び用の分厚いマットよりも分厚いはず。
「ぷはっ」
「さっ、サトリ君。やりたい事は大体分かるけど、次からは前もって教えてもらえる!?」
「心臓バクバクで声ひっくり返ってるトコ申し訳ないけど、そんな余裕があったらもっと良い手が浮かんでる!」
 甲高い破壊音が頭上から響いて、思わず首を縮めた。かなり近い場所にバラバラと透明で鋭い雨が降ってくる。
 放心したまま目をやった海風さんが、正体を知ってギョッとしている。
「ガラス、ですわよ!?」
「あれで終わるとは限らない。窓なんか椅子を一つ投げただけで簡単に割れるよ。離れて、壁際から離れるんだ!! 早く!!」
『魔女の薬』で様々な動植物の性質を体に取り込むアークエネミーとはいえ、井東さんとかもかなり心配だ。ひとまず安否を知りたくてスマホからメッセージを投げるけど、今からしてやれる事が見つからない。学年が違うっていうのはやっぱり大きい。
 振り返り、改めて見上げた校舎はもはや死の迷宮だった。
 罵詈雑言に破壊音。誰かがボタンを押したのか、火災報知器のベルのけたたましい大音響まで混ぜ合わされている。起立、礼、着席の秩序なんてものは見当たらない。……『壊滅』したんだ、学校は。
「……これから、どうする、の?」
 へたり込んで僕のブレザーをちょこんと掴んだまま、不安そうに委員長が呟いた。どうする。選択肢を欲しているという事は、ひとまず荒れ狂った教室に戻ろうなどとは考えていないみたいで何よりだ。
 そして。
 なら、具体的にどうするか。
 学校にいても授業にならないどころか、身の安全まで脅かされる。電気や水道が使えると言っても、まさかあんな中で無防備に雑魚寝で眠りこけたいなんて思わない。……率直に言ってもはやメリットなし。誰にも気づかれない間にさっさと下駄箱から靴だけ取って、帰ってしまった方が良さそうだけど。
 ただし、
「派手に騒いでいますわね……」
 実際に昇降口までそろりと忍び寄った辺りで、海風さんが眉をひそめた。本人は真面目なんだろうけど、あの金髪を後ろから見ているとどうしたって目立つだろと言いたくなる。
 しかしあの騒ぎは、何をやっているんだろう? ガラスでも引き戸でもない。そこかしこから、まるで鉄筋コンクリートの壁でも壊しているんじゃないかってくらい大きな音が響いてくる。
「ひい、ひい」
 情けない悲鳴を上げて男性教師が外へ逃げ出していく。手を引っ張っているのは……ああ、さっきの英語の女教師だ。ひとまず無事なのは良かったけど、あの二人、実はできていたのかな。
 ともあれ直接追い回されている訳ではなさそうだし、こっちもこれ以上余計なものは抱えていられない。下駄箱の陰に入ってやり過ごす事に。
 学校避難所説を早い内から唱えていたスキュラの海風さんだけど、まさかこんな世紀末になるとは思ってもいなかったんだろう。その顔は少し青い。
 僕も呟いていた。
「放っておいたらまずいかも……」
「また火事が起きるって? サトリ君、全部が全部相手にしていたら追い着かないよ」
「そうじゃないんだ。下手すると昨日の夜よりもっとまずい」
 僕は下駄箱の陰から廊下の方へ目をやる。
 僕だって自分からトラブルの種を見つけたい訳じゃないけど、くそっ。
「委員長、海風さん。アンタ達はとにかく敷地の外へ」
「あっ、天津君は行かないんですか?」
「無理だ」
 僕は首を横に振った。
 委員長も不安そうな目をこっちに向けているけど、ここは曲げられない。
 これは放置しても後で付けが回ってくる災いの芽だ。
「なあ委員長、この学校、避難所になるとして誰がまとめると思う?」
「え?」
「少なくとも大人の先生はない。先生と距離が近い生徒会っていうのも現実的じゃない。優等生が理詰めでまとめようとしたって周りの生徒達から感情で反発される」
「ですけど、放送で最初に呼びかけたのは、ええと、生徒会の方ではありませんでしたか? えと……」
 一本にまとめた金髪を揺らして、海風さんが困ったように首を傾げた。分かる。あいつ引き金引いた張本人のくせに、もう名前が思い出せないんだよな。
「生徒会の総意だったら会長クラスが出てくると思うよ。多分あれ、反乱だ」
 それに、
「……そもそもあいつ、本当に自分の意思でマイクを握ったのかな。顔も見た事ないから何とも言えないけど、声の感じとか、どうもインドアな僕と似た匂いがする。自分からド派手な壇上に立ちたがるとは思えないんだよね」
「じゃあ誰が?」
「主張はしたいけど箔が足りない、だから生徒会って言葉が欲しい誰かさん」
 となるとやっぱり大人の先生はない。彼らは先生ってだけで頭ごなしに僕達生徒へ自分の考えを押し付けられる立場だ。
 同じ生徒の中で、内気で目立たない生徒会の人間の背中を押してくすくす笑いながらマイクを握らせた誰か。しかも豚をおだてて木の上まで登らせたのは一人であるとは限らない。
「……ほら見ろ、薄っぺらなクラスのお調子者の顔が目に浮かぶようだろ。この学校がどうなるにせよ、きっとこの先実権を握るのはうぇいうぇい言ってるそいつらだ」
「それが、まああんまり学校に残りたいとは思わないけど、それがどうまずいの?」
 飽きるまで好きにやらせておけば良いじゃない、といった感じの委員長だった。
 でも、
「忘れたのか委員長。ここを避難所にしたって食べ物が虚空から現れる訳じゃないんだぞ」
「あ」
 そう。
 子供達だけで作る、最初から破綻している非公式の避難所。彼らの好きにやらせちゃ困るんだ。あいつらが身勝手に決めた自分ルールを、学校の外にまで持ち出さないなんて誰が決めた?
「腕っ節の恐怖政治とクラスの人気者を履き違えた馬鹿どもがまず求めるのはそこだろ。食べ物が通貨になる。とはいえ今から畑を耕す訳じゃあるまいし、絶対に近くの家やコンビニを集団で襲う。生き残るためには仕方がない、これはみんなで決めた多数決の結果なんだ。そんな風に言い始めたら人間は怖いぞ。ハロウィンの馬鹿騒ぎどころじゃなくなる」
 いったん徒党を組まれてパワーバランスが固まってしまったらそこでおしまいだ。警察がまともに動くか分からない状況で、数百人って単位は馬鹿にできない。
 この街に、捕食者が生まれる。
 無法地帯を楽しむような連中が膨れ上がったら供饗市は本当におしまいだ。
 それに食べ物がお金代わりになるなら、自分で見つけても『税金』として取り上げられる可能性もある。
「僕には自分の家がある。そこでは姉さんやアユミも暮らしている。なのにドアも窓も自由に破られてその日の気分次第で持ち物を勝手に運び出されるような時代がやってきてほしいと思うか? いいや食べ物だけじゃない、連中の欲望の種類が一つだけとは限らないんだぞ」
 マイクロプラスチックの雪に立ち向かう。そのための努力をする。これ自体は悪い事じゃない。だけど、そこに権力や武力なんて付加価値をつけちゃダメなんだ。災害現場じゃ、ボランティアで被災地入りしたはずの若者が暴君と化す事態もままあるらしい。助ける側と助けられる側。ここで線引きしてしまうと、自分が特別な人間になったと思い込んでしまうんだ。
「……この『学校』を解体する」
 僕はそう呟いた。
 これは善とか悪とかじゃない。というか悪者側のロジックだ。だけどこっちにはこっちの守るものがある。膨らむだけ膨れ上がった悪意の塊が姉や妹の暮らす住宅街まで押し寄せるのが目に見えていて、黙ってその時を待つなんてありえない。
 汚い人間と罵ってくれて構わない。
 だけど家族に危害が及ぶなら、その可能性が決して低くないのなら、僕は人様の希望をへし折る。
「雪に立ち向かうにせよ、何百人もの意思を血気盛んな誰かのオモチャにされるようなやり方じゃダメだ。捕食者なんか作らせないぞ。ある程度はバラけさせないと……」
「ですけど……」
 スキュラの海風さんは僕と校舎の奥を交互に見つつ、
「それってもう、学校とか避難所とか関係なくなっていません? だって、そこらの公園に改造バイクを持ち寄って集まったって似たような現象になるんじゃあ……」
「かもね。だけどそんなので街の覇権を取れると信じていたら、お調子者連中は『部外者』の生徒会なんかに声をかけたかな? いいや、そもそも交通が麻痺して表を歩くのも大変な中、お行儀良く時間通りに学校なんて来ると思う?」
 結局、悪党としても中途半端なんだ。生徒会の内気な誰かの背中を押して騒ぎを起こしている連中は。ルールは守りたくないけど、ルールには守ってもらいたい。クラスの中で埋もれたくないけど、バイク集団やギャングを気取るほど逸脱したくもない。だから救いがあると言えるし、危険でもある。自分の熱気に興奮して暴れ出す連中にブレーキなんて期待できない。
「小粒な連中が小粒なままなら、きっと騒ぎにはならない。不満は不満のままで、留まる。ヤツらに数っていう武器を持たせるな。こいつは風邪で休んで看病してもらった後に、しばらくわがままな心を引きずるのと一緒さ。意外に無茶を言っても何とかなるって味を覚えさせたら、そこから止まらなくなる」
 予測は予測。
 まだ具体的な被害が出る前からネガティブな推論に基づいて、みんなで分け合えるはずの水や電気を奪っていくなんて外道の行いだろう。
 でも忘れるな。
 これは偶発的に起きたアクシデントじゃない。誰かが生徒会のメンバーを焚きつけて放送で呼びかけたところから始まった、人為的な扇動だ。大多数はただ助かりたいだけだとしても、その流れを悪い方に導く者が交じっていたら性質が変わってしまう。
 まだ、じゃない。
 もう、始まっているんだ。
 対応が遅れれば、この街に取り返しのつかない捕食者が生まれる。膨れ上がった悪意に蹂躙されるのを誰にも止められなくなる。
 転がり始めた雪球を抑え込めるのは、今ここだけだ。巨大に変貌してから頭を抱えても遅過ぎる。
「とにかく二人は外へ。学校の連中、いったん沸騰したら敷地の中に留まるとは限らないぞ。逃げられる時に逃げておくんだ。できるだけ遠くまで!」
 言うだけ言うと、僕は一人で校舎の中へと向かった。
 廊下の方へ入ると、まあ、ひどい。机も椅子も投げ放題か。そこらじゅうでガラスが割れていて、マイクロプラスチックの細かい雪がじゃりじゃりと靴底を刺激する。興奮するのは分かるけど、自分から避難所としての条件を崩してどうすんだ、こいつら。これじゃ外で雑魚寝とあまり変わらないぞ。下手すると肺をやられる。
 特にわあわあ言っているのは……やっぱり学食や購買の辺りか。飢えているな。だけど騒いだって空っぽの商品棚が食べ物で満たされる訳じゃない。
「マクスウェル」
『騒ぎを止めると言っても狙いはつけているのですか? ユーザー様は個人です、学校全体を相手取るのは得策とは思えません』
 分かってるよ。
 この災害が終わった後も学校生活は続くんだ。全校生徒を敵に回して孤立するなんて展開はできれば避けたい。
 だからピンポイントで行こう。
「あいつ、えと、いい加減に名前を思い出したい。生徒会の、会計の……何君だっけ?」
『シュア、山垣と名乗っていましたね。下の名前は不明。校内ローカルサーバーを検索、生徒会会計という事は極めて高確率で二年一組、山垣オイカゼではないかと』
「……偉いなマクスウェル、きちんと覚えているなんて高性能か」
『ユーザー様が冷酷過ぎるのです』
「ともかくあのじめっとした声の持ち主を見つけて話を聞こう。具体的に、一体どこの誰に焚きつけられてあんな馬鹿げた放送を流したのか」
『黒幕と言えば黒幕ですか。見つけたら?』
「王様気取りのクソ野郎どもは全員鼻っ柱をへし折る。捕食者になる前に。無様極まりない姿をみんなの前でさらして、こいつらについていってもろくな事にならないと全校生徒に教える。マクスウェル、僕は個人だって言ったな? 向こうもそうだよ。今はまだな」
 ひとまず三階まで上がって放送室に向かってみる。放送中止から間を置かず『沸騰』は起きた。今ならそう離れてはいないはず。
 と、
「(……サトリ君っ)」
 わっ、と思わず声を出さなかっただけでも僕は度胸があると思う。
 いつの間にか真後ろにぴったりくっついていたのは、
「委員長、それに海風さんもっ」
「どうしてとか聞くのは野暮ですわ。そもそも私の家は学校からそう離れていません。ここから爆発が起こったら真っ先に呑み込まれます」
「サトリ君、これからどうするの?」
 階段側で僕は額に手をやりながら、空いた手の親指で廊下の方を指し示した。
 そっちは放送室のある方なんだけど、

「避難所の設営ってどこから始めるんですか!?」
「食べ物はっ」
「あなたが始めた事でしょう? きちんとみんなをまとめなさいよ!!」

 わあっ!! とサッカーの試合観戦みたいな怒鳴り声の洪水になっている。集まっているのは何十人規模で、廊下の一角が埋まっていた。放送室のドアなんか見えない。
 集団が怖いのか。
 正義感がおぞましいのか。
 当然、囲まれているのは生徒会の、ええと、何とか君だ。あいつに話があるんだけど、そのためにはあのバーゲンセールよりも殺気立った分厚い人混みを乗り越えなくちゃならない。例の生徒会会計、放っておいたらぐいぐい押されたまま廊下の窓から放り捨てられそうだ。
 率直なアドバイスはこうだ。
「……今からでも遅くない。揉みくちゃにされる前に学校を離れた方が良い」
「それでサトリ君はどうするつもりなの?」
「聞く耳すら持ってねえな委員長。……穏便にできないなら派手にやるしかない。邪魔者は全員蹴散らして、お騒がせ生徒会の馬鹿野郎をかっさらう」
「あっ、あれだけの人数ですの? カンフー映画の主役でも難しいんじゃなくて?」
 もちろん真正面から拳を握って突撃するつもりはない。頭に血が上った暴徒だって人間なんだ、考える。あの集団、そろそろカッターや消火器なんかで武装するヤツだって何人か紛れている頃だろうし。
 そんなつもりじゃなかったで殺されるほど無意味な事はない。
 だから僕の方から近づかずに集団を一網打尽にする、飛び道具があると望ましい。
「そんなの一体どこに……」
「おや委員長、どこにだってあるものだよ。暴徒鎮圧においては歴史的な方法でもある。特に機動隊なんかは縁が深いだろうね」
「?」
「てか委員長は昨日も見てるはずだぞ」
 どうしたって目立つのが玉に瑕だ。さっきも言った通り、災害が終わった後も学校は続く。できれば全校生徒を敵に回して孤立する展開は避けたいので、先に顔を隠すものを探す事にした。
「委員長、いつもは生脚だけど念のためでいつでもパンスト常備してたよね? 冷房対策とかで」
「はいはい」
「……そ、それで通じるんですの? 幼馴染み恐るべしですわ」
 そんな訳で借り物(新品)を頭からずぼり。一応スマホのレンズを自分にかざして、顔認識でエラーが出るのを確認したら準備完了だ。
 何の?
 決まっている。

 壁の消火栓からホース引っ張り出しての高圧放水だ。

 ズヴォアッッッ!! と。
 とんでもない勢いでビーム砲みたいに発射された白い奔流が、事態に気づけない外周の一団をまともに薙ぎ払った。
「ぎゃっ!!」
「誰だちくしょう!?」
「息がッ、視界が、ぐええ……!!」
 元々長い直線の廊下にみっちり、だ。ぎゅうぎゅう詰めになっている生徒達には避けようがない。外周の男女がバタバタ廊下に倒れると、壁を失った内部の連中まで餌食になっていく。
 カッターも消火器も関係ない。
 この水圧なら小石くらい投げられても普通に撃ち落とせる。
 今さら逃げ出そうにも自前の人口密度のせいで身動きも取れない。
「あ、ああ……」
 なんか奥の方で縮まっている小さな影があった。自分に詰め寄る殺気立った連中がバタバタ倒れたのをチャンスと見たのか。慌てて立ち去ろうとしたようだけど、
「ぎゃんっ!?」
 その背中に容赦なく最高威力の放水を叩き込む。なんかくの字に背中の曲がった生徒会の誰かさんが思ったよりも奥へ飛んでいった。
 どうでも良いか。
 重たい消火ホースを引きずったまま、念のため倒れた連中に足首掴まれないよう気をつけつつ、床で口をパクパク開閉している内気な少年の元に向かう。
 もちろん金属製のノズルを鼻先に突きつけて。
「なっ、なぶ、なん……?」
「質問に答えてほしい。できれば素直に」
「誰なんだっ、あんた! そんなの被って、何で生徒会のぼくがそんな怪しいヤツの言う事……っ」
「そうか? たらふく水を飲んだ後でも同じように言えると良いな。ひとまず一〇リットル」
「……、」
「全部胃に入る前に歯が折れるかもな。言っておくけど、これはハッタリじゃない。むしろ加減する理由を探す方が難しい。アンタだって、そうされるくらいの心当たりはあるだろ。何が避難所だ、実現できるかどうか大した検証もしないアイデア勝負で人様の学校生活を無茶苦茶にしやがって。アンタどうやら本物の馬鹿だろうからはっきり言おう。恨まれてんだよ、アンタが自分で思ってるより多くの人からな」

   6

 とはいえ流石にいきなり一〇リットルも入れちゃうと腹筋や横隔膜が破裂するようなので、二リットルくらいに留めておいた。マクスウェルは賢い。それにミネラルウォーターのデカいペットボトル程度だ、いけるいける。
「あぉえっ、うぶぐえ……。ひて、ころひてくらひゃい……」
「名前」
「……、」
「あと一リットル? そんなに細かく調整できると良いけど。勢いで折れた前歯まで胃袋へ押し込む羽目になったら済まない」
「いいまっふ! 言わへてください!!」
 一瞬だけど言葉を呑んだのは友達想いと褒めてやるべきか。……ただ、向こうもそう思ってくれていると救いがあるんだけどな。どうにもそんな匂いがしない。
「……鍋掴(なべつかみ)キョウジ、魚川(さかなかわ)テッペイ、沖合(おきあい)ユウコ、峠道(とうげみち)キュウス、そ、それから神野(じんの)セリナ」
「ふうん」
「待っへ! ほんと、ほんろうなんですっ!!」
 答えが何だろうがいったん疑う素振りを見せるとあらかじめ決めていた。素人判断じゃあてにならないだろうけど、少なくとも不細工な笑みを浮かべてすぐさま前言撤回って感じじゃなさそうだ。
 ある程度は信憑性あり、かな。
 僕は消火ホースを適当に放り捨てて、
「……後は好きにしろ。ただ少なくとも学校にいる事はオススメしない」
「なんで、何でアンタにそんな事……っ!」
 おっと、ホースを手放したらもうこれか。
 だけどこっちだって何も考えていない訳じゃない。
「簡単にベラベラしゃべりやがって、今の全部録音してるからな。下手にお仲間へ泣きついて反撃しようなんて考えたら、例の五人にデータを送りつけるよ。アンタ袋叩きは避けられないぞ」
「ひっ!」
「分かったら早く出ていけ裏切り者。早く、早く!」
 両手を叩いてけしかけると、面白いくらい生徒会の誰かさんは廊下から階段を駆け下りていった。いや、ほとんど転がり落ちるが近いかな。
『デジタル録音に証拠能力はありません。まして先ほどのは強要された自白です』
「あれはああ言っておけば良いんだ。やましい事抱えてるヤツを固めるだけなら十分」
 こっちも頭に被っていたパンスト(新品)を取り去ると、びょんびょん跳ねてる髪を片手で軽くリカバリー。廊下の角からおっかなびっくりって感じで委員長達が顔を覗かせてきた。
「さ、サトリくーん……?」
「例の彼、取り逃がしたという訳ではありませんよね。解放したのなら、何か成果が?」
「マクスウェル」
『校内ローカルサーバーとSNSのアカウントの両面から検索。確かに鍋掴、魚川、沖合、峠道、神野の五人は在校しています。ただし……』
「何だ、もったいぶって。続きを読むでも押して欲しいのか?」
『共通項があるようなのです。それもこの共通項は、露見すると面倒事が増えるタイプの代物です』
 マクスウェルはいくつかのふきだしに分けて情報を表示させてくる。
『例の五人はいずれもアークエネミーとして登録されています』
「……何だって?」
『鍋掴キョウジならスプリガン、魚川テッペイならオーガ。間違いありません、市役所の登録情報ともひもづけられています』
「……、」
 だとすると、まずいぞ。
 思わずチラリと海風さんの方に視線を投げてしまう。
 アークエネミー・スキュラ。
「……おいおい、僕はこいつら五人を締め上げて、本名も個人情報も全部ばら撒いて、連中についていってもろくな事にならないから解散しろって迫りたかったんだぞ。全校生徒に」
『その方法だと厳しいでしょう。学校に大きな混乱をもたらした五人が五人ともアークエネミーだと分かったら、大多数を占める人間の生徒達の怒りが別の方向に向いてしまいます。井東ヘレン嬢のような、全く無関係のアークエネミーまで憎悪の対象になりかねません』
 少数派のアークエネミー。
 だから先に主導権を握って安心でもしたかったのか? 中心に立てば排斥されずに済むって。
 ……でもこの五人の鼻っ柱をへし折るだけじゃ、学校占拠から始まった非公式の避難所騒動は終息しないって訳か。やっぱり人間関係っていうのは難しい。こいつが災害に対する難易度を跳ね上げてくれる。これだと、下手すると人間とアークエネミーで真っ二つに分かれての冷戦状態に入ってしまうんだ。学校だけでも井東さんみたいな無害なアークエネミーだっているんだ。いっしょくたにはできない。
 この学校を、逃げ場のない街を闊歩する、異常極まる魔女狩り集団に変貌させる訳にはいかない。
 どうする。
 どうすれば騒ぎを収められる?
「……このまま野放しって線はないぞ。鍋掴だか魚川だか、あの連中の王国なんか作らせない」
『シュア。ただし方法を考えねばなりません』

   7

 そうなると、だ。
 結局僕にできる選択肢は少ない。
 そもそも僕自身、学校で目立つタイプの人間じゃない。壇上に立って全校生徒の前で演説したり、SNSの王様を気取れる訳じゃあないんだ。言葉だけで沸騰したみんなをクールダウンさせるのは難しい。
「……例の五人は締め上げるとして、それ以外にもトドメの一撃がいるな」
『シュア』
「それも安い陰謀なんかとは関係ない。ここに居座ろうとする生徒達が諦めて、自発的に校舎から出ていく格好でだ。じゃまいと飢えるか肺をやられるかだし」
 となると、やっぱりアレしかないか。
 大活躍じゃないか。
 ……一応今や貴重品なんだから無駄にはしたくないんだけど、けどまあ多くの人を助けるためなら仕方がないのかな。元々そういうためのものなんだし。
「委員長ー、海風さんも」
「うっ、な、なに? サトリ君がまた悪だくみの顔してるけど……」
「放っておきなさいよ。男の子はいったん動き始めたら最後までやらないと気が済まないのではなくて?」
 散々な言い草だ。
 まあ理由はどうあれみんなの居場所を奪うんだから、正義のヒーローは気取らないけど。
 とにかくやるべき事を言っておいた。
「今すぐ昇降口に行って」
「? 行ってどうするの?」
「テキトーに傘拾っておいて。さもないとひどい目に遭うよ」
 なに? 武器??? などなど首をひねってる委員長達をひとまず見送る。怒りの矛先は、今のところ先生に集中している。変に庇わない限り彼女達はトラブルに巻き込まれないと思う。
 ……とはいえ可能性はゼロじゃないから、手早く風向きを変えないとな。
 さて。
 それじゃあ後は、と。
「マクスウェル、システム検索。使える脆弱性をピックアップ」
『シュア。校内イントラネットは基本的にウィナーズの業務用モデルで統一して互換性を高めているようですね』
「ネタの宝庫だな」
『利用人口が多ければ相対的に悪さをする人も増えるというだけで、ウィナーズそのものに非はありませんが。ともあれ、データの交通整理を行う統合ホストではSP2295811が未実装、脆弱性wn022-91を検出です』
「今月の更新のリストに入っていた? 黙っていても勝手にアップデートされてしまうはずだ」
『ノー。重要な更新ではあるものの、おそらく近接無線接続……ワイヤレスのキーボードやイヤホンに対する不具合を避けるため、今月のアップデート分から手動でチェックを外したものと思われます』
「……あれ誤報だろ。というか自称エンジニアブログから撒かれたフェイクニュースだ」
『何もネット経由でプログラムコードをいじるだけがサイバー攻撃ではないという良い見本ですね。これならBD-aqua.C系統がそのまま走るはずです』
「防災まわりも?」
『シュア。コピー機から中央サーバーまで、一部職員が私用で持ち込んでいるノート以外はほぼ全てです。ラプラスのようなゲテモノは撤去されていますしね』
 ……よし。
 こんなやり取りしている間にも三分くらい経ってる。委員長達も真面目に言う事聞いてくれれば昇降口で人の傘を拝借している頃だ。僕以外の誰かの前で濡れ透けになる心配もないな。
「それじゃあマクスウェル、バックドアつけたら火災報知器から連動して全校のスプリンクラーを作動。どこもかしこもずぶ濡れにしてやれ」

 ザァ!! と。

 それこそ土砂降りのようだった。
 そこかしこの教室や廊下から悲鳴が出る。まだパニックの段階で、怒りにまでは発展していないようだ。
 とはいえ、こっちは冷や水を浴びせたかった訳じゃない。
 自分が濡れるのも構わず身を屈め、床に手をやって、
「……よし、例のマイクロプラスチックと混ざり合っているな」
『適当に乾拭きで除去するのは難しいでしょう。今すぐスプリンクラーを止めても、居住環境の復旧には二、三日かかるはすです』
 そう。
 ここの生徒が学校を占拠したいのは、楽して安全を手に入れるためだ。中がドロドロに汚れて力仕事が必要になれば、魅力は死んでしまう。
 とはいえ、これだけで万事解決なんて風には考えない。
 わざわざ委員長達を手元から離したのは、当然こっちの方が危ないからだ。
「マクスウェル、場所を変えよう。例の五人、名前が分かっているんだから顔も割り出せるよな」
『学校はプライバシー意識の塊ですよ。外周フェンス沿いか職員玄関のドアホンくらいしかカメラはありません』
「じゃあ連中のケータイ」
『どこでも潜れる訳ではありません』
「タダ乗りできる無線LANのルータは学校設備のものなのに? マクスウェル、さっき言ったろ大概は脆弱性つきのウィナーズで統一されてるって。ケータイ自体のセキュリティなんてどうでも良いからほら学校をアタック、ヤツらのケータイの繋がった接続ポイントから場所の割り出しだ」
 デカいアンテナ塔一個で山間部を全部カバーとかじゃなくて、弁当箱みたいな機材をあちこちに置いて小刻みにカバーしている都市部ならこれだけでも十分足取りを追える。デフォルトの設定画面でGPS切ってるくらいじゃトイレの個室にこもってる時間まで丸見えだ。
『接続ポイント2F-w-new-mobile。新校舎二階西側、つまり視聴覚室の辺りに該当五名が集中しています』
 ……名前がデフォルト過ぎて泣けてくる。まさかパスナンバーも工場初期値のゾロ目のままか?
『あくまでケータイ電波の話ですよ。本人がいるとは限りません』
「そんな高度な罠(笑)を仕掛ける頭があるなら、そもそも自動接続の公衆LANなんか使うかよ。危なっかしい」
 いかにも無害そうな接続ポイントを装って個人情報を丸ごと抜き取るアントライオンや、近づく者へアップデート通知を装って手当たり次第年中無休でウィルスを撒いてるビーハイブなんかも珍しくない。こんな状況で近い方から順番に接続を試すような設定にしたまま街を歩けばどうなるか。まだまだ安全神話を信じたい人はいったん確率で考えてみよう、地雷原を端から端まで歩いて白地図を埋めていく陣取りゲームをしても大丈夫かを。言うまでもないけど、踏んづけてから異変に気づいてももう遅い。
「それにしても視聴覚室、か」
『まさかと思いますが、一対五で大立ち回りをする訳ではないですよね?』
「シミュレータのくせに考えが雑だな。その全員アークエネミーなんだろ、一対一でも絶対無理だ」
 こっちはバカのアユミと兄妹ゲンカしたら正論もクソもなく腕力で一〇〇パー負けるっていう、割とお兄ちゃん道を進む者として致命的な状況を受け入れた時点でそういうマッチョな夢は捨ててる。人間と不死者の間にある壁は絶対だ。こればっかりは努力や根性でカバーできる域を超えている。
 そして人間がそのアークエネミーからも恐れられている理由は、腕力や顎の噛む力が強靭だからじゃない。
「鍋掴、魚川、沖合、峠道、神野。スプリガンにオーガに、あと何だっけ?」
『ドライアド、ワーキャット、シービショップですね』
 ……電気に関わるアークエネミーは特になし、か。
 ゴムの靴底が濡れた床と擦れて変な音を出す。そのまま廊下を歩くと、目的の視聴覚室のドアが見えてきた。
 生徒会の地味会計の背中を蹴って扇動放送を流し、全校生徒を暴れさせた張本人。今だって先生達は敷地の外まで追い出されている。子供達だけの非公式の避難所なんてリスクの塊。食料調達だの何だのでお手製武器を抱えた集団の行動範囲が学校に留まらなくなったら、アユミや姉さんの暮らす街の方まで被害が出かねない。
 そうなる前にケリをつける。
 しかも、人間とアークエネミーの間で無意味な対立を作ってもいけない。
 だから、一発で。
「じゃあ電源まわりに設定以外の方法で電流を加えて全員ダウンしろ。視聴覚室なんだからテレビや音響機材がずらりと並んでるだろうし、ここと同じで床一面水浸しなんだろ」

 ズバヂィッッッ!! と。

 外で待機しているだけで空気を破るような凶暴な音が鼓膜を叩いてきた。
「これ触って大丈夫? このドア」
『シュア、問題ありません』
 無理して勇ましく踏み込む必要はない。
 僕は視聴覚室のドアに手をかけると、
「うわあっ! なん、変な音っ、あれえ!? 大丈夫かアンタら!?」
 白々しい声を上げ、慌てて駆け寄ってみた。
 ビニールが焼けるような匂いに、普通の教室とは違うモニタを埋め込まれたビジネスデスクがずらり。ただし連中がコケた拍子に倒したのか、あちこちで配置が崩れている。
 ひとまず床の水たまりで溺死しないよう彼らを抱き上げて介抱しつつ、だ。
「……数が足りないぞ。ここにいるのは三人だけだ。残りはどこ行ったんだ、ちくしょう」
『分かっている生徒の顔を写真に撮ってください、こちらで照合します』
 これくらいなら一分も必要ない。
『ドライアドの沖合、それからシービショップの神野が見当たりません。要周辺警戒』
 冗談じゃない。
 今のを普通に力業で凌いだっていうのか!?
「う……あんた、一体……」
「マクスウェルもう一発だ」
 派手な音と共にどれが誰かさんか知らない人を気絶させ、後ろ手に電源ケーブルで縛り上げておく。もちろんこれで終わりじゃない。逃げた残りも何とかする必要がある。リアルにせよネットにせよ変に発言力が高くて群衆を味方につけるようなヤツなら厄介だ。できればそうなる前にケリをつけたい。
「それでマクスウェル、取り逃がした二人について知っておきたい。ドライアドにシービショップだっけか。随分マイナーそうだけどどんなアークエネミーだ?」
『沖合ユウコと神野セリナですよ。無線LAN電波を屋内アンテナごとに蒐集中……』
 ……五人の内、奇麗に女子だけ? 電気に対する抵抗力って男女で何か変化あったっけ、などと考えているとマクスウェルからこんな答えが飛んできた。
『ドライアドは樫の木に宿るニンフ、つまりギリシャ神話で語られる精霊の一種です。自らの宿る木や森の管理を行っていたため、木こりに対する攻撃や呪いの伝説で知られています。特に空腹の呪いが有名で、当たれば自分の体を食い千切って命を落とすほどと言われています』
「ひとまず全部聞こう。続きは?」
『シュア。シービショップはレアもレアですが、おそらくスイスで編纂された動物誌で言及されている種族ですね。人間と魚のハーフのような姿ですが、人魚のように下半身が一本の尾びれになっている訳ではなく、半魚人ほど分かりやすいモンスターでもありません。その名の通り海の僧侶で、攻撃性は不明』
「それだけ? 全部聞くって言ったろ!?」
 あとイマドキのマナーだと姉さんやアユミに向けてモンスター発言はNGだ、差別扱いになる。
『しかし実際に人を害したという報告がないのです。ツチノコや人面犬のように、発見そのものがエピソードとして語り継がれるタイプの不死者なのでしょう。ただし特筆すべき点として、シービショップは海の世界において上流階級に属していると考えられているところが挙げられます』
「吸血鬼の姉さんみたいに?」
『ある意味では。竜宮城のように海全体でピラミッド構造の社会性があると仮定した場合、ビショップ、つまり中世ヨーロッパにおける中級聖職者に相当するそうです。平たく言えば国王の下、貴族と同程度。本人そのものよりも、周りに働きかけて兵隊を募る事に長けているアークエネミーかもしれません』
 ……だとするとまずいな。
 海の王っていうと真っ先に七つの大罪に収まる巨大ザメを思い出す。アークエネミー・リヴァイアサン。確かあいつも独自のコミュニティを築いていて、レモラやセイレーンなんかを従えていたっけ。
 シービショップは管理職でも専務とか常務とか、かなり上の方って感じか。
 元々、海の怪物がやる事は大雑把に分けて二つ。僕の知り合いで当てはめると、直接怪力や巨体で船を襲うレモラやリヴァイアサンか、歌声や美貌で誘惑して海に引き込むマーメイドやセイレーンだ。
 シービショップは目撃情報が少ないから何とも言えないけど、感じからしておそらく後者。つまり、洗脳や精神の破壊なんかが怖い。人魚の歌声みたいなのに要注意だけど、媒体が音とは限らない。
「……少なくとも、ゾンビや吸血鬼みたいな増え方をしないだけマシって考えるしかないか……。ちなみにドライアドについては?」
『伝染性は極低度。種子を落として木を増やすか人との間に子を設ける以外に増殖方法は見当たらないので、最低でも一〇年スパンの長期戦でもない限り使い物になるとは思えません』
 ひとまず感電攻撃についての仮説をまとめておこう。おそらく水に強いシービショップが何かやって逸らした。もちろん電気ではなく水を、だ。ドライアドが無事だったのは、やっぱり植物系だから水を自在に扱うシービショップから操られやすいとか、駒として温存されたとか、そんな感じだろうか。
 ……人体の六〇%だか七〇%だかは水分だから、なんてざっくりした理由でこっちまで操られずに済んだのは幸いだった。もちろんそこまで都合が良ければ、最初からシービショップの神野セリナは裏方になんか回らなかっただろうけど。変に徒党を組んだり生徒会のメンバーを抱き込む必要もなく、単独で学校を支配する女王になっていたはずだ。
 今のところ、逆パターンでドライアドがシービショップの手綱を握る線は見当たらない……気がする。シービショップの暮らす海、膨大な水分をドライアドが植物ボディの中に丸ごと吸水しているとかいうトンデモが待っていない限りは。
 アークエネミーはこの辺りの常識が通じない。何にしても油断は禁物か。
 ただその割には……、
「連中はすぐ逃げた」
『シュア、賢明な判断だと思います』
「本当に? 感電攻撃は遠隔でもできるけど、全滅したかどうかは実際に踏み込んで調べなくちゃ分からないんだぞ。例えば、沖合なり神野なりが死んだふりして倒れていたらどうなってた? 相手はアークエネミーなんだ、不意打ち一発で僕の首はその辺に転がってたかもしれない」
 そもそもドライアドなんか、自分の担当する木を傷つけられたら即座に形のない呪いを返すなんていうカウンター攻撃の権化だ。死んだふり作戦にこれほどぴったりな種族はいないのに。
『向こうもこれが事故か攻撃か、人間か不死者か、個人か集団かは読みきれないはずです。ひとまず逃げて様子を見るのはさほど異質な考えとは思えません。まして、やましい事をしている自覚があるのなら必要以上に臆病になるのでは?』
「……ならスマホなり防犯ブザーなり、カメラ付きの置き土産の一つくらいあっても良いはずだ。臆病なりの神経質なやり口でな。情報を求めず闇雲に逃げ回るんじゃただのふりだし、似たような奇襲を延々受けるだけだぞ。それじゃ『不安』が解消しないだろ」
 ドライアドの沖合ユウコ、シービショップの神野セリナ。
 こいつらには同じ部屋で倒れた友達を見捨ててでも今すぐ逃げなきゃならない切迫した事情があったんだ。小細工も返り討ちも考えず、見た瞬間にきびすを返すような何かが。
 だとすれば、何だ?
 そもそもが不死者、一体何に怯える?
「……見た感じ、主導権を握ってるのはシービショップの神野セリナっぽいんだよな」
『それが?』
「ヤツは電気を避けた。おそらく媒体となった水に働きかけて……」
 オカルトな僧侶キャラらしく、変幻自在の水魔法でも使って?
 でも本当にそうなら、むしろスプリンクラーで水浸しな視聴覚室は神野セリナにとって好都合な気がする。何しろ、水で満たされた空間は巨大な顎になるんだから。となるとさっきの死んだふり作戦に舵を切り、待ちに徹して反撃するって選択肢もあったはずだ。なのに実際にはシービショップは迷わず逃げている。つまりこの視聴覚室は、ある程度は水を操るはずの神野セリナにとって万全の環境とは呼べなかった。
 大体、だ。
「シービショップ。ウォータービショップじゃなくて、あくまでもシー。けど一方で雨水で育つ樫の木、植物精霊のドライアドの手綱を握る事にもおそらく成功している……」
 いや。
 そうじゃない、か?
 ……何かねじれを感じる。固定観念はいったん捨てよう。ひょっとしたら、ここでややこしくなっているのかもしれない。
 あらゆる可能性をテーブルに広げろ。
 例えば、だ。もしも特殊なアークエネミーが、シービショップじゃなくてドライアドの方だとしたら。樫の木に宿る精霊とは聞いているけど、樫って言っても色々ありそうだ。
「マクスウェル。検索頼む」
 何科の何でどんな植物に当てはまる言葉なのかはきちんと確かめた方が良い。誤報もありえる。何しろドライアドについて記録に書かれたのは何千年も前のギリシャ神話の時代だ。酸とは直接関係なかった酸素や実はヤドカリだったタラバガニみたいに分類を勘違いしていた、なんて話がないとも限らない。
『樫とはブナ科の植物全般で、どんぐりを作る木として有名です。白樫や姥芽樫などいくつかの種類があります』
「じゃあ次はこの条件で絞ってくれ……」
 そして。
 シービショップは樫の木に宿る植物精霊ドライアドの体や細胞を水分操作で操れるとしたら、それを僕達人間に使えないのはどうして?
 だとすると、こんな可能性もあるにはあるか。
 僕はスマホの検索結果に目をやって、
「……見えてきたかもしれない。シービショップとドライアド。ヤツらが何で繋がっていて、どうして逃げたのか」

   8

 自分で考えて目星をつければ、途方に暮れるほどだだっ広いオープンワールドにたった一つの目的を設定できる。
 そしてマクスウェルには沖合ユウコと神野セリナのスマホが常に投げている無線LAN電波を、屋内基地局単位で追いかけてもらっている。
 こうなると、点と点を結んで星座を描くようなものだ。僕はただ、出てきた結果の通りに廊下を歩けば良い。それで形が見えてくる。
 何百人収容できる学校だろうが、あの二人を見つけるのはさほど難しい話じゃない。
 そもそもドライアドもシービショップも、おそらく学校の敷地から出られない。アークエネミーとしての頑丈な肉体一つでマイクロプラスチックの雪もへっちゃらなんて話なら、わざわざ生徒会に取り入って放送で全校生徒を焚きつけて……なんてややこしい事考えなかったはずだ。
 僕はずぶ濡れの前髪を片手で軽く上げて、視聴覚室から廊下に出る。
 目的地は見えていた。
「……マクスウェル、校内イントラネットから攻撃手段を確保。今度は水に頼らない方法だ」
『探りはしますが、電子的なアプローチだけでは限度もあります』
「分かってる」
 あっちもこっちも水浸しだ。途中の教室では床の惨状を見て途方に暮れている男女も多い。気の毒だけど、こうするしかなかった。外から何の支援もない状況で人だけ集めて非公式の避難所を作っても、待っているのは食糧不足からの不満と集団心理の暴走だけだ。
「先輩っ」
 ピリピリしてるトコにそんな可憐な声があった。振り返ってみれば、頭にタオルを乗っけたびしょびしょの後輩ちゃん、井東ヘレンが廊下に顔を出したところだった。
「何をしているんですか? えと、騒ぎに呑まれている感じでもなさそうですけど」
「全部説明するよ。ちなみに井東さん、大人から何の支援もなく僕達子供だけで学校を避難所として乗っ取る考えには賛成?」
「……冗談ですよね? それって裏を返せば俺様ルールで満たされた学校に閉じ込められて、おうちに帰れなくなるって事でしょう? それも学食も購買も空っぽで、明日のご飯も怪しい状態なのに」
「だよ。そして良かった、僕達は友達のままでいられそうだ」
 料理は時間がくれば勝手にやってくると本気で信じているお馬鹿さんと違って、自分でご飯を作れる子はこの辺りの現実がきちんと見えているとは思ってたけど、でもやっぱり助かった。
 井東さんも小さな胸を撫で下ろしているようだ。教室から出てきたのも、考えなしの賛成派ばかりで息が詰まる想いだったのかもしれない。
 ただ……、
「? どうしました?」
「いや別に」
 プラスに働いているから見過ごしがちだけど、前提がちょっとだけおかしい。
 一見無害なおどおど小動物系。でもやっぱり、井東さんは今が授業中か休み時間かを気にしている様子はない。普通なら、知り合いの顔を見かけたって廊下になんか出られないんだ。……僕が言うのもなんだけど、みんな少しずつ毒され始めている。こういうのは、良識のあるなしじゃない。相対的な、平均点のライン自体が上下に揺さぶられる感じが近いのかもしれない。
 ちなみに井東さん、なんか肌に張り付いてあちこち透けているけど、これについては言及しない方が良いかもな。
 金髪ショートの後輩ちゃんは濡れた子犬みたいに小さな頭を振って、
「じゃあ、あの騒ぎって自然に不満が爆発したんじゃなくて、誰かが裏で糸を引いていたって話だったんですか?」
「ドライアドの沖合ユウコにシービショップの神野セリナ。どっちもアークエネミーっていうのが輪をかけて面倒なんだ」
「……、」
「大体デリケートさは分かってもらえた? 飛び火すると人間対不死者の図式に広がりかねないから、できるだけこっそり片をつけたい」
 不安そうな井東さんだけど、実はアークエネミーの彼女がこっち側についたっていうのは結構大きい。人間対不死者。この単純な図式を崩せるんだから。良いアークエネミーと悪いアークエネミーを分けてしまえば、後は容赦ナシだ。
『接続ポイント1F-e-new-mobileで無線LAN自動切り替え接続を確認。沖合、神野両名はおそらく新校舎一階東側にある調理実習室に入りました』
「……ま、妥当な線かな。食糧不足でパニクった生徒達に砂糖とか小麦粉の袋を狙われていない限りは」
「えと、何でそんな所に……? 包丁や肉叩きで武装したかったから、とかですか???」
「もっと確実な武器で、同時に彼女達にとっては生命線でもある物があるんだ。それよりマクスウェル、攻撃手段の確保は?」
『シュア、内部設備はスマートハウス水準ですので、あれもこれも。ガスの元栓いじって良いですか』
「却下で。校舎のすぐ外はたっぷり空気を溜め込んだマイクロプラスチックが敷き詰められているんだぞ。できれば火は避けたい」
『では電磁調理器にアクセスしましょう。鍋を置かず、空焚き状態で作動させれば高出力のマイクロ波が飛び散りますよ。神野が仮に水を操るとしても、こちらも細かい振動でコントロールを奪えるかもしれません。電子レンジ的に』
 アークエネミーだからって、井東さんに頼りきりって訳にもいかない。可愛い後輩ちゃんなんだ、ついうっかりでキズモノにしてたまるか。
 調理実習室はすぐそこだ。
 前後で二つ出入り口はあるけど、僕は前の方に張り付いた。
「(まず僕とマクスウェルで中を引っ掻き回すから、井東さんは合図を待って……)」
「……、」
 囁いたけど、小柄な後輩から返事はなかった。というより、どうも別の事が気になっているらしい。彼女は僕の顔でも調理実習室の引き戸でもなく、黙って天井を見上げていた。
「先輩」
 注意を促すような、そんな声色だった。
 つられて僕も目線を上に上げた途端。

 バガンッ!! と。
 いきなり頭上の天井を突き破って、何か大きな塊が降り注いできたんだ。

「ぐっ!?」
 天井って言っても分厚い鉄筋コンクリートじゃない。この分だと薄いボード一枚挟んで電気やスプリンクラーの管を通す天井裏スペースがあるようだ。それに場所は火を使う調理実習室。普通の教室と違って、窓や換気扇の他にもいざという時のために煙を逃がす排煙ダクトも用意されていそうなものだった。
 とにかく、だ。
 それが何なのか確かめている暇なんかなかった。両手でコンクリートブロック掴んで頭を殴られるような衝撃が全身を貫いて、視界が眩む。手足の先から力が抜ける。濡れて汚れた床にべしゃりと倒れ込む。
 ちくしょ……。
 腐ってもアークエネミー、人間と同じように床を歩いて引き戸を開けるだなんて、自分から想像力を縮めるべきじゃなかった。
 井東さんは。
 あの子は大丈夫なのか、くそっ!!
「だれ?」
 見知らぬ女の声が、意外なほど近くから響いた時だった。
 ガヅッ!! と。
 何かに頭の横を掴まれたと思ったら、濡れた床に強く押し付けられた。痛いっていうか、苦しい……っ! 頭蓋骨がプラスチックのバケツに力を加えたようにたわんでいるんじゃあるまいかってくらい……!?
「さっきから流れが変だった。あたし達の後ろから誰かがついて回るような……。あなたがジンクスの正体? これを摘み取れば、流れは元に戻ってくれる???」
 ポエマーめ。言葉が断片過ぎて何言ってんのかさっぱり分からん!! 一応は人気者の集まりって読んでいたんだけど、こんなのがクラスの中心に立ったら丸一年災難だろ。敷かれたレールから脱線しないように同調するだけで一苦労じゃないか。
 というか、こいつが天井突き破って頭の上に降ってきたモノか? ちくしょう、首は回らないし近すぎて逆に見えないっ。何となく制服着た女っていうのが分かるくらいだ。
 そして人様の頭を押さえつけたくらいで満足しているなら甘い。そのまま脇腹でも刺されてしまえば良い。アンタはモヤシな僕なんかより、まず床のスマホを粉砕するべきだったんだ。
 今時の電子機器は、指で操作する必要すらない。
 倒れて頭を掴まれたまま、こう叫べば良い。
「マクスウェル! とにかく攻撃手段並べて頭の上のこいつをぶっ飛ばせ!!」
『シュア。それでは誘蛾灯を一つお借りします』
 普通の教室や廊下では見ない名前だ。やっぱり調理実習まわりって生ゴミの関係で虫が集まりやすいのか。
 ズバンッ!! と。
 火薬とはまた違う、電気特有の破裂音と共にオレンジ色の激しい火花が外に面した窓からこっちの廊下に噴き出してきた。
 手持ちの花火よりはハードかな。
「ぎゃあアッ!?」
 頭からもろに被った誰かが悲鳴を上げた。こういう時は詩的にならないらしい。そして見た目はド派手だからびっくりするけど、ちょっと熱いくらいで実質ダメージはないはずだ。電気製品から出た火花を浴びたからって、それで感電するとは限らない。
 マウントポジションは上から下へ、垂直に体重を掛けているから押さえとして成立するんだ。ヤツの軸がブレた瞬間を狙って下から揺さぶり、振り落とす。そのまま逆サイドに転がって床のスマホを掴んだ。
「(他に武器はっ?)」
『このスマホ本体を破裂させるくらいでしょうか』
 最悪だ。
 とりあえず近くで倒れていた消火器を掴んで投げるけど、びゅんっ、とおかしな音が響いた。右から左へ。何かが横薙ぎに通過した途端、分厚い消火器が空中で真っ二つに切り裂かれて破裂する。
「くそっ!!」
 起き上がり、距離を取って、目を細めて粉塵の向こうを見る。
 誰だ。
 何だ。
 ひたりひたりという水を吸った足音があった。喉を鳴らして緊張しながら待つけど、でもちょっと待て。
 初っ端から天井ぶち破って奇襲してくるような破天荒なヤツが、本当の本当に粉末のカーテンの向こうから真っ直ぐ歩いてくるか? 姿が消えたって事は、向こうにとっても読み合いの真っ最中だろうに、いきなり思考を丸投げにして?
 割れた窓から『雪』混じりの風が吹き込んできた。
 それで消火器の粉にむらができて、分かる。足音なんてどこにもなかった。天井からケーブルみたいに垂れ下がった、木の根? 植物の蔓? とにかく太いロープみたいなものが何本か一塊になって、上下に小さく揺れて、床の水たまりをぴちゃぴちゃ鳴らしていただけだったんだ。
 となるとヤツの本体は!?
『警告』
 全力で後ろに向かって倒れるしかなかった。
 再び真上の薄い天井板が破れ、ついさっきまでいた場所に滝のような勢いで瓦礫が降り注ぐ。というか、さっきはあんな建材だの蛍光灯だのをまとめて無防備に被っていたのか? それも人の体重込みで!? 人間なんか植木鉢一つ振り下ろした程度で頭が割れるっていうのに、よく最初の一発で命を取られなかったものだ。
 何とかしてクリーンヒットは避ける。
 起き上がりながら、ようやく見据えた。
 敵を。
「……、」
 黒い髪をショートにした女の子だった。全体的に陰気で、じめっとした視線を感じる。水に濡れて派手めなボディラインをくっきり浮かばせているのはウチの制服、青系のブレザーだけど、その印象は薄い。頭の横が一番大きいけど、他にも手足や腰の後ろなど色んな場所からトナカイみたいなツノ、いいや、鋭い木の枝が生えているからだ。
 本気出すと枝の他にも葉まで生い茂るのか、首を傾げるだけでがさがさと紙を擦るような音が響く。
 細い足は床についていない。
 まるで操り人形みたいだった。制服の首まわり、背中、スカートから飛び出した木の根が割れた天井の奥まで伸びて、出来損ないの平泳ぎや大の字みたいな格好をしたまま中途半端な位置でぶら下がっているんだ。
 根。
 植物。
 だとすると、
「ドライアド……沖合ユウコか!?」
「あなただぁれ?」
 いくつもの木の根が軋んだ音を立てたと思ったら、瞬く間に黒髪ショートが天井に引っ込む。まるで釣り上げられる小魚みたいな勢いだ。相手は不死者、こっちも下手に掴みかかって止める訳にもいかない。アークエネミー・ドライアド。個体の情報が少ないから何とも言えないけど、もしも握力はゴリラ並み、締め付けはアナコンダどころじゃ済みませんなんて話なら接触一回でおしまいだ。
天井に向かって叫ぶ。
「生徒会のナニ君だったかな? あのお騒がせ馬鹿、とっくに心が折れてるぞ。もう避難所名目を振りかざしての学校乗っ取りなんかできない!」
 返事はなかった。
 そう簡単に誘いには乗ってこないか。主導権は向こうに握られたままだ。
 上下の意味合いがぐるりと変わる。
 天井一面が、大型のワニが身を隠して獲物を待つ危険な水面みたいに見えてきた。さっきは誘蛾灯の破裂で驚かせて事なきを得たけど、あんなチャンスは何度もない。刺激は慣れるものだ。次、掴みかかられたらおしまいってくらいに考えておいた方が良い。
「マクスウェル、ヤツは調理実習室まわりの排煙ダクトに潜っているんだよな。場所を変えたら逃げ切れそうか?」
『ノー、あの勢いならステンレスのダクトを破るのは難しくありません。天井裏のスペース全体が汚染されたと見るべきでしょう』
 だと思った。
 瓦礫や消火器の粉のせいかどこにいるんだかはっきりしない井東さんも放り出せないし、それにこっちも調理実習室には用がある。早く『アレ』を回収しておかないと、一度は友達を置き去りにしてでも視聴覚室から逃げた沖合や神野が勢いを取り戻してしまいかねない。
『サメの潜む天井』のままにはしておけない。
 ヤツを物言わぬ天井から引きずり出す必要がある。考えろ、そのために必要なものは何だ。
「……天井はメチャクチャになっているんだよな。ドライアドのヤツが荒らしまくっているから」
『シュア。向こうの移動にほぼ制限はないかと』
 違う。
 僕が確認したかったのはそこじゃない。
 ドライアド、ギリシャ神話で語られる樫の木の精霊。だけどあいつは何をやっても揺るぎない絶対の存在じゃない。もしもそうなら大人達から学校を取り上げて自分達の城に改造しようなんて考えなかった。馬鹿な事をしでかした以上はそうしなくちゃならないあいつなりの事情ってのがあったはずなんだ。
 答えなんて分かりきっている。
 ヤツらそもそも『何から』避難したがっていたんだ?
「マクスウェル、排煙用の緊急スイッチを探すぞ」
『はい?』
「マイクロプラスチックの雪だ! あれを装置にしこたま吸わせれば天井は地獄に変わる。ドライアドだっていつまでも潜ってはいられ……」
 言いかけた時、いきなり空気が固まった。
 握り拳大の石でも口に詰め込まれたような圧迫感が襲ってくる。
 いいや違う。
 誰かがっ、人が天井を見上げている隙をついて真正面からお腹の辺りに体当たりを……!?
 両足なんか浮いていた。
 ヤバい、受け身なんかやり方分かんないぞ……!!
「かはァ!!」
 とにかく頭の後ろに手をやってガードしたけど、結局背中から思い切り床に叩きつけられた。息が詰まる。冗談抜きに目の前がチカチカ明滅する。
 さっきまでのドライアド、沖合ユウコじゃない。
 もう一人。
 だとするとこっちが本命、シービショップの神野セリナか!?
「いや……」
 めきめき、という鈍い音があった。
 のしかかってくる女の子からじゃない。押し潰されつつあるっ、僕の体から……ッ!?
「……ぐぶえっぶ!! ま、マクスウェ、これほんとにシービショップか!? なにかっ、がう、何か変だ!!」
 逃げ、られない!?
 言っても相手は平均的な背丈の女子だ。いくらこっちがインドア派だからって、体格だけなら僕の方が大きい。なのに抜け出せない。単純に柔道とかやってて体重の掛け方を知ってるって感じじゃない。もっとシンプルに、ぐえ、なんていうか、重いッ!? 倒れてきた大木にでも押し潰されるように……!!
 大木?
 木。
 ……まさか、考え違いをしていた……? そういえば最初に天井から落ちてきた方は自己紹介なんかしていない。何やら木の根みたいなものでぶら下げられていたけど、
「あっちが、シービショップの神野!?」
「よく、しらべたね」
 水の使い手が植物を支配していたんだと思っていた。
 でも、実は逆だった?
「だけど、じゃまさせない。セリナちゃんとふたりでいきのこるんだ……!!」
 一定以上の豊富な水がないと十分な力を発揮できないのは神野も同じ。大量の水を蓄える事のできる植物系の沖合は、神野にとっても生命線だったっていうのか!?
 けど。
 こいつらがどうして調理実習室へ逃げ込んできたのか。元からスプリンクラーで水浸し、自分達にとっては都合の良い視聴覚室を出て、他の悪友を見捨ててでもそうしなくちゃならなかった理由を考えれば。
「……ドライアド、樫の木の精霊」
「それがなに?」
「海にいるシービショップと仲良くやってるのがどうにも引っかかっていたんだ。真水と海水じゃ性質が違い過ぎる。でも、ウバメガシだったんだな。海辺に植えて防砂林なんかにするアレだ。つまり、アンタにとってはただの水よりある程度塩分があった方が都合が良かったんだ」
 シービショップが逃げ出したのは、淡水に慣れていないからだろう。ウバメガシのドライアドも以下略。そうなると、こいつらは調理実習室まで足を運んで何をしたかったか。
 塩が欲しかったんだ。
 だったら……!!
「マクスウェル、一番近い消火栓のポンプを起動。栓は閉じた状態で圧力を上げて構わない、そのまま吹っ飛ばせ!!」
『シュア』
 バンッ!! と。
 白い爆発みたいな勢いで近くの壁から大量の水が噴き出す。
 頭からまともに被った沖合ユウコが絶叫しながら僕の上から転がり落ちて、廊下でのたうち回った。
 ……塩気の強い海外でもたくましく伸びるウバメガシ。だけどこいつは適応し過ぎて、今度はまともな淡水を受け入れられなくなったのか。
「どう、して」
 一気に大量の真水に触れたからか。
 ドライアドの沖合ユウコはずぶ濡れのまま起き上がる事もできず、手足の先をぴくぴくと震わせていた。
「……セリ、ちゃん……」
 生徒会を盾にして。
 大人の先生を攻撃して。
 学校全体を混乱で包んで。
 そうやって全てを私物化しようとした集団だった。でも根底にあったのはこれだけだったのか。
 親友と二人で生き残る。
「……マクスウェル、もういい」
 僕が言った時だった。
『警告』

 硬いものが砕ける激しい音が、真上からあった。

 とっさに後ろへ倒れ込む事ができたのは、きっと前にも同じ奇襲を受けていたからだろう。
 大量の建材と、身を潜めていた少女自身の体重。
 滝のように雪崩れ込んできたそれらは、濡れた廊下で痙攣していたドライアド・沖合ユウコを踏みつけていた。
「……まだ終わっていないわよ」
「おまえっ!?」
 足蹴に。
 こいつ、ドライアドが自分と同じく真水を苦手としている事を知っていて、それでも足で踏んで……ッ!?
 木の根みたいなもので吊り下げられていた。
 主導権を握っていたのはドライアドだった。
 けど。
 言われてみればシービショップとしての『力』は、まだ見ていなかったか。
 踏みつけにされた少女の声があった。
「セリ、な、ちゃ」
「何としても生き残る、何としても! 足りないわ、だとするとこんなものじゃ全然。生徒会もダメだった、アークエネミーもダメだった、じゃあ後は誰を焚きつけたら良いの!? 私の盾は誰なのよお!!」
「……、」
 アークエネミー・シービショップ。
 神野セリナ。
 こっちもポエマーっぽいけど、だから沖合と気が合ったのか。その口振りは真意を掴みにくい。単なる自分本位なのか、もっとねじれた意味での天然なのかは分からないけど……。
「……マクスウェル」
『ノー。感情的になっても身体スペックが上昇する訳ではありません、真正面からアークエネミーとかち合う展開は非推奨です』
「誰もそんな話はしていない。協力する気がないなら黙ってろ」
 ぎょろりと、神野の目が動いた。
 僕、じゃない。
 このスマホか。

「それ、なら。私を助けてくれる?」

 だんっ!! と太い音が炸裂した。
 吸血鬼やゾンビほどメジャーじゃなくても、シービショップだって不死者だ。正面衝突になったらこっちが吹き飛ばされるのは確実。
 よって、真横。
 調理実習室の扉を薙ぎ倒す勢いで中へと転がり込む。
 神野セリナもついてきた。こっちと並行に、距離を保ったまま走り込む形で。するとどうなるか。轟音があった。廊下と部屋を遮る壁を、紙でできた障子や襖みたいにぶち抜いたんだ。
 外壁ほど分厚くなくても、壁は壁だ。
 やっぱりアークエネミー、今のだけで車の事故くらいの衝撃はありそうだっ!
「チッ!」
 調理実習室に入ったのはもちろん固定の調理台がたくさんあって武器になりそうなものにも困らないと思ったからだけど、さてどうだ。この分だとステンレスシンクなんかアルミ缶より簡単に押し潰しそうだし、武器? 包丁なんか掴む勇気はあるか、本当に!?
「ちょうだい、私を守る盾。薔薇色の人生まであとちょっと。ほしい、足を置いても壊れない踏み台! 安定こそ幸せに形を与える支え!!」
 ほんとにこのぶつ切りポエム口調で今までクラスの中心に立ってたのか? 読み解けなかったら嫌われて爪弾きだなんて、クラスメイト達にとっては災難すぎるぞ!
 急角度で切り返してこっちに突っ込んでくる神野に、この期に及んで僕が掴んだのは包丁や果物ナイフじゃなくて、デカめのジョッキにも似た形のジューサーだった。
 日和ってる、って自分でも分かる。
 思い切り振り上げて底の部分でぶん殴ろうとしたけど、相手はお構いなしだった。
 お腹の真ん中に鈍い衝撃。
 たいあた、り!?
「ぶがあっ!!」
 そのまま教卓と一体化した先生用のシンクを飛び越えて、背中から壁の黒板に叩きつけられる。冗談抜きに、一秒くらいは壁に張り付いていたんじゃないか、僕?
 バスケットボールがゴールに収まったように、すとんと真下の床に落ちる。手足がっ。起き上がろうとしても小刻みに震えるだけで言う事を効かない。呼吸が詰まるのより、自分の体が自分のものじゃなくなるような感覚の方が怖かった。
 コウモリに化けるとか。
 歌声で人を惑わすとか。
 ……そんなの以前の問題として、人間とアークエネミーじゃ膂力、筋肉の作りそのものが違い過ぎる……っ。
 ぎちゅっ、という水っぽい足音があった。ただの上履きじゃない。ゴムの底と床の間で液体を噛んでいる、特有のものだ。
 回り込んでくる?
 それとも先生用の調理台を乗り越える?
 くそっ、このシンクのせいで神野がどう動くか見えない……っ!?
「たのしかった、練っている間が。一番、話をしている時が楽しかったの」
「っ!!」
 とにかく最悪の可能性に従った。
 動かない手足じゃダメだ。腰の辺りに力を込めて身をひねり、真横に転がる。
 直後に爆音があった。
 ステンレスの調理台を丸々タックルでぶち壊した神野セリナが、そのままの勢いで黒板に半分体をめり込ませたんだ……っ!?
「実際どう?」
 変わらない。
 声も表情もそのままキープ。こいつ、今ので僕が避けてなかったら人殺しになっていたかもしれない事を、何とも思っていないのか!
「叶えてみれば何か変わった? 何だか心の毒みたい。結局、夢物語だったのね。私達の国なんて、計画を立てている間が一番楽しかった」
 シュウシュウとガス漏れの音が響く中でも、シービショップは顔色を変えず、冷静に体を壁から引っこ抜く。こういう時、黒板っていうのは割れないんだな。そりゃ磁石が吸い付くんだから、基本的には鉄板って事か。何だかどうでも良いところで感心してしまう。
 思考が逃げている。
 ピントを合わせなくちゃ生き残れないっていうのに!!
「……後悔でもしているっていうのか、今さらになって」
「退屈な作業が積み上げられているのよね」
 ざらざらざら、と。
 壊れた調理台の下、収納スペースから何か白い粉が床の水たまりにこぼれていた。塩か、砂糖かは見た目じゃ分からない。けどドライアドと違ってこいつは水にさらされても普通に動き回っている。きっと不足していた塩分の補給に成功したんだ。
「でもやる。退屈だけど。いったん手に入れてしまったんだもの、手放すのも惜しくて。山のような作業があるの。退屈よね。きっと雁字搦めで自由なんかないんだわ」
「……っ!」
 結局、学校の支配者になりたがる心はなくならないか。塩の袋でも抱えてとっとと外へ逃げ出してくれれば、これ以上の諍いなんか何もないのに。
 ここをパニックの爆心地にする訳にはいかない。
 騒ぎが学校に留まるとは限らない。子供達だけの避難所なんて最初から破綻してる。『統率された暴徒』の群れが街のコンビニや一軒家を寄ってたかって襲撃するようになったら、供饗市の危険度が一気に跳ね上がる。ダイアディックグループの実験。個人では我慢できても、集団になると箍が外れるのは心理学で証明されているんだ。アユミや姉さん、委員長に井東さん。侵攻に任せたら誰が犠牲になるか分かったものじゃない。
 ……やらせるか。
「マクスウェル……」
「悪よ。学校を避難所にしたい、これだけなら誰でも願っている事。無理して場を荒らすあなたは悪。放送で名前を明かしたら楽しい楽しい公開処刑が始まるわね」
「……、」
「警察はやってこない。私達がルールになる、あなたはその第一号。分かりやすい例。だからあなたは悪になるの。みんなの手で穴を埋めれば、誰もがルールを信じてくれる。生き埋めって怖いものね」
 誰もそんな話はしていない。
 というか、途中から話がズレているとも思う。
 確かにこの学校を無秩序な城にしてしまうのは危ない。誰にも管理されない非公式。留まっている生徒達は解散させないと暴徒の巣になってしまう。でも、それは避難所を奪う事とイコールにはならない。
 忘れたのか。
 ここは全国的に見ても災害が多い事を逆手に取った防災研究の街で、その地下には『光十字』が根を張っていたんだ。
 あの組織は僕がぶっ潰したけど、その遺跡が全部撤去された訳じゃない。
 そう。
 例えば、

「マクスウェル、地下シェルターへの大扉にアクセス。ロックを解除しろ!」

 こういう手も使える。
 元々は各家庭の地下からアークエネミーをさらうための誘拐用のトンネルだったようだけど。
「ガラスが割れて床は水浸し、マイクロプラスチックの雪の侵入まで許した即席避難所の校舎と、街の隅々まで張り巡らせた本格仕様の地下シェルターなら、どっちが人気を掴み取るかな?」
「……、」
「アンタの特権はこれで終わりだ。みんなが逃げ込む先は学校の一択しかない訳じゃない、自分で見比べて選べる環境さえ与えれば誰もこんな場所には残らない!!」
 ただし。
 実際にはこれ、何の意味もない。
 地下にあるのはトンネルだけで、水や食料の備蓄はないからだ。それに今は清潔でも、何度も大扉を開け閉めすれば結局は『雪』が入り込んでしまう。
 だけど、だ。
 ……人はどれだけ興奮していても、移動の間は無言になるものだ。つまり、思考に空白期間を設けてクールダウンを促せる。学校でも地下シェルターでも条件は同じ。備蓄のない大きなハコモノにいても助けにならないと分かれば、『どちらにも残らない、自宅に帰った方がマシ』という答えが分かるはず。
「こっちは暴徒化さえ抑え込めれば何でも良い。別に学校の連中が憎い訳じゃないんだ」
 根本的な解決にはなっていない。
 水や食料の話は死活問題だ。
 だけどマイクロプラスチックの『雪』は永遠に続く訳じゃない。沖合いの貨物船の火災事故。あれが何とかなれば収まるし、街の外の人達だって何も考えていない訳じゃない。
 騒ぎは伝わっているんだ。
 今の状況は、言ってしまえばエレベーターで宙吊りにされているのと同じ。
 この場合は、じっと耐えてプロのレスキューを待つのが正解。外に出られない、ものが足りないからってプレッシャーに潰されて自暴自棄な行動に出る方が一〇〇倍危ないんだ。
 神野セリナは首を傾げていた。
 そのまま平坦な声で言う。
「……手放すのは惜しいって言ったわよね」
「ああ。だったら全校生徒を無理矢理ここに押し留めて、閉じ込めてみたらどうだ? ただしその場合は、今度はアンタが悪ってみなされるだろうけどな」
 善だの悪だのなんて、こんなものだろ。
 絶対のモノサシじゃない。
 大勢が目指すゴールをどこに置くか。それだけでみんなあっさり掌を返す。少なくとも、そいつを操って手元に置きたがったアンタ自身が正義のあやふやさを嘆くのは筋違いだ。
「閉めるわ。シェルターを閉じればやり直せる」
「無理だ」
「そいつをこちらに渡しなさい、その鍵っ、スマートフォン!!」
「マクスウェルを奪っても、こいつはアンタの命令なんか聞かない!」
 ぎっ、と。
 筋肉の軋む音がここまで響いた。
 こいつ、ほんとに僕をトラック事故みたいな格好で叩き殺す気か。『雪』が解決して街の封鎖が解けた時にどう見られるか、そんな事にも頭が回らずに……!!
 体当たりがくる。
 ちくしょう、手足はまだ動かない。
 次は体を転がしても避けられそうにないっ!!
 直後だった。

 ボッッッバッッッ!! と。

 弾けた。
 炸裂した。
 息が詰まる。衝撃波で校庭側に面した窓が一斉に砕けていく。
 けど。
 それは神野セリナの体当たり、じゃない。
「ぎっ」
 顔を押さえて。
 床に倒れて、そのままのたうち回っていた。
「ああああ! ああああああああああ!!」
 海老みたいに体を丸めてバタバタと手足を振り回している神野は、何だが出来損ないのネズミ花火みたいだった。
 ガス、爆発?
 確かに調理台を壊した時にガス管も破れていたようだけど、ただの偶然でそんな都合良くいくとは思えない。
「はあ、はあ……」
 引き戸のない出入り口の方で、手をついて寄りかかる影があった。
 最初の奇襲で姿を消した人。
「井東、さん?」
「……大丈夫でしたか、先輩」
 空いた手は、何かを振り抜いたようだった。あるいは投げたのか。黒板は鉄。ものによっては火花も散りそうだけど……。
 小さな後輩の井東ヘレンは、床から起き上がれない僕の手を取り、肩を貸してくれた。こっちは水や瓦礫の細かい破片で制服がぐちゃぐちゃなのに、彼女は嫌な顔一つしない。
 けど。
 どうして良いのか。
 素直にありがとうって言えば正解か。僕は詰めを誤ったかもしれない。もっとしっかりしていれば、井東さんが暴力に頼る必要はなかったはずだ。
 のたうち回る神野セリナに向けた僕の視線に気づいたんだろう。後輩ちゃんは自嘲気味に小さく笑ってから、
「……あれくらいじゃ死んだりしませんよ。私達はアークエネミーですから」
『同族』だからか、かえってドライな調子で彼女は言った。
 けどこれで、ひとまず学校が暴徒の巣に変貌する展開だけは阻止できた、か。地下シェルターに向かった生徒達は隅々まで歩き回って絶望するだろうけど、それで冷静さを取り戻すはずだ。
 学校も地下トンネルも同じ。
 物資のない、大きいだけのハコモノに留まっても好転しない。
 余計なしがらみがないだけ、実は自宅の方が快適だって。
「……不毛だ」
 事態を解決したってご褒美をもらえる訳じゃない。水や食料は減る一方で、マイクロプラスチックの大火災はいつどこで発生するかも分からないまま。
 そしてまた一つ、いつものサイクルが壊れた。
 僕達生徒が勝手に納得して矛を収めたって、命を狙われた先生達は再び集まるのか。明日から学校の授業はどうなるんだろう。
 ……とにかくこのまま学校に残っていても、良い事はなさそうだ。
 今が何時間目かなんて考える必要はないだろう。クールダウンした生徒達が離れていくのを確認したら、僕も家に帰るか。
「……?」
 わあっ、という声が遠くから聞こえてきたのはその時だった。
 スタジアムの歓声にも似た……。
 けど何だ? 僕が解放した地下シェルターの大扉の方じゃないみたいだぞ。
「先輩……」
 さっきとは打って変わって、だった。
 僕に肩を貸してくれる井東さんから、小さな震えを感じた。歓声にネガティブな印象を覚えるのは、かつて巻き込まれた『コロシアム』の記憶が呼び起こされるからか。
「マクスウェル、防犯カメラにアクセスできるか? 例の歓声は校舎の外みたいだ。校門とか駐車場とかのカメラなら何か見えるかもしれな……」
『警告』
 嫌なふきだしがあった。
 さらに続けて、
『システムは当初から同じ警告を続けてきました。マイクロプラスチックの「雪」は人為的な攻撃の可能性が極めて高い事。それからアークエネミー・スキュラ、海風スピーチアの言動には不自然な点が見られる事です』
「……何だ? 何で今その二つが」
『推奨行動を説明します。体育館に繋がる連絡通路から外に出てフェンスを乗り越えるのが、最もリスクを抑えてここを脱出する方法となります』
 要領を得ない。
 スマホの画面に防犯カメラの映像も映してくれないようだ。余計な注意を引きたくないのかもしれないけど、こっちはこれを確認しないと落ち着かないんだ。
 井東さんと顔を見合わせ、それからゆっくりと歓声の元へ目をやった。とはいえ、特別な行動はしていない。ガラスの割れた窓に近づいて、雪で覆われた校庭を見渡したんだ。
 音の塊が爆発した。
 何か大勢の人が集まっていた。

「こいつだ!! 放送で俺達を煽ってやがった生徒会の山垣とかいうヤツ!」

「馬鹿にしてんじゃないの? 学校のコントロールなんかできると思ってたワケ!?」

「やっちまえよ。『雪』ならいくらでもあるんだ、埋めちまえ。ぶっち殺せェェェーえっ!!」

 どァあ!! と。
 耳っていうより、全身の肌を直接ビリビリ震わせるほどの、狂乱の叫びだった。
 ……くそ。
 あのノロマ。人がせっかく見逃したっていうのに、勝手にヘマして捕まったのか!?
「ど、どういう事なんでしょう。先輩、学校の乗っ取りしようとしていた人達はそこに伸びているんですよね。まだ誰か、みんなを焚きつける人がいるんでしょうか」
「いいや……」
 怒っているのは生徒達。
 校内放送から始まって、今の今まで良いようにコントロールされていた側だ。そして誰だって簡単に騙されるけど、誰だって騙されたと分かれば怒る。
「正義なんてこんなもんだ。その時その時で、自分にとって一番都合が良いものに乗り換えていく。宗教家や修行僧じゃないんだ、死ぬまで一つの考えなんか貫くもんか」
「じゃあ……」
「矛先が変わったんだ。僕達からあいつらに」
 支持を失えばこんなもの。
 失墜した裸の王様がどうなるかは言うに及ばず。
 だけど。
 今ここには大人の先生も警察もいないんだ。自業自得でハイおしまいなんて流せる状況か? 必要な事だった。でも、生徒達の目を覚まさせたのは地下シェルターの大扉を開けた僕なんだぞ。
 ばた、ばた、ばた、ばた!! と。
 天井から、踏み荒らすような足音があった。それから何かが暴れる音と悲鳴。
 始まっている。
 何か得体の知れない、歯止めの効かない事態が。
「いたぞ。ここにもいやがった!」
 突然の罵声にびくりと震える。
 だけどズタボロの調理実習室に踏み込んできたガタイの良い男子達が注目しているのは僕達じゃない。
 シービショップの神野セリナ。
 それから廊下で腕をねじ上げられて呻き声を出しているのは、ドライアドの沖合ユウコ……。
 捕まっているのは生徒会の会計だけじゃない。視聴覚室で倒れていた連中も?
 僕はシェルターの扉を開けただけ。
 校内放送をやらかした地味会計はともかく、こいつら、何でここまで正確に黒幕連中を割り出せるんだ。あの五人の面は割れていないはずなのに。
 ……。
「いや、まさか」
「先輩?」
 下手に注目を集めるのはまずい。
 逆らったら殺される。
 そう分かっていても、思わず掠れた声が出ていた。
「なにを……何をするつもりなんだ?」
「分かってるってこの惨状だ、あんたらだって相当ひどい目に遭ってきたんだろ」
 答えたのは僕より頭一個分は背の高い、体育会系って感じの男子だった。
 焼き切れたような怒りじゃない。
 にやにや笑い、でもない。
 正義。
 喜怒哀楽の四つよりもパッキリと分かれた、だからこそ胡散臭い勇ましさで男子生徒の一人が言ったんだ。
 光十字、コロシアム、アブソリュートノア、色々な正義の形は見てきたけど……。
 頭からストッキングを被った強盗だって、もう少しは人間みたいな顔を保つんじゃないか?
 彼は壊れた調理台の残骸と一緒に転がっていた、ステンレスの包丁を拾い上げる。緊張感が跳ね上がる。だけどそいつは刃の方を摘んで、グリップをこっちに差し出してきた。
「あんたに譲るよ」
「……、」
「こんな横暴を野放しにしちゃダメだ、それはあちこち傷だらけなあんたの方が良く分かるだろ。だから譲る。あんたの手で処刑しろ、平和を取り戻すんだ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ッ!?」

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