3

 スマホをかざしてユーロ決済だとお金を払ってるって実感は湧かないんだけど、小銭を入れるくらいの感覚かな。
 歩道の一角を占有している駐輪スペースから、全く同じデザインの自転車を一台引っこ抜く。
 自分の自転車を確保し、レバーをぐりぐり回してサドルを一番下まで下げながらアナスタシアが尋ねてきた。立ったまま腰を折って両手で作業に集中しているとミニスカのお尻が危うい。
「西と東、どっちに行くの?」
「近い方」
「ならセーヌ川に沿って西に五キロくらいだわ」
 ごき……意外とあるな。これで近場。広い大陸で暮らす外国の人ってやっぱり距離の感覚が違うのか?
 アナスタシアと二人で川沿いを進んでいく。
 おおっ。歩きから自転車に変わっただけだけど、ちょっと世界が違って見える。時間的にはもう夕方っていうより夜の方が近いくらいだ。まだ早いけど、LEDのライトを点けておく。
 セーヌ川はかなり幅広な川みたいだ。
 アナスタシアは西に五キロって言っていたけど、実際にはこの川、結構あちこち曲がりくねっている。中洲もいくつか見かけた。でもって架かってる橋は大体人でごった返していた。御台場のアレとか瀬戸内海のコレとかと違って、橋って言ってもなんかあちこちにたくさん架かってるな。全部が全部デートスポットなのかもしれない。
 とにかく川沿いを自転車で走ると、水辺の向かい側にはいかにもランドマークっていう古い建物がいくつも連なっていた。石でできた宮殿って感じで、尖った塔がいくつも大空に伸びている。政治的なのか宗教的なのか。どっちにしたって現役みたいだ。建物は古いけど、窓からは白々しいくらい眩しい光が漏れている。明かりだけ省エネなLEDにでも変えたのかな。
「あっちが美術館で、そっちのモデル顔は議会ね。下院の方だけど」
 隣でペダルを漕いでるアナスタシアがいちいち教えてくれた。ただし主観が強すぎてどれが何だかピンとこない。パリの建物なんか大体みんなモデル顔じゃんか。ツンツンしてて気取ってる。
「うわあー、何あれ。テレビの電波塔? あっはっは、流石に剥き出しの鉄塔だと景色から浮いてるなあ」
「トゥルース……。今アンタが見てるのは歴史あるエッフェル塔だわ、ナマで見ると感じが違うとか?」
「……、」
 海外旅行は人の地金を露わにすると思う。いよいよバカを覆い隠せなくなってきて困る。
 さらにしばらく進むと、大都市らしからぬものが見えてきた。
 深い森だ。
「何あれ? 動物園とか?」
「あれは森そのものを楽しむのよ。ブーローニュの森」
 そりゃまた何とも風流な話だな。流石はエルフが似合うヨーロピアンなお国柄だ。
 そしてここまで来ると中心地からやや外れてきた印象がある。
「見えてきたな」
「パリの高速道路ってここ最近やけにお忙しいのよね。トンネルで地下に埋めたと思ったら高架に上げたり、エコな電気自動車の普及キャンペーンなのかしら?」
 目的地は複数の高速道路が複雑に流れるジャンクションの真下だ。街中の光ファイバーをぎゅっと束ねて外の街と繋ぐ基幹ケーブルはとにかく『最短』を目指す訳だ。
 パリの場合は、西と東で一つずつ。包みでくるんだ一口キャンディみたいなものをイメージすると分かりやすいかもしれない。
 そうなると道路や線路、高圧電線の鉄塔や石油パイプラインなど既存の長距離インフラをそのままなぞるケースが多い。昔の電柱だって電線と電話線をセットで伸ばしていたらしい。考え方はあれと一緒。
 ……特に、高速道路は元から一定間隔で非常電話を置いたり速度違反のカメラをつけたりする必要がある訳で。ここ最近だと自動運転の地上アンテナなんかもそうかな。とにかく光ファイバーの相乗りにはもってこいだ。当然ながら新しく一式用意するより、元からあるものを借りた方が安く仕上がるんだから官民揃って使わない手はない。
 そのまま目的地を通り過ぎて、ちょっと離れてから案内板の近くで自転車を停めた。
 振り返らないで確認を取る。
「誰もいなかったよな?」
「ドローン電波も確認できずだわ」
 アナスタシアはケモノっぽいペットロボットの顔面も兼任してるスマホを軽く振る。
 義母さん、あるいは護衛や交渉役を含めたチームにとってここは目的地じゃなくてただの下拵えだ。パリの監視網が邪魔だからひとまず全カメラにアクセスして死角となる安全圏を見極めたいだけ。だから必要な細工を終えたらさっさと立ち去るはず。
 ……正直に言えばホッとしていた。
 魔王リリスな義母さん本人もそうだし、バンシーだのシルフィードだの、アブソリュートノアのメンバーだってただ者じゃない。この時点でぶつかる確率は低いと思っていたけど、でも何かの気紛れで部下を一人残されていたら、それだけで命の危機だったかもしれない。
「情けない……」
「トゥルース?」
 これからその天津ユリナを力尽くで止めなくちゃならないっていうのに、見張りの一人で脅えて立ちすくんでいるのか、僕は。こんな事で本当にアブソリュートノアとJBの全面戦争なんか止められるのか?
 首を横に振って、気持ちを無理にでも切り替えた。停めていた自転車から降りて、スタンドで固定する。
「とにかく確かめよう。義母さんはパリ中の防犯システムをこっそり乗っ取っているから、僕達はさらにそれを盗み見る。……アブソリュートノア側の細工が分かれば、そこに干渉できる。何千万ってカメラの中から義母さん達が何を見ているかをこっちでもモニタリングできるはずだ」
 潜水艦みたいな鉄の扉に向かった。
 どこにそんなものがあるかって?
 ぐるりと回ったジャンクションを支えている複数の鉄の柱だ。中でも非常口のサインがついたものはこれ自体が灯台みたいな空洞を抱えていて、内部に螺旋階段を備えている。人の他にも、電線や雨水管なんかで電気や汚水も運ぶ。……当然、通信ケーブルも。
 しかしまあ中が空洞って、高架を支える柱だぞ。免震構造とか考えないんだな。地震の少ない国の設計は正直に言って違和感の塊だ。世界全体からすれば日本の基準の方が珍しいのかもしれないけど。
「あった」
 階段を上るまでもなかった。
 カーブを描く壁際にいくつかの鋼管が取りつけてあった。上下に貫く格好の鋼管の内、一つが工具でネジを外して開けてある。中にはガラス繊維のケーブルと信号増幅用のブースター装置が繋がっていた。ブースターにはビニールテープを使って、別の小さな装置を貼りつけてある。
「……非接触式? でもどうやって」
 例えば、配線に電気が走るとその周りに磁界が発生する。電磁気がワンセットである以上、これはどうやったって避けられない。逆に言えばその微弱な磁界を読み取って電気信号に変換する装置があれば、ケーブルを繋ぎ替える事なく非接触で安全に情報を盗める。
 ……ただ、光ファイバーは光信号だから、この方式は使えないはずなんだよな。だとすると、熱か振動? まあ確かに光を一〇〇・〇%完全に反射する素材なんて作れないんだからいくらかは別の形に変換されちゃうんだろうけど、ほんとに微々たるものだぞ。よくこんなのを実用化したな。これならニュートリノを検出する実験装置の方がまだ楽そうだ。
 と、何やら隣で見ていたハッカーがそわそわし始めた。
「あっ、アブソリュートノアのオモチャでしょ? どうにかして持ち帰れないかしらっ、向こうに気づかれないよう取り外して」
「アナスタシア」
「ええい! ならせめて蓋を外して、基板のレイアウトだけでも撮影を!! だって『あの』アブソリュートノアの支給品なのよ!? こんなのほとんどロストテクノロジーとの接触だわ!」
「……アナスタシア」
 放っておくと勝手に手を出しそうだったので、念のためもう一度強めに注意しておいた。そんなロストテクノロジーならどんな罠があるか予測できないだろうが。バレたらおしまいなんだからリスキーな行動は取れない。
 ちなみに装置は充電も非接触のようだった。どうも周囲を飛び交うマイクロ波ーーーようは普通のケータイ電波や無線LANだーーーを拾い集めて電気に還元する仕組みを取り入れているらしい。都市部ではほとんど永久機関だと思う。
「ううー……じゅるじゅるり」
「なあおい。もしや流石にそんな事はって思うけど勢い余って食べるなよ、アナスタシア」
 だけどこの装置がどれほど高性能だろうが、やっているのは光ファイバーを流れる信号をこっそり読み取っているだけ。
 装置そのものに触れられなくても、そこから五センチ上と五センチ下の光ファイバーにそれぞれ手を加えて覗き見すれば、義母さんが覗き見してるのと全く同じものが見られる。アブソリュートノアの装置を僕達の細工二つでサンドイッチして、出入りする信号は全部僕達の関所を通らないといけないようにする訳だ。
 地球の裏側からソフト的なウイルスを流し込むだけがサイバー攻撃じゃない。ハードからだって汚染や傍受は十分可能だ。
「……トゥルース、やっぱり一番怖いのは一人きりでここまでの技術を覚えた独学バカのアンタだわ」
「大袈裟だな、光ファイバー自体はホームセンターでも売ってるだろ。こんなのマクスウェルのコンテナをいじくる時に覚えただけだよ」
「学歴社会の道理が通じないガラパゴス発明家め、ワタシの研究室に来るべきよ。今すぐに、カンフル剤として」
 ともあれこれで第一段階は成功。
 義母さんがパリで何を手に入れて戦争を始めようとしてるからはまだ未知数。だけど彼女が何に注目してるかが分かれば、取引現場なんかははっきりとするはず。妨害する前に情報を知っておきたい。
 試しにスマホの画面を覗いてみる。
 よし。
 いける。
 ……要注意スポットとして、見知らぬ街の見知らぬ一角が出てきた。複数の防犯カメラで様々な角度からパリの一点を凝視していた。やっぱり義母さんもこのパリに潜り込んでいて、リアルタイムで何かを監視している。分かっていたけど、改めて生々しい実感が追いついてきた。
「アナスタシア、ここは?」
「ちょっと待って。……これはナニ通りかしら。辺りは病院だらけで、奥に見えるのはパリ天文台か。明かりが消えてるのって例の遠隔操作ウイルスのせいかしら。となると、うん、オプセルバトワール通りね。そこはおそらく一四区」
 病院だらけ。
 一瞬、細菌兵器や化学兵器なんて言葉が脳裏をよぎる。我ながら、母の顔からここに連想が直結する人間はそういないと思うな。
 ただ、アナスタシアは続けてこう言った。
「つまりカタコンベの真上ね」
「かた?」
「六〇〇万人分の人骨を収めた地下墓地よ。パリの巨大ダンジョン」
 ……違った方向も見えてきた。呪いとかアークエネミーとか、オカルト方面の可能性もアリって訳か。
 ともあれ、
「じゃあ次はこのカタコンベまわりの調査か。もちろん義母さん側に掌握されたカメラで見咎められないよう気をつけながらだけど」
 これで天津ユリナの五感は捉えた。
 だけど義母さんがいつどう動くかは不明のまま。今夜にだって『ここ』で誰かと接触し、戦争に必要な何かを揃えてしまう可能性だってないとは言えない。一秒の遅れで全部失う。時差ボケのせいで体は結構キツいけど、このまま続行した方が良い。目の前で火蓋を切る瞬間を見てから後悔したくなければ。
 灯台みたいな金属製の橋げたから外に出る。
 時刻は夜七時。その割には辺りは明るかった。外国に来たから日没の時間がズレてる? それとも単純に大都会だからかな。そんな風に思っていたところで、同じように鉄扉から表に出たアナスタシアが首を傾げていた。動きに合わせて、細い肩からワンピースの肩紐が片方ずり落ちている。
「変ね」
「何が?」
「明る過ぎるわ。ここはパリの中心地から離れた森のすぐ近くなのよ?」
 ……やっぱり、何かが変だ。
 二人して夜空を見上げていると、ズボンのポケットに突っ込んだスマホがぶーぶー振動した。
 取り出して画面に目をやり、顔をしかめる。そう、今の今までこいつが出てこなかったのには訳がある。こいつには別の仕事を任せていたんだ。それが向こうからコンタクトを取ってきたって事は……、
『警告』
「どうしたマクスウェル」
 スマホの画面に表示されているのはSNSのふきだし。でも相手は人間じゃない。僕が自分で組んだ災害環境シミュレータだ。本体は投げ売りされていた携帯ゲーム機の基板一四〇〇台分で、日本の港にコンテナごと預けてある。
「頼んでいた作業の方は!?」
『ですからそちらの経過報告です』
 僕はアブソリュートノアとJBの正面衝突、戦争の話をずっと恐れていた。義母さん、天津ユリナ率いるアブソリュートノアの動きはご覧の通り。
 ならもう片方、JBは?
 向こうだって神話の神様を操り人形に作り変えるほどの実力者だ。ただ何もしないで待っていると思うか。
『ユーザー様のご懸念された通り、世界各地での天文台や観測所に同時アタックの痕跡あり。これはJBが遠隔操作ウイルス・dollgirl.cを用いてDDoS攻撃用の感染コンピュータを大量確保しようとしているからだ、というのがユーザー様の推論でしたが』
「ああ。で、結果は?」
『ハズレです。こちらをご覧ください』
 画面が切り替わった。
 何かまん丸の球体と、矢印がいくつか。これだけだと何を意味しているのか、ちょっと見えてこない。何かの模式図だろうか。矢印はかなり多いけど、カーブを描きながらほぼ同じコースを描いている。
 ……模式図って、でも何を模して省略した図なんだ?
「マクスウェル、これが何なんだ?」
『シュア、ウイルスを除去した結果今まで非表示扱いにされていたデータを正常に表示した形になります。各種望遠鏡やレーダーは合計三三の光点を捉えていたが、自動警報を切りレポートから除外されていたという事です」
「だからこれは何なんだ!? JBは一体何を隠してきた!!」
『シュア』
 実際には淡々とした一文だったはずだ。
 ブレて途切れたように見えたのは、僕の意識がぐらついたからか。
 小さな画面には、あくまでも無機質なメッセージが表示されていた。

『熱圏で焼かれずにパリ市内へ直撃する、大小三三の流星雨です』

 じっ……。
「JBッッッ!!!???」
 天津ユリナに、アブソリュートノアに何かが渡るのを阻止したかったのは僕達だけじゃない。むしろ直接的に矛先を向けられる以上、JBは何としても受け渡しを妨害したかったはずだ。
 分かる。
 それは分かるけど。
 だからって一回のアクションでここまでするか!? あの馬鹿ども、地球が有限の資源だって事すら気づいてないのかッ!!
『警告、地表への墜落まで一二〇秒ありません。夜空が不自然に明るいのはそれだけ落下物が高空の大気で焼かれているからです。しかし残らず焼き尽くすほどではありません。もう来ます、大至急頑丈な建物か地下に退避してください』
 それ以上は拘泥していられなかった。
「あなすっ、走れ!! 戻るんだッ!!!!!!」
「きゃっ」
 僕はアナスタシアの細い手首を掴むと、慌ててとんぼ返りする。ジャンクションの真下。ぐるりと回る巨大な陸橋を支える金属の橋げた。灯台みたいに内部が空洞になったその中へと二人して転がり込む。
 潜水艦みたいに分厚い鉄扉を閉めて、内側からレバーを掛けた直後だった。

 構造的にこちら側には開かないはずの分厚いドアに叩かれて、僕の体は向かいにある螺旋階段の手すりまで吹っ飛ばされた。
 確実に。
 外で、何かが起きた。